諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「ビジネス慣習」が二分する世界?

司馬遼太郎アメリカ素描(昭和60,1985年)」で語られた歴史観

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ビジネスとは素朴に言い直すと「家業」や「仕事」の事で、辞書を引くと商業、商取引、売買といった古代から存在する経済的定義がズラリと並んでいる。だけど今更誰が「貧しい羊飼いが、たまたま牝羊が仔を生んだので、知り合いの農民に小麦と交換で引き取って貰った」といった牧歌的風景をわざわざそう呼ぶだろうか。やはり今日的意味合いでのビジネスは一味違ってしまっているのである。

その今日的意味合いにおけるビジネスでは(軍隊なら戦闘に勝つ為、商社なら金儲けの為といった具合に)まず単純かつ強烈な目的意識が必要となる。そしてその実現の為に人々が機械の様に組織を編成されなければならない。以降は、その組織自体が目的達成の為に自らを機械化し、交換部品化し、参加者に部分としての義務を倫理付け、しばしば限定的判断権利まで付与する様になる。時代が変われば時宜に応じた最適策も刻々と変貌していくから、それへの対応も怠れない。

 ここで司馬遼太郎は日本でその芽が伸びたのは17世紀から18世紀にかけてとする。江戸期の町人社会では既に現金を見る事なく為替で商業が動き、現物を見ずに信用で取引が動き、見張り台経由で遠隔地間を飛び交う種々多様な情報が様々な商品の市価を決定づけていた。どの国の社会も歴史的積み重ねの産物なのであり、日本の場合もこの経験がなければ明治期以降の近代化が難しくなった事だろうと推測する。

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  1. 同じ島国ながらイングランドは古くから羊毛輸出国としてフランドルや北イタリアの手工業者を支え、ベネツィアレパント交易にまで大きな影響を与えてきた。そしてやがて自らが羊毛加工側へと転じていく。
    *ビジネス慣習定着との関係は不明だが、思うより英国はこうした下積み期間が長い。

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  2. これと対照的なのが15世紀末までにレコンキスタを達成し、16世紀に「黄金世紀」と呼ばれる繁栄時代を築き上げながらた英国にアルマダの海戦で敗れるスペインである。「冒険者達の庇護国」として名を馳せ植民地維持を支え得るだけの大海軍と大陸軍を擁していたものの、元来レコンキスタを主目的として編成された農本主義的ビジネス集団(すなわち「政経分離」とは無縁の領主連合)であり、宗教戦争の枠内でしかまともに動かないという制約を抱えていた。その遠征事業も粗雑で個人的な冒険精神に依存し、組織として動くのを苦手とし、実質スペイン国王から私的に征服事業を請け負った冒険家達が世界中を帆走して植民地を獲得し、熊手で引き寄せる様に現地の財宝や特産物を掠奪して本国に持ち帰り続けただけに過ぎなかった。

    *まぁ「なまじそれまでは下請けに丸投げするだけで全て済んでいたので本社にノウハウが一切蓄積されておらず、窮地に陥ったらそれまでだった」という話は日本でもよくある。スペイン史で輝いていたのはトレドを翻訳拠点に多文化主義が栄えていた時代のカスティーリャ王国(ペドロ残酷王/正義王が大貴族連合との政争に敗れて終焉)、カタルーニャナポリを拠点に地中海方面に進出した時代のアラゴン王国カスティーリャ王国との合邦後、政争で敗れ終焉)、フランドルで生まれ育ったハプスブルグ家出身の王家が主導した時代(オランダ独立と末裔の土着化で終焉)くらいで大半の地域はそれと無関係に中世的分権状態に留まり、ナポレオン軍侵攻を発端とする半島戦争(英: Peninsular War(半島戦争)、西: Guerra de la Independencia Española(スペイン独立戦争)、葡: Guerra Peninsular(半島戦争)、仏: Guerre d'Espagne(スペイン戦争)、カタルーニャ語: Guerra del Francès(フランス戦争)、1808年〜1814年)の時代を迎える事になる。

  3. ところでスペインの雇う船乗りには少なからぬ比率でジェノヴァ冒険商人が含まれ、新大陸を「発見」したコロンブスからしてそうであった。ポルトガルがアフリカを回ってインドに到達する西回り航路を開拓する際も大いに活躍している。この宗教や党争に熱しやすく、戦いの帰趨は個々の勇によって決まると信じ、一攫千金を夢見る請負制を好むという点でスペイン人やポルトガル人と同質のラテン気質の連中は十字軍を中東に運び、彼らが国家を打ち立てると癒着してレパント貿易の最初の独占者となった。しかしここでも最終勝利を収めたのは個人的功績を競い合うあまり内紛で自滅しやすい彼らの弱点を逆手に取ったヴェネツィア共和国ジェノヴァ人もまた、ここでいう「ビジネス」の意味が最期まで理解出来なかった人々と考えてよい。
    *水野和夫 「資本主義の終焉と歴史の危機」はスペインの没落に巻き込まれ歴史上から消え去る直前のジェノヴァと今の日本の類似点を指摘して警鐘を鳴らす。

  4. スペインの無敵艦隊アルマダ)が軍艦こそ小粒ながら各部署が勇敢かつ組織的に動き、全艦隊がまるで一つの有機体の様に機動する英国艦隊に敗れた1588年は日本で言うと豊臣秀吉政権末期に当たる。そしてこんな極東の地でもスペイン・ポルトガル商人は撤退を余儀なくされ、代わって徳川政権初期の慶長18年(1633年)には英国東インド会社職員のリチャード・コックスが平戸に商館を開いたが、彼は国王の寵臣ではなく給料をもらって働くただの株式会社の社員に過ぎなかった。やがて同じ株式会社の社員であるオランダ商人に敗退するが、これもまた純然たる商戦の結果に過ぎない。
    *ジャイルズ ミルトン「さむらいウィリアム―三浦按針の生きた時代」によれば、実際には本社に「日本人に毛織物は売れません。何か別の商品を
    ‼︎」という英国商館職員の必死の懇願に対して「道理のわからぬ野蛮人に我々の毛織物の素晴らしさを教えてやるのがお前達の仕事なのだ」的な叱責の返事が返ってきただけという悲惨な「敗退」だったらしいが、まぁそれはそれ。

     

  5. そして司馬遼太郎はナポレオン全盛期の1805年にネルソン提督率いる英国艦隊がフランスとスペインの連合艦隊を破った事、その際に被弾して殉死したネルソン提督が「私は義務を果たした」と銀行員の様な言葉を残した事を「反ラテン気質(あるいは「反請負気質」)」と褒めそやし、これがこれがアメリカや明治時代以降の日本へも伝わったとする。
    *一般にはプロイセン経由とされる。

これが現在「先進国」と「後進国」を絶対的に隔ててる一線?

ただ都市人口の増加状況に注目すると、また別の側面も見えてくる…

「スペインの繁栄」は、やがて「フランス絶対王政の繁栄」に継承さfれる。