諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ブルジョワ階層は何故すぐ殺される?

どうして欧州では中世から近世にかけてユダヤ人高利貸し宮廷ユダヤ人が殺され続けてきたのか…問題の本質はむしろ貨幣経済浸透が前近代社会にもたらす体制矛盾の表面化、および基本的にそれから付け焼き刃的に目を逸らす事しか考えない体制側の精神的怠慢にあったといえよう。

そして日本のすぐ近くに、現在なおこの状態から足が洗えてない国が存在する。

36年ぶりの朝鮮労働党大会の開幕を翌日に控えた5日、北朝鮮側が海外の報道陣を特別に案内した場所がある。平壌の目抜き通りに色鮮やかな高層マンション群が立ち並ぶ「未来科学者通り」だ。金正恩委員長が竣工(しゅんこう)を急がせ、昨年10月に完成した53階建てもあり、科学者や教育者に部屋が無償で提供されたという。

党大会でも強調された核・ミサイル開発に象徴される科学技術を牽引(けんいん)するのがこの入居者らだ。金委員長が誰を最も優遇し、対外的にもそれを宣伝したいかを如実に示した。

平壌では、ほかにも高級住宅に住める新興富裕層が出現している。「トンジュ」と呼ばれる民間貸金業者が代表格だ。「苦難の行軍」と称された1990年代後半の大飢饉(ききん)時代に高利貸で資金を蓄え、流通やサービス業などさまざまな事業に手を広げてきた。

北朝鮮経済が専門の李英和(リ・ヨンファ)関西大教授は、「アリとキリギリス」の寓話(ぐうわ)にかけて、汗を流して働かなくとも消費を謳歌(おうか)できる「“キリギリス層”の力が増している」と指摘する。

金委員長が優先的に整備した大型娯楽施設や商店の顧客となってきたのも富裕層だ。ブランド品で着飾った李雪主(ソルジュ)夫人がテレビに登場すると、李夫人が着たのと同じ水玉柄の生地の注文が急増。脱北者支援団体関係者によると、中国経由で流通したのか、日本で開発された、こすると文字が消えるボールペンが流行したこともあるという。

北朝鮮でも消費文化が着実に広がっており、新興富裕層こそが“正恩流”の派手な建設政策を歓迎し、支持する勢力といえた。

だが、金委員長が党大会で称賛したのは、大会に向けて進めてきた、人海戦術による旧態依然の建設事業の「70日戦闘」。大会で打ち出したのも、頓挫した計画経済を連想する「国家経済発展5カ年戦略」で、新興富裕層の経済活動を保障するような目新しい改革策への言及はなかった。

 2009年のデノミで国民の隠し資産、富裕層の不正蓄財、闇市場の発展などを全面否定した北朝鮮がいつまでも放置しておくとは到底思えない。そういえばそれ以前にも(おそらく中国共産党の権威を笠に着て)北朝鮮経済を牛耳っていた温州商人がある時期を境にまとめて身包み剥がれ、国外追放されて破滅するという展開があった。そしてこの現状は次のガス抜き期が間近に迫っているのを暗喩しているとしか思えない。

こうした国にとってブルジョワ階層とは、ある意味貧富の差の拡大が著しくなって国民の不満が高まった時にまとめて見せしめとして粛清する為のスケープゴート要員に過ぎないのだろう。経済発展が表面化させる体制矛盾が農本主義体制下の小作人に押し付けられた再版農奴制、貨幣経済浸透による緩やかなインフレ進行に支配階層たる武家が黙って耐えた江戸幕藩体制…そうした状態にとどまり続けている限り真の意味での近代化は決して始まらないものである。

手塚治虫の回想によれば、そういう日本でも戦中期には庶民自らが聖戦遂行に貢献しない一切の科学・産業・工業の粛清を繰り返し求めたという(「日本SF小説の父」海野十三も「十八時の音楽浴(1939年)」への寄稿文で同じ事を嘆いている)。ナチスが政権を奪取したドイツ同様、世界恐慌の到来はそういう形で国民間に資本主義化される以前の時代への回避願望を引き起こしてしまったのだった。

海野十三 『十八時の音楽浴』の作者の言葉

まぁ総力戦とはある意味そういうものなのかもしれない。

*実は日本の属する東アジア世界は既に7世紀において唐朝の躍進を背景に「総力戦」状態を体験済みだったりする。

東アジア世界における「総力戦」時代

百済義慈王(在位641年〜660年)は、舒明天皇13年(641年)に即位するとただちに貴族中心の政治運営体制に改革を行った。すなわち642年に異母弟の翹岐とその母妹女子4人を含んだ高名人士40人を島で放逐して王権強化を計ったのである。そして唐に対する朝貢を続けつつ642年7月には単独で新羅に親征し、獼猴など40城余りを下している。8月には将軍の允忠に兵1万を率いさせて派遣し、大耶城(慶尚南道陜川郡)を攻撃。この攻撃は大勝に終わり、降伏してきた城主を妻子ともども斬首し、男女1千人を捕虜とし百済の西部に移住させた。また643年に高句麗と同盟(麗済同盟)して新羅の党項城(京畿道華城市)を奪おうとしたが、新羅が唐に救援を求めたため、新羅攻撃は中止。新羅を国際的に孤立させて追い詰めようとした結果、かえって新羅と唐の関係を強化する結果となってしまったのだった。唐は百済新羅の両国に対して和平を進めたが、644年から649年にかけて両国の間で激しい戦争が勃発。はじめこそ一進一退であったが、徐々に金庾信(『三国史記』によれば、黄帝の子の少昊金天氏の子孫)の率いる新羅軍に対して敗戦気味となり、649年8月に道薩城(忠清北道槐山郡)付近で大敗。651年に唐に朝貢した折には、高宗から新羅との和睦を進める璽書を送られたが、その後も新羅との争いは止まらず、655年には高句麗・靺鞨と組んで新羅の30城を奪還。しかしながら連戦連勝で驕慢になった義慈王は酒色に走り、次第に朝政を顧みなくなっていく。これを厳しく諫めた佐平の成忠(あるいは浄忠)も投獄されてしまい、以降諫言も絶える。こうして百済滅亡(660年)に向けての準備が整ったのだった。

こうした動きに連動する形で高句麗でも皇極天皇元年(642年)、唐と新羅の連合軍と決戦可能な体制を構築すべく淵蓋蘇文が穏健派貴族を180人も弑害するクーデターを敢行し、百済でも義慈王が王権強化の為に王族を含む高名人士40人を島流しにしている。かくして独裁政権樹立に成功し、緒戦こそ奮闘したものの660年に新羅が滅び、白村江の戦い(663年)で残存勢力も一掃されると国際的に孤立。淵蓋蘇文死後に勃発した後継者争いを契機に唐・新羅連合軍から王都平壌を攻められ、高句麗滅亡(668年)なる結末を迎える。

日本でも舒明元年(629年)に蘇我蝦夷の推す田村皇子(後の舒明天皇)との皇位争いに破れた厩戸皇子聖徳太子)の「後継者(日本書紀には息子と明記されてない)」山背大兄王が、その舒明天皇崩御後に改めて皇位継承者の最有力候補として再浮上すると、皇極天皇二年(643年)に蘇我入鹿から攻められて滅ぼされた。包囲軍中に軽皇子(後ちの孝徳天皇)、巨勢徳太、大伴長徳、中臣塩屋牧夫らがいたという事は、入鹿らが次期天皇に推す古人皇子の同意、さらには中臣塩屋牧夫とのつながりから中臣鎌足阿倍内麻呂からの支持さえも想定しなければならないが、つまり「軽皇子派と古人皇子派が共同で共通の敵を抹殺した」という事である。その入鹿も「乙巳の変(645年)」で凶刃に倒れた。おそらく「いよいよ軽皇子派が古人皇子派を粛清しようとした時に邪魔になった」あるいは「遣唐使を度々派遣する様な開明的政策が却って反感を買った」といった事情が背景にあったのであろう。

そもそも雄略天皇代(5世紀)のヤマト王権では儀式上「群臣総意で新王を選んだ建前」が必須だった。これが推古天皇代(554年〜628年)からは「前代天皇の遺言」が後継者争いで重要な役割を果たす様になり、「大化の改新(645年)」以降は「ヤマト大王が、生前のうちに後継者を指名して譲位する」形式が整う。そして白村江の戦い(663年)における大敗と唐・百済連合軍の追撃を恐る感情を背景に中央主権化が加速。壬申の乱(672年)で天智天皇の太子・大友皇子弘文天皇の称号を追号)に勝利した皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)は伝統的官制を全てリセットする権限まで獲得する事になる。
*まさしくナチス台頭期ドイツの政治学カール・シュミットいうところの「政治とは敵と味方の峻別である」なる政治哲学の実践過程そのもの。

それでは北朝鮮も総力戦を遂行してる最中なんだろうか?