さて、ディズニー映画「アナと雪の女王(Frozen、2013年)」冒頭のこの場面…
まさかとお思いでしょうが19世紀初頭のニューヨーク近郊の景色がこうでした。相違点としては「馬が結構重要な役割を果たしてる」事くらい?
氷貿易(Ice Trade)の時代
そういえば当時のニューヨークの人口は6万人前後…そもそもビーバーの毛皮を狩る拠点として開拓された場所でしたね。まだまだ大自然の中の孤島状態だった?
鉄道が敷かれ、汽船が就航し…でもエアコンはなし。そうした時代には確かに「氷」に物凄いビジネス価値があった様です。とはいえ実は…
友人のエラスムスが英国滞在中、自宅で「痴愚神礼讃(1509年)」を執筆したのに触発されて「ユートピア(1515年〜1516年)」を発表したトマス・モアは、その中で「羊はおとなしい動物だが(イングランドでは)人間を食べ尽くす」と表現しました。
英国の地主や長老がフランドルとの羊毛取引規模拡大の為に自発的に農場を囲い込んで羊を飼い、村落共同体を破壊し、農民たちを放逐する現状を深く慨嘆しての事です。しかしその意味でなら「かの見た目ばかりは善良そうな冷蔵庫」だって多くの人間を食い殺してきたのでした。
大不況 (1873年〜1896年)到来までの冷蔵庫発展史
- 1600年頃【フランス】首の長い容器に硝石の溶液を入れて回転させると非常に冷たくなる原理を利用した製氷技術が発明される…17世紀にはこれにより凍らせたアルコール飲料や凍らせたジュースが王侯貴族の間で流行。
*17世紀末までに「ソルベ」がパリの町中で売られるようになり、ヨーロッパ中に広がっていく。
- 1799年【アメリカ】 ニューヨーク市のカナルストリートからサウスカロライナ州のチャールストンに天然氷が初めて商品として出荷される…不幸にも初回は僅かしか届かなかったが、これが氷産業の可能性を示すものとして評判となり,1800年前半には、保温材の改良と大型天然氷の貯蔵庫が開発された。さらに輸送方法の工夫、氷塊の標準化等による取扱い方の改善によって氷産業が急速な発展を遂げる。
*ビジネスとして本格化するのはNew England のFrederic Tudorが手掛けた1806年以降。Tudorはまずはじめにヨーロッパのエリートが集まるカリブ海のマルティニーク島を軸にスタートし、キューバやアメリカ南部の各地へとその裾野を広げ、1840年代にはイギリス、インド、南米、中国、オーストラリアまで販売網を広げる事に成功した。またアメリカ西海岸の都市では夏の冷房の熱源として重宝され、当時シカゴなどから都市や世界に輸送する生肉や野菜や果物の輸送時の鮮度を保つ冷蔵車の冷源として活用され、さらには(今では当たり前の様に見られる)漁果の保存にも使われる様になった。こうして工業技術の発達によって生み出された鉄道・船の世界ネットワークが自然のエネルギーと組み合わさることで、これまでになかった新しい生鮮食品のネットワークが構築されていく。
氷貿易(Ice Trade)の時代
- 1840年代【欧米】冷蔵設備を備えた車両が牛乳等の輸送に使用され始める…ただし何故か1860年代に入っても、その用途は原則として海産物や乳製品に限られていた。失業者を出すのを恐れていたせいとも。
*憧れの北イタリアに渡って餓死した英国人作家ウィーダ(マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー)の「フランダースの犬(A Dog of Flanders,1872年)」で主人公ネロがミルク運びの職を奪われるのもこの流れの一環。
ベルギーワッフルは何故あの形? - 諸概念の迷宮(Things got frantic) - 1851年【アメリカ】ジョン・ゴーリエ(John Gorrie)が 実用的なアンモニア吸収式の冷凍機を発明…米国特許8080を取得し、病院などへの販売を開始。
*当時マラリアなどの熱病治療に氷は欠かせなかったのである。 - 1853年【アメリカ】アレクサンダー・トワイニング(Alexander C. Twinning)が硫酸エーテルを冷媒に使用した圧縮型冷凍機(vapor-compression refrigeration using sulphuric ether)を発明… 米国特許10,221を取得。
- 1855年~1856年【オーストラリア】ジェームス・ハリソン(W. James Harrison)が、エーテルを使用した最初の圧縮型冷凍機を発明…1855年に英国特許(Australia in 1855; British Patents No. 747 in 1856 and No. 2362 in 1857)を取得。1856年にはジョン・ゴーリエとアレクサンダー・トワイニングの冷蔵庫を研究し、世界初の実用的な冷蔵庫といわれる圧縮型エーテル冷蔵庫を開発。これがビール業界および食肉加工業界に利用され始める。
*かくして「冷たいビール」が「常温のビール」を駆逐していく流れが始まる。
- 1860年代前半【アメリカ】 南北戦争(1861年~1865年)…戦争の間じゅう南部側は北側より天然氷の輸送を遮断された。
*これを契機に冷蔵庫の商業利用幅が大幅に広がる。 - 1859年~1866年【アメリカ】フェヂナンド・キャリヤ(Ferdinand P. E. Carre)が 1856年から実用化が始まったアンモニア吸収型冷蔵庫を改良…1860年に連続式アンモニアを使用した吸収型冷蔵庫のアメリカ合衆国特許(30201)を取得。
*1866年以降は弟のエドモンド・キャリヤとともに商業化に成功し、主に製氷機として使われる様になっていく。
そして…
大不況 (1873年〜1896年)到来
英国大不況時の卸売物価指数推移(1900年=100)
ドナウ帝国「周回遅れ」の悲劇 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
◎1870年から1890年にかけて主要な粗鋼生産国五ヶ国の粗鋼生産高は、1,100万トンから2,300万トンへと2倍以上に伸び、鉄道整備事業も活況を呈したが鉄の価格は半値まで下がった。
◎1894年の穀物価格は1867年の水準に比べて三分の一まで下落。
◎綿の価格も1872年から1877年までの5年間で半値に。
どうしてこうなったか結論は出てないが、主要因は以下あたりと考える。
- 欧州全体への産業革命の浸透(特に鉄道網の整備)による慢性的需要過多状況の発生…ビスマルク宰相が主導する形で1871年に建国されたばかりのドイツ帝国はこの状況を上手く利用した。それまでユンカーを中心とする東部地主層(自由貿易を希望)と西部工業家層(クルップやジーメンスといった重工業初期段階を担う企業家群が切実に保護貿易を希望)の利害が対立していたが、外国産の安い農産物がヨーロッパ市場に大量に流入してきて経済問題となった事から保護関税法(1879年。別名「鉄と穀物の同盟」)の制定が叫ばれる様になり、御陰で西部工業家層はイギリスを出し抜く形でアメリカに次ぐ規模の鉄鋼産業育成に成功したのだった。
- ロシア帝国による小麦の飢餓輸出…クリミア戦争(1854年~1856年)に敗北し、アメリカへのアラスカ売却(1859年から打診を開始するも南北戦争で交渉が一旦中断し,1867年に妥結)を余儀なくされる段階にまでなったロシアロマノフ朝が西欧諸国(特にフランス)への債務返済目的で敢行。
- 東欧からの農産物の飢餓輸出…同時に人材も流出し、ドイツ東部のユンカーが使役する小作人は大半が安価で良く働くポーランド人に差し替えられたし、アメリカ精肉業界の規模拡大に魅力を感じてハンガリーの牧畜民がアメリカへと移住していった。
- 北米からの安価な農畜産物の流入…1875年から1880年にかけてアメリカの総輸出額は4億ドルも飛躍した。直接的理由は製粉技術や鉄道ラッシュだが、電信網の発達や電話の発明も流通には関与する。ともかく1879年から1881年にかけてアメリカのヨーロッパ向け穀物輸出はどんと増えて、支払の為ヨーロッパから金が流出する。フランス銀行は金準備が危機的水準に落ち込む一方でラテン通貨同盟諸国の減価した銀の大量流入を経験し、政府に複本位制復帰を要請。ライヒスバンクも金が出て銀が余るようになっていたので1881年、第3回国際貨幣会議がフランスとアメリカの共同提唱で開催された。しかしイギリス・ドイツは金本位制にこだわり、フランスとアメリカは国際複本位制協定を主張したので会議は物別れに終わってしまう。
*冷蔵技術の進歩と関係が深い。 -
19世紀後半から顕著になった南米における畜産業の発展…19世紀前半からイングランド人やスコットランド人が農村部に入り込んで近代的地主となった事、三月革命(1948年)がイタリア(統一運動の推進)やスペイン(「エムズ電報事件」で揚げ足を取られた内乱状態の継続)へも波及していく過程で、混乱を嫌う農民や追放された急進派が同じカソリック圏である南米に移民した事、そして19世紀後半から鉄条網導入などの牧畜近代化と鉄道網の整備などによって欧州への輸出体制が整備された事と密接な関係がある。
*冷蔵技術の進歩と関係が深い。 -
19世紀後半に底引き網漁の技術革新が起こり、北海の魚が欧州に安価で流通する様になった事…これを契機にイギリス労働者は「パンとミルクティ」に加えてフィッシュ・アンド・チップスを日常食とする様になった。「安価な農畜産物の大量流入に対して関税障壁を敷いているだけでは長期不況から脱出出来ない」というジレンマが、いかにして解決されたという問題を読み解く鍵がここにある。要は「労働者を輸出競争力を保ち続ける為に低賃金状態に置いて最低限度の生活しかさせない」戦略そのものが放棄され、関税障壁を互いに下げ合うと同時に彼らをも消費者としてみなす内需拡大戦略が登場してきたという事であった。
*冷蔵技術の進歩と関係が深い。
こういう状況を背景に「正統派」マルクス主義はヨーロッパにおいて決定的敗北を喫し「修正主義」の時代へと推移した訳です。少なくとも、ロシア革命成功までは。
修正主義…1895年にドイツ社会民主党のシェーンランクが初めて唱え、続いてエドゥアルト・ベルンシュタインが1896年から1898年まで『Neue Zeit』誌に連載した論文をまとめた『社会主義の諸前提と社会民主主義の諸課題(1899年)』を発表した事によって系統付けられた。暴力革命・プロレタリア独裁・プロレタリア国際主義をいずれも否定し、議会制民主主義の枠内で福祉政策の推進を説くのが最大の特徴。
そしてアメリカへの移民構成にも急激な変化が…
- 1870年時点の米国への移民構成…ドイツ移民30%(294万人)、アイルランド移民28%(276万人)、イギリス移民19%(188万人)、スカンジナビア諸国移民4%(35万人)と所謂「旧移民(アメリカへの帰化意識を強く有するプロテスタント中心の集団で、家族で移住してきて開拓農民になる事が多かった)が全体の86%を占めており、彼らの移住がそのままアメリカの農産物生産力の規模拡大に繋がっていく。ただしこの傾向は1880年代に入ると頭打ちとなった。もはや移住しても開拓可能な土地がなくなってしまったからである(1890年の国勢調査において「フロンティアの消滅」が宣言される)。もちろんそれを1840年代から本格化した全国規模での鉄道網整備が下支えした事は言うまでもない
*この工事の為に大量に中国人労働者が連れてこられ、その一部が都市住民としてスラム街を形成する様になり、後に新移民と衝突する事になる。 - 1880年代の米国への移民構成…様相がガラリと変わる。移民の主役がイタリア統一運動の割を食った南イタリア移民、及びアシュケナージ系ユダヤ移民やポーランド移民といった東欧出身者を中心とする所謂「新移民」にバトンタッチするのである(1890年代に旧移民を数で上回り,1907年に128万5349人を記録してアメリカ移民史上最大のピークを迎える)。彼らの大半はカトリック教、ユダヤ教、ギリシア正教徒であり、単身渡米して工場や都市で働く事が多かった(入植可能な土地が枯渇し始めた為に出稼ぎ型の非熟練労働者が増加するのは当然といえる)。定着意識が弱く、アメリカ社会に同化しようとせず、都市で自国の文化・習慣を維持したので、既に先行して都市住民となっていた中国人移民と激しく衝突・対立を繰り広げた。
*1870 年制定のアメリカ連邦移民・帰化法は「自由なる白人およびアフリカ人ならびにその子孫たる外国人」が帰化可能であるとしていたが、ここでいう「自由なる白人 (free white)」は判例の積み重ねによって次第に「コーカサス人種 (Caucasian)」に限定される様になっていく。そしてさらに1882年になると、いわゆる「中国人排斥法」で明示的に中国人移民が禁止される事になった(当初10年間の時限措置だったが後に延長がなされる)。
まさしく「剥き出しの資本主義」そのもの…
その後の冷蔵庫発展史
- 1890年代【アメリカ】天然氷を採取する湖が下水の流入で汚染される問題が生じ、それを使用していたビール工場や食肉加工場などに苦情が寄せられるようになる…その解決策として学会から冷凍機で作った氷を使用するようにとの勧告が出された。
- 1892年【アメリカ】ジェイムズ・デュワー(James Dewar)が 魔法瓶(デュワー瓶)を発明。
- 1913年【アメリカ】フレッド.W.ウルフ・ジュニア(Fred W. Wolf Jr)が最初のアメリカ製冷蔵庫DOMELRE (DOMestic ELectric REfrigerator)の量産を開始…商業的には成功しなかった。
- 第一次世界大戦(1914年〜1918年)…氷貿易の世界で1870年代頃よりオーストラリアやインドにおいてシェアを伸ばしはじめた「電気によって製造された氷」とシェアが決定的に逆転。以降はビジネスとして衰退に向かう。
- 1914年頃【アメリカ】全米の食肉加工場に冷凍機が設置された。
- 1915年【アメリカ】アルフレッド・メロース(Alfred Mellowes)が最初の家庭用一体型冷蔵庫を製造…これ以降アメリカでは家庭への冷蔵庫普及が進み,1950年代には「冷凍食品」という新ジャンルの食品を出現させる。
ところでジェームス・ディーン主演の映画「エデンの東(スタインベック原作1952年、映画化1955年)」にレタスを満載した貨車の東部への輸送を試みる場面があります。
アメリカでは収穫したてのレタスを出荷前に砕氷を使って温度を下げ、輸送や保存に耐えるようにする「予冷出荷」の技術が早くから実用化されました。野菜は呼吸をしているので、そのまま段ボール箱に入れて輸送すると、箱の中の温度が 40℃前後まで上がる事さえある。それで収穫後すぐに冷やして生鮮状態を保つ訳です。
- 日本では昭和48年(1973年)に長野の農協がレタスの真空冷却(減圧で水分を蒸発させることにより冷却)を導入したのが最初で、この技術と保冷車の組み合わせによって東京オリンピックの頃から急激に高まったレタスの需要に応じて全国への出荷が可能になった。
*今でもレタスは年間出荷量の7割ほどがこの方法で出荷されている。 - 日本には生野菜を食する習慣が広まったのは1960年頃以降で、それまではせいぜいトマトかきゅうり程度で、野菜は大体は煮つけるか漬物で摂取するのが精一杯だった。何故、生野菜を食べなかったかというと、人糞を肥料として使っていた為に回虫卵が野菜に付着し、これを食べると回虫が涌いて著しい栄養障害をもたらすからである。江戸時代までの人糞を充分に発酵させる技法が伝承されていれば寄生虫の心配などなかったのだが、一旦化学肥料に頼る農業に慣れた後で戦中戦後の物資不足下で「人糞肥料」に戻ったが故に生じた悲劇だった。
*実は発酵肥料はどれもきちんと制御しないと高熱を発して火事の原因になる危険な代物なのである。
- 日本における納豆食の地域的広がりも,1965年~1968年のコールドチェーンや冷蔵庫の発達によって保存期間が伸びて「熟成が進み過ぎた」状態で食べずに済む様になった事が大きいとされる。なにしろ納豆は室温では比較的早く熟成が進んですぐに食べ頃がすぐに過ぎてしまうからである。
*そもそも「日本において真に広範囲に納豆が食べられるようになったのは家庭用冷蔵庫が普及して発酵状態の調整が効く様になってから」という話も。
*要するに「生卵の普及」もこれ。同じく「日本の朝食の定番」となった「海苔」についてだって、その養殖史が江戸時代まで遡りつつ「人工採苗の母たる英国人科学者ドリュー女史」が中興の祖として神棚に祀られる壮絶な展開が秘められていたりする。さらには「塩鮭」とは? さすがにそれについて語り始めるとキリがないので割愛。
冷凍技術一つでこんなにも世界は変わってしまうものなんですね。
さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…