諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

全然ロマンティックじゃないロマン主義文学の系譜

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ロマンス (romance) という言葉は元来「(ラテン語で執筆される)正式な古典文化」を意味するラテン(Latin)に対して「(俗語で執筆される)民衆向け文学」というニュアンスでした。そして騎士道物語(フランス語:Roman courtois or Roman de chevalerie, 英語:Romance or chivalric romance, スペイン語:Libros de caballerías or Romance)、ピカレスク小説(英語: Picaresque novel、スペイン語: Novela picaresca)教養小説(ドイツ語: Bildungsroman)を経て文学的民族主義(Romantic nationalism)に行き着いた訳です。

そこに「恋愛を主題とする」というニュアンスを加えたのは一般にジュネーブ出身のスイス人ルソーとされています。何しろ「ルネサンス(Renaissance)」や「バロック(baroque)」なる言葉を(「ルイ14世様式」といった王朝由来の文化史区分に反対して)歴史用語として定着させたスイスの文学史学者ブルクハルト同様、Nationalism拡大に徹底抗戦するのがスイス人の伝統らしい。その反骨精神は「日本洋食の父」ユダヤ系スイス人のサリー・ワイル料理長が、日本滞在中にヴェネツィア(や北イタリアの中心地ミラノ)に多い米料理に(そのヴェネツィアの不倶戴天の商売敵だった)ジェノヴァ海将一族の名前を冠した「ドリア(Doria)」なる定番料理を残したくらいには激烈です(事情の詳細は不明)。さらに起源を辿るなら「吟遊詩人の世界」に行き着く事になるのでしょう。

  • フランスの記録に8世紀以降現れるジョングルール(jongleur)…低層階級に属する放浪の大道芸人

  • 同時期現れたミンストレル/メネストレル(英語: minstrel、フランス語:ménestrel)…いずれもラテン語で「召使い」「奴隷」を意味するミニステリアリス (ministerialis) に由来し、宮廷芸人を指す。一般に王侯貴族に専属として召し抱えられたジョングルールが起源とされるが、これを「魂を売る」行為と考え拒絶して在野に留まった「誇り高きジョングルール」の伝承も数多く残る。

  • ゴリアール/ゴリアード/ゴリヤード/ゴリャード(Goliards)…11世紀から12世紀にかけて北フランスからドイツにかけての地域でインテリ向けに風刺的ラテン詩を広めた大学神学科所属の遍歴学生。

  • トルバドゥール(Troubadour:男性型)/トロバイリッツ(Trobairitz:男性型イスラム文化圏からの影響を受けて11世紀の中世南仏宮廷に現れたオック語抒情詩の詩人、作曲家、歌手。リムーザン、ギュイエンヌ(Guyenne)、プロヴァンス、さらに、カタルーニャアラゴン王国ガリシア、イタリアで活躍したが、王侯貴族の一員ながらトルバドゥールとしても実績を残した十字軍戦士ギヨーム9世の孫娘アリエノール・ダキテーヌが英国王に輿入れする過程で北フランス及びイギリスへ伝播する過程でトルヴェール(Trouvère、主に12世紀後半に活躍した宮廷詩人)となった。その一方でアルビジョア十字軍(フランス語:Croisade des Albigeois, オック語:Crosada dels Albigeses, 1209年〜1229年)を逃れる為にシチリア王国パレルモ宮廷に逃げ込み(トスカナ方言の俗イタリア語で執筆されたダンテ「神曲(La Divina Commedia、1304年〜1321年)」に代表される様な)イタリア・ルネサンス文学の源流の一つとなる。

  • 托鉢修道会のラウダ(Lauda)やラウデージ(Laudage…おそらく10世紀頃より民間において俗イタリア語で歌われてきた詩歌を、13世紀に登場したドミニコ会やフランチェスコ会といった托鉢修道会の伝教師がイタリア北部で洗練させたもの。土地や富を蓄えることを否定して都市や農村を歩き回り、信者からの寄付のみで生活しながらキリストの教えに忠実に生きようとした彼らにとって、それを歌う事は重要な神への賛美であり、かつ聴衆から寄付を得る為の貴重な経済的手段でもあったとされる。おそらくこれもイタリア・ルネサンス文学の重要な源流の一つとなった。
    「托鉢修道会―中世後期の信仰世界―」

  • ドイツ語圏におけるミンネザング(Minnesang)…12世紀から14世紀のドイツ語圏における抒情詩と恋愛歌曲の伝統をさす。「ミネ」(minne)とは、中世高地ドイツ語で「愛」の意味であり、「ザング」(sang)は現代ドイツ語の「ゲザング」(Gesang)と同じで「歌」の意味である。したがって「ミンネザング」とは「愛の歌」の意味であるが、当時は特に恋愛を主題とした詩歌(とりわけ歌曲)については、「ミンネリート」(minneliet)と分類していた。このような分類がなされるようになったのは、時代が下がるに連れてミンネザングの内容が変容し、社会諷刺などが盛り込まれるようになって恋愛ばかりが取り上げられなくなったことによる。ミンネザングの作り手や演じ手は、「ミンネゼンガー」(Minnesänger)と呼ばれた。最も古い史料は、おそらく1150年ごろに遡り、12世紀後半には独自の伝統的手法で作詞を行なっていたが、12世紀末に入るとプロヴァンスのトゥルバドゥールや北フランスのトゥルヴェールの影響をこうむり始める。

 いずれにせよ13世紀以降騎士階層は没落し、ジョングルール達の主たる活躍の場は裕福になった市民階級が主催する町の催しとなり、宮廷音楽も15世紀までに多声化を迎えてこれを専門とする宮廷楽師や専門の作曲家達が現れ、職業としての吟遊詩人は消滅に向かいます。その一方で主君の妻娘に若い独身の騎士や廷臣が熱烈なプラトニック・ラブを捧げたり、領主が(十字軍出征や軍役で)留守中に開催される宮廷行事に潜り込んだ放浪の騎士や吟遊詩人が領主の妻娘を寝取る近松門左衛門「槍の権左」的世界観は新しい次元に突入します。

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ルネサンス以降の読書層拡大もあり、新たに台頭してきたのは個人間のプライベートな往復書簡や「常備軍の将校や、教会の聖職者として「口減し」される)領主の次男坊以下が(政略結婚の相手が見つからず)修道院に押し込められる王侯貴族の娘達と駆け落ちする」通俗読み物などでした。前者のテンプレートに選ばれたのが12世紀における実在カップルに起源を有する往復書簡文学の祖「アベラールとエロイーズ」あたり。後者を代表するのは「マノン・レスコー」あたりとなります

*「アベラールとエロイーズ(Abélard et Héloïse)」…12世紀における実在のカップルに起源を有する書簡交換文学の祖。「去勢」されて以降の男性側の変心が悲しい少女漫画的「すれ違い」文学元祖。

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*アベ・プレヴォー「マノン・レスコー(Manon Lescaut、1731年)」…実は大長編の一部だったが、この単元だけ人気を集めて後世にまで伝わった。この辺りの事情はエミール・ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書(Les Rougon-Macquart 、1876年〜1896年)」のうち「居酒屋(L'assommoir、1877年)と「ナナ(Nana、1879年)」ばかりが注目を集めて後世に影響を与えたのと同じ。投獄された怨念を叩きつけた未完の処女作「ソドム百二十日あるいは淫蕩学校(Les Cent Vingt Journées de Sodome ou l’École du libertinage、1785年)」を除き大半のマルキ・ド・サド文学は「それまで幽閉生活を強要されてきた世間知らずの小娘にはおそらく理解出来ないだろうが、攫いにきた男が善人である可能性は限りなくゼロに近い」と当時の流行を逆手に取ったスタンスから執筆されている。またコナン・ドイル卿のシャーロック・ホームズシリーズ中でも屈指でゴシック色が強いとされる「まだらの紐(The Adventure of the Speckled Band、1892年)」「ぶな屋敷(The Adventure of the Copper Beeches、1892年)「マスグレーヴ家の儀式(The Musgrave Ritual、1893年)」にそのバリエーションを見る向きもある。ちなみにこの系統の作品は岡本綺堂「半七捕物帳シリーズ(1916年〜1937年)」で真っ先に翻案されて(岡っ引きを主人公とする)捕物帳物の起源となった上に、戦前から戦後にかけて月刊少女雑誌に多くの作家が繰り返し日本に舞台を移した翻案作品を掲載し続け、少女漫画の世界を基礎づけた。その意味では「楳図かずお」の少女向け恐怖小説の源流とも言えるし、読者に「あら、どうしましょう? 私達って可愛いものと同じくらい猟奇が好き」と気付かせてしまった戦犯でもある。

岡本綺堂「半七捕物帳:奥女中」

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 そして通俗小説の世界は封建社会の秩序を揺るがすが故にハッピーエンドを許されぬ「不義密通(不倫や身分違いの恋)」の世界から、読者がハッピーエンドしか許さぬ(経済格差を超越する手段としての)「玉の輿」あるいは「逆玉」の世界に飛躍。マーガレット・ランドン「王様と私(The King and I、1944年)」に勇気付けられたか、思い切ってシーク(石油成金となったアラブ内陸部の族長)と現代欧米女性のラブストーリーを扱い始めた事が、ハーレクイン・ロマンスに女性向け恋愛小説界の覇者となる道を切り開いたりする展開となりました。

*恋愛小説は経済小説の起源でもあるんだよ? もちろん日本の女性読者にだって効くんだよ?

そうした世俗の動きを尻目に芸術家グループは18世紀末から19世紀前半にかけて「たとえ悲壮な最期が待つのみと頭では分かっていも、心の奥底から込み上げるこの衝動に忠実に生き様とする俺って選ばれたエリート」と自惚れる政治的ロマン主義へと傾倒し、王侯貴族と教会の権威を絶対視する欧州型普遍的価値観の残滓と最期の拮抗状態を保ちます。これが文学史上の「ロマン主義運動」という次第。

(後にカミュが指摘した様に)そこにそれぞれの英雄主義を糾合してイデオロギー化しようという試みは一切見受けられず、単なる自己陶酔の産物だったが故に大衆動員力も一切備えておらず、従って政治的成功を収める可能性など一切存在していませんでした。しかしながら、だからこそかえってそれゆえにその主観悲劇性が自己憐憫を肥大化させ、これの文学への投影が後世に思わぬほど深い爪痕を残す事になったともいわれているのです。

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 さて、どうやってここから私達の知ってる「Romantic」は派生したんですかね? 

フランス革命に失望してアメリカに理想郷を建築しようとしたサスケハナ計画の挫折で知られるコールリッジ。その絶望感を投影したコールリッジ&ワーズワース「抒情民謡集(Lyrical Ballads、1798年、1800年、1802年)」はロマン主義文学の著名な金字塔の一つとなった。
*現代日本人の観点から振り返ると、ここから派生したフィオナ・マクラウドらのケルティックルネサンス、ドイツにユダヤ教徒として生まれ、亡命後フランスでカソリック教徒として死んだ詩人ハイネの系譜が重要。特に後者は「タンホイザー伝説(Der Tanhaeuser-Eine Legende、1836年)」や「フォン・シュナーベレヴォプスキー氏の回想記(Aus den Memoiren des Herren von Schnabelewopski、1834年)」における「さまよえるオランダ人」伝承の紹介や「流刑の神々(Les Dieux en Exil,、1853年)」によってグリム兄弟のジークフリート伝承紹介と同程度にはワーグナーロマン主義形成に多大な影響を与えつつ、柳田國男民俗学と妖怪学の成立に重要な役割を果たした。「街道をゆく」シリーズ(1971年〜1976年)の一冊として発表された「オランダ紀行」の中で、司馬遼太郎はハイネが「古代ギリシャの神々が北欧神話で討伐対象とされる巨人や小人へと矮小化されていく時代」に反カソリック主義を代表するオランダ人を「魂と身体が分離に苦しむ精神的放浪者」として描いた点に注目する。カソリック文化に心酔する立場からハイネはさらに「ドイツ古典哲学の本質(Zur Geschichte der neueren schönen Literatur in Deutschland、1833年)」の中で「カール大帝ザクセン併合(ドイツ語: Sachsenkriege、英語: Saxon Wars、772年〜804年)こそがヴァイキング(北欧諸族による略奪遠征)とノルマン・コンクエスト(The Norman Conquest of England、1066年)の起源」とし、ザクセン選帝侯の庇護下で成立したルターの宗教革命とオランダ独立戦争(Tachtigjarige Oorlog(八十年戦争)、1568年〜1609年、1621年〜1648年)をその延長線上で掌握し、英国人についてオランダ人同様「魂と身体が分離に苦しむ精神的放浪者」のレッテルを貼る。現代日本人はこうした歴史を「天津神に屈服させられた国津神の怨念」と手を切る事によって成立した水木しげる画伯の妖怪漫画と相対化する理論武装を求められるのである。
ふたりのマクラウド―スコティッシュ・ケルトの誇り― / いやしの本棚
司馬遼太郎「街道をゆく〈35〉オランダ紀行」
ハイネ「ドイツ古典哲学の本質」
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②「カロ風幻想曲(Fantasiestücke in Callots Manier、1814年)」「夜曲集(Nachtstücke、1817年)」「ゼラピオン同人集(Die Serapionsbrüder、1819年)」といった幻想的短編集で後世に名を残したE.T.A.ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann、 1776年~1822年)。フランスやロシアのロマン主義運動に発端を与えた。

ギリシャ独立戦争(Greek War of Independence、1821年〜1832年)に参戦して病死したバイロン卿。「海賊(Le Corsaire、原作1814年、バレエ初演1856年)」なども有名だが、むしろ現代社会から振り返るとディオダディ荘の怪奇談義(1816年)の産物としてバイロン卿の男性愛人ポリドリが残した「吸血鬼(The Vampire、1819年)」で主人公兼著者に仕立て上げられドラキュラ伯爵の起源となった経緯の方が大きい。

*まぁ当人が両刀使いのイケメンで「バイロン卿が来たぞ!! 娘も息子も隠せ!!」 が良家の親御さん達の合言葉になってたくらいだから自業自得とも。「吸血鬼」の著者ポリドリも弄ばれて捨てられ最後は自殺した一人。まさしくブラム・ストーカーの恐怖小説「ドラキュラ(Dracula、1897年)」に登場するドラキュラ伯爵の原風景の一つ?
ディオダディ荘の怪奇談義 - Wikipedia

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④フランス7月革命(1830年)前夜にエルナニ事件(1830年)を契機に集結し欧州型普遍的価値観が完全に過去のものとなった二月/三月革命(1848年〜1849年)以降の時代に適応出来ず大半が自滅した青年フランス/小ロマン派。
*皮肉にも7月王政期に貴族へと抜擢され、二月/三月革命以降はルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン治世下での政争に敗れてベルギーへの亡命を余儀なくされた戯曲「エルナニ(Hernani、1830年)」著者のヴィクトル・ユーゴー自身は亡命先で発表した「レ・ミゼラブル(Les Misérables、1862年)」発表によって文学史上にその名を刻む事になる。戯曲「エルナニ」はその後ヴェルディによってオペラ化され「エルナーニ(Ernani、1844年)」として相応に歴史に足跡を残したが、今日においてはこの系譜はむしろ同じく7月王政期における体制派作家としてスタンダール「赤と黒(Le Rouge et le Noir1830年)」を史上最低の駄作と認定しつつプーシキンスペードの女王1834年)」を至高と絶賛し「クマ伯爵(Lokis、1869年)」がブラム・ストーカー「ドラキュラ(Dracula、1897年)」やガイ・エンドア「パリの狼男(The Werewolf of Paris、1933年)」にインスパイアを与えて近代吸血鬼譚や近代狼男譚の始祖の一人という称号も勝ち取ったプロスペル・メリメの「カルメン(Carmen、1845年、ビゼーによるオペラ化初演1875年)」によって上書きされる展開となった。その一方で「小ロマン派の旗手」ゴーティエは芸術至上主義を掲げて「死霊の恋(La Morte amoureuse、1836年)」「ある夜のクレオパトラ(Une nuit de Cleopatre、1838年)」ロマンティック・バレエ脚本「ジゼル(Giselle、1841年)」「ポンペイ夜話(Arria Marcella ou Souvenir de Pompèi、1852年)」といった作品を後世に伝えつつ「次世代詩人」ボードレール悪の華(Les Fleurs du mal、禁書指定された初版刊行1857年、官警の検閲に対応した第二版刊行1861年)」の死後出版された第3版(1868年)に序文を寄せてちゃっかり得点を稼いでいる。
メリメ(Prosper Mérimée、1803~70)
奇妙な世界の片隅で 人狼と戦争 ガイ・エンドア『パリの狼男』

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プーシキンスペードの女王(Пиковая дама、1834年)」や、ホフマンの影響を色濃く受けたウクライナ出身のゴーゴリ「タラス・ブーリバ(Taras Bulba、1834)」「ヴィイ(Viy、1835年)」「肖像画(1835年)」といったロシア・ロマン主義文学

プーシキン Alexander S Pushkin 岡本綺堂訳 世界怪談名作集 スペードの女王
*1 ~ヴィイの話
ゴーゴリ原作「ヴィイ」「肖像画」 

ゴーゴリ「肖像画(1835年)」
ゴーゴリ作「タラス・ブーリバ」(Taras Bulba、1834)

⑥ロシアの無政府主義者バクーニンに唆されてドレスデン蜂起(1849年)に参加してスイスへの亡命を余儀なくされたワーグナー
*その後「ローエングリン(Lohengrin、1850年)」をこよなく愛する「狂王/メルヒェン王」ルートヴィヒ2世 (Ludwig II、バイエルン国王在位1845年〜1886年)のパトロネージを受ける事でギリシャ悲劇復活を志向した「ニーベルングの指環四部作( Ein Bühnenfestspiel für drei Tage und einen Vorabend "Der Ring des Nibelungen"、1848年〜1874年)」とそれを上演する為に最適されたバイエルン舞台祝典劇場を獲得したが、代償として王政打倒を志向する政治的先鋭性を放棄する展開を余儀なくされ「ブルクハルトの弟子」ニーチェとの決別を余儀なくされている。ちなみに当人は嫌がっていたが、普仏戦争(1870年〜1871年)とドイツ帝国建国を祝って楽劇「ワルキューレ(Die Walküre、1856年作曲、1870年初演)」が先行上演されている。有名な「ワルキューレの騎行」は全体でいうと「人間性に目覚める以前のワルキューレのマシーンの様な冷酷さを印象付ける」箇所なのだが、こうして普仏戦争ドイツ帝国のテーマの様になってしまったのだった。

*さらにYoutube上では一時期「地獄の黙示録(Apocalypse Now、1979年)」を模倣する形で太平洋戦争(1941年〜1945年)開戦を告げた真珠湾攻撃の映像や映画「パールハーバー(Pearl Harbor、2001年)」の映像をかぶせるのが流行。

*さらに最近日本の某アニメが「全部入り」のパロディーをやらかし、それが国際SNS上のアニメ漫画GAMEファン層を沸かせる事に。かえって時代を超越するコンテンツとして生き延びる事になったという次第。

*あとロマンチック・オペラ「ローエングリン(Lohengrin、初演はワーグナーがまだ政治犯としてスイスに亡命中だった1850年ヴァイマル劇場)」の挿入歌「婚礼の合唱」も有名。これはメンデルスゾーンの結婚行進曲同様に1858年のプロイセン王太子フリードリヒ3世とイギリス王女ヴィクトリアの結婚式で初めて「結婚行進曲」として演奏されて以降定番化した。18世紀にはフランス宮廷の流行が欧州じゅうで流行したが、19世紀にはその対象が英国へと推移したのだった。実際、ナポレオン戦争(1804年〜1815年)後に製作されたイタリア・オペラは英国や英国史をモチーフとした作品ばかりとなる。

ちなみにややこしい事にドイツでは(フランスにおいては18世紀後半、小説や詩といった文学と連動する形で展開した)アカデミズムに支配されたサロンからの分離運動が「ロマン主義」と呼ばれたりする。しかもここでいう「ロマン主義」とは芸術家の内面を宇宙や世界、歴史といった客体と共振しようとするドイツ・ロマン主義(絵画の世界では反具象的傾向から抽象画に流れた)だったりする。例えばミュンヘンで活躍した芸術家集団「青騎士(der Blaue Reiter、1911年〜1913年)」のカンディンスキーは名前の由来について「青騎士の名前は、ジンデルスドルフの東屋のコーヒーテーブルに我々がいたときに考え出された。二人はともに青が好きで、マルクは馬、私は騎士が好きだった。そうしてこの名は自然に出てきたのだ」「青が深まるごと、なおいっそう人間に無限への思慮を呼び起こし、純粋さや、ついには超感覚的なものへの憧憬を喚起する。青は空の色なのだ」と書いている。実はカンディンスキーはロシア人であり、1918年に革命後のモスクワに戻り、前衛芸術を「革命的」と認めるウラジーミル・レーニンに気に入られて政治委員などを務めた一方、ヨシフ・スターリンからは「反革命的」と認定されて彼が共産党書記長に就く直前の1921年にドイツへと戻っている。そうした評価の揺らぎ方自体も「ロマン主義的」と言えなくもない。

⑦イタリア統一運動(Risorgimento、1815年〜1871年)にほぼ全財産を注ぎ込んだアレクサンドル・デュマ
*実は英国文学がフランスで全く知られていなかった時代にシェークスピア史劇を研究して「ダルタニャン物語(D'Artagnan、1844年〜1851年)」などを残した英国通でもあった。イタリア戦争に関してはガルバルディの熱狂的ファンであった一方でカブールを毛嫌いしていたという。ユーゴーと並んで「自分の人生と歴史をつなげたがったフランス文学の二大巨頭」とされる。

1220夜『モンテ・クリスト伯』アレクサンドル・デュマ|松岡正剛の千夜千冊

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*その一方で同時代のバルザックは18世紀啓蒙学(中でも百科全書派)の網羅主義を継承して「人間喜劇(a Comédie humaine)」を標榜しあらゆるフランス人の人生の小説化を試みた。この方向性は「実証的自然科学小説」を標榜するエミール・ゾラ「ルーゴン=マッカール叢書(Les Rougon-Macquart 、1876年〜1896年)」に継承される事になった。
人間喜劇 - Wikipedia
ルーゴン・マッカール叢書 - Wikipedia

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⑧日本国内での自由民権運動展開に限界を感じ朝鮮王朝をクーデターで打倒して現地に理想郷を現出させようとした大阪事件(1885年)に危うく巻き込まれそうになった北村透谷。その後クリスチャンとなり、最後は発狂して自殺。
*後に曲亭馬琴滝沢馬琴)「南総里見八犬伝(1814年〜1842年)」の影響を色濃く受けた処女至高論を展開。あと「どうして政治的ロマン主義者達はあそこまで身持ちが悪かったか」について擁護論を書いてる。
北村透谷「処女の純潔を論ず(富山洞伏姫の一例の観察、1892年)」
北村透谷「厭世詩家と女性(1892年)」

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⑨平田派国学を学んで王政復古に陶酔し文明開化を拒絶し抜いて地元住民から狂人扱いされた父(「夜明け前」の主人公のモデル)や北村透谷などの影響を色濃く受けた島崎藤村。英国ロマン主義文学におけるワーズワース同様、当人に政治に熱狂する性癖は見られない。

*「日本自然文学の完成者」としては「破戒(1905年)」や「夜明け前(1929年〜1935年)」を残す。
本当は小悪魔的存在として描かれていた「はつ恋(「若菜集(1897年)」収録)」のヒロイン

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系譜的に整理してみるとこんな感じ?

  • 「警官隊が殴り掛かってくる」系ロマン…「政治や歴史を志向した」というが、方法論が根本から間違っていたおり、成功例なし。カミュにそれをしたサルトルアンガージュマン(Engagement、政治参加した文化人による社会主導)を信じる立場から激怒した。
    *ちなみに
    70年代安保と連動したフォーク運動にも同様の側面があって「ただあなたの優しさがこわかった」が、元来は「ぬるま湯的日常は、革命運動に身も心も捧げつくす決意を鈍らせるので危険」」とする警戒心を意味していた事を忘れたかぐや姫神田川(1973年)」や、「卒業したら政治活動からも卒業だよ」と開き直ったバンバン「いちご白書をもう一度(1975年)」を残している。
    30年以上経って初めてしった名曲「神田川」とかぐや姫~「ただあなたの優しさが怖かった。」の意味: 技術戦略アドバイザ/開発テクノロジーコンサルタント ハシモト・タカナリのエンジニアリング日記

  • 「怪物が襲い掛かってくる」系ロマン…「悲壮な最期を覚悟した英雄的人生を志向した」というが、彼らが作品中で自らを仮託した「悲劇的/英雄的キャラクター」達は次第にその怪物性ばかりが誇張される様になっていく。
    *その最終的完成型がいわゆる「ユニバーサル・モンスターズ(Universal Monsters、米国の映画会社ユニバーサル・ピクチャーズ1920年代から1950年代にかけて制作した恐怖映画に登場する怪物達)」となった。それまでにH・G・ウェルズ「透明人間(The Invisible Man、1897年)」や、ガストン・ルルーオペラ座の怪人(Le Fantôme de l'Opéra、1909年)」や、「ミイラ再生(The Mummy、1932年、1921年におけるツタンカーメン王墓発見に便乗しようとしたオリジナル映画)」や、「大アマゾンの半魚人(Creature from the Black Lagoon、1954年、「キングコング(King Kong、1933年)」成功にあやかろうと「陸上の現代女性に恋をした古代水棲生物の悲恋」を描いたオリジナル3D映画)」が加わっている。そしてその過程で完全にマンネリ化してしまい、飽きられて「原子怪獣現わる(The Beast from 20,000 Fathoms、1953年)」や「ゴジラGodzilla、1954年)」といった巨大怪獣映画に興行成績で完敗したり、
    藤子不二雄の「怪物くん(1965年〜1969年)」の元ネタにされたりと零落の一途を辿るのである。映画がカラー化していく時代には一応、英国ハマープロがリバイバルに成功している。しかし今度はカンフー映画の要素を取り入れた「ドラゴンVS.7人の吸血鬼(The Legend of the 7 Golden Vampires、1974年)」にまで行き着いてしまうのである。そして、ここからさらにゾンビ映画(「吸血ゾンビ(The Plague of the Zombies、1965年)」なくして「ナイト・オブ・ザ・リビングデッドNight of the Living Dead、1968年)」なし)やキョンシー映画やスターウォーズ・シリーズ(当時ハマー恐怖映画の顔だったピーター・カッシングクリストファー・リーが悪役に!!)が派生する。
    http://screenrant.com/wp-content/uploads/universal-monster-movies-reboot.jpg
  • 「女が男を破滅させる」系ロマンス萩尾望都画伯は古くから「女性と対等な恋愛が出来るのは精神的に成熟した男性だけだが、ロマン主義文学者は明らかにそういうタイプではなかった。女は母親か処女か娼婦。いずれにせよ全て男が孤高の精神的高みの障害物扱い」と断言してきた。正直21世紀から振り返ると、当時はこの図式をただ男女逆転させただけとしか思えないウルトラ・フェミニストのバーバラ・ウォーカーに傾倒したりしていて微妙な側面もある。しかしまぁ「人間には、特定のイデオロギーから脱却する為に、それと正反対のベクトルを有するイデオロギーに熱狂的に没入しないといけない時期もある」とする立場を選んでしまった手前、ここではあえて判断を差し控える事にする。
    バーバラ・ウォーカー「神話・伝承事典」検証ノート
  • それはそれとして「ロマン主義音楽家」シューベルトが、巨匠ゲーテの「若い頃は清純な存在見掛けると、幼児的残酷性から蹂躙したくなったものです」と激白した「野ばら(Heidenröslein、1771年、シューベルト作曲1815年)」や「お嬢さん(私みたいな)口達者な男に気をつけないと滅茶苦茶にされますよ(これで事前警告はおしまい。それでも引っ掛かったら自己責任)」なんて内容の「ます(Die Forelle 、シューベルト作曲1817年)」に曲をつけてこれがドイツじゅうの居酒屋で男達に嬉々として合唱されたり、パーシー・シェリーが本妻と愛人に「三人で仲良く暮らせないか?」と提案して双方から殴り倒されたり、ワーグナーが「(以降心変わりする可能性が途絶える)死の瞬間まで、女の真心の恒常性など信じられぬ」、北村透谷が「純潔を保った処女だけが至高の存在で、他の女は全て娼婦」と発言したりといった逸話に女性側が「万年少年」ピーターパン的不穏さを嗅ぎつけるのもまた、致し方のない事だったりする。

    *「純潔を保った処女だけが至高の存在で、他の女は全て娼婦」…この問題については与謝野晶子が痛切なカウンターを食らわせていたりする。欧米の歴史家はダニエル・デフォーロビンソン・クルーソー三部作(1719年〜1720年)」における「プロテスタントの克己精神」と「複式簿記による自己管理」を関連付ける描写に近代人の萌芽を見るが、同時代の日本に目を向けると貝原益軒「和俗童子訓(1710年)」に「娘が伊勢物語源氏物語のような軽薄な恋愛絵巻に嵌まり、芝居に通って困ります」という商家の大旦那からの相談に「反対するだけ逆効果です。それより読み書き算盤を叩き込み、家計簿と日記をつける習慣を確実に身に着けさせなさい。そうやってしっかり自己管理が出来ていれば、そういうものに入れ込み過ぎて自らの人生を破滅させる心配もしなくて済むのです」と答える場面が出てくる。要するにここでも「恋愛小説こそ経済小説の源流」というテーゼが蒸し返される事になる。現代小説ならヒロインの超能力が遂に発動したとしか思えないタイミングで思い人の屋敷が全焼し、二人の関係を邪魔してきた発狂した妻が焼死して思い人も失明して片腕を失った現場に乗り込んだヒロインが「オホホホ、私今や相応の資産家となりましたから、こんな事しても召使いとして隷従してる訳ではありませんのよ」と断言して思い人の膝の上にどっかりと座り込んで勝利宣言するシャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア(Jane Eyre、1847年)」の展開は壮絶極まりないが、これもこれで「人間には、特定のイデオロギーから脱却する為に、それと正反対のベクトルを有するイデオロギーに熱狂的に没入しないといけない時期もある」とする立場を選んでしまった手前、ここではあえて判断を差し控える事にする(ちなみにこの手口を取り入れた吉田秋生吉祥天女(1983年〜1984年)」にインスパイアされて夢枕獏が「陰陽師シリーズ(1986年〜)」執筆に着手して腐女子/貴腐人からの支持を得る展開もあった)。

    その一方で「最後のロマン主義作家」ともいわれる事もある妹のエミリー・ブロンデは「嵐が丘(Wuthering Heights、1847年)」の中でヒースクリフとキャサリンの世代を超えた超常的(中二病的)恋愛を描き切ってトルーマン・カポーティティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany's、1958年)」の主人公まで嫉妬させている。「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス(Frankenstein: or The Modern Prometheus、1818年)」を残したメアリー・シェリー(パーシー・シェリーに「三人で仲良く暮らせないか?」と提案されて殴りかかった時は愛人の方だったが、のちに後妻に収まる)と併せ「万年少年」ピーターパン揃いのロマン主義文学の世界をあえて土足で踏みにじった侵犯者(しかも結論からいえば彼女達の方が生き残った)として賞賛に値する。
    与謝野晶子 私娼の撲滅について - 青空文庫
    与謝野晶子 「女らしさ」とは何か - 青空文庫

    ここで興味深いのがファム・ファタール(仏:Femme fatale、男を破滅させる魔性の女)の対語がオム・ファタール(仏:Homme fatale、男を破滅させる魔性の男)という点。そういえばジゴロ(gigolo、フランス語源で、フランス語辞書Larousseラルースには「年上の女性(と付き合い、その女性)から援助を受けている、あるいはどのように生活を成り立たせているのかはっきりしない、若い男」、 CNRTL辞書には「エレガントな(洗練された)若者で、どのように生きている(生活している)のか不明の者」とある)にも一応ジゴレット(仏gigolette、男性に寄生して生きてるキャバクラ嬢やホステス)という対語があが、まず聞かない。対象関係が完全に歪になっているのである。

    そして、この分野では米国女流SF作家C・L・ムーアがノースウェスト・スミスシリーズ第1作として発表した「シャンブロウ(Shambleau、1933年)」なんて傑作を残しているが、このシリーズの特徴は原作者が想定した「最高のイケメン主人公」が、何故か「受け専」で毎回絶世の美女が持ち込むトラブルに巻き込まれ(本人が怪物である事もあれば、怪物に追われてる事もあるが、いずれにせよ当人は絶対に助からない)イケメン少年助手に救出されて生還する筋立てにある。これに鑑みて、もしかしたら女性が心の奥底に抱えてる「闇」の方が、男性が心の奥底に抱えてる「闇」よりはるかに深い事が、この「歪さ」の原因となっているのかもしれないという指摘もなされている。

とどのつまり、歴史的用法に従うなら「Romantic」という言葉の原義は(数々の読者の心にトラウマを残した)藤子不二雄「流血鬼(1978年)」 の最後の台詞「気づかなかった。赤い眼青い肌の美しさに。夜がこんなに明るく優しい光に満ちていたなんて。」あたりに集約されそうなんですね。かつてフランス・ヌーベルバーグ映画の旗手だったゴダール監督は「泳ぎ方も知らないのに海に飛び込んで生還する醍醐味」と表現してました。つまり「若気の至り」から始まり、決死の状況があって、決死の覚悟もしばしば出来てるけど、客観的に見れば助かる可能性なんてゼロで脳内はアドレナリンでどっくどく状態。そうした状況下、思わぬ形で「出口」が開けるのが良いらしい。「絶対開かない」と納得してしまっても、「ちゃんと手順さえ踏めば絶対開く」と判明してしまっても、その時点でゲームオーバー。そういえば最新の心理学によれば若者は次々と「馬鹿げた事」に挑戦したがる一方で、「本当に馬鹿げた事」と納得してる事には絶対手を出さないそうです。それに対応する心理なのかもしれません。

さて、これで私達の知ってる「Romantic」の再発見に成功したといえるんでしょうか?

ロマンチック【romantic】の意味 - goo国語辞書

[形動]現実を離れ、情緒的で甘美なさま。また、そのような事柄を好むさま。空想的。「―な夢にひたる」 

小田急ロマンスカー - Wikipedia

http://www.agui.net/oer/oer3100-91h-aisyuuya.jpg

ロマンスカー」は和製英語であり、英語圏の人からは理解されにくい。60000形MSE車がブルネル賞を受賞した表彰式の際に、小田急の担当者が「6両と4両の2編成がキスをするからロマンスカーなのか」と現地の人から質問されたというエピソードもある。

この呼び方自体は戦前から存在し、1934年ごろの江の島海水浴宣伝のパンフレットに「ロマンスカーは走る」「大東京のセンター新宿から」という文言が掲載され、電車の車内の写真にも「小田急ロマンスカー」と説明がつけられていたという。

終戦後の1949年ごろ、新宿に存在した映画館「新宿武蔵野館」を復旧改装するにあたり、恋人同士が楽しく映画をみられるように二人がけの座席を館内2階に設けたところ、「ロマンスシート」としてマスコミにも取り上げられ、ちょうどその頃に運行を開始した小田急の特急車両が2人がけの対面座席を採用したことから、「ロマンスカー」と呼ぶようになったのが、小田急における「ロマンスカー」という命名のはじまりといわれている。

自分でもわからなくなってきました…というか、もしかして「(本当はミャオ族の求婚儀礼が起源かもしれないという説まである)日本式バレンタインデー」くらいややこしい話になってる?

途中に「マルクス主義ヒューマニズム」とか「1970年代的ヒューマニズム」といったキツい類が挟まれてそうなのがなんとも。

*1:ヴィヰをつれて來い!ヴィヰを迎へに行け!