諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】三八式歩兵銃の真実

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映画『トム・ホーンTom Horn, 1980年)」では、その自伝に感動して製作総指揮を務めたスティーブ・マックイーンその人がトム・ホーンを主演しています。そしてこの西部開拓時代終焉に実在した賞金稼ぎが牢獄の中に閉じ込められ、深夜泣き叫ぶのです。「馬を返してくれ!! 銃を返してくれ!! そうでないと、俺は何者でもなくなっちまう!!」。そして奇しくもこの映画、撮影中に悪性の中皮腫と診断されたマックイーンにとって生涯最後の西部劇となってしまいます。巡り合わせって、本当にあるもんなのですねぇ…

2009年平成21年)には、介護老人保健施設しょうわ(埼玉県春日部市)で行われている認知症短期集中リハビリテーションにおいて、三八式歩兵銃のモデルガンが用いられていることが報道された。施設において、戦争を体験した入所者に三八式歩兵銃のモデルガンを見せたところ、それまで座ってばかりだった入所者がモデルガンを背負って歩き出すなどしたといい、また、三八式歩兵銃を題材とした回想法も効果を挙げているという。

日本陸軍の三八式歩兵銃のモデルガンが置いてあり、かつて、軍隊経験をされた入所のお年寄りがそれを担いで行進をしたりする事によって、認知症の改善が見られたとの報告もありました。

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実際にはそこまで酷い銃でもなかった様です。

日清戦争(1894年~1895年)で主に使用された村田経芳開発の十三年式・十八年式村田単発銃に代わる、有坂成章開発の近代的な国産連発式小銃である三十年式歩兵銃は、1904年明治37年)から翌1905年明治38年)にかけて行われた日露戦争において、帝国陸軍の主力小銃として使用された。三十年式歩兵銃自体は当時世界水準の小銃であったが、満州軍が中国大陸の戦場で使用してみると、同地が設計時に想定した以上の厳しい気候風土であったことから不具合が頻発した。このため、有坂の部下として三十年式歩兵銃の開発にも携わっていた南部麒次郎が中心となり本銃の開発が始まった。あくまで三十年式歩兵銃をベースとする改良であったため、銃自体の主な変更点は機関部の部品点数削減による合理化のみであり、また防塵用の遊底被遊底覆、ダストカバー)の付加や弾頭の尖頭化三十年式実包から三八式実包(6.5mmx50SR)へ使用弾薬の変更)を行っている。この改良は順調に進み、本銃は1905年明治38年)の仮制式制定(採用)を経て、1906年明治39年5月に制式制定された。部隊配備は日露戦争終戦後の1908年明治41年3月から始められ、約2年ほどで三十年式歩兵銃からの更新を完了している。

本銃の初の実戦投入は第一次世界大戦1914年~1918年。青島の戦いなど日独戦争)であった。以降、三八式歩兵銃は日本軍海軍にも供与)の主力小銃としてシベリア出兵満洲事変第一次上海事変日中戦争支那事変)、張鼓峰事件ノモンハン事変等で使用されている。

途中、1938年昭和13年)から大口径実包である九九式普通実包7.7mmX58弾)を使用する次期主力小銃が開発され、これは1939年昭和14年)に九九式短小銃および九九式小銃として仮制式制定(採用)、両銃のうち九九式短小銃が量産され三八式歩兵銃の後続として順次部隊に配備された。そのため三八式歩兵銃1942年昭和17年3月をもって名古屋陸軍造兵廠において生産を終了したが、時局の不都合や国力の限界から完全には(三八式から九九式へと)更新することができなかったため、第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)においても九九式短小銃とともに日本軍主力小銃の双璧として使用された。

満州国では、1935年よりモ式小銃を製造していた奉天工廠南満陸軍造兵廠)にて現地生産が始まり、日本国内朝鮮の仁川陸軍造兵廠を含む)での生産が終了した後も、1944年昭和19年)まで生産が行われていた。満州での現地生産品はシリアルナンバーの後ろに奉天工廠製を示す刻印が入っている以外は、国内製造品との差異は無い。

総生産数は約340万挺であり、これは日本の国産銃としては最多である(九九式短小銃は約250万挺)。また、長期間に渡って主力小銃として使用されていたため、騎銃(騎兵銃)型・短銃身型・狙撃銃型など多くの派生型も開発・使用され、外国にも多数が輸出されている。

呼称

制式名称たる三八式歩兵銃の「三八式」の正式な呼称は「さんはちしきさんはちしきほへいじゅう)」であるが、語呂がいいことから「さんぱちしきさんぱちしきほへいじゅう)」と称されることも多い。

また「三八式小銃」という名称も、(歩兵銃と騎銃を統一した九九式短小銃が採用されるはるか以前である)大正時代初期頃から既に陸軍内部では官衙等上層部においても半公式的に使用されている。

なお、英語圏を中心とする日本国外においては「Type 38 rifle」「Arisaka type 38 rifle」「Arisaka M1905 rifle」「Arisaka 6.5mm rifle」または単純に「Arisaka rifleアリサカ・ライフル)」と呼称されることも多い。本銃の開発は南部麒次郎陸軍砲兵少佐によって行われたものであるが、原型となった三十年式歩兵銃の開発者が有坂成章陸軍砲兵大佐であることによる。

技術的限界

当時の日本の技術水準に合わせ、構造はごく単純化されていたが、主に最終工程の組み立てに当たっては熟練の工員の手により調整していくしかなかった。先進列強各国の兵器において取り入れられ始めていた部品の互換化は、工業水準の低さにより完全に行うことが出来なかった。日本が小銃の部品互換性を実現するのは後継の九九式小銃・九九式短小銃まで待たねばならない。

戦闘ドクトリン

基本的に補給効率を考慮して三八式歩兵銃を装備する中隊には、同じ三八式実包を使用する三八式機関銃1923年大正12年)から1940年昭和15年)にかけては十一年式軽機関銃、ないし1930年代後期~敗戦には九六式軽機関銃九九式短小銃・小銃装備部隊には九九式軽機関銃)が配備された。

日中戦争以降1930年代後期以降、帝国陸軍は1937年の歩兵操典草案で本格的な分隊疎開戦闘に移行)当時の帝国陸軍の歩兵小隊火力の中心は軽機関銃重擲弾筒であり、1個小隊には小銃のほか第1~3分隊軽機関銃1挺と、第4分隊に八九式重擲弾筒3門が定数であった。また、1個大隊にはこれに重機関銃九二式重機関銃)12挺を擁する1個機関銃中隊、歩兵砲(九二式歩兵砲ないし九七式曲射歩兵砲)2門を擁する大隊砲小隊が付随する。さらに連隊(歩兵連隊)には山砲(四一式山砲)4門を擁す連隊砲中隊、対戦車砲九四式三十七粍砲)4門を擁す速射砲中隊が加わり歩兵大隊に直接・間接協力するため、「日本軍は三八式歩兵銃のみで戦った」という話は誇張されたものである。

この映画に登場する日本兵は、基本的にはボルトアクション方式の三八式歩兵銃しか装備しておらず、しかも「これを装備した日本兵は無敵である」なる洗脳教育を受けている。そして戦場では民間人に対する略奪と強姦と殺戮しか行わない。

実際の日本軍は(上海塹壕網を浸透作戦で抜く為に)アジアで初めて分隊単位での柔軟な機動を訓練に取り入れ、分割による火力不足を軽機関銃の大量装備で補っていた(それまでの歩兵戦は中隊単位での一斉突撃が基本で、国民党軍はそのレベルに留まっていた。八路軍はそもそも大半がそのレベルの教練とすら無縁だった)。

各国との装備比較

第二次大戦期における主要各国軍の小銃は総じて19世紀末期~20世紀初頭に開発・採用されたもので、これらは三八式歩兵銃および原型の三十年式歩兵銃とは同世代である(ドイツ国防軍のマウザー K98k(Kar98k)、ソ連労農赤軍のモシン・ナガン M1891/30、イギリス軍のリー・エンフィールド No.4 Mk I、イタリア王国軍のカルカノ M1891、フランス軍のルベル M1886)。ボルトアクション式小銃は1900年前後に既に完成の域に達した銃火器であり、各国はその時代の小銃をベースとして細かな改良を施しながら第二次大戦終戦まで主力装備と扱っている。

アメリカ軍も半自動小銃たるM1ガーランドの配備遅延により、1942年中頃第二次大戦初中期)まではボルトアクション式のスプリングフィールド M1903が依然主力小銃であった。例として第一次フィリピン戦ではアメリカ極東陸軍が、ガダルカナル島の戦い初期にはアメリ海兵隊がこのM1903で日本軍と戦火を交えている。また、上述の通りドイツ・ソ連・イギリス・イタリア・フランスでは、一貫してボルトアクション式小銃が第二次大戦における小銃手の主力火器である(第二次大戦期にソ連ではトカレフ M1940、ドイツではヴァルター Gew43の半自動小銃とヘーネル StG44の突撃銃が開発・採用されているが、いずれも少数生産に終っている)。

なお、日本を含む第一次大戦以降の各国陸軍の戦闘ドクトリンにおいて、(小銃手が多数を占めるものの)歩兵火力の要は小銃ではなく機関銃軽機関銃・中機関銃・重機関銃・汎用機関銃)である。

八路軍国民党軍は登場しない)は米軍のガーランド小銃とBARとおぼしき連射ライフルを装備した格闘戦の達人として描かれ、現場に現れると一瞬にして日本軍を殲滅させてしまう「無敵の正義軍」。

 実際の八路軍は二人に一人も旧式ライフルが行き渡ってなかった貧弱装備で、そもそも延安に引き篭もって日本軍とほとんど戦火を交える事がなかった。

 もしかして米軍の「BAR無双伝説」はM1903が主力小銃だった時代に生まれた?

第一次世界大戦

前線での支給が始まったのは1918年夏頃からである。

当時の自動小銃班は射手、装填手、弾薬手の3人から成り、あわせて960発(弾倉48個)の弾薬を携行した。射手用の弾倉入れベルトは突撃射撃marching fire)に用いることを想定した特殊なもので、BAR用弾倉8個とM1911ピストル用弾倉2個を収納できたほか、右腰にあたる箇所には腰だめにBARを構えた際に銃床を引っ掛けて固定する為の金属製カップが取り付けられていた。

1918年9月ムーズ・アルゴンヌ攻勢の際に第79歩兵師団によって初めて実戦に投入された。かつて投入されたショーシャ機関銃とは対照的に戦闘中非常に高い評価を受けることとなったが、何らかの理由から一般的な装備供給の枠組みから外されていた。配備が実施された部隊はアメリカ遠征軍(AEF)のうち4個師団のみで、他師団では終戦までショーシャ機関銃が使用された。

配備が制限された正確な理由は定かではないが、訓練および配備を行うだけの時間的な余裕がなかった、あるいは十分な配備が行われる前にドイツ側に鹵獲されることを恐れたといった理由からだと言われている。1918年11月にはドイツと連合国の休戦協定のもとで戦闘が停止するが、BARの製造は引き続き行われた。休戦までに52,238丁のBARが出荷され、1919年末に生産が停止した時点の出荷数は102,125丁だった。

BARは当時としては比較的軽量な自動火器であった。従来の歩兵銃の役割を兼ねることも期待され、射撃精度を確保するためM1903小銃と同等の長銃身やM1917小銃と同型の照準器を備えていた。射撃はもっぱらセミオートで行われ、フルオート射撃は支援射撃が必要な場合や緊急時のみ実施された。セミオート射撃時の精度は歩兵銃と同程度か、多少優れていたと言われている。

戦間期

1920年代~1930年代にかけて、アメリカ軍が世界各地で実施した小規模な軍事作戦でもBARは使用された。また、州兵の武器庫などから強奪されたBARが犯罪者によって使用された事例もある。特に有名なのはボニーとクライドである。クライド・バローは州兵の武器庫から盗んだBARの銃身を切り詰めたものを使っていた。

1920年2月27日、歩兵および騎兵委員会の要請のもと、M1919A4機関銃に代わる騎兵用軽機関銃モデルの設計が行われた。このモデルはM1922と呼ばれ、放熱フィン付きの重銃身、二脚、銃床下の伸縮式単脚、改良型照準器などの変更が加えられていた。重量は装填状態で25ポンドあり、31ポンドあったM1919よりも軽量だった。また、これに合わせて銃および弾薬を運搬する専用の鞍も設計されたほか、30連発ないし40連発の大型弾倉も検討された。その後、結局広く使われることはなく、M1922の大部分は歩兵用に再改修された。1941年4月10日には正式に退役が宣言された。

1937年M1918を改良したM1918A1が設計される。

第二次世界大戦

第二次世界大戦参戦直前、M1918A2が設計された。M1918M1918A11940年代初頭を通じてM1918A2へと改修されたが、一部は未改修のままレンドリース法のもとイギリスへと送られたり、アメリカ兵によって前線で使用されることもあった。

真珠湾攻撃を受けて第二次世界大戦へ参戦すると需要が増し、IBMおよびニューイングランド・スモールアームズの2社が新たにM1918A2の製造契約を結んだ。これら2社によって208,380丁のBARが製造された。太平洋戦線でもBARは人気のある装備の1つだったが、一方で最新型のM1918A2は初期型に比べてあまりにも重い為に苦情が相次いだ。

この頃にはBARよりも軽量な自動火器が既に普及していたため、重量があるBARはかつて想定された歩兵銃を兼ねる「自動小銃」としての役割よりも、機関銃的な運用に重点を置いた分隊支援火器としての役割が主に期待されるようになっていた。二脚などの追加が行われたのもこうした運用方法の変化を踏まえてのことであった。しかし、M1917M1919といった本格的な機関銃と比較した場合、弾倉装填式であるために射撃の持続性で劣る上、銃身交換が容易に行えない点は大きな欠点とみなされた。

 ああ、こういう経緯なら十分にあり得ますね。