諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

大陸で戦ってた頃の日本人

森本 賢吉…明治4312月、広島県山県郡に生まれる。昭和611月、朝鮮龍山歩兵第79連隊に入営。昭和93月、京城憲兵教習隊に入隊、同年12月、朝鮮軍司令官・官邸勤務。昭和1211月、天津憲兵隊唐山分隊に配属。昭和156月、東京陸軍憲兵学校に入校。卒業後、唐山分隊特高班長となる。陸軍憲兵准尉。平成137月歿

 

この本で一番印象に残ったのは「守り切れない相手の裏切りを責めてはいかん」の一言。憲兵として日中戦争中の大陸の一区画を預かり、四重五重スパイも当たり前の現地人達を巧く御したら巧く御したで本国の人間から「こいつは中国のスパイに違いない」とレッテルを貼られ粛清リストに入れられてしまう。しかして日本敗戦後(軍がサッサと占領を放棄して逃げ出した地域はたちまち大変な事になったが)彼の管轄地域は日本人の復員完全完了まで決して秩序を失う事はなかったのである。そういう人物の口から発せられた言葉だからこそ重みがまるで違う。

 昭和8年(1933年)昭和不況下における広島の貧村の情景(手記要約) 

狭い茅葺屋根の下で暮らす当時の貧農の多くは、トタン葺き屋根の平屋新築を夢見ていたが、昭和に入ってもそれが実現出来た例は少なかった。ほとんどの小作人は家や敷地まで地主に借りており、さらに「仮役子」契約を結んで冠婚葬祭の際に借金を申し込んだり、地主屋敷の離れにある「若者宿」を「口減らし」の為に利用したりしていた。「仮役子」契約を結んでない若者は青年会館で集住生活を送ったりしていた。
*戦後になっても案外このままなのに郷を煮やし、後に本人自らが村議となって近代化改革を断行している。

(一度徴兵され、その後除隊はしたが)月給遅配続出の状況で就職も出来ず、失業対策事業に出た。隣町に通じる峠に道をつける重労働で、往復3時間歩き7時から夕方まで働いて日給80銭(今日的感覚では2千円前後)ほどだったが、それでも「押すな押すな」の有様だった。妹3人は小学校を出るとすぐ京都鐘紡の女工になっていた。
*そこに憲兵上等兵への採用通知が到着。貧農次男23歳無職の身では応じざるを得なかった。待遇は月給70円60銭、官舎の家賃は無料、月極炊事料20円、独身者強制天引貯金20円と破格に良かったが、それは軍拡に伴う憲兵の質的低下への対応が急務とされていたからである。特に問題だったのが「1.各師団に割り当て人数を通達して集め要員については、隊内協調性に欠ける持て余し者ばかりだった事」そして「2.社会主義思想や天皇制見直案といった取締対象思想についての予備知識はおろか、法的知識さえ備えていない一般兵を『補助憲兵』と称して服務させる制度」の2点で、この問題を放置した事が大陸における『大日本帝国軍政』を破綻させてしまうのである。その起源をさらに辿るなら「平和=不況=軍人の出世機会損失=悪」と単純視した若手将校達が仕掛けた満州事変、一部軍人グループの判断が日本政府に優先する状況を生んだ『対2.26粛清人事』にまで行き着くとも。

 昭和9年(1934年)~15年(1937年)の京城龍山部隊勤務の感想(インタビュー) 

朝鮮は日本の植民地だからな。「内鮮一体」だと称しても、所詮は日本の都合の良いようにやろうとした政策ばかり。当たり前の事だが、朝鮮人自体は一つも歓迎してなかった。そやからねぇ。何をやっても朝鮮人の信用は受けやせんよ。京城の財界を二分する朴栄・韓相龍が朝鮮軍司令部に挨拶に来ても、規律正しく物は言うけど顔色と目はピシャっと相手を睨みつけよったからのぅ。慇懃に物を言うけど、絶対に頭を下げんかったよ。ペコペコしや、せんけぇ、司令官にだって、日本人の方は、偉い人が皆司令官にペコペコしよったけどもね。「日本なにするものぞや」の気概が見ていてもわかる。
*まぁ当時の資料を見ても、現状を見てもブルジョワ層の反応はこんなもの。ちなみに韓相龍が頭取をしていた東一銀行は乱脈で昭和2年のパニックの際に倒産し掛け、日本銀行から450万円借り受けて建て直しをやっている。この時点ではその返済中で、しかもその時の調査で「親類縁者に集中的に融資する」乱脈ぶりが暴かれて理事交代を申し出られている。彼のドラ息子も「親父の遺言に掛けて」朝鮮半島における銀行統合を阻止しようとした立派な「抗日家」であった(当時の朝鮮半島OBは「朝鮮半島からの支援が戦争継続に不可欠だからって足元見られまして…」と述懐している)。そして1937年からは朝鮮財界人による継戦用資材供出や戦場慰問が始まり、韓相龍、閔大植、文明・(製紙業及び鉱山業で成功)らが競い合う様に兵器や物資の供出を開始している。貴族の夫人等も、金の装飾品を国防費として寄付し、皇軍の歓送迎、銃後家庭の慰問激励運動を行っている。

一般の朝鮮人でも、まぁ、僕が私服で歩いていても、向こうはピシィっと警戒してものを言いやせんからのぅ。顔は似てても、朝鮮人と日本人は区別がつくよ。そりゃあ、こっちから声を先に掛けん限り、向こうから挨拶するなんてことはなかったからな。朝鮮には憲兵補というもんがおったがのぅ。憲兵警察の名残で、あれらでも、やっぱり、日本軍の準軍属となるんだけど、酒に酔うたら愚痴を言いよったからなぁ。「日本人に馬鹿にされる」というて。我々の人格権、生存権を十分に受け入れてはおらん、というて…力で押さえつけ、金が儲かる良い所は朝鮮総督府の指揮下に全部取り、「この朝鮮たれ」が「朝鮮人共が」と見下し、一対一の人間とは見とらんのだからな。「日本がええ」なんて言うものは、おりゃせんよ。
*当時の現地新聞を調べると昭和恐慌から中々立ち直れないでいる時期に当たり「三井三菱なぜ投資しない」「工場新設が雇用創設に結びついてない」「小作動議の件数増加の一途」「やっと舎音(サウム=小作料徴収代行人)大整理か。遅すぎる」「火田民対応急務」「働いても生活が楽にならないからって悪い考え(共産主義?)に走るな」「悲惨!! 朝鮮家庭の夕食は内地家庭よりオカズが平均3品も少なく、肉料理も週1回がやっと」といった記事が並んでいる。朝鮮総督府としては農家の窮乏対策として「冠婚葬祭の簡素化」と「副作物奨励」を指導しているが、果たしてこれは「親切」と映ったのか、それとも「御節介」と映ったのか?

日本人と何かイサカイが起こると、みんな寄ってきてね。朝鮮人は、内輪同士では良く喧嘩しとったが、他民族に対する団結心は、これほど固いものはない。中国人より、ずっと固い。「この野郎、日本人におべっかを使うな」と普通の人でも言ってたよ。ところが、朝鮮人同士は年がら年中、喧嘩をする性格の国民性があるよ。その一方で支那人朝鮮人を馬鹿にしてるのよ。昔、中国は朝鮮を征伐してる関係があるからのぅ。文化も支那から来てる訳だから。

蔑視してると蔑視してる方は相手の文化の違いも理解しようとはせんよ。朝鮮には男子禁制の「内房(ないぼう)」という部屋があるが、日本兵は平気で入っていった。秋季演習のときは軍も「入るな」と細心の注意書きを出してはいたんだけどね。

朝鮮総督府の前身、朝鮮総監府の官邸は、初代総監の伊藤博文が植民地の民衆を威圧しようとして建てた5階建相当の大伽藍。京城の軍司令部の裏山にあった。見晴らしの良い場所でね。伊藤が明治42年ハルピン駅で安重根に暗殺されてからは、縁起が悪いのと、電気代が昭和初期の金で1日6百円もいるので閉鎖し、新しい総督府官邸を京城大和町につくったのよ。旧総督府には管理人が一人いたがね。ドイツ人の設計で、ベルサイユ宮殿を彷彿とさせる大きなもんよ。遠くから見てもすぐ分る。この無用の長物を朝鮮の人々は「龍山のあほう宮」と呼んで馬鹿にしてたね。日本人もそう言ってたなぁ。あそこにお泊りんさるのは開院宮元帥だけだったよ。静かな、おとなしいところがええ、言われて。内地から来る大将連中は、京城の真ん中にある朝鮮ホテルにとまりよったからね。
*ちなみに宇垣一成陸軍大将については「権力に汲々としていてムシが好かなかった…内地からの『総督もうではすごかったけど、人間最後は信頼よ』と辛辣に酷評した上で「(詳細は伏せながらも)財界との癒着や政治工作が激しかった」「暗殺を恐れて登退庁の道を毎日変え、しかも50メートルごとに武装警官を一人立てていた」事実を暴露している。その一方で朝鮮軍司令官だった上田謙吉陸軍大将を「思い上がった所の一つもない良い意味での軍人肌で、愚直なまでの誠実さが人を動かす事を教えてくれた」と持ち上げ、宇垣派で羽振りの良い親分肌の小磯国昭司令官に「上意下達の徹底を当然視し異見を挟まれるのに慣れてない悪い意味での軍人肌」を見ている。

(そういえば)世界紅卍会会長を名乗る五十がらみの女が正月二日の官邸に現われて「世界最終戦争に打ち勝つには、現地人の抵抗運動が起こる植民地政策では駄目だ」と叫び、朝鮮民族を一人残らず(反日的人間が集団移住している)間島以北の西シベリアに強制移住させて李王朝を再建させ、その後に日本人が移住して完全日本化を計るべしと主張した事もあったよ。
*このレベルの稚拙な発想を真に受けて本気で取り組んじゃったのがナチスドイツとも。

(ただし)抗日意識は朝鮮人より支那人の方がずっと強かったよ。日清戦争以来、近代戦で痛め付けられてきたし…先進諸外国にも痛めつけられてきたしね。(その点)朝鮮は、日本が植民地にしたが戦争はしなかった。日本と朝鮮の戦争っていったら豊臣秀吉の朝鮮征伐以降ないしね。

 当然、中国戦線の実態についてはさらに辛辣に語っている。

昭和12年の満州-中国(冀東防共自治政府)間越境列車の乗客

満州、北支で生業を持ってない連中は、禁制品を運んで商売にした。まっとうな邦人は、そんなにおらんかったのが本当の所よ。不良邦人は、朝鮮人従軍慰安婦にして連れて来た。軍にも盛んにたかっておったよ。
*ちなみに禁制品の代表格は熱河省原産の阿片とモルヒネ。阿片は公認許可証さえあれば公式に持ち出せたが、旨味が減る為あえて無許可で持ち出す例が多かったという。これと関税率引き下げ(国民政府の1/4-1/7)によって当地の中国人民家資本は大打撃を受け、抗日家を激増させる結果を生んでしまう。

北支における憲兵の絶大なる権益

特務機関は(例えば県ごとに牽制顧問を送り込む等して)支那の政治を全部動かしとんだがや。とはいっても憲兵ほど住民との接触はないわけだろう。何しろ政治耕作ばっかりやってるわけだから。だれを町長にするか、県長にするかちゅうてのぅ…領事館のない所ではみな憲兵がやるわけだろう。そうすりゃあ憲兵に取り入らなけりゃ、免状は来りゃせんわいね。軍の御用達業者の指定、土木業者の指名、飲み屋や飲食店など各種営業の許認可、従軍慰安婦の同行…とにかく憲兵に取り入らんと、みんな営業ができんじゃあないか。憲兵に邪魔されたら商売が成り立たんけぇ。ハハハハ、それで、いやいやながらでも商人や業者が無料サービスする訳だろう。それが官僚の腐敗っちゅうもんじゃろう…方面軍の経済参謀も、支那人がつくる産物の数量計画をキャッチしておかなければ、軍需物資の挑発も徴税も出来りゃあせんからね…兵站司令部なんてものもあって、物資を充足する任務も持っているけど、そりゃあ軍隊が必要とする物資だけのものだからなぁ…余程自省しないと、業者と癒着してしまうのよ。
*陸海軍大臣、内務大臣、司法大臣、地方長官、検事の指揮を受ける憲兵は、占領地を歩いて実況を真っ先に把握する調査者であり、かつ「軍政」の方針を指令官に具申する計画者であり、さらには司法面と行政面の両警察権を有する法律の専門家でもあった為、占領地域では絶大な権利を有していた。

共産党の戦略と日本の無策

毛沢東の教育方針ちゅうのを突き止めてみたらのぅ。こうなっとったんじゃ。「三十年かかるけぇ、この革命は。その間、長期埋伏政策をせぇ」と。それは結局「親日を装って日本軍をあんさせぇ」っちゅうことなんだ。で、その間に共産主義思想を逐次、共産党の『識字読本』を使って「子供へ浸透させて将来の人材をつくれ」という命令で毛沢東の子分が田舎に戻っとるのよ…(捕まえてみたら)国民党同様、共産党の偉い奴も大抵郷長(日本でいう村長)か鎮長(日本でいう町長)の息子よ。そうでなけりゃあ、中学に行かせるような資産を支那人は持っておらんのよ。(でもそういう彼らが)『識字読本』を使って大人の文盲克服にも取り組んでいったのよ。
共産党国民党問わずこういった「先生方」は、例えば夜襲に際しても日本兵なら密かに忍び寄って建物内に手榴弾を投げ込んでる状況においても、建物外で空に向かって射撃して逃げる「ピンポンダッシュ」攻撃で済ます事が多かったという。それも事前の諜報活動によってちゃんと相手が「それでも怯えてくれる文弱部隊(大半が部隊番号3桁の急造部隊)」である事を確かめてから行っていたらしい。

中国四千年は戦乱、内乱の繰り返し。権謀術策、陰謀の素よ。おまけに頑強な思想戦士の中国共産党が地下で根を張ってた。そこに島国育ちの日本人が『地域ボスの馬賊を手なずければ勝てる』という日清日露戦争の感覚で出てったんだから、散々な目に遭って当然よ。僕がいくら共産党の実態を報告しても上が握り潰す。代々そうだから自分の代に共産党ができた事になると治安不十分の責任を問われ、昇進に響く。北支那方面軍が正式に共産党対策を部隊をつくったのは敗戦の二年前という御粗末さよ。事情を知らない内地は「勝った勝った」と浮かれたが、その実は河北州86県だけで日本の3倍という広野の拠点城郭と鉄道沿線を押さえただけ。点と線しかなくとても占領といえたもんじゃない。そして「共産党、国民中央軍が住民を抱き込んで包囲すりゃあたちまち全滅」って不安心理が日本軍を残虐行為に走らせる訳だが『刃向かえばこうなるぞ』って見せしめのつもりが、残念ながら残虐行為の質は向こうが上でね。それで却ってカッとなった現場がどんどん敵討ちに走って戦線が拡大していったんだ。こんな実情は内地にはほとんど知られず「勝った、勝った」の大本営発表がまかり通ってたとか。報道機関も軍の統制下に置かれて事実の報道も禁じられる事が多かったとか。そんな本土から民間で楽をしてきた召集兵が送り込まれてきて、いきなり高い地位について、優柔不断とまずい指揮でどんどん戦死者ばかりを増やしていったのよ。おまけに共産ゲリラの罠に簡単にはまる。統率力もないから無茶な殺戮も抑えられん。そうやってエキスパートを最前線で失い、補充兵で穴を埋めてくもんだからどんどん士気が落ちて軍紀も乱れていったのも当然じゃ。それが中国戦線の実際の姿よ。
*こうした情報は主に「洋車夫(人力車)」の車夫から聞き出したという。逮捕者を軍に引き渡すと面白半分に将校の試し切りや新兵の「度胸試し」の的にされてしまうので承審院(地方裁判所)に引き渡して処分を決めてもらう様にするとさらに広い範囲から情報が入って来る様になり、同時に高級官僚の現地住民への無銭飲食の強要、憲兵の権威を嵩に着て抗日派の冤罪を掛けたり釈放に託けて強請を働く密偵の醜聞(数少ないながら同様の出口で金品を巻き上げている憲兵もいた)なども耳に入ってくる様になったという。

(そして)いざ事件を指揮して共産党組織を壊滅させたらね、その半年後に来た曹長がこっそり自分の手柄にして感状もらっちゃったの。若い連中がさ、そういう事を平気でやる時代になってたんだもの。そりゃ戦争に勝てる訳ないでしょうが。戦時はただでさえ兵隊の質が下がって、戦場で後ろから撃たれるのが怖いから上官の訓練も自然甘くなるもんだけど…上司に文句言ったら「考査表に書くで」の一言でおしまいよ。服従心がないっちゅう事ちゃ、ハハハハ。でもね、ワシの事転勤させるとそれまで築いてきた情報網がなくなってしまうからそのままじゃ。みんな四年したら転勤してくから、細かいことは全部知らん振りじゃ。
*ちなみに冀北での共産党討伐を担当した3個小隊150人程の警官隊は、何と現地で徴募した中国人だけで構成されていた。本人いわく「地元の情報網があるから一緒に行動する限り奇襲にも遭わんし地雷も踏まん。例え裏切られても死ぬ日本人はワシ一人じゃし、地元からの通報で出動して逮捕者は承審院に引き渡して判決を任せるものだから日本人が無用の恨みを買うこともない」なのだそうだ。こういう逆転の発想はもしかしたら、同様の方法で成果を上げていた朝鮮総督府に倣ったのかもしれない。ただ「現地との癒着」を防ぐ為の短期配置転換という発想は分るが、こうしてみると「盗人の急ぎ働き」「発つ鳥後を濁しっ放し」を却って増やした可能性もある。ちなみにこのジレンマは今日の日本の官制でも完全解決を見てない。そういえば内地及び朝鮮半島では情報収集は地元警察の管轄である。占領地区では警察は壊滅しているか現地に存在していた組織をそのまま徴収して続投させるケースが多かったが、果たしてこういう「立ち回りのうまさだけが取り得の憲兵」は一体どうしていたのだろうか。

 三光作戦 

これはねぇ、紅薊省と山東省あたりで昭和13年の「徐州作戦(日本軍と国民党が停戦して山東省山岳地帯の共産党根拠地を攻めた作戦)」頃から共産党がビラに刷って撒く様になったスローガンだよ。最初は「殺光(領民も兵隊も出くわした相手は皆殺しながら進む)」「略光(進路上の村落から戦略物資と金目の物を全て奪い尽くしながら進む)」「姦光(進路上で見かけた女という女を強姦し尽くしながら進む)」だったが、何時の間にか最後のが「焼光(進路上にある建物は全て焼き尽くしながら進む)」に差し換わってたな。

1.略光(進路上の村落から戦略物資と金目の物を全て奪い尽くしながら進む)

掠奪は日本軍に関わらず、広大な戦場での追撃では付き物だったよ。日本軍だと連隊ごとに大行李隊、小行李隊が着くが、追撃追撃で戦線が伸び過ぎると補給が尽きる。日本兵は金なんて持ってないから、勢い民家の家畜を盗んだり食料庫を壊す。最初から兵站の概念がない国民党や共産党は税金の前払証明書を置いていく。いずれにしろ襲われた家から食うものがなくなった事には変わりない。この件についちゃ御互い様なんであって、住民攻撃を避ける為に全部日本軍のせいにするのは解せないなぁ。
*『マオ・誰も書かなかった毛沢東ユン・チアン)』によれば、ある地方の中国農婦は全財産を装具にして持ち歩く慣習があったが、共産党支配区ではそれまで供出を求めた例があるという。日本兵の場合、食料だけ盗んでいくケースが圧倒的に多いが目撃者がいると(憲兵への密告を恐れてか)襲い掛かって始末しようとする場合があるので完全に立ち去るまで物陰から静かに見ていたケースも存在する(「パプアニューギニアの例では「今にも死にそうなくらい骨と皮ばかりに痩せ衰えていて、とても見てられませんでした』という証言もある。ジャングルの中には食べられる植物等が沢山あったのだが、日本兵にはそれを識別するだけの予備知識がなかったのである)。

戦場での略奪について自分が知ってるのは「徐州作戦」の場合だけだね。この場合だと物資は青島から持っていくか、朧海線の連雲港に陸揚げするか、あるいは上海から運び込むしかない訳だけど、戦線がどんどん拡大してね。補給物資が幾ら内地から届いても、野戦貨物廟にそれが積み上がっても各地への配送が間に合わないと話にならない訳よ。それに一個中隊(250人)に四人はいる将校にはそれぞれ当番兵が付いててよ。「必ず一般兵よりうまい物を食わせなきゃならん」なんて慣習があった事が掠奪に拍車を掛けたのよ。
*本書には目も当てられないケースも収録されている。南京に近い浦口を結ぶ津浦線の主要駅の一つを守る日本軍守備隊(12名)が自炊用の豚や鶏、酒、女を差し出す様に近所の集落の中国人に強要したり、住民を水汲みや物資運搬に酷使したり、購買物の代金を踏み倒したり、あるいは不当な安値で購入していたばかりか、真面目に歩哨に立つのが馬鹿らしくなって全員が花札賭博や麻雀に興じるようになって最後には住民の手引きで潜入した中国兵に寝首をかかれてしまった事件で、多くの遺体は手足の指や鼻や睾丸を切り落とされ、目玉を刳り貫かれて見るも無慙な姿に成り果てていたという。これ程弁護の余地のない事件は珍しい(こういうタイプの「兵隊が女を直接強制徴用したケース」なら、まだ他にもありそうな気がする…)。

中国では代金を支払わないのが慣例とは驚いたよ。10年先、20年先の「税金先取り方式」だというんだが、空証文を見せられた事もあったよ。共産党軍は「仮政府」県知事名のある税金受領書を渡してたね。共産党政府が本当に樹立された時、決済するという約束だよ。共産党が制圧してる区域では通用してるっちゅう触れ込みだったが、そうでない所では「事実上、空手形である」と告白した共産党員もいたそうだ。
*中国の警察や軍隊は食料も携帯せず、兵站線も構築しない。全部「現地挑発」で食費も払わない慣習だった。それを用意するのは鎮長、郷長、商務会長の仕事とされてて、慣例上それは「必要以上の分量」でなければならないとされていたという。

 2.焼光(進路上にある建物は全て焼き尽くしながら進む) 

これは相当やっとるのう。日本軍の犠牲が大きいと「集落の奴等が協力して殺させた」という敵愾心がどうしても高まってのう。特に被害が多かった部隊がやっちまうのよ。「二度と敵の根拠地にさせない為」って大義名分もあるにはあるんだが、まぁ、これじゃ仇討って言われても仕方がない。
*軍事作戦として実施する場合には「住民の共産主義勢力からの隔離」が目的であるので、単に集落全体に放火するだけでなく住民を別の場所に移住させて出歩けない様に監視下に置いたりしている。アメリカ軍がベトナム戦争時にやった「戦略村」と全く同じ発想で、ここから「志願者」を募って水豊ダム工事に送り込んだケース等については、住民にとって『強制徴用』以外の何物にも感じられなかったものと察さざるを獲ない。

3.「殺光(領民も兵隊も出くわした相手は皆殺しながら進む)」

日本軍は中国人を「試し切り」や「新兵に度胸を付けさせる為に銃剣で突き殺した」というが、世間で言われてる程は多くなかったと思うよ。憲兵隊でも、軍律会議で厳重処分を受けた者を処分するのが原則だから、それ以外の者を隊長の専断で斬るなんて事はしない。第一法律違反だしな。「試し切り」は自分の刀の切味がどれくらいか好奇心から試したがってる将校らが浦でコッソリやってた事よ。指揮官がそういう事が好きだと部下にも真似しだすのが出る。やらん部隊は、ひとつもやりゃせんよ。犬が沢山集まって盛んに何か掘りよるけぇ、調べてみたら支那人の惨殺死体が出てきたなんて事件が豊潤件だけで2度あってね、その都度、すぐ部隊に飛んでいって大隊副官に「こういう事をさせちゃいかん」と文句を言ってやったのよ。
*「見せしめ系」では復員した親戚から「木の枝を利用した股裂き刑」だの「四頭の馬で引っ張る四つ裂き刑」だのについて聞かされた事がある。あくまで伝聞なので場所も時期も本当にあった話かさえも判別出来ないが、それが日本兵と中国兵による「軍対抗残虐度アピール合戦」がエスカレートした結果という部分だけは妙にリアルに感じたものである(お互い真似たりもするのでどちら側が始めたかも分らない)。一方、共産党は対日協力者と看做した人物を生きたまま地中に埋める「穴梅刑」を定番としていた様である。これはベトナム戦争でもよくあったらしい。

日本軍の共産党討伐がエスカレートした背景として「民衆と敵兵の区別が付かないゲリラ戦への焦り」や「中国人蔑視感情の暴走」なんて説が出てるが、やっぱり大きかったのは「仲間意識の強さからくる被残虐行為への過剰反応」「過去に負けを知らなかったが故に硬直化した日本軍の戦術論と組織の欠陥」あたりだと思うよ。
*残虐行為は手を下した本人をも不幸にする。これについては本書内でも「合法的処刑」を日本刀で片付け続けた憲兵が毎晩浴びる様に酒を飲む様になって日常生活も健康も壊れていってしまう話や「首切り名人」を自慢していた兵士がある日を境に一言もも話さなくなる話が紹介されているし「復員船で帰ってきた男達のうち、人を殺したことのある者の多くが魘され、無抵抗の民間人を虐殺した事のある者の魘され方は特に酷かった」という話を聞いた事がある(ただしこれも伝聞の上、例外も知っているので真偽の判断は保留中)。

4.「姦光(進路上で見かけた女という女を強姦し尽くしながら進む)」 

扱った強姦事件の傾向について…強姦は自己抑制の効き難い召還兵に目立ったよ。一度、現役を除隊して妻子がおる者が召集されて出てきとるんだからな。女を知っとるけぇ。強姦は「明日の命がわからない」状況に追い込まれる程頻発したな。自暴自棄になって。兵隊は捕まえた同じ女ばかりをやるのよ。大体、そがいに簡単に戦場で女は捕まりはせんのだよ。戦争が始まりそうになると住民はみんな逃げて、おりゃせんからのぅ。強姦が頻発したというのは、支那特有の「針小膨大」だよ。
*そういえば水木しげる「姑娘」もそんな話だった。

従軍慰安婦に軍が関与してないなんて事は絶対ないよ。前線では食糧と泊まる所を軍が提供するしかないんだから。まぁ、軍が募集せんでもそれぞれ商売人がおるわけで、連隊本部以上の所には御用商人がついて来てたからね…南朝鮮の女をようけ連れてったなんて新聞記事も見たが、あの辺りは朝鮮独立運動の根拠地だから、そういう関係もあるのかな、なんて思ってしまうね。接客婦にも3種類あってね。借金を払う分だけ稼いで早く辞める者、借金が多すぎて身を売られていく人(日本人でも朝鮮人でも「又売り」されてくうちに足抜け出来なくなってしまう場合が多い)。そして「郷里に帰っても仕方がない」と捨て鉢になってしまった人。北支では北京と天津、中支では漢口と上海に日本人租界があってね。そこの妓楼で正規に「二枚鑑札(芸者の免許と娼妓の免許)」受けて真面目に働いてる娼妓は日本人でも朝鮮人でも借金を返し終わると内地や朝鮮に帰っていったよ。新聞には「朝鮮女を無理矢理集中的に戦地へ連れてった」なんて書いてあるけどさ。何処に連れてかれるのかも分らない危ない場所に借金もない女が志願するとはとても思えないね。少なくとも警察がそうやって女を強制的に挑発してたなんて話は聞いた事もないよ。
*本人が一切の接待を拒絶し抜いた「清く正しい立派な憲兵」だったので「当時の憲兵の悪行の内部告発」になってないのは仕方のない話?

 苦しめられるのは常に「貧民」 

銃を取って闘う兵隊は大抵が中学校にも行けなかった食うや食わずの貧しい層の人間だよ。「身売りしたり、女工に出た妹や姉はどうしてるかなぁ」「年老いて子を兵隊に取られた親は病気なんぞしてまいか」と、毎日毎日心配しながら野宿し、将校の何百倍どころでなく死んでったのよ。一方一個中隊(250人)に4人はいる将校は暖房の効いた部屋でうまい物を食い、戦闘中も一番後方の安全な場所から戦況もろくに窺わず適当に命令を出すだけ。自由意志を奪われた兵隊が、どんな思い、どんな生活をしてるかは知りゃせんし、御構いなしだったよ。中国人は中国人で日華両方から税金を取られ、疑われ、見せしめに殺されてさ。戦争で泣くのは、いつでも、どこでも、貧しい民衆と決まっとるのよ。

どうして日本人は「戦前についての反省」について、こうした生々しい証言から出発しないのか…