諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】本当のAnti-Facismは社会民主主義(Social Comunism)?

そもそも終始「節操なきエエトコ取り」に終始した「国家社会主義ドイツ労働者党NSDAP=De Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)についてはイデオロギー的統一性なんて求めるだけ無駄で「一人一派とか気取ってるとどんどん似てくる」程度の理解で構わない気がしてます。

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一方「レーニンの直弟子ムッソリーニが構想し、政党も自ら組織したイタリアン・ファシズム(Fascismo)に対しては相応に慎重なアプローチが必要となります。

 「総力戦体制」という視点:野口悠紀雄『1940年体制―さらば戦時体制』を考える

1930年代は大不況と社会不安の時代であった。各国政府は失業、貧困、不平等といった資本主義の矛盾を解決する必要に迫られていた。それに応えて国家による問題解決を目指したファシズムが登場した。イタリア、ドイツ、日本などがそれにあたる。一方、民主主義色が強い米国においては、連邦政府の権限を強化し需要創造を目指すニューディール政策がとられた。また英国においては挙国一致内閣が発足した。

総力戦体制」論においては、ここに国民動員のための国家統制の強化という同質性を見いだすのである。すなわち、総力戦体制は国民国家の発展の中から出現したが、社会のシステム化を図ることでより高次の動員を可能とする国家体制の構築を目指したのであり、その中から動員の代償としての福祉国家の骨格が生まれたと考えるのである。

ムッソリーニ率いるファシスト党による政権奪取は1922年なので、微妙にこの定義に当て嵌まりません。

ファシズムを最広義に,〈共同体その大小,出自,体制の相違を問わない)〉統合の極限的な原理ないし手法と解すれば,これを歴史的事象として清算することはできず,再出現の可能性は常にあると考えなければならない。その政治的・経済的・社会的側面のみならず,思想や文化にわたる機制の解明が必要とされるゆえんである。

むしろ、かかる抽象的定義から出発するとしましょう。

国家こそ全ての根幹である」

国家の外にはどんな個人も集団政党、文化協会、経済連合、社会階級)もない 。だからファシズムは、国家これは階級を単一の経済的倫理的な現実へと融合させる)内部の一体性を認めず、歴史を階級闘争以外のものとしては見ない社会主義に反対する。またファシズムは階級の武器としての労働組合主義にも反対である。だが国家の軌道の中に収まる限り、ファシズム社会主義労働組合主義の台頭をもたらした真のニーズを認識するし、国家の一体性の中でバラバラの利害が調整され調和化される、ギルド制度や協調組合制度の中で、しかるべき配慮をそれらに与えるのだ。

いくつかの利害をもとにグループ化されることで、個人は階級を形成する。いくつかの経済活動によって組織化されると、個人は労働組合を形成する。だがまず何よりも、かれらは国家を形成する。これは単なる人数の問題ではなく、多数派を形成する個人の集合などではない。ファシズムはしたがって、国民をその多数派と同一視し、最大数の水準にまで引きずり下ろす形態の民主主義には反対である。だがそれは、国民というものを量より質の観点から—本来そうあるべきなのだ—観念として捉えた場合には最も純粋な民主主義形態となる。その観念は最も倫理的で一貫性を持ち、真実であるがために最強であり、それが少数派、いやそれどころか一人の意識と意志として人々の中に表現され、果ては大衆の意識と意志の中に自らを表現し、民族的に自然と歴史的条件により国民として融合された集団全体に表現され、まったく同じ発展と精神的陣形の路線に沿って、一つの意識と一つの意志として進むようになるのだ 。人種でもなく、地理的に規定された地域でもなく、歴史的に永続化する人々。観念で統合され、生きる意志、力への意志、自意識と人格を与えられたマルチチュードだ。

国家に体現される限り、この高次の人格は国民となる。国家を生み出すのは国民ではない。これは古びてしまった自然主義的な観念であり、国民政府を支持する19世紀的な宣伝の基盤となったものだ。むしろ国家のほうが国民を創り出し、自分たちの道徳的一体性に気がつかされた人々に対して意志力、つまりは真の生を与えるのだ。

この文章は以下の要望なら満たしているからこそ要注意なのです。

  • 日本は(ノルマン・コンクエスト以降のイングランド同様)江戸幕藩体制下において既に幕府直轄領比率が突出しており、版籍奉還1969年)、廃藩置県藩債処分1871年)、秩禄処分1876年)によって旧体制を跡形もなく破壊し尽くし、フランス郡県制を模した大日本帝国へとスムーズに移行した。逆にイタリア王国1861年~1946年)やドイツ帝国(1871年~1918年)の場合は19世紀後半の建国以前に統一国家であった時代がほぼ存在せず、既存政権が地域間衝突を収束させられなかった事が「熱狂的に国家のみへ帰依を求め続ける国家主義を台頭させた。
    *また別口の「日本における国家主義/超国家主義」展開。

  • 当時のイタリアにおいては地主小作人資本家労働者の対立が激化していたが(これを革命を起こす好機と見た)左翼陣営はかえってこうした階級的対立を煽るばかりなので、あえて階級調和主義を採択。

    実際の「戦闘的ファッショ」の歴史的展開

    イタリアでは、日増しに激化する共産主義者の革命運動に危機感を募らせた資本家や地主階級が「戦闘的ファッショムッソリーニが1919年に設立)」に莫大な資金を提供し、軍部や警察もその運動を容認する様になった事が躍進の契機となった。

    *日本がモデルとされる事もある中華人民共和国の「和階社会」論。

  • 当時のイタリア議会は資本家や地主といった既得権益者の多数派工作に支配されており、議会政治そのものへの不信感が高まっていたので、あえて反議会主義を標榜。
    日本共産党の「人民的議会主義」批判

     「人民的議会主義」は人民的か ― レーニン主義のみごとな「偽造」-

    教皇ピウス11世の回勅(1931年)以降、イタリア全体主義国家において実現した社会構想。イタリアのファシストは、資本主義と社会主義の両方を批判しつつ、労働者、資本家、専門職業人を各産業ごとに団体化し、政府直属の指揮下においた。これによって市民から政治的権利を剥奪し、職能団体の政治機関化によって少数者支配を貫徹し、さらに代議機関としての団体を優先して議会制民主主義を否定するといった、国家主導による反議会主義的な体制を築いた。 

要するに「イデオロギー的には相応に堅牢だとしても、忠実に実践してるとは限らない辺りに付け入る隙がある」と考えるのが正しそう なのである。

  • 暴力革命プロレタリア独裁の否定。
  • 党内民主集中制分派禁止規定の廃止。
  • 複数政党制の容認
  • 自由民主主義の擁護
  • (社会変革や労働者の利益を議会を通して平和的・漸進的に実現する)改良主義
  • これを実現する為のソ連共産党との距離確保

内容がほとんど社会民主主義Social democracy)そのものですが、イタリア共産党初代書記長グラムシによれば「その国にとって共産主義革命が相応しいか、社会民主主義が相応しいかは市民社会の発展段階による」というロジックになってる様です。

ちなみに日本では社会党に蛇蝎の様に嫌われる一方、自民党議員や地方の共産党員に支持者や実践者が多かったとされています。最終的にはスペインの中道左派政党ポデモス(Podemos, 2014年)設立などにも繋がっていく流れですね。

そしてこのイタリア共産党、さらなる妥協によって「極左無政府主義の鬼子アントニオ・ネグリのマルティチュード論を誕生させてしまいます。

1975年の党大会で、エンリコ・ベルリンゲル書記長により歴史的妥協Historic Compromise)の方策が提案された。この大会で、〈民主主義的、反ファシズム革命の第二段階〉と現状を位置づけ、当時の与党であったキリスト教民主党との提携によって政権を獲得しようと試みた。それは、イタリア共産党がそれまで掲げていた、北大西洋条約機構NATO)体制からの離脱という方針を放棄するものでもあった。1976年の総選挙で得票率34%を獲得したが、政権入りはならず、1977年キリスト教民主党との協定も成立したが、やはり政権には加われなかった。そして、1991年2月、党名を〈左翼民主党〉と改め、社会民主主義の潮流に加わることになった。このとき、その方針に従わないグループは共産主義再建党を結成した。 

こういう話なら、まだ判らないでもないのですが…