この投稿への思わぬ反響に驚いています。
実は日本人にとっても全然他人事じゃない話なんですね。実際このサイトでも「小京都問題」なんてのを紹介しています。
そもそも京都とは一体何だったのでしょう。過去投稿においては「日本で初めて製作委員会形式で建築された都」としましたが…
こう考えると比較史上「日本史における戦国時代( 1467年/1493年~1590年)」が、「古代オリエント史(古代エジプト文明と古代メソポタミア文化とインダス文明、および間を繋いだカナン諸族やフルリ人やヒッタイトやエラル人の邂逅史)におけるアモル人王朝が乱立したイシン・ラルサ時代(紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)」に重なってきたりする訳です。
- まさか「守護代家系出身の織田信長による天下統一事業」と「バビロン第1王朝(アモル人王朝)ハンムラビ王」を同列に語る展開を迎えるとは。ちなみにハンムラビ王の生き様、日本史上でいうと織田信長というより徳川家康に近かったりします。
バビロン第1王朝(紀元前1830年~紀元前1530年)の王ハンムラビが即位した紀元前1792年、既に北方ではアッシリアのシャムシ・アダド1世が、南方ではラルサのリム・シン1世がその最盛期を迎えており、バビロンはこれらに挟まれて厳しい立場にあった。
- シャムシ・アダド1世との友好関係維持に細かく注意を払い、その支持を得て南のラルサに対抗。紀元前1784年頃までこの路線を続けつつ(ラルサを包囲する様に)イシン、ウルク、ウルなどを攻略しバビロンの勢力を拡張。さらにエシュヌンナとも戦って領域を拡張。
- シャムシ・アダド1世が没するとその息子達を見限り、マリのジムリ・リムに接近して同盟を結んだが、当然シャムシ・アダド1世の支援ほどの効果は得られず、大規模な軍事活動など起こせなかった。その後20年前後にもわたり、ほとんど専ら国内整備と防御に時間を費やす。
転機となったのは紀元前1764年の戦いである。この年、エシュヌンナ、アッシリア、グティ人、エラム人などの同盟軍がバビロンを攻撃。マリの支援もあってこの戦いに勝利したハンムラビは、やっと待ち望んでいた行動の自由を得たのだった。中華王朝史では、殷が夏を討った年に該当する。
- 翌紀元前1763年一挙に南下してラルサのリム・シン1世を打ち破りラルサを併合。
- 紀元前1759年頃長年にわたる同盟相手であったマリのジムリ・リムも滅ぼしてマリを併合。
- 紀元前1757年頃にはエシュヌンナ市を水攻めで完全に破壊し、アッシリアへも出兵してこれを征服(征服した範囲については明確ではない)。
こうして極めて短期間の征服活動の末に再び全メソポタミアを支配する王朝が登場し、バビロン市がメソポタミアの中心都市として舞台に登場する展開を迎えたのだった。
むしろ織田信長に近いのはアッシリア王国(アモル人王朝)シャムシ・アダド1世という印象? 武田っぽい雰囲気もあるけど。ならばラルサは北条か毛利辺り? まさしくマリ王ジムリ・リム臣下が手紙に残した「一人で十分強力な王はいない。10人または15人の王がバビロンのハンムラビに従っているし、同じくらいの数の王がラルサのリム・シン1世、エシュヌンナのイバル・ピ・エル2世、カトナのアムト・ピ・エルに従っている。そしてヤムハドのヤリム・リムには20人の王が従っている(直前まで最大強国だったアッシリアが、英王シャムシ・アダド1世の死後間もなく没落し大国の一つとしては勘定されなくなっている点に注目)」なる文言から漂うのは戦国大名間の勢力拮抗状態的雰囲気…
- シャムシ・アダド1世との友好関係維持に細かく注意を払い、その支持を得て南のラルサに対抗。紀元前1784年頃までこの路線を続けつつ(ラルサを包囲する様に)イシン、ウルク、ウルなどを攻略しバビロンの勢力を拡張。さらにエシュヌンナとも戦って領域を拡張。
こういう事を調べてるうちにふと気付いたのが「アモリ人はシュメール文化に完全に帰依した」と思ってたら、実は信仰面において意外と頑固な側面があったという話。それはフルリ人の風神との習合を経てヒッタイトの信仰にまで影響を与えていくのです。
さらにこれがカナン諸族の「バール(Baal, 男主人)/バーラト(Baalat)信仰」と習合したのが嵐神バーラト・ゲバルとなる様です。そういえばエジプト神話には「異邦人を守護する嵐神」セトなんてのもいて、オリエント世界観の全体像における「塩水の女神=異邦人を守護する地母神」ティアマトとどういう関係にあるべきか考えさせられるのです。
*Wikipediaの記述が数年前閲覧した「マルドゥク=バビロニア中心史観」とは一新されてる…
夫婦神を祀ってると何が都合良いって、いわゆる(現実社会の権力構造推移に従った)神格習合過程において(神の性別の不一致を克服する為の)性転換問題が回避可能なんですね。まぁその後概ね(恐らく神官間における内部党争を反映した)職能分担規定合戦に発展しますが「夫婦喧嘩ば家内でやれ」の一言に収まってしまうのです。
そして、さらにはこんな話も…
女神バアラト・ゲバル(Baa'lat-Gebal=直訳「ビブロスの女主人」)
バアル(主人の意)に対応する言葉が、バアラト(女主人)。エジプト古代王国が繁栄を極めた時代、国境線の変化にともない、ユーフラテス流域のセム語系文化圏から輸入されたセム人の女性神である。
- 【注釈】オリエント関係文献では「ハム人(エジプト人)」「北西セム人(カナン諸族, アラム人, ヘブライ人)」「東セム人(アッカド人、アッシリア人(北部)、バビロン人(南部))」なる分類が普通に出てくる。ちなみにグティ人、エラム人、ヒッタイト(ハッティ人)、ヌビア人は分類不能で「アジア人」なる表現に至っては何を指すかが状況によって異なるという…
言語言語学上、カナン諸語はヘブライ語.フェニキア語を含み、アラム語やウガリト語と共にアフロ・アジア語族セム語派北西セム語に含まれる。音素文字(原シナイ文字)を初めて用い、その文字体系は漢字文化圏を除く世界に伝播した。
学習し易い音素文字が普及した結果、古代オリエントの国際公用語がアッカド語(Akkadian cuneiform)からアラム語(アラム文字)に代わり、やがてアラビア語に取って代わられた。
意外なことだが、有名なバアルという神名も、実は個人の名前ではなく、輸入された男性神を纏めて呼んだ形容詞だったようだ。同じくバアラトも女性神一般を指す言葉で、その中にはアスタルテなどの有名な神も含まれるのだが、最初にエジプトの神として迎えられたのは、バアラト・ゲバル(ビブロスの女主人)と考えられている。エジプトのビブロス遠征にともない、バアラト・ゲバルの神殿にはオベリスクやヒエログリフによる碑文が出現する。
また、バアラト・ゲバルは女神アスタルテの一形態ともされ、シリア系の女神たちがエジプトに進出する切っ掛けになったとも考えられる。
神話
バアラト・ゲバルの名称が見られる遺跡は、シナイ半島西部(紅海側)の採石場として使われた鉱山。古王国時代から名称はバアラトだが図柄はエジプトの女神ハトホルのものであり、現地人のあがめる女神と、エジプトの代表的な女神が同一視された、まとめた呼び名と解釈するのが妥当だと思う。
バアラト自体「女神」をあらわす一般名詞のようなものなので、そこにはハトホルもアスタルテもともに含めるような意味合いがある。
シナイ半島におけるハトホル信仰
古代エジプト人のシナイ半島への進出は、ピラミッド時代の少し前に始まる。特に、「マガラ」、「セラビト・エル・カディム」の遺跡が有名だが、ともに(今は失われ、拓本だけが残っているものを含めて)古王国時代に立てられた多くの碑文が残されていた。
- マガラには、古代エジプト古王国第3王朝第3代ファラオのセケムケト(在位:紀元前2649年~紀元前2643年)が残したと思われる、アジア人を打ち倒す王の姿を描いた碑文が残されている。
- これは実際に王がこの地まで侵攻したというより、王の命を受けた遠征隊がこの地を訪れ、先住民を追い払ったことを意味すると考えられている。また、古代エジプト古王国第4王朝開闢者のスネフェル(在位:紀元前2613年~紀元前2589年)も、ここに碑文を残している。
これら初期の碑文の中で王の守護者として現れるのは、ハトホルではなくトト神だった。ハトホルは、もう一方のセラビト・エル・カディムにおける古代エジプト中王国第12王朝開闢者のアメンエムハト1世(紀元前1991年~紀元前1962年)の時代でトト神とともに登場している。失われた碑文も多いため、どの時点からハトホルがシナイ遠征隊の守護女神としての地位を確かにしたのかは分からないが、中王国時代以降、新王国時代に至るまで、ハトホルは、アジア由来の神ソプドゥウとともに、セラビト・エル・カディム神殿に祀られ続けた。
第11王朝最後の王メンチュヘテプ4世の治世第2年に王のための石棺の材料を得るために派遣された遠征隊の司令官の名前が宰相アメンエムハトであることから、このアメンエムハトとアメンエムハト1世は同一人物であり、クーデターによって王位を簒奪したのであろうと言われている。ただし第11王朝の宰相アメンエムハトと、アメンエムハト1世を同一人物とする確証はなく、慎重な立場を取る学者もいる。
即位直後に軍隊を率いて反対派の諸侯やヌビア人の抵抗勢力を鎮圧し、古王国時代の首都メンフィスの南に「二つの土地の征服者」と言う意味の新たな都イチ・タウィを建設し、前王朝が都としたテーベから遷都した。
- これには上下二つのエジプトの中間に位置するイチ・タウィが、統治を行う上でテーベよりも戦略的に優位だったというだけでなく、自らの王権の正統性を確保するという目的もあった。
- また、第一中間期の間に増大した州知事たちの権力を徐々に削ぎ、国土の中央集権化を進める改革に着手した。その姿勢は王が新たに加えたウェヘム・メスウト「新生を繰り返すもの」という称号に現れている。
- 治世20年目には改革の一貫として、古代エジプト史上で初めて共同統治のシステムを導入し、王位継承の安定化を図った。共同統治者となった息子センウセレト1世は国境線の維持や領土の拡大など主に軍事の統括にあたった。
アメンエムハト1世は治世30年目に衛兵によって暗殺された。当時、遠征に出て首都を不在にしていたセンウセレト1世は、父王暗殺の知らせを受けて早急に帰還し、直ちに混乱を収拾して単独の統治者となった。これにより、共同統治者の存在が王位簒奪の防止に有効であることが証明され、以後第12王朝では父王が王子を共同統治者に据える伝統が受け継がれていくことになった。
- もちろんハトホルの本来の信仰中心地がデンデラ(イウネト)であったことは間違いない。
- シナイの神殿では、ハトホルは時折、聖蛇の女神であるウラエウスと一体化してあらわされることもあった。
輸出されたハトホルの別名は「バアラト(女主人、バアルの女性形)」だったが、これがバアルやアスタルテらの登場するカナーン神話と結びつき、ハトホルとアスタルテが同一視、あるいは同格の存在として扱われることになった。
- もともとバアラトは女神を意味する一般名であり、シナイから東に住む人々にとって「第一の女神」といえばアスタルテ(イシュタル)だったのだから、それも無理からぬことと言える。
このようにして、ハトホルは「ビブロスの女主人」なる呼称も獲得することになる。
これまで完全に門外漢だった分野なので、まるでゲーム攻略情報を封じてRPGやTPSを遊んでる様な「意外な発見の連続」が楽しくてありません。日本古代史解釈上の必須スキル「特定の神名を巡る逸話の扱いを、その神を始祖と崇める有力集団の中央権力との関係史に結びつける能力」が思わぬ形で役立つのも興味深い辺り。この気持ち伝われ!!(また「いいね」が沢山集まったらさらに深入りする事でしょう)