諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

一時期どこにでも居た「ドイツ人」

ここで紹介した「レ・ミゼラブル」の「民衆の歌(Do You Hear The People Sing)」のエピソードで思い出したのですが…

ディエンビエンフー陥落(Bataille de Điện Biên Phủ、1954年)に際してフランス軍塹壕では、戦意高揚の為あちこちで「ナチス党歌(Horst-Wessel-Lied)」が高らかに歌われたそうです。


どうしてそういう事になってしまったかというと…

ちなみにベトナム側には帰国を諦めた日本兵1000人弱も加わってたとか。

 フランス7月革命(1830年)に実動部隊として招聘されたイタリア独立運動団体カルボナリ(炭焼党)は雑多な信念の持ち主で構成されていて、そのうち革命が単なる王統交代に終わってしまった事に不満を持つ急進派の共和主義者を粛清したのが「レ・ミゼラブル」のクライマックスで登場する「六月暴動(1832年)」。このカルボナリに幼少時預けられていたルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世は、そのせいでフランス語よりドイツ語の方が達者になってしまったといいますから、彼らもまた(少なくともその実働部隊は)フランス人でなかったばかりか、イタリア人ですらなかったのです。

  • 本国における自由主義の取り締まりが厳しい事もあり、急進的共和主義者のドイツ人は他国へ亡命する事が多かった(ハイネもマルクスもこの口)。

  • 当時、欧州における外国人出稼ぎ労働者に占めるドイツ人の比率はかなり高く、しかも低賃金と労働環境の劣悪さから急進的共和主義者に変貌する事が多かった。

「ドイツ人の急進的共和主義者」はさらに、イギリスのチャーチスト運動(Chartist 1830年代後半に始まり、1848年以後衰え、1850年代に消滅)でも重要な役割を果たしていたといわれています。アメリカ移民に占める割合も少なくありませんでしたが、彼らは労働者というより開拓地への入植を希望する畜産家や栽培農家でした。いずれにせよ2月革命/3月革命(1848年〜1849年)によって解放された元農奴の大量移動が始まる以前の時代だったので「かなり偏った人々」によって構成されていたのです。

カルボナリ(伊: Carbonari、仏: Charbonnerie、1806年〜1832年)

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イタリア語のカルボナリ (Carbonari)、あるいはフランス語のシャルボンヌリー (Charbonnerie) は「炭焼(木を燃して炭を製造する職人)」を意味し、日本では炭焼党、カルボナリ党、カルボネリーアとも呼ぶ。19世紀前半にイタリアとフランスに興った革命的秘密結社。急進的な立憲自由主義憲法に立脚する自由主義)を掲げ、ノーラ、トリノをはじめ各地で武装蜂起を企てた。そうした活動は唯一にして最大の成功例たる7月革命(1830年)を除けばいずれも挫折。束の間の政権樹立を現出したナポリ革命やピエモンテ立憲革命においても、鎮圧後に憲法は放棄され、立憲国家の夢は潰えた。

①1806年頃、ナポリ王国において結成された。起源は定かではないが、18世紀末、フランス革命の初期にフランス東部のフランシュ=コンテに存在した、炭焼人のギルドを模した秘密結社がその源流とされる。ナポリに本部を置き(のちにパリに移転)、イタリア全土に支持層を広げた。その組織は徒弟制型の階層構造になっており、徒弟は親方に従属する。秘密結社の常として、組織は仲間内にのみ解しうる記号や符牒を有していた。党員は、握手の際に秘密のサインを示すことで互いを同志か否か識別。サインは位階ごとに異なっていたという。また徒弟は薪の束、親方は手斧をかたどった飾りを着用した。更に、党内では独特の隠語が用いられた。党員は自らを賤業とされた炭焼人に見立て、社会をボスコ(Bosco:森林)、政府や与党をルーポ(lupo:狼)、党員の秘密の集会所をバラッカ(baracca:山小屋)、その内部をヴェンディタ(Vendita:炭売り場)、党員でない者をパガーニ(pagani:異教徒)と称し、他の党員と挨拶を交わす際はブオン・クジーノ(buon cugino:良き従兄弟)と呼び合った。なお、党員は宗教に言及することを固く禁じられていたが、実際には守護聖人を定めてこれを崇拝するなど、宗教的色彩を帯びていた。彼らの掲げた「自由・平等」という高邁な理想は、しかし、これに背く者に対しては厳罰(処刑を含む)をもって臨み、また専制打倒という大義のためには、殺人をも厭わないとする過激な思想をも包含していた。この急進的思想に突き動かされたカルボナリは、赤・青・黒の三色旗を旗印として、革命運動へと邁進してゆく。


ナポリ王フェルディナンド4世(Ferdinando IV、両シチリア王としてはフェルディナンド1世)を廃したナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)は、兄ジョゼフ(Joseph Bonaparte)にナポリの統治を任せることを決定。1806年3月30日、ジョゼフはナポリ王ジュゼッペ・ボナパルテ(Giuseppe Bonaparte)として即位した。これに随行した旧ジャコバン派の人々によって、フランシュ=コンテにおける結社の思想がナポリに伝播。イタリア南部のカラブリアに亡命していた共和主義者によって、カルボナリが誕生したとの説が有力である。ジュゼッペに替わり1808年にナポリ王に就いたナポレオンの義弟ジョアシャン・ミュラ(Joachim Murat)ことジョアッキーノ・ミュラ(Gioacchino Murat)は、就任当初はカルボナリを快く思っていなかったが、ナポレオンとの間に齟齬が生じると、ナポレオン体制を否定するカルボナリに利用価値を見出し、これを陰で庇護。国王の後ろ盾を得たカルボナリは、南イタリア一帯に勢力を伸ばした。しかし1812年シチリアで自由憲法が発布されると、ナポリでも憲法制定を要求する運動が盛んになり、カルボナリは一転してミュラの専制への敵意を露にした。


③1814年、ウィーン会議ブルボン朝王政復古が承認されると共に、ミュラの王位剥奪が決議されると、彼らの攻撃の矛先は、復位したフェルディナンド4世、及びブルボン朝に向けられた。ブルボン復古王政は山賊や無頼の徒を募ってカルデラリ(Calderari)と称する暴力団を組織し、カルボナリに対して攻撃を仕掛ける。しかし両者の抗争により生じた社会秩序の混乱は、却って大衆の不満を煽る結果を招いた。カルボナリは、自由主義的思想を有する貴族や中産市民、亡命貴族の復帰によって免職あるいは降格の憂き目に遭った文武官、生活苦に喘ぐ商工業者や小地主、下級官吏や下級僧侶など、現状に不満を抱く幅広い層から支持を集め、その勢力圏を中部・北部イタリアにまで拡大。サルデーニャ王国ピエモンテでは、青年貴族や大学生の間でカルボナリへの加入が流行するまでに至った。

④組織が爛熟した1820年前後には30万とも60万ともいわれる党員を抱えるほどになった。しかし雑多な階層の人間の集合体であることが災いし、専制政治の打倒と憲法制定、他国による圧力の排除といった主張以外に目立った統一的意思を持たず、活動方針は具体性を欠いた。また組織内の利害対立をそのまま放置したことは、のちの革命遂行に際して深刻な影を落とした。ともあれ、カルボナリはこの時期、王権に対抗しうるほどの実力を獲得した。

⑤勢力の伸張に伴い教皇権の打倒をも画策。教皇ピウス7世(Pius VII)が発布したと称して、カルボナリを政治団体として公認する旨の文書を捏造した。これに激怒した枢機卿エルコレ・コンサルヴィ(Ercole Consalvi)やバルトロメオ・パッカ(Bartolomeo Pacca)は1814年8月15日、カルボナリへの入党や集会の開催、集会場の提供を禁ずる命令を発布したが、それでも党勢は衰えを見せず、ついには教皇が兵を差し向ける騒ぎを起こした。

1820年1月1日、スペインの陸軍大佐ラファエル・デル・リエゴ(Rafael del Riego y Nuñez)らが、ブルボン復古王政専制打倒を目指してカディスで反乱を起こし,1812年憲法の復活に成功した(スペイン立憲革命)。カルボナリはこの機に乗じて,1820年7月にナポリ近郊のノーラで、ナポリ軍を巻き込み一斉蜂起した(ナポリ革命、またはノーラの蜂起)。彼らはスペインの1812年憲法と同様の憲法を制定するよう国王フェルディナンド4世に迫り、これを実現させた。翌1821年3月にはピエモンテの州都トリノで、やはりカルボナリに指導されたサルデーニャ軍が決起(ピエモンテ革命)。サルデーニャ王子カルロ・アルベルト(Carlo Alberto)を摂政に迎えて自由主義的革命政府を樹立し、憲法発布を実現。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世(Vittorio Emanuele I)は退位し、替わってカルロ・フェリーチェ(Carlo Felice)が即位した。これにより、一時的ながら革命は成功した。なお、カルロ・アルベルトは1831年、カルロ・フェリーチェの後を継いで国王に即位している。これに対し、北イタリアを領有するオーストリアは革命の波及を恐れ、鎮圧に乗り出した。宰相クレメンス・メッテルニヒ(Cremens Metternich)は1821年、五国同盟の加盟国(英・露・墺・普・仏)をライバッハ(現リュブリャナ)に集め、対応を協議(ライバッハ会議)。オーストリア軍の出兵を承認させた。同年3月23日、オーストリア軍はナポリを占領。4月にはピエモンテに侵入し、カルボナリを中心とする革命軍を破った。なお、スペイン立憲革命もフランス軍の干渉により挫折、指導者リエゴは1823年に刑死した。


⑦こうした一連の敗北の結果、イタリアにおけるカルボナリは衰退を始める。教皇ピウス7世が1821年9月13日、この蜂起を糾弾する声明を発表するなど、圧力も強まりを見せたため本拠地をパリに移した。1821年当時は、フランスにおいてもカルボナリ(シャルボンヌリー)が結成された時期であった。イタリアのカルボナリは、この地においてフランスのシャルボンヌリーと連携。ウィーン体制の打倒を目指すヨーロッパ各地の自由主義者の支持を集め、国際的にはなおも勢力を拡大したが、彼らの思想に必ずしも同調しているとはいえないルイ・フィリップ(Louis Philippe)やルイ=ナポレオンボナパルト(Louis-Napoléon Bonaparte)を指導者に加えるに至って、大衆との乖離が進んだ。

1830年7月27日、パリでフランス7月革命が勃発。この時、シャルボンヌリーは学生、小市民、労働者らと連携。ブルジョアジーの援助を得た約6万人の市民が7月29日にルーヴル宮殿テュイルリー宮殿ノートルダム聖堂を占領。3日間の市街戦に勝利した(栄光の3日間)。8月2日、国王シャルル10世(Charles X)がイギリスへ亡命しブルボン朝は崩壊。延べ200余年の歴史に幕を下ろす。これに替わりルイ・フィリップを国王に戴く立憲王政が誕生。新政権にはカルボナリの党員も名を連ねた。

 

⑨フランス7月革命の成功を受け、イタリアのカルボナリは1831年から1832年にかけて、教皇領やボローニャ、モデナ、パルマなど中部イタリアの各地で革命を企て蜂起した(イタリア暴動、又は中部イタリア革命)が、オーストリア軍が国境を越えて再び進撃。期待を寄せていたルイ・フィリップからの援助は全くなされず、暴動は鎮圧された。これによりカルボナリは求心力を失い、党員は次々と離散した。この動乱のさなかに離党したジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini)は1831年、亡命先のマルセイユで青年イタリア(Giovine Italia)を結成。残存勢力の多くがこれに合流した。フランスのシャルボンヌリーも、所期の目的である革命が成功すると急速に解体。この成果に飽き足らず、ルイ・フィリップの王政に不満を持った急進勢力は、他の共和主義団体に籍を移して革命運動を継続した。

「 リソルジメント(Risorgimento、イタリア統一運動)」はこうした混沌から幕を開けたのでした。ちなみに以下は明治時代日本人が好んだとされるネタ。

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ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi, 1807年〜1882年)…「イタリア統一運動三傑」の「肉体(軍事英雄)」担当。「明治維新三傑」でいうと西郷隆盛1828年〜1877年)に該当。

http://englishmaxims.up.n.seesaa.net/englishmaxims/image/0167-giuseppe_garibaldi.jpg?d=a1

カミッロ・カヴール(Camillo Paolo Filippo Giulio Benso, conte di Cavour, di Cellarengo e di Isolabella、1810年1861年…「イタリア統一運動三傑」の「頭脳(実務家)」担当。「明治維新三傑」でいうと大久保利通1830年1878年)に該当。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d9/Camillo_Benso,_conte_di_Cavour,_1861.jpg

そして…

ジュゼッペ・マッツィーニ(イタリア語: Giuseppe Mazzini、 1805年〜1872年)

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イタリア統一運動時代の政治家、革命家。「イタリア統一運動の三傑」の「魂(預言者)」担当。「明治維新三傑」でいうと吉田松陰1830年〜1859年)に該当。

ジェノヴァで医学部教授の息子に生まれる。病弱ながら聡明で、ジェノヴァ大学を卒業し、弁護士を開業。彼はイタリアの秘密結社・カルボナリに入党するが、彼の革命を目指す活動はすぐに法律から追われることになる。カルボナリの組織に限界を感じた彼は,1831年マルセイユで新たに「青年イタリア」を結成した。この組織のモットーは「神と人民」であり、いくつかの国家に分裂していたイタリア半島に1つの自由共和国を打ち立てることを目的としていた。彼はまた、似たような目的を持つ組織をいくつか創設している。すなわち、「青年ドイツ」「青年ポーランド」「青年スイス」そして「青年ヨーロッパ」がそれである。イメージの原風景にあったのはフランス7月革命(1930年)に颯爽と登場した「青年フランス」とされる。

②イタリアの統一事業は民衆の蜂起なしには成功しないと信じており、その政治的信条を出版活動を通じて公言し続けた。これにより彼の名は広く知られることとなる。思想的にはサン・シモンの唱える進歩論と共同社会論を支持し、平等主義を唱えるブオナローティと対立した。1837年にはロンドンに渡ってチャーティスト運動に接し、労働運動の重要性を認識する。

③1848年革命に際しては、「ローマ共和国」を打ち立て、アウレリオ・サッフィ、カルロ・アルメッリーニと共に三頭執政官(Triumviro)の1人となった。この共和国はナポレオン3世の軍事介入により短命に終わるが、イタリアの自由主義国民主義はなおも高まりを見せた。海外に亡命した彼は、外国からミラノ、ジェノヴァなどの革命運動を指導した。しかし、現実を見るよりも理想に重きを置いたマッツィーニの主張はしだいに支持を失い始め、代わりにイタリアの国民主義者たちはサルデーニャ王国とその首相・カヴールに期待を寄せるようになってきた。


④1859年~1862年の対オーストリア戦争において、フランスとの同盟を組んだカヴール、南部イタリアを進軍し占領地を王に献上したガルバルディらの活躍によって「イタリア王国」が成立したが、これはマッツィーニの説いた共和国とは程遠いものだった。

1864年には第一インターナショナルにも参加するが、マルクスらと対立。さらに1871年パリ・コミューンに反対の立場をとりバクーニン派とも対立して脱退。一時イタリア議会に選出されたが、王制への反発から拒否。

1871年、「メイソンの黒い教皇」と呼ばれたアルバート・パイクから、第一次世界大戦第二次世界大戦、更に第三次世界大戦に関する計画・予告が記されている書簡を受け取っている。「第一次・第二次世界大戦は…(中略)。そして第三次世界大戦は、シオニストとアラブ人との間に、イルミナティ・エージェントが引き起こす、意見の相違によって起こるべきである。世界的な紛争の拡大が計画されている」。しかし手紙が書かれた当時、手紙に書かれてあったとされる「ファシズム」や「ナチス」と言った言葉は存在していなかったので、いまでは「捏造である」というのが定説である。ちなみにおそらくアルバート・パイクなる人物、南北戦争後(1861年〜1865年)後の急激な産業革命新興によって「アメリカの中心」が思想家の集うボストンから経済発展の司令塔ニューヨークに推移していく時代に取り残されて焦ったボストン守旧派知識人の1人に過ぎない。

アルバート・パイクの世界操作計画

⑦1872年にピサで死亡したが、彼の率いた政治運動は、イタリア共和党へと受け継がれ,1990年代まで実際にイタリアで活動的であった。

とはいえ実際の明治政府で最も大きな役割を果たしたのが大久保利通だった様にイタリア統一運動においてはカブールの残した業績が抜きん出ていたのです。

 カブールの現実主義路線

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カブールはサルデーニャ王国近代化のための政策を積極的に推し進め、近代産業の育成・軍隊の近代化を進めた。

①通商協定がイギリス、フランス、オーストリア、その他各国との間で結ばれ、全般的に自由貿易関税が導入された。

②都市間の物流・交通を円滑化するために、全国の鉄道網を整備した。

③国家財政の基礎を固める為、強い反対を押し切って修道院を解散し、その土地を国有化した(1855年)。この過程で、カトリック信者のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は司教たちと共謀し、カヴールの提出した修道院廃止法案の可決を妨害した。これに憤激したカヴールは首相を辞したが、国王は彼に変わる保守派の政治家を見出すことができなかった。そのため、恥を忍んで再びカヴールを首相に指名せざるを得なかった。この「カラビアーナ事件」を契機に、カヴールは議会に続いて国王までもある程度コントロールできるようになった。

サルデーニャ単独では、オーストリアを破ってイタリア統一を達成することは不可能であり、イギリス、フランスなど大国の援助が必要であると考えた。その為にイギリス、フランスと同盟を結んで1855年クリミア戦争(1853年 - 1856年)に参戦し、1万5千の将兵クリミア半島に送ることで、サルデーニャの国際的地位の向上に努めた。 結果として、1856年のパリ講和会議に列席し、イタリアの窮状を各国に訴えるという当初の目的を果たした。

1858年7月、ナポレオン3世との間にプロンビエールの密約を結び、フランス軍の対オーストリア参戦を約束させた。

 こうしてピエモンテ州トリノロンバルディア州のミラノ、リグーリア州ジェノバを結ぶ工業地帯「第一のイタリア」が現出。ただしこの地域には「第二次世界大戦の最中にナチス・ドイツの占領下に置かれた」黒歴史が存在します。

イタリア社会共和国(Repubblica Sociale Italiana、RSI、1943年〜1945年)

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ローマ以北のイタリアに存在した国家。北部・中部イタリアを支配する国家として2年近く体制を維持し、第2のイタリア・ファシズム政権として機能した。対外的にはドイツの衛星国であり、親衛隊やドイツ国防軍の強い統制を受けた。

後の戦勝国となる連合軍各国からはイタリア王国から分離したRSIを正当な政府と認めず、建国初期にガルダ湖湖畔の町サロに政府をおいたことからサロ共和国(Repubblica di Salò)と蔑称した。法律上の首都はローマであり、実務上の首都もサロから状況に合わせてブレシアやガルニャーノ、ヴェローナなどに遷都が繰り返され、最終的にはミラノに政府中枢が設置されていた。

クーデターと休戦

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第二次世界大戦で枢軸国として参加したイタリア王国は、アメリカ軍を中心とした連合国軍のシチリア島上陸で本国占領の危機に晒された。此処に至ってアンブロージオ(Vittorio Ambrosio)参謀総長やカステラーノ(en:Giuseppe Castellano)将軍ら軍内部の休戦派とファシスト党穏健派、それに敗戦による王政廃止を恐れる王党派が反ムッソリーニで結び付いた。1943年7月25日、徹底抗戦を主張するベニート・ムッソリーニは国王と共謀した反対派勢力の政治的クーデターで首相職を解任され、グラン・サッソのホテルに幽閉された。

首相ピエトロ・バドリオ元帥はドイツに戦争の継続を約束しつつ、連合国との間で休戦交渉を進めていた。しかし交渉は難航し、9月8日には連合軍のドワイト・D・アイゼンハワー大将が了承無くイタリアの無条件降伏を宣言した。これにより前線の軍部隊は唐突に戦いの終わりを知らされる格好になった。イタリアと同盟を組んでいたドイツのアドルフ・ヒトラーは、かねてから計画していたイタリア北中部への進駐(アッシェ作戦、アラリック作戦)を発動、ドイツ軍はイタリアと、南仏・バルカンのイタリア占領地域へ進駐する。国王と政権の閣僚達はローマを捨てて連合軍の占領地域に避難した。

RSI政府の樹立

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イタリア地方に進駐を開始したドイツ軍であったが、バドリオ政権が寝返った以上、統治する上において同じファシストを奉じる勢力を作る必要があり、その白羽の矢を旧友ムッソリーニに立てた。ヒトラーの思惑の下、ドイツ軍のオットー・スコルツェニー率いる特殊部隊による9月12日のグラン・サッソ襲撃で救出されたムッソリーニは、9月15日に東プロイセンのラステンブルクでヒトラーと会談し「国家社会主義に基づいた共和制国家」の樹立に同意、9月18日に共和ファシスト党を創立、9月23日にムッソリーニ国家元首とするイタリア社会共和国が建国された。この国家は、ムッソリーニが元首と外務大臣を兼務し、形の上ではムッソリーニの独裁体制を復活させた。ムッソリーニは胃癌により衰弱していたが、ヒトラーはミラノやトリノジェノヴァなど北イタリアの大都市を破壊するより有効に活用したいと考えていた。

ムッソリーニファシスト党の強硬派によって築かれた新国家は王国政府の休戦を「不名誉な裏切り」と非難し「名誉ある継戦」を主張、イタリアはローマ以北のイタリア社会共和国とローマ以南のイタリア王国に別れての内戦状態に突入した。


ドイツや日本をはじめとした枢軸国側は新政権を承認し、日本は大使館をヴェネツィアに置いた(大使は日高信六郎)。イタリア社会共和国は枢軸軍が占領していたローマを法的な首都に定めたが、治安上の問題からミラノとヴェネツィアの中間に位置するサロを臨時首都とした。なお、イギリスやアメリカ、中華民国ソビエト連邦などの連合国側は承認しなかった。

衛星国としての出発

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独立国として組織されたイタリア社会共和国であったが、実質的にはドイツの影響下に置かれた傀儡政権であった。旧オーストリア領であった南チロル地域の一部を既に併合されていたオーストリア本国同様に編入し、工業地帯で生産された銃器や輸送車両、残っていた備蓄物資のみならず、農作物までがドイツ本国用の配給物として持ち出された。さらには軍事には関係のない美術品までも接収されるなど、半ば占領地のような扱いまで受けた。また通常ドイツの占領下に設置される親衛隊の親衛隊及び警察指導者(「イタリア」親衛隊及び警察最高級指導者、ドイツ語: Höchste SS- und Polizeiführer „Italien“)が設置され、カール・ヴォルフ親衛隊大将がその任に当たった。ムッソリーニ自身も建前上は独裁者として振舞ったが、自らの実情が「ロンバルディアナチス」の指導者に過ぎない事を自覚していた。税収確保や憲法など国の根幹部分も未整備で、ドイツによる占領統治と同質の状況下であった。

ドイツはムッソリーニの挫折したファシスト体制の復興を治安維持の円滑化以上に見なさず、ユダヤ人弾圧政策などイタリア・ファシズムが乗り気でなかった行為を強硬に推し進めた。またヒトラームッソリーニに自身の罷免に賛同したファシスト党幹部への粛清を強制し、最終的にムッソリーニエミーリオ・デ・ボーノ将軍や娘婿でもあるガレアッツォ・チャーノ外相らを始めとするクーデターに参加した閣僚や将軍らを処刑した。

経済政策

RSI政府は労働組合ストライキを禁止しつつも、労働者階級に一層の人民主義を訴えた。ムッソリーニは資本主義によってもたらされる多くの決定が国を不幸にしていると演説した。彼は北イタリアの民衆が望むなら、王党派との協力で歪んだファシスト体制を本来の形(=修正マルクス主義の発展)へと戻すと宣言した。演説の中でムッソリーニは自らが幼少期から青年期に至るまで培って来たマルクスへの心酔を捨てた事は一度としてなかったし、これからもないと断言した。1940年に企業の完全国営化を推進する予定でいたが、戦争に関する理由からこれを延期していたと述べた。

RSI政府は君主制の撤廃に続き、100人以上の社員を持つ会社すべてを国営化する路線を進めた。経済政策は、社会党時代の友人でマルクス主義理論家のニコラ・ボムバッチが作成した経済理論に基いて行われた。これは「経済の社会化」と呼ばれている。ムッソリーニヒトラーとの個人的友情を背景にドイツからの支援を引き出していたが、両者の遣り取りの中でムッソリーニは同じマルクス主義からの派生を信奉するソヴィエトよりも、資本主義・民主主義のイギリスの方が本質的にファシズムの敵対者であると発言した。

イタリアの労働者集団のうち、残っていた社会主義者共産主義者の多数は、この経済の社会化を欺瞞とみなし、1944年3月1日の大規模ストライキを起こした。

大戦末期の抵抗

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ムッソリーニは枢軸国側の敗北が決定的となる中で、「ミラノを南部戦線のスターリングラードにせねばならない」と訓示するなど、諦観の漂う演説を兵士達に行っている。ドイツ国内やスイスでの亡命政権樹立も検討されたものの、国内で最後まで抵抗を組織する事が議決され、実際にイタリア社会共和国軍はより良い成果を上げて連合軍を苦しめた。イタリア社会共和国軍の各部隊は元々パルチザン掃討を期待されてドイツ軍から創設を段階的に許可されたが、その戦果は当初予想されていたものを遥かに凌ぐものだった。

既に旧イタリア軍兵士や国家憲兵の残党兵が義勇軍を各地で組織しており、国防大臣であったロドルフォ・グラツィアーニ元帥は義勇軍の一本化と平行してドイツ軍の支援の下、新たな正規軍(ENR)の編成を進めた。1943年10月16日にドイツ陸軍とラステンブルク軍事協定が締結され、ドイツ軍式の訓練と装備を導入する事が決まった。この協定によりRSI正規軍4個師団の編成が決まり、RSI軍は自主的な義勇軍部隊と他国軍の支援による正規軍部隊という二つの要素を持つ事になった。また陸海空軍とは別に、治安を専門とする国家憲兵ともいうべき部隊も各所で組織され、戦列に加わった。


正規軍の内、3個師団はRSI軍の中核を成すリグリア軍集団ピエモンテ州駐屯)に編入され、第4師団「イタリア」のみがアブルッツォ州に駐留する独第14軍に加えられた。1944年12月26日に第1師団『モンテ・ローザ』と第3師団『サン・マルコ』は冬の嵐作戦で米第92歩兵師団「バッファロー」への攻撃を割り当てられた。両師団の攻撃は成功に終わり、米第92歩兵師団は損害を受けて敗北した。1945年2月に再び米第92歩兵師団はRSI軍と今度は攻め手として相対したが、第1師団「イタリア」に敗北して前進に失敗した。

ドイツ軍内に創設されたイタリア人義勇兵団「第一イタリア」も極めて良好な結果を出し、アンツィオの連合軍包囲網を破ってドイツ軍が脱出する時間を稼ぐ大功を果たした。親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは「同兵団は今や完全に武装親衛隊の一部となった」と賞賛して、同部隊を武装SS所属の擲弾兵旅団に格上げした。

 崩壊

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1945年4月、ヴォルフ親衛隊大将とイタリア戦線の主戦力であるC軍集団のハインリヒ・フォン・フィーティングホフ大将は連合軍への降伏を決定した。ドイツ軍の降伏はRSI政府にも通告されず、知りえたのはRSI軍の一部部隊のみであった。4月25日(パルチザンはこの日を「自由の記念日」と呼んだ)、RSI政府は事実上の政権崩壊に追い込まれた。元首ムッソリーニも4月27日に拘束され、法的裏付けを持たない略式裁判を経てパルチザンに射殺された。RSI軍は4月29日まで抵抗を続けた後、グラツィアーニ元帥の署名で降伏に同意した。

まさしく「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」というジレンマを観客に突きつけたボローニャ出身のパゾリーニ監督の遺作「サロ、またはソドムの120日(Salo、 or the 120 Days of Sodom 1975年、邦題『ソドムの市』)」の舞台に選ばれた時代…欧州においては「地続きの縁」がこうして、どこまでも根深く広がっている…

こうして世界は流転していく?