諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「北伊、中伊とは何であったのか?」

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私の投稿、概ねイタリア史関連については塩野七生ルネサンスとは何であったのか(2001年)」と論拠が重なるのだけれど、この本のAmazonコメント欄に酷評が多くて笑った。「オランダやヴェネツァの繁栄についても、もっとしっかり書くべきだった」と指摘する人は明らかに読む本を間違ってる。ヴェネツィアに関心があるなら同じ塩野七生の「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年(1980年~1981年)」かマクニールの「ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ 1081-1797(1974年)」でも読めばいいのに。オランダ黄金期を世界史のパースペクティブで俯瞰的に眺める上では、意外とレイモンド・P・シェインドリン「ユダヤ人の歴史(A short history of Jewish People、2000年)」辺りが役に立つ。例えばフランス革命勃発の遠因の一つと目されている「ナッソー=オラニエ家とブルジョワ貴族層の果てしなき闘争」なんて話題はスッポリ抜け落ちてるけど「経済的繁栄の中心地の推移に合わせて移住を重ねる金融民族の足跡」は、それ自体が世界史といって差し支えない。

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 この辺りの本を読むと、自然に「(商売を少しでも有利に進めるべく)盛衰を巡る情報そのものが商品価値を備えるヴェネツィアフランドルイングランド、アメリカなどを結んできた国際交易圏の史を語る難しさを思い知る。それくらい文章中でその話が繰り返される。

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そうした観点を仕入れると、この本の思わぬ記述が目に飛び込んでくる様に。例えば(中部イタリアに彗星の如く現れたフランチェスコ修道会の創始者)アッシジのフランチェスコ(伊:Francesco d'Assisi、ラテン語:Franciscus Assisiensis、1182年~1226年)と(「権力は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」と言い放ったスイスの文学史家ブルクハルトでさえ「王座上の最初の近代人」と絶賛した)シチリア王フェデリーコ1世(Federico I、在位1197年~1250年)/ホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ帝国フリードリヒ2世(Friedrich II.、 在位1220年~1250年)をルネサンスの先駆者としつつ、皇帝派(Guelfi)と教皇派(Ghibellini)の争いについて言及している辺り。

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塩野七生ルネサンスとは何であったのか(2001年)」第1部:フィレンツェで考える。

「18世紀の啓蒙 君主を先取りした観さえあるフリードリッヒ二世であったのに、なぜ、同時代では他のどこよりも活気のあっ た北部と中部のイタリアの小都市群からは、激しくしかも執拗に反抗 されたのですか」

「啓蒙君主とは改革というはっきりした目標をもっている人のことですから、自分は何をやりたい かを明確に知っているリーダーという ことでもあり ます。やりたいことを実現するには、万人が その必要性を自覚し納得するのを待ってい たのでは実現できない。実現には強権の行使は避けがたく、それゆえに専制的なリーダーになるのは、啓蒙君主の宿命でもあるのです」

(略)ただしここで、 フリードリッヒは致命的な誤りを犯す。南伊では経済活動までも統制下に置くこと で経済の振興に成功していた彼は、北伊でも中伊でも、それを実施しようとしたのです。しかし、 ミラノを中心にする北伊とフィレンツェを中心にする中伊では、経済人は国家の助力なしの自力による活動が実績をあげており、それゆえに自信をもっていた。彼らが、皇帝の統制経済策に反撥 したのも当然です。古代のローマ人ならば、このような場合はそれらの都市を自由都市に認定し、 内政にかぎったとしても都市国家内の自治を許したでしょう。広大な領国の統治は、中央集権だけでは不可能であり、成ったとしても生命は短い。中央集権と地方分権の巧妙な併立が成ってこそ、 広大な領域でも機能できる。古代のローマ人のこの智恵に、フリードリッヒは気づかなかったのか。 それとも、この智恵を発揮できた時代のローマ人ならば無縁でいられた、一大宗教勢力である ローマ法王庁 を、自分は敵にしなければならないという想いが、他の分野では柔軟だっ た彼でさえも硬化させたのか。

(略)

イタリアで起ったグェルフィ(法王側)とギベリン(皇帝側)の抗争は、ヨーロッパの他の国でも あった、聖職者の叙任権をめぐる法王と国王の抗争とは同じではなく、イタリアのみの歴史現象です。法王側にはついたもののイタリアの商人たちは、「法王は太陽で皇帝は月」などとは信じては いなかったからです。むしろ、 思想的には、法王よりもフリードリッヒに近かった。なぜなら彼ら こそ が、俗界への宗教の介入を否とした聖フランチェスコの興した新宗派の、信徒たちの中核を 成していた人々であったからです。つまり北・中伊の経済人たちは、フリードリッヒの思想の核で あっ た政教分離に反撥したのではない。フリードリッヒが強行しようとした、国家による規制に 反撥したのです。反対に法王側とは、経済上の利害ならば一致していた。 ローマの法王庁には、 十分の一税という名の宗教税に加えて、各地に散在する広大な領地からの収入や信徒からの寄進などで莫大な額のカネが集まるように なっていました。だがそれを、目的は信徒のために使うという ことにあったにせよ運用する能力は、聖職者の集団で ある法王庁にはない。その運用を請け負っ ていたのが、フィレンツェやミラノの金融業者であり、贅沢好みの高位聖職者階級の必要とするものを購入していたのも、北・中伊の商人たちであったのです。あくまで現実的な利害の衝突からはじまった争いにすぎません。

 それからルネサンス期教会の腐敗に関連して「清貧」と「奢侈」について述べてる辺り。

塩野七生ルネサンスとは何であったのか(2001年)」第2部:ローマで考える。

「美しく飾り立てた教会は祈りの場にはふさわしくないとする非難は、一般庶民の感情に無神経でありすぎる。教会は、生れたときの洗礼の場であり結婚式の場であり葬式の場であるだけでなく、愛する娘の後を追って教会の中に入った若者が、祈りを捧げる娘の背に、後部座席から熱 視線を向ける場でもあるのです。そこを美しく飾り立てて、どこが悪いのでしょう」

「教会を美しく飾っただけではなく、高位になればなるほど聖職者は豪勢な生活を愉しんでいた というのだから、これは聖職者階級の堕落ではないですか」

「まあ、贅沢が賞められた例はないから、良いことではないのは確かでしょう。しかし、庶民とはなぜか、自分たちには手のとどかない贅沢を好む。憧れるとしてもよい。王室や映画やミュージックの世界のスターたちがスターでありえるのは、この人々とは反対の極にいるはずの庶民の支持が あるからです。

しかも、法王や枢機卿たちの華麗な僧衣の一方には、黒や茶や白の粗末な僧服や修道衣の一群がいる。この両輪で成っているところが、キリスト教会の組織としての強みです。 つまり、華麗と清貧 の双方ともを満足させることこそ、その双方を求める人間の本性を熟知していたということ」

だが、ただ単に王侯貴族や聖職者の奢侈に縋るだけでは、10万人都市以上に成長する事は出来なかった?

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