4世紀~5世紀にかけて中央アジア近隣を極めて相似性の高い思考様式が席巻した。そこにある種の時代精神を見出す立場もあれば、3世紀ペルシャで発祥し西はイベリア半島、東は中国まで広がったマニ教(やはり4世紀から5世紀にかけてが最盛期)が媒介となって伝わったとする立場もある。
- 「マニ教」…所謂グノーシス信仰の一種だが、当時としての画期は、インドの仏教教団から仕入れた「修行僧の修行場を俗世に留まる平信徒からの人材供給と寄進で養うシステム」で自らを組織する事でグノーシス信仰全般が抱えていた「一切の肉体性を否定する立場ゆえに子孫が残せず、教統が続かない」問題を克服した点にあった。当時のアフリカで活躍したラテン教父の一人聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus、354年~430年)も一時期平信徒として入信しており、その経験を生かしてエジプトにおける「荒野で集団修行を遂行する伝統」とマニ教の組織を組み合わせ、後世の修道院/修道会システムの原型を創建したとされる。
*問題はこの時キリスト教に流入したのが本当に組織運営ノウハウだけだったのかという話。
- 「マニ教のええとこどり」…教組そのものが「伝教先のあらゆる信仰を併呑し続ければ、やがて世界最強の宗教として完成する」というブードゥー教的立場だったので教義の全体像は却って錯綜し今日にちゃんと伝わっていない。
*先例としては例えばフェニキア商人(紀元前12世紀から紀元前8世紀にかけてが全盛期)が地中海沿岸じゅうで宗礼フォーマットを整えた「バール(男神)/バーラト(女神)一対信仰」が挙げられる。
おそらくこの種の正体の曖昧な「ええとこどり」信仰が後世に伝わるのは(奴隷貿易の置き土産として西アフリカのベナン、カリブ海の島国ハイチ、アメリカ南部のニューオーリンズなどに広まった)ブードゥーやインドのヒンドゥーや日本の神道の様に地縁に根ざした特定民族のアイデンティティー形成手段として役立てられた場合だけで、その枠組みを超えて迂闊に世界宗教化を目指すと次第に輪郭を失い、単なる概念へと変貌していき、やがて自然消滅の憂き目を見るのである。
ヘレンニオス・ピローン断片集
ヒンドゥーの叙事詩マハーバーラタの一部として収められたバガヴァッド・ギーター(紀元前5世紀~紀元前2世紀成立)は、戦場において人間としての倫理と道徳上の苦悩に直面するクシャトリヤ(戦士)階層に「ダルマ(神聖なる義務)に没入して三昧の境地へと到達する事により無私状態を迎える」英雄主義を称揚する。ガンディーがSpiritual Dictionaryと呼んだこの聖典が説くのは、概ね以下の様な内容である。
- バラモン(僧侶)階層は「アートマン(意識の最深部に隠されたそれをそれたらしめている個の根源)」と「ブラフマン(宇宙の根源原理)」の境界を廃絶して梵我一如の境地に到達するには、合理主義に基づく知的思索を経るしかないとする。
- だが自ら運命を切り拓くバイタリティに溢れたクシャトリヤ(戦士)階層は、同じ事をダルマ(神聖なる義務)への熱狂的帰依と献身(放擲)によって成し遂げる。これを実現する為にはかかる行動主義の実践に躊躇が一切あってはならない。おそらくそれまでバラモン(僧侶)階層が仕切る伝統的農村共同体の寄せ集めがクシャトリヤ(戦士)階層の支配する王国へと再編されていく過程で生まれた理論武装なのであろう。日本の武家が密教に由来し「民の守護者としての憤怒相の仁王」を奉る不動明王信仰を好んだのと相似関係にある。
*その一方でまさしくスイスの文化史学者ブルグハルトの弟子だったニーチェの「アポロン的主知主義のデュオニュソス的主情主義による超克」概念そのもの。ニーチェはシェラフタ(当時は地図上から消失していた故国ポーランドの特権貴族)末裔という自らの出自への矜持とポーランド人を勇壮な遊牧民族サルマタイ人の末裔と考えるサルマティズム(ポーランド語Sarmatyzm/リトアニア語Sarmatisms/英語Sarmatism)への傾倒からそうした考え方に至ったとされるが、その一方で18世紀以降欧州にはインドのサンスクリット語とギリシャ語やラテン語の間に類似性が認められる事からインド・ヨーロッパ語族という概念が生まれ、ドイツ出身で英国に帰化した東洋学者(サンスクリット文献学者)マックス・ミュラー(Friedrich Max Müller, 1823年~1900年)が「インド・ヨーロッパ語族を話す民族のルーツは全てアーリア人(アーリアン)である」というアーリアン学説を提唱して広い支持を獲得。さらに音楽家ワーグナーが「ドイツ人を構成するゲルマン民族こそ最も優秀なアーリア人である」と主張し、これが最終的には熱心なワグネリアンだったヒトラーに政治利用される事に。こうして「アーリア人」は当時のドイツ国民にとって歴史的優越感をもたらす魔法の言葉へと変貌していったのである。
- まさしく後世における「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」なる肉体主義の先駆け?
- 両者を統合しようとする試みも現れた。1世紀~5世紀にかけて現在のアフガニスタンからパキスタンにかけての地域で栄えたクシャーナ朝の庇護下で最盛期を迎えたガンダーラで数多く製作された「左からバラモン階層を象徴する弥勒菩薩(ブラフマン、知恵の象徴たる水瓶を手にする)が、そして右からクシャトリア階層を象徴する観音菩薩(インドラ、慈悲の象徴たる蓮華を手にする)が法印を結んだ釈迦を護持する三身一体像(所謂「ガンダーラ三尊」。弥勒菩薩とブラフマン、観音菩薩とインドラが分離した五身一体像もある)」。クシャーナ朝の主要収入源は交易だったから、その軍事力は通商の維持と外敵撃退にのみ用いられるのが建前。仏教圏における内政者としては、その富貴なる立場からただひたすら臣民を慈愛し続け(在地有力者を束ねる)宗教的指導者と両輪を為して仏陀の理想を追求する存在と目される事を望んだのだとも考えられる。
*当然クシャーナ朝が支配する領土は仏教圏だけでなく、他の地域でもそれぞれ現地で優勢な信仰に極細かく合わせ理想の君主像を導出して広めていた。ただ時代が進むにつれインド文化の影響が色濃くなっていく。
宮治昭「弥勒菩薩と観音菩薩 -その成立と発展-(2013年)」 - その一方でインドで伝えられてきた様々な経典が3世紀頃に中央アジア(西域)で編纂された「大方広仏華厳経(梵: Mahā-vaipulya-buddha-avataṃsaka Sūtra, マハー・ヴァイプリヤ・ブッダ・アヴァタンサカ・スートラ)」すなわち「華厳経(梵: Avataṃsaka Sūtra, アヴァタンサカ・スートラ)」で至高の境地とされる「海印三昧」の世界はバラモンが梵我一如、クシャトリヤが放擲の境地に入って到達する真理の世界。
*この雄大なる宇宙空間概念を擬人化したのが日本では奈良の大仏などに鋳造された盧遮那仏となるが、それ自体は「(空海いう所の)答え合わせの不可能な完成予想図」に過ぎず人間が如何なる影響も与えられない存在なので、日本における仏教信仰の重心は次第に大日如来という「正しい方法でアプローチすれば届かないでもない」密教上の化身へと推移していく。 - ここに仏教やマニ教といった他宗教に寛容な姿勢で臨みつつ、バラモンを統治体制の重要な一部に組み込んだグプタ朝(Gupta Empire、320年~550年頃、首都パータリプトラ)の影響を見てとる向きもある。第2代サムドラグプタ(在位335年頃~376年頃)の時代以降インド南部にまで政治的影響を与える様になり、チャンドラグプタ2世(在位376年頃~415年頃)の時代以降インド北部統一に成功した。クシャーナ朝を見習って金貨を発行し、シルクロードの一環としてインド北部の内陸都市が栄える一方、西は東ローマ帝国やサーサーン朝、アクスム王国を相手としたインド洋における季節風貿易、東はベンガル湾を渡っての東南アジア交易で栄えたがそれだけではない。王家自体がヴィシュヌ神を特に信仰し「至高のヴィシュヌ信者」を称し、バラモンの言葉であるサンスクリット語を公用語とし、バラモン階層を低湿地や森林といった荒蕪地に次々と送り出して開拓を担当させた。農村にて租税免除などの特権を与えられ、先進技術や学問の伝達や秩序維持の役目を持たされたバラモン階層やその宗教設備は、エフタルの侵入などによって都市網が衰退してて以降、次第に確実に国内で実験を握っていく。
*ガンダーラ同様にマトゥラーで仏像が盛んに製作され、玄奘や義浄も学ぶことになるナーランダ僧院が設立された時代でもあったが、サンスクリット文学において最も偉大な詩人・劇作家と考えられているカーリダーサ(कालिदास、5世紀)が戯曲『シャクンタラー』や抒情詩『メーガドゥーダ』を著し、アマラシンハがサンスクリット語辞典「アマラコーシャ」を発表して「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」が今日の伝わる形に編纂され、バラモン法(現代的な意味合いでの法律規定は全体の4分の1で、残りは宇宙論や宗教論や道徳論が占める)の集大成たる「マヌ法典(मनुस्मृति、紀元前2世紀頃~紀元後2世紀頃に原型が成立)」が完成した時代でもあったのである。西方よりもたらされたギリシア天文学が完全にインド化されインド天文学 (Indian astronomy) やインド数学(Indian mathematics)を基礎付けた時代ともされる。まさにヒンドゥーが台頭し仏教の衰退が始まった時代でもあった。
【「剣と法の天秤」信仰・西洋編】ローマ教皇ゲラシウス1世の両剣論
第49代ローマ教皇ゲラシウス1世(Gelasius I、在位492年~496年)はカトリック教会で3人目のアフリカ(カビリア)出身の教皇であり、史上初の黒人教皇だったとする見方もあるが、証明はされていない。前任者のフェリクス3世に直接教皇文書の作成のために雇われた。所謂「両剣論(theory of two swords)」の最初の提唱者として知られる。
theory of two swords - Google 検索
- 「両剣論」とは494年に東ローマ皇帝アナスタシウス1世へ宛てた書簡の中で初めて示された考え方で、俗権と教権がともに神に由来するとし、聖界の普遍的支配者としての教皇と俗界の普遍的支配者としての皇帝を併置する。ただしその一方で教権が帝権の上位にあるとも論じており、俗権と教権を完全に並列的に扱っている訳でもない。その本来的な意図においては教権と帝権の相補的役割を期待したものだったが、彼は「政治的支配をする」王が権力(potestas) を持つのに対し、教皇は権威 (auctoritas) を持つとしながら「後者こそ完全な主権」という立場を崩さなかったのである。
*後に欧州教会全体を教皇を頂点に推戴する位階階層に再編しようと考えるローマ教皇グレゴリウス1世(Gregorius I、在位:590年~604年)に採用され、ローマ教会を支える重要イデオロギーに昇格。 - この時代には西ローマ帝国を滅ぼしてその旧領土に割拠する様になったゲルマン諸族はまだそれぞれ部族法を絶対視する有史時代以前の段階にあった。彼らを文明化するには宗教で絡め取るか剣で屈服させるかなく、欧州において前者を成し遂げた代表がアイルランド、スコットランド、イングランド北部に広がって後にローマ教会に併合されたケルト系キリスト教(Celtic Christianity) 、後者を代表するのがカール大帝(Karl der Große/Charlemagne、フランク国王768年~814年、西ローマ帝国皇帝800年~814年)とその息子ルートヴィヒ1世(Ludwig I、フランク国王/西ローマ皇帝814年~840年)という事になる。
グプタ朝時代インド北部で僻地開拓に動員されたバラモン達も現地で邂逅した原住民(及び彼らの推戴する土俗信仰の神々)を羅刹(Raksa)や夜叉(yaksa)と認識しながら積極的に併合していった。これもまた中世イスラムを代表するイブン・ハルドゥーンが指摘した「循環王朝史観(アサビーヤ論。強固な部族的紐帯を最大の武器とする僻地の蛮族が文明化によって軟弱化した都市住人を打倒して新たな支配階層となるが、自らも文明化によって軟弱化して倒されるのを待つだけの存在に変貌していくとする)」のバリエーションと言えるかもしれない。 - 一方「この世から不和が一掃されたら飯の種に困る」と豪語する様な粗野な蛮人思考に「バガヴァッド・ギーター」の原型を見てとる向きも。
やがて中央アジアにエフタル(英語:Hephthalite、パシュトー語:هپتالیان、インドのフーナ(Hūna)/シュヴェータ・フーナ (白いフン)、サーサーン朝のスペード・フヨーン(白いフン)/ヘテル(Hetel)/ヘプタル(Heptal)、東ローマ帝国のエフタリテス(Ephtalites)、アラブのハイタール(Haital)、アルメニアのヘプタル(Hephtal)/イダル(Idal)/テダル(Thedal)、中国史書の嚈噠(ようたつ、Yàndā)/囐噠(さったつ、Nièdā)/挹怛(ゆうたつ、Yìdá)/挹闐(ゆうてん、Yìtián)/白匈奴、5世紀~6世紀)が出現。彼らが内陸部の東西交易を独占する様になったのでクシャーン朝やグプタ朝の都市網は壊滅した。その結果として、内陸部でバラモン階層が支配下に置いた農村共同体に実権が移り、インド南岸のドゥラビタ系タミル人商人(その極めて土俗的な信仰形態を狙ってインド密教とヒンドゥー教学が奪い合いを演じる)やアラビア半島内陸部の隊商や南岸のハドラマウト商人が台頭してくる。後者は東ローマ帝国とササン朝ペルシャの戦争が泥沼化するとさらに代替交易拠点して栄え、経済発展がもたらす諸矛盾がイスラム教を発祥させるのである。
実際に当時を生きていた人々は、どれだけこうした「どこを切っても同じ顔が覗く金太郎飴的状況(あるいは何もかもが縁で一体化して不可分な状態にある「空の思想」の世界)」を俯瞰視出来ていたのだろうか。いずれにせよ真相が完全に明らかになる事はないだろう。散逸してしまった史料があまりにも多過ぎるし、そもそも何もかもが文章化されたり図象化されて後世に伝えられる時代ではなかった。暗黒時代(Dark Age)が暗黒時代(Dark Age)と呼ばれる所以がそこにある。
ただ、こうした流れ全体の背後に古代ギリシャ・ローマ文明とオリエント文明の混合を発端とするヘレニズム文化やコスモポリタン精神の広がりを見る向きも存在する。