諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

米国における「剥き出しの資本主義」

メキシコとの国境地帯で農場を営む匿名のアメリカ人はこう怒りをぶちまける。「今年だけでもう、行き倒れの不法入国者を5人も埋葬したよ。州政府の指導に従って目立つ箇所に緊急用の食糧や水を配置してある。助成金も受け取っちゃいるが、完全に赤字だよ。それでもそこまでさえ辿り着けず勝手に力尽きて勝手に死んでいきやがる。そして俺はまた今年も人道団体から「無垢な善人を見殺しにした殺人鬼」として槍玉に挙げられる。これ以上一体どうしろっていうんだ。もう本当にいい加減にしてもらいたいよ。俺の農地で勝手に死ぬな」。記憶の細部はあやふやだけど、確か数年前のニューズウィーク日本語版にそんな感じの記事が掲載された。

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Charlie Knows - Mexico U.S. Border. (Yes, Mexico is on the right)

日頃からネット経由でアメリカの人種問題に触れていると、日本で横行してる「世界中が知っている。日本人こそ世界史上最低最悪の人種差別民族だという事を!!」なんて類のスローガンがゲシュタルト崩壊を起こす。

同種の洗礼を「日本の歴史小説家」司馬遼太郎も30年以上の米国で受けたらしい。

 

司馬遼太郎アメリカ素描(昭和60年,1985年)」で語られる歴史観

1930年前後、自らの利益の為には弱者が死のうが生きようが勝手という資本主義的エゴイズムと非人間性を極めて筋肉質な荒々しいタッチで露呈してみせた「怒りの葡萄(The Grapes of Wrath,1939年)」を発表して一世を風靡した米国人作家ジョン・スタインベック(1902年〜1968年)は、サイナスというスペイン語由来の風靡な土地の出身である。ドイツ系出納吏の子として彼がそこで生まれる56年前、アメリカはカリフォルニア州そのものをメキシコ人から奪い取った。そして作品の舞台となった時代にはロッキー山脈から東の諸州に大砂嵐が吹き荒れ、夜になっても星さえ見えない状況が続いて農地が砂丘に変わり果ててしまう。オクラホマ州の地主から追い出された賃金労働者達達は25万人という巨大な大流民となって三千キロも離れたカリフォルニア州を目指す。あたかも古代中国の様な景色だが、最大の違いは彼らが武装移民団を編成ししなかった事、そして大恐慌の最中だったにも関わらずこの大陸の可能性を無邪気に盲信していた点にあった。カリフォルニア州には果樹園がある。果樹園の摘み取りの為の季節労働者となる道がある。しかしある時期までのアメリカほど労働力が露骨に市場商品となった国は少ない。一人の募集枠に数百人ないし数千人が押し掛ける過当競争が生じた結果、想像を絶する価格暴落が引き起こされてしまう。

カリフォルニア州の「地付き商品」達は既得権を守る為、自衛せざるを得なくなった。まず最初に着手したのが彼らを仮に人種に見立てて徹底的差別を加えて「商品」の対象外に追い込もうとする社会進路的作業である。かくして(本作の主人公たるジョード一家を含む)オクラホマからきた流民達は「オーキー」「汚ぇ畜生野郎」と侮蔑される様になり、団体を結成して棍棒や催涙ガスや小銃などで武装した「地付き商品」達の発揮する残虐性に曝される事になった。

もっともこの州にはそれ以前から「格安商品」が届いている。まず19世紀後半から中国人が押し寄せ、大陸横断工事敷設に際して低廉な重労働の担い手として酷使された挙げ句の果てに鉄道完成後、全員解雇された。彼らが農場に雇われる様になると、たちまちその商品としての破格の安さから競争相手の白人の恨みを買い「チンクス」と侮蔑される様になる(日本で明治維新が成立した1968年には既に中国系アメリカ人は7万人を超えていた。明治30年代(1897年〜1907年)には30万人、カリフォルニア州全人口の実に9%を占めていたという。これで衝突が起こらない筈がない!!)。その後に押し掛けたのがさらなる捨て値で働く事を厭わない日本人で、その立場故にジャップと侮蔑され第二次世界大戦終了まで深刻な抑圧を受け続け、しかも蓄財して農場主や事業家に転換する者まで現れる様になると同業者からさらなる憎悪を買ったのである。日米戦争が勃発すると「ジャップ」はたちまち白人達の呈の良い鬱憤晴らしの対象となり、日系人は全財産を接収され白人にそれをただ同然で転売された上に収容所送りとされたのである。まことこの文明は筋肉質で乱暴で単純かつ苛烈と言わざるを得ない。

そんなアメリカという国について生涯考え続けたスタインベックの故郷サナリスはサンフランシスコから南へ200キロほど向かった場所にある。今では誰も居なくなってしまったその土地に建つ生家はニューイングランド風といった単純な言葉で言い表せない折衷主義の産物で、実際ドイツ系の祖父が開墾した土地の一部を継承した彼の父はアイルランド系小学校教師と結婚している。「アメリカ社会では開墾地に家と校地を獲得すると余所者を警戒する様になり、集落が出来上がると集落ぐるみで自警団を結成する様になる」という認識はまさにこの土地で養われたのだった。なにしろ彼の少年時代にはドイツ系もアイルランド系もまだまだ肩身が狭かった。少なくとも白人としての筋目「WASP(White、Anglo‐Saxon、Protestant)」の仲間扱いはされていなかった。

アイルランド系が嫌われ者の役を引き受けてくれるまでドイツ系が自衛の為に寄り添っていた時代を忘れるな。そのアイルランド系もポーランド系が往来するとアメリカ人の仲間入りを果たした。南イタリアから移民が押し寄せる様になってスラブ系移民がそう見做される様になったのと同様に(ジョン・スタインベック「アメリカとアメリカ人(America and Americans,1966年)」)」

スタインベックはさらに続ける。中国系がアメリカから侵入者(Invaders)と見做されなくなったのは日系の登場のせいだと。その日系にとっての救世主はインド人、フィリピン人、メキシコ人であったと。「一般人の警戒と敵視が全てだ。アメリカ人を、いや人類を買い被るな。所詮はそんなものだ。自分達も含め相当厄介な生物と覚悟しておけ」。これが彼の到達した結論らだった。両親が共稼ぎで生計を立てていた為に彼は奨学金スタンフォード大学に通い、結局は資力が続かず中退するのだが、専攻は海洋生物学だった。スタインベック文学特有の人間を突き放して俯瞰する独特の視点の背景には生物学的教養が大きく寄与していたのである。

英国では決してアングロ・サクソンの範疇に含まれる事のないスコットランドプロテスタントは大西洋を超えた途端にWASPの仲間入りを果たした。従ってスコットランド系のマッカーサー元帥がWASPである事を疑うアメリカ人はいない(考えてみればエドガー・アラン・ポーもそうか)。アイルランドプロテスタントもアメリカに到着した途端にWASPとなった。カーター前大統領がそうであった様に。レーガン大統領もそうではなかったか。

司馬遼太郎のまとめ方がまた凄まじい。

私は日本史における応仁の乱(1467年〜1477年)は、乱というより革命意識のない一種の生物学的な発熱と脱皮現象だったのではないかと考えている。アメリカではその応仁の乱に似た現象が、細胞再生の為に無自覚のまま絶えず勢いよく繰り返され続けている。

確かに生物学レベルの運動は同じ生物学レベルの運動と比べるのが正しい。

ギリシャ哲学の影響で形而上学的思考に慣れてる欧州人には案外苦手分野かも。

そしてプレスナーによれば、最後にとうとう「ドイツ特有の情念の一切を投入して生物学への信仰と民族の根源性への信仰を結び合わせて直接行動に向かわせるイデオロギー」がゆっくりと姿を現わす。それまでドイツ人が忘却の海に沈め続け、強引に無意識下に葬り続けてきたおぞましき堆積物の復讐…

 この空気感の違いが欧州と英米を分かつ精神的国境線なのかもしれない。

大不況(1873年〜1896年)の影響で移民を大量に出したオーストリア=ハンガリー二重帝国の目にはどう映ったか?

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ところで時は1990年代別後半。米国で開発された某MMORPG上にて全く同じ景色が繰り返された。対象はまたもや日本人。「奴らある時間になると一斉に襲来し、その途端に急にサーバが重くなる。だから少しでも快適に遊ぶ為、一人でも多く殺す。管理者が指をくわえて黙認してるから、オレ達がやってる。一体そのどこが悪い⁉︎」。殺戮の為に百人単位で集まったPK集団はそう豪語していたという。

 そう原因は1995年に始まった「テレホーダイ」のせいだったんですね…

 そして悪夢は終わっていなかった…