諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ドラマ性に欠ける自由交易圏側の歴史

ハプスブルグ帝国に組み込まれる事を拒絶して独立したスイスの文化史学者ブルクハルト(Carl Jacob Christoph Burckhardt,1818年~1897年)は、シスマ(Schisma、教会分裂)期(1378年~1417年)に領主化した教皇とその背後でのボルジア家やメディチ家の暗躍、およびフランス王室とハプスブルグ家の介入などで彩られたルネサンス期イタリアの政治史を丹念に分析した上で「権力は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」という結論に到達。ここで断罪されているのはおよそ「(領主が領土と領民を全人格的に代表する)農本主義的伝統」の事である。

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とはいえ当時までの欧州において「」からの脱却に成功した国は少なかったし、その後「」の世界に舞い戻ってしまった地域さえ存在した。

こうした現実を前にしては「世界史とは海の国と陸の国の対決の歴史であった」なんて粗雑な歴史観はもはや出る幕もない。

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 とにかくこうした地域の多くは自力で「悪」から脱却したというより「悪が自滅して自ら魅力を失う」といった僥倖に見舞われた地域であった。すべての発端はフランク王国の分裂。ヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征)とマジャール人侵攻に脅かされた暗黒時代を経て、やがて(パリ伯を王統に迎えた)フランス王国、(ザクセン辺境伯を皇統に迎えた)神聖ローマ帝国、(ウェセックス王家を王統に迎えた)イングランド王国の鼎立状態を迎える事になったが、その狭間で(フランク族発祥の地に割拠する)フランドル公が巧みに立ち回り欧州経済中心地の立場を獲得する。まぁ発端からしてこんな感じなのである。

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それにしても当時の経済的繁栄は見事なまでに羊毛まみれ。イングランドヴェネツィアフランドル、北イタリア諸都市…経済人類学者カール・ポランニーは、スペインもこの輪に強引に加わろうとしたが、穀倉地帯を潰して牧羊地を広げた結果飢饉で大量の餓死者を出し、国内が反乱の坩堝状態となって却って国を滅ぼしたという。

  • ヴェネツィア(Venezia)共和国東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世(Justinianus I、在位527年〜565年)治世下、ゴート戦争(Guerra gotica、羅: Bellum Gothicum、535年〜554年)によってイタリア半島東ゴート王国を滅ぼしラヴェンナ総督府東ローマ帝国領イタリア)を建設した東ローマ帝国だったが、その宗教不寛容政策はササン朝ペルシャとの抗争泥沼化(6世紀)、代替交易地として栄えたアラビア半島におけるイスラム勢力の勃興(7世紀)、その隙を突く形で遂行されたランゴバルト族(ロンバルティア人)によるラヴェンナ総督府簒奪(6世紀〜7世紀)、偶像崇拝などをめぐる東方正教会と西ローマ教会の関係悪化と「ピピンの寄進(751年)」や「カール大帝の戴冠(800年)」に象徴されるラヴェンナ地方の教皇領化(8世紀〜9世紀)、 大シスマ(Western Schisma、1054年に決定的となる東方正教会と西ローマ教会の決裂)と叙任権闘争(11世紀に展開した神聖ローマ帝国西ローマ帝国のドイツ司教区における優位争い)を背景に中立的立場とレパント(Levant、トルコ、シリア、レバノンイスラエル、エジプトを含む東部地中海沿岸地方) の制海権を獲得していったヴェネツィア共和国の台頭を招いただけだったのである。しかも聖遺物収集に執着する事で教会のカリスマ的影響力の影響を最小限に留める事に成功(この手口は同様に聖遺物収集に執着したザクセン選帝侯庇護化、「聖書のみ」の主張を展開したルター派に継承される)。有名な謝肉祭の乱痴気騒ぎは富裕階層に対する船員階層の鬱憤を晴らすガス抜きとして発達したもので、有力商家との結婚を奨励されていた貴族の若者達にとっては格好の出会いの場でもあった。*ただし大航海時代到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移すると、大西洋沿岸地域における人口急増を背景とする食料価格高騰に目をつけ、農場領主化。玉蜀黍や馬鈴薯といった新大陸から伝来した栽培作物が広まった事もあって食料価格が零落すると緩やかな衰退期に入った。

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    フランドル(Flandle オランダ、ベルギールクセンブルグ…元来フランク王国時代から(後に神聖ローマ帝国へと発展していく)東域と(後にフランス王国に発展していく)西域の緩衝地帯としてどちらの権力も及ばない地域だったが、その元締めと目されてきたフランドル伯も第4回十字軍(1202年~1204年)で建国されたラテン帝国の初代皇帝就任を最後に衰退開始。この隙を突いてフランスが騎馬隊を差し向けたが、毛織物産業で力をつけた市民軍に「金拍車の戦い(Bataille des éperons d'or,1302年)」で散々破られる。その後ハプスブルグ帝国領時代とスペイン領時代を経験し「八十年戦争(Tachtigjarige Oorlog,1568年~1609年,1621年~1648年)」を経てウェストファリア/ヴェストファーレン条約(羅: Pax Westphalica、独: Westfälischer Friede、英: Peace of Westphalia、1648年)にてオランダが独立を認められるもスペインやフランスや神聖ローマ帝国を見習って絶対王政化を志向するナッソー=オラニエ家と各都市を牛耳るブルジョワ貴族の対立が次第に激化。ベルギー革命(1830年)を経てベルギー王国が独立。1890年にはルクセンブルク大公国もオランダとの同君統治状態を解消して独立。
    *詳細な経緯は不明だが、産業革命期にはいつの間にかチーズやチョコレートの大量生産分野でスイスやイングランドやアメリカの手強い強豪国となっていた。また当時はむしろベルギー独立を主導したワロン人の時代で鉄鋼業を主導。鉄道敷設ラッシュも比較的早期から始まっている。

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  • イングランド(England)イングランド王家と血縁関係にあるノルマン貴族が継ぐべき所領のない次男坊以下や遍歴騎士達を引き連れて上陸してきたノルマン・コンクエスト(The Norman Conquest of England、1066年)後の滅茶苦茶な報償分配によって「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義」の成立が不可能に。さらに英仏百年戦争(1337年~1453年)によってフランスとの入り組んだ関係を清算し、薔薇戦争(1455年~1485年)によって中央集権化を阻む大貴族連合が自滅すると羊毛輸出国から毛織物種出国に変貌。テューダー朝(Tudor dynasty、イングランド王統1485年~1603年、アイルランド王統1541年~1603年)時代にはスペインによってアントウェルペン/アントワープが破壊されるまではそれでしのぎ、以降は復讐名目の私掠行為で荒稼ぎし、スペインとの和議が成立して私掠行為継続が不可能になると遂に打つ手がなくなり、宗教革命名目で接収した修道院領を含む王領の切り売りに走る。この間にジェントルマン階層が育成され、後を継いだステュアート朝(Stuart dynasty または Stewart dynasty、スコットランド王統1371年~1714年、イングランド王統1603年~1707年、グレートブリテン連合王国王統1707年~1714年)がスペインやフランスや神聖ローマ帝国を見習って絶対王政化を志向すると断固抵抗。清教徒革命(Puritan Revolution または Wars of the Three Kingdoms,1638年~1660年)や名誉革命(Glorious Revolution,1688年~1689年)を経てオランダとの同君連合形成に至る。
    *その後次第にオランダから主導権を奪い、産業革命の開始国となる。

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  • 北イタリア諸都市(Lombardia)東ローマ帝国ササン朝ペルシャイスラム教団と泥沼の戦いを繰り広げていた6世紀から7世紀にかけてイタリア半島東ローマ帝国領を掠め取ったランゴバルト族は、ローマ教会が招聘したフランク王国の軍勢に何度滅ぼされても復活。最後に放棄した11世紀においてはブルゴーニュ貴族(ブルグント族末裔)やノルマン貴族やアストゥリアス貴族(西ゴート王国末裔)まで味方につけていたがあえなく滅び、以降この地では(中世欧州の経済的中心地だったフランドルと縁深い)毛織物手工業が栄え、ロンバルティア商人が台頭。皇帝派(Guelfi)と教皇派(Ghibellini)の争いに際してもロンバルティア同盟を結成し、イタリア進出を目論む「バルバロッサ (Barbarossa、赤髭王)」ことホーレンシュタフェン朝神聖ローマ帝国フリードリヒ1世(在位1152年〜1190年)の遠征軍を「レニャーノの戦い(Battaglia di Legnan,1176年)」で大敗させている。
    *ただし大航海時代到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移すると地元手工業者の既得権益を守る為に外国商品に高関税をかける様になり、一部贅沢品を除いては国際的競争力を喪失して緩やかな衰退期に入った。

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  • ハンブルグ(Hanburg)…第三回十字軍(1189年〜1192年)を後援した功績によってホーエンシュタフェン朝神聖ローマ帝国フリードリヒ1世(在位1152年〜1190年)より自由交易都市の認可を受けたハンザ同盟(全盛期13世紀〜15世紀)における有力都市の一つ。近世にはアントウェルペン/アントワープ衰退後の神聖ローマ帝国の経済中心地に選ばれた事もありコスモポリタン的雰囲気を漂わせる国際港へと発展。オランダのアムステルダムに次ぐ規模のユダヤ人コミュニティが発達したりしたが、ハプスブルグ帝國が衰退期に入った1830年以降、ニューヨークへの直行便を利用して物凄い勢いでアメリカへと移民していった。
    大航海時代到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移すると、大西洋沿岸地域における人口急増を背景とする食料価格高騰によって一時期栄えたが(東欧の穀倉地帯から西欧への穀物積み出し港だったのである)、玉蜀黍や馬鈴薯といった新大陸から伝来した栽培作物が広まった事もあって食料価格が零落して以降、緩やかな衰退期に入る。

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    スイス連邦ラテン語:Confoederatio Helvetica、ドイツ語:Schweizerische Eidgenossenschaft、フランス語:Confédération Suisse、イタリア語:Confederazione Svizzera、ロマンシュ語:Confederaziun Svizra)…当初はホーエンシュタフェン朝神聖ローマ帝国皇統の本拠地たるシュヴァーヴェン地方の一部に過ぎなかったが、13世紀にザンクト・ゴットハルト峠が開通するとヨーロッパの南北を結ぶ交通の要衝を握る事になり、経済力をつけ始める。叙任権闘争(11世紀)の延長線上に展開した教皇派と皇帝派の抗争の末にホーエンシュタフェン朝が断絶に追い込まれた事によって生じた大空位時代(Interregnum、1250年/1254年/1256年〜1273年)を制したハプスブルグ家が継承権を主張して攻め込んできたが「モルガルテンの戦い(1315年、Battle of Morgarten)」や「ゼンパッハの戦い(1386年、Battle of Sempach)」で撃退。以降も武装中立状態を続け、ウェストファリア/ヴェストファーレン条約(羅: Pax Westphalica、独: Westfälischer Friede、英: Peace of Westphalia、1648年)で独立を認められる。
    産業革命期にはチーズやチョコレートの工場生産、時計産業などで活躍。

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  • ポルトガル(Portugal)商人…1248年にカスティーリャ王国がセビーリヤを征服するとジブラルタルから大西洋への出口が確保され、首都リスボンをはじめとするポルトガル諸港が北海と地中海を結ぶイベリア半島における安全な交易拠点に変貌を遂げた。その後「アフリカ十字軍」を展開して西回り航路を開拓。1501年から1521年にかけてアントウェルペン/アントワープオランダ語: Antwerpen、 フランス語: Anvers、 英語: Antwerp)にアジアの香辛料が運び込まれ未曾有の活況を呈した(ポルトガル宮廷の内装がマニュエル様式で飾られた期間に該当)。しかしジェノヴァ掠奪(Sacco di Genova,1522年)によってジェノヴァがハプスブルグ家に屈した事もあって徴税が滞る様になり、これにイタリア戦争(1494年〜1559年)泥沼化による国際商業麻痺が重なって衰退期に入り、ついにはスペインに併合されてしまう。八十年戦争(1568年〜1609年、1621年~1647年)の一部として戦われた蘭葡戦争(1602年〜1661年)においてそれまで共存共栄関係にあったオランダを敵に回し、漁夫の利を得る形でイングランドの躍進を許す。そしてメシュエン条約(英語:Methuen Treaty, ポルトガル語:Tratado de Methuen、1703年)以降は完全に英国経済圏に組み込まれ、17世紀末にポルトガル植民地のブラジルで発生したゴールド・ラッシュの利益もそのほとんどが英国に流れたとされる。
    *こうした悲惨な歴史にも関わらずフランス革命からナポレオン戦争にかけての時代をあくまで英国側として戦い抜いたし、フランスで産業革命が始った19世紀後半には(国内の宮廷銀行家達が出資を渋ってる隙を突いて)幾人もの産業投資家を送り込んでいる。

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  • 南ドイツ商人とラインラント工業君主フランドルに河口を持つライン川流域はフランク王国の時代から欧州文化の中心地の一つであり続けてきた。大航海時代到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移してイタリア商人が影響力を弱めるとオランダとドイツの交易を南ドイツ商人が仕切る様になった。*やがてドイツ関税同盟が成立し、プロイセン王国を代表に選び、1871年にはドイツ帝国成立。ライン川流域にも次々と「工業君主」が台頭し、たちまちここがドイツ帝国の工業的発展の中心地となった。

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これらの地域で構成される自由交易圏は国際金融業界を通じて裏側でつながっており、その盛衰に関わる情報そのものがしばしば戦略的(商業的)価値を為したせいか「悪」の世界に比べて今日に伝わるドラマが乏しい。なにしろ以下の様な基本情報さえ容易には見つからないときている。

  • ヴェネツィアが成長限界に到達した時、それまで蓄積されてきた富は何処へと再投資されたのか?
  • 大航海時代到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移した後、それまでイタリアと東西欧州を結ぶ峠道として栄えてきたスイスの富はどうなったのか? またライバルとして台頭してきた南ドイツ商人との関係はいかなるものだったのか?
  • ポルトガルやオランダはどうやってイングランドに覇権を奪われていったのか?
  • フランデル(オランダ、ベルギー、ルクセンベルグ)と南ドイツ商人とラインラント工業君主の関係は如何なるものだったのか?

そのせいかこれらの国々は「産業革命を体系的に導入するメソッド」を自らは考案しなかったのである。競合相手を増やすのを恐れた、という側面もあったかもしれない。

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例えば19世紀後半の欧州を席巻した象徴主義運動についても、英国で先駆的動きがあったにも関わらず理論化と体系化を手掛けたのはフランス人。この分野において英国人で最も知られたオスカーワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde、1854年〜1900年)だって「サロメ(1891年)」はフランス語で発表し、晩年は投獄されて悲壮な最後を遂げている。

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19世紀前半のフランスを席巻したサン=シモンの「産業者同盟構想」やオーギュスト・コントの「科学者独裁社会構想」や当時流行した様々なキリスト教社会主義思想。そして、これらをまとめてドイツに紹介した国家学者ローレンツ・フォン・シュタインの「今日のフランスにおける社会主義共産主義(Der Socialismus und Communismus des heutigen Frankreiches、1842年)」。英国の社会進化論学者ハーバート・スペンサー経由でアメリカに伝わった科学万能主義。これらを素材としてそれを成し遂げたのは、むしろ後発組となったフランスやドイツやアメリカなどであった。そして日本の近代化はそれらの「ええとこどり」を狙う形で始まる。マルクスが無許可で恣意的にパクりまくったローレンツ・フォン・シュタインこそが大日本帝国憲法制定の為に欧州留学した伊藤博文の師匠だったし、そのマルクスがロンドンの貧民街で寂しく客死した時、伊藤博文もまたバッキンガム宮殿を表敬訪問していた。こうして自由交易圏側諸国の歴史は交錯していくのである。

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一方、ウォーラーステインの世界システム論(World-System Theory)は15世紀末より確立していった欧州世界経済が今日に至るまで遂に世界帝国化することなく「史的システムとしての資本主義(Historical Capitalism)」をほしいままにしてきたとする。時期的にはレパント交易の独占権をオスマン帝国に奪われたヴェネツィアの欧州シフトが始まり、公益同盟戦争(1465年~1483年)で国内統一事業を完了したフランスと1492年にレコンキスタを完了したスペインがイタリア半島で衝突する様になり、アントウェルペン/アントワープポルトガルが西回り航路経由で運び込む胡椒や、スペインが新大陸から持ち込む金銀が到着する様になった時期に該当する。英国が羊毛輸出国から毛織物輸出国へと変貌を遂げたタイミングでもあった。

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なるほど、この時期に大西洋に乗り出したか否かで命運が定まった部分もあるのか…