諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「英国は歴史上一度も勝利してない‼︎(涙目)」史観

伝統的フランス中心史観は英国に対する敗北なんて一切認めない。

ドイツにユダヤ人として生まれ、フランスに亡命してカソリックとして死んだ詩人ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine, 1797年~1856年)がフランス人向けにフランス語でフランス語で執筆した「ドイツ古典哲学の本質 -ドイツの宗教と哲学との歴史のために- (Zur Geschichte der neueren schönen Literatur in Deutschland、1833年)」も「英国人は魂と身体がバラバラだから、何を試みても成功の見込みがない」と断言する。産業革命の導入が遅れ、気付くと英国はおろかドイツやアメリカや日本といった後進国からさえ牛蒡抜きされつつある現実を知識人がやっと直視する様になったのも、一般には普仏戦争(仏: Guerre franco-allemande de 1870、独: Deutsch-Französischer Krieg、1870年~1871)敗戦以降とされる。その一方で「パリ・コミューン(仏Commune de Paris、英Paris CommuneまたはFourth French Revolution、1871年)樹立によって我々は世界史上の覇者となった!!」とする立場も健在。ナポレオン戦争(フランス語Guerres napoléoniennes、英語Napoleonic Wars、ドイツ語Napoleonische Kriege、1803年~1815年)もフランスの精神的勝利に終わった事になっている。*敗因はあくまでイベリア半島やロシアで焦土戦術に巻き込まれたからに過ぎず、別に英国が勝った訳じゃない。ウィーン会議(ドイツ語: Wiener Kongress、英語: Congress of Vienna、1814年〜1815年)だって仕切ったのはあくまでオーストリア帝国宰相メッテルニヒ(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein、1773年〜1859年)だった。

ハインリヒ・ハイネ『ドイツ古典哲学の本質 』

確かに「理性が全てを統括すべきである」という強い信念の持ち主には、あらゆる存在に「ゆっくりと時代遅れになったアトラクションが更新されていくディズニーランドの様な存在たれ」と説く英国流保守主義が「魂と身体が常にバラバラの状態」としか映らないのかもしれない。

日本にもこうした歴史観の継承者が案外少なくない。

そもそも近代合理主義と君主制が両立する筈がないでしょう?

Q:常々疑問に思ってきたのですが、世界の範たる議会制度を生み出し、ノーベル賞受賞者を多数輩出し、きわめて理知的かつ合理的な思考を持っているイギリス人がなぜ、前近代の象徴ともいえる君主制をいまだに支持し続けるのでしょうか。近代合理主義と君主制はおよそ両立しうるものとは思えませんが……

笠原:イギリスは保守的な国です。「保守的」が意味することは、漸進的な改革をよしとする、ということです。この国では、名誉革命(1688年)を経て現在の立憲君主制の基礎が確立されますが、その要諦は、国家の「権威」と「権力」を分離することです。国王が、「権威」を代表し、首相(内閣)が時々の「権力」を担う。イギリスは、今年800年を迎えるマグナカルタ(大憲章)制定以来、王権を徐々に制限し、最終的に国王から「権力」を切り離したという歴史的経緯があります。まさに、漸進的な改革の帰結が現在の「君臨せずとも統治せず」という立憲君主制なのです。

また、歴史的な教訓から身につけた共和制への懐疑心も、関係しているようです。イギリスでは、清教徒革命(1649年)で国王チャールズ1世を処刑し、クロムウェル率いる共和制へ移行しましたが、その政府は独裁色を強め、共和制の実験はわずか11年で失敗しています。また、フランス革命がその後の独裁政治につながったことを「反面教師」にしてきたとも説明されます。

イギリス人にとっては、立憲君主制が合理的かどうかという前に、漸進的に改革を進める中で制度として機能してきたという自負がある。戦争に負けて、外国に統治制度を変えられることもなかった。現在の立憲君主制は、経験主義を重んじるイギリス人のバランス感覚が鍛え上げてきた制度と言えるのではないでしょうか

今でも貴族制を維持してる事で、自ら本当は野蛮な後進国である事を証明し続けてるんですが、どうして認めないんですか?

Q:英国王室の問題とも重なりますが、合理主義的なイギリス人が、生まれながらにして特権を得る貴族を認めているのはなぜでしょうか? 生まれながらにして階級が違う貴族を、なぜイギリス人は許容しているのでしょうか?

笠原:イギリスの貴族層の主流派は、フランスにいた北欧系のノルマン人がイギリスを征服したノルマン・コンクエスト(1066年)の際に、ギョーム公(ウィリアム1世)に仕え、武勲を挙げた人たちの末裔です。ただ、イギリスには貴族は存在しますが、階級制度は存在しません。国民に今も残るのは、長い歴史の中で植え付けられてきた「階級社会」という意識です。ブレア政権時代の上院(貴族院)改革で世襲貴族が自動的に議席を引き継いできた制度が廃止され、貴族らの制度的な特権はもう残っていません。この改革により、イギリスはようやく「市民平等」の社会になったと言えるのかもしれません。

それではなぜ、今日に至るまで、イギリス人が貴族を許容してきたのかという点です。まずは、イギリスではアンシャン・レジーム(旧体制)を完全に破壊するフランス革命のような市民革命が起きなかったことが大きいのではないでしょうか。イギリスの支配体制は、閉鎖的な貴族社会だけでなく、新興ブルジャワを「ジェントルマン層」として上流階級に吸収することで、ある種のガス抜きを図ってきた。限定的ながら「開かれた支配層」という柔軟なシステムを持ったことも、貴族制度の存続に貢献してきたようにみえます。

それと、イギリスの貴族は、特権には義務が伴うという「ノブレス・オブリージェ」の精神を体現し、社会に奉仕、貢献することで、国民から許容されてきた面もあります。第1次世界大戦で多くの貴族の若者らが最前線に立って自らの命を犠牲にしたというエピソードは、昔ながらの貴族精神を知る上で有効なのではないでしょうか。また、イギリスの庶民にとっては、貴族とは別世界の人々であり、貴族社会に無関心だったとも言われます。

成文憲法を持たないことや、古い制度が残っていることなど、概括して言えば、イギリス社会には「壊れていないなら、直す必要がない」という気風があるように思います。

やがて急増する移民達の忍耐が限度を超えて革命が勃発し、君主制を打倒するに決まってるでしょ?
*そういえば晩年をロンドンで過ごしたマルクスも「やがて労働者の忍耐が限度を超えて革命が勃発し、君主制を打倒するに決まってる」を口癖としていた。

Q:英国は移民社会といわれますが、こうした移民が英国王室の支持基盤になっていることにも驚きました。英国的な伝統とも無縁である移民がなぜ王室を支持するのか、これも不思議です。

笠原:分かりやすく言えば、こういうことです。今、イギリスでは、反移民を掲げる「英国独立党(UKIP)」という政党が勢力を伸ばしています。仮に、UKIPが政権に参加するような事態を想定すれば、移民社会にとっては悪夢でしょう。時々の総選挙で誕生する政権や政治家は、移民にとっては必ずしも信頼できない。しかし、女王は、その不安定な政治を超越して存在することで社会に安定感を与えている。これは、移民に限ったことではなく、イギリスの完全小選挙区制の下では、得票率30%超で単独政権が可能になります。これは、国民の6割以上が支持しなくても政権与党になれることを意味します。与党を支持しない国民から見た場合、国王という、政治権力を越える権威が存在することが、イギリスという国家にある種の安定感を与えている、という解説を聞いたこともあります。

移民社会、多民族国家のイギリスにおいて、イギリス人とは誰かを突き詰めていくと、「女王の下に集う人々」という緩やかなものです。移民を受け入れてきたイギリスは、国王を頂点とする「オープン・アイデンティティ」の国とも言えるでしょう。だから、移民には王室支持者が多いのです。

一方、ウィーンで産まれハンガリー王国首都ブタペストで育ったユダヤ人経済人類学者カール・ポランニーは「大転換-市場社会の形成と崩壊(The Great Transformation,1944年)」において所謂「囲い込み(enclosure、16世紀と18世紀の二回に渡って遂行された強制性を伴う農地所有権整理)」や「スピーナムランド制(1975年~1834年、大陸からの革命思想伝来を恐れる英国政府が遂行したBasic Income理念元祖)」を分析し「大陸史と異なり、英国史においては、革命家が試行錯誤の末に革新的新体制に到達してきたプロセスなど追うだけ無駄である。新時代到来に直面した守旧派の社会制御、すなわち”何時誰に何所まで負けてやるのが最も効率的か見定める計画性”こそがこの国を欧州最強の列強として台頭させた」と客観的に結論づけている。もっとも、この本は「貨幣市場経済の浸透、それは元来社会活動の一環としてそれに埋め込まれていた(embedded)経済活動を社会や政治の拘束下から解放したが、その結果として解き放たれたのは何もかも碾き潰し尽くしてしまう悪魔の石臼だった(英国は欧州においてこの方面で最も先んじていたからこそ、真っ先にこの問題に直面した)」というスタンスなので別に英国を礼賛している訳じゃない。

 それでは実際の英国史に目を向けてみよう。英国人自身は英国的立憲君主制の成立過程を概ねこんな調子で説明する。フランスと違い「古代ギリシャローマ時代からの共和主義の伝統」とか、口が裂けても言わない。

英国議会政治を基礎付けた「馬賊党」と「無頼盗賊党」

宗教革命の終焉、あるいは英国王チャールズ2世時代の王位継承問題(1678年~1681年)。

1660年に清教徒革命後の王政復古を受けて即位したスチワート朝のチャールズ2世(在位1660年~1685年)には嫡子がおらず、次のイングランド王にはチャールズの弟でカソリック教徒のヨーク公ジェームズが目されていた。しかしイングランド国教会を国教とするプロテスタントイングランドではカトリックの王を頂くことに対して強い抵抗感があり、その結果イングランド議会においてジェームズの即位を認めるグループと認めないグループの間で激しい論争を引き起こされた。

◎賛成派は反対派をスコットランド方言の「馬を乗り回す(Whig)」にちなむ蔑称「馬賊(Whiggamore)」で呼んだ。これが「ホイッグ党(Whig Party)」の呼称の由来となる。和訳すると「馬賊党」といった感じか。事実上の創設者はシャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーで地方治安判事と自治都市を支持基盤とし、議会重視と非国教徒への寛容を掲げた。

◎一方反対派は賛成派えお呼ぶ蔑称としてアイルランド語の「無頼盗賊団(Tory)」を採用。これが「トーリー党(Tory Party)」の起源となる。和訳すると「無頼盗賊党」といった感じか。その前身たる宮廷党はチャールズ2世の側近ダンビー伯トマス・オズボーンが作り上げた地主の既得権益を守る伝統主義者連合で、国王尊重と国教会堅持を掲げ非国教徒への寛容を認めなかった。

◎1678年のカトリック陰謀事件で反カトリックの風潮が漂うとジェームズはイングランドから出国。ダンビー伯もフランス王ルイ14世との密約が発覚してロンドン塔へと投獄され議会はホイッグ党優位となった。ホイッグ党はこれらを背景にチャールズ2世の庶子モンマス公ジェームズ・スコットの嫡子への格上げで次期国王にすることを目論み、ジェームズから王位継承権を剥奪する王位排除法案を議会で通過させようと試みたが、チャールズ2世とトーリー党の反対を受けて認められなかった。

◎1681年にチャールズ2世が議会を解散すると、ホイッグ党の地盤である地方の治安判事と自治都市を切り崩してトーリー派に交替させた為にホイッグ党は不利となり、シャフツベリ伯の亡命とライハウス陰謀事件による指導者層の排除でさらなる衰退を経験した。モンマス公も事件との関与を疑われイングランドから亡命(後に反乱を起こし処刑)。ジェームズの即位が認められ,1685年にチャールズ2世亡き後にイングランドジェームズ2世として王位につく。

◎なお、この時点ではホイッグもトーリーも綱領を採択して党として一致した政策の実現を目指す現在のような政党(Party)ではなく、あくまでもジェームズの即位問題にのみ特化された派閥に過ぎなかった。

 名誉革命(1688年)、権利章典(1689年)、そしてジャントー(1694年~1702年)の登場。

ところで元来イングランド国教会を護持する立場のトーリーがジェームズの様なカトリック王の搭乗を支援した背景には、ジェームズにもまた嫡子がおらず「カトリック王は1代限り」という暗黙のコンセンサスが存在した。だからこそカトリック保護政策も(既にイングランドでは時代遅れとなっていた)絶対王政への回帰願望も黙認されてきたのだが,1688年にジェームズ2世の王妃メアリーが王子ジェームズを生むと事態は一変。次のイングランド王もカトリック王となる恐怖に対抗すべくホイッグとトーリーが一致団結し、ジェームズ2世を排除する行動をとり始めた。

◎かくして名誉革命(1688年~1689年)が勃発し、オランダからジェームズ2世の娘メアリーと夫であるジェームズ2世の甥のオランダ総督ウィレム3世が招き寄せられてメアリー2世ウィリアム3世として即位する一方で、ジェームズ2世とその家族は抵抗を諦めてフランスへと亡命していった。所謂「ホイッグ史観」ではその正統性と無血革命性が強調されるが、実際にはフランス絶対王制に敵対する大陸諸国同盟の雄オランダへの屈服、アイルランドにおけるウィリアマイト(オランダ提督ウィリアム3世支持派)とジャコバイト(スチワート朝のジェームズ2世支持派)との血みどろの闘争という側面も含む。

ウィリアム3世がウィリアマイト戦争(1689年~1691年)や大同盟戦争(1688年~1697年)で外国へ遠征している間はメアリー2世と留守政府がイングランドの政務を預かったが,1694年にホイッグ党が議会で多数を占めると彼らが政府への非難色を強め、責任を問われた閣僚が次々に辞任する事態となった。ウィリアム3世サンダーランド伯ロバート・スペンサーから勧められ、トーリー派政治家の多くを更迭し代わりの大半をホイッグ党員で補充する。トーリー党からもリーズ公トマス・オズボーンやシドニーゴドルフィンなどが登用されたが、主要閣僚はホイッグ党員で占められ、特にハリファックス伯チャールズ・モンタギュー、サマーズ男爵ジョン・サマーズ、ウォートン侯トマス・ウォートン、オーフォード伯エドワード・ラッセルの4人はイギリス最初の内閣ジャントー(The Whig Junto、領袖団)となり政権を取り仕切った。ハリファックス伯は1694年に財務府長官に就任して1697年に第一大蔵卿も兼任、サマーズ男爵は1693年に国璽尚書を務め1697年に大法官に転任、ウォートン侯は1689年から王室会計監査官、オーフォード伯は1694年に海軍卿として閣僚に選ばれいる。

◎ジャントーはイングランド銀行発足、3年に一度総選挙を実施し議会を召集する事をを定めた三年議会法の成立など重要法案制定に関与し、出版自由化(1695年)を契機に同年の総選挙でホイッグ党を主流派に押し上げた。1696年になると銀貨の改鋳を行い経済安定を図り、ジャコバイトが計画したウィリアム3世暗殺未遂事件で地方の統監・治安判事を交代させ最盛期を迎える。しかし政権を担うジャントーは次第に保守化し、議会で政府を批判する立場を継続するホイッグ党との対立色を強めていく(コート対カントリ)。加えて1697年に大同盟戦争が終結し、トーリー党反戦派として政府を批判すると、ホイッグ党の一部も同調して1698年の総選挙でトーリー党が優勢になり、常備軍軍縮案が議会で通るとジャントー政権は窮地に立たされる。その結果1699年から1700年にかけてハリファックス伯、サマーズ男爵、オーフォード伯が辞任。(ウィリアム3世の命令に従って)スペイン王位継承問題を巡り議会に内密でフランスとスペイン分割条約を結んだ事から弾劾裁判まで受ける事態となる。裁判自体は無罪判決や中止によって何とかやり過ごしたが、メアリー2世が1694年に死去したのに続き,1702年にウィリアム3世が事故死するとホイッグ党嫌いで名高いメアリー2世の妹アンが即位する。

トーリー党からアンとの関係が深いシドニーゴドルフィンが第一大蔵卿に就任するとホイッグ党政権は倒れた。ゴドルフィントーリー党員だが穏健派であり、トーリー党から穏健派を引き抜いた中道派政権を発足させる。かくして「ジャントー四大巨頭の最期の生き残り」ウォートン侯も1702年のうちに王室会計監査官を辞任し、代わってサンダーランド伯チャールズ・スペンサーがジャントーを率いる事になった。

◎こうした変遷を経て「大陸政策を推進するホイッグ党」と「反戦派で海上政策を重視するトーリー党」の分化が進行。

メシュエン/メシュエン条約(英語: Methuen Treaty、 ポルトガル語: Tratado de Methuen、1703年)

ポルトガルの間で締結された通商条約で調印はリスボンでなされた。

◎1580年から1640年にかけて、ポルトガルはスペインに併合されていた。独立戦争を経て再び独立を取り戻すが、その際に国土が荒廃してしまった。その地にぶどうやオリーヴを生産したため、ポルトガルでは17世紀後半よりワインの生産量が増加していた。その最大の取引先がイギリスであり、対英関係が重視されることになった。こうした中、1703年、イギリス大使のジョン・メシュエンとポルトガルのアレグレテ侯の間で結ばれた通商条約がメシュエン条約である。

この条約によって、ポルトガルは従来の保護貿易政策を転換させた。すなわち、ポルトガルはイギリス産毛織物の輸入を受け入れることになった。その代償として、イギリスはフランス産ワインより低い税率でポルトガル産ワインを購入することになった。

メシュエン条約締結後、ポルトガルのワイン輸出は増大したが、イギリスからの毛織物の流入はそれ以上であり、ポルトガル自国の毛織物産業は壊滅的な打撃を受けた。こうして、徐々にポルトガルはイギリス経済の従属下におかれていくことになる。

◎17世紀末にポルトガルのブラジル植民地で金鉱が発見され、ゴールド・ラッシュが発生した時もその利潤もほとんどがイギリスに流出した。また、ポルトガルを通じてイギリスはブラジル植民地へも市場拡大を果たすことになる。こうして、ポルトガル海上帝国は、イギリス帝国の傘下へと組み込まれることとなった。

ジャントー復活(1705年~1710年)とトーリー党の逆襲(1711年~1714年)。

スペイン継承戦争(1701年~1714年)への対応を巡りトーリー党ホイッグ党の政争が激しくなると、ジャントーは野党活動を行いトーリー党政権と対立した。

ゴドルフィン卿の友人マールバラ公ジョン・チャーチルイングランド軍の総司令官としてスペイン継承戦争を戦った。その妻のサラ・ジェニングスはゴドルフィン卿と共にアンの親交が深いため、中道派として政権を運営していく。トーリー党穏健派のその過程でゴドルフィン卿はトーリー党の綱領実現を主張する急進派を遠ざけ,1705年から戦争遂行とスコットランドとの合同に同意するホイッグ党を閣僚に迎える様になった。

◎1706年にはイングランドスコットランドの合同交渉にジャントーが5人全員選ばれ、サンダーランド伯が南部担当国務大臣に起用されたことでホイッグ党が政権に返り咲いた。この動きが1707年のグレートブリテン王国成立に繋がっていく。1708年の総選挙ではホイッグ党が与党となりサマーズ男爵が枢密院議長、ウォートン侯がアイルランド総督に就任、翌1709年にはオーフォード伯も海軍卿に復帰。しかしスペイン継承戦争の泥沼化は次第に英国内に厭戦気分を漂せたし、アン女王のホイッグ党への不信感はそのままだったので政権基盤はあくまで脆かった。戦争遂行を主導するゴドルフィン卿とホイッグ党政権は次第に孤立していく。

◎やがてゴドルフィン卿は大陸での戦争に巻き込まれる事を好まないトーリー党からも敵視される様になり,1710年に大蔵卿を更迭された。ホイッグ党も総選挙で大敗してトーリー党が議会の過半数を占めると指導者のロバート・ハーレーが1711年に大蔵卿に就任、トーリー党の有力者のヘンリー・シンジョンが国務大臣となり、ジャントーを筆頭とするホイッグ党員閣僚は罷免され野党に転落する。ハーレーは和平邁進のためマールバラ公を司令官から罷免,1712年にフランスと単独講和して翌1713年のユトレヒト条約を締結。オックスフォード=モーティマー伯爵にも叙任され(シンジョンもボリングブルック子爵に叙任)同年の総選挙でも勝利して絶頂期を迎えた。 

◎ところが、トーリー党にも弱点があった。オックスフォード=モーティマー伯とボリングブルック子爵は和平工作では一致していたが、その後主導権を巡る闘争に突入してしまったのである。トーリー党内には大陸へ逃れたジェームズ2世の同名の息子ジェームズを支持するジャコバイトが含まれており、オックスフォード=モーティマー伯は嫡子のいないアンの後継者に決まっていた又従兄でドイツのハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒを支持していたが、ボリングブルック子爵はジャコバイトを支持しており、オックスフォード=モーティマー伯は党内一致に失敗してしまう。また、ゲオルク・ルートヴィヒはかつてマールバラ公と共闘していた関係からマールバラ公の罷免と同盟国を見捨てた単独講和を推進したトーリー党に不満を抱いており、新王朝におけるトーリー党の繁栄は望み薄となっていた。更にオックスフォード=モーティマー伯は身持ちが悪く、そのせいでアンに見限られ大蔵卿を罷免されてしまう。後任を望んでいたボリングブルック子爵も1714年に公金横領の不正が明らかになると同じくアンの信用を失い政権への影響力を失った。

◎1714年にアンが亡くなってステュアート朝が断絶し、ドイツからゲオルク・ルートヴィヒが迎えられジョージ1世として即位すると(「ウィンザー家」と名を改めで現在まで続く英国王統ハノーヴァー朝の開闢)トーリー党急進派として野党に留まったノッティンガム伯ダニエル・フィンチと手を組んでオックスフォード=モーティマー伯ハーレーやボリングブルック子爵ヘンリー・シンジョンらトーリー党政権への攻撃を続けてきたジャントーを含むホイッグ党に再び成功のチャンスが巡って来る。ジョージ1世は既に54歳であり、英語を話す能力も新しく覚える能力もなく、イギリス王に即位してからもハノーファーに滞在する時間の方が多かったため、国政の一切はホイッグ党を中心とした内閣に委ねられることになったのである。ジョージ1世の信任を背景にしたホイッグ党は1715年の総選挙勝利とジャコバイト蜂起を期にトーリー党の弾劾に取り掛かりオックスフォード=モーティマー伯ハーレーをロンドン塔に投獄。逃亡してジャコバイトへ合流したボリングブルック子爵ヘンリー・シンジョンらを私権剥奪に追い込んでホイッグ党優位を決定的なものとした。かくして僅か3年でトーリー党政権は崩壊し、ホイッグ党の長期政権が成立する事になったのである。かくしてハリファックス伯が第一大蔵卿、オーフォード伯が海軍卿に再任、ウォートン侯が王璽尚書サンダーランドアイルランド総督となって新政権が発足したが翌1715年にウォートン侯とハリファックス伯が死去、サマーズ男爵も1716年に亡くなってオーフォード伯も1717年に引退した。残ったサンダーランドは政界に留まったが,1721年の南海泡沫事件で失脚し1722年に急死する。こうしてジャントーが消滅し、サンダーランドも亡くなっていく過程では既に新しい時代が始まっていた。 

新政権はジェームズ・スタンホープ、サンダーランド伯チャールズ・スペンサー、タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンド、ロバート・ウォルポールの4人が中心となった。しかし政争によってタウンゼンド子爵とウォルポールは下野し、スタンホープとサンダーランド伯が与党となる。

ウォルポールの平和(1720年~1742年)」と大英帝国の誕生。

1720年にはウォルポールとタウンゼンドが政府と妥協して与党に戻り、南海泡沫事件の対処に追われたスタンホープは1721年に急死してサンダーランド伯も信用を失い、事件を収束させたロバート・ウォルポールが政権を掌握した。そして後にタウンゼンドも辞任しウォルポールの単独政権が成立。時代の大きなターニングポイントとなった。

◎1721年に第一大蔵卿に就任したロバート・ウォルポールは与党を統制して閣議を主宰し、議会の支持を背景に政治を行ったため(責任内閣制)、この時期の彼を最初の「イギリス首相」とするのが一般的である。巧みな政治手腕で議会を掌握し続け、20年に及ぶ長期安定政権を築いてイギリスが商業国家として躍進する土台を築いた。1733年のタバコ消費税法案の挫折で求心力を落としはじめ,1741年の総選挙で与党の議席を大幅に減らしたため1742年に退陣。戦争回避と政敵排除に努めたこの期間を概ね「パクス・ウォルポリアナ(Pax Walpoleana=ウォルポールの平和)」あるいは「ロビノクラシー(Robinocracy=ロビンの支配)」と呼ぶ。

◎それ以降もしばらくはホイッグ党員が首相となり続けた。ウィルミントン伯スペンサー・コンプトン、ヘンリー・ペラム、ニューカッスル公トマス・ペラム=ホールズ、デヴォンシャー公ウィリアム・キャヴェンディッシュ(ウィリアム・ピットとの連立政権)。そしてビュート伯ジョン・ステュアートが失脚した1762年になってやっと短期間ながらトーリー党内閣が樹立される。その過程で内閣が国王ではなく議会に対して責任を負い総選挙での敗北が首相退任に直結する議院内閣制、穀物法撤廃に代表される自由主義(資本主義の発達を促すブルジョワジーを優遇して自由貿易を促進し、その障壁となるもの全てを撤廃しようとする政治的態度)、それと表裏一体を為す金権政治(総選挙の度に政府機密費を流用して買収・接待に励む一方で、収入制限のある選挙戦に影響力を持たない貧民からは徹底して搾取するブルジョワ寡占支配体制)やホイッグ史観が広まり定着していく。今日では財政面でこうした動きを支えたのはメシュエン条約(1703年)によって英国の経済的従属下に置かれる様になったポルトガル(17世紀末よりゴールドラッシュを迎えたブラジル植民地を擁した)、太平洋三角貿易でしこたま儲けたカリブ海の砂糖農場経営者達であった事が明らかになっている。
「ウォーラーステインの世界システム論」とマクニールの「世界システム」論の狭間 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

「ホイッグ史観」…勃興期マスコミを総動員したプロパガンダと買収や言論弾圧を含む情報統制の徹底によって英国史を「農本主義を絶対視し関税と地元手工業者庇護によって地主としての面目を保つ守旧派ランティエ(租税生活者)から支持されたトーリー党に対して、自由貿易主義を「錦の御旗」に掲げた新興ブルジョワ階層の支持を受けたホイッグ党が完全勝利を飾っていくプロセス」として再編した歴史政策。1737年には演劇検閲法が制定され言論統制が演劇界にまで及ぶ様になりヘンリー・フィールディングらの反政府演劇が弾圧され、ジャコバイトの国際共闘に対する監視も徹底強化された。

◎一方、同じホイッグ党系人脈から出た初代チャタム伯爵ウィリアム・ピット(William Pitt、 1st Earl of Chatham、 PC、 1708年~1778年)は英国王ジョージ2世(在位1727年~1760年)のハノーファー優先策に反発し7年戦争(1756年~1763年)でも同盟国プロイセンへの資金援助に留めて深入りせず、代わりに植民地でのフランスとの戦いに戦力を集中。その結果インド亜大陸、北アメリカ、インド諸島などにおいてフランス勢力を駆逐することに成功し後の大英帝国の基礎が築かれたが、七年戦争の早期講和を目指すジョージ3世(在位1760年~1820年)から罷免される。後に首相として再起を果たすも英国内における対植民地強硬路線の台頭とアメリカ独立戦争(1775年~1783年)の勃発を防げなかった。ちなみにフランス革命戦争ナポレオン戦争時を主導した次男の英国首相ウィリアム・ピットと呼び分ける為に前者は「大ピット」後者は「小ピット」と呼び分けられる。

◎18世紀後半、ホイッグ党有力者は「ブルックス(Brooks's)」を社交の中心とする様になった。1764年に4人の公爵を含む27人のメンバーの社交場として設立されたこの会員制紳士クラブの本部はセント・ジェームス通りに面し、現在の建物はヘンリー・ホランドの設計で,1778年に建てられたもので図書室や宴会場、賭博場などを擁する。現在も女子禁制で、最も閉鎖的な社交クラブのひとつと言われる。入会金・年会費はともにそれぞれ1,225ポンド。

 こうして18世紀後半にはすっかり時代から取り残されるに到った「ウォルポールの平和実現の立役者達の末裔」はフランス宮廷留学経験を経て大陸文化に対する独特の憧憬を後世に伝える事になる。

18世紀ゴシック・リバイバル文学を語る上で以下の2人は欠かせない。ちなみにどちらもカリブ海の砂糖農場主であった。

「大西洋三角貿易」について思う事 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
思考停止こそ歴史的悲劇の源泉(18世紀) - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

◎ロバート・ウォルポールの三男ホレス・ウォルポールは別荘のストロベリー・ヒル・ハウス(英語: Strawberry Hill House)を古風に改築し(工事は1750年頃から数十年にわたった)敷地内に印刷所も設けて「オトラント城奇譚(The Castle of Otranto,1764年)」を残した。

ホイッグ党を財政面で支えたカリブ海砂糖農園の継承者ウィリアム・トマス・ベックフォードは、所謂パウダーラムスキャンダルによってバイセクシャルとしての側面を暴かれて逼塞を余儀なくされ、私領内にシトー修道院風の建物を建ててそこで暮らしつつ、神をも恐れぬカリフとムスリムの王子や王女達の振る舞いをフランス語で綴った「ヴァセック(Vathek1786年)」を残した。

ここで重要なのは彼らが残した文学的実績そのものではない(こうした一連の著作が打ち立てたゴシック・リバイバル文学というジャンルは、ラドクリフ夫人などのフランス小説家の手を経てジェーン・オスティンやブロンデ姉妹に継承される過程で次第に「時代に取り残された守旧派ブルジョワの退廃的手すさび」の域を脱っするが、それはまた別の物語)。責任内閣制度の完成には(現職者が将来の政治的敗北とそれに続く粛清を恐れるあまり躊躇なく政敵抹殺や汚職に手を染め蓄財に励む悪癖、蓄えた金で失脚後の脱出経路を確保するのが最優先で実際の政治的課題に取り組む余裕など皆無となるジレンマを克服するのに必要不可欠な)政治的敗北者の身体的安全と私有財産の保証、さらには別方面における名誉心充足の確保が不可欠だった。それを成し遂げた事が英国議会政治に安定をもたらしたという観点が大陸側歴史観にはスッポリ抜け落ちている。*一方日本にも藤原氏が源氏に圧勝した余裕で「源氏物語(文献初出1008年)」流行を容認し、源氏武者が平氏武者に圧勝した余裕で「平家物語(1212年~1309年成立)」流行を容認し、こうした系譜が「義経記南北朝時代室町時代初期成立)」「太平記(1370年頃までに成立。南北朝時代朝廷や橘氏武者の活躍を描く)」「太閤記(江戸時代初期成立)」容認を不可避としてきた文学的伝統が存在する。

イーデン条約(英仏通商条約、1786年)

アンシャン=レジーム期のフランス・ブルボン朝と、産業革命期のイギリス(トーリー党ピット内閣)が結んだ通商条約。フランスがイギリス製工業製品の輸入関税の引き下げに応じたため、綿工業などフランスの国内産業が打撃を受け、ブルボン朝の外交、経済政策への不満が生じ、フランス革命への伏線の一つとなった。なお1860年にも英仏通商条約が締結されている。これはフランスが保護貿易から転じ、ナポレオン3世がイギリスの自由貿易を受け入れたものである。

河野健二「フランス革命小史(1959年、p.65)」 
「1786年、自由貿易的色彩をもつ、英仏通商条約が重農主義者デュポンなどの活動によって結ばれたが、これはイギリスの工業製品とフランスの穀物・ブドウ酒などを結びつけたものであって、ルーアンの綿織物をはじめフランス産業は競争に敗れて衰退せざるを得ない結果となった。このことは、産業家のあいだで産業保護の要求をたかめ、労働者は不況をこの条約のせいにしたが…この条約によって王権はかならずしも国民的利益を代表しないという考えが広く浸透しはじめたのである。」

ここでデュポンの名前が挙がってる様に自由放任主義を絶対的正義として崇拝する重農主義者の働きかけもあって実現した条約。世界システム派は「資本主義は中央の周辺からの搾取によってのみ成立する」という立場なので「フランスの周辺化」に加担した重農主義者は必然的にフランス史上最低最悪の売国奴と規定される事になる。

フランス革命は重農主義派が起こした? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

 【エピローグ】ホイッグから自由党へ。そしてトーリーから保守党へ。

産業革命の進展により1830年代から1860年代にかけて都市において工場労働者が増大すると、彼らはチャーティスト運動と呼ばれる選挙権の拡大、選挙法の改正、生活向上の要請運動を展開し始めた。そして1868年には遂に第二回選挙法改正によって彼らの要求が認められ、都市労働者に対して選挙権が与えられ始める。これら労働者の運動は議会政治の場にも影響をあらわしはじめ,1830年代以降のイギリス議会政治は政界再編の場となった。

ホイッグ党ではパーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルの頃にホイッグ党から自由党への名称の変更が行われたが、好敵手である保守党党首ベンジャミン・ディズレーリ首相(第一次1868年、第二次1874年~1880年)と並んでヴィクトリア朝イギリスの政党政治を代表するウィリアム・グラッドストン首相(第一次1868年~1874年、第二次1880年~1885年、第三次:1886年、第四次1892年~1894年)の様にアイルランド自治問題に深入りし過ぎたりと空回りが目立つ。

◎それに対し英国保守党は第二次ディズレーリ内閣(1874年~1880年)のスローガンだった「トーリー・デモクラシー(Tory democracy)」を独自発展させ、19世紀末から20世紀初頭の世紀転換期に議会外組織プリムローズ・リーグ(Primrose League)を英国最大の政治組織に成長させて「急激な変化を望まない」英国人気質を巧みに魅了して全国民が選挙権を有する同時代の保守党長期政権を支えた。

◎そして20世紀に入ると「英国保守党のライバルは1906年に結党された英国労働党(Labour Party)」という事態が到来する。

 何が凄いって、英国史では「英語が話せず、英国内政への介入意図も乏しい外国人君主」の首が次々と挿げ替えられていく。ノルマン朝(Norman dynasty、1066年~1154年)もプランタジネット朝(Plantagenet dynasty、1154年~1399年)もフランス国王の家臣という顔も備え内政実績より大陸での戦果を重視したし、テューダー朝(Tudor dynasty、イングランド王統1485年~1603年、アイルランド王統1541年~1603年)の権力基盤はウェールズで、ステュアート朝(Stuart dynasty または Stewart dynasty、スコットランド王統1371年~1714年、。イングランド王統1603年~1707年)の権力基盤はスコットランド。そしてオランダとの同君連合状態を経て最後には(普墺戦争(Deutscher Krieg、1866年)に敗れプロイセンに併合された)ハノーファー選帝候の家系を国王として迎えて現在に至るのである(第二次世界大戦後、ドイツに進駐した英国軍には基本的に旧ハノーファー選帝候領が割り当てられた。これが欧州におけるズブズブの地政学)。まさしく「亭主元気で留守が良い」状態で、ハイネが「英国人は魂と身体がバラバラ」としたのもこの点に注目したからかもしれないのだが、実はこの状態こそが(所詮は交換部品に過ぎない)国王権威に誰も全人格的に依存しようとしない英国独特の政治的風土を培ったともされているのである。英国が最終的に自由交易圏側の盟主の立場にまでのし上がったのは、こうした歴史に負う部分が大きい。