諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ロマネスク聖堂に描かれた怪物達に担わされた象徴的役割

「モンスター/monster(ラテン語単数monstrum、複数monstra)」.の語源は「monere(警告する)=予兆し、指示すもの」…神の啓示である以上、必ずしも否定的なものばかりでない。デモンストレーションの語源も「指し示す(demonstrare)」。かくして神の「創造」の多様性を示す怪物や「聖なるものの顕現(ヒエロファニー)」としての「驚異的なものや人間の分類」など、ネガティブな価値をもたない怪物が登場する。

まとめるとこんな感じ。

  1. 前兆として生まれるものには人間の身体と様々な動物の身体が組み合わさったようなものや、人間から生まれた蛇などがあるが、彼らは警告としての用を果たすとすぐに死んでしまう。

  2. 身体のサイズが度を超えて通常より多きものや、反対にピュグマイオイのようにきわめて小さいもの。

  3. 身体の部分の欠落、あるいは過剰。

  4. ミノタウロスのように身体の一部が別の動物であるもの、あるいは全身が別の種に変化しているもの。

  5. 身体の部分が通常と異なる場所にあるもの。

  6. 生まれた時から歯や髭や白髪を持つもの。

  7. アンドロギュヌスはヘルマフロディト(両性具有)のように異なる性を同時に有するもの。

そもそもこれってカソリックなの?

あるいはヘレニズム文化?
*そもそもローマ固有の建築様式は、紀元前1世紀前半頃よりヘレニズム期のエトルリア美術を基盤に生み出されたともいわれている。

 こうした思考様式が発展し、18世紀啓蒙主義影響下に奇形学を成立させる(ロココ芸絵画完成者と同盟で縁戚関係にあった(グロい方の)フラゴナール辺りが蒐集者として著名)。絶対王政下における国王は、当然あらゆる瑞兆に通じていなければならなかったという次第。

そもそも王や英雄自体が怪物の一種とも?

ところで聖イシドールスやラバヌス・マウルスとはどんな人物だったのか?

セビリャの聖イシドールス(西: San Isidoro de Sevilla、羅: Isidorus Hispalensis、560年頃〜636年)

30年以上セビリャ大司教を務めた中世初期の神学者で、後期ラテン教父の中でも最も重要な神学者の一人であり、 中世ヒスパニアで書かれた後世の歴史書は全てこのイシドールスの歴史を範とした。農業の守護聖人マドリード守護聖人である聖イシドロとは別人。

おそらく、ラテン語母語とする最後の話者の一人。とはいえその著作に共通して見られる簡潔で明快なラテン語は古典的というより西ゴート族の言葉の影響を受けた俗ラテン語であり、これは過渡期の著述家の大部分に見られる特有の欠点なのだが、西ゴート族ヒスパニア社会に与えた影響の大きさを彷彿とさせる。

アラビア人が古代ギリシャ哲学の叡智に触れるはるか以前にアリストテレスを同国人に紹介した「語源("Etymologiae")」はカトリックの同胞の為にラテン語で編纂された20巻448章にわたる中世最初の百科事典(一般的な知識を体系的に編纂した百科辞典的かつ総合的な最初のキリスト教著述)であり、古代から彼の時代に至るまでの聖俗両面にわたる多種多様な学問体系を集約。この著作のおかげで多くの古典時代の著作の記述が断片的に散逸を免れた一方、皮肉にもこの著作が原著作よりも重んじられた結果散逸してしまった現著作も多い。中世の収集図書の中で最も人気があった概説書でルネサンス時代まで継続した人気を保ち、1470年から1530年の間に10版を重ねるほど印刷され続け、12世紀にイスラームを経由して再輸入されるまで西ヨーロッパ人にとってアリストテレスやその他の古代ギリシャの著述の貴重な情報を提供し続けたが、それはあくまで限られた一部に過ぎなかったのである。また中世の説話集に好んで引用された。

彼が生きたのは、古典文化が没落し、支配者の暴力と無学が横行していた時代であった。思想家としては二流で、その本領は知識の収集とその簡潔で明快な紹介にあるが、それゆえにこそ「無知の暗闇に沈みかけた」古代末期から中世初期の時代において、思想史上重要な位置を占めた、カトリック教会では、1999年にインターネットの守護聖人候補として提案され、2003年に正式に「インターネット利用者およびプログラマー」の守護聖人と認定されたが、イタリアでのインターネットを利用した世論調査では、6位にさえ入っていない

カルタヘナで生まれセビリャへ移住した4人兄弟の末子で、セウェリアヌスを父に持つ。長兄レアンデル(Leander、549年以前 - 599年あるいは601年)と協力して、西ゴート王のアリウス派信仰からのカトリック改宗に関与。兄の死後もカトリック布教の努力を継続し、トレドとセビリャで開かれた宗教会議で主導的な役割を演じた。西ゴート王をカトリックに改宗させた功績により家族は全員列聖されている。

レアンデルとイシドールスの兄弟は、その政治的手腕によって今日の歴史家から見ても意義のある変化をもたらしたともいえる。なぜなら、この教会会議で発議された西ゴート王国の法令は代議制政治の発達にとっても重要な契機となっているからである。

長兄レアンデル (Leander、549年以前 - 599年あるいは601年)は、イシドールスの前任のセビリャ大司教を務めた。青年時代のイシドールスは彼のもとで学んだと考えられており西ゴート王レオヴィギルドのカトリック弾圧に立ち向かった。

次兄フルゲンティウス (Fulgentius) はレカレド1世王がカトリックに改宗すると、エシハの司教を任された。

姉フロレンティナ (Florentina) は修道女で、40以上の修道院と1,000人以上の修道士を統括した。

イシドールスの一家は、彼が幼い頃にセビリャへ移住し、彼は初等教育をセビリャの聖堂学校で修めた。ヒスパニアにおけるカトリックの教育機関としては最初のものであったと思われるこの学校で、イシドールスは七自由学芸を当時最も博識な学者に教授された。イシドールスは勉学に励み、驚くほど短い間にラテン語ギリシャ語・ヘブライ語を習得した。彼が修道士になったことはおそらくないと考えられるが、修道士向けの十分な教育を受けており、いずれの修道会にも属していないにも関わらず、高い尊敬を集め、司教に叙任されて後は修道院を手厚く保護した。619年には修道院運動に反対した聖職者たちを厳しく批判した。

兄のレアンデルが死ぬと、イシドールスは後任としてセビリャ大司教についた。セビリャ大司教としての長い在任期間中、彼は崩壊と混乱を食い止めることに費やした。ほぼ2世紀にわたってゴート族の支配を受けてきたヒスパニアでは古代ローマ帝国の制度と古典古代の学問が急速に失われつあり、ゴート族の野蛮な支配が文明社会を逆行させる恐れがあった。霊的な統一と同様に、世俗的な幸福もそれぞれ異質な文化の完全な融合によりもたらされると考えたイシドールスは宗教と教育のあらゆる資産を利用し様々な集団で構成されるこの地域の文化的統一を図った。その結果、西ゴート族の間に深く根を張っていたアリウス派信仰は完全に根絶され、宗教的な規律がヒスパニアのいたるところで強化されたのである。

618年あるいは619年の11月13日にシセブト王統治下のセビリャで教会会議(第2回セビリャ教会会議)が開かれ、この会議にはヒスパニアの司教だけでなく、ガリアとナルボンヌの司教も出席した。この会議の決定によって、アリウス派は決定的に排除された。

633年12月5日に開始された第4回トレド教会会議には、ヒスパニアのすべての司教が出席していた。 この会議は数年にわたって続くが、その間イシドールスは審議を主宰し、大部分の決定は彼の主唱によるものであった。この教会会議はイシドールスの精確で忍耐強い精神と影響力によって、実現したといってよい。さらに、この教会会議で王が占めた位置は注目に値する。教会は完全に独立で自由であるとされ、一方で王への忠誠によって縛られると定められたが、ここには教会の管轄について、ローマ教皇へのいかなる言及もないのである。

またイシドールスの発意によって、セビリャの聖堂学校に倣う形で、ヒスパニア内のすべての大聖堂に神学校設立を命じる法令が出された。イシドールスはゴート族の野蛮な習慣の広まりを、教育によって食い止めようとしたのである。彼の熱意によって、セビリャでは学芸が盛んになり、この時代の啓蒙運動の中心となった。七自由学科のほかにギリシャ語とヘブライ語の学科も設けられ、法学と医学についても関心が寄せられるようになった。すべての司教はこの教会会議で定められた教育の方針を義務づけられた。

イシドールスは最後の偉大なラテン教父であり、古代のキリスト教哲学の掉尾を飾っている。イシドールスは疑う余地無く、この時代で最も教養ある人物であり、中世の教育活動に計り知れない影響を広範囲にわたって及ぼした。イシドールスと同時代人であり、友人であったサラゴサの司教ブラウリオは、イシドールスを、ヒスパニアの高度な古代文明に氾濫した蛮族の野蛮の津波からイベリアの人々を守るために、神によって遣わされた人物であると考えて、653年の第8回トレド教会会議で「驚異の学者、カトリック教会が誇る当代の栄光、最近の時代における最大の教養人であり、常に賞賛とともに呼ばれるイシドールス」と述べた。この賛辞は688年に開かれた第15回トレド教会会議で正式に承認された。

1598年カトリック教会によって聖者として列聖され、1722年には教会博士と宣言された。

ダンテの『神曲』は、教会の神学者や学者の中で、サン・ヴィクトルのリカルドゥスとベーダと並んで、イシドールスに言及する。

SF作家フィリップ・K・ディックの『戦争が終わり、世界の終わりが始まった』に登場する主人公、博識なアマチュア学者ジャック・イシドールはこの聖人にちなんでいる。

カトリック教会では、1999年にインターネットの守護聖人候補として提案され、2003年に正式に「インターネット利用者およびプログラマー」の守護聖人と認定された。理由は「情報の断片を集めた彼の網羅的な著作が、今日でいうデータベースに通じる」から、ただしイタリアでのインターネットを利用した世論調査では、6位にさえ入っていない。

イシドールス集録と偽イシドールス教令集

中世において絶大な影響力を持っていたイシドールスは、ヒスパニアの教会会議における業績とも相俟って『ヒスパナ教令集』 ("Collectio hispana") の編纂者と誤って考えられた。そのため『ヒスパナ教令集』を『イシドールス集録』 ("Collectio Isidoriana") とも呼ぶ。その原型は、589年の第3回トレド教会会議もしくは633年の第4回トレド教会会議の際にガリアやヒスパニアにおける議決を『ディオニシアーナ教令集』 ("Collectio Dionysiana") に増補する形で成立したものであり、その後も9世紀まで増訂が続けられ、さらに多くの教会会議の議決や教皇令を採録した。

一方、もう一つのイシドールスに仮託された教令集の方は、『偽イシドールス教令集』 ("Canonum collectio pseudo-Isidoriana") と呼ばれる。こちらは9世紀ごろに成立したもので、採録されている教令のほとんどは偽作されたものであった。中でも有名なのは『コンスタンティヌスの寄進状』と呼ばれる偽文書で、これは中世において正式なカノン法令集に採録され、教皇首位権の根拠として利用された。

コンスタンティヌスの寄進状(Constitutum Donatio Constantini)

ローマ教皇ステファヌス2世(在位752年 - 757年)ないしその側近によって8世紀中ごろに偽造された文書(偽書)。かつてはローマ皇帝コンスタンティヌス1世教皇領を寄進した証拠の文書とされ、教権の重要な根拠の一つであった。『偽イシドールス教令集』に掲載されていた。

8世紀当時、東ローマ帝国からの独立性を主張するために造られたと考えられている。800年のフランク王国カール大帝への戴冠もこの偽書を根拠として行われた。中世におけるローマ教皇神聖ローマ皇帝との叙任権闘争の際にも根拠とされ、また東方教会との対立問題ではカトリック教会の独立性を主張するために引用された。11世紀以後も、教皇の世俗権と皇帝に対する優位性(「世界はローマ教皇に帰属する」という主張)の根拠として使用された。

15世紀にイタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラが古いラテン語文献に使われている用法とは異なる点があることに気付き、『コンスタンティヌス寄進状の偽作論』を発表した。その後幾度もの論争を経て、18世紀に偽作であることが確定した。

ラバヌス・マウルス・マグネンティウス(Rabanus Maurus Magnentius または Hrabanus, Rhabanus780年頃~856年)

フランク人ベネディクト会士、ドイツ(フランク王国)のマインツ大司教神学者。百科全書的作品『事物の本性』(:De rerum naturis)の著者である。文法学教授や聖書講解といったテーマでも論考を書いている。カロリング朝期の最も傑出した教師・著述家の一人で「ゲルマニアの教師」(Praeceptor Germaniae)と呼ばれた。ローマ暦(Martyrologium Romanum, 2001, pp. 126f.)において聖人として24日に祝われているが、オンライン版カトリック百科事典では福者として名前が挙げられている。

マインツで貴族の家に生まれる。誕生日は不明だが、801年には教育を受けたフルダの地で助祭に叙階されている。翌年、所属していた修道院の院長ラトガリウスの後押しによってハイモン(後のハルバーシュタット司教)とともに修学のためトゥールへ行った。そこで(アインハルト同様)アルクィンを師として学んだが、アルクィンは彼の勤勉さ・純真さを見て取ると彼にマウルスの綽名を与えた。これはヌルシアのベネディクトゥスの愛弟子マウルスに因んだものである。

アルクィン(Alcuin、735年?〜804年)イングランドブリテン島のヨーク出身の修道士、神学者。長年ヨークにある学校の教師として勤めたのち、カール大帝フランク王国の教会制度と教育制度の相談役を務めた。769年からはトゥール司教、聖マルティヌス(サン・マルタン)修道院院長となる。カロリング朝ルネサンスを代表する人物

アインハルト(Einhard、770年頃〜840年)カロリング朝フランク王国の廷臣、教職者、建築家、歴史家。エギンハルドゥス、エジナールとも。カール大帝伝』の著者で、カロリングルネサンスの主だった文筆家の一人。生年不詳で770年ごろのドイツマイン地方の貴族階級の生まれと推察されている。フルダ修道院でラテン語古典をおさめたのちアルクインに師事し、彼の後をついで宮廷学校の教壇に立った。カール大帝の厚い信頼を得て政策の相談を受け、806年にはローマ教皇への使節も務める。建築家としても優れ、アインハルトのバシリカ聖堂、先代のミヒェルシュタット市教会などの建築を行う。後継者であるルートヴィヒ敬虔王にも信頼され、ロタール王子(ロタール1世)の個人教授を務めるが、830年に政紛を避けて職を辞しゼーリゲンシュタットに隠居した。840年に隠遁の地ゼーリゲンシュタットの修道院で没した。

2年後フルダに戻ると、修道院学校の校長の職務を任される。彼の下でフルダ修道院学校はヨーロッパでも有数の学問と写本作成の中心地となり、ワラフリド・ストラボ、フェリエールのセルヴァントゥス・ルプス、ヴァイセンブルクのオトフリドを輩出した。おそらくこの時期に中世に教科書としてよく使われたプリスキアヌスの文法書からの抜粋集を作成。

814年になると司祭に叙階されたが、ラトガリウスとの意見の相違のためその後すぐに彼はしばらくの間フルダから出ていかなければいかなくなった。

*彼の『「ヨシュア記」註解』で暗に示されているために、このことがパレスチナ巡礼の契機となったのだと長い間理解されてきた。問題の一節はオリゲネスの説教第14『「ヨシュア記」の中で』(:In Librum Jesu Nave)から採られたものである。つまり、パレスチナにいたのはオリゲネスであってラバヌス・マウルスではない。


817
年に新しいフルダ修道院長(アイギリス)が選出されるとともにフルダに舞い戻り、アイギリスが死亡すると自身が院長となった。彼はこの職務を842年まで勤勉に上手く勤め上げたが、学問と信仰のための大きな余暇をとるために職を辞して近隣の聖ペテルブルク修道院に引退した。

847年にオトガリウスの跡を継いでマインツ大司教に就任し、再び公的生活に拘束されることとなった。856年にライン川沿いの町ヴィンケルで死去。

ラバヌス・マウルスの著作は、その多くが公刊されていないが、聖書講解(『創世記』、『士師記』、『ルツ記』、『列王記』、『歴代誌』、『ユディト記』、『エステル記』、『雅歌』、『箴言』、『知恵の書』、『シラ書』、『エレミヤ書』、『哀歌』、『エゼキエル書』、『マカバイ記』、『マタイによる福音書』、『ヘブライ人への手紙』を含む『パウロ書簡』)と、教義的あるいは実践的な主題を扱った論考から成り、説教集も含まれる。

◎『聖職者の教育』(:De institutione clericorum)において彼は聖職を正常に遂行するのに必要な訓練に関してヒッポのアウグスティヌスと大グレゴリウスを目立たせた。

◎詞華集『聖十字架の礼賛』(:De laudibus sanctae crucis)は言葉とイメージ、そして数によって十字架を表し、最後の詩ではラバヌス・マウルス自身が十字架の前に跪いた非常に洗練された詩集である。

◎『宇宙について二十二巻本、あるいは語源に関する著作集』(:De universo libri xxii., sive etymologiarum opus)あるいは『事物の本性』はある種の辞書あるいは百科全書で、セビリャのイシドルスの『語源誌』に強く依拠しており、聖書の予型論的、歴史的あるいは神秘的解釈をするのに向けられている。

◎『聖職について』(:De sacris ordinibus)、『教会の規律について』(:De disciplina ecclesiastica)、『殉教史』(:Martyrologium)といった著作は皆、著者の学識を示しており(彼はギリシア語ヘブライ語にもある程度知識があった)ペンテコステや叙階式の際に歌われた聖霊に対する讃美歌『来たり給え、創造主なる聖霊よ』が含まれている(『来たり給え、創造主なる聖霊よ』は数百年後にグスタフ・マーラーに『交響曲8番』で使われた)

◎ドイツの文献学の史料の中でも『ラテン語-チュートン語辞典』(:Glossaria Latino-Theodisca)には特別な関心がもたれる。注釈書『ポルピュリオスを超えて』(:Super Porphyrium)はヴィクトル・クザンによって1836年に『Ouvrages inédits d'Abélard』の一環として公刊され、彼とオロによってHrabantis Maurusの著書とされたが、今日では一般にラバヌス・マウルスの弟子の著書とされる。

◎初めてラバヌス・マウルスの(名目上の)全集が公刊されたのはColvener (Cologne, 6 vols. fol., 1627)によるものである。全集(:Opera omnia)はジャック・パウル・ミーニュの『ラテン教父著作集』(:Patrologia Latina)107-112巻に収録されている。『宇宙について』は『Compendium der Naturwissenschaften an der Schule zu Fulda im IX. Jahrhundert(Berlin, 1880)の主題となっている。

2006年に、彼の死後1150年がドイツで、特にマインツとフルダで祝われた。祝祭のハイライトの一つとしてCodex Vaticanus Reginensis latinus 124、つまり非常に珍しいことにヴァティカンからマインツに貸与された『聖十字架の礼賛』の壮麗な写本が展示された。この祭典ではラバヌス・マウルスの著作の三巻にもわたる研究が公開された。

【参考】ゲルマニア改宗事業に着手した聖ボニファティウス(ドイツ語Bonifatius、ラテン語ボニファチウスまたはボニファキウス (Bonifacius) 、フランス語・英語ボニファスまたはボニフェイス(Boniface)、672年頃〜754年)

8世紀にフランク王国キリスト教を広めた宣教師・殉教者マインツ大司教(在位:745年〜754年)。カトリック教会、正教会ルーテル教会聖公会で崇敬される聖人であり、「ドイツ人の使徒」 (ドイツ語: Apostel der Deutschen) とも呼ばれるドイツの守護聖人

672年頃、ウェセックス王国クレディントン(現イングランド・デヴォン)にて、ウィンフリート (Winfrid または Wynfrith) として裕福で地位のある一家に生まれる。まだ若い時に、父の希望に反して修道士の道を選んだ。エクセター近くの Adescancastre 及びサウサンプトン西端のナースリング (Nursling) のベネディクト会修道院にてウィンバート (Winbert) 修道院長より神学を学ぶ。修道院付きの学校で教壇に立ち、30歳で神父となる。イングランドで最初のラテン語文法書を著した。

716年、フリースラントへ伝道に赴く。現地の言語(古フリジア語)が彼自身の母語であるアングロサクソン語と近いところから、現地語による説教を通してフリースラントの人々を改宗させることが目的であった。しかし、カール・マルテルとフリースラント王ラートボートとの間の戦争によりままならず、ナースリングへ戻った。
*フリース人はバルト海を中心に活躍した交易部族。今日のオランダ人のうち金髪碧眼の長身タイプの祖先とも。

羊毛をめぐる冒険 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

718年、ローマを訪れ、719年に教皇グレゴリウス2世より「善をなす人」を意味するボニファティウスの名を与えられ、ゲルマニアへの伝道と教会整備の任を与えられた。その後5年間、ボニファティウスはヘッセン、テューリンゲンおよびフリースラントにて任務にあたり、722年11月30日、ゲルマニア地域の司教に昇任。

723年、ガイスマー村(Geismar、現ヘッセン州北部のフリッツラー)にあったトールへ捧げられた聖なるオークを切り倒した。この際、預言者エリヤを念頭におき、もしこの木が「聖なる」ものであるならば自らに雷を落とせとトールに呼びかけたという。ボニファティウスの同時代人で、その最初の伝記記者となった聖ウィリボールドによれば、ボニファティウスがオークの古木を切り始めると、まるで奇跡のように突然大風が起こり、オークをなぎ倒したという。トールの雷がボニファティウスに落ちなかったのを見て、人々はキリスト教へと改宗した。ボニファティウスはこの地にこの木から礼拝堂を建て、現在ではここにフリッツラー司教座聖堂が建つ。この後、ボニファティウスはリーメスの北、エーダー川を見下ろす小高い丘に位置するフランク王国の要塞基地ビュラブルクにゲルマニアで最初の司教区を設けた。トールのオークの伐採は、ゲルマニアローマ帝国時代の国境の北部および西部におけるキリスト教化の始まりと一般にみなされている。

布教活動に当たってはフランク王国の宮宰、すなわち後のカロリング朝の支配者達の助力が不可欠であった。実際、723年よりカール・マルテルの庇護下にあり、宮廷内の教育にも関わっていた。サクソン(ザクセン)人と対立し、その領土の奪取による王国拡大を目指すカロリング朝の王達にとって、ボニファティウスによるザクセンの土着信仰の聖地破壊やキリスト教布教は好都合だったのである。

732年にローマへ報告に赴き、グレゴリウス2世よりゲルマニアを管轄する大司教の証としてパリウムを受けた。737年から738年の3度目のローマ訪問ではゲルマニアへの教皇特使に任命されている。この3度目のローマ訪問の後、カール・マルテルバイエルンザルツブルクレーゲンスブルク、フライジンク、パッサウの4つの司教座を設けてボニファティウスに寄進し、ライン川東の全ゲルマニア大司教としてボニファティウスを認めた。745年には首都大司教の司教庁としてマインツを与えている。これに先立つ742年にはフリッツラーの近くに弟子の一人である聖シュトゥルムがフルダ修道院を建設したが、この建設にあたり、カール・マルテルの息子カールマンが認可に署名した。

ボニファティウス自身が旧友のウィンチェスターのダニエルに、カール・マルテルの庇護がなければ「教会の運営も、聖職者たちの保護も、偶像崇拝の禁止も」できないだろうと語っている。更にフランク王国内の教会会議を組織し、難しい局面もあったが、ピピン3世との関係を維持した。751年のソワソンでのピピン3世の戴冠式ではボニファティウスが戴冠を行った可能性がある。

カロリング朝の保護を布教に利用する一方で、ボニファティウスは教皇バイエルンの支配者(アギロルフィング家)との関係を利用してカロリング朝からの独立維持を図った。ヴュルツブルクエアフルトに司教座を設け、司教としての任命権を保持することで、カロリング朝から一定の距離を保ったのである。

フリースラントへの伝道の希望は捨て切れず、754年にわずかな従者を連れてフリースラントへと向かう。多くの洗礼を行い、フラネカーとフローニンゲンの中間、ドックムにほど近い場所で集団堅信式を開催した。しかし、その場に信者は現れず、武装した現地人の集団がボニファティウスを刺殺した。フリースラントの法(レックス・フリジオヌム)によれば、フリースラント人には彼らの神殿を破壊したボニファティウスを殺す権利があった。ボニファティウスの伝記によれば、フリース人はボニファティウスの荷の中に金や財宝があると思って殺害したが、荷を開けてみると中は本だけであったという。ボニファティウスの遺骸はしばらくユトレヒトにあったが、やがてフルダの修道院に埋葬され、現在ではフルダ司教座聖堂の祭壇下の地下聖堂に墓所が置かれている。

エルベ川までのゲルマニアの改宗は、カール大帝がサクソン(ザクセン)を打ち破ったザクセン併合(ドイツ語Sachsenkriege、英語Saxon Wars、772年〜804年)によって完成する事となった。

預言者エリアは庶民のタンムーズ/ドゥムジ信仰を止めなかった。すると聖ボニファキウスは「トールのオーク」を切り倒すべきじゃなかったんだろうか? 考えれば考えるほど分からなくなってくる。

ochimusha01.hatenablog.com

それにしてもゴート戦争(伊: Guerra gotica、羅: Bellum Gothicum、535年〜554年)によってイタリア半島を回復した東ローマ帝国が目にしたのは、わずか500人程度が暮らすのみの規模まで零落したローマの姿だったという。6世紀末のローマ教皇グレゴリウス1世(在位590年〜604年)も「いま元老院はどこにあるのか、市民はどこにいるのか」と嘆いている。欧州の歴史区分では、ある意味この「西ローマ帝国の死亡確認」が古代の終焉である。そして、その考え方に従うなら(偶像崇拝を巡る意見の相違によって)東方正教会とローマ教会が分裂した8世紀以降が中世となる。肝心なのは常に狭間に漂う割り切れない何か。「おそらくラテン語母語とする最後の話者の一人」聖イシドールスは、まさにそうした時代に活躍した人物の一人だったという次第。

 

上からの自由主義は、どうして庶民に受容されたのか? 案外こういう観点からのアプローチが有効なのかも。

ボードレール坂口安吾の様に既存の価値体系の危機に直面した人物はこう口にする。「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」と。それはまさに「自由のあるところには秩序はない」とする立場と「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」とする立場の究極の意味での中庸?