諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「欧州封建時代」とは何だったのか?

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ウィリアム・マクニール「ヴェネツィア(enice: the Hinge of Europe, 1081-1797、1978年)」によれば、732年頃にカロリング家の宮廷で恐るべき戦術が発明された。鎧兜に身を固めた職業戦士による乗馬突撃の一種だが片手に盾、片手に長槍を構えて激突の瞬間身体を前のめりに倒し、重い鐙で衝撃を受け止める事によって構えた槍の穂先に恐ろしいエネルギーを込める様になったのである。

  • 戦闘が乗馬突撃の可能な広い場所で行われる限り、こうした重装槍騎兵(Heavy Shock Cavalry)を数十人用意するだけで確実に勝利が勝ち取れた。
    *ウィリアム・マクニール「ヴェネツィア(enice: the Hinge of Europe, 1081-1797、1978年)」
  • 866年、シャルル禿頭王(le Chauve, der Kahle、西フランク王国初代国王シャルル2世(Charles II、843年〜877年)、西ローマ帝国皇帝カール2世(Karl II、875年〜877年))は軍の召集にあたって、家臣は必ず馬に乗って出頭するように厳命した。このとき召集させられた騎兵は単に馬に乗る兵ではなく、君主より領地を封土され、その御恩 に対し「いざ、鎌倉」の際に君主の下に馬を駆って馳せ参じる騎士であった。
    菊池良生「傭兵の二千年史(2002年)」

ピピン3世やカール大帝が北イタリアのランゴバルドロンバルディア)人やザクセン人に対して連戦連勝を誇ったのはこの御陰だったとも。そしてこの戦術の優位は(地域によって差があるものの)一般に13世紀から15世紀までは続いたとされる。

 

それではこうした戦術の起源とは?
欧州人が隠したがる「欧州文明の本当の起源」? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

  • タキトゥスゲルマニア」に登場するゲルマン人も既に馬に乗っているが、貧弱な現生種に執着して鐙どころか鞍を置く事すら恥とし、戦闘中はしばしば馬から下りて歩兵として戦った。馬に調教されるのは直線を疾駆する事と乗り手が離れている間じっと待ち続ける事だけだったともされている。
    *所謂「ゲルマン人大移動」で押し寄せてくる諸族はもっと広い範囲に及ぶから要注意。
  • 一方、ガリア人は当時から既に領主達が良馬獲得の為には対価を惜しまず、人馬一体の境地を追求してきた(馬に二人乗りする逸話も頻出。そもそも乗ってる馬自体が巨大)。明治維新後の日本の軍人も欧州を査察して「プロイセンの軍制は概ねにおいて他国を圧倒するが、ただ馬術と騎兵の運用に関してだけはフランスの足許にも及ばない」という結論に到達している。

まぁイスラム勢に領土を半分取られるショック療法以前の話なんて役に立たない?

いずれにせよ分裂状態に陥ったカロリング朝にこんな騎馬軍団を維持する余力がある筈もなく、しばらくはヴァイキング(北欧人の掠奪遠征)とマジャール人に翻弄される日々が続いた。再びその維持費が支払える様になったのはロワーヌ川とライン川の流域で950年前後に社会制度と農作物生産体制の変革があって再び装備を調え訓練を受けた専業騎士達が大量に養える様になってから。かくして北フランスからフランドルにかけて広がる北西ヨーロッパの肥沃な平原に封建的・荘園的中心地が出現する事になった。
*ちなみに当時における農業生産力や出生数の増加を単純に「ヨーロッパが寒冷な気候から温暖な気候への変化した結果」に帰する歴史観も存在する(中世温暖期理論)。

  • 一説によれば鎧、兜、剣、槍、盾と合計三十キロのフル装備に身を固める騎士一人を養うのには150ヘクタールの土地からの収入が必要との事。
    菊池良生「傭兵の二千年史(2002年)」
  • この戦法(重装衝突槍騎兵の密集突撃)は歩兵を蹴散らすのにはもちろん、細長いボートでどんな小さな川も上ってくるバイキングや、丈夫なポニーに乗って疾駆してくるハンガリー騎兵に対してもことのほか有効だった。
    *マイケル・ハワード「 ヨーロッパ史における戦争(War in European History、1976年)」
  • 中世の詩人フライダンクは「神は三つの身分をつくりたもうた。祈る人、戦う人、耕す人である」と歌った。十世紀末頃にはかなり広まっていた考え方である。「祈る人」である聖職者はともかく「 戦う人」の身分固定化は 戦争の様相が変化し、その結果、かなり兵農分離が進んだことを示している。
    菊池良生「傭兵の二千年史(2002年)」
  • 10世紀前半のフランドル(現在のベルギーとオランダに跨がる地域)に割拠したブラバント公領を舞台にマジャール人の侵攻を背景として展開する「白鳥の騎士」ローエングリンが馬でなく白鳥を模した川船を主要な乗り物とするのはこのせいとも。また川船はノルマンディーを泊地としていたヴァイキングやオルレアン地方に割拠していたアラン人やセーヌ川を遡ってパリを襲撃していたブリトン人の様な「敵側」を暗喩しているとも。
    ブルターニュウェールズ地方と並ぶアーサー王伝説発祥の地。貧弱な土地で小麦が育たず蕎麦を育て蕎麦粉の薄焼きを主食としており、これがガレットやクレープの起源となる。
  • 一方、ゲルマン人達はビールの醸造原料や飼い葉の飼料として大麦を重視した。「馬の飼料が原材料の酒で泥酔」。このあたりも(ローマ文化の継承者として)チーズをつまみにワインでも飲んでそうなフランス貴族と随分勝手が違う。
    *あくまで質実剛健、それがゲルマン武士道?

ちなみにノルマン貴族や北フランス諸侯が大規模な騎馬隊を編成し得た理由についてはオルレアンに割拠したアラン人に注目する向きもある。

№877(2008/09/13)中世ヨーロッパの影の立役者アラン人

紀元前5世紀頃、ユーラシアのステップにおいて、西にスキタイ人、その東にサルマタイ人、その東方にサカ人が暮らしていた。彼らは人類史上はじめて洗練された騎馬術を習得したといわれる東イラン系の遊牧騎馬民族とされる。サルマタイ人は、紀元前3世紀頃、西方の南ウクライナ黒海北岸)に移動し、スキタイ人を壊滅させた。サルマタイ人がスキタイ人を滅ぼすことができたのは、サルマタイ人が優れた騎馬戦闘術と重装武装の武具甲冑を持っていたためと言われている。紀元前2世紀には、サルマタイ人はヨーロッパに侵入し、そのまま残ったものはアラン人(Alans)と呼ばれるようになった

最古の騎馬民族スキタイ系の流れを汲むアラン人は、騎馬遊牧民族特有の派手で濃厚な文化をもっていた。彼らの騎馬軍団はゲルマン人の武装難民集団と比べてはるかに統制がとれ、洗練されていた。アラン人の成人男子は全員が熟練した騎馬戦士で、幼い頃から乗馬に慣れ騎馬戦法に長じていた。また、オリエント美術やギリシア美術の影響を受けて洗練された装具を身に着けた金髪碧眼のアラン人は、彼らを敵とするローマ人やゲルマン人を魅了したと言われる。

帝政末期のローマでは、ゲルマン人をはじめ外国人をしばしば重用したが、文化レベルも低くなく統制のとれているアラン人は高い評価を受けていた。同時、多くは武装難民に過ぎなかったゲルマン人もまた、精鋭騎馬民族を編成するアラン人の力を得ることでやがてローマを打ち滅ぼし、国家を建設するまで成長したといわれている。

フン族に呑み込まれる形でヨーロッパに雪崩れ込んできたアラン人は、フン族の支配から脱すると、分派が進み、それぞれの運命を辿ることになる。アラン人の一派は、5世紀初め、フン族の西進により、東ゲルマン系のヴァンダル族、スエビ族とともにライン川を渡り、ピレネー山脈を越え、ガリアからイベリア半島に達した。さらにヴァンダル族は、アラン人とともに、北アフリカに渡り、439年カルタゴを占領し国家を建てるが、これは、同盟したアラン人の協力があってのことであった。そのことを示すように、ヴァンダル国王は「ヴァンダルとアランの王」と名乗った。

ガリアに残ったアラン人の一派は、アッティラフン族との対決となったカタラウヌムの戦い(451年)では、アエティウス率いるローマ軍の中翼を担い武勇を振るった。453年、アッティラが没するとフン族は急速に衰退し、また、西ローマ帝国も滅亡するが、ガリア地方のアラン人はそのままの勢力を保ち、貴族とした生き残った。混乱の中世初期においても、アラン人の軍事力は健在で、メロヴィング朝フランク王国でもアラン人を顧問に向かい入れたほどだった。

この頃になると、騎馬遊牧民族として移住こそ生活の旨としていたアラン人も定住生活に移行し、ローマ・カトリックに改宗し、土地の言葉を話し、土着民との結婚によって同化していた。しかし、現在のフランス、ブルターニュ地方などでは、脈々アラン系貴族の血が受け継がれ、精悍なる騎馬民族の伝統が残っている。

また、東西ローマ帝国の騎兵スタイルを踏襲したと言われる、鎧兜を着けたヨーロッパ中世騎士たちにしても、両帝国の傭兵の多くがアラン人であったことを考えれば、ひいては彼らからの文化的影響を受けたと見なすこともできる。実際、中世の騎士がまとった鎖帷子(くさりかたびら)の鎧は、アラン人の騎馬先史の装備に似ているし、いわゆる、「騎士道」の概念も、アラン人戦士の作法を基礎にしており、紋章をもって騎士を任命するのは、アラン人の流儀がもとになっていると考えられている。さらには、騎士達が熱狂した馬上槍試合は、騎馬で戦うアラン人の戦闘様式の発展したものだといわれ、美術の分野でもスキタイ人以来アラン人が用いた冶金技術が、ゴシック美術に影響したと言われる。

下手したらこの兜の起源もアラン人?

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実際「アラン人の兜」にはこんな系統も…

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とにかく中世は「富むなら守り方も考慮に入れねばならない」自力救済の時代。誰もが武装を必要としたからこそ武具もコモディティ(日常用品)化して装飾も省かれていったのかもしれない。

  • 身近なところではいわゆる私闘(フェーデ)が繰り返された。強大な公権力が不在の中世で盛んに行われた法廷外での係争処理制度。古来の法観念によれば「自己の権利を侵害された者は血縁者や友人の助けを借りて自ら措置を講ずることができた」のである。 もちろんこうした権利は常に拡大解釈される。果たしてそれが正当な権利行使なのか、 それともまったくの私利私欲による暴力行為なのかを峻別するのが極めて困難となる。 ともあれ衆を頼むのに越したことはなく、そこで「 助っ人」が報酬目当てに係争地に 集まる。さらには便乗してどう見ても取る に足らない些細な理由でいちゃもんをつけ「私闘権に由来する権利」と称して都市や村落を略奪する不逞の輩まで続々と現れた。この強盗まがいの行動に対して、ドイツでは皇帝がたびたびラント・フリーデ(平和令)を発布。これは実質上の治安条例で、そんなものが数次にわたって出されるほど、私闘権に発する乱暴狼藉は後を絶たなかったのである。
    *ハンス・K・シュルツェ「 西欧中世史事典」
  • 日本の鎌倉武士も「 夜討・強盗・山賊・海賊は世の常のことなり」「 野に伏し、山に蔵れて、山賊・海賊することは、侍の習いなり」とされる(『鎌倉遺文』)。洋の東西を問わず封建騎士の実態はそんなものであったとも。
    菊池良生「傭兵の二千年史(2002年)」
    「上からの自由主義」が日本にもたらしたもの - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
  • フェーデ(ドイツ語: Fehde)が広汎に行われる様になったのは10世紀以降だが、徐々に身代金や掠奪を目的としてつまらない言いがかりをつけて行う事も増えてきたので10世紀後半には南フランスでフェーデを抑制しようという「神の平和」運動がおこり、これが11世紀にはフランス全域およびドイツにも波及する。制度としては1081年にリュッティヒで、1083年にケルンで「神の平和(Pax Dei)」が宣言されている。はじめは信仰と結びついた運動だったが、ドイツでは徐々に国王権に回収され、1103年にはハインリヒ4世により四年を時限にフェーデを部分禁止するに過ぎないラント平和令が公布された。しかしながら国王権力あるいは領邦権力が裁判権を獲得して支配領域内で一元的な支配を及ぼす為にはフェーデ抑制が必須であり、努力だけは地道に続けられた。時限立法としてのラント平和令では1235年のシュタウフェン朝フリードリヒ2世によるマインツのラント平和令が、ドイツ語で初めて記述された法令として有名である。そして1495年8月7日にマクシミリアン1世によって制定された永久ラント平和令によって、帝国等族諸身分はやっと自力救済権としてのフェーデを完全に失う事になる。
    *制度末期には合法的に営利誘拐を行い身代金を要求する手段として悪用された。例えば本来であれば事前に送らなければならない決闘状も、とりあえず襲っておいて人質が取れてから決闘状を送って身代金を要求するのである。また貴重品輸送の一団は大規模な警備部隊の随伴を必要とするようになり、襲う側も最低でも数十人規模、多いときには300人を超える軍事組織の集団にまで膨れあがった。
    フェーデ - Wikipedia
  • 13世紀には領主権力が弱体だったこともあって(神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサによってザクセン公領の一部から公爵領に格上げされた)ヴェストファーレン(Westfalen)の治安が極度に悪化し「聖フェーメ団」と呼ばれる秘密裁判結社が横行した。
    「(自然法に基づく)普遍的支配」の世界 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

いずれにせよノルマンディ地方や北フランスやラインラント(ライン川流域)における専業騎士達の増加は1050年代までに飽和状態に達し(アストゥリアス貴族(西ゴート王国遺臣)やブルゴーニュ貴族(ブルグント王国遺臣)やロンバルディア貴族(ランゴバルト王国遺臣)と親しく、かつイングランド国王とも縁戚関係にあった)ノルマン貴族が先頭に立つ形で継承すべき所領を持たない領主の次男坊三男坊や遍歴騎士が新天地を求めてイベリア半島イングランドアイルランド、エルベ以東、レパント地方などに進出していった。
*つまり(遺領を分散させない)長子相続の定着がこうした一連の動きの最も重要な引き金になったとも考えられる。そして、それはまだゲルマン部族法の影響色濃いドイツには広まっていなかった。

  • 遍歴騎士(Freelancer)とは、その多くが磨き上げる手間いらずの黒い鎧を愛用し、盗賊に転落したり汚れ仕事に手を染める者が多かった事から「黒騎士(Dark Knight)」と呼ばれ蔑まれていた集団である。

  • ドイツでも10世紀前半より不自由身分から成り上がったミニステリアーレ(Ministeriale、家士)と呼ばれる非貴族騎士(隷農騎士)が現れた。次第に力をつけ、12世紀に入ると封土も与えられて貴族たる自由騎士とほとんど区別がつかなくなるが、その後もフランスやイギリスの家臣と異なり特定の君主への忠誠心は乏しいままだった事で知られる。平気で複数の君主と封臣契約を結び、なかには「皇帝を含めず四十四人の領主と契約していることが 自慢」だったミニステリアーレまでいたという
    *クリストファ・グラヴェット「 中世ドイツの軍隊(Medieval German Armies、1997年)」
  • かくして英国ではノルマン・コンクェスト(1066年)が遂行され、南イタリアではロンバルディア(ランゴバルト)人貴族の叛乱に付け入ったロベール・ギスカール率いるノルマン人騎士達が1059年から1071年にかけて所領を確保し、1084年にローマを征服し掠奪した。さらには1081年から1085年にバルカン半島へも新出して東ローマ帝国首都コンスタンティノープルでも同様の振る舞いに及ぼうとしたがイタリア半島に南下してきた神聖ローマ帝国の介入とロベールの熱病による病死によって計画は挫折。
    神聖ローマ帝国軍が背後に迫っていたのも敗因の一つ。
    十字軍運動とヴェネツィアの覇権 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

  • ノルマン人騎士達の活躍に鼓舞されたのか、北フランス諸侯達も第一回十字軍(1097年〜1099年)でアンティオキアやイェルサレムに進出。これにはロベールの息子ボエマンに率いるノルマン騎士団も参加しアンティオキア公国を建設している。
    *これ以降も東ローマ帝国への侵攻は続けるから別に改心した訳ではない。

 こうした動きを席巻したのは乗馬突撃能力に長けた100騎〜200騎の重装槍騎兵で構成された騎士団を編成したら国家建設すら可能となる軍事的ロマンあるいはゲルマン諸族や北方諸族の伝統に基づくハスカール(従士)制に従って「家臣団」を形成した首領が実際に領土と領民を獲得して領主になれた時代性。ウィリアム・マクニールはこれこそがいわゆる十字軍運動(11世紀末〜13世紀)を牽引した原動力に比定する。
*ウィリアム・マクニール「ヴェネツィア(enice: the Hinge of Europe, 1081-1797、1978年)」

  • ハスカール(古ノルド語:Huskarl)/ハウスカール(英語:Housecarl)は11世紀初頭頃から文献記録に登場するゲルマン民族、特に北欧やイングランドで見受けられた軍制の一種。小規模とはいえ幼少の頃から高度な戦闘訓練を受けて首領や王侯貴族に私兵として仕えてきた職業軍人によって編成された常備軍であり、普段は食客として暮らし、有事の際には報酬として主に金銭や略奪品の分け前などを受け取っていた。ただしあくまで自発的な戦闘集団であった為に主君に絶対服従を誓うとは限らず、実際首領や王侯貴族が略奪を禁止したり十分な報酬を支払わない場合、彼らを排除したり見捨てたりする事すらあった。
    幸村誠ヴィンランド・サガ(VINLAND SAGA、2005年〜)」 では彼らを「客人」と呼び、北欧諸族の伝統的互酬慣習との関係を強調する。
    「富の呪われた部分」とは? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
  • イングランドへはスヴェン1世双叉髭王(デンマーク王985年〜1014年、ノルウェー王985年〜995年、1000年〜1014年、イングランド王1013年〜1014年)が持ち込んだとされ、この土地でのハスカールは王宮に住み、1人の伯に対して250~300人が仕えていたという。当時のイングランドとしてはほぼ最強の戦士集団であったが消耗補充能力に乏しく、その事がヘイスティングズの戦い(1066年)で不利に働いたとも。
    *またこの戦いではハロルド2世が戦死した後も配下のハスカールが最後の一人に至るまで果敢に戦い、討ち死にしていったとされるが、実にハスカールらしくない展開であった。 
  • 中世ロシアのキエフ大公国、およびその他の諸公国に存在した親衛隊ないし従士団であるドルジーナ (Druzhina) もまた、元来はロシアに侵攻したヴァイキング(ヴァリャーグ)のハスカールが起源とされる。こうしたヴァイキング(ノルマン人)の傭兵部隊は東ローマ帝国ではヴァラング隊 (Varangias) あるいはヴァリャーグ(Varyag)と呼ばれ皇帝の親衛隊として仕え、ノルマン騎士団に対抗出来る唯一の戦力として重宝された。
    *ドゥビナ河とドニエプル川を伝って黒海まで進出し、東ローマ帝国に雇われてノルマン人の好敵手となったスェーデン人冒険商人達で構成されていたと推察されている。
  • その一方で十字軍に招集された封建的騎士(伯とその従者)達は「騎士は攻撃を継続することで勇武を示すことが常に要求される」とする「騎士道の規律(アイテム(Item)=常に前衛(avante garde)であり続ける事を要求される究極の督戦条項条項)」の遵守を誓わされる一方で、自らも部族連合的結集力を背景に先陣争いの功績を競い合い、伝統的乗馬突撃による決戦以外の一切を否定する倫理規定に従って生きたとされる。
    *その一方で初期アナール派を代表する一人たるマルク・ブロックの「封建社会(Feudal Society、1939)」は「この最も厄介な分子(騎士達の事)を瀉血するように(十字軍 として)圏外に出すことによって、フェーデ(私闘)で窒息して死滅することから免れたのである」とする。おそらくどちらの側面もあったのであろう。また「空気を読まず乗馬突撃」の気風は時代が下るほど敗北しかもたらさなくなっていく。15世紀にポルトガルが展開したアフリカ十字軍に至っては騎馬隊の出番自体がほぼ消失している。

  • しかし自分達より先進的なイスラム諸国との戦いがそう簡単には領民と領土の確保に結びつかない事が知れ渡るに連れ、中東の十字軍国家防衛やイベリア半島におけるレコンキスタは次第に(王侯貴族や聖職者からの寄進や為替業務の公許によって運営される)騎士修道会の手に一任されていく。その一方でゲルマン騎士達の関心は東方開拓に向けられる様になり、リヴォニア帯剣騎士団(羅Fratres Militie Christi de Livonia, 独Schwertbrüderorden、1202年〜1237年)の様に現地で編成された騎士修道会や、ポーランド貴族の招聘に応じて現地入りし準国家化したドイツ騎士団(独Deutscher Orden、英Teutonic Order、1190年〜1525年)の様な存在も登場してきた。
    *こうした一連の十字軍運動の掉尾を飾ったのがレコンキスタ完了後のポルトガルが仕掛けた「アフリカ十字軍」だった訳である。当初は継承すべき所領や商圏を持たない領主や商家の次男坊以下がサハラ交易で栄えるマグリブチュニジア以西ののアフリカ北岸)から西アフリカ沿岸部への進出を狙った運動だったが、次第に商業化され、最終的には西回り航路解説に至り大航海時代の幕が開ける。

こうした歴史展開の最中、まず真っ先にヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征)やマジャール人といった「蛮族」が自らの王国の建設を契機に穏便化して脱落。次いでノルマン貴族などの部族的紐帯を力の拠り所とする在地首長達が独自性を失い、13世紀までに欧州貴族制度という大きな枠組みの中に飲み込まれ尽くす。ある意味イブン・ハルドゥーンの循環史観に通じる悲哀すら感じる。

 かといって別に所謂「封建騎士」に黄金時代が存在した訳でもない。ある意味そんなものは南仏の宮廷で吟遊詩人が歌った騎士道物語の中にしか存在しなかったとも。

*後に北フランス宮廷や南イタリア宮廷にも拡散。

  • 中世君主が騎士に求めた最大の奉仕は当軍役である。その内容 は君主と騎士の間で取り交わされる封臣契約で定められるが、標準的なところでは騎士が自弁で軍役を果たす期間は年間四十日で、遠征地もどこそこまでと取り決められていた。たとえばドイツの場合、皇帝が戴冠のために行うローマ遠征を除いて、ドイツ以外の地に出陣する義務はなかった。それにたとえドイツ国内であっても、やれ川岸まで、や暦場で一日の行程のところまで、やれ州のなかまで、と細々とした制限が設けられていたのである。また騎士達の中には無償である君主への軍役は金銭で代納し、傭兵稼業に専念する事でそれを上回る現金を稼ぐ騎士が現れた。君主側からしても、やたらと制約の多い封建騎士軍を使うより、彼らが軍役を逃れる為に支払う金で傭兵を雇ったほうが手っ取り早く効率良い軍編制が可能となる。こうしてヨーロッパに次第に傭兵市場なるものが現出してくるのである。
    菊池良生「傭兵の二千年史(2002年)」
  • 「イタリアに最も近いドイツ」シュヴァーベン大公出身のホーエンシュタフェン朝神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世バロバロッサ(赤髭王、在位1152年〜1190年)の二度に渡るイタリア遠征(1164年、1174年)に際しても帝国軍の主力は傭兵団であった。大急ぎで軍を編制し なければならない時に臣下たるドイツ諸侯が定められた出陣義務を楯になかなか腰をあげてくれないので、代わりにフランドル地方ブラバント地方の出身者で編成された傭兵部隊「ブラバント団」投入に踏み切ったのだった。これ以降フリードリッヒ1世やハインリッヒ六 世の直属部隊は大部分が傭兵となる。ブラバント団だけでなくスペイン のピレネー 山脈一帯の出身 者で編成されたアラゴン団、バスク団、ナヴァラ団といった傭兵団が跳梁を極め、いずれもその強欲で悪名を馳せるが、中でもブラバント団はその残忍性で際立っていた。それよりもなにより傭兵団の出現そのものが「 古い秩序と特権階級、貴族階級が脅かされる危険」を露わとしたので、1179年のラテラノ公会議では「傭兵団を使って戦争を行う者は破門に付す」という決定がなされている。ちなみに実戦では帝国軍よりよりロンバルティア諸都市連合の市民軍の方が圧倒的に強く「レニャーノの戦い(Battaglia di Legnan,1176年)」で大敗を喫している。
    *ラインハルト・バウマン「 ドイツ 傭兵〈 ランツクネヒト〉 の 文化史(Landsknechte、2000年)」
    唯物史観とイタリア・ルネサンス - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
  • またイングランドでは1215年、欠地王ジョンに対して王直参家臣団 が 「 大憲章( マグナ・カルタ)」 の承認を迫ったが、この大憲章にも「王国の不名誉たるべき、外国人騎士、 弩射手、傭兵」の即時追放を規定した一条が入っている。そして同年、ローマ教皇イノケンチウス三世はこれら恐るべき傭兵団に対する十字軍を呼びかけ、破門という教皇の 伝家の宝刀をちらつかせるが、傭兵騎士団(むろん、歩兵も混じっていた)には何の効き目もなかった。
    *そもそもイングランドではノルマン・コンクェスト(1066年)以降、アングロ・サクソン系諸侯は大陸遠征自体に赴かず代納で済ますのを伝統としてきた。これを「大陸より一足早い農場領主化」と表現する向きもあるが、イングランドにおける所領の分散は一円化によって「(領主が領土と領民を全人格的に代表する)農本主義的伝統」を許す状態になく代わって「土地提供者(地主)」「土地利用者(事業経営者)」「実際に現地を耕す小作人」の分業体制が発達したという。
    羊毛をめぐる冒険 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
  • 13世紀に入ると第4回十字軍(1202年〜1204年)によって東ローマ帝国が滅ぼされ、ラテン帝国(1204年〜1261年)が建設された。教皇の命に従ってホーエンシュタフェン家を断絶に追い込んだアンジュー伯シャルル・ダンジュー/カルロ1世(Carlo I d'Angiò、シチリア王1266年〜1282年、ナポリ王1282年〜1285年)はその再建を夢見たが、先手を打たれて「シチリアの晩祷事件(Vespri siciliani、1282年)」でシチリア島を失陥。それに続くアラゴン軍との戦いでフランス騎兵隊を叩きのめしたのが悪名高きアルモガバルスアラゴン語: Almogabars、 カタルーニャ語: Almogàvers、 スペイン語: Almogávares、 アラビア語: al-Mugavari)であった。元来は(ポエニ戦争に際して名称ハニンバルがケルト人契機兵を徴収し「ローランの歌」でローランの部隊を殲滅するバスク人自警団の跋扈する)ピレネー山脈において徴募された傭兵隊で、それまでナバラ王国アラゴン王国カタルーニャレコンキスタに動員されてきた。鎧を身につけず、素肌をさらし、粗末な靴(abarcas)を履き、古代ローマの歩兵軍団と同程度の武器しか備えない辺境民の歩兵で、二つの重い投げ槍、または細身の槍、そして尖った短剣を得物としていた。戦闘の際の動作は俊敏で、まずアズコナと呼ばれる重い投槍を馬に投げつけ、落馬した騎手をコルテルという肉切り包丁とナイフを合わせた様な短剣で比較的装甲の薄い関節部などを切り裂く。カタルーニャの年代記作家ラモン・ムンタナー の記述に「フランス騎士の足はすね当てがついたままで落ち、その刃物は馬の横腹に手の半分まで埋まった」とある。彼らは騎士の替わりに最初馬に乗って攻撃して騎兵隊と戦う事も出来た一方、一度地上へ引き摺り落とした相手側騎士は確実に餌食とし決して助なかった。マクニールによれば、アンジュー伯軍を恐慌状態に陥れた彼ら様な「騎士を騎士として恐れたり敬ったりしない」存在の登場こそが重装衝突槍騎兵万能の時代の終焉を告げる最初の鐘となったのだという。
    *ウィリアム・マクニール「ヴェネツィア(enice: the Hinge of Europe, 1081-1797、1978年)」 

そして百年戦争(1337年~1453年)によってイングランドとフランスの国境が定まり、その後イングランドにおいて「薔薇戦争(1455年~1485年)」が、フランスにおいて「公益同盟戦争(1465年~1493年)」が「獅子身中の虫=大貴族連合」を一掃する。その間に戦争の主体は騎士達の軍役から国王の擁する常備軍へと推移し、これを契機として軍役から解放された騎士達の農場領主化が始まる訳である。

  • ファンタジー世界の騎士は馬に乗っておらず、盾とその重装甲によって軽装兵を守る立場として描かれる事が多い(いわゆる「壁」とか「タンク」役)。こういう「馬から降りて戦闘の先頭に立つ重装兵(しばしば大盾を構える)」が戦場で重要な役割を果たす様になったのもまた百年戦争以降とされる。

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  • 一方、歴史のこの時点で「重装騎兵の乗馬突撃」は必勝法としての役割を終えただけだった。運用次第ではまだまだ勝てたのである。(モンゴル軍侵攻の置き土産ともいうべき)タタール軽騎兵を補助部隊として取り込んで17世紀中旬まで無敗を誇ったポーランド騎兵隊、清教徒革命(Puritan Revolution、1638年1660年)当時、全員騎兵であるが故の圧倒的機動力を駆使して(クロムウェル卿が鉄騎兵や新模範軍(New Model Army)を投入するまで)連戦連勝を飾り続けた王党派などが最後の花形。以降歴史の表舞台から消えていくが、それは軍事発展史と無関係に(中央集権化や内乱激化によって)大規模な騎兵部隊を私兵として養う大貴族連合が消滅していくからであった。フランスでもフロンドの乱(La Fronde 1648年〜1653年)を最後に絶対王政に対する貴族連合の蜂起は完全に時代遅れとなってしまう。

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    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/After_the_Battle_of_Naseby_in_1645.jpg

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/22/Episode_of_the_Fronde_at_the_Faubourg_Saint-Antoine_by_the_Walls_of_the_Bastille.png

  • 17世紀に入るとフランスのバイヨンヌで起きた農民同士の争いから銃剣が偶然発明された。この時興奮した農民が、マスケット銃銃口にナイフを差込み、相手に襲い掛かったのが最初といわれ、この伝承から以降、銃剣はバヨネット(baïonnette:フランス語)もしくはベイオネット(bayonet:英語)と呼ばれる事になる。以降方陣を組んで行軍する常備軍の戦列歩兵こそが軍事力の主体となり、騎兵は偵察・連絡・追撃といった任務をこなす補助部隊に転落していくのである。

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  • 果てしなく未開の荒野が広がるアメリカ大陸では、馬とウィンチェスター連発銃を手に入れたインディアン部族を含め、19世紀まで大規模騎兵部隊に活躍の場があった。しかし同時期の中央アジアでは圧倒的火力を誇るロシア歩兵隊が遊牧民諸族を次々と屈服させていくのである。そして中東の砂漠を舞台に選んだアラブ反乱(1916年〜1918年)の世界。また同様に果てしなく草原地帯が広がるポーランドでは、ナチスドイツとソ連ポーランド侵攻(1939年)に際して騎兵部隊が最後の活躍を見せた。兵站線の警備の手薄な箇所を奇襲するといったゲリラ戦術で、対策されるまでは絶大な効果を挙げ続けたし、そうして計画外の兵力分散を余儀なくさせた事自体が重要な戦果であったともいえる。

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ところで学校で「封建時代(Feudal Age)」という時代区分について習った記憶があるのだけど、今となっては何がそれに該当するかも思い出せない。こうした歴史過程のどれかがそれだった筈なんだけど…