諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「砂糖王」と「煙草貴族」は何が違った?

15歳カナダ少年が発見した土地は、マヤ文明ではなくマリファナ畑の可能性 : ギズモード・ジャパン

f:id:ochimusha01:20160523040245p:plain

人間社会にトラブルを持ち込む三大植物というのがあるらしい。

煙草、砂糖(黍)、芥子(阿片)がそれで、以下の点が共通しています。

  • あっという間に地力を収奪し尽くしてしまうので、栽培地を次々と移動させなくてはならない。休耕地も含めると結構広大な土地を使うので後進国向け。

  • 栽培や収穫に莫大な量の単純労働を必要とする。逆をいえば熟練農による綿密な管理は不要。従って奴隷制プランテーションとの相性が極めて良い。

  • 収穫物が莫大な富をもたらす。政情不安定な土地で栽培すると真っ先に襲撃目標にされるので相応の軍事力による後ろ盾が必要。

まさしく政府の手が及ばない紛争地帯で反政府ゲリラが育てるのに最適って感じ。ただ当然「世界商品」に選ばれて大量生産され、庶民の手の届く価格帯までコモディティ(日用品)化されてしまうと裏で非合法で生産する意義自体が消失してしまいます。

http://www.kirinavi.com/wp/wp-content/uploads/2011/05/IMG_9729.jpg

その点で現在微妙な立ち位置にあるのが(阿片戦争まで引き起こした)インドの芥子(阿片)栽培あたり。

  • そもそも万能薬阿片チンキ(laudanum、opium tincture)の原料にして、現在日本の薬局で市販されている「風邪薬」「咳止め」「頭痛薬」「下痢止め」といった「軽い薬」の大半の主材料。

    http://www.tanteifile.com/diary/2011/12/29_01/image/03.jpg

  • 当然麻薬の原料なんぞに流用されない様に厳密管理されてるが、その手をちょっと緩めるだけで(もちろん薬の種類にもよりますが)世界中の麻薬シンジケートの多くが一夜にして壊滅してしまう。

    http://livedoor.blogimg.jp/phi_2528/imgs/4/7/47375c7f.jpg

割とシビアな効用主義経済学(Utilitarianism Economics)の実例だ、これ…

こうしてカリブ海の砂糖業者なら平然と丸呑みにしてしまった英国ジェントルマン資本主義ですが、アメリカの「煙草貴族」は見事に取り逃がしてしまいます。前者が「不在地主」中心、後者が「在地地主」中心だったのが大きかった?

世界システム論講義-──ヨーロッパと近代世界-ちくま学芸文庫-川北稔

「砂糖王」と「煙草貴族」

「タバコ貴族」という言葉がある。ヴァージニアなどのタバコのプランターがいかに豊かだっ た かを示す証拠である。彼らは植民地においてイギリスのジェントルマン階級を真似た生活様式を維持し、名士として活動した。 しかし、タバコ・プランターたちが「 貴族的」であったというなら、 カリブ海の砂糖プランターたちは「 王様」であった。じっさい、イギリス西南部で、不在 化してイギリスに住み着いていた砂糖プランターの 馬車 とすれちがった国王ジョージ三世は、そのあまりの豪華さに憤慨して「関税はどうした、関税は」と首相ピットをなじったというエピソードも残っている。

英国のジェントルマン資本主義 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

羊毛をめぐる冒険 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

18世紀のイギリスでは、不在化したカリブ海の砂糖プランターとインド帰りの お大尽(いわゆるネイボッブ)は、大金持ちの双璧であった。これほど豊かであっただけに、砂糖プランターはその多くが不在化した。プランテーション社会であったカリブ海の状況は、白人の定住植民地ではなかっ た東インド、つまりアジアとは違ってい た が、現地にいたイギリス人が、成功すると帰国したという 点では共通していたのである。この点では、むしろ、同じプランテーション社会とはいえ、カリブ海の状況は、タバコ植民地とは 違っていたともいえる。

不在化は、まず成功したプランターの子弟の教育から始まった。人口の圧倒的部分を黒人奴隷が占める灼熱のカリブ海には、ほとんどまともな学校もなかったから、プランターたちは競ってその子弟をイギリスに送り込んだ。砂糖の取引相手となったロンドン商人などが、こうした子弟の教育を 引き受けた。彼らは必然的に、パブリック・スクールからオクスフォードやケンブリッジへという、ジェントルマン教育のコースに送り込まれる。つまりは、ジェントルマンである友人たちに囲まれて育つということである。しかも、イギリスで育った子供たちは、お金というものは見たこと もない地球の裏側から自然に送られてくるものと思い込む。こうして彼らは、働かないで上流の生活を送る「 疑似ジェントルマン」とでもいうべきものになっていくのである。

このようにジェントルマン化したプランターの子弟は、そのままイギリスに住み着くから、プランテーションを引き継いでも、不在化したままとなる。その代わりに、彼らはイギリスの政界に進出する。18世紀中ごろのイギリス議会(庶民院)には40人くらいのカリブ海関係の議員が数えられ ている。東インド会社関係の議員集団と並ぶ二大派閥であった。このように、不在化して本国議会 に強大な勢力を築いたカリブ海の砂糖プランターたちは、東インド会社の場合と同じで、議会に強力な圧力をかけ、イギリス領カリブ海植民地の砂糖を徹底的に保護させた。高率の砂糖関税が、最大の成果であった。

「大西洋三角貿易」について思う事 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

アメリカ大陸の十三植民地が独立を宣言したとき、カリブ海の植民地は同調しなかった。ジャマイカをはじめとするカリブ海植民地は、アメリカ合衆国の一部とはならず、イギリス植民地としての 立場を二十世紀まで保ったのである。十三植民地が独立に際して用いたスローガンの一つが「代表 なくして課税なし」というものであったことはよく知られていようが、不在化のすすんだカリブ海 は、本国議会で「代表されすぎていた」 わけで、したがって、保護されすぎてもいたので ある。 あえて独立の道を選ぶ意味はまったくなかった、といえよう。

これに対して、タバコ植民地はどうか。「 タバコ貴族」たちは、ほとんどだれも不在化しなかった。気候条件がカリブ海よりはよかったことや、タバコの栽培が他人まかせにはできないことなどを理由にあげる研究者もあるが、最大の理由は、プランテーションを現場監督にまかせて不在化できるほどの金持ちにはなれなかったということである。じっさい、先 にふれたように、砂糖プランターとタバコ・プランターでは、その財力に「 王様」と「 貴族」ほどの落差があったのである。 不在化できなかったタバコ・プランターたちは、七年戦争の経費を植民地に負担させようとした印紙法やタウンゼンド諸法に反対せざるをえず、「代表なくして課税なしなし」のスローガンには、心から同調できたはずである。

ところで、プランターが不在化するか否かは、現地の社会・経済の発展に大きな影響を与える。不在化したプランターは、プランテーションを「金のなる木」としか意識しないから、 現地には、道路も学校も公園もつくることはない。上下水道のような生活基盤でさえ、整備されにくい。これに対して、プランターが在地であれば、彼らが彼ら自身のためにつくる施設のかなりの部分が、いわば共通の社会資本となりうる。プランターがつくっ た道は、奴隷も歩けるからである。こうして みると、不在化の進行したカリブ海アイルランドは、将来の社会発展に大きなマイナスを抱え込むことになった。

不在化の進行しなかった北アメリカ南部は、モノ カルチャーのプランテーション社会としての歪みは受けたが、社会的資本の整備が、カリブ海アイルランドアイルランドより、はるかに進行し たのである。現在、これらの地域が示す格差は、ここから説明がつく。

 英国植民地の人々は何故黙って英国商品を買い支えてきたのか?

そうはいっても、タバコ・プランターたちも、ほんらいはイギリスの上流階級、すなわち ジェントルマン階級の生活に憧れ、イギリス風生活様式の模倣に熱中していたことも事実である。彼らがアメリカに渡ったころには、なおイギリスでも砂糖入り紅茶やキャラコの使用は一般的ではなかった から、いわば「生活革命」はあとから追いかけてきたもので ある。18世紀中ごろのアメリカ植民地が膨大な「 雑工業製品」を吸収し、イギリス「商業革命」に一つの特徴を与えたことはすでに のべた。この現象こそは、タバコ・プランターをはじめ、余裕のできた植民地在住者の生活様式の「イギリス化」したがって価値意識の「イギリス化」を示しているのである。十三植民地は、いったん「 イギリス化」することで、意識 や 価値観が統合されたのである。

羊毛をめぐる冒険 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

綿織物をめぐる冒険 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

このことは、七年戦争後、印紙法やタウンゼンド諸法に反対する「英貨ボイコット」の運動が意味 をもった最大の理由である。「イギリス商品」が植民地の各地にくま なく行き渡り、その消費が 一つに統合された価値観に結びついていたからこそ、それをボイコットすることで、全体のきずな が強化されることになったのである。「アメリカ人」のアイデンティティは、砂糖入り紅茶とそれ にまつわる 文化 ─ ─ 茶の作法から、ティー・タオルやカップ、スプーン、砂糖壺など ─ ─ の、「イギリスの生活文化」を真似ることでいったん統合され、今度 は、これを「共同して」拒否する ことによってかたちづくられたのである。ボストン・ティーパーティー事件が、独立戦争の引き金 になっ たのは当然である。

 「砂糖」と「煙草」の国際商品としての意味合いの違い

イギリス領の砂糖生産は、徹底的に保護されていた。じっさい、イギリス領植民地産の砂糖は18世紀中ごろには、国際価格、たとえばフランス領カリブ海のそれと比べると、かなりの高価格となっ ていた。農村票を気にした歴代政府によって、過保護にされてきた日本の米と同じである。したがって、イギリス領産の砂糖は、保護市場となったイギリス帝国内、本国とアイルランドカリブ海、 北アメリカなどでしか売れず、もし輸入関税が下げられでもすれば、同じカリブ海サン・ドマングやガドループやマルチニクでつくられたフランスの砂糖には、とても対抗できないものになっていた。この点からしても、イギリス人の砂糖プランターには、国際競争にさらされることが必定の、独立に走るべき理由はまったくなかっ たのである。
「大西洋三角貿易」について思う事 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

これに対して、タバコはほとんどイギリス領植民地の独壇場であった。ヴァージニアやメリーランドのタバコは、イギリスに輸入されたもののうち、圧倒的な部分(70~90パーセント)パーセント)が、フランスなどに再輸出されていたので ある。タバコ植民地にとっては、航海法によって、 その生産物の輸出のすべてをひとまずイギリスに向けることを強制されていることは、苦痛以外の 何ものでもなかった。独立は、この不便を解消し、たとえばフランスへの直接輸出の道を開くこと になるかもしれなかったのである。

 ところでアメリカ人は本当に英国文化の魔の手から逃げ切れたんでしょうか?
それは「紅茶の代わりにコーヒー」「ジンの代わりにバーボン」といったちょっとした生活習慣改善だけで克服可能なほど浅薄なものだったのでしょうか?

https://67.media.tumblr.com/3cc5befe13ec33c3193b6ea956b6a304/tumblr_o7h30qDe0a1ue4209o1_540.jpg

  • 戦国時代から江戸時代初期のかけての日本人が英国商人の持ち込んだ毛織物について「いらない」と即答したのは、それがただの毛織物にしか見えなかったから。

  • しかし当時の英国植民地人にとってそれは紅茶やキャラコ同様「憧れの本国での生活を模倣する為の貴重なグッズ」だったのである。だから黙って買い続けた訳で、実はこうしたスノビズムこそが英国産業革命初期を支えた原動力だったのかもしれない。

  • 最近亡くなったデビッド・ボウイについて、米国音楽プロデューサーのナイル・ロジャースが「まさかお前が選ばれるとはな」と感嘆していたという話がある。「そもそも商品とは何か?」まで遡るやり取りとも。

翻って考えるに、日本人は何をどのタイミングでどう選んできたのだろう…