諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

実際の歴史上における本当の悲劇

そもそも「世界史とは海の国と陸の国の対決の歴史であったとする世界観」とか「帝国主義そのものを悪とみなし、非武装中立の即時実践を正義と掲げる世界観」みたいな粗雑な歴史観は死角が多い。

例えば以下の様な歴史的悲劇を見逃してしまう。

Relish in Russia // Alphonse Mucha, The Abolition of Serfdom in Russia...

Alphonse Mucha, The Abolition of Serfdom in Russia (1914).

  1. そもそもの発端は16世紀以降、鉄砲や火砲を大量装備した君主の常備軍が戦場の主役となって遊牧民の戦場における優位も、欧州騎士の軍役も消し飛んでしまった事だったとも。
    *解放された領主達は概ね(生産に専念する)農場領主に変貌しつつ、常備軍将校や官僚や法律家や聖職者の供給階層となる道を選んだ

  2. その一方で大航海時代到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移すると、大西洋沿岸の人口急増が食費急増という一時的現象が広がった。
    *最近何かと17世紀初頭のジェノバの衰退」が話題となるが、要するにこうした当時のトレンドに諸般の事情があってジェノヴァだけが乗れなかったのである。また17世紀前半、神聖ローマ帝国の経済的中心として栄えたハンブルグもこの波に乗った。

  3. これに飛びついて農場領主化したヴェネツィア共和国神聖ローマ帝国内の領邦国家や東欧諸侯は、その後玉蜀黍や馬鈴薯隠元豆といった新大陸からの栽培作物上陸による食料価格安定に直面。損失を領民に皺寄せし続けた結果、非人道的な搾取システム再版農奴が完成してしまう。
    *生産量が増加すればするほど価格低下を招いた砂糖産業も同種の構造を有する。そして19世紀後半に入ると交通網と冷蔵技術の発達によって南北アメリカより輸入された安価な農畜産物が市場を席巻する様になって事態がさらに悪化。(借款返済の為の)飢餓輸出が頻繁に行われる様になってアメリカへの移民が急増。

  4. 時代はまさに「世界史上最大規模の奴隷貿易(16世紀から18世紀にかけての約3世紀だけで大西洋を渡ったアフリカ原住民数が1,500万人以上)」と悪名高き大西洋三角貿易の最盛期。まさに身分制社会の矛盾が頂点に達した時期に該当する。

  5. 欧州中枢では原則としてフランス二月/三月革命(1848年)までにこの体制が解除されたが、オーストリアハンガリー二重帝国やオスマン帝国ロシア帝国は出遅れ、ロシア革命(1917年)や第一次世界大戦敗戦を受けての解体を余儀なくされ、その後も混乱が続く事に。
    *現在なお紛争が続いてる地域の多くがこれか(本国が中世のまま近代を迎えた)スペイン帝国の元植民地。またアイルランドの「ジャガイモ飢饉(英語: Potato Famine、アイルランド語:An Gorta Mór/An Drochshaol、1845年~1849年)も類似した構造を有する。

  6. 第二次世界大戦下におけるナチス・ドイツや大日本帝国の行動原理の裏側に「(領主が領民と領土を全人格的に代表する)農本主義的伝統」への回帰心理と再版農奴制の奇妙な融合を見て取る向きもある。
    *どちらの国も戦後、それ自体を責めるというより「政治家と財界人が国家運営を投げ出してしまうと、その後何が起こるか判らない」という反省の仕方をしている。当時のドイツでの流行語で説明するなら、まさしく下部構造が上部構造を決定したのだった。

ウォーラーステインの世界システム論はこれを「東欧経済が西欧経済に従属させられた」と表現するが、モノカルチャー化によって東欧経済が状況適応能力を著しく引き下げた事について、自らも食糧事情改善に取り組んで状況を悪化させた西欧側はどれだけ意識していた事か。

ここで興味深いのが「本当に労働者の消費者化に成功した国」だけでなく「ただ単に農本主義的伝統を放棄しただけの国」も首都の都市人口が急増するという辺り。

この話、現在最も他人事でないのが北朝鮮中国共産党あたりかと。

農場領主制(独: Gutsherrschaft=グーツヘルシャフト)=再版農奴制

地主貴族である領主が自由農民を農奴化し、その賦役労働によって輸出用穀物の生産を直接おこなう経営形態ないしは領主制度のことである。

16世紀以降、エルベ川以東のプロイセンなどで発達した。ここでは、同じ時期に農奴が解放されていった西ヨーロッパとは対照的な動きを示し、中世における農奴制とは区別して再版農奴制あるいは農奴制の強化と呼ぶ場合がある。
プロイセン王国では、ナポレオン戦争中の19世紀初頭にハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインとカール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクの自由主義改革によって法的には廃棄されたが、ロシア帝国ではアレクサンドル2世による1861年の農奴解放令を待たなければならなかった。

ユンカー(独: Junker)

エルベ川以東の東部ドイツの地主貴族を指す言葉。もともとは「若い貴族」という意味だったが、やがて貴族の性格、特に貴族の傲岸不遜な態度を批判的に表す言葉として使われることが多くなった。1840年以降頃からエルベ川以東の地主の特色を指す言葉となっていく。

エルベ川以東に領地を持つ中世の騎士たちが直接に農地経営に乗り出すようになったことに始まる。彼らは領地内に直営農地「騎士領」を所有して自身もそこで暮らすというグーツヘルシャフト(Gutsherrschaft)と呼ばれる領地経営を行うようになった。また農民に賦役を課し、さらに領主裁判権・警察権を行使することで農民を強力に支配した。*領主が地代取得者にすぎず、直接に農地経営しないグルントヘルシャフト(Grundherrschaft)と呼ばれる領地経営を行い領主裁判権も持たなかった西部ドイツの貴族とは対照的な存在であり、農地が豊かな東部ドイツ特有の貴族であった。

◎12世紀から13世紀にかけてエルベ川以東へのドイツ農民の東方植民が盛んになった。その農業は当初西部ドイツのグルントヘルシャフトと変わらぬ方法で運営され、農民には大きな自由があり、土地移動や職業変更も認められていた。農民は自己の土地に世襲の所有権を持ち、みずからの社会の内部から村長を出してその裁判権に服していた。
*農民に課せられた義務は領主に地代、君主であるブランデンブルク辺境伯に税金と年に数日程度の賦役を提供することだけであった。

領主は辺境伯の御料地である場合を除けば辺境伯に領地を与えられた下級貴族の騎士であることが多かった。騎士は領地を頂戴する代わりに辺境伯に戦時奉仕義務を負っていた。
*彼らがユンカーの先祖となる。

◎14世紀から15世紀には相次ぐ戦争で君主が財政難に陥り、それによって力を落とした君主に代わって貴族が台頭した。ブランデンブルクでも領主が裁判権や賦役権を獲得し、領主たちが農民を直接支配するようになった。賦役も領主個人の私的目的のために濫用されることが多くなった。ペストの大流行で農民の数が減少し、領主も収入を得るのが難しくなり、農民が都市に出ないよう土地に縛りつけることも多くなった。
*こうして15世紀からエルベ川以東では貴族権力の強化と農民の地位の低下が見られるようになり、16世紀以降にはその傾向が一気に加速した。

◎16世紀には海洋国オランダとイングランドを中心に都市が栄え、都市で穀物の需要が増加した。その供給地たる東ヨーロッパにとっては利益をあげるチャンスだった。
プロイセン貴族たちもこの波に乗るべく自ら農業経営に乗り出していったのである。

◎また軍事の有り様が、騎士の戦時奉仕から傭兵から成る常備軍へと移行したことで貴族たちが騎士としての役割から解放されて農業経営に専念できるようになったこともそれを後押ししていた。

*こうしてエルベ川以東に領地を持つ貴族たちは近代的な農業経営者たる「ユンカー」に変貌していった。彼らの直営農業地をグーツヘルシャフトと呼ぶ。

中央の国王が絶対的権力を握る17世紀の絶対王政の時代にもユンカーはグーツヘルシャフトにおける権力を維持した。ユンカーは都市に頼らずに外国の商人と自由に取引するようになり、ますます大規模農業生産を行うようになっていた。
*かくしてユンカーのグーツヘルシャフト体制は完成をみる。

◎ユンカーは三十年戦争(1618年〜1648年)で荒廃した土地や農民の土地を次々と併合して直営地を増やしていった。農民支配も一層強化され、農民の農地所有権はわずかな自由農民をのぞけばユンカーの意思で簡単に取り上げられてしまうようになった。また農民はユンカーの許可なく結婚や移住、職業変更を許されず、農民への賦役もどんどん増やされ、週2日から5日の労働を課せられるのが一般的になった。また農民は子供を3年程度ユンカーに奉公人として提供することを義務付けられるようになった。さらにユンカーは国とは別に領主裁判権や領主警察権を有しており、農民たちにとってはユンカーが第一審であった。またユンカーは領内の教会に対して保護・後見権を有していたが、当時の教会は学校を掌握していたのでユンカーが教育を通じて農民を精神的にも支配した。ユンカーは領内に国王など上からの権力が介入してくることを極力避けようとしたため、農民にとってユンカーは唯一の支配者となっていった。

*まさしく「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」そのもの。

◎ユンカーたちは郡(クライス)という単位でまとまっていた。郡にはユンカーのみで構成される郡議会が存在し、郡議会から選出されたユンカーが国王から任命されて郡長を務めた。郡長は国王とユンカーたちの利害の調整者であった。
*一度は失った「国王権威の後ろ盾」をこういう形で回復。

18世紀以降にはプロイセン王国の貴族階級の中心になり、プロイセンの将校と官僚を独占するようになった。

絶対王政下の18世紀、プロイセンではユンカーが軍の将校・行政府の官僚を占めるようになった(特に将校)。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の政策の結果であったが、ユンカーにとっても次男三男坊の就職先として便利であった。1806年時点でプロイセン将校の数は7000人から8000人だが、そのうち平民は700人未満であり、他はユンカーをはじめとする貴族出身者だった。

*軍隊は王権の支柱であり、これによりプロイセン国王とユンカーの間には後述する領地介入をめぐる対立関係だけでなく、一体化も進んでいった。

◎こうして18世紀の間もグーツヘルシャフトの基本体制は維持され続けたが、国王にとって農民は租税を支払い、兵役を提供する者たちであったから18世紀になると王権はグーツヘルシャフトの農民に経済的・社会的地位の改善を図ろうとした。ユンカーたちが猛反対したため挫折したが、それでも1749年の農民追放禁止令(ユンカーが農民の農地を没収した場合にはユンカーの直営地にするのではなく別の農民をそこに置かねばならないという内容)は農民保護に効果をあげ、ユンカーによる農民追放に一定の歯止めがかけられた。

*またプロイセンの軍事国家化によって農民の子供が次々と兵隊にとられたが、彼らは農村に帰っても身分的には兵士であり、軍事裁判権に属したため、ユンカーの領主裁判権は制限されざるを得なかった。

19世紀初頭、プロイセンナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍に敗北し、エルベ川以西の領土を喪失した。早急に近代化して生まれ変わる必要性に迫られ、それで改革が始まったが、その目玉の一つが農民解放であり、これによりグーツヘルシャフトのあり方も大きく変わった。

*これを契機として賦役労働(無賃金労働・農奴労働)に立脚するグーツヘルシャフトは、賃金を支払う資本主義的な「ユンカー経営」に転換されていく事になる。

◎この改革で農奴達に土地売買の自由、職業選択の自由、土地の分割と統合の自由、隷農制の廃止、農民の土地所有権の保護、また賦役の償却(領主に対して農地の一部や償却金などの補償を差し出すことで賦役を無くすことができる)などが認められた。この時の農地改革で土地売買が自由化されたことで、富裕な市民や農民が貴族から騎士領を買い取るケースも増えた。買い取った彼らがユンカーとなる場合もあった
*しかしこれはユンカーの力を低下させる物ではなく、ユンカーにとっても償却によって直営農地を更に拡大できたので悪い話ではなかった。またユンカーの領主裁判権や領主警察権はそのまま温存された。郡議会にユンカーだけでなく農民代表も出席できるようにするという改革も計画されたが、これはユンカーの猛反対によって挫折している。

ユンカーは直営農地(騎士領)を更に拡大しつつ、隷農の賦役による農業経営から、賃金が支払われる農業労働者を用いた農業経営へと転換させていき、農業の資本主義化・合理化を図っていった。その一方で土地売買自由化によって裕福な市民や農民がユンカーから騎士領を買い取るケースも増えた。

1850年の時点で1万2339の騎士領のうち貴族(ユンカー)所有は57%程度になっていた。

19世紀後半頃から経済的に苦しくなるユンカーが増え保守化を強めた。

1848年革命の際にユンカーの領主裁判権が廃止され、ついでドイツ統一後の1872年に領主警察権が廃止された。ユンカーはドイツ統一には消極的だったが、統一の中心人物だったプロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクはユンカーの出身だった。
*それもあってドイツ帝国樹立後、ユンカーは軍や中央官庁で一層影響力を拡大させる。

◎19世紀末頃から穀物価格の下落と急速な工業化に伴ってユンカーは経済的に苦しくなったが、その事が彼らを一層保守的にした。
*1900年代にドイツ帝国が行った農業調査によれば、その頃までにユンカー農場の小作人は出稼ぎポーランド人に完全に入れ替わっていたという。解放された農奴達はおそらく都心部に移住して工員などになった。

20世紀前期の共和政時代(ヴァイマル共和政ナチス政権期)にも抜本的な農地改革や軍の機構改革は行われなかったため、ユンカーは影響力を残した。軍の中枢部も独占し続けた。しかし第二次世界大戦後にドイツ東部がソ連赤軍に占領されたことで徹底的な農地改革が行われ、ユンカーも完全に解体されるに至った。

 中世欧州ユダヤ人のポーランド移住

 中世後期は欧州ユダヤ人社会にとって悪夢そのものだった。
*司教庇護下で高利貸しを営む事が多い為。

東ローマ帝国セルジューク朝に致命的敗北を喫してアナトリア半島を失陥したマラズギルトの戦い/マンツィケルトの戦い(1071年)と同時期、マグリブチュニジア以西のアフリカ北岸)とアンダルス(イスラム勢力の手中に落ちたイベリア半島南部)では所領内のキリスト教徒やユダヤ人にイスラム教への改宗を迫るムラービト朝(1040年〜1147年)yあムワッヒド朝(1130年〜1269年)が強盛を誇っていた。
*これを嫌って現地ユダヤ人がカスティーリャ王国の奪還したトレドや、バルセロナや、プロヴァンス流入。セフィルディム系ユダヤ人とアシュケナージユダヤ人の混合がカバラー(ユダヤ神秘主義)を生み出す展開に。

◎一方、第一回十字軍(1096年〜1099年)が盛り上がったのは、当時すでに始まっていた欧州への貨幣経済浸透への反感という側面もあったからで、その為ユダヤ人虐殺も伴う事に。
*ドイツが特に酷かった。

◎フランスとスコットランドとの戦争に明け暮れたイングランド国王エドワード1世(在位1272年〜1307年)は、1275年にユダヤ人に対する借金を棒引きにし、以降ユダヤ人が金貸し業に携わる事も禁止する旨を宣言。さらにユダヤ人社会の指導者達を投獄し多額の身代金を要求し,1290年にそれが支払われると全ユダヤ人を国外に追放した。
ウェールズ侵攻(1277年〜1283年)もこの時期。

◎フランスでも国家運営資金とイングランドとフランドル伯に対する戦争の費用捻出に悩むフイリップ4世(在位1285年〜1314年)が1306年にエドワード1世の政策を真似てユダヤ人の財産を没収して追放。次の王の治世には帰国を認められたが1320年には「羊飼いの十字軍」と称する民衆運動の襲撃対象となり、翌年には5000人が「井戸に毒を投げ込んだ復讐」と称して生き埋めにされてしまった。こうした一連の弾圧の結果1322年までにフランス全土からユダヤ人の姿がほとんど見られなくなり,1394年にはほぼ完全に追放されてしまう。
*ちなみに追放されたユダヤ人の多くは、当時まだフランス領ではなかったプロヴァンスに逃げ込んだと考えられている

◎1348年から1349年にかけてヨーロッパは人口の三分の一が死亡する史上最大規模の黒死病に襲われ、ユダヤ人の死亡率が低かったことなどから「ユダヤ人が井戸に毒をまいた」というデマがヨーロッパ中に急速に広まり、ヨーロッパ、特に神聖ローマ帝国(ドイツ)においてユダヤ人虐殺の嵐が吹き荒れた。
*これによりフランクフルトのユダヤ人社会などが一旦壊滅の憂き目をみる。

◎当時、中欧のユダヤ人達はポーランド(および当時ポーランドと連合していたリトアニア)を目指し続けてきた。現地の王侯貴族が広大な領土を経営する専門家や遠距離貿易の出来る商人を求めていたからである。
ポーランド貴族達は彼らは何千もの集落の存在する領地を所有しておきながら、自らその土地を経営するどころか、そこに住む事すら拒絶していた。

◎職人、農民、商人、地税や関税の取立人としてこの国に移住したユダヤ人の中には、領主とも現地住民とも最小限の関わりしか持たず、それまでの生活を続けようという志向が強かった。
*そのせいでボグダン・フメルニッキー(1594年〜1657年)主導下ポーランドに反旗を翻したウクライナ小作人やクリミアのタタール人が1648年から1655年にかけて虐殺と残虐行為の限りを尽くした際には、ポーランド貴族やカソリック司教と一緒にユダヤ人も見つけ次第血祭りに挙げられている。

西欧への退避者も含め、一時期は大幅に減ったユダヤ人の人口だったが17世紀までにほぼ復旧。ただし以前の様な活気は戻らず、次第にこの地では狂信的なまでのメシア信仰が広まる。
*そしてこのメシア信仰が1880年以降の米国への移民ブームによって 米国へと持ち込まれる事になる。

 その後のドイツとポーランドの命運を分けた最大の違い。それは「領土経営を現地に丸投げしたか否か」であった。最近の日本、全然笑える状況じゃない…
人に仕事をふるからといって責任からまで逃れられるとおもうなよ

http://pds.exblog.jp/pds/1/201208/30/65/b0232065_18385794.gif

 しかし上には上がある。アフリカ後進地帯には「(領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統)」すら存在せず、従って開発独裁すら実践出来ず途方に暮れているというのである。