諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【Gothも遠くになりにけり?】そもそも何処から来たか、何処へ向かうか分からない?

最近このサイトでは「無限遠(Infinity)を中心とするN次元分散」なる表現をしばしば用いますが、その最も適切な視覚表現の一つが2020年6月21日に観測された金環日食であるかもしれません。

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2020年6月21日 金環日食

月に覆われた闇の部分が「認識可能範囲外を跋扈する絶対他者の領域」で、その境界線から伸びる金環の揺らめきが「(本来は認識不可能な絶対他者への相応の認識に準拠してN次元分散を展開する)認識可能範囲の極限領域」に対応。そして後者は「計算可能(Computable)、すなわち計数(Countable)可能で直積可能(Ploductuble)」な「実数世界(The Real Number Set)」と滑らかに連続しています。それまではエッシャー版画画廊(Print Gallery, 1956年)」画面中央の空白領域を説明に当ててきました。

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で、この考え方を文化方面に射影(Projection)すると「(20世紀末から21世紀初頭にかけて世界を席巻した)Goth文化」との重なりが浮かび上がってくる訳です。

日本におけるそれ、すなわちこの方面における「絶対他者の跋扈する認識不可能領域を始点としてN次元分散する金環の煌めき」は間違いなく1960年代末から始まった「怪奇オカルト・超能力・UFO」ブームに由来しています。

意外にもその発端となったのは小栗 虫太郎1901年~1946年)の「人外魔境シリーズ(新青年」1939年~1941年連載)」全集刊行(1968年)だったのですが、むしろ彼の奇書「黒死館殺人事件(1935年)」が読み返され、夢野久作江戸川乱歩横溝正史の描いた怪奇世界への再評価に繋がったのでした。

楽聖モッツァルトの埋葬は、霙(みぞれ)を交えた北風の吹き荒む、十二月の空の下に行われた。しかし、その葬儀に列なったものは、宮廷合唱長のアントニオ・サリエリー、友人ジュスマイエルほか四人に過ぎなかったが、柩が墓地門に着いた頃は、それ等の人も一人去り二人去りして、残ったのは、僅かに柩車を駆る馭者一人のみ。また、それを迎えたのも、穴掘ハルシュカ一人だったと云う、まさに、芸術史上空前の悲惨事なのであった。それ故、モッツァルトの死が、私に「黒死館」をもたらしたともいえる訳である。

実際に牽引したのは(PTAに屈して内容の品行方正さに拘る様になって急速につまらなくなった少年向け月刊紙を「面白ければ何でもアリ」の精神で次々と廃刊に追い込んで行った)少年向け漫画週刊誌の巻頭特集、学研「ジュニアチャンピオンコース(1971年~1977年)」立風書房ジャガーバックス(1972年~1983年)」講談社ドラゴンブックス1974年~1975年)」などの日本怪奇系児童書レーベルだったのです。その「節操なき猥雑さ」こそがまさにこの方面における「絶対他者の跋扈する認識不可能領域を始点としてN次元分散する金環の煌めき」の顕現という次第…

1970年代末~1980年代初頭には、こうした「実存不安を扇動する商業文化」展開の必然的結果として「解像度引き上げ」が進行し(関連情報を専門的に扱う)月刊ムー刊行(1979年)辺を契機に「実存不安対象の峻別(舌の超えた読者を満足させられないくらいなら、いっそ潔く全く別分野に転戦する)」が進行。ここで興味深いのは、どうやらこのタイミングでは(デビューして宮崎駿にその才能を嫉妬され「(高橋留美子うる星やつら*1」の主人公)諸星あたる」の名前の由来となった)諸星大二郎作品(1974年~)こそが「峻別点」として機能した辺り。

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  • 「(ヒッピー/新左翼運動の敗北感を引き摺った)悲観主義的ガイア論」と「(その対抗馬として浮上し急速に戦力として整えられていった)ブコメ的キミ・ボク関係」の鋭い対峙と後者の勝利。横山光輝マーズ(1976年~1977年)」ではメインヒロイン春美が主人公マーズとキミ・ボク関係を構築しえず、鬼頭莫宏なるたる(1998年~2003年)」ではメインヒロインを巡るキミ・ボク関係と人類が敵対して最終的滅亡が不可避となる。それに対して高橋留美子うる星やつら(1978年~1987年)」では最終的に「(1970年代「怪奇オカルト・超能力・UFO」ブームに由来する)平行宇宙=パラレルワールド(parallel world)」全てがまとめて破棄され「諸星あたるとラムが未来永劫鬼ごっこを続ける世界」だけが残され、岡本倫エルフェンリートelfen lied, 2002年~2005年)」では全人類の存続を望む主人公とキミ・ボク関係を構築したヒロインが人類殲滅願望を諦め、自ら殺される道を選ぶ。かかる壮絶な展開を始点とするリロード版セカイ系作品論なら2020年以降も存続可能かもしれず、新海誠監督映画「天気の子(Weathering With You, 1919年)」や椎名橙それでも世界は美しい(Still world is beautiful, 2009年~2020年)は、はこうした観点から分析すべき重要な新世代マスターピース群とも。

  • Star Wars Trilogy(1977年~1983年)」の国際的ヒットを契機とするスペース・オペラ復権と(「米国アニメ産業の下請けスタジオ」トップクラフト宮崎駿が初めて手を組み角川映画少年ケニヤ(1984年)」に圧勝した劇場版アニメ映画「風の谷のナウシカ(1984年)」に端を発する)スタジオジブリ作品の登場。

  • 「(当時の日本の大映系TVドラマ主題歌と連動した)ハリウッド青春搾取ミュージカルの流行。概ね「サタデー・ナイト・フィーバーSaturday Night Fever, 1977年)」「Times Square1980年)」「愛と青春の旅立ち(An Officer and a Gentleman, 1982年)」「フラッシュ・ダンス(Flashdance, 1983年)」「ステイン・アライブStaying Alive, 1983年, Saturday Night Fever続編)」「フットルース(Footloose, 1984)」「ストリート・オブ・ファイアー(Streets of Fire, 1984)」辺りをグループに含み、新海誠監督映画「君の名は。Your Name. 2016年)」やグレタ・ ガーウィグ監督映画「レディ・バードLady Bird, 2017年)」をそのパロディ系譜に含む(ハリウッド青春搾取ミュージカルでは概ね「タナトス(死の願望)」に憑依された田舎の有閑階層をトリックスター的風来坊が救済するが、それが上手く運ばないシチュエーション・コメディとしての側面を有する)。

    また鬼子としてマーク・ミラー原作/ジョン・ロミータ・Jr作画のアメリカン・コミック「Kick-Ass原作2008年〜、映画化2010年〜)」のヒロイン「11歳の殺し屋ヒット・ガールHit-Girl)が派生した。ここからまつもと泉きまぐれオレンジ☆ロード( 1984年~1987年, アニメ化1987年~1988年)」や和田慎二スケバン刑事1985年~1987年)」の様な不良少女物、さらにはリュック・ベッソン監督映画「ニキータNikita, 1990年)」「レオンLéon/The Professional, 1994年)」の様なフランス殺し屋物などとの水面下での連続性を推察する事が出来る。

    その背景にはさらに(パティ・スミスに代表される)1970年代後半ニューヨーク・パンクが(セックス・ピストルズやクラッシュに代表される)1980年代前半ロンドン・パンクを経て(THE BLUE HEARTSに代表される)1980年代後半~1990年代前半和製パンクへと変化を遂げてきたパンクロックの歴史が存在した。

  • (ヒッピー/新左翼運動が挫折した世代が最後に執着した)TV系サイバーパンク文学ハイ=ファンタジー文学の世界。書き手と読み手の高年齢化によって1990年代に入ると失速。国際的には掉尾を飾る作品としてマイケル・クライトンジュラシック・パークJurassic Parkシリーズ(原作1990年, 映画化1993年~)」やJ.P.ホーガン仮想空間計画(Realtime Interrupt, 1995年, 日本語版出版1999年)」、登場人物を若返らせ若者人気を復活させた中興の祖として「Serial experiments lain(1998年)」「ソードアートオンライン(Sord Art Online, Web掲載2002年~2008年, 刊行2009年年~)」の名前が挙がる。ちなみに海外ではSAOはWeb掲載版から翻訳部隊が稼働して読まれておりアーネスト・クラインレディ・プレイヤー1Ready Player One, 原作2011年, スティーブン・スピルバーグ監督の手になる映画化2018年)」にもその段階から構想に影響を与え始めていたたと考えられている。

    ファンタジーの世界では「ハリー・ポッター・シリーズHarry Potter Series、原作1997年〜2007年、映画化2001年〜2011年)」が中興の祖に該当するが、そのダーク・ファンタジー性が明らかになり「正統派ファンタジー・ファン」の批判が高まるにつれ、若者層の熱狂が高まっていったのが特徴。そういうニュアンスで若者が求めていたギミックの究極形の一つが「ファンタスティック・ビーストFantastic Beastsシリーズ(2016年~)」に登場した「人間爆弾オブスキュラスObscurus)といえる。

  • またリロード版セカイ系作品論でいうと1990年代末~2000年代には中平正彦破壊魔定光(1999年~2005年)」や鬼頭莫宏ぼくらの(2004年~2009年)」、田中ユタカミミア姫(2007年~2009年)」の様に「エントロピー論的に限られたリソースの割当を死守する為、平行宇宙の無限分岐を力尽くで食い止める(互いに滅ぼし合う)残酷物語」が登場したのもこの時期。これは同時期における高見広春バトル・ロワイアルBattle Royale, 1999年)」、南條範夫原作・山口貴由作画「シグルイ(2003年~2010年)」、スーザン・コリンズ「ハンガー・ゲーム(The Hunger Games, 原作2008年~2010年, 映画化2012年~2015年)」、諫山創進撃の巨人Attack on Titan, 2009年〜)の様な「大人=権力者の勝手な都合で子供=若者の将来の可能性が摘み取られる世界観」が大流行する一方、物語が「(新たに現れた煽動者が)子供=若者を革命に動員する動き」方向に展開するとたちまち人気を失った動向と明らかに表裏一体の関係にあった。そういえば(エフィンジャーの「重力が衰えるとき(When Gravity Fails, 1987年)」やハリーポッター・シリーズの様な寄宿舎物の21世紀版ともいうべき臓器移植SFカズオ・イシグロわたしを離さないでNever Let Me Go, 2005年)」が発表されたのもこの 時期。石田スイ東京喰種トーキョーグール(2011年~2018年)」や米国小説家ジェームズ・ダシュナー「メイズ・ランナーThe Maze Runnerシリーズ(2009年~2016年, 映画化2014年~2018年)」も途中で方針変更して「革命=失速展開」回避に動いた感がある。

ここで生存バイアス上最も不利な形、すなわち「後世になってから思い出すのも不快な歴史事象と結び付けられ故意に忘れ去られた角川映画(1976年~1993年)配給を手掛けた「天才プロデューサー角川春樹の功罪について言及しないといけません。

1970年代前半はTV普及による映画界衰退が明白となった時期で、(フランシス・コッポラ監督映画「ゴッドファーザー(1972年)」の国際的ヒットを受けて企画が通った)深作欣二監督東映実録ヤクザ」映画「仁義なき戦いシリーズ(1973年~1976年)」や(ハリウッド大作パニック映画の国際的ヒットを受けて企画が通った小松左京原作の東宝特撮映画「日本沈没(1973年)」や五島勉原作」の東宝特撮映画「ノストラダムスの大予言(1974年、同年の文部省推薦映画)」の制作を契機に体制が改められている。「門外漢角川春樹がメディアミックス的技法を総動員して映画界に殴り込んだのはまさにこの 時期であり、その全盛期(1970年代後半~1980年代前半)には映画制作に関連して横溝正史再評価や半村良森村誠一西村寿行ブームを確定的なものとし「映画館でしか出会えないアイドル薬師丸ひろ子を誕生させたりもしている。「(バブル加熱を背景としたトレンディドラマ・ブームなどに立脚した)TV陣営の反撃に屈し始めた時点で潔く身を引いていれば良かった」という声も絶えない。

しかし以降もルサンチマン感情を剥き出しにして形成挽回に執着し続け、五島勉ノストラダムスの大予言(1973年~1998年)」ブームに便乗して「幻魔大戦」や「帝都物語」によって日本人にハルマゲドン(Harmagedon)到来の恐怖を広める一方、自らをある種の「救世主」として売り込む続けた結果、日渡早紀作「ぼくの地球を守って(1986年末~1994年)」が便乗して加速させた「前世ブーム」や、狩撫麻礼原作漫画「迷走王ボーダー(1986年~1989年)」「天使派リョウ(1990年~1992年)」などが煽った「(ヒッピー/新左翼世代色の強い)選民意識(ただしバブル崩壊による対立構造崩壊もあって「天使派リョウ」では随分と弱体化)」などと相まって「オウム真理教地下鉄サリン散布事件(1994年~1995年)」に至る主要な遠因の一つに数えられてしまいます。そもそも「絶対他者の跋扈する認識不可能領域を始点としてN次元分散する金環の煌めき」は、これから出発しつつ後に「」を絶って自立した「健全なすなわち「タナトス(死の願望)」などに煩わされる事がなくなった)」成功例が積み上げられれば積み上げられるほど、その層の厚さに反比例する形で暗くて重いルサンチマンを加速度的に鬱積させていく可能性も秘めているのです。

日本文化はこの事件以降、次第にかかる進行を自覚的なり無意識なり警戒する様になってい来ますが、残念ながら欧米文化には明瞭な形で同種のブレーキが存在しません。その結果生まれた鬼子が「Goth文化」とも。

同時代の欧米文化の動向に目を向けてみましょう。日本同様「絶対他者の跋扈する認識不可能領域を始点としてN次元分散する金環の煌めき」が顕現し、それから発祥しつつ後に「」を絶った部分が独立していく展開自体は同じなのですが…

  • そういえば国際SNS上の関心空間で出会った「Goth系の人」が、アン・ライスの「(カソリック色が強いヴァンパイア・クロニクルズ(1976年~)」や「(一時期LGBTQA層の熱狂的支持を集めGay Shopには必ず置かれていた事もある眠り姫、官能の旅立ち(1983年~1985年)」に言及するのを見た事がない。21世紀にはもうすっかり「過去の人」になってしまった模様。


    そういう私が当時の作品で関連して思い出すのはトニー・スコット監督映画「The Hunger (1983年)」、ミッキーローク主演映画「Angel Heart (1986年)」「NINE 1/2 WEEKS(1986年)」、クライブバーカー原作映画「Hellraiser(1987年) 」「Candy Man(1992年)」辺りだが、これらの作品への言及はやはりない。

  • まぁ概ねTim Burtonは好き。一番言及が多いのは「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス(The Nightmare Before Christmas, 1993年)」や「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師(Sweeney Todd: The Demon Barber of Fleet Street, 2007年)」辺り。

  • 意外なのは伊藤潤二作品からの引用の多さ。特にGoth系少女は代々「自分が内面に抱える実存不安の表象」として自分を強く投影している気配を感じます。

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ただし、あくまで「絶対他者の跋扈する認識不可能領域を始点としてN次元分散する金環の煌めき」は、それから出発しつつも後に「」を絶って自立した部分以外に顕現するもの。するとさらに仄暗い奥に残った実存不安とは一体…

何故ナイフを使うかわかるかい?(Do you want to know why I use a knife?

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銃じゃ早過ぎて…(Guns are too quick.)

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せっかくの反応の機微が…(You can’t savor all the…

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細部までじっくり味わえないからさ(…little emotions
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最後の瞬間って奴のね(You see, in their final moments…

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その時ばかりは誰もが本当の素顔を覗かせる…(…people show you who they really are.

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だからサァ(So in a way…

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あんたのオトモダチについてだって詳しいんだ(…I know your friends better than you ever did.

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どれほど怯えて怖がったか知りたくない?(Would you like to know which of them were cowards?

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こうした全体像を俯瞰すると「RWBYシリーズ(2013年〜)」は欧米作品には珍しくブレーキを踏み過ぎた。最初の「赤の予告」の勢いを維持出来てれば伝説が残せてたのに…

ところで米国の「ヒッピー/新世界運動の敗残者(Loser)」世代には、日本の同類同様の反体制気質に加え以下の共通する特徴が見られます。

  • テート・ラビアンカ殺人事件(1969年)を起こしたマンソン・ファミリー1960年代末~1970年代初頭のカリフォルニア州にて集団生活を送っていたヒッピー・コミューン)教祖チャールズ・マンソンCharles Milles Manson、1934年~2017年)や、ガイアナ集団自殺事件(1978年)で全滅した人民寺院(Peoples Temple, 1955年~1978年)教祖ジム・ジョーンズ(James Warren "Jim" Jones, 1931年~1978年)の様なカルト指導者とApple創業者スティーブ・ジョブス(Steven Paul "Steve" Jobs, 1955年~2011年)や、その存在そのものが生けるヒッピー伝説だったデニス・ホッパーDennis Hopper、1936年~2010年)に共通して見られる「傲岸なまでのカリスマ気取り気質」。

    ジェフ・ラスキン 他人の脳みそを盗むのはジョブズにとって普通のやり方さ。まず人のアイデアを鼻であしらっておいて、その1週間後には、素晴らしいアイデアを思いついたなんていいながら戻ってくる。そのアイデアというのは、もちろん1週間前に誰かがジョブズに話したアイデアなんだ。我々はジョブズのことを現実歪曲空間と呼んでいた。

    ロバート・サットンスタンフォード大学教授) 私がイヤな奴についての本を書いていることが知れたとたん、誰もが進んでやって来てはスティーブ・ジョブズの話を聞かせてくれるようになった。シリコンバレーでいかにジョブズが恐れられているか、そのレベルには驚嘆するものがある。彼は人を震え上がらせ、悲嘆にくれさせる。だが、彼はほとんどいつも正しく、たとえ間違えている時でも、その創造性の豊かさには目を見張るものがある。

    ジャン=ルイ・ガセーBe創業者、元アップル副社長) 民主主義に沿ってたんじゃ、素晴らしい商品なんて創れっこない。闘争本能の固まりのような独裁者が必要なんだよ。

  • その自分自身の「傲岸なまでのカリスマ気取り気質」故の「米国内宗教右派のTV宣教に対する異様なまでの敗北感と対抗意識」。K.W.ジーター「ドクター・アダー(Dr. Adder, 執筆1974年, 刊行1984年))」「グラスハンマー(The Glass Hammer, 1985年)」などを読むと生々しい描写が連続し「(対抗馬としての)海賊ラジオのパーソナリティ的存在」を渇望する心理がアメリカン・ニューシネマ「Vanising Point(1971年)」における地方ラジオ局の盲目の黒人DJ・スーパー・ソウル、青春搾取ミュージカルの原点にしてニューヨーク・パンク色が色濃い「タイムズ・スクエア(Times Square, 1980年)」において大人の事情から主人公二人組の破天荒なパフォーマンスを応援する人気DJジョニートレヴァー・ホーンが楽曲を提供したThe BugglesVideo Killed The Radio Star(1979年)」におけるYou=Radio Star、そして極め付けが「アメリカン・ウェイ (The American way/Riders of the Storm, 1986年)」でデニス・ホッパーが演じたボロボロのB-29に乗って違法な海賊放送SM-TVを流すベトナム帰りのキャプテン

    この辺りQueenは明らかに(おそらくは故意に)行き過ぎててFacist扱いする評論家すらいます。まぁ彼ら自体がヒッピー/新左翼運動世代ではなく「映像とライブの力を強く信奉する」次世代に当たる辺りも大きいかと。


    またその一方でどの世代もカリスマとその盲目的信者で覆い尽くされる筈もなく、さらには一定割合で「怪しい武器商人や傭兵崩れがヒソヒソ声で会話を交わす秘密取引のバーテンダーになりたい」みたいなタイプの中二病患者も一定割合で含まれミュージカル映画The Greatest Showman(2017年)」のナンバー「The other side」を観賞して「このバーテンダーになりたい!!」と希望を述べてたりするくらいですから「ヒッピー世代のラジオ・パーソナリティへの憧憬」にも「スティーブ・ジョブスにはなれないけど、スティーブ・ジョブスお気に入りの寿司職人にならなれそうだし、なれるものならなりたい」みたいな夢のFitting仕草が少なからず混じっていたと考えるのが妥当であろう。あれ、すると「あらゆる体制を拒絶して孤高を保等とする」この世代の矜恃は何処に? そもそもこの世代でカリスマへの狂信者に転じた人達の矜恃はどうなってたの?


    そういえば日本には「学生運動家なんて所詮は家父長制そのものを打倒して自分が新たな家父長になりたいだけ」と看過して学生運動から足を洗い「大泉サロン」を震源地に起こした少女漫画革命が「多様性と多態性を真に重視する」第三世代フェミニズムに基本イデオロギーとして受容された竹宮恵子なんて女傑も存在しました。そして、ここでいう「多様性と多態性を真に重視する」なる表現は(自らの意思で選ぶならDJバーテンダーはおろか何らかの形で狂信者となる道を選んでも良しという含みがあって、ここまで「選択の自由」を徹底して認めて初めてこの問題の抱える根本的矛盾が消滅するのです。

 

さて、ここで「カルト教祖とその狂信者」「Facismとその支持者」みたいな概念が浮上してきましたが、こうした親世代の混乱を反面教師に子世代が新たに育んだ「どういう状況だと誰が加害者で誰が被害者か」についての意識の持ち方は、これまでとはまた異なる形で「絶対他者の跋扈する認識不可能領域を始点としてN次元分散する金環の煌めき」を顕現させる事になるのです。

何処を切っても「節操なきエエとこどり」に終始し、思想の左右は愚かイデオロギーとしての体裁すら整ってないナチズムと異なり、「愛国的共産主義者ムッソリーニが創始したイタリアン・ファシズムイデオロギーとしての堅牢さはそれなりに侮れない。

国家の外にはどんな個人も集団政党、文化協会、経済連合、社会階級)もない 。だからファシズムは、国家これは階級を単一の経済的倫理的な現実へと融合させる)内部の一体性を認めず、歴史を階級闘争以外のものとしては見ない社会主義に反対する。またファシズムは階級の武器としての労働組合主義にも反対である。だが国家の軌道の中に収まる限り、ファシズム社会主義労働組合主義の台頭をもたらした真のニーズを認識するし、国家の一体性の中でバラバラの利害が調整され調和化される、ギルド制度や協調組合制度の中で、しかるべき配慮をそれらに与えるのだ。

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いくつかの利害をもとにグループ化されることで、個人は階級を形成する。いくつかの経済活動によって組織化されると、個人は労働組合を形成する。だがまず何よりも、かれらは国家を形成する。これは単なる人数の問題ではなく、多数派を形成する個人の集合などではない。ファシズムはしたがって、国民をその多数派と同一視し、最大数の水準にまで引きずり下ろす形態の民主主義には反対である。だがそれは、国民というものを量より質の観点から—本来そうあるべきなのだ—観念として捉えた場合には最も純粋な民主主義形態となる。その観念は最も倫理的で一貫性を持ち、真実であるがために最強であり、それが少数派、いやそれどころか一人の意識と意志として人々の中に表現され、果ては大衆の意識と意志の中に自らを表現し、民族的に自然と歴史的条件により国民として融合された集団全体に表現され、まったく同じ発展と精神的陣形の路線に沿って、一つの意識と一つの意志として進むようになるのだ 。人種でもなく、地理的に規定された地域でもなく、歴史的に永続化する人々。観念で統合され、生きる意志、力への意志、自意識と人格を与えられたマルチチュードだ。

国家に体現される限り、この高次の人格は国民となる。国家を生み出すのは国民ではない。これは古びてしまった自然主義的な観念であり、国民政府を支持する19世紀的な宣伝の基盤となったものだ。むしろ国家のほうが国民を創り出し、自分たちの道徳的一体性に気がつかされた人々に対して意志力、つまりは真の生を与えるのだ。

  • 第三世代フェミニズムが採択した「選択の絶対的自由を保証する精神」は、国民自らが自らの意思でこの国概念をあらゆる権威の唯一の源泉とするイデオロギーを選ぶ時、これに抵抗し得ない。

  • そして当時のイタリアには、国民が自らその道を選ぶ理由が多数存在した。「統一後も単一国家として振舞う事を許さない地域主義間の衝突」「(左翼陣営が無制限に煽り続ける地主と小作人、資本家と労働者間の衝突」そして「数の暴力や資金源の豊富さを用いて少数派や弱者を押さえ込む主流派議員の既得権益を守る為だけに機能する議会制民主制」。そうやって国民の支持を取り付けながら失業し自尊心を見失いかけていた第一次世界大戦の帰還兵達にこれら「旧弊」の破壊を命じたのである。

    第一次世界大戦を戦い抜くことは、イタリア経済に重すぎる負担となっていた。戦後訪れたインフレーションは貧民層の不満を引き起こし、北部のトリノ、ミラノといった工業都市で労働者の工場占拠などが起こった。南部でも農村労働者、小作人などの暴動が相次いだ。こうした動きは、有産階級の危機感を強めさせた。

    こうした不穏な情勢下で、ベニート・ムッソリーニファシスト党の前身、イタリア戦闘者ファッシを組織した。その主張は、社会政策の充実を掲げつつナショナリズムを擁護し、既存政党を批判するものであった。しかし、ミラノで選挙に出馬するものの完敗し、ムッソリーニが一時逮捕されるなど、その活動は当初行き詰まりを見せていた。

    都市部、農村部の双方で、資本家、地主と労働者、小作人の間の対立構図が続いた。貧民よりの姿勢をとる社会党政府に不満を抱いた地主層は、ファシスト勢力と結託して農村部の社会党労働組合の拠点などをあいついで襲撃した。これを「懲罰遠征」とも称する。当初は、農村部の各地でラスと呼ばれる地域ごとの指導者が権力を握っていたが、ムッソリーニは徐々に地方勢力を束ねて中央集権化を推進した。こうした議会活動に拠らない直接行動を通じて「イタリア戦闘者ファッシ」は保守層の支持をつかみ、1921年までには党員を10万人程度まで拡大させ、同年に全国ファシスト党として改組した。

    1922年ムッソリーニは直接的な実力行使による政権掌握を目論み、ローマ進軍を起こした。ファクタ首相は戒厳令を発して対処しようとしたが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は署名を拒否し、ムッソリーニに組閣を命じたため、ムッソリーニ内閣が成立した。1924年にはローマ条約によってフィウーメの併合を果たし、1926年にはアルバニア保護国化した。同年議会でファシスト党以外の全党を解散させることで一党独裁制を築き、1928年にはファシスト党の最高議決機関であったファシズム大評議会を正式な国家の最高機関と定めた。ここに一党独裁制は完成した。

ユーロコミュニズムEurocommunism)とは、一般にかかるイタリアン・ファシズムとの対決を経て鍛え直された「社会民主主義Ver2.0」の事とされる。そして、ここからさらに国民全てをあらゆる体制側から「認識不可能領域を跋扈する絶対他者」としか見えない様に加工するアントニオ・ネグリ流の無政府主義が派生する。

ここでいうFacismは、ある意味封建制、すなわち「領主が領民や領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」から「農本主義」なる前時代的要素を除去し「(十分な火力と機動力を備えた中央集権的官僚制に基づく徴税で養う)主権国家」への移行を促する為の決死の跳躍だったのです。それでは、かかる状況下において「新たなる領主(領民の側が「絶対他者」と映る)」と「新たなる領民(領主の側が「絶対他者」と映る)」の関係はどうあるべきか。1990年代以降Goth系音楽の歌詞はこういう設問に基づくものが多かったりします。割と視聴者側の観点も曲によって「領主側(加害者側)」と「領民側(加害者側)」の間を揺れ動き、その都度自己投影の対象も遷移したりします。

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かかる「領主側(加害者側)」と「領民側(加害者側)」の関係性、タロットカード「悪魔(Devil)」における「(人間を良くない衝動で突き動かす内面性としての)悪魔」と「(それに奴隷の様に振り回される)人間」の爛れた腐れ縁の射影でもある辺りがミソ。

で、実はGoth文化がこんな複雑な内面性を備えたのが何時からかなのが良く分からないのです。「バタリアンBattalion The Return of the Living Dead, 1985年)」や「ゾンビ・ストリッパーズ(Zombie Strippers, 2008年)」に登場する「ゴス女」にも「タナトス(死への誘惑)」があるばかり…「時計じかけのオレンジA Clockwork Orange, 原作1962年, 映画化1971年)」の題名を挙げる人も居るけど、何処でどんな具合に関係してくるやら…

  • Bauhausの「Bela Lugosi's Dead(1979年)」における「語り」は、Eurasian Funk元祖のドイツ・バンドBoney M.が「Ma Baker(1977年)」「Rasputin(1978年)」の様な「三人称による極悪人の(突き放し切った)生涯語り」だった影響が何処かで及んでる気がする。

    そういえばアン・ライスの処女作「夜明けのヴァンパイアInterview with the Vampire, 1976年)も原則として語りだけど「おや。話しての目付きが次第に吸血鬼のそれに…」という仕掛けがあり、マイケル・ジャクソンスリラー(Thriller, 1982年)」は「恐怖映画を一緒に見ている隣の人が…」、荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険1987年)」第一部に影響を与えたダリオ・アルジェント製作総指揮作品「デモンズDèmoni, 1985年)」は「新作恐怖映画封切りに映画館に集められた人々が、そのまま閉じ込められて…」という趣向だった。まだまだ観客を恐怖に巻き込むのに相応の手順が必要とされた時代だった?

まずは「領主側(加害者側)」の観点から偽悪的に「俺に好き放題させてると、何処までも

酷い目に合わされ続けるぞ」と煽るのが、元ホワイト・ゾンビWhite Zombie, 1985年~1998年)のロブ・ゾンビRob Zombie)。バンドの名前自体「魔人ドラキュラ(Dacula, 1931年)」で一躍有名となった吸血鬼俳優ベラ・ルゴシが「領民や訪問者全てをゾンビに変貌させて奴隷として酷使する過酷な領主」が君臨する恐怖映画「恐怖城White Zombie, 1932年)」に由来したくらいですから「(米国の田舎をTV説教で制圧した)宗教右派宣教師仕草」というか「(オウム真理教の教祖)麻原彰晃仕草」とか平気で繰り出してくるのが個性。

Rob Zombie「Dragula(1998年)」

Rob Zombie「Superbeast(1999年)」

Nine Inch Nailsを率いるトレント・レズナーのヒット曲は、原則として客観的にはDV案件みたいな状況にある事が想定される状況で「領主側(加害者側)」の立場にある人物の内心がそれと「領民側(被害者側)」のそれの間を揺れ動く様を描いて視聴者の実存不安を煽る趣向を得意としている印象。

Nine Inch NailsCloser(1994年)」

Nine Inch NailsHurt(1994年)」

心象風景としてHurtに近いのは氷室京介Dear Algernon(1988年)」辺り? ただNINのそれはおそらくそのままのたれ死んでも誰からも同情されず自業自得としか思われないほどの情緒不安定感がある。そういえばシングルの2曲目、デヴィッド・ボウイの楽曲NOカヴァーだったっけ…何処にでも横断的に現れる割に誰も言及しない、まさしく幽霊みたいな存在ですな…

サフラジェット・シティ(Suffragette City, 1972年) - Wikipedia

リトル・リチャードやジェリー・リー・ルイスなど初期のロックンロールから強い影響を受けたリフ、「時計じかけのオレンジ」の小説版及び映画版を参照した歌詞(歌詞に登場する"droogie"は『時計じかけのオレンジ』に出てくる若者言葉ナッドサットで「友人」を意味する)、全員で一斉に歌う"Wham bam thank you ma'am!"というフックなどが特徴である。この楽曲は『ジギー・スターダスト』のアルバムに収録された曲の中でもテンポが速く、ロックらしい特徴を有する。

サフラジェット(Suffragette)とは女性参政権運動家を意味する。この楽曲におけるセクシュアリティの表現についてはさまざまな解釈がある。ボウイと仲間たちは1972年1月スタンリー・キューブリックの映画「時計じかけのオレンジ」を見ており、この映画に強い影響を受けたが、クリス・オリアリーは「サフラジェット・シティは『時計じかけのオレンジ』そのままの「暴力への扇動というよりは、セックスコメディ」であり、「解放された女たちが[歌い手の]男性を苛むすばらしい新世界マゾヒズム的な夢」を歌う「傷ついた両性愛」がテーマであると分析している。一方で、この楽曲はデヴィッド・ボウイが完全に両性愛アイデンティティとして受け入れておらず、女性のほうをより好んでいることを示していると考える分析もある。

 一方、そのトレント・レズナーから「奴は嫌なやつだ。成功のためなら誰だって踏みつけるし、道徳の一線なんてのも超えるだろうよ。奴も今じゃ、ドラッグとアルコールに支配されたラリッた道化」とまで罵られたマリリン・マンソン(Marilyn Manson)のヒット曲は逆に「領民(被害者側)」の立場から怒りをぶちまけるスタイルが多い印象。メンバー全員凶悪犯の芸名なのに…一方「領民(加害側)」までやらないのが「ちゃんと商業の人」という謎の安心感…

Marilyn MansonThe Beautiful People(1996年)」

Marilyn MansonRock is Dead(1999年)」

Marilyn MansonI Don't Like The Drugs (But The Drugs Like Me)(1999年)」

Marilyn MansonDisposable Teens(2000年)」

Marilyn MansonThe Fight Song(2001年)」

ところで映画音楽も数多く手掛けてきたトレント・レズナーの作品、以下の様な「利用」のされ方もしてたりします。 

Nine Inch NailsCloser(1994年)」を同じインダストリアル系ロックでコア方面に分類されるCOIL(解散済み)というグループがRemixしたのがデイビッド・フィンチャー監督映画「Se7en(1995年)」OP。本編では展開上ほとんど描写されない「犯人の頭の中」を映した様な映像で犯人の異常性、特殊性が示され「この作品にはとてつもなく価値観が違うヤツが出てくるんだぜ」ってことを予告してる。VOCALを削除しまくり「You get me closer to God(君が私を神に近づけるのだ)」の一言だけ残した。

②直接作品に絡んだ訳じゃないけど、トレント・レズナーのヒット曲には珍しく「領民(被害者)」の立場から「領主(加害者)」に絡んだNine Inch NailsThe Hand That Feeds (2005年)」は、ネット上で映画「Vフォー・ヴェンデッタ(V for Vendetta, 2005年)」と結び付けられる事に。困ったっ事にこれがまたよく合う…

この曲がリリースされたのが2005年、言えばちょうどアメリカはイラク戦争が泥沼化し始めた頃です。曲中で、「お前」と呼びかけられている人が信じ、服従するのがアメリカ政府(或いはブッシュ大統領)、聖戦というのはイラク戦争で、アメリカ政府に噛みつく事ができるのか、それとも言いなりのままでいるのかというのが大きなテーマなんですね。


なんとなくMinistry「Just Like You(1986年)」の影響を感じる。

Nine Inch NailsCloser(1994年)」がJohnny CashのCoverを経て「Rogan(2016年)」の主題歌に。実はこれもトレント・レズナーって知らない人も多い?

Rogan」封切り当時はThe Sound of Silenceを主題歌に据えたメモリアル編集も存在した。考えるといろいろ意味深い…

当初はゴブリンやオークの大軍の来襲に例えられ、ゾンビ集団の様に新たな文化を構築することなく世界をニヒリズム的破滅で満たしていく「まるで癌細胞の様に際限なく増えていく闇」とイメージされてきた西洋文明繁栄を終わらせる黙示録の怪物達…そちら側が実際に勝利を手中に収めていく過程を描いたファンタジーが「グレイテスト・ショーマンThe Greatest Showman、2017年)」だったという次第。

The Sound of Silence (Original Version from 1964)

Ten thousand people、 maybe more
数万人、いやおそらくそれ以上の、
People talking without speaking
言葉を発しないまま語らう人々
People hearing without listening
音声を遮断して耳を傾け続ける人々
People writing songs that voices never share
誰からも聴かれない声で歌われる歌を作詞し続ける人々
And no one dare Disturb the sound of silence.
その誰もが全て「姿なき姿、声なき声」に奉仕する存在に過ぎない。

“Fools” said I、 “You do not know Silence like a cancer grows”
「なんて馬鹿な事を」という言葉が思わず口を突いて出る。「まるで癌細胞じゃないか。その沈黙は際限なく増えていく闇だ」
*まさしくこれこそが1960年代前半の米国で(ユダヤ系インテリを中心とする)繊細なニューヨーク知識人が抱いていた世界終末のイメージ。その代表格の一人たるリチャード・ホフスタッターが「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」を発表するのもまさにこの時期。

ナチス迫害を逃れる為にブラジルへと亡命し、現地でリオのカーニバル期間中に大日本帝国シンガポールを陥落させたニュースに接して「私の様な生粋の欧州人が生き延びられる様な時代はもう終わった」と遺言して夫婦心中を遂げた「欧州の古き良き時代が残した最後の知性シュテファン・ツヴァイクはこうした未来を地獄の到来として幻視して絶望してしまったのだった。

①その日本で彼の残した「マリー・アントワネットMarie Antoinette, 1932年)」を原案とする池田理代子の漫画「ベルサイユのばら1972年〜1973年)」が大流行して(「外国人王妃」を常に悪党視してきた)フランスの伝統的歴史観の普及を阻む。②しかもそこに描かれた「(「悪魔の様な殺人狂」オルレアン公の陰謀からマリー・アントワネット妃を守り抜く男装の麗人オスカルが(宝塚劇場文化に起源を有する手塚治虫リボンの騎士 少女クラブ版1953年〜1956年、続編「双子の騎士」1957年〜1959年、なかよし版 1963年〜1966年、アニメ版1967年〜1968年)」と「少女革命ウテナ1997年)」を結ぶ鍵として世界中の少女漫画ファンに再発掘される、なんて超展開、本当に想像を超えている。まぁ実際に両者を橋渡ししたのは「(マリー・アントワネット妃の異母兄弟が覆面の騎士として革命中のパリの街を暗躍する)ラ・セーヌの星(1975年)」なんだけど、コマケェ事はいいんだよ!?

そしてさらなる「分散幅の拡大」…

 

 「分散幅の拡大」といえば、ロブ・ゾンビも「商業の人」なので、しっかりこんな展開もしてます。

トレント・レズナーもネット上ではこんな弄られ方を…

ましてや「何でもアリの国」日本に至っては…

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日常臭さ」と連結する事でかえって掻き立てられる非日常性…そういえばこの曲もこの系譜。

プログレとかもちゃんと入ってきて…

 

今でもちゃんとそれなりの形で継承されていたりもするのですが…

 

しかしながら、あくまで「絶対他者の跋扈する認識不可能領域を始点としてN次元分散する金環の煌めき」は、それから出発しつつも後に「」を絶って自立した部分以外に顕現するもの。するとさらに仄暗い奥に残った実存不安は一体どう言う形で何処に顕現するのやら… 

*1:1978年~1987年