諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

啓蒙思想とロマン主義の狭間とその先

日本語環境でロマン主義について検索すると、すぐ「18世紀啓蒙主義を支えた合理主義に反発。不条理や神秘に没入して勝利を収め、その熱狂は世紀末まで続いた」といった定義に突き当たります。

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しかし、本当でしょうか?

啓蒙思想によるキリスト教教理の変質

啓蒙(Aufklaerung)という言葉が用いられ始めたのは18世紀である。ドイツでプロイセンのフリートリッヒⅡ世とそれを取り巻く人々により唱道された。フランスではジャン・ジャック・ルソーなどを経て、フランス革命として具体化する思想であるが「啓蒙」に当たる語彙は持たない。ドイツ語動詞「アウフクラーレン」は、知識を伝え、それにより認識を深めさせるという意味で、17世紀の初め頃から用いられていた。言葉のもとの意味は、照らす、明らかにする、というものである。英語ではEnlightenment を用いる。その点、日本語の啓蒙も似ていて、蒙は暗いこと、すなわち愚か、啓は教える、開くで、朱子が出典のようである。一般にヨーロッパ語では「照らす」という言葉が知的な働きかけの意味を帯びる場合が多い。


啓蒙の運動が「蒙」として扱うのは、伝統、因習、権威への従順、要するに理性によって理解することなしに受け入れている蒙昧さである。それを照らすのは理性の光である。啓蒙は後の時代には一般用語として語られるようになっているが、用いられ始めた時は一つの運動のキャッチワードであった。

フランス語にはアウフクレールング、エンライトメントに相当する言葉はない。この内容を表わすために用いられるのは「リュミエール」(光り)という語彙である。啓蒙時代のことをリュミエールの時代、あるいは哲学的世紀、あるいは理性の時代という。また啓蒙思想のことを単にフィロゾフィーと言う。イタリー語では「イ・ルミ」乃至「イルミニスモ」、スペイン語では「イルストラシオン」を用いる。いずれも「光り」「照らす」という意味のことばを使う。

暗いものを照らすという言い方は従来のキリスト教でも用いられたが、照らすのは聖霊であった。啓蒙主義では理性が照らすと主張される。啓蒙思想は理性で照らして歴史を進歩させることを目指す。啓蒙思想の生んだ最も大きい事件はフランス革命である。

宗教的寛容

合理的に考える人たちはこれまでの宗教の不寛容や非正統的なものの抑圧を批判する。そこで寛容を重視するのであるが、寛容重視には一つの前提があった。それは権力が宗教を指導するというエラストゥスの考えである。換言すれば、国家と教会、政治と宗教の分離を厳密には考えていない。

教会と国家の分離は、分担領域の違いという点から既に論じられていたが、啓蒙思想においては分離の考えがないままに、宗教を内面の問題とし単なる私的なものとする。

寛容(トレランス)という言葉が用いられるようになるが、言葉の意味が従来とは違って来ている。すなわち、この言葉は本来苦痛を忍ぶことを意味し、迫害される側で使うものであった。それが権力を持つ側のものとして語られるようになる。権力を持つ者にとっては、異質的な信仰は問題にしなければ苦にならない。つまり、これは緩くしておくこと(ラティテュード)、無関心(インディファレンス)にほかならない。
大日本帝國制定の為に欧州留学した伊藤博文は(マルクス主義にほぼ全面的に流用された「今日のフランスにおける社会主義共産主義(Der Sozialismus und Kommunismus des heutigen Frankreich, Leipzig 1842, 2. Aufl. 1847年)」の著者として名高い)ローレンツ・フォン・シュタインに師事し、この考え方を直接伝授されている。当時の伊藤博文の日記には、その時の感動が克明に記されている。

理神論(Deism)

理神論は普遍的神観念を神として立てたものである。その発想様式はキリスト教的であるから、他宗教の人はこれに必ずしも同調しないと思われるが、そこで考えられている宗教は普遍宗教である。
*スイスの文化史学者ブルクハルトはこれを「キリスト教からキリスト教的なるものを全て排除し尽くそうとする試み」と表現した。

理神論では創造者なる神を時計を作る時計師になぞらえて理解する。すなわち、その人がいないと時計は出来ないが、一旦出来上がると、作った者の手を離れる。摂理が否定され、被造物の自立性が考えられる。神はあることはあるが、遠くにある。神は現実に対しては関わって来ない。したがって啓示もない。
*これ実は「ムハマンドは最後の預言者である」としたイスラム教の影響とする説もある。

理神論は一時代の流行思想として終わったかのようであるが、過去の問題ではない。特に、近年、諸宗教の対話や共通項の探究が語られるようになっているので、我々は深く考えておかなければならない。

それでは、フランス革命こそ勃発させたが一時代の流行思想として終わってしまった次元における理神論とは一体どういう内容だったのでしょうか。

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最高存在の祭典(La fête de l'Être suprême)Wikipedia

フランス革命期、ジャコバン派独裁下のフランス共和国で、1794年5月7日の法令に基づいて6月8日にテュイルリー宮殿で行われた宗教祭典。

フランス革命が絶頂に達しジャコバン派独裁が確立した時期で、恐怖政治がフランス全土を覆っていた。ジャコバン派は人間の理性を絶対視し、キリスト教を迫害しカトリック教会制度を破壊した。同時に恐怖政治は美徳に基づくべきという理想を持っており、キリスト教に代わる道徳を求めていた。また、国内は不安定さを増し革命政府は祖国愛に訴えて革命の危機を乗り越える必要があった。

これらの事情からキリスト教に代わる理性崇拝のための祭典を開く必要に迫られていた。ロベスピエールは「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と語ったという。キリスト教の「神」に代わるもの、それが「最高存在」である。その考え方の背景にはルソーの「市民宗教」の主張があった。

朝8時、ポン・ヌフの大砲を号令として鳴り響き、人々の参集を求めた。テュイルリー宮の正面に向かって、樫の枝を持った男と薔薇の花を抱いた女たちの行列が進む。ロベスピエールが「最高存在」に敬意を表し「明日から、なお悪行と専制者と戦う」ことを誓った。その後シャン・ド・マルスまで行進し、そこで無神論をかたどった像に火を放ち祭典は終了した。演出は画家のジャック=ルイ・ダヴィッドによってなされた。
*この祝祭の一番のシンボルはシャン・ド・マルスに作られた巨大な「山岳(天然の岩石を積み上げ、樹木を植えて造形)」であり、その頂上には「自由の木」が植えられていた。ここから出発した「農耕の女神」が牛車に乗って会場に据えられた巨大な「人民の像」の前まで進んだ。

*もしかしたら「人類にとって最も自然な姿たる農本主義」に回帰すべくフランスの交易拠点と工業拠点を破壊し尽くしたので、その行為を正当化する必要にもかられて行った祭典でもあったかもしれない。どう考えたって絶対フランス国民の生活は以前より不自由になった筈だし。

「小京都主義」VS「小京都」 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

世界史の窓:最高存在の祭典

ロベスピエールが構想し、画家ダヴィドがその演出にあたった。左派のエベールらが進めた「理性の崇拝」を否定したロベスピエールは、革命の共和政と自由の理念を「最高存在」、つまり神として崇拝し、祭典を挙行することを国民公会に提案し、採択された。祭典はパリを中心に全国で実施されたが、この祭典を強行したことでロベスピエールの独裁に対する反発が強まり、50日後のテルミドールのクーデタでの失脚となる。ダヴィドの演出は古代ギリシアの祭典を模範としたものであったが、シンボルの多用、音楽、マスゲームなど、大衆動員による集団芸術の先駆といえるものであった。

(引用)6月8日、最高存在の祭典は行われた。朝8時、パリのセクションはチュイルリにむかうように要請されていた。儀式は、画家でロベスピエールの心酔者ダヴィッドによって演出された。クライマックスでは、ロベスピエールが「心理の松明」を手に、「無神論」や「エゴイズム」などの偶像を燃やす。するとそのあとに「知恵」の女神があらわれる。ついで会場はシャン・ド・マルスに移される。セクションがアルファベット順に並んで進み、8頭の牛が曳く自由の凱旋車がつづく。広場の中心には「自由の木」のたつ人工の丘、その脇にはギリシア風寺院と、人民を象徴するヘラクレス像をいただく円柱。国民公会議員と市民とが讃歌をうたい、共和国への忠誠を誓う。<五十嵐武史・福井憲彦編『世界の歴史』新版21 p.340 中央公論新社

【フランス大内戦】最高存在の祭典ってw【中二病w】

2 :公爵 刺蟹内太郎 ◆dr1LBtMocfcL :2014/10/20(月) 22:20:23.38 0
あれは高校の時何なんですか?って教師に聞いたけど答えられなかったね

10 :世界@名無史さん:2014/10/22(水) 13:06:14.16 0
必要以上にこのイベントを貶めようとする人間が居ることも確か。
ウィキペディアに、このイベントのメインは200人のギロチンって書かてれてたのが、 それウソだろ、って指摘されて最近消されているね。 

24 :世界@名無史さん:2014/10/25(土) 13:41:29.19 0
フランス革命は英米の自称民主主義なんぞよりもよほど世界に甚大な影響を与えたんだぞ 。なんてったって世界初の全体主義革命だから。ポルポトカストロも ヒトラーも、毛沢東スターリンもみんなフランス革命の遺伝子を受け継いでいる。 画一化や中央集権を志向する人々はみんなフランス革命の病原菌に感染しているんだ。 現代の日本にだってこれに感染したままの連中がたくさんいるじゃないか。

52 :世界@名無史さん:2015/02/14(土) 12:38:45.43 0
ロベスピエールがダメなのは、秘密警察を創れなかったとこだな

53 :世界@名無史さん:2015/02/14(土) 12:42:57.76 0
フーシェという、うってつけの人間がいたのに配役できず

54 :世界@名無史さん:2015/02/15(日) 00:24:59.90 0
ロベスピエールフーシェは政治的に敵対してたし
妹の件で個人的にも敵対してた 
そりゃ無理だ

55 :世界@名無史さん:2015/02/15(日) 10:01:02.71 0
最高存在があった方が民衆をコントロールするのに都合が良かった 
親を知らない子は、仮の親でもあった方が良いということか

56 :世界@名無史さん:2015/02/22(日) 05:20:08.96 0
一世代でいいから最高存在教の教育を受けて育った世代が
どんな奇人に育ったか見てみたかった

59 :世界@名無史さん:2015/03/26(木) 22:33:41.29 0
国民が欲しかったのはパンなんだよな。

まさしくニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき(Also sprach Zarathustra、1885年)」の中で描いた「ロバの祭典(伝統的宗教儀礼を捨て去った元信者達が心の空虚を埋める為に遂行する祝祭ごっこ)」そのもの。このサイトは「人間には、特定のイデオロギーから脱却する為に、それと正反対のベクトルを有するイデオロギーに熱狂的に没入しないといけない時期もある」という立場に立つので直接批判は避けますが、それでもこれが明らかに合理主義の必然的到達点というよりカソリック世界の伝統を儀礼次元でひっくり返そうとする精神的試みに過ぎない事実は動きません。まさにサバトフローベール「感情教育(L'Éducation sentimentale、1864年〜1869年)」に登場する「子牛の頭」。

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一方ヘーゲルは、ウィーン体制下においてその自由主義を全面否定する反動体制こそが人類の一つの政治的到達点と考えました。なにしろ当時まだ産業革命の浸食を受けていなかった欧州内陸部においてはまだまだ(革命期フランス同様に)「人間が本来回帰すべきは農本主義である」なる信念が圧倒的優位を保っており、その体制を安定させる為には(教会や国王や独裁政権といった)超越的権威が領主統治を裏付ける必要があると当たり前の様に考えられていたからです。「フランス革命ナポレオン戦争後は全てが変わってしまった」という訳でもないんですね。そして政治的浪漫派とは、そうした状況に抗議した訳です。

そのヘーゲルを「それぞれの個人が思索によって各人格の完成を目指しているだけでは何の変化も起こらない。全てを決っするのは集団的暴力同士の対決のみである」と批判したのがマルクスで、確かにその一点では従来の時代的制約を一歩踏み出しました。しかしよく考えてみれば彼の「上部構造が下部構造を型抜きする体制を、下部構造が上部構造を型抜きする体制に逆転させる」という構想自体は「最高存在の祭典」に行き着いたフランス革命の発想のバリエーションに過ぎなかったという訳です。新たな秩序の創造というのは、一朝一夕で成し遂げられるものではなかったのでした。

 ここで、これまでの投稿の駆け足的要約。

  • ルネサンス期イタリアで「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす」と考える科学実証主義が芽生えた。しかし英国のフランシス・ベーコン経由で演繹論法を入手したフランス百科全書派はむしろフランス中心主義の立場から「(未知のパラダイムシフトが知らない場所で勝手に起こらない様に)世界中の知識を網羅し尽くす」方向に熱中。だが合理主義導入の鬼子ともいうべき理神論(Deism)がフランス革命を暴走させてしまう。

  • そして18世紀末から19世紀前半にかけては「たとえ悲壮な最期が待つのみと頭では分かっていも、心の奥底から込み上げるこの衝動に忠実に生き様とする俺って選ばれたエリート」と自惚れる政治的浪漫主義者集団が、王侯貴族と教会の権威を絶対視する欧州型普遍的価値観の残滓と拮抗を保った最期の時代となった(特にウィーン体制下の復古王政フランス)。ただし望み通り王侯貴族と教会の権威が絶対視される時代が終わると必然的に対消滅が起こってしまう。

  • 19世紀後半に入ると「一般人が自由意志と思い込んでいるものは、既存社会の同調圧力に型抜きされた規格品に過ぎない」として社会全体を上部構造と下部構造の鬩ぎ合い(敗れた側が勝った側に従属=型抜きされる)と見たマルクス、「詩が人を感動させる秘密は、その言語構造そのものに隠されている」とし象徴主義芸術への道を開いたボードレールなどが登場。さらに世紀末に差し掛かるとフロイト精神分析学がこれらに「意識と無意識の関係性」とか「夢を司る象徴」といった拡張概念を付け加える。

  • その一方で中央集権的秩序を再建しようという努力自体は続けられた。オーギュスト・コントの科学者独裁構想、帝国主義イデオロギー、アメリカの科学万能主義、共産党民主集中制、そしてファシズムやナチズム…いずれにせよ「上部構造と下部構造の鬩ぎ合い」なる基本フォーマットそのものは便利なので継承され続けた。ウェーバーゾンバルト資本主義起源論、ヘルムート・プレスナー世俗信仰(Die Weltfrömmigkeit)論、レーニンの集中民主制カール・シュミット政治理論…当時発祥した思想の多くがある種の互換性を備えているのはこの為とされる。

こうして全体像を俯瞰すれば明らかな様に、そんなにたやすく「不条理主義の合理主義に対する勝利」なんて粗雑な簡略化に飛びついてはいけません。あくまで当時最も重要だったのは「普遍的権威を信じたがる伝統的態度」との決別。反逆そのものじゃありません。

  • そもそも反逆者なんて反逆対象が滅びると一緒にその大半が滅びてしまう儚い存在に過ぎない。次の時代まで生き残るのなんてごくわずか。そう、あたかも日本の幕末期に暴れまわった尊皇攘夷志士の大半同様、暴走したレミングスや飛蝗の末路同様に…

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  • また「政治的浪漫主義運動からの生還者」に分類される英国のコールリッジ、フランスのユーゴーやゴーチェ、日本の北村透谷などは皆「未来に待つ破滅」をいち早く嗅ぎつけて見切りをつけ、さっさとフェイドアウトしてしまっている。「近代詩の父」ボードレールに至っては「私の抱える内なる衝動はどれもおぞましいものばかりなので、それに忠実に振る舞う事に天意を感じられません。ロマン主義者として生きるには根本的欠陥を抱えているのです」といった諦観から運動参加自体を見合わせたとされている。

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まぁ「それが革命というものだ」と開き直られたらそれまでなんですが。

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その一方で、むしろ政治的浪漫主義の壊滅は、芸術界にとっては新たな戦いの序幕に過ぎなかったのです。何しろ飛んでもない「普遍的価値観の守り手」が残ってました。「マラーの死(La Mort de Marat , Marat Assassiné、1793年)」を描き「最高存在の祭典(La fête de l'Être suprême、1793年)」を仕切った「妖怪ダヴィッド(Jacques-Louis David、1748年〜1825年)」。「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト(Bonaparte franchissant le Grand-Saint-Bernard、1801年〜1805年)」や「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠 (Le Sacre de Napoléon、1806年〜1807年)」も残してます。ジョセフ・フーシェ並に節操がありません。

こうして政権交替の繰り返しを生き延びた新古典主義者達は、せめてアカデミック界の覇権だけは守り抜こうとして「近代詩の父」ボードレールも「近代小説の父」フローベールも「近代絵画の父」マネも猥褻罪による訴訟といった手段で社会的に抹殺しようとします。結局、普仏戦争(1870年〜1871年)での敗戦が契機となってやっと彼らは失脚していくのですが、悲しくもこの世代の反逆者もまた反逆対象と一緒に歴史の表舞台から消えていくのです。

そして代わって彗星のごとく浮上してきたのが印象派とかこの人とか。これ以降の流れまで「ロマン主義」の範疇で把握し続けるのはおそらく日本人くらい。「さかしま(À rebours、1884年)」のユイスマンスとかオスカー・ワイルドあたりはああ見えてそれぞれそれなりに敬虔なキリスト教徒だった訳ですが「いや、ロマン主義者なのだからそれはない」と否定するのも日本人くらい…

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こうした混乱の渦中にあって、むしろマルクス主義は体制側に擦り寄る事で生き延びたともいえます。もしかしたら「上部構造/下部構造モデル」がドイツ社会思想の標準フォーマットに選ばれたのはその名残りかもしれません。まぁ学会も学会で「新しいテンプレート」を必要としていたという可能性も考えられますが。

そして現代においてなお「上部構造/下部構造モデル」は現役だったりします。

エマニュエル・トッド「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告

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-あなたの分析は、ドイツ文化の中に何か異常なものを想定していませんか?

いいえ。ドイツ文化は完全に正常です!

ただ、すべての人間文化がそうであるように、ドイツ文化にも非合理的なところがあるのです。

ネオリベラリズムのシステムが危機に陥っています。内部矛盾のせいで崩壊するのです。すると、各国民はその国民なりのやり方で、それぞれ元々の文化に立ち帰ることによって対応します。

ちなみに、私がこのことを強く印象付けられたのは、最近日本へ行き、津波で荒らされた地域を訪れた折でした。日本人の伝統的社会文化の中心をなすさまざまなグループ-共同体、会社など-の間の水平の連帯関係が、事態に対応できなくなった政治制度に代わって、地域の再建・復興を支えていたのです。

ドイツに比べ、日本では権威がより分散的で、つねに垂直的であるとは限らず、より慇懃でもあります。

このたびキャメロンとイギリス人たちは独仏の路線を敬遠したわけですが、あの拒否はおそらく、イギリスがその文化の最も深い部分-すなわち、自由への絶対的なこだわり(もっとも、この感覚はネイションへの集団的帰属を排除しない)-へ、危機を乗り越えるための手立てを探しに降りていく時期の初めを画するのでしょう。

ドイツ経済がグローバリゼーションに適応したのも、ドイツ本来のあり方への立ち帰りと伝統的社会文化の強化を通じてでした。

それはそれでよいのですが、権威主義的文化はつねに二つの問題を抱えています。  一つはメンタルな硬直性、そして、もう一つはリーダーの心理的不安です。

すべてがスムーズに機能する階層構造の中にいると皆の居心地がよいのですが、ピラミッドピラミッドの頂点にいるリーダーだけは煩悶に苛まれます。

─ ─ あなたの念頭にあるのはヒトラーですか?

いや、むしろヴィルヘルム二世です。また、誰ひとりとして誰がそう決めたのか知らないうちに戦争に突入してしまった日本軍のことも考えています。

硬直性のほうは、しばしば乗り越え得るものです。ドイツ経済界のトップたちは、ユーロの死が彼らを危険に陥れることをよく理解してい ます。ユーロがなくなれ ば、フランスやイタリアが平価切り下げ に踏み切る可能性をふたたび手に入れ ますからね。

そうすると、それらの国の企業がドイツ企業に対しても競争力で上回るかもしれない。 ですから、ドイツ経済界のトップたちの振る舞いは合理的かつ実際的です。彼らの意向はユーロの救出であり、アンゲラ・メルケルはそれ に従う。

しかし、各国の憲法にまで経済運営の絶対的規則を書き込もうとする意志の内に、私は 不安の表現を感じ取ります。まるで自由な人民と理性的な最高指導者を退場させ、その代わりに、最終的な権限をもってドイツ人たちの問題を決定する自動的な権威を戴こう としているかのようです。


「財政のゴールデン・ルール」と呼ばれている概念は、人間活動のうちの一つの要素をいわば「歴史の外/問題の外」に置いてしまおうとするもので、本質的に病的だと言わなければなりません。それなのに、フランスの指導者たちはこの病理を助長し、励まし、ドイツの権威主義的文化をそれがもともと持っている危険な傾斜の方へと後押ししたのです。

 
-そういうビジョンは少し古くないですか?国民性をそうやってタイプに分ける見方は、現代では相当に覆されてしまっているのでは?

あのね、よく聞いてください。私の説をよく理解してもらうために、唐突と思われるかもしれない例を引きます。

われわれは今、フランスの道路を走行しているとします。憲兵たちが道路脇に隠れて、スピード違反を摘発しようとしている。すると大抵、フランス人の軽犯罪者コミュニティともいうべきものが自然発生し、対向車線でヘッドライトを点滅させ、気をつけろよと教えてくれますね。

今度は、ドイツにいると仮定しましょう。誰かが違法駐車をしている。と、近所の人が警察を呼びますよ。フランス人にとっては、これこそショッキングな話でしょう。

ある国や地域で経済が具体的にどう動くかというところに注目すると、権威との基本的関係を明らかにするこうした社会的行動の標準型と関係があるのだとわかります。ですから、良し悪しの判断は抜きにして、その代わりここできっぱりと、フランスとドイツは一つではなく二つであって、異なる世界なのだということを認めましょう。

「財政のゴールデン・ルール」は、この二つの世界のうちの一つにおいてはひとつの意味を、病的な意味ではあるけれども、とにかく意味を持っているのに対し、もう一つの世界ではどんな意味も持ちません。


もしそうでないというならば、日頃ドイツを模範にせよと言っているフランスの政治家たちは勇気を振り絞り、我々に対して、近所の人が違法駐車をしたときにはその隣人のことを警察に告げ口せよと求めなければ筋が通りません。第一、未来のヨーロッパ条約に書き込まれる「財政のゴールデン・ルール」は、各国に完全に取り入れられる規律だけでなく、隣国の予算を監視することまでも前提にしているのですよ。

-あなたの話を聴いていると、今にもビスマルクの名前が出てきそうです。要するに、ドイツ嫌いじゃないのですか?


いや、違う。ここまでお話ししてきたのは、アメリカの伝統を受け継いで文化というファクターに注目する人類学の一端です。


ビスマルクに関していえば、私はここで告白しておかなくちゃなりません。

あれは実に見上げた人物だと思っているのです。いったんドイツ統一を成し遂げたとき、彼はそこで止まりましたね。限定的な目標を達成して、そこで止まる器量のあった稀有の征服者です。ナポレオンやヴィルヘルム二世とは大違いです。

あれ? テッド氏の主張って実はドイツの「戦う民主主義(Streitbare Demokratie、民主主義を否定する自由や権利を憲法レベルで否定する政策)」もまとめて否定してますね。これがフランス人?

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一方、マックス・ウェーバーの「鉄の檻(Gehäuse)理論」や、ヘルムート・プレスナーの「世俗信仰(Die Weltfrömmigkeit)論」は社会と人間の関係を「外骨格生物とその中身」に例えます。中身の成長に脱皮が間に合わねば全体として死ぬ。その一方で外殻が一緒でも中身が同じとは限らない。これって実は英国人みたいに「社会なんて(ディズニーランドみたいに)時代遅れになったブロックだけこっそり交換し続けてれば案外回るもんだよ」とカジュアルに考えられないメンタル的硬直性の賜物なのかもしれません。そして実はこの次元ではドイツ人だけでなくフランス人も案外…

ochimusha01.hatenablog.com

 ちなみに「ドイツ帝国が世界を破滅させる」における上部構造と下部構造の切り分け方自体はヘルムート・プレスナー(Helmuth Plessner, 1892年~1985年)の「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes 1935年)」と同タイプ。ただ時代変化もあって細部が色々と改善されています。

  • 「遅れてきた国民」は「上部構造が吹き飛ぶと下部構造が剥き出しになるのはドイツだけ(英国やフランスの様な国民国家には起こり得ない事)」なる悲嘆を基調とするが「ドイツ帝国」は「それ自体はどの国でも起こる事」とし、各国の状況を淡々と列記していく。
    *「ドイツ=どこまでも垂直型の権威主義」「日本=やはり権威主義的だが、実際の権威がより分散的で常に垂直的とは限らず互いの間に遠慮が存在する」「英国=自由への絶対的なこだわり(もっとも、この感覚はネイションへの集団的帰属を排除しない)」「フランス=自由万歳(良い意味でも悪い意味でも)」なる類型化、それぞれうまい具合に皮肉が効いてて他でも使えそう。

  • 「遅れてきた国民」では、その時剥き出しになる国民性を「もしある民族しか生き延びられないとしたら、それはドイツ民族たるべき」なる利己的生存本能の台頭とする。ヘルムート・プレスナーは実際にナチスの迫害を経験したユダヤ人だったから特に強くそう感じたのかもしれない(しかし実は他のドイツ人も多くが意外とそう考えていたりする)。その一方で「ドイツ帝国」はむしろその時ドイツ人に起こるのは「規律墨守や権威主義への依存心の高まり」とする。実際ヒトラーも最初からシステム的に絶対権限を掌握していた訳ではなく、戦況が悪化するにつれ急速にそういう体制へと変貌していった事実が明らかとなっている。
    *そして戦間期大日本帝国については「(災害対応などに際しては状況に最適化された集団行動を巧みに現出させる)分散的で常に垂直的であるとは限らず、互いの間に遠慮のある権威主義」が「誰ひとりとして誰がそう決めたのか知らないうちに戦争に突入してしまった」状況を生んだ事を忘れるな、となる。全方位に辛辣?

正直、テッド氏、もしかしてドイツ人の外殻を被ったフランス人かと思うっちゃ今したよ。完全にドイツ的思考様式を消化して血肉化してますね。そういう事を平然とやってのけるのもまたフランス人?