政治家ヒトラーを駆り立てた重要な原動力(ルサンチマン)の一つが「祖国オーストリアにおいてドイツ人なのにマイノリティ扱いされた屈辱」だったのは有名な話。
おっぱいぷるんぷるんとは (オッパイプルンプルンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
また仏陀当人がヒンズー教徒、イエス・キリスト当人がユダヤ教徒だった様にカール・マルクス当人もあくまで「大ドイツ主義」を信奉するハプスブルグ帝国臣民に過ぎず、イタリア王国やドイツ帝国の独立を「国際正義に対する裏切り」としか認識できない側面が確実に存在した。そして、こうした思考様式はローザ・ルクセンブルグやスターリンの「民族自決構想そのものが国際正義に対する裏切り」なる発想へと継承されていく事になる。
しかし当時のオーストリア=ハンガリー二重帝国にはそうせざるを得ない事情というのがあった。当時の別名「ドナウ帝国」がそれを暗喩している。
オーストリア=ハンガリー帝国内の民族分布図(1910年)。赤=ドイツ人 薄緑=ハンガリー人 水色=チェコ人 茶=スロバキア人 紫=ポーランド人 濃黄=ウクライナ人 灰色=スロベニア人 橙=ルーマニア人 黄緑=イタリア人 カーキ色=セルビア人・クロアチア人。ドイツ人は総人口の半分に満たず、ハンガリー人もハンガリー王国の半分ほどの人口しかなかった。
オーストリア・ハンガリー・チェコ・スロバキアなどの中央ヨーロッパ(中欧)に位置するドナウ川流域の諸国で連邦国家を構成しようとする構想。歴史的には民族主義が高揚したハプスブルク君主国末期から論じられるようになり、これまでに多種多様な地域統合案が生み出されている。
- 民族主義の高揚を背景として、ハプスブルク君主国末期から論じられるようになった連邦国家構想である。「中欧連邦構想」と呼ばれることもあるが、同じ中欧に属する国でも基本的にドイツは含まれず、あくまでオーストリア以東のドナウ川流域の諸国のみを対象とする。
*なお、ドイツを含むものとして、かつて大ドイツ主義や小ドイツ主義とともに提案された「中欧帝国構想」なるものも一応は存在した。オーストリア主体の連邦構想の中では、アウレル・ポポヴィッチが1906年に独語で発表した著作「大オーストリア合衆国(ドイツ語: Vereinigte Staaten von Groß-Österreich)」が特に著名である。この種の構想としては、他に「ドナウ合州国(ハンガリー語: Dunai Egyesült Államok)」などがある。- オーストリアを排除してハンガリー主体の連邦国家を構築する「ドナウ連邦構想」(ハンガリー語: Dunai Szövetség)、スイスを模範として聖イシュトヴァーンの王冠の地を連邦体制とする「東のスイス構想」(ハンガリー語: keleti svájc)など、複数の連邦化構想が提案されてきた。
しかし結論からいえば、それはいかなる形でも実現する事はなかったのである。
- ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河。各国語の呼称は、ラテン語の Danubius(ダーヌビウス) に由来し、これはローマ神話にある河神の名である。スキタイ語、あるいはケルト語からの借用語が元と考えられている。
- おそらく語頭 Danu はインド・ヨーロッパ祖語で「川」を意味する「*dānu」という単語より来ている。ケルト神話のダヌ(Danu)、インド神話の水の女神ダヌ(Danu)など、印欧語族の神話にはこの語が残っている。黒海周辺にはドン川、ドニエプル川、ドネツ川、ドニエストル川など、同様の単語から派生したと見られる川の名が多数ある。また語尾 au は古ゲルマン語で流れを意味する ouwe に由来し、ドイツ語名称に1763年以降使われている。ドイツ語では以前は Tonach, その後は Donaw の名が使われ、現在に至る。日本語表記は、ドナウ川、ダニューブ川。一方下流域は古代ギリシャ語では「イストロス川」と呼ばれた。これはケルト語の ys に由来する。
その流域に何があるかざっと俯瞰すると現在ではこんな感じになっている。
- 上流世界…ドナウの源流はドイツのシュヴァルツヴァルト地方にあるフルトヴァンゲンの郊外にある。ここから流れ出す川はブレク川と呼ばれ、南東に48㎞下流のドナウエッシンゲンの街で、北から流れてきたブリガッハ川と合流し、ここからドナウの名を与えられる。ドナウ川はここから北東に流れ続け、シュヴァーベン山地を抜けてウルムやインゴルシュタットを通過し、フランケン山地を抜けた後、ケールハイムではライン・マイン・ドナウ運河と接続する。その後、レーゲンスブルクでレーゲン川をあわせると同時に南東へと向きを変える。その下流でミュンヘンから流れてきたイーザル川を合わせたのち、パッサウで北からのイルツ川、南からのイン川と合流する。パッサウの下流からはオーストリア領内に入る。リンツを抜けた後、メルク修道院を起点として、30㎞ほどヴァッハウ渓谷と呼ばれる景勝地が続く。この渓谷には古城や修道院が点在し、またオーストリア最大のワインの産地でもあるため、ブドウ畑の中に城や僧院のたたずむ美しい光景が観光客の人気を集めており、また世界遺産にも指定されている。この渓谷を抜けるとウィーン盆地へと入り、しばらく下流に、オーストリアの首都ウィーンが存在する。ウィーンはハプスブルグ帝国の居城として長くドナウ上流地域の中心であった町であり、また市民生活もドナウ川と密接に結びついていた。「美しく青きドナウ」など、ドナウを主題としてウィーンで作曲された曲も数多く存在する。一方でウィーンはドナウ川の氾濫にも長く悩まされてきた街だが、19世紀後半の河川改修工事によってドナウ川の氾濫は抑えられた。ドナウ川はウィーンの街を抜けて、その下流で小カルパティア山脈を越える、いわゆる「ハンガリーの門」と呼ばれる狭隘部を通過する。ここまでがドナウ川の上流部とされる。
- 中流世界…「ハンガリーの門」の名の通り、ここから下流はハンガリーに属するものと古来されてきた。現在でもオーストリアとスロバキア及びハンガリーの国境をなす。この門のすぐ下流に、スロバキアの首都ブラチスラヴァが存在する。「門」で隔てられているとはいえ、ブラチスラヴァとウィーンの距離は60㎞にすぎず、オーストリア・ハンガリー帝国時代までは密接な交流があった。またブダがオスマン帝国に占領されていた17・18世紀には、ブラチスラヴァはポジョニと呼ばれ、ハンガリーの首都となっていた。ブラチスラヴァ下流では、かつて大規模ダムの建設計画があったものの、環境保護運動により中止となった。スロバキア・ハンガリー国境はエステルゴムで終わりをつげ、ここからはハンガリー領内に入る。エステルゴムはハンガリー国王イシュトヴァーン1世が戴冠した歴史ある都市であり、ドナウ河畔には町のシンボルであるエステルゴム大聖堂が立っている。エステルゴムのすぐ下流、ドナウベンドと呼ばれる地域でドナウ川は東西から南北に流れを変え、ハンガリーの中央部を縦断する。ドナウ川が流れる各国の中でも、国土の中央部を貫流するのはハンガリーのみである。ハンガリーにおいてドナウ川は南北をつなぐ交通の軸でもあり、また東西を分断する障壁ともなっている。ブダペストには多くの橋が架けられているが、それを除くとハンガリー国内にドナウ川を越える橋はほとんどない。ドナウ川を境として、ハンガリーはやや富んで小村が多く、やや都市化の進む西部と、プスタと呼ばれる大平原が広がり、大村落が多く農業を依然中心とする東部とに二分されている。ただ、人口分布や富においては東西に大きな差はなく、かなり均質なものとなっている。ここではハンガリー大平原を貫流することとなり、穏やかな流れが続く。ハンガリーの首都、ブダペストは「ドナウの真珠」とも呼ばれる美しい都市であるが、かつて西岸のブダと東岸のペシュトの二つの街だったものが合併したもので、そのためドナウ川は街の中央部を流れることとなっている。ブダとペシュトの間には、1849年にセーチェーニ鎖橋がかけられて以降、何本かの橋が架けられているが、なかでもセーチェーニ鎖橋はその美しさでブダペストのシンボルの一つとなっている。ハンガリー領の南端近くのドナウ沿岸にはモハーチの街があるが、ここは1526年にモハーチの戦いが起き、ハンガリーがオスマンに敗れた古戦場である。ハンガリーを抜けると、クロアチアとセルビア(ヴォイヴォディナ自治州)の国境をなす。ここで西から流れてきたドラーヴァ川をあわせ、ヴコヴァルで流れを再び大きく東西に変えたのちにセルビア国内に入る。ヴォイヴォディナの州都であるノヴィ・サドを通ったのち、セルビアの首都ベオグラードでスロベニアから流れてきたサヴァ川を合わせる。ハンガリーから続く平原地帯はベオグラードのやや下流で終わり、やがてセルビアとルーマニアの国境となる。ここはドナウ川がカルパティア山脈を越える地点であり、その部分には急流で知られる鉄門がある。ここは長い間難所として知られてきたが、現在ではダムの建設によって水位が上がり、穏やかな流れとなっている。また、鉄門ダムには3つの水力発電所が建設され、合計240万kwの電力を生み出している。ここまでがドナウの中流域である。
- 下流世界…鉄門のすぐ下流にあるドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンで、ドナウは再び平原へと流れ出て緩やかな流れとなる。その後は下流域となり、ワラキア平原をブルガリアとルーマニアの国境をなしながら500kmにわたって流れていく。ドナウ川の屈曲部、ブルガリアの西端に近いヴィディンとルーマニアのカラファトの間には、2013年に新ヨーロッパ橋が開通し、それまでフェリーで行き来していた両都市を結ぶこととなった。この地域で最も大きな町は、南岸にあるブルガリアのルセである。ルセと、対岸のルーマニアのジュルジュとは「ルセ・ジュルジュ友好記念橋」によって結ばれている。この橋は、2013年に新ヨーロッパ橋が開通するまではブルガリアとルーマニアとを結ぶ唯一の橋だった。ドナウ北岸のワラキア平原は、西部のオルテニア、東部のムンテニアとも、灌漑が広く行われ、またドナウ河岸の湿原の耕地転換が進められてきた。ブルガリア領シリストラの北岸で、ドナウは大きく北へ流れを変えてルーマニア領内へと入る。シリストラの対岸はルーマニアのカララシであり、両市はフェリーで結ばれている。この辺りから東の、ドナウ川と黒海に挟まれた地域はドブロジャと呼ばれる。カララシからやや北東に位置する東岸のチェルナヴォダで、ドナウ-黒海運河と接続する。チェルナヴォダは交通の要衝であり、西岸のフェテシュティと1895年にカロル1世橋で結ばれて以降、ドナウ-黒海運河のほか、首都ブカレストと黒海沿岸の貿易港コンスタンツァを結ぶ道路・鉄道・水運すべてがこの町を通る。その後、ブライラの街を通ったのち、ガラツィの町で再びドナウは東に向かい、ウクライナとルーマニアの国境をなす。この地域ではドナウ川は北のキリア分流、中央のスリナ分流、南の聖ゲオルゲ分流とに分かれる。キリア分流が最も水量が多く、上流の水の70%が流れ込む。スリナ分流には10%、聖ゲオルゲ分流には20%前後が流れ込む。ウクライナ・ルーマニア国境は北のキリア分流であり、ウクライナ領の北岸にはイズマイールの町がある。また、南の聖ゲオルゲ分流沿いにはトゥルチャの街がある。この地域はドナウ・デルタと呼ばれる広大な河口デルタ地帯となっている。そして、スリナ分流は黒海沿岸の町スリナで黒海へと注ぎ込む。
当然ながらその歴史も遠大極まりない。
- ギリシア人は河口から鉄門までのドナウ川を知っており、イストロス川と呼んだ。ローマ帝国もほぼ同じ地域まで進出し、ヒステール川と呼んだ。 ローマ帝国時代には、ほとんど源流から河口までの全域が蛮族に対する帝国の北方の防衛線の役割を果たした。ウィーン、ブダペスト、ベオグラード、ソフィアといった各国の首都はこの時期の最重要基地に起源を持つ。ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンの近郊には、105年にローマ帝国によって築かれた、ドナウ下流初の橋梁であるトラヤヌス橋の遺構が今も一部残存している。この橋は、皇帝トラヤヌスのダキア戦争時に、ドナウ北岸のダキアへ侵攻するために建設されたもので、翌106年にダキアはローマ帝国に占領され、属州ダキアとなった。ドナウの両岸がローマ帝国の支配下に置かれていたのはこの属州ダキア(現在のルーマニア西部)のみであり、残りはドナウ川をそのまま国境としていた。271年、属州ダキアは放棄され、ローマ帝国は川の南岸へと引き上げた。ローマのダキア統治は165年間と、比較的短いものであったが、この地方はすでにローマ化されており、現在でもルーマニア人はラテン系民族となっている。
375年、フン族によって圧迫された西ゴート族がドナウ川を渡り、ここにゲルマン民族の大移動がはじまった。これによりドナウ川はローマ帝国の北部国境としての意味を失い、ゴート族をはじめ、ゲルマン諸民族やフン族などがつぎつぎとドナウ南岸に流入。ローマ帝国東西分裂後は、下流は東ローマ帝国の北部国境となったものの、やがてブルガール人がこの地域を奪取し、第一次ブルガリア帝国をたてた。
第一次ブルガリア帝国(681年〜1018年)…東ローマ帝国に現地支配を認められた7世紀より東欧ブルガリアで栄えた帝国。8世紀末にフランク王国に成敗されて衰退したアヴァールの旧領を奪取し東ヨーロッパ随一の大国に成長。10世紀前半におけるシメオン1世の治世に全盛期を迎えたが、11世紀前半東ローマ帝国によって滅ぼされた。建国当初はテュルク系遊牧民ブルガール人の部族連合的性格が色濃く有力部族から選ばれる君主がハーンを称号としたが、次第に圧倒的多数を占める南スラヴ人と一体化し最後は東方正教会を受容している。ちなみに第二次ブルガリア帝国(1187年〜1396年)はオスマン帝国に併合されて消滅。19世紀にオスマン帝国から独立して成立したブルガリア王国もツァーリを君主の正式な称号とした君主制時代(1908年〜1946年)もブルガリア帝国と呼ばれる事がある。
フランク国王カール大帝はドナウ川上流で半独立勢力となっていたバイエルン族を攻め、大公タシロ3世を追跡して788年に征服。791年にはドナウ川中流のスラヴ人やパンノニア平原にいたアヴァールを討伐してアヴァール辺境領をおき、792年にはウィーンにペーター教会を建設。この時はアヴァール領の西部を制圧しただけであったが後に再度のアヴァール侵攻を計画し、その一環として793年にはドナウ川とライン川をつなぐ運河を計画した。796年に再侵攻した際にはアヴァールの宮殿にまで到達して大規模な略奪を行い、これによって致命打撃を受けて衰退。この勝利に伴ってフランク王国は東に大きく領土を広げ、パンノニア平原の中央部付近まで服属させる様になった。
◎中流部のハンガリー平原にはアヴァール人やマジャール人などの遊牧民族が押し寄せ、やがてマジャール人のハンガリー王国が成立してその領域となった。
◎上流域は神聖ローマ帝国領となり、この地におかれたオーストリア辺境伯領がやがて強大化していく。
*そして元来は神聖ローマ帝国皇統ホーエンシュタウフェン家の所領だったシュヴァーベン地方の一部だったスイスより出たハプスブルグ家に乗っ取られる訳である。ちなみに贖宥状販売によって宗教革命の原因を生み出した後に自らプロテスタントに改宗し、後のプロイセン王統/ドイツ帝国皇統となるホーエンツォレルン家もシュヴァーベン地方出身。こうして「イタリアに最も近いドイツ」出身者抜きにドイツ史が語り得ない辺りがバイエルン王統ヴィッテルスバッハ家の伝統的憂鬱の種になり続けてきた訳である。
◎やがてオスマン帝国が強大化して下流域を版図に組み入れ、中流域も1526年のモハーチの戦いによってハンガリー王国が大部分の領土を喪失すると、大部分がオスマン帝国領となった。
◎さらに上流域のウィーンにも1529年(第一次ウィーン包囲)と1683年(第二次ウィーン包囲)の2度にわたって押し寄せている。
- 1529年…第一次ウィーン包囲。フランス王フランソワ1世と秘密裏に同盟したスレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、神聖ローマ帝国皇帝にしてハプスブルク家の当主とオーストリア大公を兼ねたカール5世の本拠地ウィーンを2ヶ月近くに渡って包囲。頑強な抵抗によりオーストリア軍は辛うじて陥落だけは免れた。
- 1538年…プレヴェザの海戦。バルバロス・ハイレッディンの指揮するオスマン帝国艦隊と、アンドレア・ドーリアが指揮するスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊とによって戦われた海戦。イオニア海、レフカダ島沖が戦場となったが、連合艦隊側は統制が取れず敗走。結果としてオスマン帝国はクレタ、マルタを除く全地中海域の制海権を握ることとなった。
- 1571年…レパントの海戦。ギリシアのコリント湾口のレパント(Lepanto)沖にて教皇・スペイン・ヴェネツィア連合海軍がオスマン帝国海軍に勝利。ただしその時点で欧米側が地中海制海権の奪還に成功した訳ではない。
この時期のドナウ川中下流域はオスマン帝国の重要な交通路となっていたが、第二次ウィーン包囲に失敗し1699年のカルロヴィッツ条約によって中流域はオーストリアに割譲され、18世紀には大まかに上流・中流部がハプスブルク家のオーストリア領に、下流部がオスマン帝国領となった。
*おそらく実話ではないが、クロワッサンには「オーストリアのオスマン帝国に対する勝利を記念して焼かれたのが最初」という起源譚が存在するという。当時の欧州はそれほどまでにオスマン帝国に対する勝利を喜んだのだった。
- 18世紀に入るとアドリア海に面したトリエステが神聖ローマ帝国の重要な港湾と貿易のハブ地として浮上してくる。神聖ローマ皇帝カール6世(在位1711年〜1740年)の時代にオーストリア領内における自由港とされたが、1719年から1891年7月1日まで自由港のままであった。本格的繁栄はカール6世の後継マリア・テレジアの時代に入ってから。
*788年から伯爵位を持つ司教の宗主下で、フランク王国の一部となってきたが、1081年以降アクイレイア大司教のゆるやかな支配下に入り、12世紀終盤より中世の自由コムーネとしての発展が始まる。しかしその後2世紀にわたり、近郊の強国ヴェネツィア共和国との戦争が続いた。1369年から1372年にはヴェネツィアが事実上トリエステを支配。ヴェネツィアの脅威に対抗できなかったトリエステの自治都市市民たちは、オーストリア公レオポルト3世にトリエステを彼の封土に加えてくれるよう懇願。1382年10月にシシュカ村(Šiška、ラテン語名apud Sisciam、現在はリュブリャナの一地区)の聖バルトロメウス教会で停戦合意が締結されたが、市民らは17世紀まで自治権の一定部分を保持した。 -
ハプスブルク家オーストリアはカンポ・フォルミオ条約(1797年)により、ベネチアからダルマチア沿岸部に至る長い海岸線を獲得。この時消滅したベネチア共和国の艦隊を入手して本格的な海軍建設を進めた。以後ベネチアの艦隊及びこれに所属するイタリア人水兵は、オーストリア海軍の基礎を成す事となる。その後対ナポレオン戦争の相次ぐ敗北により一時的に沿岸部を失うが、1815年のウイーン条約によりベネチアからダルマチア沿岸部に至る長い海岸線が再びオーストリアの支配下に戻された。これにより、ベネチアの艦船及び造船所はすべて当時のオーストリア帝国に帰属して海軍が再建される事になる。
*ヴェネツィアの「警官風リゾット(Risotto alla sbirraglia、リゾット・アッラ・ズビッラーリア )」はこの頃駐在していたオーストリア警官が喜んで食べたチキンリゾットに由来するという。 -
トリエステは、ナポレオン戦争中の1797年、1805年、1809年、3度に渡ってフランス帝国軍に占領された。1809年の占領時には、フランス帝政下のイリュリア州に併合され、その自治権を失っている(自由港の地位も中断されたが、1813年にオーストリアへ返還)。その一方でナポレオン戦争に伴い「帝国自由都市(Reichsunmittelbare Stadt Triest)」として繁栄を続け、キュステンラント(Küstenland)と呼ばれるオーストリア帝国直轄領の首都となった。、1836年に船舶会社エスターライヒャー・ロイト(Österreichischer Lloyd、現在はイタリア・マリッティマ)が商業用路線を開設するとオーストリアの貿易港・造船中心地としての役割がさらに高まる。オーストリア=ハンガリー帝国海軍も、トリエステの造船施設を使用し、基地を置いた。
*ロイトはグランデ広場の角に本社を置き、1913年には合計236,000トンの62船舶からなる船団を所有していた。 - ウィーン体制下のイタリアではオーストリア帝国に属する北東イタリアのロンバルド=ヴェネト王国、北西部のピエモンテとサルデーニャ島を支配するサヴォイア家のサルデーニャ王国、中部イタリアには教皇国家、トスカーナ大公国、モデナ公国、パルマ公国、マッサ・カッラーラ公国(1829年にモデナ公国に併合)、ルッカ公国(1847年にトスカーナ大公国に併合)、サンマリノ共和国、そして南イタリアにはブルボン家の両シチリア王国が成立したのである。1859年までこの枠組みに大きな変更はなかったが、この当時のイタリア統一に向けての闘争は主にオーストリア帝国とハプスブルク家に対するものとなった。北イタリアを支配しており、それ故にイタリア統一に対する最も強大な障害であったためである。オーストリア帝国は、帝国の他の領域に対すると同様に、イタリア半島において発達しつつあったナショナリズムを弾圧。ウィーン会議を主宰したオーストリア宰相クレメンス・メッテルニヒも「イタリアという言葉は地理上の表現以上のものではない」と言明している 。
デンマークとの間でヘルゴラント沖海戦が行われる(1864年5月9日)…シュレスヴィヒ・ホルシュタイン領をめぐる紛争でプロイセンと同盟したオーストリアは、北海にテゲトフの率いるフリゲイト艦隊(後に装甲艦を含む8隻に増強)を派遣して戦い、苦戦を強いられたものの最終的に戦略的勝利を収めた。これが木造艦隊同士の最後の海戦となる。
アドリア海でリッサ海戦が行われる(1866年7月20日)…上記領土の処理をめぐる普墺戦争でプロイセンと同盟したイタリアとの間で行なわれ、テゲトフの指揮する装甲フリゲイト艦を中心としたオーストリア艦隊は、衝角(ラム)を用いた大胆な戦術により数的に優勢なイタリア海軍を打ち破った。これは初の装甲艦隊同士の海戦であるとともに、以後各国の海戦術や軍艦設計に大きな影響を及ぼた。しかし最終的にイタリア王国は1861年に念願の国土統一を果たし、オーストリア帝国にとっては黒海への出口たるドナウ川流域確保が必須課題となった。
- 上流・中流部のオーストリア領でも民族自決の動きが強まり、ウィーン三月革命(1948年〜1949年)が勃発するなど体制が動揺を続けた。
またこのころ、ドイツにおいて統一の動きが高まる中、オーストリア皇帝を戴く「大ドイツ主義」か、プロイセン王を戴く「小ドイツ主義」かで対立が深まり、1866年の普墺戦争により大ドイツ派のオーストリアは敗れ、最上流部は1870年にドイツ帝国に吸収されることとなったのである。
*二月革命/三月革命(1948年〜1949年)に便乗してベネチアのイタリア人水兵も蜂起。約5,000人の海軍軍人のうち参加しなかったのは士官73人と水兵665人だけだったという惨状でベネチアに現地に停泊していた軍艦の多くが占拠されてしまう。そこでオーストリア帝国はデンマーク人のハンス・ブリッヒ・フォン・ダーラップ提督(Hans Brich von Dahlerup)を招聘して1849年3月に司令官を任命し陸軍と共同してベネチア湾を封鎖する新艦隊を派遣したが、この戦いは史上初めて気球を使った空爆として歴史に残る事になる。8月に反乱鎮圧が完了すると回収された艦隊はポーラ(現クロアチア領プーラ)に移され1853年にはイタリア語に代わりドイツ語が海軍の主要言語とされている。ただしベネチアそのものは1866年までオーストリア領に留まり続ける事になった。 - 1857年、帝国初の主要幹線鉄道であるウィーン=トリエステ(オーストリア帝国唯一の大規模港湾)間のオーストリア南部鉄道(1841年設立)が(ドイツ語:Österreichische Südbahn、英語:Austrian Southern Railway、スロベニア語:Južna železnica)完成。貿易や石炭の供給に利用され貿易量を何倍にも増やした。オーストリア・ハンガリー帝国の国際海洋貿易を向上させ、南部中欧で最も巨大な主要港湾としての地位を確立させ、国内ではウィーン、ブダペスト、プラハに次ぐ4番目の大都市として名を馳せた。さらに鉄道はブダペスト、プラハと共にアドリア海沿岸を観光地として発展させるのに重要な影響を与え、トリエステを「オーストリアのリヴィエラ」の中心地とした。1923年まで運行。
*工事は1839年に始まった。1842年、ウィーン南駅―グロッグニッツ間がウィーン・グロッグニッツァー鉄道会社(Wien-Gloggnitzer Eisenbahn Gesellschaft)という会社によって運行され、続いて1857年にミュルツツーシュラークからグラーツ、マリボル、リュブリャナ経由でトリエステまでが帝国政府によって敷設される。この二つの路線をゼメリング鉄道が繋ぐこととなる。
*1858年に南部鉄道会社(Südbahn Gesellschaft)に売却され、マリボルからクラーゲンフルト、フィラッハ、リエンツを経由してフォルテッツァまで行く路線と共に会社を構成した。
リヴィエラ、リビエラ(Riviera)…もともとイタリア語で「海岸」「湖岸」「川岸」を意味する普通名詞である。フランスのトゥーロン付近からイタリアのラ・スペーツィア付近までの地中海沿岸地方の名称。19世紀からリゾート地として著名。もとはイタリア側のサンレーモ(インペリア県)周辺の海岸を指したが、のちにその範囲が拡大された。イタリア側(イタリアン・リヴィエラ)はリグーリア海岸、フランス側(フレンチ・リヴィエラ)はコート・ダジュールと呼ばれる。
オーストリア帝国は、ドイツ人・ハンガリー人・チェコ人・クロアチア人・ポーランド人・イタリア人など、非常に多くの民族を抱えた多民族国家であった。ハンガリーの下級貴族コシュート・ラヨシュは、ハプスブルク家の支配から完全に独立したうえで、オーストリアを除外してハンガリー主体の「ドナウ連邦」を樹立しようとした。
1848年、自由主義的な中小貴族の代表としてコシュートはハンガリー革命の指導者のひとりとなるが、オーストリアとロシア帝国の援軍によって革命運動は鎮圧され、亡命を余儀なくされる。
1862年、コシュートは亡命先のミラノにおいて「ドナウ連邦」(ハンガリー語: Dunai Szövetség)構想を発表。オーストリアからの独立とハンガリー国家再建案を明らかにしたこの案においてコシュートは、ハンガリーがオーストリア以外の近隣諸民族と結んでドナウ川流域を連邦化することによって、一気にヨーロッパ諸大国と肩を並べる勢力に成長することを目指した。連邦化しなかった場合、大国に挟まれているハンガリーはどちらかの陣営に与することでしか生き残ることができないとコシュートは考えたのである。
結局コシュートの構想は退けられ、1868年にオーストリア=ハンガリー帝国(ドイツ語: Österreichisch-Ungarische Monarchie または Kaiserliche und königliche Monarchie、ハンガリー語: Osztrák-Magyar Monarchia)が成立することになるが、アウスグライヒまでハンガリーにおいては完全独立(ドナウ連邦)派と帝国内妥協派の二派が存在していた。自由主義的な中貴族を基盤とするグループは「ドナウ連邦」構想を支持し続けたが、その一方で自由主義的富裕貴族および中貴族右派を含む広範な層が平和的にオーストリア帝国からの譲歩を勝ち取ったほうが賢明だと考えるようになっていく。ハンガリーの資本主義化した大地主が経済的にオーストリア資本を必要としていたうえ、ロシア帝国によるポーランドの1月蜂起の弾圧が汎スラヴ主義の脅威をかき立てたからである。
*ハンガリーの周辺民族はオーストリア(ドイツ人)を除いてほぼスラヴ系であり、オーストリアとの絶縁はスラヴ系のなかでハンガリーが孤立することを意味した。東方のルーマニア人は非スラヴ系民族であるが、当時ルーマニアはオスマン帝国の支配下にあった。また、ハンガリー王冠領の領土的一体性を損なう危険があるとして、ハンガリー大中貴族がコシュートらの連邦化計画を拒絶したことも、ハンガリー主体の「ドナウ連邦」構想に決定的打撃を与える事になった。
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統一ドイツから排除されたオーストリアは東欧・ドナウ志向を強め、1867年にはオーストリア帝国はアウスグライヒをマジャール人と結んでオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)へと改組された。ドナウ川は二重帝国を結びつける大動脈となり、これ以降のハプスブルク帝国をドナウ帝国と呼ぶこともある。この時期には民族自決の動きが盛んになる中、二重帝国制をさらに改組し諸民族が同等の権利を持つ連邦国家、ドナウ連邦の構想がなされる。
*あくまで憶測だが、イタリア失陥によって活躍の場を失った「海軍派」が新たな活躍の場を求めた可能性もなきにしもあらず? ちなみにその後も極東、南北アメリカ、太平洋などに調査活動・科学的研究・貿易・通商といった目的で長期航海を伴う艦隊派遣を続けたり(フランツ・ヨーゼフ諸島を発見する北極の調査にも参加)、義和団の乱(1900年)に際してルドルフ・モンテクッコリ提督の指揮する防護、装甲巡洋艦隊を中国海域に派遣し、防護巡洋艦「ツェンタ」の海兵隊を領事館員および自国民の保護を目的として北京に侵攻させたりと何かとアピールを続けたという。また1892年から1893年にかけて防護巡洋艦「カイゼリン・エリザベート」による世界周航に加わってすっかり海軍の魅力に取り憑かれた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の甥フランツ・フェルディナント大公(Archduke Francis Ferdinand)は艦上や進水式の様な場で常に海軍服で通したが、艦隊視察に際してさえ陸軍服で通す皇帝を変心させる事は出来なかったという。
*この時期は産業革命の進展期にも当たり二重帝国内においては新しく登場した機械や技術を利用してドナウ川の開発・改修がすすめられた。1862年の春の洪水をきっかけにウィーン周辺で行われた河川改修工事は流路の変更を伴う大規模なものであり、10年後に完成したのちはウィーン盆地内の流路は非常に安定したものとなり、また流路の直線化によって得られた土地や水路の拡張・安定化はウィーンやオーストリア経済に多大な恩恵をもたらしたのである。この河川改修工事はハンガリー内においても大規模に行われ、ドナウの流れは直線的に改修され、洪水も激減したが、その一方でそれまで春などの増水期にあちこちに湿原のできていたハンガリー平原は乾燥化が進み、各所に乾燥した草原が広がるようになった一方、水利の向上によって農地が拡大し、ハンガリーは農産物の一大輸出国として繁栄した。この繁栄を受けてハンガリーの首都であるブダとペストも急成長。1849年にはブダとペストの間にはじめてセーチェーニ鎖橋が架けられ、1873年にはブダとペストが合併してブダペスト市が誕生し、ハンガリーの中心として栄えた。ウィーンでウィンナ・ワルツが隆盛した時期でもあり、ワルツ王とも呼ばれるヨハン・シュトラウス2世が1867年に作曲した「美しく青きドナウ」など、数々のドナウを題材とした名曲が誕生した。1866年の普墺戦争に大敗北を喫した後、オーストリア帝国の威信は低下し、帝国政府に対する諸民族の自治要求の気運がますます高揚しつつあったが、諸民族は自治要求こそすれどもハプスブルク家からの完全独立は要求しなかった。ドイツ帝国とロシア帝国という強国に挟まれたこの地域で小国が存続することは不可能に思われたため、ハプスブルク君主国の範疇での権利獲得という選択肢以外は(ハンガリーを除いて)ほとんど考えられることはなかった。また、イタリア統一戦争によってイタリア北部の領土を喪失し、北部の統一ドイツ国家からも締め出されてしまったオーストリア帝国の関心は、必然的に東側のドナウ川流域に向けられることとなった。すなわち「ドナウ帝国」観念の浮上である。
- オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、ハンガリー貴族たちの要求に応えてアウスグライヒを実行し、オーストリア帝国からハンガリー王国領を分離。フランツ・ヨーゼフ1世は聖イシュトヴァーンの王冠を戴いてハンガリー王位に就くことで、1867年5月29日に「オーストリア=ハンガリー帝国」を成立させた。二重帝国の中央官庁として共同外務省と共同財務省が設置されたが、外交・軍事・財政以外の内政権は完全に認められるなど、形式的にはハンガリーは独立王国となった[3]。一民族のみが優位を獲得したことを受けて、諸民族のハンガリー人に対する反発が高まったが、彼らはまた同時にみずからも妥協をかち取ろうと工作を開始。
- アウスグライヒ直後の1867年12月に制定された新憲法では「諸民族の平等」が規定された。1871年、ハンガリーに採られたものと同様の措置を要求するボヘミアのチェコ人たちに対し、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世ならびにドイツ人の優位性を維持しながら自由主義的な中央集権体制を目指す「ドイツ人自由派」に属する首相カール・ジークムント・フォン・ホーエンヴァルトは、聖ヴァーツラフの王冠のもとにボヘミア王国の独立を承認しようとした。
- フランツ・ヨーゼフ1世のボヘミア国王としての戴冠式の実施も決定され、実現すれば「オーストリア=ハンガリー=ボヘミア三重帝国」が樹立されるはずだったが、この戴冠式はハンガリー首相アンドラーシ・ジュラ伯爵の猛反対に遭って断念された。ハンガリー国内の総人口においてハンガリー人は半分程度しか占めておらず、ハンガリー国内でのスラヴ民族の地位向上に繋がってしまう恐れがあり、またスラヴ民族の盟主としてロシア帝国の介入を促す恐れもあったためと考えられている。
実際に適用されたのはハンガリーのみに留まったが、この時期のオーストリア帝国による一連の「妥協」の動きは、同君連合への移行という形での帝国連邦化計画だったといえる。
- オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、ハンガリー貴族たちの要求に応えてアウスグライヒを実行し、オーストリア帝国からハンガリー王国領を分離。フランツ・ヨーゼフ1世は聖イシュトヴァーンの王冠を戴いてハンガリー王位に就くことで、1867年5月29日に「オーストリア=ハンガリー帝国」を成立させた。二重帝国の中央官庁として共同外務省と共同財務省が設置されたが、外交・軍事・財政以外の内政権は完全に認められるなど、形式的にはハンガリーは独立王国となった[3]。一民族のみが優位を獲得したことを受けて、諸民族のハンガリー人に対する反発が高まったが、彼らはまた同時にみずからも妥協をかち取ろうと工作を開始。
- ちなみにこの時期日本は欧米視察団を派遣している(1871年11月〜1873年9月)。岩倉具視を団長とし伊藤博文・大久保利通・木戸孝允他といった政府首脳のほとんど半分が外遊する前代未聞の出来事で、出発時政府はその目的を「幕末に締結された不平等条約である日米修好通商条約の改正交渉と、欧米列強の制度・文物の視察調査」としたが、どの国も条約改正に応じてくれなかったので「欧米列強の制度・文物の視察調査」が主目的となった。皮肉にもその時の記録が様々な言語に翻訳され今日なお世界中で愛読され続けているという。何故ならそれが奇しくも大不況(1873年〜1896年)直前の「誰もが明るい未来を信じて自信に満ち溢れている欧州」についての貴重な見聞録となってしまったから。
*当然オーストリアにも立ち寄り、青銅砲が現役で就役しているのを目撃して驚愕。現場将校は「まだまだ使えるよ」的な事を平然と言ってのけたが、必死の思いで開国前からアームストロング砲の量産に着手してきた先取気質の日本人としては呆れるしかなく「そんな有様だから普墺戦争に負けたのだ」と突っ込みたくなったに違いない。こうした記述も改めて欧米じゅうに広まった訳で、全く不幸としか言い様がない側面もある。
命全権大使米欧回覧実記-普及版-ヨーロッパ大陸編
- そして中央ヨーロッパでの株価の高騰を牽引してきた楽観論が影を潜めた1873年4月8日、いよいよ「ウィーンのパニック」が始まってしまう。バブルへの恐怖が最高潮に到達しウィーン証券取引所にて株価の暴落が始まり、4月10日まで下落し続けた後で証券取引所は閉鎖。3日後に再び取引を再開したときには、一見するとパニックは収まり、その影響はオーストリア・ハンガリー帝国内だけに限定されたかに見えたが、ほどなく第二次パニックが再襲来。ハンガリーでは、1873年のパニックにより鉄道建設ブームが終わってしまう。
*当時オーストリア=ハンガリー二重帝国に投資されていた資金の多くがフランスからの出資だったらしく、巻き添えでフランス人倒産者が沢山出たらしい。ビスマルク包囲網によって国内発展を閉ざされていた彼らにとっては(鉄道建設ラッシュに沸く)植民地や東欧こそが有望な投資先と映っていたのである。ちなみに鉄道建設バブルが暴走していた米国でも1873年には(それまで競い合っていた)ユニオン・パシフィック鉄道とノーザン・パシフィック鉄道の双方が破綻している。
産業革命を加速させた冷蔵技術 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
「長い19世紀」と「短い20世紀」 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
*この年オーストリア=ハンガリー帝国は勢力の絶頂にあり、ウィーン万国博も開催されていた。街は華やかなイルミネーションに覆われ夜毎花火が打ち上げられたが、間が悪くウィーンの下町ではコレラが流行していた。そして賑々しい開場式の数日後、ウィーン証券取引所で大暴落が起こって証券の山河一瞬で紙屑となり、多くの自殺者を出したのである。
池内紀「ウィーン世紀末文学選」
*1870年代は「泡沫会社時代」と呼ばれ、王宮や貴族の館に混じって安っぽい装飾で壁面を飾られた特有の建物が次々と建てられた。少々の皮肉も込めて「ツィンスパラスト(賃貸し宮殿)」とも呼ばれているという。
池内紀「ウィーン世紀末文学選」 - 1893年にはフランツ・ヨーゼフ皇帝即位60周年の記念式典が開催されたが、この時もまた街が華やかなイルミネーションによって飾られ、夜毎花火が打ち上げられ、オペラ座やブルグ劇場やアン・デア・ウィーン劇場では連日の様に祝祭劇が演じられた。皇帝慶賀の祝典行列には十五カ国の帝国属領代表団がそれぞれのお国ぶりを表す衣装姿でリング通りを練り歩き。首都全体がお祭り気分で沸き立った。
*ウィーンが現在見られる形になったのは1860年代以降、30年に渡って続けられた都市改造の結果である。まず旧市街を囲んでいた城壁が取り払われ、幅広の大通りが環状に巡らされた。それに沿って市庁舎やブルク劇場や国会議事堂や博物館や美術館や歌劇場などが毎年の様に建て増されていく。人口も1860年には80万足らずだったのに、1890年には人口130万人を超えていた。間違いなく2月/3月革命(1948年〜1849年)で解放された農奴が移住の自由を得た事が大きい。
池内紀「ウィーン世紀末文学選」
*一方、ウィーン郊外のいたるところ、とりわけドナウ河を挟んだ低地帯には貧民靴がひしめいていた。同年エミール・クレーガーというジャーナリストが上梓した「ウィーンの貧民靴と犯罪地帯を行く」にこうある。「この書を悲惨な人々に捧げる。社会の中で呪われ、運命の恩恵を恋求めている人々に。彼らは飢えに苦しみ、病に痛めつけられ、汚辱の中でボロを纏って夜を明かしている。帝国の首都には目障りだという理由で大通りから追われ、社会秩序の名の下に路地裏からも追い立てられる。彼らが必要としているのは今日のパンである。求めているのは今夜の宿である。そして憎悪するのは飽食した富者達の社会である」。実際ある記録によると、1898年から1903年までの5年間に約四十万人の人口増加があったにも関わらず、造築された住居は十一万足らずで、しかもその大半には水道もトイレもなかったという。ウィーン名物のカフェにしても、こうしたむごたらしい住宅事情が生み出した副産物といえなくもない。人々は一杯の珈琲で一日中カフェにいた。そこにいる限り凍えずに済んだからである。こうして刻一刻と深刻さを増していく都市問題についてハプスブルグ耐性は明らかに無力で、貴族や官僚は手を付けかねており、ウィーンは帝国首都として麻痺寸前の状態にあったのである。
池内紀「ウィーン世紀末文学選」 - 一方、下流部においてはオスマン帝国の勢力が衰える中、オスマン支配下の各民族の独立運動が盛んになっていった。1817年にはミロシュ・オブレノヴィッチを公としてオスマン宗主権下のセルビア公国が成立。1829年には、露土戦争に勝利したロシアがアドリアノープル条約でドナウ・デルタを領有し、ドナウへと進出する足掛かりを得たが、クリミア戦争の講和条約である1856年のパリ条約において、ロシアは南ベッサラビアおよびドナウ・デルタを失い、一時この地方から後退。またこの条約においてはドナウ川の国際河川化がすすめられ、各国への自由航行が保障された。1859年にはオスマン宗主権下のワラキア公国とモルダヴィア公国が連合し、1861年にルーマニア公国が成立。セルビア・ルーマニア両公国は1877年の露土戦争でロシア側に立ってオスマンに宣戦し、その結果サン・ステファノ条約によって両公国は完全独立を承認され、セルビア王国およびルーマニア王国が成立。ブルガリアも大ブルガリア公国としてオスマン宗主権下ではあるが大幅な自治を認められ、オスマン帝国はソナウ沿岸への影響力をほぼ消失した。しかしこの条約はロシアに非常に有利なものであったため各国の反発を招き、翌1878年のベルリン条約によって、セルビアはそのまま独立を認められたものの、ブルガリア領土は大きく削減され、オスマンの宗主権も拡大した。この結果はブルガリアの不満を招き、後年大ブルガリア主義の台頭を呼んでバルカン半島の不安定化の一因となった。またルーマニアも、黒海に面するドブロジャの領有を認められた代わりに、ロシアに南ベッサラビア(ブジャク)地方の割譲を余儀なくされた。ドブロジャはルーマニア人の多いこれまでの領土とはやや異質な土地であり、またドナウ南岸のシリストラ要塞および南ドブロジャはブルガリアに与えられたため、この条約はルーマニアにも不満を残した。これによりロシア帝国は再びドナウ沿岸に領土を持つ事になった。
*こうした政情不安化の背景にあったのは(産業革命の延長線上に発生した冷蔵技術発達に伴う)1970年代から始まる新大陸からの安価な輸入農産物と輸入畜産物の大攻勢であり、西欧社会が労働者の消費者への転換という「正の循環」によって乗り切ったのに対し、領主の領民に対する搾取を肯定したモノカルチャーに依存する東欧社会は逆に搾取を極限まで追求し餓死者を大量に出す「飢餓輸出」まで現出させるに到る。
実際の歴史上における本当の悲劇 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
「帝国主義イデオロギー」とは何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic) *一方、オーストリア=ハンガリー二重帝国は海運業も順調で、2つの海運会社が中心となりトリエステから乗客を乗せて出航していた。オーストリア・ロイド社は、アドリア海と地中海を経てエジプト・中東・インド・中国まで航海し、オーストロ・アメリカナ社は北アメリカ及び南アメリカへ航海し、観光客だけではなく移民も運んでいる。1912年から1914年にかけだけで約87,000人もの移民が大西洋を横切って運ばれていったのである。
フランツ・フェルディナント大公の帝国改編構想(1906年〜1914年)
ハンガリー国内ではハンガリー人の権利を脅かす皇位継承者は不信感を持たれながら、フランツ・フェルディナント大公の様な貴人は相応の影響力を有していた。帝国議会議員レートリヒは次の発言を残している。「あっち(ハンガリー)ではよく耳にするよ。『ハンガリー人の神様が、哀れなセルビア野郎に発砲するよう仕向けたんだ』とね」
「三重帝国」計画を断念せざるを得なかったフランツ・ヨーゼフ1世は年齢を重ねるにつれて保守的になっていき、晩年には三重帝国を認める気はなくなった。しかし、皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公は、ボヘミアの伯爵令嬢ゾフィー・ホテクを妃としただけあって親スラヴ的な傾向があり、また帝国においてすでに高い地位を占めているにも関わらず諸々の要求をするハンガリーを嫌悪していた。そしてフランツ・フェルディナント大公と「ベルヴェデーレ・サークル」と呼ばれる大公の仲間たちは、皇位を継承した際の帝国改編について、以下の3つの案を持っていたとされる。
*「ベルヴェデーレ・サークル」…フランツ・フェルディナント大公がベルヴェデーレ宮殿に居を構えていたことに由来する。シェーンブルン宮殿の老帝とベルヴェデーレ宮殿の皇位継承者との間には大きな見解の相違があった。1910年3月にカール・レンナーは議会において、「われわれはもはや君主政体、ひとりの君主など持っておりません。二頭政治の状態、シェーンブルン宮殿と、ベルヴェデーレ宮殿とのあいだの競争状態にあります」と述べている。- ハンガリーに男子普通選挙を導入し、議会においてハンガリー人が過大に代表されている状態を是正する。
- 「二重帝国」の枠組みを廃し、集権的な大オーストリア国家を創出する。
- ハンガリー人以外の国民にも個別に妥協し、局地的な再編を行う。
ベルヴェデーレ・サークルに所属していたアウレル・ポポヴィッチが1906年に発表した『大オーストリア合衆国』(ドイツ語: Vereinigte Staaten von Groß-Österreich)という書物は、当時のベストセラーとなった。この本では、君主国全体を民族集団の分布に応じて15の「半主権的州(halbsouveräne Staaten)」に区分することが想定されている。
1911年、ベルヴェデーレ・サークルに所属していたミラン・ホッジャは、フランツ・フェルディナント大公に宛てた覚書の冒頭で「皇位継承後すぐの段階で、クーデタ(Štátny prevrat)あるいは漸進的な改革によって二重主義を撤廃し『ハンガリー人分離主義者の野望』を打破すべき」と書いた。皇位継承者の周囲はこうした思想の人物で固められており、皇位継承者自身も、完全に同一とまではいかなくとも彼らと類似の思想を持っていたのである。
1914年春に84歳のフランツ・ヨーゼフ1世が危篤状態に陥った時、すぐさまフランツ・フェルディナント大公はベルヴェデーレ・サークルのメンバーを招集し、崩御の際の対応策を協議。ハンガリーについては連邦化と男子普通選挙の導入が予定され、ハンガリー議会が改革を拒否した場合には勅令で導入することも検討された。皇帝が快復したことにより、ベルヴェデーレ・サークルのプランは幻のまま終わったが、それからわずか数か月後にサラエボ事件(1914年7月14日)でフランツ・フェルディナント大公が暗殺され、ベルヴェデーレ・サークルはその役目を終えることになる。
アウレル・ポポヴィッチによって提案された「大オーストリア合衆国」の案(1906年)
ハプスブルク家の君主の不可侵性を謳いつつも、君主国全体を民族集団の分布に応じて15の「半主権的州(halbsouveräe Staaten)」に区分した。どのように線引きしても「国民の飛び地(nationale Enklave)」が生じてしまうため、各州には相互にマイノリティを保護する義務が課される。孤立したマイノリティが周辺の優勢国民に「有機的に」同化するのは仕方のないことであり、むしろ有益であるとポポヴィッチは唱えたが、強制的な同化については強く否定。想定された「半主権的州」は以下の15州である。
- ドイツ・オーストリア
- ドイツ・ボヘミア
- ドイツ・モラヴィア
- ボヘミア
- スロヴァキア
- 西ガリツィア
- 東ガリツィア
- ハンガリー
- ゼクラーラント
- トランシルヴァニア
- トレンティーノ
- トリエステ
- クライン
- クロアチア
- ヴォイヴォディナ
- 各州は独自の政府・議会・司法を有し、外交・軍事・関税・法体系・主要鉄道網といった共通項については連邦政府が担う[8]。連邦議会は二院制から成り、下院は完全男子普通選挙による選出、上院については、従来の世襲議員の数を大幅に減らしたうえで法律家や技師など職能別に構成された議員を新たに付け加える。合衆国の公用語はドイツ語だが、州レベルでは独自の公用語を定めることができる。
この構想はドイツ系勢力に広く受け入れられ、「大オーストリア」を志向する保守派や南スラヴ系のカトリック界からもある程度の支持を得たといわれるが、オーストリア=ハンガリー二重帝国の解消を意図したという点でハンガリー人の反発を受け、ドイツ人の中央集権主義を容認したという点でスラヴ系諸国民からも敵意の眼で見られたのもまた事実であった。
- 20世紀初頭のトリエステはジェームズ・ジョイス、イタロ・ズヴェーヴォ、イヴァン・カンカル、ドラゴティン・ケッテ、ウンベルト・サーバといった芸術家たちの集う活発な国際都市となった。市はオーストリア領リヴィエラ(Österreichische Riviera)の一部で中央ヨーロッパに属していた。
*テルジェスティーノ(Tergestino)と呼ばれる特殊なフリウリ語が19世紀初頭まで話され、次第にトリエステ方言(ヴェネツィア方言)とその他言語(イタリア語、ドイツ語、スロヴェニア語)が勝るようになった。トリエステ方言は人口の大部分が話し、ドイツ語はオーストリア官僚政治の言語、そしてスロヴェニア語は周辺の村落で用いられた。今日、いまだウィーン風の建築と、ウィーン風のコーヒー・ハウスがトリエステの街頭で優勢である。 - それでもしばらくは安定を保っていたドナウ沿岸の国境線は、1913年の第2次バルカン戦争において再び変化する。この戦争において敗北したブルガリア王国はシリストラおよび南ドブロジャをルーマニアに割譲。しかしブルガリアはこの地の奪還を悲願とし、以後30年以上、南ドブロジャがバルカン半島の火種であり続ける。そして第一次世界大戦によってドナウ全域が戦火に巻き込まれ、中央同盟国のドイツ・オーストリア・ブルガリアと、協商国側のロシア・セルビア・ルーマニアとの間で激しい戦闘が起きた。
*結局1919年に中央同盟は敗北し、ブルガリアはヌイイ条約によって南ドブロジャをルーマニアに割譲。ルーマニアはソヴィエト連邦からベッサラビアも獲得し大ルーマニアが誕生した。オーストリア・ハンガリー二重帝国は解体し、旧二重帝国領のドナウ沿岸にはオーストリア共和国、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア王国の4つの新独立国が誕生。しかし分割された国境線をめぐって争いが絶えなかったうえ、それまで統合されていた広大な領域が分割されたために経済圏が崩壊し、ドナウ連邦の考え方はほぼ消滅してしまった。結局この経済・政治的広域圏崩壊の衝撃から立ち直ることができないまま、不安定な国際情勢が続き1938年のアンシュルスによってオーストリアがドイツに併合されたのを皮切りに、沿岸諸国は次々とナチス・ドイツの軍門に下っていくこととなる。
第一次世界大戦発生プロセス
サライェヴォ事件…1914年6月28日に、オーストリア・ハンガリー二重帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の甥で皇位継承者であったフランツ・フェルディナント大公がサライェヴォにおいて妻と共に暗殺された。このサライェヴォ事件の実行犯であったガブリロ・プリンチプはボスニア在住のセルビア人であり、今日「若きボスニア (Mlada Bosna, ムラダ・ボスナ)」として知られている14名の暗殺グループの一人であった。このグループは、セルビア政府およびセルビア軍の一部で構成され、ボスニア・ヘルツェゴビナなどセルビア人の居住地の統合を目指す大セルビア主義を標榜する黒手組(ブラック・ハンド)によって援助を受けていた事が判明している。
オーストリアの宣戦布告…暗殺後の捜査において、黒手組の関与を知ったオーストリア=ハンガリー政府は、セルビアへの懲罰的軍事行動を視野に置いて、同盟国ドイツに対して対セルビア政策への賛同を求めた。ドイツ政府からの白紙委任状を手にしたオーストリア政府は、7月23日にセルビア政府へ最後通牒を送付した(オーストリア最後通牒)。受け入れ不可能と見られていたこの条件をセルビア政府は唯一カ所を除いて受諾したが、オーストリア政府はこれを知ると直ちに大使を召還し7月28日に宣戦布告をおこなった。
ロシア総動員…民族的にセルビアとの関係が深かったロシアは対オーストリア戦を決断し、オーストリア戦線のみへの部分的動員令を下した。しかしロシア帝国軍は皇帝ニコライ2世に対して部分的動員は不可能であるとの意見を具申し、7月31日には総動員が下令された。
ドイツ帝国のシュリーフェン・プラン…露仏同盟の成立によって国土の両端を敵に挟まれたドイツでは、戦争発生時の行動計画として、シュリーフェン・プランが制定されていた。この計画によると、敵国いずれかにおいて動員が下令されたならば、直ちにドイツも総動員を進めてベルギーを通過してフランス軍を包囲殲滅し、さらに手を返して動員の遅いと見られるロシア軍に対処するというものであった。ドイツはこの計画に従って、8月1日にロシアに対して、さらに二日後にはフランスに対しても宣戦を布告し、ベルギー侵攻を開始した。
イギリス宣戦布告…英国海峡を挟んでベルギーと向かい合うイギリスはこれを機にして8月4日にドイツに対し宣戦布告を行った。このようにしてヨーロッパにおける5大国が第一次世界大戦へと突入していった。
第一次世界大戦の発生要因…一般的に第一次世界大戦の原因には複合要因が存在するとされている。
◎戦争記憶の風化…普仏戦争(1871年)以来、数十年間大規模な戦争がおきていなかったことによる。
◎未解決の領土問題の積み重ね…ロンドン条約 (1915年)、バルフォア宣言など。
◎複雑な同盟関係…三国同盟、三国協商、日英同盟など。さらに第三国に明かされない秘密条約も多かった。◎複雑かつ断片化した国家統治…汎ゲルマン主義VS汎スラブ主義といったナショナリズムの衝突
◎外交における通信の遅延、意図の誤解…海底ケーブルの切断、無線通信の不安定性。
◎軍拡競争と軍事計画の硬直性…特に建造費用の高い軍艦が足を引っ張った。
◎バルカン諸国、特にセルビアの発行する外債をめぐる投資合戦…セルビアの場合は19世紀末までドイツ銀行団のシェアが大きかったが、サラエヴォ事件が近づくにつれてフランス、オーストリア・ハンガリーの銀行団が市場に地位を占めるようになり、ドイツ勢を締め出していった。ルーマニアはドイツ勢のシェアが比較的安定していた。 - そして第一次世界大戦敗戦後、ハプスブルグ帝国は解体を余儀なくされる。
サラエボ事件(1914年7月14日)によって勃発した第一次世界大戦は、開戦当初は帝国内の少数民族を結束させたが、国民生活が困窮に追い込まれた大戦末期にはむしろ分離・独立を志向させるようになった。
- 1918年にロシア革命が勃発したこととドイツ帝国の相次ぐ敗退は、これまで両強国に挟まされていた諸民族の自治要求運動の方向を転換させていく。10月16日、皇帝カール1世は帝国連邦化の勅令を出したが、10月末には諸民族はこれを退けて次々と独立を宣言していく。
- オーストリアと新たな諸独立国は別個の道を歩み始めたが、ハンガリーでは独立ばかりが論じられていたわけではなかった。諸民族は歴史的・経済的・地理的に密接に結びついており、あえて分断すれば、各国間に新たな少数民族問題を抱え込むことになる、とブルジョア急進党党首ヤーシ・オスカールらが主張したのだった。コシュート・ラヨシュが1862年に述べた「連邦化を行わないハンガリーは、二・三流の勢力にすぎないが、連邦化するならば、一挙にヨーロッパの大国に成長するだろう」という大国化の理念に基づき、ハンガリーが中心となって「ドナウ連邦」を実現させることが考えられていたのである。
また、スイスに亡命した皇帝カール1世も、ハプスブルク家とドナウ流域諸国の未来を考え、以下の見解を持っていた。「中欧諸国の経済力は脆弱なため、経済共同体を作るべきである。彼らは帝国時代には長い年月にわたり、相互扶助を必要としていたため、さらに横の連携も必要である。基本的に独立した個々の国家を統合する君主体制下のもとで、このような共同体は成立可能である」。
ヤーシの著書『ハンガリーの将来とドナウ合州国(1918年)』
「五民族地域(ハンガリー、オーストリア、チェコ、ポーランド、イリリア)」すなわちオーストリアの四分割と歴史的ハンガリーによって、民主的連邦制および民族自治を基礎とした東・南ヨーロッパを形成すべきと説いた。ヤーシのこの構想は、コシュートの「ドナウ連邦」構想を基礎としたものであり、歴史的・経済的・地理的に密接に結びついているこの「五民族地域」がそれぞれ独立国家を形成しても、各国間に新たな少数民族問題を抱え込むことになると主張した。1918年10月に出版されたヤーシの著書『ハンガリーの将来とドナウ合州国』によると、この連邦の制度は次のように規定される。
当該諸国は完全な独立を保持するが、防衛・関税・運輸・外交・および裁判権に関しては共同でこれを行う。
- 軍は、各該当国が国民軍を組織する。
- 五国は、友好の理念のもとに協力する。
- 連邦議会は、当該五国の首都において、輪番で開催される。
- 各省は、当該諸国に均等に配置される。(一例として、内務省をウィーン、外務省をブダペスト、財務省をプラハ、運輸省をトリエステ、連邦裁判所をワルシャワに設置する。)
- 各国大使も、当該地域からの輪番とする。
- 言語は、連邦議会においては、当該国の五言語(ドイツ語、ハンガリー語、チェコ語、南スラヴ語、ポーランド語)を共通語とする。(ドイツ語の歴史的位置は、ドナウ連邦でも維持されるであろう。)
- 連邦裁判所は、広範な民主主義を基礎に、共同の理念からなる民族立法の執行を統制する。
しかし民主主義体制下で民族相となったヤーシが『ハンガリーの将来とドナウ合州国』の内容を実行に移そうとした時には、すでに諸民族は分離・独立を宣言してしまっていた。
諸民族が独立してしまったので、ヤーシはハンガリーと外部の連邦ではなく、独立志向の異民族を多く抱えるハンガリー国内に構想を適用することを迫られた。そこでトランシルヴァニア地方の「ルーマニア人民族会議」との交渉で議題に上げられたのが、ヤーシの「東のスイス」構想である。その内容は次のようなものであった。
- スイスの地方行政区画を例として、従来の県単位の行政組織を廃止し、民族的な行政的・文化的自治区を再構成することにより、少数民族地域の確立を保証する。その組織は、中央政府においても地域代表としての権限を有する。
- 過渡的措置として、ルーマニア人が多数を占める都市や村では、旧行政部門は維持されつつも、ルーマニア人民族会議に行政権が移譲される。ルーマニア人民族会議は、その地域においてハンガリー政府の代表(出先機関)ともなる。
しかしトランシルヴァニア地方のルーマニア人たちは、この時期すでにルーマニア王国との接触を果たしており、完全な分離と主権獲得を望んでいた。つまりあくまで歴史的な聖イシュトヴァーンの王冠の地の国家的統一を維持しようとするヤーシらハンガリー政府側とは相反する考え方であり、「ルーマニア人民族会議」との交渉は決裂せざるをえなかった。
- 第二次世界大戦後、ルーマニアはベッサラビアをソヴィエト連邦に、南ドブロジャをブルガリアに割譲。第二次世界大戦後には上流域の一部を除くほとんどが共産主義化してソヴィエト連邦の影響下におかれ、西側諸国の航行は困難となった。
英国のチャーチル首相は、連合国首脳会談の場で繰り返し「ドナウ連邦」の実現を主張した。しかし冷戦期には鉄のカーテンによってヨーロッパは西欧と東欧に分断され「中欧」は消失してしまう。結局は中欧に連邦が作られることはなく、オーストリア以外のドナウ流域諸国は共産主義陣営となってしまう。
①第二次世界大戦が勃発した当初は、小国が乱立することによって中欧情勢が不安定化したという認識が支配的であった。当事国の指導者だけでなく、亡命者を受け入れる立場となった連合国側もこの地域の連邦化を積極的に支持。やがて大戦後期になるとソビエト連邦がナチス・ドイツに対する攻勢を強め、中欧地域におけるソ連の影響力が増大した。このため、小国乱立による不安定な情勢の解消というよりも、もっぱら中欧の共産主義化を防ぐための手段として連邦を作ろうとする動きが活発となる。
②ソ連による中欧支配の危険を察知したウィンストン・チャーチル英首相は、考えられるソ連支配に対抗する平衡力として、中欧に連合組織を準備したいと考えた。1941年6月以後、イギリスとソ連のあいだで、オーストリアの戦後についての話し合いの場が持たれたが、この会談においてイギリスは、二種類の連合形成案による解決を提唱。
③ソ連のヨシフ・スターリン書記長は、後者のドナウ連邦が反ソ的な性質のものになるだろうと判断して前者を支持したが、イギリスは大戦が終結するまでひたすらドナウ連邦の実現を主張し続ける。1943年のテヘラン会談においてチャーチル首相は、バイエルン・オーストリア・ハンガリー・ラインラントの連合を提案したが、チャーチルはこの考えを、1944年10月のスターリンとのモスクワ会談でも、1945年2月のヤルタ会談でも繰り返し述べている。
④オーストリア・ハンガリー帝国の元皇太子オットー・フォン・ハプスブルクも「ドナウ連邦」論者の一人で、チャーチルのドナウ連邦案に対して賛意を表明した。オットー大公は、彼による君主制のもとに、オーストリア・ハンガリー・ルーマニア・ボヘミア・モラヴィア・スロヴァキア、それに、もしかしたらクロアチアから成る「ドナウ連邦」を形成することを亡命先のアメリカで唱えた。ハプスブルク継承諸国のすべての亡命政府と政治的指導者は王政復古に激しく反対したが、チャーチルとフランクリン・ルーズベルト米大統領はこのオットー大公の提案に考慮をはらった。
⑤戦間期のチェコスロヴァキアで首相を務めたかつての「ベルヴェデーレ・サークル」の一員ミラン・ホッジャも、『中欧連邦:省察と回想』と題する英語の本を出版し、ソ連とドイツの間に位置する八カ国の連邦化を訴えた。チェコ人やスロヴァキア人といった中欧の小国民が二大国の狭間で生き延びるためには、農民民主主義を基盤とする安定した政治体制を構築し、かつ、バルト海からエーゲ海に至る「回廊地帯(corridor)」の連邦を樹立するべきとするのがホッジャの主張であった。なお、オットー大公とホッジャは結託して君主国の復活を画策しているといった噂も流れたが、ホッジャは『中欧連邦』において、連邦制への円滑な移行のために君主制を採用する可能性は排除しないとしつつ、ニューヨーク・タイムズのインタビューでは、ハプスブルク王朝の復活はありえないと主張。いずれにせよ、チェコスロヴァキア亡命政府での主導権争いに敗れたホッジャの提案は、議論の対象にもならず無視され、忘れ去られてしまう。
戦後、オーストリア第一共和国初代首相を務めたカール・レンナーがオーストリアを再建。レンナーはドナウ連邦論者として知られていたが、その構想は実現しなかった。ハンガリーやチェコスロバキアは次々と共産主義国家となっていき、冷戦の時代に突入していく。ヨーロッパは鉄のカーテンによって西欧と東欧の二つに分断され、「中欧」という地域区分は意味をなさなくなった。
第二次世界大戦中にアメリカで客死したホッジャの著書『中欧連邦:省察と回想(1942年)』における「中欧連邦」構想
四つのスラヴ諸国(ポーランド、チェコスロヴァキア、ブルガリア、ユーゴスラヴィア)および四つの非スラヴ諸国(オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ギリシア)の計八カ国、総人口1億1千万の地域を想定する、非常に大規模な連邦構想。この構成は必ずしも固定的なものではなく、場合によってはアルバニアやトルコを含む可能性をも示唆していた。ヨーロッパ全体の連邦化に向けた第一歩になるとホッジャは述べており、ヨーロッパ統合のようなさらに大きな枠組みと両立するものと見なした。
ミラン・ホジャの中欧連邦構想─地域再編の試みと農民民主主義の思想─- 中欧連邦の元首は大統領であり、各国首相から構成される協議会(conference)および連邦議会において一年任期で選出される。連邦大統領は連邦首相および各大臣を任命するほか、連邦議会の決定に対して連邦政府あるいは各国議会より異議が出された場合には、最終決定を下す権限を有する。連邦政府には、財務・対外貿易・外務・国防・通信・交通・法務といった省庁や連邦最高裁判所が設置されるほか、構成国間の利害調整を行う機関として連邦協力省(Federal Ministry of Co-operation)が置かれ、各国民の利益を代弁する無任所大臣が任命される。連邦政府の職員については、各国が定められた割合の人数を提供する。連邦予算は各国政府によって徴収された連邦税によって賄われる。
- 連邦議会議員は各国議会より選出される。人口比で言えば、百万人あたり一名の議員となるが、一国あたりの議員が10名以上、15名以下となるよう調整される。連邦議会議員は各国議会の議員から構成され、各議員の任期は所属する各国議会の任期と同一とされる。連邦議会の公式言語は3分の2以上の多数決で決定されるが、各議員は15分間に限り、同時通訳付きで自らの言語を使って演説することができる。連邦政府内の公式言語も議会と同一とされるが、案件が個々の政府内で処理される場合には、当該国の公用語を使っても構わない。直接選挙で連邦議会議員を選出しない理由としては、各国の選挙制度が異なっており、八カ国同時に選挙を実施するのが事実上困難なこと、「民意」の急激な変化を防ぎつつ各国政府の政策との連続性を確保すること、といった点が挙げられる。
- 財務大臣に責任を有する機関として連邦中央銀行が設置され、各国郵貯銀行の五割がその傘下に置かれる。連邦構成国では単一通貨が導入され、関税同盟を基礎とする経済共同体が形成される。加盟国間の関税については遅くとも五年以内に順次撤廃されるが、農業など特定の分野については供給過剰を防止するために一定程度の計画経済が導入される。計画そのものについては加盟国間の合意を前提に実施されるが、連邦外部との貿易については連邦経済省の専権事項となる。
以上がホッジャの「中欧連邦」構想の概観となる。
- 中欧連邦の元首は大統領であり、各国首相から構成される協議会(conference)および連邦議会において一年任期で選出される。連邦大統領は連邦首相および各大臣を任命するほか、連邦議会の決定に対して連邦政府あるいは各国議会より異議が出された場合には、最終決定を下す権限を有する。連邦政府には、財務・対外貿易・外務・国防・通信・交通・法務といった省庁や連邦最高裁判所が設置されるほか、構成国間の利害調整を行う機関として連邦協力省(Federal Ministry of Co-operation)が置かれ、各国民の利益を代弁する無任所大臣が任命される。連邦政府の職員については、各国が定められた割合の人数を提供する。連邦予算は各国政府によって徴収された連邦税によって賄われる。
- 1972年には鉄門にダムが建設され、下流域と上中流域との航行がやっと可能になり、冷戦終結後に東欧革命によって政治的障害がなくなると、ドナウ川流域の交流は再び盛んとなった。しかし東欧革命は沿岸諸国内の動揺をもたらし、1991年にはクロアチアがユーゴスラビアから、モルドバとウクライナがソヴィエト連邦から独立し、1993年にはビロード離婚によってチェコスロバキアが解体し、スロバキア共和国が成立。現在のドナウ沿岸の国境線が確定する事になる。その一方では1992年にはライン川に繋がるライン・マイン・ドナウ運河が完成し、北海から黒海までの水運が可能となった。
冷戦終結後の1990年代になって、中欧という概念が急速に復活する。
- 1991年2月15日にポーランド・チェコスロバキア・ハンガリーの旧「東欧」三国がヴィシェグラード・グループを結成したことは中欧地域の結合計画の萌芽といえたが、チェコスロバキアのビロード離婚によってこの試みは中断されてしまった。そもそも中欧諸国には、中欧という地域レベルでの結合よりもヨーロッパ共同体への参加への関心のほうがより強く、2016年現在ではすべての中欧諸国がヨーロッパ連合への加入を果たしている。
- 現在においては、ハプスブルク家のもとで培われた600年以上の共通の歴史を背景として、中欧諸国の集合体を組織してEUにおいてより大きな存在感を発揮しようとする主張が根強くあり、オーストリア首相(当時)のヴォルフガング・シュッセルが「中欧版ベネルクス」を作って英独仏などのEUの大国に対抗しようと提唱したこともある。
構想の仕掛人であるオーストリア政界関係者は「いずれチェコなども拡大EUの中で小国の悲哀を知り、中欧諸国の大同団結の必要性をわかってくれるだろう」と語っているが、今のところまだ具体的な形にはなっていない。
- 1991年2月15日にポーランド・チェコスロバキア・ハンガリーの旧「東欧」三国がヴィシェグラード・グループを結成したことは中欧地域の結合計画の萌芽といえたが、チェコスロバキアのビロード離婚によってこの試みは中断されてしまった。そもそも中欧諸国には、中欧という地域レベルでの結合よりもヨーロッパ共同体への参加への関心のほうがより強く、2016年現在ではすべての中欧諸国がヨーロッパ連合への加入を果たしている。
「世界商品」に選ばれた砂糖や綿織物も「生産量を倍増させると売値が半額以下になる」巡り合わせに苦しめられてきたが、大不況 時代(1873年〜1896年)にはその状況がさらに多くの商品に飛び火した。
- 1870年から1890年にかけて主要な粗鋼生産国五ヶ国の粗鋼生産高は、1,100万トンから2,300万トンへと2倍以上に伸び、鉄道整備事業も活況を呈したが鉄の価格は半値まで下がった。
*ちなみに鉄鋼生産高に至っては50万トンから1,100万トンと20倍以上に生産量が跳ね上がっている。 - 1894年の穀物価格は1867年の水準に比べて三分の一まで下落。
- 綿の価格も1872年から1877年までの5年間で半値に。
これでは多くの国が(自国輸出品にも報復関税が掛けられるのを承知の上で)保護貿易主義政策を採用せざるを得なくなったのも無理はない。それにしてもアメリカとは何という国だろう。考え様によっては「奴隷貿易廃止によって黒人奴隷の流入が止まったので、安価な農畜産物の大量輸出によって欧州の農業従事者に大打撃を与え、彼らが自腹で自前の船でアメリカに移民してくるしかない様に仕向けた」とも見て取れる仕打ちだったりする。
ちなみに米国で冷蔵技術が急激に進歩したのは南北戦争(American Civil War, 1861年〜1865年)のせいで南部産の製氷が北部に届かなくなり、科学的手段によって代替案を捻り出さねばならなくなったせいらしい。まさしく「人間万事塞翁乃馬」状態である。
こうした変化の時代に「変われない国」を見舞う悲劇は想像を絶する。最終的にはいつの間にか工業化してたけど、原則として一番重要なタイミングで「産業革命の受容」を実現出来なかった事実は動かない…
*実は当時はまだオーストリア=ハンガリー二重帝国領内にあったチェコなんかは砂糖大根の工場製糖を出発点として着実に工業化を進めていたが、帝国内での扱いが悪く反乱ばかり起こしていたりする。そう、英国の砂糖業者を国内産業推進派と挟撃して奴隷貿易と奴隷制プランテーションを廃止に追い込んだのは彼らの様な大陸産業推進派だったという次第。
まぁ少なくともドナウ川沿岸の諸民族には温順しくしといてもらわないと、重要な収入源たる黒海との交易が駄目になっちゃうから。それならそれでもっと本気で気を使うべきだった様な気もするけど…
こうした全体像を俯瞰した上でヒトラーのルサンチマンを改めて振り返ってみるとその斜め上っぷりに驚かざるを得ない。「当時のドイツ系オーストリア人としては珍しい部類に入らない」という指摘もあるが、それって喜ぶべき事なのかな?