ラピスラズリとかクロライト(綠泥岩)の加工品が出土したら嬉しいな…あるいはカレー?
「バクトリア・マルギアナ文化複合」は、北方の草原地帯とイラン高原・インド亜大陸の中間に位置する河川流域で栄えた古代文明でして、その言語は不明ですが、本来、草原地帯にいたインド・イラン系の印欧語族に、文化的な影響を与えたとされてます。インドの「インドラ」などの神名の借用元ともされる
— 巫俊(ふしゅん) (@fushunia) 2020年7月30日
バクトリア・マルギアナ複合(Bactria-Margiana Archaeological Complex:略称BMAC)
青銅器時代の紀元前2000年前後、現在のトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、アフガニスタン北部のアムダリヤ(オクサス)川上流部などに栄えた一連の先史文化を指す考古学用語(オクサス文明とも呼ばれる?)。
- ソ連の考古学者ヴィクトル・サリアニディが発掘調査に基づき1976年に命名。西側ではあまり知られなかったが、ソ連崩壊後1990年代に世界的に知られるようになった。
- インダス文明とほぼ同時代の高度都市文化であり、メソポタミア文明やエラム文明、インダス文明など他の文化との関係、特にアーリア人のインド・イランでの勃興に関連しても注目されている。
とはいえ発見は比較的新しく、研究途上にある。
位置と時代
バクトリア(アフガニスタン北部)、マルギアナ(トルクメニスタン)はいずれも遺跡が集中する地域のギリシア語名である。乾燥地帯であるが、現在のメルヴを中心に川とオアシスを利用して古くから農業が行われた。
- 都市や城塞の遺構以外にも優れた金属器、土器、宝石類、石の印章など様々な遺物が出土。印章に見られる図柄はイラン南東部から出土した陶器や銀器によく似ている。マルグッシュ遺跡(ゴヌール・テペ)からはエラム文字と見られる銘文を彫った陶片が見つかっている。
- これらの遺跡の上下限年代は、放射性炭素年代測定によって紀元紀元前2200年~紀元前1500年頃という数字が提示されているが、その発展と没落の過程はまだよくわかっていない。
BMACの遺物はこの地域だけでなくイラン東部、ペルシャ湾岸、バルチスタン、インダス川流域(ハラッパーなど)の広い範囲で見出されている。中心地はむしろアフガニスタン南部からバルチスタンにあったとする学者もいるが、今のところ同地方から本格的な規模の同文化に属する遺跡は一切発見されていない。
他の文化との関係
イラク、イランやインダス地方とは盛んな交流が行われ交易圏を形成していたが、別の独立した文明という説と、メソポタミアやエラム文明からの移住地として始まったという説がある。
- 東側では、土器などに関してガンダーラ墓葬文化(GGC:スワート(Swat)文化ともいう)との深い関係が考えられている。
ガンダーラ墓葬文化(紀元前1500年~紀元前200年頃)
紀元前1500年~紀元前200年頃現在のパキスタンのスワートからガンダーラ、タキシラ地方に展開した文化で、墓群出土の遺物によって特徴づけられる。
馬の埋葬例もみられ、その担い手がインド・アーリア語族の一派であった可能性も指摘されている。
土器は北部イランとも関連する要素をもつものである。
土偶は土器とともに墓の中に副葬され、素朴なつくりを特徴とし、装身具などは単純な列点文によって表現される。
- また同時期の北側では中央アジアの広い範囲に遊牧民のアンドロノヴォ文化が栄えており、これとの接触もあったようである。
サリアニディはBMAC文化の起源についてアナトリアなどに由来する説を称えているが、イランのエラム文明に由来するとする説やイラクからインダス一帯の交易権圏の下で独自に発達したとする説、他にほぼ同時期のタリム盆地の先史文化と結び付ける説もある。
アーリア人との関係
この時代は、アーリア人(インド・イラン語派の言語を用いる人々)がインドやイランで勃興する直前の時期に当たり、BMACはこれとの関係でも注目されている。
- アンドロノヴォ文化を原アーリア文化とする説があるが、この文化はインド・イランの考古学的文化と関連づけるのが難しい。
- またアンドロノヴォ文化が原アーリア文化であれば、これがBMACを滅亡させたと想像されるが、BMACは馬の牧畜と戦車を使用する文化により滅亡した形跡はあるものの、より北方に位置する地方の同文化の最も早い痕跡は紀元前1100年頃のものである。
- サリアニディ自身はBMAC=原アーリア説を主張し、大量の灰あるいはケシや麻黄が発見された宮殿の部屋をアーリア人の拝火儀式、ソーマ(ハオマ)儀式の証拠であるとするが、BMACは農耕文化であって馬に関係した遺物は極めて乏しく、BMACを原アーリア人と関連づけるのは困難である。
- またジェームズ・マロリーはヴェーダにおける砦の記述と発掘された城塞とを結び付け、アンドロノヴォ文化がBMACと同化してアーリア文化になったと主張するが、BMACとこれを滅亡させたと見られる文化は短期間かつ断絶的に入れ替わっている。
インド・イラン語派には印欧祖語やドラヴィダ語と異なる基層言語があるとの考えもあり、それがBMACの言語(単一ではなかったかもしれないが)ではないかと考える人もいる。現在ガンダーラ地方の近く(カシミール)に残っているブルシャスキー語も関係があるかもしれない。
何かキナ臭い動きも伴ってるんですね…
こういう別方面からの「厳しい眼差し」もあったりして。
「黒い地母神のイメージ伝播の謎」なんてトピックにも関わってくるルート。
これらの「聖母」はなぜ「黒い」のであろうか? その象徴的意味は何だったのであろうか?
この奇異に思える「黒い色」の意味を、あえて「聖書」の中に探してみるならば、「旧約聖書」の中に、それらしきものが見られる。
- 旧約聖書・雅歌 1章5節
エルサレムの娘たちよ
わたしは黒いけれども 美しい
ケダルの天幕のように
ソロモンのとばりのように異教的とも思えるこの「雅歌」の文句については、中世以来、多くの解釈がなされているが「黒い聖母」がこの文章を典拠にしているという証拠は何もない。
キリスト教以外の宗教を見れば、“死の象徴”とも言うべき「黒」は、必ずしも悪い色としてとらえられていない。古代神話における「大地の女神」は、しばしば「黒く」表現されている。大地は「暗黒の闇」から「生命」を生み出す根源であり「黒い色」は、すべて「大地の女神」に結び付いているのである。
- 古代エジプト神話における「地母神イシス(死者の守護神であり、豊穣神でもあり、太陽神ホルスの母)」は、「黒く」表現された。「幼児ホルス神」を抱いて座るこの「イシス像」の中に、キリスト教の「聖母子像」の原型を見る論者もいる。「イシス信仰」は、地中海世界に広く伝播していったと考えられている。
- ギリシャ神話の「大地の豊穣神・デメテール」と、「イシス神」を同一視する人もいる。
- また「世界7不思議」の一つと言われた小アジアの「エフェソスのアルテミス(ダイアナ)の神殿」には、「太陽神アポロンの双子の妹にあたるアルテミス(古くは先住民族の「地母神」)の、「黒い像」が描かれていたと伝えられている。
- また、各地に存在する「黒い石崇拝」も、これと無縁ではない。イスラム教の聖都・「メッカ」のモスクにも、「黒い石」が「聖石」として飾られている。
「シャルトル大聖堂の地下祭室にあった黒い聖母」も、「ドルイド教の大地の女神、豊穣なる大地、その母なる女神・デメテール」の信仰を受け継いだものでなかったか?
- インダス文明(Indus Valley civilization, 紀元前2500年頃~紀元前1500年頃)やインド半島南岸部のドラヴィタ/タミル語族の「(破壊神カーリーの原型と目される紀元前9世紀頃の)黒い地母神信仰」をフェニキア人が地中海文化圏に伝え、それが古代エジプト王朝の女神の表象の一つとして定着したさらなる大源流について、現段階においてエラム-バビロニア(アッカド地方南部)文明圏経由の「内陸伝播説」と「ディルムン(Dilmun, メソポタミア文明の記録に登場する交易相手で原料の産地年tれだけでなく、メソポタミア文明とインダス文明の物資の集散地としても記録されている。正確な位置は明らかになっていないが、バーレーン、サウジアラビアの東部地方、カタール、オマーン、ペルシャ湾のイラン沿岸部などと関連があると考えられている)」経由の「海路伝播説」が存在する。
「女性の霊性に関する考察 女神たちのイメージから」 - ヒンドゥー教聖典マールカンデーヤ・プラーナの一部「デーヴィー・マーハートミャ(devīmāhātmya(m), देवीमाहात्म्यम्, =女神の栄光, 紀元後4世紀~5世紀頃サンスクリット文献化)において破壊と創造の神シヴァの神妃パールヴァティー、「白い破壊神」ドゥルガー、「黒い破壊神」カーリーが習合された。
どうもこっちからのアプローチでは「インド神話とペルシャ神話の鏡状対応問題」とかに辿り着きそうもないので、私の反応は「とりあえずカレーが出土したら嬉しいな」でいいです。期待しないで待ってます…