諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

アフリカ北岸最後の黄金期(14世紀)

中央アジアにエフタル(英語:Hephthalite、パシュトー語:هپتالیان、インドのフーナ(Hūna)/シュヴェータ・フーナ (白いフン)、サーサーン朝のスペード・フヨーン(白いフン)/ヘテル(Hetel)/ヘプタル(Heptal)、東ローマ帝国のエフタリテス(Ephtalites)、アラブのハイタール(Haital)、アルメニアのヘプタル(Hephtal)/イダル(Idal)/テダル(Thedal)、中国史書の嚈噠(ようたつ、Yàndā)/囐噠(さったつ、Nièdā)/挹怛(ゆうたつ、Yìdá)/挹闐(ゆうてん、Yìtián)/白匈奴、5世紀~6世紀)が出現し、内陸部の東西交易を独占する様になると代替交易路としてインドやアラビアの沿岸部が栄えた。すなわちタミル商人とハドラマウト商人の時代が始まる。

悪とは「時代遅れの正義」の事? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

ところで、その行動範囲の広さにも関わらず「アラブの近江人」ハドラマウト(حضرموت (Hadramawt), Hadhramaut)商人の有名人は少ない。別格が二人いるが、そのうち一人の名前はあえて挙げない。
日本イエメン友好協会: 【イエメンはどこに行く・9】《ハドラマウト・前編》
日本イエメン友好協会: 【イエメンはどこに行く・10】《ハドラマウト・後編》

 

 中世イスラム世界を代表する歴史哲学者イブン・ハルドゥーン(1332年~1406年)のアサビーヤ(عصبية 'aabīyah)論

アサビーヤ(عصبية 'aabīyah)とはアラビア語で「集団における連帯意識」または「部族主義」を意味する言葉。語源的には「絡みつく、縛る」という意味を持つ عصب'aṣaba)の派生語であり他に「神経過敏」という意味も持つ。イブン・ハルドゥーンが「歴史序説」の中で「歴史を動かす原動力=連帯意識の強い周辺集団による連帯意識の弱い中央集団の征服の繰り返し」と定式化した事から国際的に注目される様になった概念。イブン・ハルドゥーンによれば王朝の交代を招く主因こそまさにこれである。

①砂漠と草原の生活形態は都会に先行する。砂漠と草原は文明の根源で、都会はその副次物であるに過ぎない。

②砂漠と草原の人間は都会の人間よりも善良かつ勇敢である。都会人が法治国家に対してもっている依頼心は、勇気や抵抗力を失わさせる。

③砂漠や草原に住めるのは連帯意識をもつ部族だけである。その連帯意識は血縁集団もしくはそれに類した集団にのみ見られる。

④指導権は連帯意識を分かちあう集団の中でひき継がれるが、野蛮な民族や部族ほど支配権を核とする可能性が高い。

⑤連帯意識の目標は王権である。王権の障害になるのは奢侈と富裕への耽溺である。

「田舎や砂漠(بدو badw、バトウ)」の集団は質実剛健で団結力が強く「都市(حضر ḥaḍar、ハダル)」の住人を服属させて王朝を建てる。だが代替わりが重なると、建国の祖たちが持っていた質素で武勇を尊ぶ気風が失われ、奢侈や富裕生活への耽溺により王族同士の団結力が弱まり、かつて服属させた都市の住人のようになる。そうして支配力が低下するうちに、田舎や砂漠から来た別の集団につけ込まれ、実権を奪われたり王朝が滅ぼされてしまう。かくしてその集団によって新たな王朝が誕生するが同じ道をたどり、また次の連帯意識を持った集団に取って代わられていく。農民と遊牧民の違い、その文明の発達、都市化という流れを押さえている。

 当時まで世界中のあちこちで繰り返されてきた循環史観。モンゴル帝国(1206年〜1634年)やティムール帝国(1370年〜1507年)もこの命運に従ったし、中華王朝に至っては20世紀までこれを繰り返す。

モンゴル帝国の位置チムール帝国の位置

確かにローマ帝国を滅ぼした異民族達も大半は文明化するにつれ退場を余儀なくされ、フランク王国を築いたフランク族の覇権も、ヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征)の落とし子ともいうべきノルマン貴族達の覇権も(あたかもそれを模倣したかの様な北フランス諸侯の覇権さえも)長くは続かなかった。彼の生きた14世紀まではまだ、この法則を覆すだけの存在は見受けられないのである。

さらに18世紀ナポリでは「単なる循環ではなく、同位置に戻ってくる都度、新たな要素が加わる螺旋構造」という拡張提案が行なわれている。

そもそも日本史も思わぬ形でこの流れの中に組み込まれていたりする。

これもまさしくイブン・ハルドゥーンの「辺境民と都市住人の循環史観」の一環…

「歴史序説/世界史序説(المقدمة al-muqaddimah)」

英国歴史家アーノルド・J・トインビーが絶賛した「イスラーム世界の司馬遷」歴史哲学者イブン・ハルドゥーン(1332年~1406年)の手になる歴史書。正式名称「察すべき実例の書、アラブ人、ペルシャ人、ベルベル人および彼らと同時代の偉大な支配者たちの初期と後記の歴史に関する集成(كتاب العبر، وديوان المبتدأ والخبر، في أيام العرب والعجم والبربر، ومن عاصرهم من ذوي السلطان الأكبر kitāb al-ʿibar wa-dīwān al-mubtadaʾ wa-al-abar fi ʾayyām al-ʿarab wa-al-ʿajam wa-al-barbar wa-man ʿāsara-hum min awī al-sulān al-ʾakbar、短縮形は「イバルの書(كتاب العبر kitāb al-ʿibar)」)」の序論と第1部に該当する部分。アサビーヤ論で有名。

オスマン帝国によるトルコ語訳があり、19世紀にはヨーロッパでも翻訳が進み、完訳ではフランス語訳が最初となる。他に英語訳、ポルトガル語訳、ペルシャ語訳、ヘブライ語などの完訳が存在する。

 著者の人生そのものが波乱に満ちている。

歴史哲学者イブン・ハルドゥーン(1332年~1406年)

「アラビアのモンテスキュー」とも「イスラームヘーゲル」とも。英国人歴史家アーノルド・J・トインビーはトゥキディデスマキャベリと並べ、アラブの天才としている。G・サートンは、彼が中世最大の歴史家であり、マキャベリヴィーコ、コント、クールノーらの先駆だとした。2006年までチュニジアで発行されていた10ディナール紙幣に肖像が使用されていた。

 ①南アラビアのハドラマウト(現イエメン共和国領の都市)出身のアラブ人ワーイル族を祖先とする。ハルドゥーン家の始祖は8世紀にアラブの征服事業の一環であるイベリア半島遠征に従軍し、以降アンダルスに定住してきた。9世紀にはセビリアの有力貴族として力をつけ,1248年のセビリア陥落直前までセビリアを統治したイスラーム系王朝の下で支配貴族の地位を保ってきたのである。そしてセビリア陥落の直前にイフリーキヤ(現在のチュニジアアルジェリア東部にあたる地域)のハフス朝の首都チュニスに亡命、かつてムワッヒド朝セビリア太守を務めていたハフス朝の創始者アブー・ザカリーヤー1世の庇護を受ける。ハルドゥーンの祖父ムハンマド? - 1337年)は高位への登用を断り、隠棲して神秘主義スーフィズム)に没頭する宗教的な生活を送った。この祖父の影響を受けてハルドゥーンの父ムハンマド? - 1349年)も学問に没頭し、クルアーンイスラーム法学(シャリーア)、アラビア語文法、作詩の知識を習得している。


 ②1332527日にハフス朝の首都チュニスで生まれ、少年時代には当時の良家の子弟と同じようにチュニスの学者たちからイスラーム法学、伝承学、哲学、作詩などを学び、政界への進出に必要な教養を習得したと推測されている。1347年にチュニスマリーン朝のスルタン・アブル=ハサンに占領されるが、アブル=ハサンがモロッコより帯同した学者たちとの出会いが学究心を刺激し、恩師となる哲学者アル=アービリーの教えを受ける決意をさせた。父ムハンマドがモロッコの学者と積極敵に交流したので彼らが家に出入りする様になり、色々教えを請う。そうした学者達の中でもハルドゥーンが最も師事したのがアービリーであり、アービリーを中心として行われた読書会にも参加した。通常の講義ではただ哲学概論を講義するだけであったが、読書会ではイブン・スィーナー、イブン・ルシュド、ファフル・アッディーン・アッラーズィーらイスラームの哲学者の著書を読解する手法がとられ、ハルドゥーンはここでも優れた理解力を示す。


 ③1349年、ヨーロッパと北アフリカ一帯で流行していたペストにチュニスも襲われ、多くの教師たちとハルドゥーンの両親も病に倒れた。1351年にアービリーがモロッコに帰国するまでハルドゥーンは彼の元で研究を続け,13514月には『宗教学概論要説』を完成させる。

 
④アービリーの元での学習を終えたハルドゥーンはハフス朝を振り出しに、マリーン朝ナスル朝、ベジャーヤのハフス朝地方政権といった、地中海世界イスラム政権の宮廷を渡り歩く。勉学の続行、ハフス朝の将来への不安、両親の死の直後という境遇のために西方への旅立ちを思い立つが、長兄ムハンマドに諌められて旅を断念しなければならなかった。おそらく長兄ムハンマドの働きかけによって19歳の時にハフス朝の国璽書記官に任じられた西方への憧れはそのまま存続。1352年の春にスルタン・イブラーヒーム2世アル=ムスタシルの反乱鎮圧に従軍した際、密かに軍から抜け出してフェズに向かう。当時の北アフリカは極めて政情が不安定であり、ハルドゥーンは知人とハルドゥーン家の縁者の助けを受けながらテベサ、ガフサ、ビスクラと北アフリカ各地の都市を渡り歩いた。そしてマリーン朝のスルタン・アブー・イナーンがベジャーヤを占領した情報を受けるとアブー・イナーンに会うためにベジャーヤへと向かい、ベジャーヤ付近の陣営でアブー・イナーンの歓待を受けた。フェズに帰国したアブー・イナーンはかつてハルドゥーンが師事した学者たちより彼のことを詳しく聞かされ,1354年にマリーン朝使者がベジャーヤに留まっていたハルドゥーンの元へと送られる。

 
マリーン朝ではアブー・イナーンに近侍する学者の集団に加えられて宮廷に出入りし、公文書を作成する書記官の官職に任ぜられた。書記官の地位はさして高いものではなく、ハルドゥーン自身もその役職に満足していた訳ではなかったが、安定した地位を得たことで落ち着いた生活を送ることが出来て、フェズの学者たちから教えを受けた。他方、勉学の傍らで宮廷を訪れる他国の外交官、政治家とも接触をし、マリーン朝の人質となっていたハフス朝の王族アブー・アブドゥッラー・ムハンマドとも交流を持つ。1356年の終わりにアブー・イナーンが病に倒れると、ハルドゥーンとアブドゥッラーは密かに語り合い、アブドゥッラーの領地であるベジャーヤに帰還し、ベジャーヤの支配権を奪回する約束を交わした。しかし計画は露見し、ハルドゥーンとアブドゥッラーはいずれも投獄され、アブー・イナーンは事件の発覚後にチュニス遠征の軍を率いて出陣。アブドゥッラーの方は間も無く釈放されたが、ハルドゥーンは19か月の間獄中に置かれ続けた。何度もアブー・イナーンに釈放を嘆願したが聞き入れられなかった。ハルドゥーンは最後に200行にも及ぶ詩を書いて慈悲を乞い、トレムセンに駐屯していたアブー・イナーンはその詩を見て満足し、彼の釈放を約束。アブー・イナーンはフェズに帰還後病状が悪化して急逝(もっとも、彼の死因については宰相のハサン・ブン・アマルによる暗殺説も唱えられている)、ハルドゥーンはハサン・ブン・アマルによって他の囚人と共に釈放され、接収された財産も返還された。釈放後、ハルドゥーンはチュニスへの帰国を願い出るが、この届出はハサン・ブン・アマルに受理されなかった。


 ⑥アブー・イナーンの死後マリーン朝ムハンマド2世・アッ=サイードを擁立するハサン・ブン・アマルと、王族の一人マンスール・ブン・スライマーンを支持する諸侯の二派に分かれ、ハルドゥーンはスライマーンの側に付いた。そして、イベリア半島から帰国したアブー・イナーンの弟アブー・サーリムがカスティーリャ王国の支援の元にスルタンの位を請求すると、アブー・サーリムの参謀である法学者イブン・マルズークより、ハルドゥーンの元に密使が派遣された。友人でもあるマルズークの誘いを受けたハルドゥーンはマンスール派の王族、将軍にアブー・サーリムの支持に回るよう説得を行い、彼らを翻意させることに成功。ハサン・ブン・アマルが降伏するに及んで1359712日にアブー・サーリムがスルタンに即位し、ハルドゥーンは即位功労者として国璽尚書の高位に任命される。

 
国璽尚書に任命された当初は職務に熱意を傾け、周囲も彼の文章を称賛した。しかし実はアブー・サーリムはハルドゥーンが期待する名君像とはかけ離れた暴君であり、マルズークがハルドゥーンを初めとする有力者を讒言して権力を掌握すつようになると、次第に政務への熱意を失っていく。アブー・サーリムの側はハルドゥーンに対して相応の誠意のある態度で接し続けた。やがて彼を訴願院(マザーリム、行政裁判所にあたる施設)の裁判官に任命する。


 ⑧1361年にマルズークを専横を不服とする廷臣が起こしたクーデターでアブー・サーリムは殺害され、マルズークも失脚。クーデターの中心人物であった宰相アマル・ブン・アブドゥッラーはハルドゥーンの親友であったのでハルドゥーンの地位はクーデター後も保証されたばかりか、俸禄と封地(イクター)が加増されている。それに飽き足らずさらに高い地位を要求したが期待したような返事は得られず、自宅に引き籠ってしまった。それからチュニスへの帰郷を願い出るが、おそらくはこの申し出の裏には東方で再興されつつあったザイヤーン朝に仕官する目論みがあったと思われる。しかし彼がザイヤーン朝に仕官することを恐れたアマルによって申し出は拒絶された。それでもなおフェズを離れたいという思いを伝え続けると、やっとの事で「トレムセン以外にならどの土地へ行ってもよい」という許可を得る。


 ⑨妻子を妻の兄弟がいるコンスタンティーヌに預け、136210月にイベリア半島グラナダに渡る。かつて交友のあったナスル朝のスルタン・ムハンマド5世と宰相イブン・アル=ハティーブを頼っての事だった。三度目の仕官先であるナスル朝ではムハンマド5世の寵臣として立身。カスティリャ王国への使節に任ぜられるなど重用されたが、それが高じて宰相のイブン・アル=ハティーブとの間に亀裂を生じ、退去を余儀なくされる。四度目の仕官先である地方都市政権のベジャーヤでは旧知のハフス朝の王子の知遇を得、執権として重きをなすが、相次ぐ戦乱の中でペジャーヤ政権は壊滅し、戦死したスルタンに代わって敵のザイヤーン朝の軍勢に街を明け渡す。このようにイブン・ハルドゥーンの政治家人生は流転の連続であり、それが後に学者としての彼の思想体系に大きな影響を及ぼしたとされる。

 ⑩ペジャーヤを去った後は政治の表舞台から身を引き、学究の道に邁進する。現アルジェリアのイブン・サラーマ城にて西アジアイスラム史の体系化を試み、歴史書『イバルの書』を著して、学界において確固たる地位を築く。カイロに移住して活発な講演活動を展開し、マムルーク朝のスルタン・バルクークの信任を得て、多くの学院の教授職を歴任し、マーリク派の大法官に任ぜられた。この後クーデターに関与したとされて政治的には失脚するが、学者としての名声は衰えることがなかった。ティムールのシリア遠征によるダマスクス包囲に巻き込まれるが、その名声を聞きつけたティムールによって陣中に招かれ、大いに弁舌を振るって周囲を圧倒。再びエジプトに帰還し何度か大法官を務め、六度目の就任の直後に病を得て歿した。

 アンダルス(イベリア半島イスラム圏)に影響力を有するアフリカ北岸(現在のチュニジアに該当するイフリーキヤと、それより以西のマグリブ)の最後の全盛期。しかし15世紀に入るとポルトガルがアフリカ十字軍に着手して(西アフリカ諸国の砂金と岩塩を交換する)サハラ交易が破壊され、イベリア半島ではレコンキスタが完了する。そして16世紀に入ると鉄砲隊の銃列や砲兵隊の砲列が騎馬隊の密集突撃を粉砕する様になり「遊牧民族最強の時代」が終わり「アサビーヤ論自体が通用しない時代」が始まってしまうのである。

マルクス風に言えば「(9世紀から16世紀にかけて栄えた)西サハラ貿易」こそが、当時のマグリブにおけるベルベル人王朝と西アフリカ諸国を成立させた「下部構造」であり、そして17世紀から19世紀にかけては「(大西洋三角貿易の一環としての)戦争奴隷徴募ビジネス」こそが当時の西アフリカ諸国を成立させた「下部構造」だったという話になるのかもしれない。当事者は案外そういう話に疎いもの。

カール・ポランニーが本腰を入れて取り組んだ「非市場社会たるダホメ王国社会に埋め込まれた(Embedded)経済機能の解析」って、まさにそれ。

 

151夜『経済の文明史』カール・ポランニー|松岡正剛の千夜千冊