諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「しくじり先生」のマルクス回がネットで人気

高学歴ヒモニートだったからこそお金持ちと貧乏な人の格差社会をなくすと躊躇なく公言出来た」「格差社会が終った後にどうすべきか書かなかったのが資本論の躓き」「人類に夢を見せるだけ見せて大パニックに陥らせたのが最大のしくじり」「そして独裁者が生まれる」「すべての人間は少し弱くて、少しずるい。そこにどこまで向き合えるかが大切」「誰かが続資本論を書くべき」かぁ…議論の進め方とまとめ方が実に上手い。


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 マルクスの「資本論(独: Das Kapital:Kritik der politischen Oekonomie 、英: Capital : a critique of political economy、第1部初版1867年、第2部1885年、第3部1894年)」を読破した事がある人なら誰でも思い当たる筈だが、特に生前に発表された第一部は漫談そのもの。語り口調たるや実に巧みで「どうやって半魚人や不良少女は誕生したか?」「英国人労働者を惑わした白パンの呪い」といったエピソードの語り口調は今日なお笑える。同時代人の証言としても興味深い「ルイ・ボナパルトブリュメール18日(Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte、1852年)」に至っては、本当の意味で今日なお再読に価する。
*実際「歴史は繰り返す。最初は悲劇として、二度目は喜劇として」とか「ボナパルティズム」という言い回しくらいならどこかで聞いた事もある人が少なくないのでは?

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しかし、だからこそ気をつけなければならないのである。彼は実際にどう生き、どういう状況下でどういう言葉を残す事で評価された人物だったのか?

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  • まず知るべきは「どうして19世紀後半、数多くの人々がマルクスの著作に飛びついたか?」である。フランス革命期(1789年~1799年)から2月/3月革命(1848年~1849年)にかけての激動期は「国王と教会の専横をこれ以上許してはいけない!!」と叫ぶ政治的浪漫主義者達の時代だったが、産業革命が欧州に広まって人々の関心が経営者と労働者の関係に推移するとたちまち時代遅れになって全滅。そうした空白期に「経営者と労働者の関係と既存の革命理念を結びつける新たな理論」を提示したのが(その権威主義的態度故に運動家仲間からハブられ、運動家生命を絶たれたばかりの)マルクスだったのである。需要と供給の関係が見事に一致したのだから、これが評判にならない筈がなく、これが聖書に次ぐベストセラーとなった理由となる。
    *ちなみに「ニート化」したのは2月/3月革命以降。信奉者のエンゲルス(Friedrich Engels、1820年~1895年)だけでなく、イデオロギー的に対立状態にあるラッサール(Ferdinand Lassalle、1825年~1864年)などにもお金をせびっている。本当に「どんなカリスマ性が彼らに金を払わせたのか」不思議に思うレベル。

    フリードリヒ・エンゲルス - Wikipedia

    フェルディナント・ラッサール - Wikipedia

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  • ただマルクスは最適なタイミングでデビューする為にとんでもない無茶をした。すなわち、そこで開陳された理論の大半はスコットランド啓蒙主義の精髄ともいうべきアダム・スミスの「諸国民の富の性質と原因の研究国富論、An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations、1776年)」や、ローレンツ・フォン・シュタイン「今日のフランスにおける社会主義共産主義(Der Sozialismus und Kommunismus des heutigen Frankreich, Leipzig 1842~1847)」からのパクリに過ぎず、しかもそうやってせっか仕入れた当時の最新理論の多くを「こんなの子供の戯言。私ならこうする」と引き立て役として使い捨てにしてしまったのだった。しかしながらフランスにおける産業革命受容はローレンツ・フォン・シュタインが「今日のフランスにおける社会主義共産主義」で紹介したサン=シモン伯爵の信念を「馬上のサン=シモン」ルイ・ボナパルト大統領/皇帝ナポレオン三世が継承した事に端を発する。またドイツ帝国建国(1871年)を主導した宰相ビスマルクは「収入制限選挙によって議席を独占するブルジョワ階層の横暴」にウンザリし、ラッサールが提唱した「国家福祉充実論」に接近する。それで「子供の戯言はどっちだ?」という話になり、自分の方が切り捨てられてしまう展開に。
    *追いつめられたマルクス主義者が最後まで執着し続けたのは「お金持ちと貧乏な人の格差社会をなくす」なる理想を達成する為には「貧乏人は一切救済してはならない。彼らが困窮のあまり暴動を起こし、政府による大量虐殺が繰り返される状況に冷徹かつ巧妙に善導しなければならない。」とする革命至上主義だった。これでは他の社会主義者から忌避されたのも止むを得ない。

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  • そんな四面楚歌の状態からマルクス主義を救出したのが、第一次世界大戦下における、ロシア革命(Russian Revolution、1917年)であった。社会的発展で欧州に何周も周回遅れの状態にあった帝政ロシアでは、同様に欧州において「周回遅れ」認定されたマルクス主義こそが「(ボルシェビキ独裁を正当化する)未来の予言書」として適切だった様である。実はそうした展開そのものが、それまで「(資本主義最先端たる)英国でこそ共産主義革命が間もなく起こる後進国で同じ事は起こらない)」としてきた従来のマルクス主義の完全敗北を意味していた。この矛盾の超克は「(レーニンの愛弟子としてファシズム理論を完成させた)ムッソリーニが最も恐れ、とるもとりあえず幽閉せずにはいられなかった筋金入りの共産主義理論家」として知られるイタリア共産党(およびユーロコミュニズムの)創立者グラムシ(Antonio Gramsci、1891年~1937年)によって達成された(社会主義革命の実践方法は各国の経済成熟度によって異なるとしたのである)。これが筋金入りのマルクス主義者達にとってどれだけ面白くない考え方だったかは「(ユーロコミュニズムの術語たる)構造改革」が小泉政権のスローガンに採用されたのを見ても明らかであった(イタリア共産党ユーロコミュニズムのシンパは日本の社会主義者や共産主義者に取って粛清対象でしかなく、従って自民党の様な保守政党と手を結ぶしかなかったのである)。要するに筋金入りのマルクス主義者にとって社会福祉や失業手当充実によって国民を懐柔しようとする政府は全てナチスなのであった。
    *実際ナチスはそれによって選挙を制し、ドイツ国民の鬱憤を宥める事に成功しているというのがその理由。

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ソ連が存在した事による弊害」は、今日ではもはや想像出来なくなってしまったほど酷いものだったんだだね。

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