諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】オリエンタリズムとオリエント

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どうやらこの世界にはヘレニズム時代(紀元前323年~紀元前30年)の前史としてのオリエント時代(紀元前4千年紀~紀元前323年)なる便利な歴史区分が存在する様です。

一般にオリエント(Orient)といったら、西アジアからエジプト・東地中海岸を含み、インダス川流域に至る地域、広い意味では西洋から見た東洋を意味する。

オリエント文明といったら、メソポタミア文明エジプト文明を両輪として展開し、アッシリア帝国、ペルシア帝国で統一された世界を言う。

  • 【注釈1】その近隣にはエラム人やフェニキア人経由でこの世界と結ばれたウラル・ドラヴィタ(タミル)文明圏が存在した。

【注釈2】当時は多くの「蛮人」がイラン高原ザグロス山脈を超えて現れた。同時に彼らは鉄器や戦車や複合弓の様な最新技術ももたらしたと考えられている。さて「蛮人」とは一体何者だったのか?

よく誤解されてますが、エドワード・サイードオリエンタリズム(Orientalism, 1978年)」が「西欧世界=オクシデント(Occident)」に対比させたのは、あくまで「中近東のイスラム世界」であり、ここでいうオリエント世界を完全には含んでいないのです。

オリエンタリズム(Orientalism)はもともとナポレオンによるエジプト遠征(Expédition d'Égypte, 1798年~1801年)最中のフランスで生れた言葉で、当初はフランスを筆頭とするヨーロッパ諸国におけるオリエント諸語の学術研究を意味していた。

また19世紀中旬には、近東を描く絵画がヨーロッパで流行し、その芸術潮流を指して「オリエンタリズム」と呼んだ。

1978年エドワード・サイードが著書「オリエンタリズム」を発表。西洋におけるオリエントのイメージは、異質な文明という先入観に基づいた西洋人の幻想、偏見の対象となっていると批判し、これを「オリエンタリズム」と呼んだ。ただしそこでサイードが取り上げているのは中近東のイスラム世界のみであり、中国や日本は入ってない。

 正直、サイイド「オリエンタリズム」については文化簒奪の疑いすら持ってます。スンニ派的価値観から(シーア派的価値観につながるウラル・ドラヴィタ(タミル)文明圏との連続性も完全に断ち切ってるし「西洋(Occident)の東洋趣味」を嗤える立場かと(オリエント史を学ぶとひしひしと感じる「古代エジプト人の他オリエント地域への軽蔑」を再生産してるだけ)。まさしく「弱い者達が夕暮れ、さらに弱い者達を叩く。その音が響き渡ればBluesは加速していく」の世界じゃないですか。

そう考える立場からの最近の投稿が以下。

こんな感じで最近世界史を勉強し直してますが(なるべく伝統的解釈に頼らない様にしてる辺り、試行錯誤しながら豆板醤より麻婆豆腐を産み出そうとしてる感じに近い)、そもそも「ヘレニズム文化に影響を与えたオリエント文化=専制」なるイメージにおいて既に、例えば自然法(Natural law)解釈をめぐる「伝統に従って神格化された君主を理想視する人間中心主義(Humanism)的側面(特にアッカド南部のバビロン文化)」と「時の権力者は国土=国民の総意の代行者に過ぎないと考える法実証主義(legal Positivism)的側面(特にアッカド北部のアッシリア文化)」の概念の対立があった事を知って衝撃を受けました。

まぁ歴史のこの時点における実証主義なんて、まだまだ「(伝統主義者が盲目的に理想視する)伝統的共同体生活への回帰願望」と「(現在における現実の生活環境を肯定する立場から出発する)進歩主義者の改善要求」の対峙とか色々一緒くたなのですが…