諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

イスラム過激派の原風景

最近国際社会を脅かしてるイスラム過激派テロの背後には以下の歴史的悲劇が透けて見える。

  • イスラム発祥の地なのにペルシャ系諸族やテュルク系諸族に繁栄を乗っ取られたアラビア半島内陸部族の怨念…最近石油利権の一端にありついて復活を遂げたが、実はそれを本当に押さえたのだって、原則として(コーランでも金権主義の俗物の象徴として滅茶苦茶弾劾されてる)アラビア半島南岸が本拠地のハドラマウト商人だ。西はイベリア半島、東はアジアのマラッカ辺りまで進出した壮大なる交易民族で、英国の歴史家アーノルド・J・トインビーが認めた中世イスラム史学の大家イブン・ハルドゥーンだって、アラビア半島内陸部族との政略結婚に石油原産地をことごとく押さえ、テキサスの石油富豪とも近しい関係にあるビン・ラディン家だってこの系譜。まぁ「強引な政略結婚」はウサマ・ビン・ラディンの様なアラビア半島内陸部族に同情的な放蕩息子も産み出した訳だけど。イラン革命(1979年)に「スンニ派も今こそ蜂起すべき」という形で触発されたあたりも、いかにもペルシャ系諸族やテュルク系諸族に対抗意識を燃やすアラビア半島の内陸部族っぽい。
  • 大貿易時代到来によってサハラ交易が駄目になって以降迷走が続くマグリブチュニジア以西のアフリカ北岸)や西アフリカ諸国…サハラ交易とは岩塩と砂金の交換によって9世紀から16世紀にかけて栄えた交易網。ハドラマウト人らイスラム商人によって開拓され、南はジンバブエ辺りまで通じていた。これを破壊したのが14世紀における黒死病流行で人口の1/4を失ったポルトガル騎士修道会が仕掛けたアフリカ十字軍で、大国成立に必要な経済的基盤を失った西アフリカは小国が割拠して延々と内戦を続ける状態に陥り、鉄砲と火薬の対価に戦争奴隷を引き渡すのが最大の収入源となってしまう。
  • ジェノヴァ人冒険者に先導され(ヴェネツィア共和国レパント交易独占に煮湯を飲まされてきた)イタリア商人の融資を受ける形で西回り航路開拓に成功したポルトガルはさらに東進して戦国時代日本に到達して同種の商売に手を染める。カリブ海奴隷制砂糖農場と組み合わせる事によってこのビジネスをさらに発展ささせたのがイングランドの所謂「大西洋三角貿易」だった。
  • だが、本当の悲劇は19世紀に入って人道主義が台頭し、奴隷貿易が完全廃止されて以降に訪れた。それまでの収入源を失い武器購入の望みも断たれた西アフリカ諸国が次々と欧米列強に植民地として併合されていったのである。

  • 20世紀後半には独立を回復したが、それだけで問題が解決するほど状況は甘くない。プランティン(食用バナナ)を主食に選んでカカオ栽培に邁進したガーナの様な優等生も存在しない訳ではないが、この地にはアメリカの黒歴史リベリア共和国や、かつての奴隷狩り当事者と被害者が共存するナイジェリアなどが割拠する。どうしてボコ・ハラム(Boko Haram)の様なイスラム過激派集団が登場したのか理解するには、こうした歴史的知識が必要となってくるのである。

割と日本の報道ではスッポリ抜け落ちてる観点? この話、案外東ローマ帝国時代まで遡る。実際、ISISが国際テロの犯行声明などで引用するハディースの中に東ローマ帝国打倒を叫ぶ檄文が数多く含まれるのだから、彼らにとっては全然昔話ではなかったりする次第。

我々はどちらに向けて漂流しているのやら…