諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「(自然法に基づく)普遍的支配」の世界

スイスの文化史学者ブルクハルトが「権力は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」と弾劾したのは、概ね(領主が領土と領民を全人格的に代表する)農本主義的伝統(およびそれを担保してきたローマ教皇庁神聖ローマ帝国皇帝などの普遍的権威)に対する嫌悪感に端を発しています。ジュネーブ出身のルソーも同じ様な事を口にしているし、ハプスブルグ家から独立し、傭兵供給国としてローマ教皇庁を含むあらゆる世俗権力に対する中立を貫いてきた歴史を有するスイス人ならではの伝統的思考様式というべきかもしれません。

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だとしたら、それは第一次世界大戦(1914年〜1918年)を契機に帝政ロシアが革命によって倒され、ハプスブルグ帝国(オーストリアハンガリー二重帝国)とオスマン帝国が解体されるまで欧州全域に前近代的暗影を投射し続けた事になリます。特に19世紀はその前半が復古王政圧勝期、後半が革命挫折期に該当したからスイス人の憤慨も相応だったに違いありません。

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こうした景色を日本人がイメージするには、ヤマト王権時代に氏姓制度の一環として履行された部民制度辺りを思い浮かべる必要がありそうでです。

 氏姓制度/部民制度

ヤマト王権を支えてきた豪族層は、ウジ(氏)と呼ばれる単位で構成されカバネ(姓)と呼ばれる称号を下賜されていた。5世紀末以降史料から確認出来るが、広範に体系的に整備されたのは6世紀に入ってからである。

ウジ(氏)…血縁関係ないし血縁意識によって結ばれた多くの家で構成される同族集団で、同時にヤマト政権の政治組織という性格を備えていた。おそらくその起源は(ヤマト政権の原型となった)纒向や三輪山で履行される共同祭祀によって結ばれた中央豪族集団、および(おそらく在地首長が特定の集落でなく独立した居館に居住して複数の集落を掌握する行政機構を採用し、土師氏指導下で指定様式を厳密に遵守した古墳を築造し、祭器の標準化を受容した事でメンバーと認められた)地方豪族集団の登場時期まで遡る。纒向建築が3世紀初旬、(前方後円墳の様な)標準化された古墳の築造が始まるのが3世紀中旬、共同祭祀の会場が(土俗的山岳宗教の影響色濃い)三輪山山麓に移され(筑前宗像氏の掌管する)沖ノ島祭祀と関係付けられたのが4世紀前半、佐紀盾列古墳群に安定した間隔で大王墓が築造される様になるのが4世紀中旬(これ以前をヤマト政権、これ以降をヤマト王権と呼び分ける向きも存在する)。文献記録が残されていない事もあり、こうした考古学的編年史と氏族集団形成過程の関連性については現在なお諸説ある。そもそも考古学の対象としての地方豪族の多くは5世紀に概ねその足跡を断つから(在地首長による領邦支配崩壊を受けて)ヤマト政権と新たな関係を結ぶ事になった遺領と遺民に便宜上与えられた分類的呼称に過ぎなかった可能性すら完全には排除できないのである。

カバネ(姓)…中央・地方のウジは(建前上)ヤマト大王との間に隷属・奉仕の関係を結び、その対価としてリーダーにはヤマト政権における一定の政治的地位や官職・職務に就く資格、およびそれを世襲する権利が与えられた。またその出自や政治的地位・官職の高下・職務内容の違いに応じてカバネが賜与され、部民(べみん)の管掌を認められたとされる。大まかに分けて在地首長に与えられた臣や国造の称号、大伴氏や物部氏といった「ヤマト大王の直臣(あるいは宮廷構成隷民)」に職掌されるトモの称号に大別される。トモは畿内及びその周辺の中小豪族をトノモリ(殿守)・モヒトリ(水取)・カニモリ(掃守)・カドモリ(門守)といったヤマト大王宮廷の各種職務を世襲的に分掌する集団で5世紀頃より現れ、拡大・発展の結果、5世紀後半には、さらにトモノミヤツコ(伴造)がトモ(伴)を率いる体制が整備される。稲荷山鉄剣にみえるヲワケも、トモとしての「杖刀人」集団を率いる伴造であったと目されている。

部民制…その呼称は中国の部曲に由来するとも。ヤマト大王に対する従属・奉仕、ヤマト宮廷における仕事の分掌に対応するとされるが、その種類は極めて多く、大きく2つのグループに分けることが出来る。1つは職業を軸とした職業部、もう1つは王宮や豪族といった所属対象を軸とした子代・御名代および豪族部。

職業部…具体的な職掌名を帯びる部のことで、それぞれ伴造に統率され建前上ヤマト大王に直属し宮廷を構成した。海部(あまべ)・錦織部(にしごりべ)・土師部(はじべ)・須恵部(すえべ)・弓削部(ゆげべ)・麻績部(おみべ)・渡部(わたりべ)・犬養部(いぬかいべ)・馬飼部・鳥飼部・解部(ときべ)などの例がある。例えば語部は、伴造(とものみやつこ)である語造(かたりべのみやつこ)氏に率いられ、古伝承を語り伝え、宮廷の儀式の場で奏上することをその職掌とした。

子代(こしろ)・御名代(みなしろ)…王(宮)名のついた部。舎人(とねり)・靫負(ゆげい)・膳夫(かしわで)などとして奉仕する。王族・額田部女王に属した額田部(ぬかたべ)允恭天皇の后忍坂大中姫命に属した刑部(おさかべ)、豪族・蘇我臣や大伴連・尾張連に属した蘇我部や大伴部・尾張部などがある。御名代には在地の首長の子弟がなる。子弟たちはある期間、都に出仕して、大王の身の回りの世話(トネリ)や護衛(ユゲヒ)、食膳の用意(カシハデ)にあたった。朝廷に対する奉仕を媒介として設定される点では職業系の部と通底。

豪族部…諸豪族の名を帯びる部。例として畿内の有力豪族巨勢臣の巨勢部・尾張連の尾張部・大伴連の大伴部・蘇我臣の蘇我部などがある。

部ないし品部(品は「しなじな」、すなわち「諸々」の意)と総称されたが、こういった分類はあくまで便宜的なもので、今日ばかりかおそらく当時ですら截然と区別・区分する事は不可能だった。例えば土師部は、土師器を作るという職業部であると同時に、土師氏という豪族の名を帯びる豪族部でもあったりしたのである。いずれにせよその管掌者たる伴造の管掌民でありながらヤマト王権によって設定された部という側面を有した。確かにある豪族に率いられる側面が強調される時は部曲(カキ)と呼ばれたが(垣根で囲われるが如く分割管掌されるため)、朝廷とのかかわりという側面から見れば豪族部も名代も全て部(ベ)に過ぎず、朝廷所属の「部」と別に純然たる豪族私有民としての「部曲」が存在した訳でもなくて職業部と豪族部はあくまで一つの実体の二側面に過ぎなかった。もちろん蘇我部・大伴部といえど私有民の所有を認められていた訳ではなく、彼らが王権を支える臣・連として朝廷組織のなかにその位置を占めていた為に管掌を認められているに過ぎないとする建前は絶対であった。

また部民制については以下の様な地域的特殊性も指摘されている。

九州の部民制…屯倉制や部民制が列島中に拡がったのは(概ね6世紀前半に比定される)磐井の乱以降である。特に九州では軍事的部民が設置された。肥後地方では日下部・壬生部・建部・久米部。物部関係だと筑紫・豊・火に及ぶが特に筑紫に多い。大伴関係だと筑紫・豊・火に分布するものの密度は低い。

出雲の部民制松江市の6世紀後半の岡田山1号墳から出土した鉄刀に「額田部臣」銘が刻まれており出雲地方に部民が設定されていたことが分かる。額田部とは、地域の首長額田部臣が部民を統率して欽明天皇の皇女、後の推古天皇の宮に奉仕していたと考えられている。出雲地域ではこのほかにも『出雲風土記』意宇(おう)郡舎人郷条に欽明朝の時日置(へき)臣志毘(しび)が大舎人となったこと、神門(かむど)郡日置郷条にもおなじく欽明朝の時日置伴部が派遣されてきて「政」を行ったことなどの伝承があり、欽明期の頃に部民制支配が確立したと考えられている。


いずれにせよ律令制の実施に伴って廃止されていった。それ以降の部称は、たんに父系の血縁を表示するだけの称号であるにすぎず、所属する集団との関係を示すものではない。

 まぁ集団によって起源も分類コンセプトも異なる称号体系を「当事者の言い分を尊重しつつ」統合しようとしたら当然カオス状態に陥ります。ヤマト王権はそれぞれの氏族が自然に語り伝えてきた起源譚を全てヤマト大王の権威の下で束ねてを一つにしようとしました。古代バビロニア神話における「50の名を持つ守護神マルドゥクMarduk)」とかヒンドゥー神話における「戦闘神ドゥルガー(durga)や破壊神カーリー(kali)とも同一視されるシヴァ神の神妃パールヴァティー(Pervati)」と同様の「普遍的支配」確立に向けての試みの一種ですね。当人はあくまで大真面目です。

*日本で風土記編纂が途中で挫折したのは同様の試みが限界に達したからともされる。

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問題はまさにそれぞれの氏族集団の反対意見に対する不寛容と(領主が領土と領民を全人格的に代表する)農本主義的伝統が重なると、各氏族集団間の利害衝突に歯止めが効かなくなる点にありました。
*ちなみにこの問題、明治維新後に各神道の流派の教義を統合して「統一神道」を創造しようとした時に再燃した。各流派の代表はお互い一歩たりとも妥協しようとせず、口汚く罵り合うばかりで最後は呪術合戦まで始めてしまったのだった。以降同種の試みが再びなされる事はなかったという…

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和を以て貴しとなす」の元拠として有名な聖徳太子の十七条憲法における「一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成…三曰、承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆臣載。四時順行、萬気得通。地欲天覆、則至懐耳。是以、君言臣承。上行下靡。故承詔必愼。不謹自敗。」といった章句も、要するにこうした状況を諌めていた訳ですね。

十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)-現代語訳付き

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十七条憲法には「わが国に仏教や儒教を導入し、その国民の心根を根本から改造したらこの問題は解決する筈だ」なる信念が透けて見えますが、実際には「奴らを今日族滅に追い込めなかったら、明日族滅されるのは我々の方」くらいの勢いで思い詰めた部民同士の殺し合いがその程度で収まる筈もありませんでした。それで中華王朝から律令体制が本格的導入され(官僚供給階層においては「家=血族」が競争単位である為)氏族的紐帯を次第に解体していったのですが、完全撲滅まで数百年を要したとされています。

司馬遼太郎「アメリカ素描(昭和60年,1985年)」

中世という時代設定は曖昧だが、私のイメージでは、西洋・東洋問わず人間がすぐさま激情に身を任せてしまったという印象がある。さらにはモノやコト、あるいは他人についての状況認識が曖昧極まりなく、ほとんど重視されていなかった。こうした状況を背景に生まれた物語も、またこうした観点から垣間見た外海の景色も、多分の御伽噺めいた荒唐無稽の世界に留まるしかなかったのである。人智が未発達だった訳ではない。思考停止が生んだ互いの認識の隙間があまりにも大き過ぎた為、次々と様々な歴史的対立構造が生み落とされ、それを解消する為の努力が常に欠けていただけである。

一方、日本で近代化が始まるのは一般に明治維新以降とされるが、こうした意味での近代化は既に江戸中期から始まっていた。すなわち社会を勝因経済(貨幣経済)が覆い尽くす様になり、商品を質と量で把握して社会の出来事をその流通を見定める様な冷静さで観察する様になってモノやコト、あるいは自他を見定める目が育ってきて人間をそれ以前の中世的状態から訣別させたのである。また貸借行為を通じてヨーロッパにおける意味とはやや異なるものの、個人という意識も成立してきた。当時の思想家、例えば荻生徂徠、三浦梅園、山片蟠桃、富永仲基などが充分以上に近代人として通用するのはおそらくその為である。
*欧米ではダニエル・デフォーロビンソン・クルーソー三部作(1719年〜1720年)」に「プロテスタントの克己精神」と「複式簿記による自己管理」を対応させる描写がある事に近代の萌芽を見る向きが多い。

*同時代の日本に目を向けると貝原益軒「和俗童子訓(1710年)」の中に「娘が伊勢物語源氏物語のような軽薄な恋愛絵巻に嵌まり、芝居に通って困ります」という商家の大旦那からの相談に「反対するだけ逆効果です。それより読み書き算盤を叩き込み、家計簿と日記をつける習慣を確実に身に着けさせなさい。そうやってしっかり自己管理さえ出来てれば、そういうものに入れ込み過ぎて自らの人生を破滅させる心配などしなくて済むのです」と答える場面が出てくる。なるほど、これが日本における近代の萌芽という事になるらしい。


一方、群集というのは近代の産物である。江戸期の一揆は飢餓とか重税といった形而下の動機で起こったが、明治38年にポーツマス条約に反対した群集は「(国家的利己主義という)観念」に大興奮を発したのである。日本始まって以来の異質さであった。無論、誘爆を誘う為に揮発性の高い議論が先行した。東京帝都大法科大学に拠った「七人の教授の会」がそれで、中世の認識しか持たない彼らは「巨大な償金と領土割譲の要求が通らない限り大日本帝国は戦い続けねばならない」と声高に叫び、ほとんどの新聞がこの主張を支持して「日本の未来を守る為に小村寿太郎を許すな!!」という論陣を張ったのだった。要は真相を知るよりも錯覚に理性を委ねる方が遥かに甘美だった。9月5日における日比谷公演での反対集会には三万人以上が集結して警察と大乱闘となる。その一部は大臣邸に乗り込み、軍隊まで出動する事態となった。二百箇所に及ぶ警察、警察分署、派出所などの施設と16台の市電を焼き、さらには多くの基督教会を襲撃して破壊。特にアメリカを標的とし、米国人牧師を追いかけ回すだけでなく米国大使館を包囲して投石の雨を降らせた訳である。
*近代社会の窮屈な束縛から逃れ、大衆と激情を共有し、中世の精神に本卦還りするカタルシスはこの時以外も発揮された。米騒動の煽動者達は彼ら自身に勤務先や工場を焼かせつつ、騒動拡大の為に備蓄米を下水に流し、鈴木商店焼き討ちを成功させている。ただし後に全てが発覚し、与謝野晶子ら多くの文化人から弾劾される事態となってこの種の蜂起は最後となった。朝日新聞社主が全裸で電信柱に吊るされた「世界史上最も無残な言論弾圧」白虹事件が発生したのはこのすぐ後であり、やがて彼らは右翼と左翼に分裂したがその本質はそもそも同じものであり続けたという。

まぁこうした努力が一切見られなかったのが(ローマ帝国を滅ぼした)ゲルマン諸族の末裔たる神聖ローマ帝国臣民の皆さん。純粋といえば純粋なんですが…こういう話が「どうして宗教革命はルネサンス期イタリアの繁栄に反発する形でドイツに起こったのか」あたりを読み解く鍵となってきます。

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ヴェストファーレン(Westfalen)はドイツのドルトムントミュンスタービーレフェルトオスナブリュックを中心とした地域。ウェストファリア(Westphalia)とも呼ばれ、ライン川ヴェーザー川の間に位置するが、その境界は時代によって異なるので一意に策定出来ない。その前身は古代末から中世初頭にかけてザクセン人を構成した4支族のひとつ、ヴェストファーレン支族の版図にまで遡ることができる。とはいえ神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサによって公爵領に格上げされるまでザクセン公領の一部で、リッペ川の南の小さな地域に過ぎなかった。ハンザ同盟に所属する自由都市が点在していた事でも有名。

①13世紀には領主権力が弱体だったこともあって治安が極度に悪化し「聖フェーメ団」と呼ばれる秘密裁判結社が横行したとされる。主な活動は野外で秘密簡易裁判を開いたり、 盗賊や領主の横暴から民衆を守る事であり、徹底した秘密結社ぶりで誰が構成員なのか分からない上に、どこで見張られているか知れず、権力者や貴族はこの秘密裁判を相当に恐れていた。


②中世ヨーロッパ社会は当事者主義を原則としたので、例え往来に変死体があっても利害関係者が訴えなければ、何の捜査も行われなかった。従って金や権力を握る者は訴訟をおこせたが、貧しい民衆は泣き寝入りするしかない時代だった。そうした時代に活躍した聖フェーメ団は私設裁判所とはいえあらゆる階層がメンバーに名を連ねており構成員も最盛期には総数十万人以上に達したという。1371年には皇帝カール4世から正式な裁判権を付与された。
「欧州封建時代」とは何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)


③聖フェーメ団が悪事を知ると容疑者に召喚状が送られ、深夜の野原に出頭するよう命じてくる。出向くと覆面の裁判官が待ち構えていて、弁明が認められなければ有罪が宣告され、ただちに死刑執行。翌朝には木に死体が吊るされ、裁きの証としてナイフが幹に突き立てられているのが発見されたという。後に神聖ローマ帝国皇帝から公式に裁判権を剥奪されたが、なお存続し続け、1811年にゲーメンの町で予定された秘密裁判をナポレオン軍に邪魔されて以降、やっと解散に追い込まれた。

こうしたイメージの地道な積み重ねが、欧州中世史における「叙任件闘争(Investiturstreit、11世紀)」や「教皇派(Guelfi)と皇帝派(Ghibellini)の戦い(12世紀〜13世紀)」や十字軍運動などが当時の人間にどう想起されていたか推測する上でのガイドとしても役立つのですね。

*さらに遡ると両剣論などに至る。
4世紀から5世紀にかけて流行した「剣と法の天秤」信仰 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

そもそも6世紀から10世紀にかけてバルト海の貿易を担ったゲルマン諸族の一つたるフリース人についてどう考えるかが厄介です。

羊毛をめぐる冒険 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

世界システム論はどうやら「そうした文化の歴史に対する影響は16世紀が下限」という立場らしいです。確かに軍役による騎士や領主の動員も以降は途絶える…

世界システム論講義-──ヨーロッパと近代世界-ちくま学芸文庫-川北稔

世界システム成立以前のヨーロッパ は、事実としての分散的な権力の存在と、他方での 普遍的な支配の理念が共存する奇妙な世界であった。すなわち、ローマ教皇庁神聖ローマ帝国は、それぞれに聖・俗のもち分を分かちながら、いずれも少なくとも理念的にはヨーロッパ 世界全域を「 普遍的」に支配するものと「自負」していた。神聖ローマ 皇帝は、イギリスやフランスの「国王」と並ぶ者ではなかったのである。ローマ教皇が「キリスト教世界」の「普遍的」支配を当然のこととしたことは、いうまでもない。

世界システムが 成立すると、その経済的余剰の分け前を得るためには、強力な国家 機構が必要となり、絶対王政のかたちを取る地域が多くなった。しかし、政治や権力に かかわる理念はなお混乱しており、16世紀前半の段階では、いまやアメリカまで拡大 された世界システムの全域を「普遍的」に支配しようとする試みが生き残った。この動向 の主役となったのが、神聖ローマ皇帝カール五 世でもあったスペイン王カルロス一世 と、彼と神聖ローマ皇帝の位を争ったフランス王フランソワ一世とである。この二人は、ヨーロッパ世界の「普遍的」支配権をめざして「イタリア戦争」を 執拗に展開した。ローマ教皇庁の所在地を押さえることが、野望達成のため に不可欠とみられたからである。
*イタリア戦争(1494年〜1559年)の第二幕(ナポリ継承戦争、1499年〜1504年)の裏側では、さらにローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェザーレ・ボルジアがフランス軍の助力を得て教皇領の統治権を回復し、イタリア統一まで目指していた。

しかし、のちの世界システムの歴史にとって決定的なことは、この「イタリア戦争」には、ついに勝者がなかったということである。グローバルな世界システムを政治的に統合し、官僚と軍隊を配置して支配すること、つまり世界帝国にすることは、経済的に引き合わなかったのである。世界の政治的支配を狙った二人の君主は、結局、どちらも財政破綻をきたし失脚した。とくに膨大なアメリカ銀の供給を背に受けたはずのカール五 世にさえ、宗教改革にともなうドイツの混乱をおさめ、広大な世界を支配する財政力は なかっ たのである。1556年、帝国は分裂し、カールは退位する。その長子フェリーペ 二世は、なおネーデルラントをも相続したが、1557年には自ら破産を宣告せざるをえ ず、ネーデルラントは独立に走った。同年、フランス国王もまた、破産を自ら認めざる をえなかった。ハプスブルク家とヴァロワ家は、いわば世界帝国の形成競争のなかで、 共倒れとなったのである。

1559年にいたって、フランスとスペインが、イギリスを交えて締結したカトー・カンブレジ条約によって、世界帝国への夢 を捨てたのは、けだし当然のなりゆきで あった。 1580年、スペインは、ポルトガルを併合し、形式的には「陽の没することなき」帝国 といえるものを形成したが、すでにオランダは独立の寸前にあり、イギリスも、フランスも、スペインの支配下にはなかった。むしろスペイン帝国の内部自体が、オランダ資本などの侵食を受けていたのである。

 近代世界システムの全 史を通じて、その出発点で 得られたこの教訓に挑戦する者がい なかったわけではない。ナポレオンやヒトラーをあげることもできるかもしれないし、問題はあろうが、あるいは、かつての国際共産主義の動きをこのようにとらえることも できるかもしれない。しかし、これらの試みはいずれも失敗に終わった。近代世界システム は、経済的分業体制 ─ ─「世界帝国」に対して「世界経済 と呼ぶ ─ ─ としてしか存続しえないのである。

ochimusha01.hatenablog.com

まぁ18世紀に入ってもこんな人達が「活躍」してたりしますが。

ochimusha01.hatenablog.com

ちなみにブルクハルトは代表作「イタリア・ルネサンスの文化(Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch、1860年)」の中でカール五世について「たとえ当人がどれだけ立派な人物だったとしても、用いる手足が残虐無比なら残虐無比な人物である」と断言しています。

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南ドイツは神聖ローマ帝国の版図のなかで、バイエルン侯国を除いて有力諸侯(大藩) が見当たらず、弱小諸侯(小藩)の密集地であった。南ドイツの小藩は雄藩バイエルン と皇帝家ハプスブルク家の本拠地オーストリアに挟まれ、右顧左眄するしかなかった。 おまけにこの一帯には多くの教会領が虫食いのように散在し、さらにアウクスブルクを 始めとする帝国直轄として諸侯の支配を受けない有力な帝国都市が勢力を張っていた。南ドイツの各小藩は大藩バイエルンに対抗するため、ハプスブルク家の後押しでシュヴァーベン同盟という軍事同盟を結成するが、後にバイエルン自身がその同盟に加わり、 結局、各藩はハプスブルク家バイエルンの隷属下におかれることになる。


ところで各藩が軍事同盟を結ぶということは、徳川政権の強固な幕藩体制とは違い当時 の神聖ローマ帝国がいかに統一国家の体をなしていなかったかの証左である。皇帝家ハプスブルク家も各藩の係争調整能力はなく、ひたすら自領拡大に狂奔するだけであっ た。

さらに南ドイツは北ドイツに比べ地味が豊かであったため、伝統的に男子均一相続制度 が採られていた。したがって農地は代替わりのたびに細分化され、農民といえば零細農民ばかりとなっていた。もはや分ける耕地もなくなっていたのである。農家の次男三男は小作人になるか難民として近隣の都市になだれ込むしかなかった。そして各藩も小藩ゆえに強力な公権力など夢のまた夢で、こうした農民の逃散・逃亡に対してなす術もなかった。

むろん当時は、村の教会の尖塔が見えなくなるところまで出かけたことなど生まれてから一度もない人々が、大多数を占める定住農村社会であった。ところがここ南ドイツ はその定住社会ではアウト・ローを意味する流れ者、無宿人の予備軍を大量に抱えていたのである。農家の次男三男や都市難民が当時の定住社会に背を向けて、一縷の望みを かけるようにしてこぞって傭兵募兵に応じたのである… この南ドイツ出身の歩兵から なる傭兵を称してランツクネヒトと言う。

ランツクネヒト。 ドイツ 語 で Landsknecht と 綴る。 Land は 国、 土地、 田舎 という 意味 で、Knechtは兵士と解してよい。そこでランツクネヒトの語源についてさまざま な解釈が生まれる。

まずはLandsが騎兵の槍Lanzenの転化とする説があるが、ランツクネヒトはスイス兵 に倣って歩兵の長槍を武器としている。次にスイス兵のような山岳出身の兵ではなく「 平地( ラント)出身出身の兵」であるというのはどうか。しかしランツクネヒトには、アルゴイ地方(現ドイツとオーストリアとの国境をなす山岳地帯)やチロル出身の兵も 数多くいた。都市ではなく「 田舎(ラント)出身の兵」というのも明らかにおかしい。 ランツクネヒト部隊では、その発祥のときから都市出身兵が重要な役割を果たしている からで ある。「 国土( ラント)防衛 の兵士」となると、あまりにも現在の国家概念 にとらわれすぎていることになる。そもそも国土とは何か、祖国とは何か? 当時そんな 概念があったのか?ランツクネヒト は 国家 防衛 といった 意識 とは まったく 無縁 な ところ から 生まれ て いる。 事実、 神聖 ローマ 皇帝( ドイツ 国王) 軍 と ひっきりなしに 干戈 を 交え たフランス 王 軍 の 軍勢 にも、 数多く の ランツクネヒト が 雇わ れ て い た ので ある(『 ドイツ 傭兵〈 ランツクネヒト〉 の 文化史』)。

このように ランツクネヒトの語源ははっきりしない。しかし当時からランツクネヒト 部隊とスイス傭兵部隊の違いは強く強調されていた。とりわけランツクネヒト自身が彼我の違いをことさらに言い募った。スイス傭兵部隊の真似から始まったランツクネヒト にしてみれば、スイス傭兵部隊との違いを強調することが、自分 たちのアイデンティティーの確立に繫 がっていたのである。


1486年10月9日のスイス誓約同盟議会の議事録は、ランツクネヒトについて言及している。いわく、シュヴァーベン 地方の騎士コンラート・ゲシュッツなる者がスイスでランツクネヒト部隊の兵を募集している、しかもその際、この騎士はランツクネヒト部隊に 入れば一人で二人のスイス兵を難なくねじ伏せ られるぐらいに鍛えることができると豪語している、まったくけしからん、と。

スイス傭兵部隊は傭兵と言えども国家管理の傭兵部隊であった。これに対しランツクネヒト部隊はあくまでも私企業であった。スイス誓約同盟議会議事録に出てくるシュヴァーベンの騎士コンラート・ゲシュッツのような 口入れ屋が現金をちらつかせながら兵 を搔き集めてきたのが、ランツクネヒト部隊である。日本でも応仁の乱以降、大量の足軽傭兵が発生し、各地で略奪をほしいままにしたのは、兵たちの奉公先を斡旋する口入れ屋と略奪品を捌く故買屋が軒を接して店を開いていたからである。当時戦争は最大の産業であり、そしてドイツでは足利幕府末期と同じく強大な公権力がなく、戦争ビジネスは口入れ屋である各民間企業家に任せられていた。これら戦争企業家が傭兵隊長である。

兵士たちにとって連隊長はたしかにあくどいやり方で自分たちの生き血をすする悪辣企業家ではあったが、しかしなんといっても兵士たちは連隊長あっての兵士たちであっ た。兵士たちは連隊長の雇い主など誰でもよかった。最高司令官はどこの国の君主で敵 はどこか、何のための戦争なのかにはまったく関心がなかった。彼らの関心はどの連隊長について行けば給料を遅滞なく貰え、多くの略奪品を得られるかだけに向けられてい た。

 

思え ばドイツ傭兵、ランツクネヒトはスイス傭兵とは違い出稼ぎでは ない。出稼ぎには帰る故郷がある。ところがランツクネヒトはひとたび 傭兵 稼業 に 手 を 染める と、 だいたい が 故郷 から 冷たく 締め出さ れる。 傭兵契約期限が切れ、隊が解除されると彼らはたちまち干上がってしまう。月四グルデンの給料も隊内での博打、酒代、娼婦の花代、酒保商人のごまかしで跡形もなく消えている。帰る故郷とてない除隊兵士は乞食、行商人、旅芸人、鋳掛け屋、ロマ(ジプシー)といった階級秩序の外側で暮らす非定住社会に身を置くしかない。彼らは諸国を放浪し、無銭飲食、盗み、追いはぎ、放火、人殺し、略奪を繰り返し、その眼にすさんだ陰険な光を宿すことになる。そしてどこかで傭兵部隊の募兵があると聞くと、いまとなっては娑婆ではまっとうに生きることができなくなったこれら除隊兵士が先を争って募兵に応じるのだ。

むろん、それも今までの生活の繰り返しである。兵たちは己の命を的にして得た月わずか四グルデンの給料を酒、賭博、女に蕩尽する蟻地獄の生活にのた打ち回り、その日その日を小狡く生きるしかないのだ。しかし少なくともここには彼らの生活があった。否、ここにしかなかった。兵士たちにとってランツクネヒト部隊が故郷となる。

 何たるスイス傭兵の戯画…まぁ彼らこそが「ジェノヴァ略奪(Sacco di Genova del 1522、1522年)」でジェノヴァ人を屈服させ、「ドイツ農民戦争(Deutscher Bauernkrieg、1524年〜1525年)」で同胞殺しに手を染め、「ローマ略奪(Sacco di Roma、1527年)」によって1450年代から続いていた盛期ルネサンス時代を終わらせた張本人だった訳ですから、普通にルネサンス研究家からはまとめて嫌われてますね。