諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【鉄砲隊による乗馬突撃殲滅だけが全てじゃない?】「江戸幕藩体制」から「大日本帝国」への飛躍の謎?

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ここで指摘した「主権国家体制(Civitas sui Iuris)間の国際協調体制こそが近世時代Early Modern Ageなら、日本史には近世なる時代区分が導入不可能となる」問題、実は突破口があります。「産業革命導入の遅れを克服する為に関税同盟が結成され、これが小ドイツ主義を経てドイツ帝国独立に至る」ドイツ史を仲間に引き入れて新たな類型タイプを構築する手口ですね。

要するに近世時代Early Modern Age)とは何かというと、各国の近代時代Modern Age)から遡ってのその到来を阻害してきた要因の克服過程と考える訳です。克服の動機となるのは概ね「資本主義経済の発展」や「外敵に対抗する為の富強要請」で、こうした条件なら当時の大日本帝国ドイツ帝国の成立過程は満たします。要するに「近世論争」において重要なのは第一次世界大戦(1914年~1918年)の総力戦までに(その過酷さを乗り越えられる)主権国家化を端緒とする近代化が間に合ったかどうかであり、ハプスブルグ君主国オスマン帝国帝政ロシア(そして1911年の辛亥革命によって中華王朝を打倒した中華民国)はこれが不十分だった(だから「必要にして十分なだけの近世なる歴史的区分が存在しなかった」なる反省に意義がある)事実そのものは揺らぎません。

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  • 日本史のユニークな所は、天下統一(江戸幕藩体制の樹立)が単なる停滞を意味せず、戦国時代に樹立された藩単位経済(藩主が楽市楽座体制に拠って厳選された御用商人に地域経済統制を一任するシステム)と(参勤交代実現の為の全国規模の交通インフラ整備を契機とする)株仲間(全国の富農・富商を直接結ぶネットワーク)に発展する辺り。

    まぁこの辺りが当時ハプスブルグ君主国が推進していたドナウ経済圏構想と関税同盟の経済構想衝突と重なってくるという話。ただドイツ関税同盟には(ライン河流域工業貴族が主導する)ライン河経済圏構想という側面もあり、そのせいで結末が(大日本帝国樹立の様な)挙国一致体制での近代化には至らなかったとも考えられる。

  • ライシャワー日本史(Japan The Story of a Nation, 1978年, 日本語版1986年)」は、これに加え「(古墳時代末期に遡る)文書行政体制の全国規模での共有」「(律令制導入期にまで遡る)法理念の共有」が近代的中央集権国家への移行を容易にした点に注目し「専制国家(要するに絶対主義王政自体は現れなかったが、元来ならそれに付帯する筈の国政内容統合が既に江戸幕藩体制下で為されていた)」なる概念を提唱。日本人は割と「利便を考えるとそれが普通じゃね?」程度にしか考えないが、世界史レベルだとこういう話が「何故モンゴル帝国継承諸国は中華化したりイスラム化したりせねばならなかったのか」とか「ビザンチン帝国の地域行政の少なくとも一部をオスマン帝国がを継承し、さらにその少なくとも一部がイスラエルパレスチナ統治に継承されてる件」といった重要トピックに関与してくる。

全体構造は概ねこういう感じですが、ここに思わぬ認識上のバグが忍び込む事も。

日露戦争のころは、まだまだ砲兵隊といえば馬が主役で、砲だけではなく、砲以上に大変な大量の弾薬を輸送する輜重部隊にも馬は欠かせない存在でした。最も大量に軍馬を送りこんだのは古代からの名馬の産地である栗駒高原です。

こうした軍馬はサラブレッドではなく、大きさとしてはポニークラスの脚が短い馬です。でも、脚ががっちりと太いのが特徴で重量物の運搬に向いています。

一方、ロシア側の最精鋭部隊はコサック騎兵。これには日本軍も悩まされます。突然、補給部隊を襲ってくるので大きな被害が出してしまいました。

日露戦争天下分け目の最大の決戦「奉天大会戦」では、日本軍がアレキサンダー戦法を応用した作戦で次々に陽動攻撃を仕掛け続け、ロシア側の機動兵力を左右に振らせながら、わざと隙を見せここぞという決戦の時を演出します。

今、中央突破すれば日本軍は総崩れ、そう確信したコサック騎兵は日本の陣営のど真ん中に突撃します。そこで待ち構えていたのは大量のホッチキス社製軽機銃による十字砲火でした。歩兵が運べる軽さの機銃を各方面から迅速に移動させ、ここという時と場に集中投入したのです。 生き残ったコサック騎兵は勝手に戦線離脱しここに、ロシア軍の士気は崩壊、奉天の街を放ったらかしにして、全軍撤退します。

国家の軍隊として、世界で初めて機関銃を制式大量発注したのは日本陸軍ですが、軽機銃がコサック騎兵を壊滅させた衝撃は大きく、以後、各国は機銃を標準装備とし騎兵は代表的な兵科ではなくなっていきます。歩兵・騎兵・砲兵の時代から日露戦争を境に歩兵(+機銃)・砲兵の時代へ移行し、第一次大戦へと続き、最終局面で機銃ではやられない装甲した騎兵「戦車」が登場します。 現代の米陸軍には第一騎兵師団がありますが、装甲されたジェットヘリに乗っています。

これ大元は恐らく以下のエピソードで、確かさらなるネタ元が司馬遼太郎坂の上の雲(1968年~1972年)」で、ただしあくまで戦争の一部「騎兵V騎兵」の戦術レベルの衝突を扱った箇所に出てくるだけなんですね。

2005年6月号 『戦勝百年「陸」』

ロシアは大陸軍国でしたから、日本は海戦では引き分けくらいにはなる可能性は予想されていましたが、陸戦の方は全く勝ち目がないと思われていました。ナポレオンを追い返し、モルトケをして戦争回避を余儀なくさせる程の精強さを誇ったコサック騎兵の攻撃にあっては、日本はひとたまりもないと思われていたんでしょう。

当時の日本陸軍において、ロシアのコサック騎兵を迎撃する役目は秋山好古将軍でした。日本海海戦で東郷元帥の連合艦隊にて参謀長を務めた秋山真之の兄にあたる人です。秋山好古はフランス留学経験者で、日本陸軍において騎兵だけはドイツ式でなくフランス式を採用させたほどの人でもありますが、彼が出した結論は極めて明解でした。「日本騎兵はコサック騎兵に勝ち目はない」というものです。日本の歴史を振り返ってみても江戸時代300年間、日本では騎兵で戦争をしたことはありません。従って、馬の改良もなされていませんでした。それに対しヨーロッパでは、馬は騎兵として戦争で使うために改良され続けており、アメリカもカウボーイの歴史ですから、馬は大切なものだったと思われます。

こういう悪条件下で秋山好古が発案した対抗策が、コサック騎兵が来たら日本は正面から戦う事を止め、騎兵隊員は全員馬から降りて機関銃でコサック兵を撃つという案であります。機関銃は普仏戦争プロシア;今のドイツとフランスとの戦争)の前にフランスで発明されましたが、手動式であまり役に立たなかったそうです。その後、アメリカ人のマキシムが1880年に自動式の機関銃とそれに合った火薬を発明しています。また、同じくアメリカ人の兵器発明家だったホチキスも機関銃を開発し、フランス陸軍に正式採用もされていました。秋山好古は長くフランスに留学していましたから、機関銃の存在を知っていたでしょうし、また織田信長武田信玄姉川の合戦で武田の騎馬軍団が織田の鉄砲隊に負けた歴史も知っていたと想像されます。

機関銃は当時の先端兵器で、日露戦争当時有効に使えたのは、旅順の要塞を守っていたロシア軍以外では秋山好古だけでした。コサック騎兵は満州の平原に広がった日本陸軍を分断しようとする。その役割からいって隊長が真っ先に突進してくるのを、日本騎兵は馬から降りて機関銃で撃ったんです。

今考えたら誰でも気付く戦法かも知れません。しかしこの発想がなければ、戦線の延び切っていた日本陸軍は総崩れになっていたことは確実です。

日露戦争が終わり、技術分析がなされた結果、列強の軍隊からは「陸軍の花」と言われた騎兵は姿を消しています。替わって機関銃の掃射に耐え、且つ機動力のある戦車が、第一次大戦以降登場してくることになったんです。列強の中で最も遅れて騎兵隊を導入した日本陸軍が、騎兵の時代を終わらせたのが歴史です。

各国の歩兵装備の近代化の話自体はこちら。実は既に「南北戦争(1861年〜1865年)」においても「ボーア戦争1899年〜1902年)」においても容赦無く小銃速射や機関銃が歩兵や騎兵の密集突撃をなぎ倒していたんですが、どちらも欧州外の戦争だったので欧州人の認識はなかなか改まらなかったという話。まぁ「日露戦争(1904年~1905年)」も同じ位置付けで考えるのが無難そうです。

それにつけても「長篠の合戦(1575年)」でなく「姉川の合戦(1570年)」? そもそも織田信長がこの時採用した「鉄砲隊集中投入による殲滅戦」は、当時欧州や地中海世界で盛んに遂行されていた以下の戦闘の様子をバテレン宣教師から聞いて模倣したものと考えられています。

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  • 強固なスペイン式野戦陣地に籠もったランツクネヒト(ドイツ傭兵)鉄砲隊フランス騎兵隊スイス槍歩兵の密集突撃を粉砕した「チェリニョーラの戦いBattle of Cerignola, 1503年4月21日)」。スペイン軍がイタリアに「常備軍ルシオTercio、スペイン方陣)を配備する契機となる。
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  • オスマン帝国の「常備軍イェニチェリ鉄砲隊サファヴィー朝イランのクズルバシュそれまで宗教的陶酔に浸っての乗馬突撃で無敵を誇った騎馬軍団)の乗馬突撃を粉砕した「チャルディラーンの戦いBattle of Chaldiran、Chaldoran あるいはÇaldıranとも。1514年8月23日)」。この敗戦を受けてサファヴィー朝イランも「火砲を十分に備えた常備軍歩兵」を主力に切り替えるが、次第に辺境民の反乱を押さえ切れなくなり滅亡。イブン=ハドゥラーンの循環史観の超克にまでは至らなかった。

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    ちなみに「近衛兵団=常備軍」として編成されたイェニチェリ隊は既にニコポリスの戦い(1396年9月25日)においても馬防柵などを巧みに用いた野戦築城技術でフランス騎兵隊の密集突撃を阻み、逆にこれを殲滅している。

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  • 同じオスマン帝国イェニチェリ鉄砲隊がエジプトのマムルーク朝が擁する(モンゴル騎兵隊すら破り、それまで無敵と恐れられていた)戦奴騎兵の乗馬襲撃を粉砕した「マルジュ・ダービクの戦い(1516年)」。マルムーク朝滅亡の契機となる。

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    ちなみに前後してポルトガルフランシスコ・デ・アルメイダ率いる最新鋭艦隊が旧態依然のマムルーク朝海軍にインドのディーウ沖で圧勝した「ディーウ沖の海戦(1509年)」も起っている。

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    しかし残念ながらイェニチェリは17世紀以降守旧派勢力に転落してむしろオスマン帝国近代化の阻害要因へと変貌してしまう。

  • 戦象1,000頭を含む100,000人以上の大群を擁する北インドローディー朝を、12,000人程度の動員数ながら鉄砲や大砲を有効活用した(ティムール 帝国皇統の末裔たる)バーブルの軍勢に敗れムガル朝(1526年)創始につながった。ただしこの王朝はインド諸侯を解体して中央集権的体制に改変するのには失敗し、最終的に最英帝国に併合されてしまう。
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模倣とはいえ、模倣可能な環境が既に準備されていた辺りが当時の日本の恐ろしさ。何しろ15世紀中旬の鉄砲伝来と実戦での初投入(1550年の中尾城の戦い)からこの時代までに国産化が進んで保有火砲数が全体でオスマン帝国のそれ並みに膨れ上がっていたのです(その総攻撃を受けた明朝が疲弊して滅亡する展開に)。この状態を可能とする為に各勢力が工夫した「最終的には中央集権化に向かう断片的試行錯誤」が日本の近代化を準備した側面まで否定しようとは思いません。

むしろ歴史上重要なのは、当時の日本が天下統一によって当時のアフリカの様に「欧州列強から供給される鉄砲と火薬で無限に戦争を続け、支払いに戦争奴隷を供給し続ける国際的奴隷売買ビジネスの一環」に組み込まれる事態を危うく回避した事(特に九州における勢力争いや1592年~1593年の文禄の役、1597年~1598年の慶長の役はヤバかったという。特に後者二つは当時の国際奴隷市場における奴隷売価を1/3に暴落させた逸話を有する)。まずこの時点で躓いていたら、そもそも「日本に近世は存在したか?」みたいな呑気な設問自体が存在し得なかった訳なんです。

こうして全体像を俯瞰してみると「百年戦争(1337年/1339年~1453年)に端を発するイングランドとフランスの主権国家化に火砲が関与してくるのは殆ど最終局面(しかも攻城戦が主で野戦も活用される様になるのはまだ先)」といった史実も含め「近世的展開」と「騎兵の乗馬突撃の鉄砲隊による粉砕」の相関性は(確かに「あえてバトウの状態を維持し続ける事で」当時最強を誇ったイランのサファーヴィ朝やエジプトのマルムーク政権を粉砕しイブン=ハドゥラーンの循環史観を断ち切った意義こそあるものの)存外高くないのかもしれません。ただ「十分な火力を備えた常備軍だけ編成しても、中央集権的統制が定着するまで戦い続けないと途中で腐って近代化に役立たない」なる観点自体には相応の妥当性もある様に見受けられます。

とりあえず確実に言えるのは、史実上の奉天会戦に、かかる歴史的意義など存在しない事。欧州列強との戦争に敗れる都度、帝政ロシアでは近代化施作が盛り上がるのですが、どれも中途半端に終わるのが常でしたし、ましてや後進国日本への「敗戦」など、そもそも認めた形跡が…

ロシア軍の総帥クロパトキンは3月9日、第三軍によって退路を遮断される事を恐れて鉄嶺・哈爾浜方面への転進を指令した。これは(補給の限界に到達し、弾薬も予備兵力も底を突いた状況下、最終決戦による決着を狙っていた)満州軍総司令部が全く予期しなかった出来事であった。奉天のロシア兵はまだ余力のある状態で、総撤退を開始したと思われたからである。ここまでの戦いで大きな損害を受けていた日本軍は3月10日無人になった奉天に雪崩れ込んだ。第四軍はロシア軍を追撃し、2個師団に打撃を与えた。なお、この日は翌年に陸軍記念日と定められている。日本側の死傷者は約7万5000であった。

ロシア軍の損害もまた大きく(ロシア側の死傷者および捕虜約9万)、回復には秋頃までかかる状況であった。しかし、ロシア軍が受けた最も大きな損害は士気だったと言われる。鉄嶺までの暫時退却であったはずだが、その過程で軍隊秩序は失せ、略奪、上官への背命など、軍隊としての体をなさないまでに崩れたという。そのためクロパトキンは鉄嶺も捨てて、北へさらに退いた。すぐに日本軍が鉄嶺を占領している。哈爾浜に逃れたクロパトキンは罷免された。

奉天を制圧したことにより、会戦の勝利は日本側に帰したとも言えなくもないが、ロシア軍にとって奉天失陥は「戦略的撤退」であった。100年前ナポレオン戦争でもロシア軍が採用した伝統的な戦法であり、欧米のマスコミも当初はこの撤退を「戦略的撤退である」と報じていた。実際、ロシア軍と日本軍では補給能力に格段の差があり、準備さえ整えば幾らでも巻き返しが可能な状況にあったからである(現役兵の兵力は約200万人で大日本帝国の約10倍。ただしシベリア鉄道の輸送能力が想像以上に貧弱な上、かかる予備兵力の大半がロシア第一革命に動員される状況下でもあった)。だがクロパトキンが罷免されたことで結果的にロシア軍が自ら敗北を認めてしまった形となり、国際的にもそのように認知されることとなった。

いずれにせよ、実際にはご存知の通り日本海軍が日本海海戦1905年5月27日~5月28日)でバルチック艦隊を軽微な損害で壊滅させ、それまで和平交渉を拒否していたロシア側を講和交渉の席に着かせる契機となります。かくして「戦略的撤退」という言い訳は全く通用しなくなってしまったのでした。「坂の上の雲」も、そうした全体の流れ自体は史実に忠実に描いてた気がします。