諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

チーズと時計とチョコレートの産業革命

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 産業革命と聞くと大抵の人間が「英国におけるキャラコ(綿織物)の例」を思い浮かべるでしょう。人によっては「様々な矛盾が植民地の人々に皺寄せされた」とも?

そこで視野を広げるべく、同時期工場化が進んだ他の「世界商品」にも目を向けてみました。正直、登場メンバーがかなり被ってます…何かみんな羊臭いよ? 確かに「お金の匂い」に敏感に反応する層は重なって当然?

むしろ心配になってくるのは別の話。「人が争って絹織物を求める時、本当に求めてるのは絹の肌触りとかじゃなくて王侯貴族の真似事なんじゃなかろうか?」「養殖技術の進化で今や誰でも鰻が食べられる様になった。でもその鰻は本当に昔の人が御馳走として食べてた鰻と同じ鰻なんだろうか?」。食べ物や持ち物の話となると、当然そういう側面が急浮上してくる次第。

 【チーズ】その起源を巡る議論

https://www.evernote.com/shard/s45/res/570a2d07-ff28-4062-95a3-2da687ae65b5

チーズ(英語: cheese、フランス語: fromage、ドイツ語: Käse、イタリア語: formaggio)は古くからある食べ物で加工食品として最古の歴史を有する。その起源は先史時代まで遡り、自然にレンネットの恩恵に与ることのできる、反芻動物の胃でつくった囊にいれて乳を運搬する習慣があるところには必ずついてまわる。そして欧州では中世停滞期を経て産業革命の時代から大規模な工業生産が始まった。

その発祥の地がどこであるかを示す決定的な証拠はなく、ヨーロッパや中央アジアあるいは中東かは定まっていない。中欧のポーランドでは紀元前5500年ごろのスウィデリアン文化時代におけるチーズづくりの道具が発見されており、これが現在のところ最も古いチーズ製造の証拠である。そこから下って紀元前3100年ごろになるとサハラやメソポタミアの牧草地帯でエジプト人とシュメール人によって酪農が営まれていたという有力な証拠が存在する。

◎それまでチーズの起源として想像されてきた最古の年代は羊や山羊が家畜化された紀元前6000年前後であった。紀元前3000年ごろには酪農がエジプトとシュメールで行われた記録があり、サハラの草地ではさらに早くから行われていたことをうかがわせる。チーズをつくっておくことは高温気候でも乳が保存できる唯一の方法であるため、チーズづくりはそもそも酪農が営まれていなければ始まらない。動物の皮と空気を吹き込んだ内蔵とは古代からさまざまな食料を貯蔵しておく容器の役割を果たしていた。おそらくチーズづくりの歴史とは、反芻動物の胃でできた入れ物に留め置いた乳がどうなったかを偶然に発見したことに始まる。胃にのこっているレンネットによって乳がカード(凝乳)とホエー(乳清)とに変化することに気づいた人間がいるのだ。アラブ人の伝説がチーズの発見者とたたえるのはこのようにして乳を貯蔵した紀元前12世紀ごろのアラブの商人であるが、すでにシュメール人たちの間ではチーズはよく知られた食べ物になっていた。例えば、紀元前21世紀頃のシュメール王朝、ウル第三王朝のシュルギ王の時代に記された粘土板文書には、年間63リットルのチーズが生産されていたことが記録されており、また、紀元前18世紀のハンムラビ王の時代には、市場で売買されているチーズに高い税が課されていたことがハンムラビ法典の碑文に記されている。そしてチーズづくりは西アジアから大きく三つの世界へと拡がったというのが従来の説である。ホロートやビヤスラグといった種類のチーズが生まれたモンゴル、次にパニールやチャーナが発祥のチベットやインド、最後にギリシャ・イタリアなどを入り口とするヨーロッパ、ということになっていた。

ところが、近年になってこの従来の説を覆しかねない大発見があった。人類最古のチーズ製造の痕跡は意外なことに欧州のポーランドで発見されたのだ。これは陶器の破片で、イギリスのブリストル大学などの国際研究チームがこれに付着していた物質を詳細に分析したところ、山羊の乳のチーズであること、この陶器がチーズの漉し器であること、が判明した。これは約7500年前のものでスウィデリアン文化にあたり、メソポタミアシュメール人の時代よりも古く、上記のチーズ発明の推測時期とほぼ合致する非常に古いものである。これをもってポーランドがチーズの起源と断定することはできないが、少なくともこの大発見により、中東や北アフリカに起源を求めていた従来の定説が、根底から覆される可能性が浮上したのである。そもそもチーズの起源を求めるときは、当時の世界各地の気候条件や植生が現在のものとは大きく異なっていたことを考慮すべきであった。当時のポーランドは、酪農およびチーズ製造に適した気候条件にあったのだ。

実際のチーズづくりには、より貯蔵に適した状態にするためにと凝固した乳に塩して押し固めることは絶対条件ではない。乳を動物の胃のなかにいれたほうが、結果的に風味もよくなりしっかり凝結することを観察することが、意図的にレンネットを加えることにつながったのだろう。ヌーシャテルの湖上に建てられたアーンフィールド文化期の水上住宅からは、チーズの漉し器とおぼしき穴が開けられた陶器の破片が見つかっているが、チーズ(GA.UAR)とはっきりわかる最初期の痕跡は紀元前2千年紀ごろのシュメール人楔形文字の文章である。チーズづくりの絵画的な史料としては古代エジプト墓所に描かれた壁画があげられるが、これは年代としては紀元前2000年ごろにあたる。その頃のチーズはきわめて酸味と塩気が強いものである可能性が高く、風味の似通ったものを探すならば田園風のカッテージチーズか、フェタチーズ、あるいは脆いが味わいのあるギリシアのチーズあたりになるだろう。青銅時代の後期、ミノア・ミケーネ文明のころのクレタでは、線文字Bによる銘板にチーズ(tu-ro)の目録がつくられているし、羊の群れを放牧して育てる人間がいたこともわかっている。

【チーズ】オランダの特産物と認定されたカッテージチーズ

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カッテージチーズ(cottage cheese)は、コッテージチーズやコテージチーズとも呼ばれるオランダ原産の軟質なフレッシュ(非熟成)チーズの代表格。北海道などでは牛乳豆腐などとも称される。脱脂乳などから作られ、白く脆い外観をしており、味は淡白で、わずかな酸味とさわやかな風味がある。 水分を約80%含む。そのままサラダにされるほか、ドレッシング、サンドイッチや洋菓子に用いられる。 酢やレモン汁を乳に加えて凝固させ、水洗いして酸味を抜き水を切るという方法で家庭でも比較的簡単に作れる。また脱水・凝固後に布巾などでくるみ、重石を載せてさらに脱水・成形したものがパニールであり、インドやパキスタンなどアジア諸国で広く食されている。

【チーズ】ペルシャ=インド二重文化圏の定番パニール

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パニール(panīr - ヒンディー語: पनीर, ウルドゥー語ダリー語・ペルシア語: پنیر )とは、インド、パキスタンアフガニスタン、イランなどの地域で一般的に使われるチーズのこと。および、そのチーズを主材料に作られた料理名。水牛の乳や牛乳を温め、レモンまたはライムの汁、酢など酸性の液体でタンパク質および脂肪分を凝固させて乳清から分離したカッテージチーズをインドなど南アジア諸国ではチェナーと呼び、それを押し固めたものがパニールである。外見は豆腐に似ている。 チェナーはパニールにするほか、練って菓子(ラスグッラーなど)などにも用いる。

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インドでは、パニールを食べやすい大きさに切ってから油で表面を揚げて料理に加える。サーグ(青菜の煮込み)にパニールを加えたサーグ・パニールヒンディー語: साग पनीर、ウルドゥー語:ساگ پنیر)またはパーラク・パニールヒンディー語: पालक पनीर、ウルドゥー語:پالک پنیر)やグリーンピースパニールを加えたマタル・パニール(mattar panīr、ヒンディー語:मटर पनीर、ウルドゥー語:مٹر پنیر)が有名。数あるインド料理の種類のうち、パニールは特にムガル帝国の宮廷料理起源で主にレストランや祝い事の席で供されるムグライ料理、およびパンジャーブ地方の郷土料理に端を発するパンジャービー料理(Punjabi Cuisine、インド・パキスタン分離独立によるパンジャーブ出身者の移住にともなってインド各地および国外に広まりムグライ料理と合わせ北インド料理レストランのメニューの主流を占める様になった。ギーやクリームを多用した濃厚な味わいが特徴)で特に多く用いられる。ヨーグルトおよび各種スパイスでマリネしてから串に刺してタンドールなどで炙り焼いたものはパニールティッカという。

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アフガニスタンでは、球状に固めたパニールをパニーレ・ホム (پنیر خم / panīr-e khom) と呼び、固める前に塩を加えたパニールはパニーレ・ショウル (پنیر شور / panīr-e shour) と呼ぶ。アフガニスタンでは、パニールを料理に使うよりも干しぶどうと一緒に間食として食べることが多く、この組み合わせをキシュミシュ・パニール (قشمش پنیر / qishmish panīr) と呼ぶ。

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イランでは、牛乳や山羊の乳から作るフェタチーズに似た製法のチーズのことをパニールと呼ぶ。ナンとパニールラディッシュ、青葱、コリアンダー、クレソン、タラゴン、ミント、バジルなどのハーブや生野菜を取り合わせたものは、イランの食卓には欠かせず、この事を端的に例えた「ナーノ・パニーロ・サブズィー・ホルダン (نان و پنیر و سبزی خوردن / Nān-o panīr-o Sabzī Khordan) 」という言葉もある。ナンにパニールをのばしてから野菜やハーブをのせて食べる。

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【チーズ】ギリシャの特産物と認定されたフェタチーズ

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フェタチーズ (φέτα, feta) はギリシャを代表するチーズで羊あるいは山羊の乳からつくられる。白色のねっとりした塊状の外観で、食塩水中で熟成させるために強い塩味がある。そのままメゼの一品として、またサラダやサガナキ、おかずパイの素材としても食べられる。ギリシャ国外では、牛乳や水牛の乳で作られることもある。これまではデンマーク産やドイツ産でもフェタと呼ばれてきたが、欧州委員会がフェタの名称をギリシャ産に限り認められるようにすることを決定したので他国産フェタは2007年10月15日以降名称を変更して販売しなければならなくなった。イランのパニール、トルコのベヤズ・ペイニル、ブルガリアのシレネ、ルーマニアのブルーンザ、モルダビアのブリンザなど、バルカン半島や中東地方には、フェタと同様の製法のチーズが広く存在する。

【チーズ】古代ギリシア・ローマ時代のチーズ

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中東よりも涼しい気候のヨーロッパでつくられたチーズは保存のためにそこまで加塩を必要としなかった。塩分や酸味が抑えられているということは、チーズが有益な微生物にとってよい環境になり、成型も容易になるということでもある。そして時間をおいたチーズにはっきりとした、それでいておもしろい風味が加わることにもつながった。

古代ギリシアの神話においてチーズを発見する名誉はアリスタイオスに帰せられており、紀元前8世紀後半のホメーロスの「オデュッセイア」には、サイクロプスが羊山羊の乳からチーズをつくる姿が描かれている。

“ 我々はすぐに奴の洞穴に着いたが、牧羊に出ていて中は空であった。そこで我々は足を踏み入れ目につく全ての貯蔵品を頂いたのた。チーズ籠はチーズであふれ、子ヤギと子羊とは檻におさまりきらないほどの数が飼われていた(…)奴はそうしてしまうと座り込み、雌羊と山羊から乳をしぼっては順に放ち、その子らに乳を吸わせるに任すのだった。そして乳は半分ほど凝固させ、小枝細工の漉し器にかけておくのだ(…) ”

エピクロスが自分のパトロンに送った固いチーズの丸々ひとつをもとめる手紙が残っているように、彼は好きなときにこのごちそうを楽しむことができたのだろう。プリニウスもローマでチーズの上に暮らしたゾロアスター教徒のならわしを記録に残している。古代ギリシア人は乾燥して固くなったチーズを好んでいたとされており、栄養価の高い強壮剤や精力剤としても食されていた。キューブ型に刻んでオリーブ油漬けにする食べ方もある。

https://www.evernote.com/shard/s45/res/d372d22d-98cd-4ad1-8e57-956779b4c750

ローマの時代ともなると、チーズは日々の食事として親しまれるとともにチーズづくりも熟練の業が求められていく。ルキウス・ユニウス・モデラトゥス・コルメラの農書「デ・レ・ルスティカ」(65年ごろ)にはチーズづくりの工程が書かれており、レンネットによる凝固、凝乳の成形、塩蔵、熟成と詳細である。77年に著された大プリニウスの「博物誌」では、一章を割いて (XI, 97) 初期のローマ帝国の人々が多様なチーズを楽しむ様を描いている。プリニウスによれば最良のチーズはニームに近い村でつくられたものだが、保存がきかないのでフレッシュなまま食べなければいけないのだという。一般に食されていた古代ローマ時代のチーズは燻製にしたものが多かったとされる。また、超硬質チーズは保存性に優れ栄養価も高かったことから、遠征に出る兵士が保存食として携行していたと考えられている。

【チーズ】付け合わせとして栽培された西洋梨

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セイヨウナシ(西洋梨、 学名:Pyrus communis)はヨーロッパ原産のバラ科ナシ属の植物、およびその果実であり、洋なしともいう。ヨーロッパ、北アメリカ、オーストラリアをはじめ世界中で広く食用に栽培されている。和なしと同じく古い起源は中国だが、西(ヨーロッパ)に移動して分化。古くは古代ギリシアから栽培されており共和制ローマの政治家大カトも6種類の栽培品種について記述している。帝政期では歴史家大プリニウスが調査し40種類の栽培品種が存在したと記している。当時の洋なしは生のまま、あるいは火を通して食べるか、品種によっては酢や酒に加工された。ローマ人の手によってヨーロッパ各地に普及し一時期栽培品種の数が60種に及んだがローマ帝国滅亡の後に中世ヨーロッパに残った品種は6種類となる。しかし徐々に盛り返し16世紀には500種近い栽培種が作られた。現代では商業的に強力な品種を組織的に流通させるため、栽培品種は10種程度に絞られており、他の種は忘れ去られてゆく傾向にある。その伝播時期と伝播範囲が重なるせいか欧州ではしばしばロックフォール・チーズやブリー・チーズといった最古級の塩分の強いホワイトチーズと組み合わせた料理を見掛ける。

シャルルマーニュ大帝の好んだロックフォール(8世紀〜9世紀)

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ロックフォール (Roquefort)はブルーチーズと呼ばれるアオカビで熟成されるチーズの代表格。 フランス南部ミディ=ピレネー地域圏アヴェロン県のロックフォール=シュル=スールゾン村の地下に広がる洞窟に、コムギとオオムギの粉で作ったパンを設置して採取、繁殖させたアオカビの一種 Penicillium roqueforti により熟成させたヒツジの乳から作る。フランス最古のチーズともいわれ、伝説的には数千年前、この村内のコンバルー山北側斜面に形成された巨大な洞窟で、羊飼いがたまたま置き忘れたチーズに青カビ菌が付着してこのチーズが出来たとも言われる。現在もこの洞窟で採取されたアオカビを使い、またこの洞窟を利用した熟成庫で熟成させたものでないと、ロックフォールとして販売出来ないアペラシオン・ドリジーヌ・コントロレAOC、原産地統制呼称)指定を受けている。記録によればある時、シャルルマーニュロックフォールの村の近くの修道院に立ち寄ったが、そこで食卓に出されたチーズに青カビがついていたのでナイフで削って食べていたところ、接待役の修道僧が『王はこのチーズの一番美味しいところを捨てておられる』と指摘。そこで青カビのついたままのチーズを食べて、そのチーズが大変気に入り、ロックフォール修道院の青カビチーズを毎年2ケース、王宮に届けるように命じる。ところが、王の命を受けた接待役の僧侶にとってはそれが苦難の始まりとなった。ロックフォール•チーズは、その特殊な製造方法ゆえに生産量がかなり限られており、しかも青カビチーズは長期間の保存もできず(冷蔵庫もなかった当時ならなおさら)、王の命を受けた僧侶は青カビチーズを求めてフランス中を探し回らなければならなくなったというのである。そして、その話を耳にした王が哀れな僧侶に慈悲の心を持った、との記録も残されている。

カール大帝について日本人が知っておくべき事? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

ウィーン会議を躍らせたブリーチーズ(8世紀〜9世紀)

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ブリーチーズ(Brie cheese)はパリ盆地の東に位置し、南北をセーヌ川とマルヌ川の渓谷とに挟まれているフランスのブリー地方の特産品。最初に食し、絶賛したのはシャルルマーニュ大帝であったといい、ルイユ・アン・ブリー (fr:Reuil-en-Brie)の修道院を訪れた際にそこで食したとの言い伝えがある。モー村(現在は都市)のブリー・ド・モーが有名。癖は少なく、しかも濃厚な味わいのブリーはフランス人を始め世界中に多くのファンを持つ定番チーズとされる。その他に同じイル=ド=フランス地域圏でセーヌ川上流にあるムランを産地とするブリー・ド・ムランがある。こちらはブリー・ド・モーよりも赤褐色を帯びており、前者とは異なる独特の濃い味わいがある。この2つはAOCに指定されている。ルイ16世フランス革命後に馬車で国外へ逃げる際(ヴァレンヌ事件)、捕らえられて連行された市長宅にて食べ物は何がほしいかと訊かれブリー・ド・モーを要求したという逸話がある。それどころか、亡命を図る馬車の中でもこのチーズを食べたいと言って馬車を止めてしまったほどである。またナポレオンへの対抗策として結集したはずのウィーン会議では「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたように政治会議は二の次で毎晩豪華な宴会が催された。その中で各国のチーズの王座を決める会議が発案され、ブリーが1位に選ばれたという。

カール大帝について日本人が知っておくべき事? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

【チーズ】世界三大ブルーチーズの1つゴルゴンゾーラ(9世紀)

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ゴルゴンゾーラ伊:Gorgonzola)はロンバルディア州ピエモンテ州をまたがる地域で生産されているイタリアの代表的なチーズのひとつ。フランスのロックフォール、イギリスのスティルトンと共に世界三大ブルーチーズに挙げられている。1996年6月12日以来、統制原産地呼称(DOP)を取得している。カード(英: curd)とアオカビを交互に重ねて作られたもので、内部には筋状のアオカビが走っており、特徴的な刺激臭がある。ミラノ近郊のゴルゴンゾーラが名前の由来だが、既にこの地域では製造されていない。9世紀頃に、春から夏にかけて高地で放牧していた牛を秋に平野へ降ろす際、途中にあるこの村が休憩所となっていた。ここで疲れた牛から搾られた乳で作ったチーズが柔らかくておいしかったので、ストゥラッキーノ・ディ・ゴルゴンゾーラ(stracchino di Gorgonzola)と呼ばれるようになったのが始まりと言われている。このチーズは大きく2種類に別けられ、青カビが多く辛味の強いものはピッカンテ(伊: piccante、「辛い」の意)、クリーミーでほんのりとミルクの甘味の残っているものがドルチェ(伊: dolce、「穏やか」の意)と呼ばれる。ピッカンテはそのまま食べることもあるが、リゾットに入れたり、ゴルゴンゾーラソースを作ってパスタにかけるなど料理に使われることが多い。長らくドルチェの人気が圧倒的であったが、最近では古典的なピッカンテの人気も急増している。

【時計】機械式時計の起源(8世紀〜13世紀)

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機械式時計が最初に出現したのは中国であった。早くも8世紀初旬には世界初の脱進機構を備えた水車式天文時計が登場し,1090年には宋の都に15分ごとに時を告げる大型の水車式時計塔が設置されたが12世紀以降顧みられなくなる。

これがイスラーム諸国とアンダルス(イベリア半島)経由でヨーロッパまで伝播し、966年には修道僧時代のローマ教皇シルウェステル2世(Sylvester II、 Gerbert)が「自動的に鐘を鳴らして祈りの時間を村人に知らせる装置」を教会の鐘楼に取り付けたとされるが、この時代まではまだまだ富裕層の玩具の域を出ていなかった。13世紀にはロンドンのウエストミンスター寺院やセントポール寺院にも塔時計が設置されたとされているが証拠は現存していない。


1206年、アル=ジャザリが「城時計」という天文時計を発明。世界初のプログラム可能なアナログコンピュータとされている。黄道十二星座、太陽と月の軌道、月相を示すことができる。月相を表した針が門の上を移動し、門が1時間おきに自動的に開く。そして、5体のロボット楽団が音楽を演奏する。その動力源は水車で駆動されたカムシャフトでてこを操作することで得られていた。昼と夜の長さをプログラムの変更で変えられるようになっていた。

【チーズ】西ローマ帝国滅亡から中世にかけての停滞

https://www.evernote.com/shard/s45/res/dd3e403d-b9cd-4daa-9e20-1b5b239a932e

 チーズづくりがヨーロッパで古くから定着していたことはヘレニズム初期の神話からも読み取ることができる。大プリニウスによれば、ローマ帝国が成立する時代には経済活動としてすでに洗練されていて、高価なチーズは上流階級のローマ人の舌を満足させるために長い距離をものともせずに取引されていた。

ローマの人々が馴染みのない新たに入植してきた民と出会い、その隣人たちが持ち込んだチーズづくりの伝統や家畜の群れ、口にしたことのない「チーズ」にあたる言葉に接していくなかで、ヨーロッパにおけるチーズは多様化していく。土地ごとに発展をとげてきたチーズづくりの伝統や種類が反映されるのである。長い距離を行き来しての取引が廃れるにつれて未知のチーズとの邂逅を果たすのは旅人だけになる。


例えばノトケル・バルブルスが描いたシャルルマーニュ皇帝の人生には、初めて出会った外側も食べられるホワイトチーズが一つの佳話を添えている。彼はロックフォール(Roquefort)やブリーチーズ(Brie cheese)などの気に入ったチーズを毎年納めさせており、帝国へ上納するためのチーズの生産のために村の財政が傾くほどだったと言われているのである。

ローマ帝国全盛期にはヨーロッパ全土に派遣されたローマ軍の兵士がチーズを広めたといわれ、その後は荘園と修道院でチーズがつくられる様になり、土地ごとの細菌叢の影響を受け地方色がさらに生かされるようになった。修道院ではワインと共にチーズの生産が行われていたため、チーズは「酔っ払いのビスケット」と呼ばれていた。修道士が違えばチーズも異なるというような固有性は現代のブランド戦略にも通じるものがある。たとえば今日の英国チーズ委員会も、イギリスには地方ごとにつくられるチーズはおよそ700にもわたると主張している。フランスとイタリアではそれぞれ400ほどの種類があり、フランスのことわざ通りに、年ごとに毎日違ったチーズがあるということになる。それはかつてシャルル・ド・ゴールが口にした「はたして246種類もチーズがあるような国を治めることなどできるのだろうか?」という疑問の裏返しなのだ。

通俗小説は原作者から愛されない? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

このように各修道院で多様な種類のチーズが小規模に生産されていた一方で、1個のチーズに1000リットルの乳を使うようなエメンタールチーズやパルミジャーノ・レッジャーノの生産では地域住民が総出で生産する大規模な生産体制が取られていた。


ヨーロッパにおけるチーズの製法の進歩はローマが凋落すると何世紀にもわたって停滞することになるが、それでもチーズは距離を隔てた交易の要の品であった。また、貨幣経済が未発達で貨幣流通量の少なかった中世ヨーロッパではチーズはその輸送の容易さから税として物納されており、例えばフランスのピュイ=ド=ドーム県にあるミュロルでは、1418年に500kgのチーズが税として納められたという記録が残っている。


しかし同時にほとんど中世の長きにわたって農民の食事と誹りを受け、貴族の食卓にはふさわしくなく、良家の人間の健康を害するものとさえ考えられていたのである。ラングランドの「農夫ピアズの夢」(1360-87年ごろ)の主人公と仲間の農民たちは寓話的に描写された飢饉を象徴する存在と出会い、こう言われる。


「私が得たものといえば、一対の新鮮なチーズ、わずかなカードとクリーム、オートミールのビスケット、豆を塊ふたつ分、私の子供のために焼きかためたふすまぐらいのものだ」。


今日あるようなチーズの多くがはじめて記録されるのは中世の後半からそれ以後にかけてのこととなるが、それらが今日の種類分けとどの程度まで重ねられるかを判断する術はない。1891年に発明されたリーデルクランツ・チーズの誕生とその亡失は、チーズが絶えるとはどういうものかということの実例でもある。

牛乳チーズに対する偏見

そもそも地中海周辺や中東では、チーズといえばもっぱら羊とヤギの乳を原料にしているのが伝統で、牛の乳のチーズは不当な扱いを受ける事もあった。古代ギリシアでは、牛の乳のチーズは健康を害すると言われてい足し16世紀に入っても例えばトスカーナシエナ出身の医師ピエトロ・アンドレア・マッティオーリ ( Pietro Andrea Mattioli ) が牛の乳のチーズに否定的な意見を述べている。「牛の乳の熟成チーズは、チーズの中でも最低である。体内の炎症を悪化させ、渇感をもよおし、消化も悪い。結石の要因となり、肝臓の機能を低下させる。当然、体全体の機能が低下して、欝まで発生させる」。ちなみにその一方で絶賛したのが故郷のトスカーナ産ペコリーノ(Pecorino、羊乳を原料とするチーズ)であった。とはいえ舌が肥えている人達にとってイタリア北部産のパルミジャーノやグラーナチーズは「格別に美味なるもの」だったらしく1300年代、ボッカッチョは「桃源郷 ( paese di Bengodi ) 」について「かの国は山と盛られたパルミジャーノチーズとマカロニの逸品が供されるところ」と書いている。

【チーズ】イタリアチーズの王様パルミジャーノ・レッジャーノ(12世紀)

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パルミジャーノ・レッジャーノ(parmigiano reggiano)はイタリアを代表するチーズのひとつ。イタリアチーズの王様とも呼ばれる。名前は地名からきており、パルマ、レッジョ・エミーリア・モーデナ・ボローニャ(レーノ川より西)・マントヴァポー川より南)といった各県のエミリアロマーニャ地方で作られ、DOPの認定を受けたものだけが刻印を押されて「パルミジャーノ・レッジャーノ」を名乗ることができ、認定を受けられなかったものは側面に×印をうたれてしまう。ちゃんと内容が確認可能なのは1597年以降だが、西暦781年から1828年にかけてモンテッキオ ( Montecchio ) やサンティラーリオ ( Sant' Ilario ) 周辺はパルマ大司教の領地とされており、ベネディクト修道会だけがこの地でチーズを生産する事を許されていた。彼らは優れた灌漑技術を駆使して牧草を茂らせ、多くの牛の確保に成功し、1200年代からエミーリア街道沿いのピエーヴェ・モドレーナ ( Pieve Modolena ) よりボルゴ・サン・ドンニーノ ( Borgo San Donnino Fidenza ) の細長い一帯にかけてペコリーノ(Pecorino、羊乳を原料とするチーズ)の製法を応用した「できるだけ長く保存できるチーズ」の生産に着手。当初から「parmigiano ( パルマの ) 」と呼ばれてきたそれは、1個のチーズに1000リットルの乳を使い、地域住民が総出で生産する贅沢品だったが、商業上の大動脈であるエミーリア街道が間近を通過しており最初から採算が取れていたと考えられている。やがてミラノの南部、ポー側の左岸、ティチーノ ( Ticino ) とアッダ ( Adda ) といったロンバルディア地方でも、シトー派の僧たちが卓越した開拓の技量を振るって牧草地を増やし、この地でも「grana lodigiano ( ローディのグラーナチーズ ) 」が生産される様に。原料は、前日に搾った牛乳を一晩置いて分離した乳脂肪分を抜いたものと当日の朝搾った牛乳を混合したものを用いるので、製造出来るのは1日1回だけ。 水分を完全に抜き切り、18から36カ月、長い物では5年以上熟成させる為、超硬質のハードチーズとなり、アミノ酸が結晶して白い斑点ができる。この製造過程で出来る乳脂肪分はマスカルポーネなどの原料に使われ、乳清はプロシュット・ディ・パルマ用の豚の飼料になる。主にすりおろしてパスタなどにかけられるほか、塊のままバルサミコ酢に浸して食べられる。このチーズを加えるだけで料理の味が格段に増すことから、イタリアでは「台所のハズバンド(夫)」と呼ばれている。ポー川流域で作られているよく似た製法のチーズにグラナ・パダーノがあり、どちらもグラーナと呼ばれる種類のチーズだが、パルミジャーノ・レッジャーノはより狭い地域でしか生産されてない。

英国伝統の味チェダーチーズ(12世紀)

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チェダーチーズ (Cheddar)は牛乳を原料とするセミハードタイプのチーズ。チェダリングという特徴的な工程を持つ。はっきりとした刺激の強い味を備えているが最も一般的なチーズのひとつであり、ゴーダチーズと並びプロセスチーズの主な原料となっている。「マカロニ・アンド・チーズ」や「ウェルシュ・レアビット」といった英国料理にはこれが欠かせない。

元来はイングランドのサマセット州チェダーで作られていたが、アメリカやオーストラリアなど世界中で生産されている。あまりに多くの地域で生産されているために、同じ「チェダーチーズ」と称していても、低脂肪のものから高脂肪のものまでバリエーションも様々である。本来淡い黄色(オフホワイト)をしているが、オレンジ色に着色されることもある。着色にはアナトー色素が使われることが多い。一般に着色されたものをレッド・チェダー、着色されていないものをホワイト・チェダーと呼んで区別する。また、アメリカではホワイト・チェダーをバーモント・チェダーと呼ぶこともある。チーズへの着色は古くから行われていたが、なぜ着色をするのか、1860年頃にはすでにその理由は分からなくなっていた。ジョセフ・ハーディングは「純粋なものよりまぜものを好むロンドンの消費者はチーズ生産者にアナトーによる着色を強いているが、私はアナトーにおける一つの改良を発表しなければならない」と述べている。このチーズを特徴づけるものにチェダリングという工程がある。加熱後にカード(牛乳の凝固成分)をこねて塩と混ぜあわせ、ホエー(乳清)を抜きやすくため四角く切ったものを積み重ね、熟成させるのである。通常、カードとホエーは、生まれたばかりの子牛から取られたレンネット(凝乳酵素)を使って分離される。熟成時、チーズを常温に保つために、しばしば特別な施設が用いられる。世界のほかのチーズ産地同様洞窟は理想的な環境であり、現在でもウーキー・ホールやチェダー・ゴージ (Cheddar Gorge) の洞窟でチェダーチーズの熟成が行われている。6ヶ月以上の長期熟成が行われ乳酸カルシウム (Calcium lactate) の大きな結晶を含む、伝統的な製法でつくられるチーズの質感は堅いが、農家の自家製チーズなどでは構造が脆いものもある。15ヶ月以上かけて熟成されたチーズは、ストロング・チェダー(strong Cheddar)、エクストラ・マチュア・チェダー(extra-mature Cheddar、超熟成チェダー)といい、ヴィンテージとも呼ばれる。

生産方法によって大きく二つに分けられる。すなわち、伝統的なチーズ職人が手がけるアルチザナル・チーズ(artisanal cheese、職人チーズ)と、安価に大量生産することを可能にしたインダストリアル・チーズ(industrial cheese、工業チーズ)である。アルチザナル・チーズは、時とともに複雑で強い味わいを深めていく。現在生産される「チェダー」の大半を占めるインダストリアル・チーズは、幾分かは食品添加物による味の強調もなされるが、「マイルド」「ストロング」「オールド」などと包装に記される味わいを保証している。現在生産されるほとんどは工場で生産されて四角く成型されているが、ごく少数、農家で生産されているものがあり、こちらは円盤状をしている。かつては汚れを防ぎ、なおかつチーズが「呼吸」できるよう、表面に黒いワックスが塗られたり、タールを塗った黒い布で包まれたりして流通していた。現在、こうした包装は、職人によるチーズの一部にのみ見られる。

ちゃんと内容が確認出来るのは1500年以降だが「アルチザナル・チーズ」は少なくとも1170年には生産されていた。この年以降のヘンリー2世のパイプ・ロール(財務府記録)に、このチーズの生産と課税の記録が残っている。一説にこのチーズの製法は、古代ローマ人がガリア(フランス)から持ち込んだものともいう。伝統的にウェルズの大聖堂 (Wells Cathedral) から半径30マイル(48km)の範囲で作られるものとされてきた。


19世紀に入るとチェダーチーズ生産の近代化と標準化が進められる。その中心となったのがジョセフ・ハーディング (Joseph Harding) で、技術開発と酪農衛生の向上に無償の努力を尽くした。チーズ生産の過程にカードを切るための「リボルビング・ブレーカー」などいくつかの道具を導入した人物でもある。こうして「ジョセフ・ハーディング方式」が、科学的な方法に基づくチェダーチーズ生産の最初の近代的システムとなった。ハーディングは、次のような言葉を残している。「チェダーチーズは野原で作るのでも牛舎で作るのでも、牛で作るのでもない。工房(dairy)で作るのだ」。またジョセフ・ハーディングとその妻は、チェダーチーズのスコットランドや北米への紹介に力を貸した。夫妻の息子ヘンリーは、オーストラリアにチェダーを紹介している。また理想的なチーズとして、1864年に書き残した文章の中で次のように述べている。「詰まっていて堅い質感を持つが、その特徴と性質は甘美である。口に入れれば溶けやすく、味はすばらしく満ちあふれる。喩えるならばヘーゼルナッツに近いだろう」。

第二次世界大戦中、イギリスでのチーズ生産は、戦時経済統制のため、ほとんどただ一種類のみとなった。「官製チェダー」(Government Cheddar)と言われるもので、その結果イギリスの多くのチーズメーカーが消失したという。第一次大戦後は3500ヶ所あった事業所は、第二次大戦後には100ヶ所を下回ってしまった。

今日、イギリスのチーズ市場ではチェダーチーズが売上額の51%を占め、極めて一般的なチーズとなっている。一方、1980年代後半からのスローフード運動の中でチェダー評議会(Cheddar Presidium)が結成され、「チェダー」名称の制限を主張している。その条件は欧州委員会による「ウェスト・カントリー・ファームハウス・チェダーチーズ」の条件よりも厳しく、「サマセットで生産されていること」、「未殺菌牛乳、レンネットなど伝統的な製法で作られること」、「布で包装されること」の3点を「チェダー」の条件として義務づけるべきだとしている。

アメリカ合衆国においては、工場で「チェダー」スタイルのチーズが生産されているが多くは名のみで、実際には風味をつけたプロセスチーズである。たとえばイージーチーズや、個別包装されたスライスチーズなど、本来のチェダーチーズとは似ても似つかないものもある。インダストリアル・チーズとしての「チェダー」も、いくつかの種類に分かれている。すなわち、マイルド(mild)、ミディアム(medium)、シャープ(sharp)、エクストラ・シャープ(extra sharp)、ニューヨーク・スタイル(New York Style)、コルビー (Colby) あるいはロングホーン(Longhorn)、ホワイト(white)あるいはバーモント(Vermont)である。「ニューヨーク・スタイル」は、特に刺激の強いチェダーであり、ほかのチェダーよりも柔らかい。「コルビー」「ロングホーン」は、マイルドからミディアムにかけての味を持つが、チーズに含まれるカードの塊がはっきりしているのが特徴で、淡い黄色と白のまだら模様に見える。ホワイト・チェダーはバーモント州で生産されたかに関わらず「バーモント・チェダー」と呼ばれることがある。

チェダーチーズは、アメリカ合衆国農務省が酪農業の動向を測る統計に用いる品目の一つである。価格と生産量の調査報告は週刊の報告書にまとめられている。アメリカで最もチェダーチーズを生産する州はウィスコンシン州である。ほかに、カリフォルニア州ニューヨーク州のアップステート、バーモント州オレゴン州ティラムックがチェダーチーズ生産の中心地である。

【チーズ】オランダを代表するゴーダチーズ(12世紀)

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ゴーダチーズ(英語:Gouda、オランダ語:Goudse kaas)は、エダムチーズと並ぶオランダを代表するチーズで、オランダにおけるチーズ生産量の60%を占める。ロッテルダム近郊の町ゴーダで作られたことからこの名前がついた(夏季の毎週木曜日には観光客向けのチーズ市が催されている)。 正確な起源は不明だが12世紀頃にまで溯るとされることが多い(確実なのは1697年以降)。外見は黄色がかった茶色い円盤型で、正式なサイズが直径35cm×高さ11cm・重さ約12kgと決められており、それより小さなものを総称して「ベビーゴーダ」と呼んでいる。中は白から黄色。熟成と共に色が変化する。 熟成されたゴーダの中には表面が黒いものもある。クミンシードやニンニクなどを用いて香りをつけたものもある。主な材料は牛乳とレンネット(凝乳酵素)。チーズの種類としてはセミハードに分類される。 味はマイルドで日本では比較的広く親しまれている。オランダでは土産物として空港などで売られている他、食料品店、チーズ販売店などでもほぼ置いている。チーズ店などでは特に包装をしていないものを常温で積み上げている場合もあるが、これは表面をロウでコーティングしてあり、ナイフを入れない限り熟成が急激に進む心配がないため。他に、フィルムにくるんだものや、真空パックのように包装したものもある。日本では、チェダーチーズと並んでプロセスチーズの主要な原料として用いられているとされる。また、ゴーダチーズを原料としたスライスチーズが明治から販売されている。

【時計】公共用機械式時計の普及(14世紀〜18世紀)

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現存する最古の公共用機械式時計が登場したのは1344年のパドヴァで、それ以降は次第にヨーロッパ各都市に普及し16世紀までにあらゆる市庁舎や協会が時計塔を備える様になり、17世紀には農村の教会にもその文化が広がった。

日本でも1551年にフランシスコ・ザビエル大内義隆に献上したのを嚆矢として独自の和時計を製作する様になり、やがて全国どこでも城下町なら和時計が自動的に時を告げる「時の鐘」が設置される様になり、17世紀中旬から18世紀にかけては地方の農村の寺院の梵鐘用にまで利用される様になった。どちらの文化圏でもその普及が「(貨幣経済浸透といった)資本主義精神の精神の広がり」と時期を同じくしているのが興味深い。

【チーズ】大航海時代以降の世界への拡散

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1546年のジョン・ヘイウッドのことわざ集には「月は緑のチーズでできている」というものがある(ここでいう「緑」とは、今日多くの人が考えるように色のことではなく、新鮮で熟成されていないことを表している)。こういった情趣のバリエーションは長い伝統をもっており、最近ではNASAも2006年のエイプリル・フールの日に このおとぎ話をパロディ化した声明を発表したことがある。


時代が下りヨーロッパの文化が広まる現代になるまで、東洋、コロンブス以前のアメリカ大陸、限定的な利用に留まった地中海以南のアフリカなどではチーズの話題はほとんど聞かれることはなく、この食べ物が普及し人気を博したのはヨーロッパとその文化の影響を強くうけた地域だけである。とはいえヨーロッパ初期帝国主義の影響力増大によって欧米文化と食生活が広まることで、チーズはしだいに認知され、世界的に人気がでるようになる。イギリスからアメリカへと渡るメイフラワー号にもチーズが積まれていたというが、ヨーロッパ、中東、アメリカの外ではまれに一地方の民族的な料理の一部とみなされることがまだあった。

【チーズ】カール5世が認可したチーズ市が起源のエダム・チーズ(16世紀)

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北部のエダム(Edam)地方が原産で牛乳を原料としている。エダムとはエ(E または IJ)川をせき止めたダム(Dam)という意味で、かつてここはエ川がゾイデル海(現在のアイセル湖のこと)に注ぐ河口であった。1230年頃にダムが出来、ゾイデル海からエ川上流へ向かう貨物船は一旦ここで荷を積み替える必要が生じ、それに課税する場所としてこの町の最初の経済基盤が形作られる。その後、造船業と漁業で発展し1357年には都市権も与えられた。16世紀には造船所が33を数え、新しく造られた港はオランダ各地はもとより国際物流の基地としてエンクハウゼン、ホールンアムステルダムなどと共に栄えたという。しかし1544年には内陸の洪水を防ぐため、河口を塞ぐことがローマ皇帝 カール5世から命令されたため、17世紀以降港湾業は衰退を辿った。その一方で代償として皇帝からチーズ市を毎週開催出来る権利が与えられ、以降はチーズ生産業がこの町の経済を牽引していく事になる。公式のチーズ市は1922年に終焉したが、1989年に観光用として復活。今も市民団体が有志で継承し続けている。現在では世界のチーズ消費量の20%を占めると言われており、日本で最初に生産されたチーズもこれだった。

【チーズ】コルベール重商主義が生んだミモレット(17世紀)

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ミモレット(Mimolette)の原産地はフランス北部フランドル地方ノール=パ・ド・カレー地域圏のリールだが、製法がエダムチーズと同じことからオランダ原産とする説もある。 起源は17世紀。財務総監のジャン・バティスト・コルベールの採った重商主義政策によりイギリス、オランダ製品に高関税がかけられ、エダムチーズが入ってこなくなったのでその代替品として作られたとされている。

フランスのプロテスタンティズムと資本主義の精神 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

【チーズ】南イタリア発祥のモッツァレッラ・チーズ(18世紀)

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モッツァレッラあるいはモッツァレラ(mozzarella)はイタリア南西部のカンパニア州が原産。その呼称は製法にちなみ「引きちぎる」を意味するイタリア語「mozzare」に由来するとも、硬い表面が無いため「シャツを着ない」を意味する「scamozzata」を語源とするともいわれる。スペイン継承戦争(1701年〜1714年)からポーランド継承戦争(1733年〜1735年)の間スペイン支配下から脱した18世紀サレルノで誕生。くせの無い味わいで、独特の弾力ある歯ごたえが特徴である。熟成工程を経ないためフレッシュチーズに分類される。本来の原料は水牛の乳であるが(モッツァレッラ・ディ・ブーファラ)、牛乳で代用したものもある(モッツァレッラ・ディ・ヴァッカもしくはフィオル・ディ・ラッテ)。一般に水牛の乳を原料とするものの方が良質とされるが、乳牛より飼育が難しく乳の量も少ない為に希少価値から値段が高い。「パスタフィラータ」と呼ばれるイタリア南部独特の製法によってつくられる。乳が凝集した状態であるカード(イタリア語ではパスタと呼ぶ)に湯を注いで練り、餅のような弾力がでてきたところで、引きちぎって整形する。重さは一つあたり約280グラムが標準である。そのまま食べてもよいが、味や香りにくせがないのでパスタやピザ、グラタンなどの料理に広く使われる。生のモッツァレッラのスライスとトマトのスライスを合わせてバジリコを添えたサラダは、インサラータ・カプレーゼと呼ばれ、カンパニア地方の前菜では定番である。

【チーズ】チーズの女王カマンベール(18世紀)

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カマンベールチーズ(Camembert cheese)は、フランスのカマンベール(仏: Camembert)原産のチーズのひとつでチーズの女王とも呼ばれる。ブリーチーズの製法が1790年にカマンベール村のマリー・アレルに伝えられ生産が始まったとされる。軟質チーズの表面に白いカビ(学名:Penicillium camemberti、Penicillium candidum。生物種としての Penicilliumはアオカビ属)を生やして熟成させる。コクとうまみがあり、赤ワインとよく合い、料理にもよく使用される。日本国内では、殺菌して熟成が進まないようにしたパック入りや缶入りのものが多く出回っている。フランスの詩人レオン=ポール・ファルグはカマンベールを眺めつつ、その芳香を嗅いで「ああ、神の足よ!」と感嘆の声を挙げている。カマンベール・ドゥ・ノルマンディ (Camembert de Normandie) は1983年にアペラシオン・ドリジーヌ・コントロレAOC、原産地呼称統制)に選定された。このため、「カマンベール・ドゥ・ノルマンディ」を名乗るためには、厳格に伝統的な製法を踏襲しなければならない。

【チョコレート】ヨーロッパへのチョコレート伝来(16世紀)

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紀元前2000年ごろからメソアメリカで栽培されてきたカカオは、15世紀まで貨幣として流通するほど珍重されてきた。アステカでは税あるいは貢ぎ物としても納められていたという。当時のメソアメリカでは、カカオを粉にしてコーンミールや唐辛子、バニラなどの香辛料を入れ、ベニノキの種子で色を付け、水や湯に溶かしたものにイアフラワー(Cymbopetalum penduliflorum)などの花から作った調味料を加えたカカオ・ペーストを、主に嗜好品として、また薬用や強壮用として飲用していた。

16世紀までカカオの実から作られた飲み物がヨーロッパに知られることはなかった。中央アメリカ島部に到達後、スペインのフェルディナンド国王とイザベラ女王に見せるためにカカオの実を持ち帰ったクリストファー・コロンブスについてさえ、チョコレートを飲んだという記述はない。コロンブスの息子によれば、最初にチョコレート(カカオの実)を見たヨーロッパ人はコロンブスで、1502年のコロンブス最後の航海時であったという。

16世紀のスペイン人のイエズス会神父で、伝道のためペルー、後にはメキシコにて暮らしていたホセ・デ・アコスタは次のように書いている。「非常に不快な味のするかすや泡があり、体験したことがないほど気分が悪くなる。だが現地の者たちには大変尊ばれており、高貴な来訪者をもてなすのに用いられる。この国に慣れ親しんだスペイン人ならば男女を問わずこの飲み物に貪欲となる。彼らはそれを飲むことで暑さや寒さその他さまざまなものが和らぐと言い、唐辛子を大量に入れる。さらに胃腸に良くカタル予防になると肌にも貼り付ける。」。

1544年、ケクチ・マヤ族の使節がスペインのフェリペ皇太子(のちのフェリペ2世)を表敬訪問した際には飲料として、容器とともに宮廷に運ばれたという。その後王侯貴族の間で好評を博したのみならず、庶民も飲むようになった。カカオの取り引きが最初にあったと記録されているのは1585年にベラクルスからセビリアへの積荷としてである。当初は現地と同じレシピのまま輸入されたが、やがてヨーロッパでは特有の苦味を打ち消すため砂糖や牛乳を加え、唐辛子の代わりに手に入りやすいコショウやシナモンを使うようになり、イアフラワーの代わりにローズオイル、麝香など高価な香料を取り入れた。

それから程なくスペイン人はアフリカ人の奴隷を使いカカオのプランテーション栽培を始めたが、当初はスペイン以外に普及する事はなかった

1560年にはジャワ島にもカカオ栽培を伝えたが、インドネシアで大々的に生産される様になったのは20世紀に入ってからで、特に1980年の市場暴落後の30年で生産を伸ばしている。

【時計】大航海時代におけるクロノメーターの発達(16世紀〜19世紀)

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16世紀以降の大航海時代、ヨーロッパ諸国は、遭難や座礁、長びく航海による病気や費用に悩まされていた。早くから南北の緯度の計測は可能だったが、東西の経度を計測する手段がなく、海上で正確な位置を把握することが出来なかった為である。天体の運行を解明することで、正確な経度を導き出せると信じられていたため、天文学者天体観測に没頭していた。1598年、スペインのフェリペ3世は経度測定に終身年金を出すと発表した時には、ガリレオガリレイ木星の観測から経度を知る方法を書き送ったといわれている。17世紀にはイギリスやフランスで王立科学アカデミーや王立天文台が設立された。この結果、天文学は飛躍的に進歩したが、経度を測定する実用的な方法はそれでも見つからないままだった。

時計による経度測定…母港の時間を正確に刻み続ける時計があれば、航海中の船の上で経度を計算することが出来る事は知られていた。出発地の正午に時計を合わせ出航し、航海中のある日、太陽が一番高い時に時計を見れば時差が分かるのである。24時間で経度360度分なので、西へ航海し時差が2時間であれば経度30度分、つまり3,000km西に進んだ事が分かる。1度が赤道上107km、1秒あたり445mだから、経度測定に時計を使うのであれば秒単位の精度が必要だった。ところが当時の時計は安定した地面の上でさえ1日に10分以上もずれるため、この方法は非現実的なものとみなされていたのである。

経度コンクール…1707年に2000名もの犠牲者を出したイギリス海軍の事故を機に、イギリスで経度測定を推進する経度委員会が設立された。当時の優秀な天文学者、物理学者で構成され、かのアイザック・ニュートンもメンバーだった。1714年、経度委員会は経度法を制定し、イギリスからカリブ海西インド諸島までの6週間の航海において、0.5度の誤差で経度を測定する方法(どんな方法でも)を編み出した者に、20,000ポンドの賞金(現在価値で2億円)を与える事が発表された。これは時計の誤差で2分にあたり、揺れ続ける船上で1日あたり数秒のずれも許されないという、現代でも厳しい基準であった。

クロノメーターの開発…1714年、イギリスのジェレミー・サッカーは真空の箱に水平に保持される時計を提案し、これを「マリンクロノメーター」と名づけ、この言葉は高精度な船舶用時計の名称として広く使われる様になった。しかし温度変化に弱く、航海に必要な精度にはほど遠かったため、実用化されなかったのである。1735年、ヨークシャー出身のジョン・ハリソン(John Harrison)は、海上での振動や湿度、温度変化に影響を受けない独自のメカニズムのクロノメーターH1を開発。摩擦や振動に強いグラスホッパー脱進機(退却式脱進機)や温度補正のバイメタルを備えていた。ハリソンはその後も改良を重ね、1759年に開発したH4が実験航海で初めてコンクール基準をクリア。6週間の大西洋の航海でわずか5秒しか狂わなかったという。キャプテン・クックが南極探検に使用した時計もハリソン製作のクロノメーターで、現在H1からH4はグリニッジ立海事博物館に展示されている。

かくして経度測定に時計が有効であることが証明され、時計職人達はクロノメーター製作に駆り出され、イギリスの時計産業の急成長が始まった。同時に大洋を自由に航海できるようになったイギリスは強大な海軍力で世界中に植民地を築いていく。1860年当時、200隻以上配備していた英国海軍は、800個のクロノメーターを保有していた。19世紀、7つの海の支配者、世界の工場と呼ばれた大英帝国の絶頂期を迎えることができたのは、クロノメーターの発明が一役を担っていたといえる。1884年、グリニッジ天文台が経度0度の地点となり、世界標準時GMT)に定められた。

チョコレートのフランス宮廷への伝播(17世紀〜18世紀)

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フランス王ルイ13世在位1610年〜1643年)がスペイン王女アナ・マリーア・マウリシアと結婚すると、チョコレートを好むアナが嫁入りの際に持参したため、フランスにチョコレートがもたらされた。ルイ13世の息子ルイ14世(在位1643年〜1715年)も1661年にチョコレート好きのスペイン王女マリア・テレサと結婚したため、フランスでは上流階級からチョコレートが広まり始める。マリア・テレサはまた、チョコレートを飲む道具一式と、チョコレート専門の料理人(後にいうショコラティエ)を連れて輿入れしてきた。17世紀後半にはイギリスにも伝わり、ロンドンで最初のチョコレートハウスが1657年に開店している。1689年には医師で収集家のハンス・スローンがジャマイカでミルクチョコレートドリンクを開発。当初は薬剤師向けに作られていたが、その後キャドバリー兄弟に権利を売却した。苦い飲み物から甘い飲み物に変化したことで、チョコレートは17世紀頃にはヨーロッパの王侯貴族の間でカカオは贅沢品として定着していった。

1660年代までにフランス人植民者が英国人植民者に勝利したマルティニーク島で砂糖と一緒に栽培が開始されている。

近世の「時計産業」概観(17世紀〜18世紀)

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18世紀の時計産業は、イギリスやフランスのマリンクロノメーター(海洋精密時計)の開発と王侯貴族相手の高級時計の製作が中心だった。貴族達のために作られた時計は、ルイ15世様式と呼ばれる宝石や象嵌の装飾を施したケースに収められた置き時計や、鳥かご時計、からくり人形など、芸術性が高く、また極めて高い技術を要する工芸品だったのである。

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オルゴールの歴史(17世紀〜19世紀)…その原型は17世紀頃のスイスの時計職人がカリヨンを鐘の代わりにピンを利用して演奏させるものであった。それまでにもカリヨンは機械化されて一定の間隔で鐘を鳴らすように作られていたものがあったが、鐘の代わりに調律した金属片を用いることで小型化を可能にした。後に時計がぜんまいによって小型化したように、オルゴールもやがて家具のように大型なものと携帯できる小型なものに別れた。 シリンダーは通常、金属で作られ、動力源はゼンマイである。複数の曲目を演奏できるようシリンダーが横にスライドする構造がとられたものも多い。また高価ではあるが、より多くの曲目を演奏できるようシリンダーをムーブメントから取り外して交換できるものもあらわれた。インターチェンジャブル・シリンダー・オルゴールである。これは1862年にパイヤールが発明し、1879年にジュネーヴのMetertによって完成された。18世紀初頭に作られた初期のオルゴールはシリンダー型であり、時計職人が手製で作ることもあって非常に高価だったが、19世紀になり機械技術や加工技術が高度化すると金属製のディスクにピンが植えられたディスク型のオルゴールがドイツから現れた。ディスク型オルゴールはシリンダー型よりも安価かつ大量に量産でき、ディスクを交換することでシリンダーよりも簡単に曲目の変更ができたため、瞬く間にディスク型のオルゴールは普及していった。ディスクが上下して2曲を演奏するものもあった。 シンフォニオン(Symphonion)やポリフォン(Polyphon) のようなモデルでは、シリンダーの代わりにディスクが使われた。これらは新しい市場を求めてアメリカにいくつかの工場を開いた。 ポリフォンアメリカ代理店は後にポリフォンから独立しレジーナ社に変わり、シンフォニオンはアメリカシンフォニオンとなる。こうしたディスク型のオルゴールの台頭によってスイスのシリンダー・オルゴール・メーカーは大きな影響を受ける。対抗するために独自の構造を持つディスク・オルゴール"ミラ"や"ステラ"などを製造しはじめたが、間もなく現れた蓄音機に、特にジュークボックスとして置かれていた大型のオルゴールはシェアを奪われ、以後は小型のオルゴールが少数生産されるにとどまっている。

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ジャック・ド・ヴォーカンソン(Jacques de Vaucanson, 1709年〜1782年)のオートマタ(自動人形)…1727年、8歳の時に貴族からリヨンに自身の工房を与えられ機械の組み立てを許される。同年レ・ミニームを治める行政官の訪問を受け、人間を模した機械の製作を決めた。そのオートマタは晩餐の給仕をし、食卓を掃除するというものだったが行政側はそれを「冒涜的だ」と断じ、彼の工房の破壊を命じている。1737年には「笛吹き人形」を製作。等身大人形で笛と太鼓で12曲のレパートリーを演奏する事が出来た。翌1738年に科学アカデミーで披露。当時ヨーロッパ中で流行していたオートマタの多くは玩具程度だったので話題となる。同年後半には「タンバリンを叩く人形」と「消化するアヒル」を製作。アヒルの消化自体はパトロンとなってくれる金持ちや有力者を感心させる為のインチキに過ぎなかったが、その腸に使われた柔軟なゴム管は世界初の発明だった。1741年にはルイ15世に宰相して仕えたフルーリー枢機卿から(産業革命の始まったイングランドスコットランドの後塵を拝していた)フランス絹織物生産の検査官に任命され、絹織物製造工程の改善を任される。1745年にはBasile Bouchon や Jean Falcon の先駆的成果を¥発展させて世界初の完全自動織機を開発し、半世紀以上も後になってジョゼフ・マリー・ジャカールが改良を施して繊維産業に革命を起こし、20世紀に入るとその「データ入力」という考え方がコンピュータに応用される事になるパンチカード・システムを発明。しかし彼の提案は職人に受けが悪く、街中で石を投げつけられた事すらあるくらいでその大半が無視された。それでも1746年には科学アカデミー会員に選ばれ、1751年頃(Derry & Williamsは1768年としている)に開発した総金属製の旋盤を開発している。それらは百科全書にも掲載されている。世界初の自動車「キュニョーの砲車(1769年〜1771年)」の開発もパトロンだったショワズール宰相(1764年に亡くなったルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人の寵臣)が、1769年にルイ15世の愛顧を得たデュ・バリー夫人の取り巻きの手で更迭されるとそれっきりだったし絶対王制末期のフランスでは万事がこんな風に王侯貴族の気まぐれ次第だったのである。

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一方、スイスでは、市民が政治と文化を担っていたため、普及品の懐中時計の生産が中心で、規格化された部品(エボーシュ)がイギリスやフランスにも輸出されていた。従来の1個の時計を1人の職人が最後まで作り上げる従来のスタイルは、合理化された分業スタイルに変化していく。着実にスイスの時計産業は発展を続けていたのである。

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主要な時計生産地であったスイスのジュラ地方は、ジュネーブの北、フランスと国境を接するジュラ山脈に囲まれた渓谷で、現在でも有名なラ・ショー・ド・フォン、ヌーシャテル、ル・ロックル、フルーリエなどの村々が点在している。意外にも時計を作る兼業農家が多く、農作業のない冬の間は時計部品を製作していたという。

【時計】スイス時計の伝統の担い手登場(18世紀)

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1735年、ジュウ渓谷の小さな村ヴィルレで、ジャン・ジャック・ブランパン(Jehan Jacques Blancpain)が工房を開いた。これが、世界でも最も古い時計ブランド、ブランパンの始まりとなる。

ジャン・マルク・バシュロンが長い修行の末、製作した時計がジュネーブ市の時計ギルド(時計師組合)のマスターピースに認定され、1755年、後にバシュロン・コンスタンタンとなる時計工房をローヌ川沿いに構える。そしてジュウ渓谷で作られる部品(エボーシュ)をエタブリスールと呼ばれるジュネーブの職人が組み立てる分業スタイルを確立し事業を拡大していく。

1758年、ラ・ショー・ド・フォンの時計師ピエール・ジャケ・ドローは、自身の時計の技術をスペインに売り込むためマドリッドに旅立った。見事なオートマトン(からくり人形)が連動する置き時計は、国王フェルナンド6世に気に入られ、ピエールは王室御用達時計師として認められる。息子のアンリ・ルイが製作した3体のオートマトンはヨーロッパ中の評判となり、各国の宮廷に招待されるまでになった。

1770年、ル・ロックルの時計師アブラハム・ルイ・ペルレは、回転する錘(ローター)で自動的に時計のゼンマイを巻き上げる機構を発明。普段、ポケットを収めている懐中時計には不向きでしたが、この発明は後世の腕時計のオートマチック機構に応用される事になる。

1791年、時計師ジャン・フランソワ・ボットがジュネーブに時計工房を設立。ここで作られる超薄型時計はヨーロッパ中で評判となった。トスカーナ公に贈られた時計はフィレンツェ金貨に収められ厚さわずか3.3mm。この工房が後のジラール・ペルゴ社となる。

時計の歴史を200年早めた天才(18世紀)

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1747年、ジュウ渓谷ヌーシャテルにアブラアン・ルイ・ブレゲが誕生。15歳で時計師の養父の紹介でフランスのベルサイユに修行に出、1775年にはパリのシテ島に時計店を開いた。当初は故郷ジュラ地方の安価な部品を組み立てた時計を売りながら生活を支えていた様だが、1780年ペルレの開発した自動巻き機構を改良した懐中時計「ペルペチュアル」が好評を博し、王侯貴族からの注文が殺到。かの王妃マリー・アントワネットもこの世で最も美しく複雑な時計の製作を依頼した。

1789年、フランス革命により王侯貴族の時代は終わり、ブルジョワ市民階級の時代が訪れる。王室御用達時計師だったブレゲは市民からの弾圧から逃れ、故郷のスイスで新しい機構の開発に情熱を傾けた。1795年にパリに戻ったブレゲは、温めていたアイデアを次々と実現させていく。中でも、パーティーの同席者に気づかれずに時刻がわかる時計「モントル・ア・タクト」は、ブルジョワ階級でブームとなった。各国の王侯貴族の注文も多く「トゥールビヨン」「永久カレンダー」「シンパテックス」といった複雑時計も発表。1815年には、2個のゼンマイを用いたトルクの減衰のないマリンクロノメーターを開発し、フランスの王立海軍時計師に認定されている。当時の顧客名簿には、フランス王家に加え、ナポレオン・ボナパルト、トルコ皇帝セリム3世、アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントン他、各国の王侯貴族が名を連ねていた。

装飾を優先する貴族社会の美意識から、実用性、機能美を求める市民社会にもいち早く対応していく。ギョーシェ文字盤とコインエッジケース、穴の開いたシンプルなブレゲ針、アラビックのブレゲ数字といった現在の伝統的なデザインもブレゲの発明である。

処刑されたマリー・アントワネット注文の時計No.160は、20年近くかかって1802年に完成したが、美術館から盗み出され今も行方不明のままとなっている。

【チョコレート】次第に機械化していくチョコレート製造行程(18世紀)

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チョコレートの製造工程は長い間不変で、原則としてあくまで飲み物としてのみ消費されてきた。18世紀には既にチョコレート製造に欠かせないココアバターカカオバター)を絞り出す機械式ミルが発明されている。菓子材料としての利用も同時期に始まっており、文献上では1719年にコンラッド・ハッガーが残した料理手帳に「チョコレートトルテ」が確認できる。そして18世紀末までに欧州各所に水力を利用したチョコレート製造所が現れ、やがて蒸気力導入によって大規模化し、次第にチョコレート産業都市を形成していく。

*砂糖が次第に国内の工場で生産される様になっていく時期に該当する。

ベルギーワッフルは何故あの形? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

【時計】スイス時計の大量生産に対する試み(18世紀〜19世紀)

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18世紀には既に懐中時計生産の分業体制が確立されていたスイス。19世紀に入ると数多くのスイス時計ブランドが誕生した。

創業年 社名 創業者 創業地
1832年 ロンジン オーギュスト・アガシ サンティミエ
1833年 ジャガー・ルクルト アントワーヌ・ルクルト ル・サンティエ
1839年 パテック・チャペック
パテック・フィリップ
アントワーヌ・ド・パテック
フランソワ・チャペック
ジュネーブ
1846年 ユリス・ナルダン ユリス・ナルダン ル・ロックル
1848年 オメガ ルイ・ブラン ラショード・フォン
1856年 ジラール・シルド
現エテルナ
ウルス・シルド
ヨセフ・ジラール
グレンヘン
1860年 ショパール ルイ・ユリス・ショパール ソンビニエ
1864年 タグ・ホイヤー エドワード・ホイヤー サンティミエ
1865年 ゼニス ジョルジュ・ファープル・ジャコ ル・ロックル
1868年 IWC フローレンス・アリオスト・ジョーンズ
ヨハン・ハインリッヒ・モーザー
シャフハウゼン
1875年 オーデマ・ピゲ ジュール・オーデマ
エドワール・ピゲ
ル・ブラッシュ
1884年 ブライトリング レオン・ブライトリング ラショード・フォン
1887年 エベラール ジョージ・エミール・エベラール ラショード・フォン
1898年 オーガスト・レイモンド オーガスト・レイモンド トラメラン 

しかしその一方、イギリス、フランスやアメリカに既成ムーブメント(エボーシュ)などの時計部品を輸出していながら、実際には下請け職人が個々に手作りしていたため、部品の品質や供給が安定していないという泣き所も抱えていたのである。品質の向上を目的とした大量生産の試みが始まったのは19世紀に入ってからだった。

産業革命の真っ只中のイギリスでは、世界各地から原料を輸入し、安価な工業製品を輸出していた。懐中時計の部品もスイスから輸入していたが、実は工業技術の独占をはかるために1774年に機械輸出禁止令(1843年に廃止)が出されてからは時計の生産量も伸び悩んでいたのである。

そしてフランスの時計師フレデリック・ジャピー(Frédéric Japy、1749年〜1813年)が初めて時計の量産工場を設立し(1774年)、機械的方法によって初めて「ébauches」を生み出し(1776年)、蒸気機関による掛時計部品の大量生産を開始する(1810年)。この技術は隣国スイスに伝わり1830年頃にスイスのピエール・アンゴルやジョルジュ・ルショが、懐中時計用の互換部品の機械生産に着手。しかし製造工程の下請け体制が複雑だったスイスでは、なかなか合理化が進まない。

そうする間に懐中時計の大量生産が本格化したのは大西洋をはさんだアメリカにおいてだったのである。

【チーズ】近代に入ってからの生産工程工業化(19世紀)

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チーズづくりはヨーロッパでは伝統的に家庭で行われていたが、スイスでは早い時期から酪農家でも主婦でもない職人の仕事となり、さらには組合や職人の養成学校もできた。初めてチーズを工業生産する拠点ができるのもこの国で1815年の事である。「チーズフォンデュ」も「ラクレット」もスイスチーズ教会がチーズ消費量を伸ばす販促手段として広められたものであり、これを契機としてフランスではこれらのチーズを使った様々なグラタン料理が開発され、米国の「金鍍金時代(1865年〜1893年)や本国の「ベル・エポック」を彩る事になる。

またチェダーチーズも19世紀に入るとジョセフ・ハーディング (Joseph Harding) を中心として生産の近代化と標準化が進められていく。イタリアのパルメジャーノチーズ、オランダのゴーダチーズやエダムチーズなどもその流れに乗って改めて広まった。

だが、実際に大規模な生産を可能にしたのはアメリカである。たいてい「チーズ工場の父」ジェシー・ウィリアムズ(Jesse Williams)の名があがるが、このニューヨーク、ローム出身の酪農家が、1851年に組み立てラインによって近所の農家から調達した牛乳でチーズづくりを始めたのである。その後数十年でこのような酪農家の組合が無数に存在するようになった。1860年代にはレンネットの大量生産が始まるようになり、世紀をまたぐと今度は化学者たちが純粋な微生物の培養を行った。それまでチーズづくりにおけるバクテリアは自然環境かできて間もない乳清の再利用に依存していたのである。純粋な培養ができるということはチーズの生産が規格化されるということを意味していた。

第二次世界大戦の頃には工場製のチーズが伝統的な製法でつくられたチーズを駆逐し、アメリカやヨーロッパでは史上初めて工場がほとんどのチーズの生産拠点となった。今日ではたとえばアメリカ人など、工場製か否かを問わず「本物」よりもプロセスチーズを買うことのほうが多い。

【チーズ】スイスの特産品エメンタールチーズ

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エメンタールチーズ(Emmental cheese)は硬質チーズのひとつ。スイスのベルン北東部エメン渓谷近郊、エメンタール地方が原産のためこう呼ばれる。木の実に似た香ばしい独特の芳香があり「チーズの王様」と呼ばれることもある。北米では、スイス風の穴の開いた硬質チーズを総称してスイスチーズ、あるいは単に「スイス」と呼ぶ。スイス郷土料理起源のチーズフォンデュには欠かせないとされ、フランス料理ではグリュイエールチーズと並び、グラタンやキッシュなどの料理によく用いられる。製法は温めた牛乳にプロピオン酸菌を加え、固形成分を分離し形成し発酵させる。第1熟成期間は、18〜20℃で2週間ほど。第2熟成期間は、20℃〜23℃で4〜6週間。80kg〜100kg以上というかなり大きな円盤型に成型されて熟成される。一塊のチーズを作るのに約1000リットルの牛乳が必要とされる。切ると内部にはチーズアイと呼ばれる多数の穴(気孔)がある。これはプロピオン酸発酵による炭酸ガスの気泡が固まったもの。この穴のためチーズの中央部が大きく膨らむ。2003年度の統計によるとスイスのチーズ総輸出量は54,844トンであるが、エメンタールチーズが5割を占めている。現在ではスイス以外でも同様の製法で作られたものも「エメンタールチーズ」として売られているが、このためスイス産のエメンタールのシェアの低下に危機感を持ったスイス連邦農業局が2004年にAOC(原産地呼称統制)に登録することを決定。今後はスイス産以外のものは名称に産地を明記しなければならなくなる。
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漫画や挿し絵などでチーズといえば穴の開いたこのエメンタールチーズが描かれることが多いが、これは欧米では広く認知されているということとともに絵で書いたときにチーズだということが伝えやすいことも理由にある。例えばアメリカの有名なギャグアニメ「トムとジェリー(Tom and Jerry、第一期1940年〜1958年)」に登場するチーズがこれだが、実際のネズミはチーズを好んで食べるどころか、むしろ乳製品は与えてもほとんど食べない。発酵の段階でできた気泡をネズミがかじったものと間違えたのが、この誤解の根本の原因らしい。

フランスでは硬質チーズの総称に過ぎなかったグリュイエールチーズ

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グリュイエールチーズ(Gruyère)はスイス・グリュイエール地方原産のチーズ。チーズフォンデュラクレットによく使われる他、フランス料理ではエメンタールチーズと並びグラタンやキッシュ、クロックムッシュ、オニオングラタンスープなど主に調理用によく用いられる。牛の生乳を熱して原料とし、黄色からオレンジ色の外皮に包まれた、やや舌に結晶を感じる密に詰まったチーズで、塊の大きさは直径55cm~65cm、高さ9.5cm~12cm、重さは25kg~40kgである。内部に穴は空いていない。フランス語では伝統的に硬質チーズをグリュイエールと呼び習わしていたが、2001年にはスイス、2007年にはフランスでAOCの指定を受け、無腔質のグリュイエールの呼び名はスイス産のものに限られている。2012年末には欧州連合の決定によりフランス産のグリュイエールチーズにも産地特定表示が認められたが、条件として「サクランボ大の穴が空いた有腔質」と明記され、この点で無腔質のスイス産グリュイエールチーズとは区別される。ギリシャでは、グラヴィエーラ(γραβιέρα)と呼ばれるグリュイエール風のチーズが生産されている。

「パルミジャーノ・レッジャーノ風」という意味だったパルメザンチーズ

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パルメザンチーズ(parmesan cheese)でいう「パルメザン」は「パルミジャーノ」の英訳。一般的には「パルミジャーノ・レッジャーノ風のチーズ」の意味で用いられているが、日本ではアメリカ経由で粉チーズの形態で入ってきたので、粉チーズの総称として呼ばれるようになり、ナポリタンやミートソーススパゲッティのトッピングとして普及している。日本やアメリカ合衆国ではクラフトフーヅ社のパルメザンチーズ(粉チーズ)が最も有名である。アメリカ合衆国や日本、アルゼンチンなどでも生産されているが、パルミジャーノ・レッジャーノのDOP規格からは外れているため欧州連合諸国ではパルメザンチーズを名乗ることはできない。また、パルメザンチーズの熟成期間はパルミジャーノ・レッジャーノよりも短いことが多く、また、より安価である反面、風味も及ばない。しかしながら、パルミジャーノ・レッジャーノ特有の繊細な風味を要求しない料理には、経済的なパルメザンチーズで代用しても構わない場合もある。

【時計】ウォルサムの量産時計(19世紀)

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1850年、ボストンで時計屋を営んでいたアーロン・ラフキン・デニソンは、エドワード・ハワードらと懐中時計の製造会社(ハワード、デイビス&デニソン社)を設立。部品の規格を統一して均一な品質の懐中時計を大量生産することを目指した。1854年に大規模な工場をウォルサムに建設し、ボストン・ウォッチ・カンパニーとして懐中時計の本格的な量産に乗り出す。現在のウォルサムの始まりである。

ウォルサム工場で生産される懐中時計は、月産1000個を数え、ヨーロッパの古い生産方式の1年分に匹敵した。しかし懐中時計市場の需要が追いついてこず、大量の在庫を抱えたまま1857年に倒産しまう。

解雇されたデニソンは、いくつかの時計事業を経た後、1874年にロンドンで立ち上げた時計ケース製造会社が軌道に乗り、後にデニソンケースは懐中時計の高級ケースの代名詞となった。一方のハワードは、1857年にE.ハワード社を設立し、懐中時計で数々の特許を取得している。今では高級時計に採用されるスワンネック緩急針も、もともとはハワードが発売したものである。塔時計でも成功し、1881年には札幌の時計台にもハワード社製の機械が設置された。

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その後のウォルサム工場は、資本家に買収されアメリカン・ウォッチ・カンパニーとして操業を再開。19世紀後半の鉄道の普及により、鉄道員や運行システムに必要な時計の需要が爆発的に増大し、ウォルサム工場の高い生産力が威力を発揮したのだった。高品質で大量生産による低価格は世界中に評価され、各国の標準鉄道時計に採用される事になる。

スイス全体の年間生産量が150万個だった1890年代、ウォルサム工場の生産量は100万個に達していた。 

チョコレートの産業革命

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19世紀初頭のシモン・ボリバルによる南米の動乱のせいでカカオ生産が落ち込み、続くナポレオン戦争の影響で贅沢品に対する購買力も落ち、大陸封鎖で品薄となった代わりに紛い物が出回って品質に対する信用も低下してチョコレートは停滞の時期を迎えた。しかし、チョコレートの技術革新が起きたのは、まさにこの低迷期だったのである。

オランダ人クーンラート・ヨハネ・ファン・ホーテン(バンホーテンの創業者)がココアパウダーとココアバターを分離製造する方法の特許を取得(1828年…それまでのチョコレートは濃密で、水なしでは飲めないものだったが、これにより口当たりがよくなって普及が進んだ。さらにファン・ハウテンはアルカリを加えることで苦味や酸味を除くダッチプロセスをも開発して現代的なチョコレートバーを作る可能性も開いたが、ファン・ハウテンの圧搾機が開発された当時のチョコレートはあくまで飲み物であり、抽出したココアバターの使い道が無かったために特に注目はされなかった。

英国人ジョセフ・フライによる固形チョコレートの発明(1847年)ファン・ホーテン同様にアルカリ処理でカカオの苦味を和らげる製法を確立して1849年にキャドバリー兄弟に引き継いだが、まだまだ苦味が強かったとも。初の固形チョコレートを作ったのはトリノのドレで、1826年からピエール・ポール・カファレルが大規模に売り出したとする説もある。また1819年にはF.L.ケイラーがスイスに初めてチョコレート工場を開設している。

スイス人薬剤師アンリ・ネスレショコラティエのダニエル・ペーターによるミルクチョコレート開発(1875年)…スイスのろうそく職人ダニエル・ペーターは義父がチョコレート会社を経営していたことからチョコレートに携わるようになり、1867年からチョコレートの苦味をまろやかにするために牛乳を入れることを試行錯誤し始め(溶けたチョコレートに水分を混ぜると、チョコレートの中の砂糖が水分を吸収しココアバターの油と分離するためにボソボソになり食感が悪くなる)、粉ミルクを入れる解決方法を発明して1875年からミルクチョコレート販売を開始した。またミルクチョコレート製造には、牛乳から水分を抜く必要があったが、ダニエルは隣りに住んでいたベビーフード生産業者のアンリ・ネスレネスレ創業者)と協力して研究を行った。

スイス人ロドルフ・リンツによる固形チョコレートの口当たりの劇的改善(1879年)…チョコレートの粒子を均一かつ細かくし、滑らかな食感を出すのに必要なコンチングを考案した。

こうしてチョコレートの生産はそれまでの家族的な小企業や職人による生産から、スイスのネスレ社、リンツ社、カイエ社、英国のキャドバリー社、ロウントリー社、米国のハーシー社などが大量生産する安価な「規格品チョコレート」と、ベルギーやフランスなどを中心にショコラティエが研鑽してきた「高級チョコレート」の二極体制へと移行していった。

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その後カカオは1830年頃から西アフリカのポルトガル領サントメ島などでも栽培される様になった。19世紀半ばに中米のプランテーションが病害により生産量が激減すると、アフリカが替わって生産の主体となる。さらにイギリスがスペインから租借中のフェルナンド・ポー島(現在の赤道ギニア)でプランテーション経営を始め、1879年にはさらにそこから黄金海岸(現在のガーナ)にも伝わった。1890年代末にはフランスが象牙海岸(現在のコートジボワール)で植民地会社を組織して生産を奨励している。

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1905年にはイギリスの報道記者ヘンリー・ウッド・ネヴィンソン(Henry Woodd Nevinson、1856 年〜1941年)がサントメ島を取材し、レポートや「現代の奴隷制」といった著作で奴隷的労働の実態を明らかにしてセンセーションを巻き起こした。

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 その一方で、宣教師団の教育を受けた黄金海岸(Gold Coast、現在のガーナ)出身の鍛冶屋テテ・クワシ(Tetteh Quarshie、1842年〜1892年)は出稼ぎに行ったフェルナンド・ポー島の農園で見掛けたカカオの木が陰樹であり、ゴールドコーストの主食であり大きくなり適度な木陰を作るバナナや根元で肥沃な土を作るキャッサバやヤムイモとの混栽が可能であることに目をつけ、食糧生産と両立できる商品作物と有望視して故郷に持ち帰った。実際黄金海岸の気候はカカオ栽培に適しており、さらに自営小農にとって栽培しやすい換金作物であった為、ガーナ南部に急速に普及。 クワシ当人は1892年12月25日に亡くなったが、その一年前の1891年からカカオ輸出が始まった。1911年の黄金海岸は世界最大のカカオ生産国となり、この地方に富をもたらす。その富をもとに黄金海岸は1957年にクワメ・エンクルマのもとでガーナ共和国としてブラックアフリカ初の独立を果たした。ここで改めて問わねばならない。「Gold Coastが(Cubaを除くカリブ海の砂糖プランテーション同様)ただのOld Coastになり果て、朽ち果てていく事だけが人道的勝利」なのだったかと。 

そして「産業革命の時代」に「広告の時代」が続きます。

まぁ多分「本当の贅沢品の供給者は経済トレンドなんて関係ない」なのです。

 それはそれとして、何この「その時アメリカが動いた」感?
実際欧州人もその脅威に怯えていたとか。
ハインツ-ゴルヴィツァー黄禍論とは何か―その不安の正体-(1962年)」

「黄禍(Yellow Peril)」には先駆けとなったスローガンがあった。「米禍(American Peril)」がそれで、1870年代以降ヨーロッパでひしひしと感じられる様になったアメリカ農業(後にはアメリカ工業)による経済的脅威を意味した言葉である。とりわけ鉱山業と工業の分野で凌駕されていたイギリスの反応は敏感で、英国人経済学者スタンレイ・ジェヴォンス(1834年〜1882年)は以前から経済危機を乗り切る方策として限界効用論や太陽黒点説を唱えてきたが「炭鉱問題(1865年)」でやっといささかのセンセーションを巻き起こす事が出来た。

ベルギーの自由貿易論者で経済界の論客でもあったギュスタブ・ド・モリナリ(1819年〜1911年)と並んでドイツ語圏にはオーストリアの活力溢れる経済学者で著作活動も精力的に行っていたアレキサンダー・フォン・ベーツ(1829年〜1911年)も声高に警鐘を鳴らしている。1890年オーストリア財界で行った講演の中でアメリカの脅威を盛んに警告した上で「オールアメリカン」に対してはこちらも一丸で対抗しなければならないと説いている。ドイツ産業連盟の論客D.W.ヴェントラントも1902年に発表した「ドイツから見たアメリカンペリル」という論文の中で、1879年にビスマルクが定めた新たな独仏通商同盟をアメリカの挑戦から守るにはどの様にすべきか論じている。

フランスの立場からは、先に名前の挙がったモリナリがフランス、ドイツ、オーストリアハンガリー・オランダ・ベルギー・スイスからなる中欧関税同盟を成立させるべきと提案しているが、ライン川左岸の地域でこの様な努力に邁進したのはモリナリ一人だけではなかったのである。ドイツ国内でもこれとほとんど時を同じくして同一歩調を取る者がいた。それはカトリック社会福祉政治家フランツ・ヒッツェ(1851年〜1921年)とプロテスタンントの保守的社会主義者ルドルフ・マイヤー(1839年〜1899年)で、マイヤーには「アメリカの脅威の原因」という著作もある。

これが欧州帝国主義時代開始の予兆となったとも。

果てさて我々は一体どこに向けて漂流しているのやら…