19世紀末から20世紀初頭にかけてのドイツの学者は、やたらめったらマルクスの造語「上部構造/下部構造」を使いまくる。
だが、どうもマルクスの意図した使い方じゃないっぽい…
どうしてそうなった?
史的唯物論(Historischer Materialismus、唯物史観)…19世紀、フォイエルバッハやフランス唯物論者達から唯物論を継承したカール・マルクスの提唱した歴史観。「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の序言で「導きの糸」として定式化された。
人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。
このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているのかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。
一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに、くわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。
これに続いて本文では「アジア的生活様式」「古代的生活様式」「封建的生活様式」「近代ブルジョア的生活様式」の4段階の社会進化論が提唱される。
大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生活様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。
こうした考え方は当時でさえ時代遅れだったスコットランド啓蒙主義の粗雑な模倣に過ぎなかった。そもそも当時は「一旦は敵を見失った革命運動の再建」が最優先課題で、達成手段を選んでいられる状況ではなかった名残と言われている。
問題はこうした歴史段階が当時のいかなる状況に対応していたか。そのうち当人のイメージも適当極まりない「アジア的生活様式」と「古代的生活様式」はとりあえず置く。
- 「封建的生活様式」…19世紀前半の復古王政期に自由主義運動を徹底弾圧したオーストリアやプロイセンの農本主義的伝統と、それを担保してきた国王と教会の権威。ただし二月/三月革命(1948年〜1949年)によって農奴解放が達成されて以降、その打倒を叫び続ける意味は消失し、目標を見失った反体制運動家(政治的浪漫主義者)の多くが運動から離脱するか暴走の果てに自滅した。
*同時代の歴史家ブルクハルトが(ルソー同様、それから解放されて久しいスイス人として)「権力は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」と不快感を表明しているのと重なる。ちなみにヴェストファーレン条約で一緒に独立を勝ち取った筈のネーデルランド共和国はこの時期までにナッソー・オラニエ家を王統とする絶対王政国家オランダ王国へと変貌してしまい、それを嫌って一度は併合されかけたベルギーがフランス7月革命のあった1830年に独立を果たしている。経済的にも随分と痛めつけられた様で、ここに「従属理論」の起源を見る向きも。
「上部構造」概念の起源と「不可視領域に対する認識の深まりがもたらす存在不安の高まり」 - 諸概念の迷宮(Things got frantic) - 「近代ブルジョア的生活様式」…「国王と教会の権威」が絶対的敵対対象でなくなってから「労働者の敵」として急浮上してきた(収入制限選挙を利用して)フランクフルト議会の議席を握ってる議員連中や、ルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世治世下で進行した産業革命の落とし子たる新興政治的エリートとしての二百家など。
*状況の変化によって現役運動家から理論家への転身を余儀なくされたマルクスはこの対立構造のイデオロギー化を急務としたのである。だが皮肉にも当時、実際にこの問題の解決方法に辿り着いたのは(「経済学批判」の出版も請け負ったマルクスのパトロン)フェルディナント・ラッサールの方だった。プロイセン宰相ビスマルクと接触した彼は「既得権益を守り抜く為、議会を牛耳り続けるブルジョワ連中」を通さず国家と労働者が直接結びつく国家福祉主義を吹き込み、その青写真が実際に1871年に建国されるドイツ帝国に採用される運びとなったのである。
フェルディナント・ラッサール(Ferdinand Lassalle、1825年〜1864年)
ところがロシア革命が勃発してレーニンがその指導者として台頭してくるまでの間に、マルクス主義は今日の我々が知るのとは全く別の姿へと変貌していった。所謂「憎むべき偽物の修正主義者達」が跋扈した時代。そして、まさにこれこそがイタリア共産党を創始したグラムシの再建を経てユーロコミュニズムに至る流れの源流の一つとなる。
覇権(hegemony)とは何か? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
カール・マルクスの死後間もなく、マルクス派の経済学が、マルクスの仲間や共著者の内輪を指導者として登場した。特にフリードリッヒ・エンゲルス と カール・カウツキーが大きい。どちらもドイツ人だった。でも、マルクス学派はやがて内部からの修正主義論争に揺らぐ――エデュアルド・ベルンシュタインが、マルクスの古い唯物論的な解釈に対して、人間主義的な挑戦をつきつけたのだった。具体的には、ベルンシュタイン (1899年) は資本主義の経済的な崩壊が「不可避」だというマルクスの考え方を疑問視した。そして、もし社会主義が実現するなら、それは意識的な選択として、政治や教育システムを通じて導くべきもので「必然的」な革命の用意をするだけじゃダメだ、と論じた。似たような立場を取ったのは、イギリスのシドニー・ウェッブ と フェビアン社会主義者たち と、フランスのジャン・ジョレス (Jean Jaurès) だった。
ベルンシュタインの政治的メッセージは、危機と崩壊の理論をめぐって初期マルクス派を揺るがした経済論争につながった。『資本論』第2巻で、カール・マルクスは安定成長の必要条件はあまりに数が多すぎて、資本主義はとても崩壊を避けられないと示唆している。ベルンシュタインの後を受けて、ミハイル・トゥガン=バラノフスキー (1905) はこれに反論して、資本主義は安定成長を実現できるし、だから資本主義の崩壊は必然ではないと論じた。さらに現実的な経験は、資本主義は 1900 年代初期にはどう見ても改善に向かっているとしか見えなかった。
正統マルクス学派の大物たちみんな――カール・カウツキー、ローザ・ルクセンブルグ、ゲオルギー・プレハーノフ等々――がベルンシュタインと修正主義者たち打倒に立ち上がった。でも正統派の応答はバラバラで、それ自体がさらに議論を引き起こした。たとえばカール・カウツキーはまず、マルクスの著作には資本主義崩壊の理論なんかそもそもない、と主張し、それから 1902 年になって、カウツキーは「危機的な不況」の理論があると認めた――ドーンと一発で崩壊するんじゃなくて、繰り返し起こる危機がだんだん深刻になっていくのだ、と強調しているんだというわけ。この理論はまた、ルイス・ボーディン (Louis Boudin) も述べている。
これを追う形で変なひねりを加えたのがローザ・ルクセンブルグ (1913年) だった。要するに彼女は「剰余の蓄積」が何を実現するのかはっきりしていない、と論じた。特に、拡大した生産力によって生産された財を買ってその剰余を実現する人がいない場合には。「財の需要はどこにある?」と彼女は何度も繰り返し尋ねる。マルクス体系の批判の中で、彼女は閉鎖系においては危機は不可避だけれど、開放系(つまり外部に消費が存在する系)では、非資本主義諸国で新しい購買者を獲得することにより、危機は避けられる。帝国主義とは、資本主義国家がまさにそうした消費者を獲得しようとする競争なのだ、と彼女は論じた。
大不況(1873年〜1896年) のせいで「大量生産が大量消費を必要とするメカニズム」が世に知れ渡ったせいとも。
その一方では新たな時代に対応した闘争図式を生み出す装置として帝国主義イデオロギーが流行する。
こうした過程で「上部構造/下部構造」といったマルクス考案の用語/概念がドイツ思想界の一般用語として広まっていく。
- マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」は「下部構造が上部構造を決定する」なる命題に従って「資本主義」という上部構造が定着するには、それにふさわしい下部構造、すなわち勤労慣習やプロフェッショナル意識があらかじめ用意されていなければならないとし、その起源を「プロテスタント的禁欲主義と聖職意識と貯蓄欲」に求めた。
*ちなみに「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」後にドイツ帝国が発表した農業調査は驚くべき結果をもたらした。なんとユンカーの使役する小作人(3月革命によって移動の自由を得た)が、何時の間にかすっかりポーランドからの出稼ぎ農民に入れ替わっていたのである。それまでの小作人は概ね都心部に上京して工場労働者などに転換してしまったらしい。社会と人間の関係を外骨格生物の外殻と中身の関係に例えた「鉄の檻理論(Gehäuse:中身は外殻の全貌など知るよしもなく、外殻に内部の変化を制御する手段もないが、脱皮が間に合わないと一緒に生物学的死を迎える)」とこの現象の帳尻をどう合わせたか気になるところだが、マックス・ヴェーバーはどうやらそれについて公式発言を残してないらしい。
- 一方、ヴェルナー・ゾンバルトの「恋愛と贅沢と資本主義(Liebe, Luxus und Kapitalismus、1912年)」は「個人主義の発展=自由と贅沢の追求」という下部構造が市場経済という上部構造を牽引してきたとする。
*一見正反対に見えるが「国家は理論上あらゆる生産工程を統制出来るのだから、消費者の消費行動だって全て統制可能だし実際統制すべきである」なんて粗雑な市場管理論に対してNOを突きつけたという点では同様のインパクトを備えていた。実際、どっちのタイプもいて市場経済は成立している。
- その逆にカール・シュミットの「政治的なものの概念(Der Begriff des Politischen、1932年)」は「下部構造(議会制民主主義)が上部構造(政治的判断)を規定する」前提自体を否定した。当時このマルクスの用語/概念があまりに流行してた為、それを否定するニュアンスもあったとも。実はロシア革命以降広まった民主集中制はむしろシュミットの立場に近かったりもする。
*ビスマルク宰相と(労働組合を組織した)ラッサールが手を組んで「自らの利権を代表するだけのブルジョワ階層」の政治への影響力を排除しようとした先例、および当時のワイマール政権が議会民主主義を投げ出して始めた大統領内閣(Präsidialkabinett)を彷彿とさせる。まぁ「陸と海と――世界史的一考察(Land und Meer: eine weltgeschichtliche Betrachtung、1942年)」の中で「陸の国(欧州)と海の国(英米)の最終決戦が始まる」と叫びたいばっかりに「地中海は遠浅で海の条件を満たしてないから(味方である)イタリアも陸の国」「無敵艦隊が滅茶苦茶弱かったから(中立を保ってる)スペインも陸の国」という方便を駆使した様な御仁なので「下部構造(政治的対立構造)が上部構造(政治的スローガンの内容)を決定する」という信念においてブレはない?
「お題」に選ばれながらマルクス自身の革命思想なんて痕跡も残っていない。というのも産業革命拡散による供給過多状態がもたらした大不況時代(1873年〜1896年)を経て「(産業革命がもたらす)大量生産は(庶民の消費者化といった)大量消費によって支えられねばならぬ」という常識が広まり「生産力の総計こそ国力」なる時代遅れの発想自体が完全に歴史の掃き溜め送りになってしまったから。要するに効用主義経済学(Utilitarianism Economics)の一時的勝利…
*実際、江戸幕藩体制下の江戸が近代化以前なのにその人口が百万人を超えていたのは「庶民の消費者化」なら完了していたからとされる。欧州でこれに一番最初にこれを達成したのがイギリスのロンドンで、次がフランスのパリだったとも。庶民向け商品の品揃えが急に充実するのでその時期を見定めるのはそれほど難しい事ではない。
マルクスはロンドンに住みながら「下部構造(生産手段)が上部構造(支配階層)を規定する」「欧州で最初に革命が起こるのはイギリスである」と連呼し続けた。その時点で既に致命的間違いを犯していたのかもしれない。
ところで当時のドイツ政界は、フランス第三共和制同様に「決められない政治」に苦しめられていた。そして。その絶望感を背景に(極めて独裁色の強い)ワイマール政権の大統領内閣(Präsidialkabinett)やカール・シュミットの「敵友理論」が台頭を許された様にも見受けられる。
「歴史観の歴史」なる難易度の高い迷路 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
こうした状況をさらに詳細に俯瞰したのがドイツのヘッセン州ヴィースバーデン出身のユダヤ人社会学者ヘルムート・プレスナー(Helmuth Plessner, 1892年~1985年)の「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes 1935年)」だった。
ここでプレスナーは「ドイツ人に起こった歴史過程の多くは信仰の世俗化(die religios Verweltlicchung)すなわち信仰の代替物として、何らかの形で時代遅れとなった部分が活きの良い等価物に差し替えられ続けていくメカニズムで説明出来る」とする。
- アウブスブルグの宗教和議(1555年)によって領邦教会制が採用された結果、ドイツでは(上部構造としての)宗教による民族統合が不可能となった。
*宗教による民族統合に着手した国からはまず真っ先にユダヤ教徒やユグノーといった異教徒が追放されるのが常なのだが、ユダヤ人としてその辺りをどう考えていたのか。実はピーター・ドラッカーも同様の事を述べている。謎としか言い様がない。 - それで18世紀から19世紀にかけて神学に代わって音楽や哲学が、それが限界を迎えると歴史学(普遍史観)が、それさえも限界を迎えると今度は社会学と生物学が失われた信仰(上部構造)の代替役を押し付けられてきた。
*これこそまさに信仰の世俗化(die religios Verweltlicchung)プロセスそのもの。何を試みてもある段階から急速に専門化と細分化が始まり誰も全体像を顧みなくなってしまうのでイデオロギーとしての寿命がその時点で尽きる。これもまた儒教史に有り勝ちな展開? - そしてこうした試みが全て潰えると「ドイツ民族の生存本能の様なもの(バラバラで統一性にかけるただの断片の寄せ集め)」だけが残留する事態となり、これを吸い上げたヒトラーのNSDAPに勝機が巡ってくる。
*どうやってそれを達成したのか? 政権獲得期のヒトラーはあえて国民統合のビジョンは伏せ「すべての区画からシンデレラ城は見えるが隣同士の区画は完全視野外となるディズニーランド」としてNSDAPをプロパガンダした。「企業家は企業家なりの不満を。中産階級は中産階級なりの不満を。労働者は労働者なりの不満を。国防軍は国防軍なりの不満を。義勇兵は義勇兵なりの不満を。どうぞ好きなだけ投影してください。その総体がNSDAPです」といった具合。後醍醐天皇も建武の中興(1333年〜1336年)で試みたとされるパラソル型統治。そのモデルはモンゴル世界帝国だったというから、起源はおそらくアケメネス朝ペルシャの様なオリエント多民族帝国にまで遡る。フランス絶対王政もオスマン帝国を模倣する形で取り組んだとされるが、なぜか最終的には国王専制体制として完成する事に。ナチス・ドイツも同様。気づくと何故かシンデレラ城だけが全てになっていたという次第。
「夢の王国」としてのナチス・ドイツ - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
そしてプレスナーによれば、最後にとうとう「ドイツ特有の情念の一切を投入して生物学への信仰と民族の根源性への信仰を結び合わせて直接行動に向かわせるイデオロギー」がゆっくりと姿を現わす。それまでドイツ人が忘却の海に沈め続け、強引に無意識下に葬り続けてきたおぞましき堆積物の復讐…前時代を席巻した帝国主義イデオロギーの有り得ない形でのリバイバル…
それにしても同じ生物学レベルの反応でもアメリカのそれとは空気感が随分と違う。ある意味「夢を夢と知った上で架空のファンタジーとして楽しむ」ハリウッド映画的文法と「夢をあえて現実として生きようとする」ロマン主義的文法が対極の関係にある様なもの?