フランス革命期(1789年〜1799期)、ジャコバン派独裁政権は現地実力者の粛清によって「フランス交易の中心地」ボルドーを無力化し「フランス工業の中心地」リヨンをホロコーストによって灰燼へと帰しめました。
- どちらもなまじ絶対王政庇護下で繁栄を謳歌してきたが故に王党派の牙城となっており、革命政権として存続を許しておく事が出来なかった。
- 経済発展によって貧富格差が拡大しており、復讐を叫ぶ「負け組」サン=キュロット層が革命戦争を支える兵士供給階層としてジャコバン派政権に強い発言権を持っており、彼らはガス抜きを必要としていた。
- 同時期、王党派の多いヴァンデ地方でも女子供も含め30万人から40万人のカソリック教徒が虐殺されたとされている。共和国側の兵士や官吏の証言によれば「善良無垢なる共和派移民を入植させる前に、悪逆非道なカソリック信徒を根絶やしにしてヴァンデを国家の墓地(cimetière national)へと変貌させよ」という命令が下されて地獄部隊 (Colonnes infernales)が穀物や家畜を接収し尽くし、村や森に火を放ち、見つけ次第妊婦を圧搾機で押し潰し、新生児を銃剣で串刺しにし、女子供を生きながら切り刻んだり、生きたまま真っ赤に焼いたパン焼き窯に放り込んだ。こうした民族浄化が日常化した世界では、ギロチンや霞弾の一斉発射による瞬殺を思い留まる理由など何もなかったのかもしれない。要するに引き金が軽くなっていた。
これらが仇となった形で、その結果フランスにおける産業革命受容は半世紀遅れたとされています。ただし…
- 王党派打倒には必要不可欠な破壊だった。
*(ボルドー経済に立脚する)ジロンド派粛清や「リヨン霞弾乱殺」だけでなく、犠牲者30万人〜40万人ともいわれるフランス西部の「ヴァンテの虐殺(Rébellion Vendéenne/Guerre de Vendée 、1793年〜1801年)」や、ブルターニュ、メーヌ、アンジュー、ノルマンディーで発生したシュアヌリ (Chouannerie) の反乱(1794年〜1800年)も引き起こされている。
ジロンド派 - Wikipedia
リヨンの反乱 - Wikipedia
ヴァンデの反乱 - Wikipedia - それまで成長を押さえられてきたベルギーや北フランスが甜菜(ビーツ、砂糖大根)栽培を足掛かりに躍進し、現在のフランスは世界一の砂糖生産国に。
ベルギーワッフルは何故あの形? - 諸概念の迷宮(Things got frantic) - この破壊への反省こそが、サン=シモンやオーギュスト・コントやシャルル・フーリエといった新世代の社会思想家の輩出に結びついた。
世界史の窓:サン=シモン
オーギュスト・コントと社会学の誕生
838夜『四運動の理論』シャルル・フーリエ|松岡正剛の千夜千冊
こうした理由から、フランス人の間では必ずしも最低最悪の愚行と認識されてる訳ではない模様。織田信長による比叡山焼き討ちを、現在の比叡山が「経緯を考えると責める気は起こらない」と認めちゃってる様なもの?
ちなみにフランスは二月三月革命(1848年〜1849年)後にこの再来を病的に恐れたりしています。「恐怖が刻印された時代だった」事実は動かない模様。
そういえば日本だって応仁の乱(1467年〜1477年)で、それまで政治と文化と経済の中心だった京都が灰燼に帰しています。一体どんな影響があったんでしょうか…
そもそも室町時代(1338年〜1573年)とは、要するに南北朝時代(1336年〜1392年)に地に落ちた朝廷権威と幕府権力を重ね合わせ、武家の公家化を奨励する事で「日本の強固な中心」を再建しようという試みでした。
その結果として「京文化絶対主義」としか表現しようのない何かが生まれ、応仁の乱(1467年〜1477年)によって京都が灰燼と化すと「都落ちしてきた文化人を集めた地方大名が、自領の首府を京都の後継と自画自賛する」時代がしばらく続きます。
「美濃革手城=小京都」時代
まずは応仁文明の乱(1467年〜1477年)の最中。土岐成頼(1442年-1497年)が守護代だった時代の美濃(岐阜県南部)を実際に掌握していたのは守護代斎藤氏の妙椿だった。その働きによってその首府たる「革手城」が繁栄。戦乱を避けてそこに集まった文化人達から「小京都」と褒めそやされた事が「小京都時代」の嚆矢となる。
- 妙椿は東軍に加わった有力国人の富島氏や長江氏(かつての守護代で斎藤氏に敗れて追われていた)を破り「既に幕府と朝廷は東軍に接収された」という立場から幕府奉公衆の所領をはじめとして公家や寺社の荘園や国衙領までも押領。美濃の影響範囲を尾張、伊勢、近江、飛騨まで広げ、それを西軍の動向を左右する巨大勢力へと膨張させる。
- 当然、乱の終結後そうした横領の道義性を問われたが、流石の幕府も直接弾劾は出来ず、まずは同様の問題を抱えていた近江国守護六角高頼を懲罰して幕府の威信を回復すべく長享の親征(1487年)と延徳の親征(1491年)を仕掛ける。もしこれが成功していれば次の標的は間違いなく越前守護朝倉貞景と美濃守護土岐成頼であった。しかし幸いな事に第一回親征は主力の富樫政親が加賀一向一揆激化によって離脱。以降膠着状態に陥って義尚将軍の陣没という結果に終わる。
*義尚は本願寺や一揆勢をも討伐したがったが、六角氏討伐中という事で細川政元から反対されて断念している。 - 義尚の後を継いだ足利義材が遂行した第二回親征は、一応高頼を甲賀郡から伊勢国に亡命させる成果を生んで終結した。しかし義材が次に河内守護畠山義豊を討伐しようとすると、将軍権力増大を恐れる管領細川政元と義政未亡人日野富子の逆鱗に触れ「明応の政変(1493年)」で廃された。二度目の窮地脱出である。
*概ねこれ以降の時代が戦国時代とされている。 - しかし妙椿の後を継いだ斎藤利国(妙純)とその嫡男利親は運に恵まれていなかった。船田合戦(1494年)の延長線上で行われた近江の六角高頼討伐戦(敵側だった石丸方に味方した)の最中、郷民と馬借が起こした土一揆に巻き込まれて虐殺されてしまうのである。その影響はなんと土岐氏の家督争いであった船田合戦で妙純側についた嫡流の織田伊勢守家の没落と、石丸方に味方した傍流の織田大和守家の台頭(織田大和守家出身とされる織田信安が織田伊勢守家の当主となる)にまで及んだ。
馬借…馬を利用して荷物を運搬する輸送業者。主に室町時代から戦国時代にかけて、大津や坂本や淀といった水陸交通の要地や主要街道沿いの町で発達した。
- 当時の馬借は土民が起こした最初の一揆として知られる正長の土一揆(1428年)、一揆の攻撃対象となった比叡山延暦寺の保護を受けていた近江の馬借が一揆から離反して馬借勢力の分裂を印象付けた嘉吉の徳政一揆(1441年)、そして延暦寺が鎮圧の先頭に立ち馬借勢力が京都につながる関所を封鎖して法華宗勢力が抑える京都を経済封鎖した天文法華の乱(1536年)などにより政治的に微妙な立場に置かれていた。
- 特に天文法華の乱はまずかった。延暦寺が後奈良天皇や幕府に法華宗討伐の許可を求め、朝倉孝景を始めとする園城寺・東寺・興福寺・本願寺といった敵対勢力から支持や中立を取り付けた、六角高頼の後を継いだ定頼に援助された約6万の衆徒が京都市中に押し寄せて京都洛中洛外の日蓮宗寺院21本山ををことごとく灰燼へと帰してしまったのである。この大火は応仁の乱に勝る面積が延焼する大被害をを招き、京都では以後6年間に渡って宗徒の洛外追放と日蓮宗禁教が続く。この事件をどう見るかが鍵となろう。例えば、もし斎藤妙純と利親の虐殺事件が、近江六角氏と土一揆勢力の繫がりがその時期まで遡れる事を示唆しているとするなら、その近江六角氏と基本的には反目し合う関係にありながら一向宗の動員能力を備えていた管領細川家が裏で糸を引いた可能性が浮上してくるのである。
- あるいはここに(既に古代部民制においてその発端が見受けられる)人的支配権の相互乗り入れ、律令制が崩壊して徴税の基盤が土地課税となって以降も「職の体系」と総称される収益権限の多重化が精算される事なく続いた中世の闇の深さを見て取るべきなのかもしれない。所謂「太閤検地」によってあらゆる統治権が一元化されるまでの道のりは、まだ始まってすらいないのである…
織田伊勢守家…尾張上四郡の守護代を勤める岩倉織田氏。当時は応仁の乱に際して西軍側について妙椿の養女を娶った織田敏広が岩倉城城主だった。
織田大和守家…尾張下四郡の守護代を勤める清洲織田氏。当時の清洲城城主としては織田敏定の息子で織田寛定の弟に当たる織田寛村とその養子(一説では当人)とされる織田達定などの名前が挙がる。
「越前一乗谷城=北都」時代
次いで「小京都」と称されたのは美濃国守護代格斎藤利国(斎藤妙椿の養子斎藤妙純)の女婿でもあった朝倉貞景(1473年-1512年)と、その嫡男で尾張守護代織田家と美濃の後継者の立場を争った朝倉孝景(1493年-1548年)が当主だった時代の越前一乗谷城である。
- 貞景は家督を継いだ直後に長享の親征(1487年)に参加。先陣を勤める敦賀郡司朝倉景冬を近江国坂本に着陣させたが、既に着陣していた旧越前国守武衛斯波氏との間に相聞(訴訟)が起こる。そして将軍が「朝倉氏は将軍の直臣である」と裁断した為に越前国守として認められる事になった。
- しかし貞景は延徳の親征(1491年)には参陣せず、再び武衛斯波氏が起こした相聞(訴訟)が一時期朝倉征伐の御内書が出される事態にまで発展。同年貞景が斎藤利国の女を娶った事もあり、結局遠征は遂行される事なく終わったが、これ以降越前朝倉家は当時武衛斯波氏の配下だった尾張守護代織田家と宿縁の関係となっていく。
- こういう流れがあったので明応の政変(1493年)では細川政元に協力して将軍義材を捕らえたが、義材が越中国放生津へ下向して再起の機会を窺う様になるとこれに呼応。翌年10月に義材が行った上洛軍挙兵に参陣して加賀国より越前に攻め込んだ加賀一向一揆や甲斐氏の軍勢と大野郡や坂井郡で交戦して勝利を収める。さらに明応4年(1494年)には美濃で勃発した船田合戦に斎藤方として貞景自ら近江国柳ヶ瀬まで出陣し、翌年の決戦にも朝倉軍を派遣して大勝を収めた。
- 明応7年(1498年)からは再び「越前公方=前将軍義材(義尹)亡命政権」が越中国から一乗谷に移ってきて上洛の機会を窺う様になったが、現状に満足する貞景はこれを歓待しただけで上洛支援を断った。それで義尹は翌年単独で上洛を試みて六角氏の軍勢に敗北して周防の大内氏を頼る。
- それでもやがて細川政元やそれと同盟関係にあった加賀の本願寺門徒との対立が避けられなくなる。一族内部の謀叛を押さえ、家督を墨守しながら永正3年(1506年)には能登の一向一揆勢の大襲来を「九頭竜川の戦い」で撃退。これによって越前領国化は既成事実化した。そして次の時代には「九頭竜川の戦い」の英雄朝倉宗滴の補佐を受けた朝倉孝景が当時混乱の多かった周辺国加賀国・美濃国・近江国・若狭国などにしばしば出兵と侵攻を繰り返す。各国の守護家や諸勢力に軍事的優位性、政治的影響力を見せ付ける為であり、その結果、それまで対立状態にあった加賀一向一揆との和睦が成立し、多額の献金を行った事もあり朝廷や幕府との紐帯も強まる。そうするうちに次第に在地豪商らが名物茶器を所持する様になり、家臣らが京に書物を求める様になったりして本拠一乗谷城に京風の文化が花開いたのである。
以降は次第に保守化が進み、最後は1573年、織田信長に一乗谷城を焼き尽くされて終焉を迎えた。彼らの栄華を支えた一環が日本海経由の半島交易貿易だった事はほぼ確実視されている。それ故に津島や熱田といった太平洋側商圏に経済基盤を有する織田家との対立が避けられなくなったと見る向きもある。
*そもそも室町時代の初期の半島貿易は禅院を介して武衛斯波氏が掌握しており、その経済力を以て瀬戸内海経由で大陸貿易に接続していた管領細川家と拮抗していたのだが、残念ながら織田家は最後までその継承者となる事は出来なかった。越前の支配権も翌年には朝倉家を滅ぼした直後にあっけなく一向宗勢力に奪われてしまう。
「周防山口=西京」時代
そして今度は14世紀以降「百済聖明王末裔」を名乗り始め歴史家から「どこまで日本に帰属意識があったか判らない」とまで言われる周防大内氏に覇権達成の出番である。実はそこに辿り着くまでが長かった。
- 大内氏は南北朝時代に長門の厚東氏を破って台頭し、今川貞世(了俊)の九州制圧への従軍と南北朝合一に際しての仲介を通じて名を上げ、明徳2年(1391年)の明徳の乱(山名氏蜂起)でも活躍して和泉、紀伊、周防、長門、豊前、石見の6カ国を領する守護大名となった。その背後には朝鮮王朝との独自貿易に裏付けられた経済力があり、これを危険視する足利幕府三代将軍義満に挑撥され、鎌倉公方の足利満兼との共謀して応永の乱(1399年)を起こしたが討ち果たされてしまう。以降しばらく逼塞を余儀なくされたが、栄華を取り戻すべく北九州方面に進出して少弐氏や大友氏と争う。嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱の巻き添えで当時の当主大内持世を失ったが、その不幸も乗り越えて応仁文明の戦乱期でも西軍の山名宗全に従って勇名を残した。
- 明応8年(1499年)、先将軍の義尹(義材より改名)は政元派との和睦交渉が進展したという認識から越前の朝倉貞景のもとへ移った。彼らが敗れたと知って朝倉貞景や畠山尚順(尚慶。政長の子)を動かして上洛を強行しようとしたが、これにも失敗。最終的に周防の大内義興の元へと逃げ込んだ。
- 永正4年(1507年)に細川政元が暗殺されると、義尹は将軍への復帰を目論む。永正5年(1508年)4月に大内義興や細川高国の支援を得て中国地方から九州地方にかけての諸大名を伴って上洛。将軍義澄を廃して7月には再び将軍に返り咲き義稙となる(永正の錯乱)。
- 実はこの事件の背後には細川高国の深謀が存在した。義兄弟の関係にある阿波守護家出身の細川澄元との長年にわたる抗争によって、それまで細川京兆家の権力基盤を支えてきた「内衆(分国の重臣達)」がすっかり疲弊してしまったので、その代わりを大内氏ら外様勢力に求めたのである。確かにその目論見は右京大夫兼管領の地位を与えられた大内氏の軍事力によって一時的に達成された。しかしながら長期在京は、大内氏にとっても、その傘下の国人や豪族にとっても大きな負担となる。特に先に帰国した安芸武田氏の武田元繁や出雲国の尼子経久らが大内領を蚕食し始めると義興も京を引き払ってその対応に専念せざるを得なる。再び窮地に陥った高国は最終的に澄元の嫡男である晴元に敗れ、自害に追い込まれたのであったた。
- その一方で大内家は義興の後を継いだ嫡子義隆の代に周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領する西国随一の戦国大名となる。さらには細川氏を蹴落として明との交易を独占し、キリスト教布教を容認した事で南蛮貿易の呼び込みにまで成功して経済力も飛躍的向上を見た。そして当主義隆自らが学問や芸術を好み公家や宣教師を積極的に保護。結果として大内氏の首都山口は当時の日本では最大規模の4万人都市として盛え、雪舟、フランシスコ・ザビエル・連歌師宗祇などが訪れ「西京(Western Kyoto)」の異名を得るまでになった。
- しかしながら義隆は、天文10年(1541年)の出雲遠征に敗北し、養子の大内晴持も失うと政務を放棄して文芸や遊興に耽る様になった。その結果、以前から燻ってきた陶隆房ら武断派と相良武任を筆頭とする文治派の対立が激化し、ついに天文20年(1551年)に武断派重臣の陶隆房が起こした謀反に遭って自害を余儀なくされてしまう(大寧寺の変)。
これ以降大内氏は急速に衰退し、1555年から1557年にかけて安芸国から侵攻した毛利元就の防長経略に屈して敗亡する羽目に陥った。いつしか時代は、当主が自国の首府の小京都化に耽溺する様な後ろ向きの姿勢を見せた途端に敗亡を余儀なくされる苛烈さを帯び始めていたのである。
「江北観音寺城=今京」時代
そして、いよいよ活躍だけは初期から目立ってきた近江六角氏にお鉢が回ってきた。
- この家は実は承久の乱で一族の多くが宮方に属した事から鎌倉時代には強く警戒され続けた佐々木氏(近江源氏)の末裔である。室町時代には同族ながら足利尊氏に仕えた佐々木導誉(京極高氏)の活躍によって近江、出雲、隠岐、飛騨の守護を代々勤める京極氏と特に応仁の乱以降、領内に比叡山を擁する為に難治の地とされてきた近江の覇権を巡って激しく争う事になる。
- 結局京極氏は近江の支配権を六角氏と浅倉氏に、出雲の支配権を尼子氏に奪われて衰退していった。その一方で六角高頼が足利将軍家による二度の親征に耐えつつやはり同族で近江守護代の肩書きを有していた伊庭氏をも討ち果たして近江南部の単元支配を成し遂げる。
- そして高頼の次男六角定頼(1495年-1552年)は10代将軍足利義稙に近侍として仕える様になり、まずは細川澄元を支持して細川高国と敵対した細川政賢を永正8年(1511年)の「船岡山の戦い」で破った。
ここからの歴史はそれまでにも増して混迷を極める。
- 永正10年(1513年)3月には細川氏や大内氏や畠山氏などと対立した義稙が一時京都を出奔して甲賀に逃れる。この際六角定頼がどう振る舞ったかは不明。
- 永正15年(1518年)に大内義興が領内の事情から管領代を辞任して帰国すると、残された義稙と高国の間で反目が強まる。その結果、大永元年(1521年)3月に義稙が再び和泉堺に出奔すると、同月に即位を予定していた後柏原天皇が激怒。管領の細川高国に黙殺を命じた上で予定通り即位式を開催した。この時も六角定頼は細川高国と共に12代将軍足利義晴の擁立に貢献している。
- 高国は大永6年(1526年)に細川晴元が三好元長らと共に挙兵すると、大永7年(1527年)に義晴を連れ近江へと落ち延びた。すると晴元は足利義維を和泉堺に立てて堺公方となし、京都と山城国と摂津国の実効支配体制を固め、その上で享禄4年(1531年)に三好元長に命じて高国を摂津の広徳寺で自害に追い込んでしまう(大物崩れ)。この時六角定頼がどう振る舞ったかも不明。
- 晴元は次いで元長と不仲となり、天文元年(1532年)に本願寺証如や木沢長政らと手を結んで茨木長隆ら摂津国衆に一向一揆を扇動させてこれを堺で謀殺した(「飯盛城の戦い」)。すると当然、その結果彼を後見人としていた足利義維との関係が決裂。淡路方面に逃げ去ったので、仕方なく足利義晴と和睦を結ぶ。この時六角定頼がどう振る舞ったかも不明。
- その後、一向宗が堺公方を襲撃するなど反抗的姿勢を見せ始めると対立宗派の法華宗と協力して法華一揆を誘発。領内での一向宗の活動に頭を悩ませていた近江六角氏と協力して山科本願寺を攻めた。そして今度は法華衆が力を伸ばし過ぎると天文5年(1536年)に比叡山延暦寺や六角氏を動かした「天文法華の乱」がこれを壊滅させる。
- こうした強引な政治手法を憎まれたのか、天文12年(1543年)になると細川高国の養子氏綱が畠山政国や遊佐長教らと手を結んで晴元打倒を掲げて挙兵。将軍義晴も天文15年(1546年)に六角定頼を管領代に任命して従四位下に叙し、将軍職を実子の義輝に譲った上で氏綱支持を表明する。これに対して晴元は義晴らを近江坂本へ追放して氏綱らと戦い続けた。
- 天文17年(1548年)には元長の嫡男で三好宗家の家督を相続した三好長慶が同族の三好政長討伐を要請して断れたのを逆恨みし、天文18年(1549年)に寝返る。晴元は和泉国の細川元常や岸和田兵部大輔や紀伊国根来衆らに出兵を求めつつ、この時期までに岳父となっていた六角定頼に発破を掛けられながら、これを討とうとした(「江口の戦い」。三好長慶は三好政長らの籠もる江口城を討つ事に最後まで躊躇があったが、近江六角氏が送り出した援軍1万人が間近に迫って覚悟を決めたとされる)。この戦いで晴元は三好政長や高畠甚九郎といった多くの配下を失った。それで将軍義輝や義晴と近江へ逃れざるを得なくなったが(随行した細川晴賢と細川元常の領国だった和泉が労せず長慶の手中に落ち、それまで三好政長と連携して晴元政権を支えてきた茨木長隆も没落を余儀なくされる。その後茨木長隆は三好長慶(細川氏綱)方に帰順し、奉行人となった)、天文21年(1552年)には若狭守護の武田信豊を頼って若狭へと下向。
*その後、信豊は家臣である逸見や粟屋を細川氏領国たる丹波へ派兵。 - それからも晴元は香西元成や三好政勝などの晴元党の残党や六角義賢や畠山高政といった畿内の反三好勢力の支持を取り付けながら将軍義輝を擁して次男の細川晴之と共同して三好長慶と争い続けた。しかし永禄4年(1561年)になると、とうとう長慶と和睦して剃髪し、摂津富田の普門寺に隠棲する道を選ぶ。
こうして京が大混乱に陥ったまさにその時期、江北観音寺城は越前一乗谷城や周防山口とともに文化人の一時的避難地として選ばれた。
- 六角定頼は近江一帯に一大勢力を築き上げ、伊賀や伊勢の一部までも勢力下に置いて六角氏最盛期を創出。子女の多くを大名家に嫁がせるといった外交戦略も巧みであり、さらに足利将軍家の後ろ盾になる事で中央政治をも左右するほどの勢力を獲得した。
*しかし明応の政変(1493年)以降の京都は、急激にその影響範囲を縮小。しかしその内側にいる諸勢力は煮られる蛙の如くこうした動きに無頓着だった。 - この時期、北近江国人一揆の頭目だった浅井久政を「暗愚で家臣団の統率に齟齬をきたしている」という名目で討って事実上従属下に置く。しかし定頼の後を継いだ六角義賢が1560年に野良田の戦いで浅井長政に破れ、暗愚振りを暴露した為に見限られ始める。
*その前の時代にも美濃の内乱に介入したがる浅井亮政を牽制する為に六角氏と協力して小谷城へと出張った朝倉宗滴が大永5年(1525年)に5ヶ月間渡って小谷城の一角(金吾嶽)に在陣して自ら行政指導を行うという一幕があった。 - 後を継いだ六角義治(義弼)の代に到っては重臣中の重臣の立場にある後藤賢豊父子の誅殺を始めとする内紛の末に当主が六角式目への著名を余儀なくされた観音寺騒動(1563年)まで起こし。遂に誰からも相手にされない存在へと変貌してしまった。
- 将軍義輝は永禄の変(1565年)で三好氏の有力者三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀に暗殺される。その弟である足利義昭(当初の名前は義秋)は、六角義賢や和田惟政とともに全国の諸大名に三好氏を討伐して義昭の上洛と将軍擁立に協力するよう働きかけた。しかし上杉謙信・武田信玄ら地方の諸大名は近隣諸国との対立を抱えていて動くことが出来なかったので、比較的京都に近い大名を連合させて義昭を上洛させる計画が立てられた。それで永禄の変直後より、和田惟政が尾張を訪れて信長に上洛を促す様になる。信長は斎藤龍興の存在を理由に躊躇したが、義昭側の働きかけに応じた龍興が信長との停戦に応じた。それで信長も斎藤領である美濃から北伊勢・南近江を経て上洛の兵を送ろうとしたが、永禄9年(1566年)8月、信長が上洛の兵を起こしたところ、斎藤龍興が離反して道を塞いだために上洛を断念して撤退せざるを得なくなる。そういう内容の文書が室町幕府の幕臣であった米田求政の子孫の家から発見されてた。斎藤龍興と相前後して六角義賢も離反し、義昭と信長の交渉は一時中断。
- 六角氏の離反を知った義昭は近江を脱出して、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長との交渉が再開された。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。信長は和田惟政に村井貞勝や不破光治・島田秀満らを付けて越前に派遣し、義昭は同月13日に一乗谷を出て美濃に向かい、25日に岐阜城下の立政寺にて信長と対面した。
- ちなみに後に織田信長は安土城建設に際して観音寺城の建材を根こそぎ流用された為に今日では跡形も残っていない。その安土城も同様に他の城の建材として再利用される形で姿を消す事になった。
1568年に織田信長率いる上洛軍が通過した際に義賢と義治は信長に家芸のゲリラ戦で抵抗しようとした。しかし全く相手にされなかったので独り相撲に終わり、自ら領国を手放した形となる。
実は家臣団を本拠地の観音寺城に集める城割を命じたのも、経済振興の為に楽市楽座を創始したのも定頼時代の六角氏であり、織田信長は基本的にそれを模倣したに過ぎない。こういう経緯故か没落した六角氏の末裔は後に豊臣秀吉あるいは豊臣秀次によって家臣にとりたてられ、江戸時代には佐々木氏に復して旗本となった。
「駿府=東都」時代
今川家は元々足利将軍家の分家という特別な立場にある守護家であった。貞世(了俊)の時代には管領の細川頼之の命によって九州探題へと任じられている。しかし南朝勢力の強かった九州を平定するとかえって三代将軍義満から危険視される様になり、応永の乱(1399年)の巻き添えとなって中央政界から抹殺。遠江半国の守護に過ぎなくなってしまう。
- 窮状からの本格的脱却が始まったのは戦国時代に入った15世紀末。伯父に当たる北条早雲の後援を受けて今川氏親が家督争いに勝利し、亡父義忠の代で頓挫していた遠江への再侵攻を再開してからであった。これによって敵対する斯波氏を廃し、遠江守護職の奪還に成功すると内政にも力を入れる様になり、分国法を定めて戦国時代への適応を示す。
- 氏親の嫡男氏輝が早逝し、その後の家督争いである「花倉の乱」に勝利した氏輝の同母弟義元が当主となると、その傾向がさらに顕著となった。そしてついには天文22年(1552年)における「今川仮名目録」の追加法制定において室町幕府が定めた守護使不入地の廃止が宣言され「もはや幕府の権威に依存しない」という立場が明確に打ち出される事になる。そして商業保護や流通統制、寄親寄子制度による家臣団の結束強化を図るなど優れた行政改革が次々と推進され、その国力を大幅に増大させる事に成功したのだった。
*後にこの政策は江戸幕府を開府した徳川家康によって踏襲される事になる。 - 外交的には甲斐の武田氏と同盟した為に相模の後北条氏との関係を一時的に悪化させ「河東の乱」を起こしたが、武田氏の仲介があって手打ちとなる。かくして甲相駿三国同盟が成立。以降は三河に進出し、弱体化した松平氏を従属させるなど西進政策が次々と実を結んだ。その一方で、三河へ進出を図る尾張の織田氏と「安城合戦」「小豆坂の戦い」などで衝突し、三河から織田氏を締め出すのに成功。
*こうして駿河・遠江・三河の3ヶ国の支配を固めて尾張の一部まで領有する様になった時代こそが今川氏の最盛期であったといえよう。 - 弘治元年(1555年)頃には駿河・遠江・三河で検地を実施し、永禄元年(1558年)からは息子である氏真と政務の分担を図るなど次代への継承準備も進める。しかし弘治元年(1555年)に軍師である雪斎、弘治3年(1557年)に朝比奈泰能といった有力な重臣達が次々に亡くして優れた人材が次々と失われていった。そして1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いにおいて織田信長に本陣を襲撃されて敗死。
*不幸な偶然という要素もかなりあったが、無理な領地拡大政策の疲弊によって既に再建が不可能なまでに屋台骨自体が歪みつつあったという指摘もある。 - 「特別に輿に乗る事を認められた家系であった事を誇示する為に合戦の際まで輿に乗っていた」「お歯黒を付けていた」という話もあるが、京都での公武合体を背景として当時の武家は公家文化に精通し、この方面での素養の高さを示す必要があったのである。つまり室町時代から戦国時代の価値基準からすれば決して非難対象となり得る振る舞いではなかった。問題はむしろ、肝腎の京の文化人から相応の評価が得られた形跡がないという点にこそあったのである。
駿府は室町時代から戦国時代にかけて今川氏の城下町として栄え、その過程で今川氏の京趣味を繁栄して地名や町名などに京都と同じものを多数残す事になった。その努力が実って京が荒廃した時期にはそこを逃れた多数の公家や文化人が相応に駿府に居を移し「東(国)の京」或いは「東(国)の都」と褒めそやしたが、桶狭間の戦いで今川義元が討死して以降は衰退し、武田信玄の駿河攻略によって焼討ちされて一時的に荒廃。
むしろその全盛期は今川氏の人質として幼少時代を駿府で過ごした徳川家康がそれを遺憾に思い、1585年にここを本拠地に定めて城下の整備に尽くして以降に到来する事になったのである。江戸幕府を開いた家康が隠居して再び駿府城に移り住んで大御所政治が展開された時代には「駿府九十六箇町」と呼ばれる街区が整備され、その人口も10万人とも12万人ともいわれて当時の江戸(15万人)や上方(京・大阪)に匹敵する繁栄を誇ったといわれている。
【エピローグ】足利義輝による中興の努力と挫折
室町幕府第13代征夷大将軍足利義輝(在職:1546年 - 1565年)…父は12代将軍の足利義晴。なお、10代将軍足利義稙の養子となった阿波公方足利義維は叔父で、その子である14代将軍足利義栄は従弟にあたる。
- 天文5年(1536年)3月10日、第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。この頃の幕府では父・義晴と管領・細川晴元が対立し、義晴はそのたびに敗れて近江坂本に逃れ、それに義輝もたびたび従った。その後も父とともに京への復帰と近江坂本・朽木への脱出を繰り返した。
- 天文15年(1546年)12月、わずか11歳にして父義晴から将軍職を譲られる。義晴は管領細川晴元と対立する細川氏綱の支持を表明する為にそうしたのだった。将軍就任式は亡命先の近江坂本の日吉神社祠官樹下成保の第で行なわれ、元服時の烏帽子親は六角定頼が務めた(初名・義藤)。同17年(1548年)に義晴が細川晴元と和睦して京に戻ると、晴元も義輝の将軍就任を承諾した。
- しかし細川氏綱陣営に、晴元の家臣である三好長慶が加わって畿内に一大勢力が現出すると風向きが変わる。天文17年(1548年)の「江口の戦い」で細川春元と六角定頼の連合軍が敗れた為に天文18年(1549年)6月には父義晴や細川晴元とともに再び近江坂本の常在寺に逃げ込む事となり、しかも同19年(1550年)5月には義晴がそこで亡くなってしまう。同年のうちに堅田、翌年に朽木に移る。
- 天文21年(1552年)1月には細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦して京に戻ったが、将軍とは有名無実で、長慶とその家臣松永久秀の傀儡であった。その年の春元は若狭守護の武田信豊を頼って反撃準備中であり翌年(1553年)から長慶との戦いを再開したが、敗れて近江朽木に逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。同23年(1554年)2月12日、名を義輝に改める。
- 永禄元年(1558年)5月、六角義賢(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺う。翌月、如意ヶ岳に布陣して三好長逸らの軍と交戦した。一時期は義賢の支援を受けた足利方が優勢であったが、長慶の弟・三好義賢の猛反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られて戦況が硬直する。11月には義賢の仲介により長慶との間に和議が成立して5年ぶりの入洛が実現し、幕府政治が再開された。長慶はなお権勢を誇っていたが、幕府の御相伴衆に加えられ、さらに修理大夫に推薦される事でとりあえず臣下として幕府機構に組み込まれることとなった。
- 以降も晴元は香西元成や三好政勝などの晴元党の残党や六角義賢や畠山高政といった畿内の反三好勢力の支持を取り付けながら次男の細川晴之とともに三好長慶と争い続けたが、永禄4年(1561年)にはとうとう長慶と和睦して引退し、数年後には亡くなる。一方、畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起した際に一族の三好義賢が戦死するなど、三好氏にも衰退の兆しが見え始めた。
- こうした中、永禄5年(1562年)長慶と手を結び幕政を壟断していた政所執事の伊勢貞孝が長慶と反目すると、義輝は長慶を支持してこれを更迭し、新しく摂津晴門を政所執事とした。これに激怒した貞孝は反乱を起こしたが、9月に長慶の手で討たれ、これによって将軍の介入すら許さないほどの影響力を保持し続けてきた伊勢氏による政所支配の歴史は幕を閉じる事になる。さらに永禄7年(1564年)7月には三好長慶が病死し、益々将軍による政所掌握への道が開ける事になった。
- しかし、長慶の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永久秀と三好三人衆にとっては、そのような義輝は邪魔な存在であったため、久秀と三人衆は足利義稙の養子・足利義維と組み、義輝を排除して、義維の嫡男・足利義栄(義輝の従兄弟)を新将軍の候補として擁立する。一方で義輝が頼みとする近江六角氏は永禄6年(1563年)の観音寺騒動以降、領国の近江を離れられなくなっていた。
- 永禄8年(1565年)5月19日、久秀と三好三人衆は主君三好義継(長慶の養嗣子)とともに足利義栄を奉じて謀叛を起こした(永禄の変)。義輝の居城である二条御所に軍勢を率いて襲撃したのである。義輝は上泉信綱に教えを受け、塚原卜伝に奥義の伝授を受けた剣豪であったため、足利家秘蔵の太刀を何本も周囲に突き立てておいて、刃こぼれするたびに太刀を取り替え、寄せ手の兵と次々に斬り合う状態で奮戦したとされるが、結局は衆寡敵せず討ち取られた。 享年30(満29歳没)。その政治活動により一時的とはいえ将軍権威が復活したが、皮肉にも自らが暗殺されたことによりその権威は再び地に堕ちる事となったのである。
実際、室町幕府将軍としての政治的実績を残した最後の人でもあった。
- 天文5年(1536年)今川家の家督相続争いである「花倉の乱」に際して、重臣達から還俗を乞われた今川義元は主君であり本流に当たる足利家(足利将軍家)の足利義晴より偏偉を賜り「義元」と名乗った。
- 天文12年(1542年)伊達家で伊達晴宗と父の稙宗の間で内紛が始まる(天文の乱)。ところで「晴宗」は天文2年(1533年)に第12代将軍足利義晴の偏諱を承けての名乗りである。
- 天文17年(1548年)3月 義輝の名前で伊達晴宗と稙宗の間に停戦命令が発せられ、9月には稙宗が晴宗に降伏したに等しい形で和睦した。稙宗が丸森城に隠居し、晴宗が伊達家の家督を継いで第15代当主となる。
- 天文19年(1550年)義輝が堺に人を差し向けて、火薬の原料となる硝石を買い求めた記録があり、直後の7月に起こった三好軍との京都市中での小競り合いでは、敵方の与力を鉄砲で撃ち取った事が記録されている(歴史上、鉄砲での戦死は初記録)。
- 天文21年(1552年)、上杉謙信が初めての上洛を果たし、後奈良天皇および室町幕府第13代将軍・足利義輝に拝謁する。京で参内して後奈良天皇に拝謁した折、御剣と天盃を下賜され、敵を討伐せよとの勅命を受けた。この上洛時に堺を遊覧し、高野山を詣で、京へ戻って前大徳寺住持の徹岫宗九のもとに参禅して「宗心」の法名を授けられた。
- 天文22年(1553年)『新編会津風土記』『編年大友史料』などには天文22年(1553年)には義輝が居城に鉄砲鍛冶を呼び寄せ、鉄砲の製造に着手したとある。またそこで製造されたものか大伴義鎮からの献上品を転用したのかは不明だが、当時の書簡から上杉謙信に鉄砲を送ったりしていか事が明らかになっている。
- 天文23年(1554年)大友義鎮から鉄砲と火薬の秘伝書(『鉄放薬方并調合次第』)を手に入れる。
- 永禄元年(1558年)武田晴信と長尾景虎の間の修好に努める。
- 永禄2年(1559年)大友義鎮が多大な献金運動の結果、6月に豊前国・筑前国の守護に任ぜられ、11月には九州探題に補任された。また同年、毛利隆元も毛利元就との連署で正親町天皇の即位料を献納し、従四位下大膳大夫に任じられた。
- *同年織田信長が上洛して義輝に謁見して尾張守を要請したとする資料もあり、上洛までは事実とされるが将軍への謁見がかなったかは疑問視されている。「領内ではそう喧伝された」までは概ね事実とされている。
- 永禄3年(1560年)毛利隆元が安芸の守護に任じられる。5月8日、今川義元も正式に三河守に任官されている(5月19日、桶狭間の戦いで討死)。また義輝は島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久の間の修好に努め、大友義鎮が左衛門督に任官し、毛利隆元が足利義輝より安芸の守護に任じられた。
- 永禄4年(1561年)長尾景虎が関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する室町幕府の重職関東管領に任命される。さらに後には将軍足利義輝より偏諱を受けて最終的には上杉輝虎と名乗った。
- 永禄5年(1562年)毛利隆元が備中・長門の守護職に任ぜられた。
- 永禄6年(1563年)毛利元就と大友宗麟の間の修好に努める。足利義輝の相伴衆に任ぜられた大友宗麟が毛利氏との和睦交渉に際して将軍家の調停を依頼した結果とされる。また毛利隆元も周防の守護職に任じられた(この際、隆元は義輝から直垂を下賜されたが、隆元は遠慮して元就に譲った)。これにより毛利氏は、正式に中国地方の大名としての立場を認められたことになった。
*当時の書簡から今川義元が南蛮製のガラスの容器を賜ったり、馬を強請られたりしていた事が明らかになっているが、上洛の要請があったかまでは判らない。 - 永禄7年(1564年)義輝が上杉輝虎と北条氏政と武田晴信の修好に努める。
- 永禄8年(1565年)毛利輝元が義輝より「輝」の一字を許され元服し、輝元と名乗り、同年の月山富田城で初陣を飾った。
この様に室町幕府将軍職というのは元来「国王」というより「全国諸侯の利害調整役」に過ぎず、その分際を超えようとする中央集権化の目論みが最後には自らの死を招くまでになってしまった。状態的にいうなら、
といったところ。
そのうち神聖ローマ帝国領内の領邦国家については、興味深い動きがあった。フランス絶対王政黄金期には、その各宮廷がただひたすらフランス宮廷の模倣を続けたのである。上掲の様な図式に当てはめるなら「小ベルサイユ主義」とでも呼ぶべきか。有名所では「狂王」とも「メルヒェン王」とも呼ばれたバイエルン国王ルートヴィッヒ2世(在位1864年〜1886年)もまた、ヴェルサイユ宮殿を模したヘレンキームゼー城を湖上の島を買い取って建設したり、大トリアノン宮殿を模したリンダーホーフ城を建設したりしている。
ただ時は既に小ベルサイユ主義末期。ワーグナーに陶酔して大好きなロマンティック・オペラ「ローエングリン(Lohengrin、初演1850年)」の世界を舞台画家に描かせてグランドイメージとした文字通り「夢の城」のノイシュヴァンシュタイン城や、バイロイト祝祭劇場も建設し、後世にはむしろこちらの方が有名となった。ちなみにこうした建物の建築費は、プロイセン宰相ビスマルクがドイツ帝国建設承認の見返りに支払った賄賂が当てられたと推測されている。織田家も大規模勧進で寺社勢力やや朝廷を味方につけてきたが、流石は贖宥状販売で宗教革命を引き起こしたホーエンツォレルン家だけあってスケール感が違うのだった。その一方で領民はこれを「壮絶な税金の無駄遣い」と考えて憎み、その事が国王の不審な最期につながったと考える向きもある。皮肉にもこれらの建設物は現在では重要な観光資源として有効活用され、元領民達の懐を温め続けているのである。
そして「第六魔天」降臨
その一方で当時の日本は新しい段階に突入する。永禄11年(1568年)、天下布武を標榜する織田信長が将軍家嫡流の足利義昭を奉戴して上洛を果たすのである。
もっとも京都やその周辺の人々はようやく尾張・美濃を平定したばかりの信長を実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭が自派の諸将を率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという。
だがしかし上掲の「小京都主義」大名のうちこの時代まで生き延びた戦国大名は、その大半が(その統治の画期的だった部分を模倣され尽くした末に)信長に滅ぼされ、所領を併呑されていったのだった。
*さすがは第六魔天、一人薔薇戦争状態とも、一人フランス革命状態とも。ただ「熱田神宮経済圏の庇護者として商売敵を次々と潰していっただけ」という意見もあるにはある。
それはそれとして、実は京都って応仁の乱以降も何度か焼けき払われ、その都度再建されてきたんですね。まぁ住民まで皆殺しにされた訳ではないですし。それに比べてフランスは…実際「フランスへの産業革命導入が二月/三月革命(1848年〜1849年)以降にずれ込んだのは、ボルドーやリヨンが破壊されたからというより、時の権力者たちが政争に明け暮れてたせい」なる厳しい意見もあったりもします。
その一方で、日本には「小京都」と呼ばれる地域が沢山ありますね。
少なからぬ比率で江戸幕府開闢後、参勤交代の為の交通網整備を武器に株仲間(全国の負傷と富農のネットワーク)が、大名と癒着して領内の交易と産業を独占する全国の御用商人を倒していった結果と考えられてます。静かなるブルジョワ革命?
中でも西陣織商人の活躍は目覚ましく、自ら京の町並みを再現したり、上洛経験のある在地パートナーが同様の整備を行ったり、さらに周囲の富農や富商がこれを模倣したりしてこんな有様となりました。「お茶の間文化」が全国に広待ったのも、こうした流れの一環だったと考えられています。
まさしく「まず王侯貴族が愉しんでステイタス・シンボルとなり、ブルジョワ階層や一般庶民がこぞって真似する事で広まる」スノビズム連鎖そのものですね…
現代日本に継承された伝統文化の根幹は、欧州の様な「上からの革命」の産物というより、この「静かなるブルジワ革命の進行」の産物の比率が高い様に思われます。