諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

1度目は悲劇、2度目は喜劇…ならば5度目は?

エンターテイメント業界ではしばしばこんな事が言われます。「善悪のはっきりしていた時代はよかった。誰からも愛される正義の味方。誰からも憎まれる悪役。そうした存在の設定が容易で、ドラマもつくりやすくて。それに比べて最近は全く駄目だ。誰も何が正しく、何が間違ってるかさえ断言出来ない。如何なるドラマも生まれない絶望の時代となった」。

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実は逆だと思うのです。人類の問題はむしろ「誰もがあまりにも容易く自分達は絶対正義で、敵は絶対悪という確信に至ってしまう」点そのものにありました。人類の歴史とは、まさしくこの欠陥の克服過程そのものに他なりませんでした。そして最近になってようやく「(大昔の人類には想像だに出来なかった)絶対善も絶対悪も存在しない究極の到達点」がどういうものかイメージ出来るよう様になりつつあります。そう考えられない人間はやがて時代から取り残されてしまう?

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For someone who loves me because I am me…

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今はまだまだ過渡期なので何も断言出来ませんが…

 ところでカール・マルクスは「ルイ・ボナパルトブリュメール18日(Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte、1852年)の中で皇帝ナポレオンの登場を悲劇とし、皇帝ナポレオン三世の登場を喜劇としました。有名な「世界史上の有名人物は二度現れるとヘーゲルは書いた。だが、ヘーゲルは次の言葉を付け加える事を忘れていた。一度目は悲劇として、二度目は茶番劇としてと(Hegel bemerkte irgendwo, daß alle großen weltgeschichtlichen Tatsachen und Personen sich sozusagen zweimal ereignen. Er hat vergessen, hinzuzufügen: das eine Mal als Tragödie, das andere Mal als Farce.)」の一節ですね。でも本当にこの表現に妥当だったのは別の集団だったかもしれません。

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1度目は悲劇ルイ・ナポレオンとオルレアン公のパトロネージを受けたカルボナリ(炭焼党)は7月革命の実動部隊として大活躍。それは結局単なる王統交代に終わり、失望して蜂起した急進派共和主義者達は粛清の憂き目を見た。ヴィクトル・ユーゴーレ・ミゼラブル(Les Misérables、1862年)」のクライマックス場面として名高いが、所詮彼らは外人部隊に過ぎずパリ市民の蜂起を誘発する事は出来なかった。
*「エルナーニ事件(1829年)」で7月革命の先陣を切ったヴィクトル・ユーゴー自身は、「カルメン(Carmen、1845年)」を後世に残したメリメ同様に7月王政期には順調に栄達。つまり急進派共和主義者達を切り捨てた側だった訳で、別にその事を後悔すらしていない(誰がどうやって「六月暴動(1832年)」を生き延びるかよく思い出してみよう)。二月/三月革命(1848年〜1849年)以降の時代は政争で敗れベルギーへの亡命を余儀なくされるまでルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世を熱狂的に応援し続けた。この事も別に隠してはいない。「ユーゴーにはエルナーニ事件を契機に蜂起した小ロマン派の全滅を見殺しにした事への罪悪感なら抱えていたが、六月暴動で粛清された急進派共和主義者達への同情は全く持ち合わせていなかった」が正解とも。

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2度目は喜劇二月/三月革命(1848年〜1849年)を契機に舞い戻った急進派共和主義者達は四月普通選挙に立候補。「フランスをテルミドール反動(1799年)以前の時代に戻す」「どれだけ暴力を行使する事になろうとも、何人死ぬ事になろうと必ず私有財産全没収を成し遂げる」といった公約を掲げて血に飢えた労働者/失業者の群れを引率して練り歩き、かえって王党派やブルジョワの選挙戦圧勝という状況を生み出したのだった。そしてこうしたフランス人の無理解に激怒して六月蜂起を敢行。六月暴動(1832年)を超える犠牲者を出し、主導者はまとめて国外追放となったが、この時もまたパリ市民の蜂起を誘発する事は出来なかった。それどころかむしろ「急進派共和主義は(諸派のれ生による調和を象徴する)三色旗の敵」という鮮烈な嫌悪感を後世に残し、第二帝政(Second Empire Français、1852年〜1870年)を準備したとさえいわれている。

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*一般に二月/三月革命は大ブルジョワ復古王政時代に復活を遂げた宮廷銀行家達)に対する中小ブルジョワ(フランス産業の現場有力者達)の反乱と言われている。この意味での「ブルジョワ」は産業革命の時代にすぐには適応できなかった。国王や教会の権威を担保とする「絶対に回収の失敗がない投資(金で返せない分は身分上昇や既得権益追加といった形で報われる)」に慣れ親しみすぎて(事業が失敗したらそれまでの)産業投資に何の魅力も感じなかったからである。そんな連中が牛耳っていたのだから(せっかく「富の生産を促進することこそが社会の最も重要な責務」としたサン=シモン(Claude Henri de Rouvroy、Comte de Saint-Simon、1760年〜1825年)の産業者(Industriels)同盟構想をイデオロギーとして採用しながら)産業革命が始まらず、経済がどんどん行き詰まって行ったのは当然の成り行きだったとも。

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*そこでルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世はどうしたか。彼は在野にいた頃からガチのサン=シモン主義者で関連論文も数多く発表しており、政権獲得に成功すると同じくサン=シモン主義を奉じるポルトガル人やプロテスタントの産業資本家を呼び込む形でフランスにおける産業革命を軌道に乗せ「馬上のサン=シモン」の異名をとる事になったのである。伝統的大ブルジョワも慌てて合流してきたものの、ついに以前の様な独占的地位を回復する事はなかった。とはいえ「金持ち喧嘩せず」。さらに急成長を遂げた様々な産業階層が合流する形で「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」あるいは「二百家」と呼ばれる新たな支配階層が形成され、皇帝ナポレオン三世失脚後もフランスを牛耳り続けているのである。それを当時のフランスが許したのは「プロレタリアート独裁よりはブルジョワ独裁の方がまだマシ」という社会的コンセンサスだったとも。

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*こうした歴史的経緯にもかかわらず不思議と「サン=シモン主義こそ19世紀フランスを主導したイデオロギーだった」と誰も言い出さないのは、7月王政がこれを採用した理由が明らかに「諸勢力間の調停に徹する物分かりの良い国王なら産業者同盟は歓迎する」というサン=シモンの玉虫色発言が気に入ったからに過ぎず、ルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世産業革命導入に成功したのもサン=シモン主義そのものの恩恵というより「信者のネットワークが役立ったに過ぎない」からとされている。まぁイデオロギーという言葉そのものが左翼用語で、彼らにしてみたら「(後にドイツ帝国にも模倣される)国家福祉の充実によって暴力革命も労働運動も衰退に追い込む南風戦略」を歴史上最初に全面的に打ち出したという点で「ファシズムやナチズムといった絶対悪の前身」たるこの危険思想を決して認めるわけにはいかないというのが正解なのかもしれない。

 ならば「3度目」に当たる以下は一体何だったんでしょうか?

皇帝ナポレオン三世の失脚とパリ・コミューン - Wikipedia

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産業革命をフランスに定着させた皇帝ナポレオン三世の「誤算」

ヨーロッパでは産業革命の波と凶作とによって封建的政治体制を覆す革命の波が押し寄せつつあった。1848年革命が勃発してオルレアン朝が倒壊し、短期間ながら第二共和政が成立したもの、政情不安が続いていた。こうした状況に頭角を現したのがナポレオンの甥ルイ・ナポレオンであった。彼は国民の圧倒的な支持で大統領就任を果たす。
*1849年6月にも(二月/三月革命に連動して教皇を追放する形で成立した)ローマ共和国支援を訴える左翼暴動が発生。ルイ・ナポレオンはこれを左翼一掃のチャンスと見て武力鎮圧を決意した。自ら出陣してシャンガルニエ将軍とともに指揮を執り、左翼暴動を徹底的に鎮圧(6月事件)。国会で共和派が勢いを失う契機となった。

  • 1850年代に入るとともに景気回復が進み、政権は安定に向かっていく。ルイ・ナポレオン産業革命を強力に推進する一方、積極的な社会政策を実施しフランスの近代化を進めていった。同時代、アメリカではゴールド・ラッシュが到来した影響で農作物価格が上昇し、農業国フランスを支える農民の生活は向上していった。

  • 1851年、ルイ・ナポレオンは国民的人気を背景にクーデターを断行、翌年には皇帝に即位して、ルイ・ナポレオンナポレオン3世となった。ここに第二帝政が成立する。第二帝政は成人男子選挙権にもとづく民主制に基礎を置いていたが、議員就任には反動的な内容の1851年憲法を下敷きに作られた帝国憲法への宣誓が必要で、実質的に皇帝の臣下を民選しているという程度のものであった。
    *ちなみに議員の中にはパリ市民に決起を促す者もいたが、ほとんどの市民は関心を持たず、12月2日にはそうした決起は発生しなかった。しかし12月3日には左翼議員たちが一部の労働者を取り込むことに成功し、バリケードを築いて蜂起を開始し、その鎮圧のさなかにジャン・バティスト・ボダン議員が銃殺される。さらに12月4日には発砲されたことに動揺した軍隊が民衆に向かって発砲し、数百人の死者が出る事態となった。ルイ・ナポレオンはこの惨劇を聞いて困惑し、秘密投票の復活を告知するビラ貼りを徹底させたが手遅れ。この時の虐殺は1871年の帝政崩壊までナポレオン3世に血のイメージを付きまとわせる事になる。

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  • 第二帝政期の政治の実態として、皇帝の権限が非常に強く、大臣の任命から行政官任用にいたるまでの人事権が皇帝に集中、皇帝専制政治の色彩を帯びたものであった。ただ1850年代は西ヨーロッパ諸国の安定の時代であったことから時代の追い風を受けていたため、反動政治に対する国民の拒否感も少ないものであった。その後、ナポレオンは皇帝に即位してすぐは非常に意欲的で、積極的に自由主義政策を展開し、1860年には英仏通商協定を締結した。この貿易自由化政策の結果、フランスでは農産物の輸出が増加して農民の生活はさらに向上に向かっていた。また、皇帝は諸階級の上に立つ存在と見なされていたことから社会主義空想的社会主義の一つサン・シモン主義に近い)に対しても受容的な立場をとっており、皇帝の従兄弟にあたるナポレオン公シャルル・ボナパルトの指導のもとで労働者に対する恩恵的な政策も実施された。第二帝政期のフランス政治はボナパルティズムという民主主義と専制主義の異種独特な同居状態にあったと言える。
    空想的社会主義の一つサン=シモン主義に受容的立場をとったというより、国際的なサン=シモン主義者のネットワークを利用して産業資本家を誘致したというのが正しい。

  • ナポレオン3世は好景気を背景としてジョルジュ・オスマンによるパリ改造や鉄道敷設事業など大規模な公共事業(オスマニザシオン)が展開された。パリ改造は次のようなものであった。官庁街や住宅街などの区画整備を推進して西部に高級住宅街を造成した。さらに、下水道の完備などの公衆衛生施設の改善に努め、不衛生なパリをより清潔な都市に変えていった。歴史的建造物の周辺に広大な広場を造成した他、広場と広場とを直線的な幹線道路で放射状に結び、都市の過密状態の解消に試みた。中世以来のパリを近代都市として生まれ変わらせていったのである。パリは20の区域に区画され再編されて現在われわれが見ている近代都市パリが形成されることとなる。

  • ただし一方でこうしたパリ改造のために一般の民衆は過酷な立ち退きが強制され、こうした人々は住み慣れた中心部から追い出されて離れた郊外に移住を強いられた。その結果、パリ市近郊には中心部を取り巻くように「赤いベルト」と呼ばれた貧民街が形成されることとなった。コミューン革命の舞台はこうした環境下のパリだったのである。

  • 1860年代のパリ労働者の特徴としては、工場労働者というよりもより前近代的な性格が残されていた。工芸品の製造をはじめとする伝統的な手工業生産に従事しているものが多く、労働者というよりも職人というべきタイプの人々であった。こうした職人的熟練労働者は自分の職と腕前に自負心を持つ職人気質の強い労働者であり、彼らの政治的志向はフランス革命期のサン・キュロット運動の歴史的経験を背景とした「人民主権」思想とその延長に形成されたプルードン的な職人社会主義思想に支えられていた。フランス革命以来、パリ民衆はお上への直訴や談判などの直接行動を重視しており、ジャコバン直接民主主義の伝統が残っていた。かれら民衆は酒場などでの労働者同士の交流を契機に、つよい連帯感と独立した階級意識を形成し、現実世界に対する批判的な精神を育んでいた。産業化・近代化の進むパリではより一層、格差と階級分離が深まっており、単なる強権政治でしかない第二帝政への不満もこうした生活世界の中で形成されていた。こうした環境の中で「人民の声」を高等政治の世界へと反映させたいとするポピュラー・ポリティクスの文化が形成されていたのである。

とはいえ偽善はいつまでも続かない。時代が下るにつれて第二帝政への逆風が吹き始める。周期的に繰り返される恐慌がナポレオンⅢ世の帝政に対する人々の不満を強めていく。ナポレオン3世は事態打開のために対外政策を積極化させるものの、メキシコ遠征の失敗によって皇帝としての権威を失う。これを背景に強権政治の綻びが見え始め、「権威帝政」から帝政は次なる段階として過渡的な「自由帝政」へ、そして帝権失墜の最終段階「議会帝政」へと移行していく。

 「権威帝政」の終焉と労働者達の国際的覚醒

1860年代初頭に入ると状況は一変したが、当時のフランスにおける皇帝権力とパリの労働者は実は階級闘争に根差す唯物史観で語られているほど対立的なものではなかったのである。パレ・ロワイヤル・グループのように帝政を積極的に支持しながら皇帝に接近し、労働立法・社会立法を提言する勢力も存在していた。帝国政府もそうした社会的要請を受けて民法を改正し、労使間の不平等な雇用契約関係を改めるなどの社会政策を進めている。

  • アンリ・トラン(青銅彫刻工としてアンティーク雑貨の加工を請け負っていた)のようなより独立志向の強い労働者エリートであっても、アルマン・レヴィなど側近から交渉機会を与えられれば、ナポレオン公などの開明派の王侯貴族と盛んに接触して帝政に対して進んで労働者の利害を主張していった。したがって、労働者階級が帝政を利用して権利を主張したり、社会的上昇の機会を獲得するという構図が出来上がっていたのである。こうした動きは時代を大きく加速させる転機をつくりだした。1862年にロンドンで開かれた万国博覧会に参加させるべく、パレ・ロワイヤル・グループを中心に約200名のフランス労働者、ドイツから12名の労働者の代表団が派遣された。アンリ・トランもブリテンの労働運動の実相を視察するべく代表団の委員の一人として参加した。もちろん、フランス代表団を組織し、労働者の自発的カンパもあるが、その費用を大部分出したのはナポレオン3世ナポレオン公であった。

  • かれらフランス労働者団は8月5日の晩ブリテン労働者の歓迎を受け「フランスおよびブリテン労働者の同盟への万歳三唱」をもって終了した。7月22日の集会には5名のフランス労働者が出席して、ポーランドの義挙を賞賛する演説を行う。次の晩にこのフランス人たちがイギリスの組合代表者たちと会合し、オッジャーを含む3名の委員会を任命し、パリの労働者へ向けて宣言文を発した。資本家たちが脅しとして使う外国人労働者の輸入などの手段に対抗するためには、労働者の国際組織が必要である、と。1859年、ブリテンではロンドンを中心に建築工ストライキが発生して以来、労働闘争はかつてないほどに盛り上がりを見せていた。1860年代半ば以降、南北戦争期の北部支援運動などで自由主義や解放思想の理想が大衆にまで広まっていき、やがて国際運動への傾斜が国家批判にまで拡大した。ブリテン国家構造は、その構造上の問題が主従法改正運動や選挙法改正運動など労働法から議会制度に至るまであらゆる方向から攻撃を受けることになった。こうした挑戦的な大衆運動の中心が大工や石工といった職人的な世界を生きる熟練労働者たちだったのである。このとき見聞きした出来事はフランス労働者団に衝撃を与えるものであった。かれらはブリテン労働者たちの活発なストライキ闘争、広い国際的見聞、労働運動や改革運動のボトム・アップ的な姿勢に驚愕し、フランスの帝政と労働運動の後進性に気づくこととなった。ここに、1851年以降、長年にわたって眠りについていたフランスの労働運動はついに覚醒したのである。

  • 1863年から64年までの1年間でブリテン・フランス労働者代表者間の談合で国際組織を実現させる具体的な道筋が定まっていく。1864年9月28日、ロンドンはセント・マーティン・ホールにてフランスの代表団を受け入れる歓迎集会が催され「国際労働者協会」(第一インターナショナル、以下IWAと略記)の設立が宣言された。ブリテン側の世話人はオッジャーと石工組合書記のクリーマー、フランス代表はプルードン主義者のアンリ・トラン、議長はロンドン大学教授のエドマンド・ビーズリだった。また、この集会にはマルクスも同席していた。この集会は、組織の決裂について言及した後半部で詳述するが、オーウェン主義者や旧チャーティスト指導者たち、そして多数の労働組合指導者からなるブリテンの急進主義者、ブランキ派やプルードン主義者などフランスの革命的急進派、アイルランドポーランドナショナリスト、ドイツの社会主義者などを含むヨーロッパ各国の諸勢力が一堂に会する大集会となった。フランスでもIWA支部が設置され「言論の自由」「非宗教的義務教育」「常備軍と国家警察の廃止」など当面の政治改革の要求とともに「コミューンによるすべての社会資本の奪取」を目標とするフランス連合評議会が発足した。

  • 1864年、IWAが発足すると、ナポレオン3世による労働者懐柔策に滅びが生じた。トランといったインター派を中心に帝政に反抗する労働者グループによって「六十人宣言」が発せられた。帝政は労働者階級との信頼関係を維持する必要に駆られ、ついに帝国政府は渋々労働者側に譲歩していくことになる。このとき、1851年に壊滅した運動の再建が叶えられ、労働者階級の長年の悲願であった協同組合運動への突破口が開かれた。刑法の一部が改正され、ストライキなどの実力行使は許されなかったが、協同労働と共済のためならばと団結権が部分的に承認された。

  • しかし、1867年になるとナポレオン3世の思惑とは裏腹に帝政に対する逆風が一気に強まる。1866年、ブリテン金融危機が発生し、翌年に入るとフランスに飛び火して恐慌が発生した。企業倒産が相次ぎ、おびただしい失業者が発生する。団結権の部分的承認は、千畳堤の蟻の一穴のごとき役割を果たした。大小さまざまな協同組合が結成され、法律の枠を超えてストライキ目的の労働組合へと変質していく。非合法であるにもかかわらず、各地で労働運動が多発し、大規模なブロンズ工ストライキが発生するなど1851年に発生した帝政による弾圧と壊滅以来の時間を取り戻すように労働運動の再生と革命化が進んでいった。こうした各地の労働闘争を支援したのがIWAであり、IWAは積極的なストライキ支援の結果、帝政からの弾圧を受けて地下活動へと逃げていった。

しかしIWAが激しい弾圧を受け、トランなどの初期のプルードン派指導者が次々と脱落していく過程はまさに反政府を掲げるブランキ派グループだけが残って革命が本来あるべき姿を自覚していくプロセスそのものでもあったのである。その背景にはマルクスによる理論的指導の力があった。マルクスは、IWAの年次大会のたびに改良主義的な思想だったプルードン主義を激しく糾弾して、フランスの労働運動を革命主義へと誘導したのある。

当時のフランスにおける反政府派の政治思想の系譜。

革命的ジャコバン派…もっとも古い反政府勢力。主な人物に、老活動家シャルル・ドレクリューズ、南北戦争でも有名を馳せた軍人クリュズレ、扇動家のフェリックス・ピアなどがいた。かれらには特定の体系的な政治思想はなかったが、フランス革命時代に全盛を極めたかつての急進主義の記憶が宿っていた。小市民と一般民衆からなる共和国の理想と純粋民主主義思想の伝統を継承したこのグループは、その反権力の志向からやがて社会主義へと合流し、後のパリ・コミューンで大きな活躍を見せる。

プルードン…ピエール・プルードンの思想は第二帝政期のフランスで最も影響力のある思想であり、後のアナーキズム思想の先駆けであった。かれの思想はまさに農民主義、職人主義そのものと言っていいだろう。プルードンは「財産とは盗みである」と語り、大資本と金融業によるを搾取を告発した。中小規模の土地所有と工房、作業場の経営に基づく小財産を個人資本として、これを足掛かりに平等な諸個人が自主独立と相互扶助の関係を保ちながら協同組合を形成して中央政府に対する自由を確立していき、自由な個人の連帯によって新社会を建設するという思想であった。この思想は農民や職人の支持を集め、パリの職人労働者の政治文化に影響を与えていった。アンリ・トランや初期のヴァルランなどの労働者エリートに多くの示唆を与えた。ただし、自由な職人や農民たちの古い産業秩序を維持しようとする余り、第二帝政に対する批判に欠け、現状容認的な傾向が強かった。事実、プルードンは労働者の自立を重視する一方で暴力的な現状変革を認めなかったため、ストライキに公然と反対していた。このグループは、フランス各地でストライキが猛威を振るう1867年以降の時代状況の変化に付いていけずに急激に衰退していく。

ブランキ派プルードン派の代わりに台頭。革命家オーギュスト・ブランキの思想を信奉するグループであり、その思想はプルードンとは対照的に攻撃的で暴力的な性格が強かった。ブランキのもとには多くの弟子が参集し、ギュスターブ・フルーランス、ウード、リゴー、プロトー、トリドン、テオドール・フェレなどの後にパリ・コミューン政府の要職に就く人々がその隊伍に加わっていった。現状変革のために暴力革命の必要性を説き、政府打倒のためなら陰謀やテロを厭わない過激主義であった。また、マルクスのような資本や労働に対する理論的な洞察力はなかったが、ブランキは、人民による暴力的な権力奪取と独裁を主張するとともに、国有化の断行や計画経済の導入を提唱するなど早い段階から明確な国家観をもっていた。ブランキ思想の後世への影響は絶大であった。資本主義経済システムの崩壊と革命の不可避性に関するマルクス主義思想(恐慌・革命理論)に、暴力革命論を追加してボリシェヴィキ主義へとつながる共産主義思想のイデオロギー形成にも力を貸した。後の時代に成立をみるソ連体制・ドイツの正統マルクス主義者の待機主義を批判したレーニンの国家理論・革命理論(プロレタリアート独裁)にも大きな影響を与えた。また、マルクスの最大の好敵手であったバクーニンの革命理論や無政府主義思想(アナルコ・サンディカリズム)にも示唆を与えるなど、その思想は後継者に欠くことはなかった。ブランキ派の台頭はIWAに大きな影響力をもたらした。マルクスの支持者は、マルクスのブランキに対する深い敬意とその思想的同期からしだいに増加し始め、ブランキ・マルクス派という形でその勢力を拡大させていった。1867年以降は深刻な恐慌から革命的情勢が高まり、IWAの革命化が進んでいった。ヴァルラン、ブノア=マロン、パンディといった指導者たちが続々とブランキ・マルクス派へと転向していった。彼らは後の共産主義者と区別するために「集産主義者」と呼ばれることになったが、旧来的なプルードン主義と決別して「パリ労働者組合連合会議」、「IWA・フランス連合評議会」などの組織を設立して革命派連合を組織し、帝政に対する批判と攻撃を強めていった。

第二帝政の動揺と帝権の失墜

フランス第二帝政の外交面における失策が相次いだのはまさにこの時期だったのである。メキシコ遠征は失敗に終わり、ゲリラの一団による抵抗を前にフランスの国威も地に落ちた。イタリア統一戦争時のイタリア王国の離反は、ナポレオン三世の野望を破綻へと導いた。ガリバルディのローマ進軍を二度にわたって妨げた結果、プロイセン・オーストリアの二大国に対する守りをなす、イタリアからの信頼を失うことになった。さらにあろうことか、イタリア王国プロイセン側に寝返ってしまうのである。外交では孤立化が進展していき、プロイセンとの全面対決を有利に進めるための強力な同盟国が欠落したまま、戦争へと突入することとなった。これらの内憂外患が第二帝政の命取りとなっていく。

  • 1867年、民衆への懐柔策として「集会の権利」が認められて、「公共集会」の開催が許可される。その結果、地区を単位とする共和派を支援する選挙集会も行われるようになっていった。また、デモ活動は許されていなかったが結社の自由がすでに部分的に認められるようになり、互助的な協同組合が盛んに結成されるようになった。これらの改革は労働者の活動性を高めた。政治活動や労働運動が認められるようになるにつれて労働者の自立化は進行し、ジャコバン派やブランキ派など急進的な革命派が形成されるようになる。1869年、総選挙がおこなわれる。このときの総選挙ではジュール・フェリーやガンベッタ、クレミュー、ロシュフォールなど後に国防仮政府の要職に着任する共和派議員が圧勝して、およそ半数の議席を制するなど反帝政の急進派が躍進した。労働者街をなしていたベルヴィール地区では反政府的な選挙集会が開催されていた。このとき、ベルヴィール地区民衆と選挙委員会は、「常備軍・国家警察の廃止」、「言論、集会、結社の自由」を盛り込んだ独自に選挙綱領を定めて、候補ガンベッタに提示するといった自発性を示した。これは議会政治を単なる代議制として考え、議員の代表によって国民の意思を表示するという間接民主主義に頼るのではなく、議員を民衆の代理人として位置付けて国民の意思を伝達させるべきだとする直接民主主義の理想、古くはルソーの社会契約思想に遡る共和主義理念の再生を見てとれる。1869年総選挙は歴史的選挙であった。病気がちになっていたことも相まって、ナポレオン3世の政治力はこのとき既に失われ始めていた。1870年、新内閣オリヴィエ政権が成立して第二帝政は「議会帝政」へ移行していった。

  • しかし、1867年恐慌はますますその深刻の度を強めていった。金融資本が企業投資を手控えたため、フランス銀行にマネーが滞留して金詰まりの状況と化していたのである。長期不況となったため、労働者の窮状は一層厳しいものとなった。1870年、ル・クールゾの炭鉱で大規模なストライキが発生したほか、ナポレオン3世の従弟にあたるピエール・ボナパルトロシュフォールの同士で『ラ・マルセイユ』の記者であったヴィクトル・ノワールを殺害する事件が発生した。ストライキ闘争の激化とノワール射殺事件の発生の結果、反帝政の世論はかつてない熱狂の様相を呈し、ストライキは賃金闘争の域を超えて大規模な反政府運動へと発展、もはや国内は政府の統制が利かない状況となっていったのである。

そして普仏戦争が始まる。1870年7月、スペイン継承問題を発端として勃発し、ナポレオン3世は体調不安を抱えながらも出陣したがセダンの戦いで大敗北、ナポレオン3世は降伏して捕虜となってしまうのである。

 フランス第二帝政の滅亡

ナポレオン帝政に対する不満は敗戦への怒りとなって爆発し、民衆は立法院に殺到、人々はガンベッタフランス第二帝政の失権を迫った。

  • 1870年9月4日、革命派の跳躍に危機感を抱いた穏健派の議員が共和国宣言を行ってトロシュを首班に外相にファーヴル、内相にガンベッダそしてパリ急進派議員ロシュフォールを閣僚とする仮政府が樹立された。しかし、和平の早期実現を望む仮政府と徹底抗戦を要求する民衆との対立は激しいものとなっていた。仮政府下で戦争は続行され、急遽、国民衛兵が召集されパリ防衛にあたることとなった。 王政復古の可能性を示唆するブルジョア色の濃い仮政府の成立に裏切りを感じたパリ労働者の代表者たちは今後の対応を協議し始めた。IWAのフランス連合評議会はコンドリーに本拠を構え、当地で会合をもち仮政府に圧政の停止を要求したが、軽くあしらわれる結果となった。そのため、9月5日にはインター派の発議で今後の方針を検討するために「共和会議」が開催されたほか、仮政府と市政の監視のため各区に監視委員会が設置され、その上位に連絡部会を設立しようとする動きが生じていった。

  • 11日、各区4名づつの監視委からなる「パリ二十区共和主義中央委員会(以下、パリ中央と略称)」が発足。亡命先のベルギーから帰国したヴァルランを加えたパリ中央は『第一回の赤いポスター』というスローガンを発表した。国家警察の解体、市の行政官の公選、言論・集会の自由、国防必需品の徴発、配給制の確立、全市民の武装が提案された[18]。パリ中央とインター派は挙国一致による徹底抗戦を呼びかけて抵抗を開始したが、1870年9月19日から翌71年にかけての132日間、パリはプロイセン軍によって包囲されることとなる。

  • ちなみに、この間、南部の諸都市リヨンやマルセイユでは国防体制を強化するために「南仏連盟」が結成されたが、中央政府の影響圏から離脱して地方革命政権として自立し始めていた。一方、リヨンではミハイル・バクーニンが絹布職人の支持を背景に蜂起して市庁舎を占拠したが、バクーニンは軍に包囲されあっさり逮捕されてしまった。バクーニンは釈放された後、すぐにフランスを離れて亡命。一方、マルセイユでは革命が成功してマルセイユ・コミューンが中心となる革命派政権が一時成立した。マルセイユ・コミューンは市会選挙でのブルジョアの巻き返しで崩壊したが、パリの革命派に強い印象を与えた。このような混乱の最中、パリでは国民衛兵が緊急招集されて9万人の市民が軍の隊列に加わっていった。将校は選挙され総出撃による撃退を主張するオーギュスト・ブランキやギュスターブ・フルーランス、インター派のリーダーウージェーヌ・ヴァルランなどの血気溢れる革命家たちが大隊長に選出された。しかし、仮政府は国防に対する関心を既に喪失しており、プロイセンと停戦していかに武装した革命勢力を解散させるかの道筋を探るようになっていた。

  • こうした中、20日、シュートー、シャトラン、そして彼らの同士からなる「パリ中央」は降伏を拒否して徹底抗戦を主張するとともに「パリ中央は全20区の民主的社会主義者の力を集中する目的を持つ」とする規約を採択し、仮政府との対決姿勢を強めた。「パリ中央」は早くも市議会を労働者を主体に人民民主主義に基づく准政府(コミューン)とする新決議を採択するなど妥協的な仮政府と敵対するようになった。一方、仮政府は憲法制定会議の招集、コミューン選挙の延期を発表するなど朝令暮改を繰り返し、またフルーランスをはじめとする革新派大隊長を次々と更迭するなどして抗戦派の勢いを削ごうと図り、この動きのゆえに仮政府とパリ民衆との離反を決定的なものとなった。

  • 10月31日、「三つの衝撃」と呼ばれる事件が発生。ブルージェとメッス要塞が陥落して兵力17万を擁するフランソワ・バゼーヌ元帥率いる守備軍は降伏、プロイセンが本格的にフランスの軍事的抵抗能力を粉砕したのである。この日、コンドリーに「パリ中央」のメンバーは参集した。そこで政府の退陣と徹底抗戦を要求するために市庁舎に行進することが決議され、無数の群衆そして指揮権から離脱した3千名もの軍の一部が合流して市庁舎に侵入した。ベルヴィール労働者地区の大隊長ルフランセはトロシュと会見して仮政府の停止、市会選挙と選挙管理委員の招集を求めた。腰の重い政府の対応に業を煮やしたフルーランスは兵士を連れて市庁舎に乗り込んでテーブルの上に立ち、フルーランス自身、ブランキ、ドリアン、ドレクリューズからなる「公安委員会」の設置を宣言、「革命的コミューン」の組織について討議を開始した。「10月31日蜂起」の最中、状況は誰が何をしようとしているのか全く把握できない混乱状態に陥っていく。

  • しかし、この間トロシュはまだ諦めてはおらず退陣こそ呑まなかったが市会選挙の実施を約束して事態を切り抜け巻き返しのチャンスを得ようとした。親政府派の軍が市庁舎に奇襲をかけ市庁舎を取り囲んだ。革命派は市会選挙実施と報復しないことを条件に市庁舎を退去した。施政権や戦争遂行権を手放したくない仮政府により革命派と交わされた約束は裏切られ、革命派指導者に逮捕令状を発し、市会選挙ではなく区長選挙として実施されることとなった。11月4日、仮政府の信任投票とパリ20区の区長選挙が実施され仮政府が続投を果たす一方で、政府支持のブルジョア派が過半数で当選したが、労働者地区では逮捕された反乱分子が多数当選する異常事態が発生した。インター派のブノア=マロン、ジャックラール、ルフランセ、急進派のモテュ、フルーランス、ミリエール、ジャコバン革命派の老闘将シャルル・ドレクリューズ、ブランキ派のランヴィエなどが区長あるいは助役に選出された。その年の冬は寒波が発生し、燃料と食糧不足が深刻となった。オルレアン王党派の司令官デュクロによる出撃戦は惨憺たる結果となってプロイセン軍の包囲を突破することに失敗、パリは冬を前に陸の孤島と化した。しかし、この包囲中の仮政府による配給制はお粗末なもので金持ちが隠匿物資で生活を守る一方、市中ではねずみや猫、犬をはじめあらゆる動物が食料として取引される状況に追い込まれた。こうした危急存亡の情勢はパリの革命的な性格を急速に強化した。ドレクリューズは「共和主義連盟」を組織してコミューンの選挙を要求し、政府批判を強めて首班のトロシュとクレマン=トマ将軍の解任を要求した。急進共和主義者が政府にとって代わるべきだと主張を展開した。

  • 12月、パリがプロイセン軍に包囲されるなか市民の武装と防衛力の強化を図ったいたが、1971年1月19日のピュザンヴァール出撃戦は失敗に終わる。翌20日、ジャコバン的急進主義者のドレクリューズは「共和主義連盟」の仲間を集めて協議し、48時間以内の市会選挙の実施を要求した。さらにその次の日、長い戦時生活の困窮と軍事的失策に絶望した民衆の怒りはついに爆発し「10月31日蜂起」に参加してマザスの牢獄に投獄されていたブランキ、フルーランスのもとに駆け付け、彼らを解放していった。プロイセン軍の圧力、民心の離反と革命派の台頭に追いつめられた仮政府はとうとう音を上げ、トロシュを見離して彼を解任し、プロイセンと休戦協定に調印した。ブランキ派は政府の混乱をまえに蜂起したが多数の死傷者を出して失敗した。1月28日、仮政府とプロイセンの交渉の結果、パリの篭城戦が終結した。

そして即座に新政府樹立に向けて国政選が布告され、フランスは激しい選挙戦に突入。パリ代表(名称を変更して「パリ20区共和主義代表団」と呼称。以後パリ代表と略記)、IWAフランス連合評議会や労働者連合組合会議は候補者選定を進めて統一戦線を組み、2月4日「どのようなものであれ、共和政体を論議の対象とすることの否認。勤労者の政治的支配の必要の確認。政府寡頭制と産業封建制の打破。1792年の共和国が農民に土地を与えたように、労働者に労働用具を与えることによって、社会的平等を通しての政治的自由を実現させる共和国の組織」をスローガンに『共同宣言』を発した。2月8日には国民議会の選挙がおこなわれた。パリでは共和派、革命派の躍進が見られた。共和派のルイ=ブラン、ヴィクトル・ユゴーガンベッタロシュフォールガリバルディが当選した他、革命派のフェリックス・ピア、ブノア=マロン、ガンボン、トラン、ドレクリューズ、ミリエールが当選を果たした。だが、地方ではブルボン、オルレアン、ボナパルト派をはじめとする王党諸派が躍進して共和派に優位を占めるかたちになった。そして、西フランスの港町ボルドーに国民議会を招集、オルレアン派のアドルフ・ティエールを「行政長官」とする新政府が誕生した。ティエールは、将来、王政復古するかしないか決定するとしたボルドー協約を掲げて共和派や革命派を打ち倒すべく国内王党派の統合を試みた。こうして成立した新政府はすぐさまプロイセンとの和平交渉を担うこととなる。2月26日、講和条約が締結され、アルザス・ロレーヌ地方の割譲、50億フランの賠償金支払い、プロイセン軍によるパリの象徴的占領を内容とする協定が議会で承認された。

 「人間搾取の偽りを打倒する」パリ=コミューンの輝かしき発足

講和成立によってパリ市民と政府との亀裂は決定的となった。また、軍部内にもティエール政府に反対する兵士・将校からなる20名の「国民衛兵中央委員会(以下、衛兵中央と略記)」が選出された。国民衛兵は中央政府の統制から離れ「自ら選ぶ隊長以外の者は認めない」と決議するなどすっかり義勇兵からなる選挙制の連合軍と化していた。国民衛兵はパリ民衆の熱情を吸収して次第に革新性を強め、やがて人間搾取の偽りの体制を拒絶してフランスの共和政体を擁護する革命軍となっていった。この国民衛兵自体はその多くが無名の一般の市民から構成され、本来はまとまった政治性をもっていなかった。しかし、パリの情勢の緊迫化と政府の妥協的姿勢に失望して政府を見限っていつしか革命派に協力していくようになっていったのである。

  • 2月15日、IWAフランス連合評議会はコンドリーにて、いかにプロイセンと戦うか、いかにティエール政権に抵抗するかに関して協議した。そして、共和派と革命派の統一に向けて戦略の策定を進めつつ、パリ代表の政策決定に援助を続けていた。パリ代表はジュール・ヴァレスが発行する『ル・クリ・ド・プープル』(『人民の叫び』)を機関紙に据えたうえで、次のような『原則宣言』を発して紙上に掲載した。「すべての監視委員のメンバーは、革命的社会主義党に属すると宣言する。したがって、あらゆる可能な手段によって、ブルジョアジーの特権の廃止、ブルジョアジーの支配階級としての失権、労働者の政治的支配、一言でいえば社会的平等を要求し追及する。……階級そのものも存在しない。労働を社会構成の唯一の基礎と認める。この労働の全成果は、労働者に帰すべきである。政治的領域においては、共和制を多数決原理の上に置く。それ故に、多数者が国民投票という直接的手段によるにせよ、議会という間接的な手段によるにせよ、人民主権の原則を否定する権利を認めない。それゆえに現社会が政治と社会の革命的清算によって変革されてしまうまで、あらゆる議会の招集に実力で反対する。……革命的コミューン以外のものは認めない。」

  • 2月19日、パリ代表はコミューン政府の樹立を約束して、プロレタリアート独裁に基づく新社会の建設を市民に保証した。国民衛兵は依然としてプロイセン軍のパリ入城への抵抗呼びかけていた。国民衛兵は武装解除を拒み、プロイセンに武器が押収されるのを防ぐため大砲を女子供も含んだ多数のパリ民衆と共にモンマルトル、ベルヴィールのなどの労働者地区へと移設していた。1871年3月1日、プロイセン軍は祝勝パレードのためにパリに入城した。両軍にらみ合いの状態で一触即発の危機が迫っていた。3月18日、ティエールはこうした緊迫した情勢の中でプロイセン軍との無謀な武力衝突を避けるため、そして革命派からパリを再び掌握するために、市内各所の大砲陣地を奇襲して大砲を押収し、武装解除のためにパリ防衛の重要な堡塁であったモンマルトルの丘から国民衛兵が所持する大砲400門余を取り除き、パリを武力で制圧するよう親政府派の軍に命令を下す。 ルコント将軍とパチュレル将軍の指揮で大砲の撤去を実施するが、これを偶然目撃した女性兵士の一群が撤去に抵抗した。将軍は配下の兵に発砲を命じたが命令は空しく無視され、 ルコント将軍は国民衛兵により捕虜となった。捕えられた将軍のなかに以前1848年6月のパリ蜂起で労働者の弾圧を行ったクレマン=トマ将軍がいたため、ルコント将軍ともども猛る群集によって殺害された。3月18日の事件を機にパリではコミューン政府が実権を奪取してついに革命(パリ・コミューン革命)が成就し「コミューン万歳!」の声が高まっていた。このとき国民衛兵の一部はコミューンに合流してパリを掌握した。一方、ティエールは軍と政府関係者をひきつれ、ヴェルサイユに逃走した。21日付の『官報』には次のような記事が載せられた。「首都のプロレタリアートは、支配階級の壊滅と裏切りのうちにあって、公務の管理を自己のうちに掌握することによって時局を収拾すべき時が彼らの前に到来したのを知ったのだ。……。プロレタリアートは、自らの運命を自己の手に握り、政権を奪取することによって勝利を確保することが、自分らの緊急義務であり、また自分らの絶対権利であることを理解したのであった。」

  • この間オルレアン家の王子が軍事司令官に任命されるとの噂伝わり、王政復古に反発するパリの反政府への姿勢が頂点に達する。これがきっかけとなり、一時的に国家機構が停止し無政府状態が生じた。その空白を国民衛兵が革命軍として埋めることとなった。やがてパリでティエール政府に代わるコミューン政府の選挙がおこなわれることになった。

  • 3月23日、IWAフランス連合評議会のパリ支部は、次のように宣言した。「長い一連の敗北、わが国の完全な崩壊をもたらすことになるかもしれない破局、これがフランスを支配してきた政府がフランスのためにつくり出した状況の帳尻である。……。いまや権威の原理は街頭に秩序を再建し、職場に労働を復活させるうえに無力である。そしてその無力は権威の否認を意味する。利害の非連帯性が全般的な破滅を生み出し、社会戦争をもたらした。自由、平等、連帯によって、新しい基礎の上に秩序を確立すること、その第一の条件である労働を再組織することを要求しなければならない。労働者諸君、コミューン革命はこれらの原理を確認し、未来における葛藤のあらゆる原因を取り除くものである。……。信用と交換の組織、労働者の結社、無償の世俗的な完全教育、集会と結社の権利、言論の絶対的な自由、市民の自由、警察、軍隊、衛生、統計、その他の業務を自治体の観点でなす組織。……。パリの人民は、自らの都市の主人としてとどまり、……自らの自治体の代表を確保するという至上の権利を、議会の選挙投票において確認するであろう。3月26日の日曜日、パリの人民は誇りをもってコミューンのために投票に赴くであろう。」

  • 3月26日、コミューン評議会の選挙が実施され、内乱中の混乱でありながら成人男子からなる有権者48万5千人中22万5千人が投票に参加した。開票の結果、84名の候補者が当選を果たす。

  • 衛兵中央からは12名が当選した他、ブランキ派からはブランキ(投獄中)、フルーランス(まもなく戦死)、ウード、トリドン、フェレ、リゴー、デュヴァール(まもなく戦死)、ミラーら10名、親ブランキ派が15-16名当選した。また、ヴァルラン、マロン、テイス、ヴァイアン、パンディ、ベレー、アシ、フランケル、ルフランセ、ジュール・ヴァレスなどの15-16名のインター派も当選した。さらに、ブルジョア急進派が20名ほど当選したほか、ドレクリューズ、パスカル=グルーセ、アルヌール、プロトー、フェリックス=ピアをはじめとするジャコバン革命派が当選した。この選挙の結果、パリ・コミューン政府が成立した。コミューン政府は投獄中の者や上記のインター派、ブランキ派、ジャコバン派が大半を占めていたが、ヴァルランやマロンのような熟練職人もいたものの労働者ばかりではなく法律家や医師、事務員をはじめとする小市民、そして教員や学者、芸術家、あるいはヴァレスといったジャーナリストなど無数の知識人が含まれ、職業も思想も様々な人びとが構成する民主連合政権であった。2万人の国民衛兵と市民の祝賀を前に、金色の総飾りに飾られた巨大な赤旗が翻る市庁舎の広場でコミューン政府成立の盛大な式典が開催された。赤い帯飾りをかけたコミューン議員と国民衛兵将校は演台の上に立って、群衆の割れんばかりの拍手喝采を受けた。当選者の名が読み上げられ衛兵中央を代表してランヴィエが自由の女神像の前にて挨拶と祝辞を読み上げた。そして、『ラ・マルセイエーズ』が合唱されて「人民の名において、コミューンが宣言された!コミューン万歳!」の大斉唱が続いた。こうして式典会場はついには革命的民主共和主義の精神を鼓舞する赤旗と自由を祝福する白いハンカチの花畑となった。

  • パリ・コミューンの政権は72日間という短命で終わったが、教会と国家の政教分離、無償の義務教育に関してはコミューン崩壊後の第三共和政に受けつがれた。世界に先がけて実現した女性参政権が、国家レベルで実現するのは1893年ニュージーランドを待たなければならなかった。 かくして、1871年3月28日、パリ市庁舎前でパリ・コミューンが宣言され、以後5月20日まで二か月ほどの期間パリを統治することとなる。老ベレーを議長に、コミューン執行委員会を頂点として執行部、財務、軍事、司法、保安、食糧供給、労働・工業・交換、外務、公共事業、教育の10の各部実務機関が組織された。フランスという国家機構から放棄されたパリ市民は、衛兵中央の補佐を受けつつ各執行部を通じ、自発的に行政組織を再稼動させ、このときからコミューンは「代議體ではなく、執行権であって同時に立法権を兼ねた行動體」として活動をはじめた革命政府となった[27]。その間、教育改革、行政の民主化、集会の自由、労働組合をはじめとする結社の自由、婦人参政権言論の自由、信教の自由、政教分離常備軍の廃止、失業や破産などによる生活困難者を対象とした生活保護、各種の社会保障など民主的な政策が打ち出され、暦も共和暦が用いられた。

  • 4月2日、普仏戦争での敗北の将という汚名返上に燃えるマクマオン元帥率いるヴェルサイユ政府軍による攻撃が開始された(パリの東部と北部はプロイセン軍により封鎖)。衛兵中央は声明を発表し、最終決戦の決意を示している。「労働者諸君、思い違いをしてはならない。これは偉大な闘争である。寄生と労働、搾取と生産とが戦っているのだ。もし無知の中にむなしく日を暮らし窮乏の中に埋没することに飽きたのならば、……、もし諸君の子供たちが自分の労働の利益を手に入れ……自らの汗で搾取者の財産を富ませたり、自らの血を専制君主のために流したりするような動物のごときものでなくなるのを願うならば、……、もし諸君の娘たちが貴族の腕の中で快楽の道具となることを望まないのならば、放蕩と貧困が男子を警察に、女子を売春に追いやることを欲しないのならば、もし諸君が正義の支配を欲するのならば、労働者諸君、賢明であれ、決起せよ!そうすれば諸君の力強い手は汚らわしい反動を諸君の足元に投げ倒すであろう!働いて、善意をもって社会問題の解決を求めるすべての諸君に、進歩に向かって団結することを要請する。祖国とその普遍的精神の運命から霊感を得られんことを!」

かかる決起に見られる勇敢はヴァンドーム広場での帝国円柱の解体要請にも見られた。画家クールベは「ヴァンドーム広場のコラムは記念碑であって芸術的価値に欠けること、過去の王朝の戦争と征服の認識を表現することが恒常化してゆくこと、そしてそれは共和国の感情として許容しがたいこと、これらをかんがみ市民クールベは、国防政府がこのコラムの分解を許可するよう希望する」と上申し、コラムをばらばらに解体するよう提案している。4月12日、第二帝政期の帝権の表象たる円柱は「野蛮の記念碑であり、暴力と虚栄の象徴であり、軍国主義の肯定であり、国際法の否定であり、敗者に対する勝者の円年の凌辱であり、フランス共和国の三大原則の一つである友愛に対する永遠の侵害であることに鑑み」、これを分解することが決議された。図版にも見られるように、5月8日コミューン政府の名の下に円柱は倒された。

「人類初のプロレタリア独裁政権」結局は内ゲバと恐怖政治により自壊

コミューンの高潔なる精神性の発露とは裏腹に、前線では敗戦に次ぐ敗戦で窮地に陥る。ブランキのようにヴェルサイユ側で捕えれ投獄中の者やまもなく戦死した者が続出したため、政府は常時オーバーワークの状態で行政上の負担軽減の必要が生じた。

  • 4月16日補欠選挙を実施して、このときの選挙では軍人のクリュズレ、写実主義の芸術家ギュスターヴ・クールベマルクスの娘婿となるジャーナリストのシャルル=ロンゲ、インターナショナル (歌)の作詞家となる詩人のポティエら20名の議員が選出された。ドレクリューズの発案によって政府部内の改組が行われて行政部の執行権が強化され、9名の閣僚が委員会責任者として指名された。ジュールド(財務)、クリュズレ(軍事)、プロトー(司法)、リゴー(保安)、ヴィアール(食糧供給)、フランケル(労働・工業・交換)、パスカル=グルーセ(外務)、アンドリュー(公共事業)、ヴァイアン(教育)が選出された。プルードン主義者のジュールドが責任者を務める財務部がヴェルサイユ側と内通しているフランス銀行や大手金融機関の預金差し押さえなどの緊急金融措置を渋るなど怠慢な姿勢を見せ、これに業を煮やした各部が政府に反抗して政府部内に革命独裁を志向する機運が生じ始めていった。政府内でのドレクリューズやブランキ派の発言力はいよいよ強まり、政府権限の強化を求めるこの種の機運が高まったものの、財務委員長の無策とこれに反発する強硬派の動きはコミューン政府の統一性に亀裂を生じさせていった。

  • 4月26日にイシ―要塞が攻撃され、パリは周辺の防御線で敗北を重ねていき防衛拠点の要所を次々と喪失していった。徴兵制の再導入を強行することによって兵員の増員を図り、戦闘準備を整えた後攻勢を図るとする軍事委員長クリュズレとヴェルサイユ軍に先手をとって即時攻勢を主張するパリ要塞司令官のドンブロフスキーとの間に不和が生じていた。これは軍の執権を担うクリュズレや後任のロセルと衛兵中央ならびに現場指揮官との権限上の縄張り争い、そしてドンブロフスキーに対する妬みに起因する個人的争いであった。戦時中では極めて非常識なこの二人の確執の結果、戦術面では作戦行動の不統一が生じ、これはヴェルサイユ軍に付入られる隙を与えた。軍人革命家のガリバルディが全軍の総司令官であればこのようなことはなかったであろうが、職業軍人の型に嵌まりきったクリュズレとロセルの融通のなさ、国民衛兵の革命軍としての性格を理解する度量の欠如は国民衛兵の不信感を買い、現場に対する指導力を喪失させることにつながった。戦略面ではコミューン政府の指揮命令権を弱めてヴェルサイユ軍に対する抗戦能力が低下していくことにつながった。

  • 軍事委員長ロセルによる軍事クーデター計画という内憂、そしてヴェルサイユ軍の進軍という外患への恐怖と危機打開のために、コミューン政府はついに革命独裁の樹立要求に屈服するようになる。こうしてブランキ派のリゴーを中心とした警察機関の保安委員会が独裁を要求して、専断的な逮捕が横行するなど次第に恐怖政治へと移行し始めていた。ついにコミューン評議会の内部監視機関となる「公安委員会」が設立される。しかし、パリでは既に内紛が激しくなり、各派の衝突で統一行動ができない状況になっていた。

  • 5月21日、ヴェルサイユ政府軍がスパイの手引きによって夜陰に乗じてサン・クルー門から侵入し始めてパリ市内に突入し市街戦を開始した。大砲陣地を迂回しながら各陣地を孤立させて背面から攻撃する戦術で一つ一つと各個に大砲陣地を攻略、15区、16区を瞬く間に占領して次第に国民衛兵を追い詰めていった。23日にはヴェルサイユ軍はパリ西部から侵入して東部へと攻勢を加えていき、モンマルトルの丘を奪取してパリ中心街を占領していった。敵の圧倒的攻勢に対して、コミューン側は老人、子どもたちはバリケード造りのために路面の石材を剥がして大砲陣地の補強を手伝い、女性たちは武器を持って陣地群で必死の抗戦をしたほか、戦闘中の合間合間で負傷者の手当てや看病をして男顔負けの活躍を見せた。

  • しかし、このときにはヴェルサイユ軍は主要な高地を抑え、勝利条件をほぼ満たしたと言える。ヴェルサイユ軍は自軍が有利に立った以上、無駄な流血を避けて同胞に対して寛大な処置をとることもできたが、捕虜を次々と処刑し、あろうことかティエール政府黙認のもと市民を対象とした本格的な大量虐殺を開始した。戦闘のさなか、コミューンは市街が敵に奪取され拠点とされるのを防ごうと建物という建物に火を放ち、チュイルリー宮や大蔵省など官公庁施設で火災が発生、続いてパリ全土が紅蓮の焔に包まれていった。なお、パリ市庁舎が焼失した際、パリ改造前に作成されていたパリの地図を含む数多くの歴史的文書が失われた。ヴェルサイユ軍は進軍を続けてフランス銀行や証券取引所ルーブル宮を奪取した。報復としてコミューンの警視委員長リゴーは三名の政府側スパイを処刑した。リゴー自身は次の日、政府に捕えられその場で処刑された。5月24日、コミューンは市庁舎の防備を諦めて東部の11区区役所に退避していった。コミューンは物量に勝るヴェルサイユ軍に敗北を重ね、武器弾薬も十分でなく、その組織的抵抗は不可能となっていた。衛兵中央は降伏もやむなしと考え、ドレクリューズをはじめとする代表団を派遣してヴェルサイユ軍に和を乞うたが、それも裏切りと見なした市民に阻まれ交渉もできない状況にあった。万事休すであった。コミューン指導者たちは各々死を決意してそれぞれの死を選んでいった。死を悟ったドレクリューズは正装してシルク・ハットと燕尾服に身を包み敵軍に進み出て敵の一斉射撃を受け華々しい最期を遂げた。

  • ヴェルサイユ軍による虐殺は次第に激化し、略式軍事裁判という形式を踏まえた意味のない処刑劇が繰り返された。「市民の生命は鳥の羽根ほどの重さもない。ウィ・ノンとを問わず、逮捕され銃殺される」という状況であった。この「血の週間」と呼ばれる凄惨な市街戦により無差別殺人が発生して、老若男女を問わず多くの市民が殺傷された。市民もダルボア大司教、ドゲリー大司教、銀行家ジャッケルなどの人質を街路に引きづりだして銃殺するなどして、双方で不毛な殺し合いの応酬を重ねることとなった。ベルヴィール地区に残されたコミューンは軍事委員となったヴァルランとヴィレットによる最後の抵抗を試みていた。27日、コミューンの最後の死闘は一方的な殺戮の様相を呈することになる。ヴァルランによる最期の降伏決断も「降伏などせず、闘いながら死ぬこと、これこそがコミューンの偉大さを形成」すると語る同士の反対で空しく覆された。最終的に、パリ侵入から最終局面までに3万人にのぼるといわれる戦死者を出してパリ・コミューンは瓦解、ペール・ラシェーズ墓地での兵士・市民の決死の抵抗と殺戮を最後に5月28日、パリ市全域は鎮圧され、コミューンは崩壊した。

 戦闘終了後も、ヴェルサイユ政府軍が主張する「法と正義」による白色テロは収まらず、多数の国民衛兵および市民が即決裁判によりコミューン戦士は銃殺され続けた。地中からはまだ息のある戦士たちの呻きが上がっていた。ヴァルランは憔悴して腰をかけているところをヴェルサイユ側に逮捕され、クレマン=トマ将軍、ルコント将軍殺害の手先として投石と罵声による市中引き回しの辱めを受けた。リンチによって眼球が飛び出すなど瀕死の際にいたって、ヴァルランは「共和国万歳!コミューン万歳!」の最後の叫びを残して絶命した。その後、ヴァルランの遺体からは時計など身の回り品が略奪された。他のコミューン戦士も戦闘を生き残った者は次々と逮捕され、狭い監獄にすし詰めに投獄されたのち放置され、初夏の暑さで弱った者から順次処刑されていった。関係のない市民もその場にいたという不条理な理由で殺されたほか、ヴェルサイユ軍の将軍たちは捕虜に因縁をつけては処刑するなど、パリ全域はコミューン退治を口実とした阿鼻叫喚の世界と化していた。パリ・コミューンの制圧は、穏健的共和派や王党派にとっては「危険な過激思想を吹聴する叛徒」を排除する絶好の機会であった。逆説的に、この「功績」によりティエール率いる共和派は、農民、ブルジョワジ、王党派から第三共和政という政治形態の支持を得られることとなった。

Wikipediaの面白さは、こういう「マイク渡しちゃいけない人にマイクを渡しちゃった」感のある投稿がしばしば紛れてるあたり。

http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/kawaguchi-yukihiro/20070207/20070207101528.jpg

 いずれにせよこれが「善悪のはっきりしていた時代」の真実。かくしてあらゆるフランス人有識者が語るべき言葉を喪失して失語症に陥った時、最初の一声を上げたのが詩人の一人がランボー(Jean Nicolas Arthur Rimbaud, 1854年〜1891年)でした。詩人としての実質活動期間が1871年から1875年と短かかったのも、そうした特異な時代精神に適応し過ぎたせいとも。

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彼が発表した象徴詩に示唆されていたのはパリ・コミューン義勇兵の輪姦示唆、その彼らが虐殺されていく様に歓喜するブルジョワ階層、こうした全てに「見ない権利」を行使する有識者層。「(様々な意味で)言葉では語れない事を象徴で示唆する」ドイツ流文学的発想を導入した「おそるべき通行人」…現代ではここに「戦場にかける橋(The Bridge on The River Kwai、1957年)」や「太陽の帝国(Empire of the Sun、1987年)」といった映画でも仄めかされるストックホルム症候群心理を指摘する向きも。
*そしてなぜか「本当は全部日本人がやった事だ」に落ち着く理不尽…

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パリ=コミューンに集結した義勇兵達の心は「自分達だけが世界史上に初めて登場した唯一無二の正義の実践者である」という確信で満たされていました。だからパリ市民に連日の様に乱暴狼藉を振るい、追い詰められるとパリに残る歴史遺産を破壊し尽くそうとした様です。ちなみに彼らが信奉していたブランキの暴力革命論はフランシス・コッポラ監督映画「地獄の黙示録(Apocalypse Now、1979年)」の中でベトナム戦争に便乗してジャングルの奥地に自分だけの王国を建設した独裁者も引用しています。

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そして4度目は?

フランス五月革命(1968年)

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フランスのパリで行われたゼネストゼネラル・ストライキ)を主体とする民衆の反体制運動と、それに伴う政府の政策転換を指す。パリ五月革命ともいう。

  • 事件の発端は1966年に起こったストラスブール大学の学生運動で、教授独占の位階体制に対する「民主化」要求からはじまる。ナンテールに波及し、1968年3月22日にはベトナム戦争反対を唱える国民委員会5人の検挙に反対する学生運動に発展、ソルボンヌ(パリ大学)の学生の自治と民主化の運動に継承された。アナーキストのダニエル・コーン=ベンディットと統一社会党のジャック・ソヴァジョ、毛沢東主義者のアラン・ジェスマル、トロツキストのアラン・クリヴィンネが指導し、一部の労働者も同趣旨から民主化に賛同し運動は拡大した。

  • 5月2日から3日にかけて、カルチエ・ラタンを含むパリ中心部で大規模な学生デモがおこなわれた。21日にはベトナム戦争(その中でもアメリカ合衆国)、プラハの春事件(その中でもソビエト連邦)等に反対し「自由と平等と自治」を掲げた約1000万人とされるの労働者と学生がパリでゼネストを行った。これに対して、フランス治安部隊がこの参加者を殴打したため、抗議した民衆によって工場はストライキに突入し、フランスの交通システムはすべて麻痺状態に陥った。「中央委員会」は間接的に援助、各大学もストライキに突入し、このゼネスト第二次世界大戦以来のフランス政府の危機をもたらした。

  • 「モスクワの長女」とも言われるほどソ連と関係が深く、「スターリン主義」的なフランス共産党は、当初は影響下にある労組ナショナルセンターであるCGT(労働総同盟)を通じて労働者のストライキを組織したが、ベンディットらのソ連をも非難した急進的な学生運動を一貫して否定し、バリケードを構築しての衝突や街頭占拠を積極的に推し進めるアナーキストトロツキストたちを「挑発者」として、激しく非難した。

  • シャルル・ド・ゴール大統領は、軍隊を出動させて鎮圧に動くと共に国民議会を解散し、総選挙を行って圧勝し、この「革命」が国民大多数の意見を反映したものではないことを証明し事態の解決をみた。

  • 西ドイツや日本、イタリアなどの先進国の左翼学生たちに影響を与え、それらの先進国における学生運動の激化をもたらしていったものの、その後過激化する学生運動は各国で大多数の国民からの支持を失い1970年代初頭になると急速に鎮静化していく。

  • 政治的側面のみならず、「旧世代に反対する新世代の台頭」あるいは「フリーセックス」「自由恋愛」に代表されるような「古い価値観を打破する20世紀のルネッサンス運動」という意識を持って参加するものも多かったと言われ、またこの運動により労働者の団結権、特に高等教育機関の位階制度の見直しと民主化、大学の学生による自治権の承認、大学の主体は学生にあることを法的に確定し、教育制度の民主化が大幅に拡大されたと評価する者もいる。「フランス及びドイツでは短期的には成就しなかった革命は五月革命などの主体となっていた学生たちが起こした社会運動によって成し遂げられていった」という評価をする者もいる。

しかし実際には、この最中で行われた総選挙においてド・ゴール大統領派が圧勝した他、アメリカでは「保守的」とされたリチャード・ニクソンも大統領選で圧勝し、日本でも自由民主党が安定多数を堅持するなど、左翼的な学生運動や労働運動以外に対しては大きな影響力は持たなかった。

 それは自由の追求から始まった筈のヒッピー運動が「シャロン・テート惨殺事件(1969年)」や「ガイアナ人民寺院集団自殺事件(1978年)」に終わった時代。誰もが「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」というジレンマを意識せざるを得なくなっていく時代でもあったのです。

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まだ続きがあるのがフランスの恐るべきところ?

  • フランスにはスターリン批判(1956年、1961年)によって命脈を絶たれたスターリン主義者が幾人かいた。彼らが逃げ込んだのは、当時「第三の道」路線が話題となっていたアラブ社会主義の世界。賓客としてもてなされた彼らは、聴衆が望むままに「すでに欧米社会は終焉している。君達が一刻も早く滅ぼし尽す事だけが国際正義である」なるイデオロギーを中東じゅうに広めた。日本赤軍とあわせイスラム過激派の源流に位置付けられている。

  • その一方で(急進派共和主義者達がパリ=コミューン震源地として神聖視する)パリ近郊の貧民街の住民は今やムスリム移民に入れ替わっている。これを受けて「シャルリー・エブド(Charlie Hebdo)襲撃事件(1916年1月7日)」以降は次第にフランス無政府主義者の間にイスラムサラフィー・ジハード主義(Salafi Jihadism)への共感が広がり、パリ同時多発テロ事件(2015年11月13日)後に非常事態宣言が出されると、これに反抗する形で「暴力デモ」を引き起こした(検挙者208人、24時間拘留者174人)。www.youtube.com
    *「暴力デモ」…日本のマスコミは「人道主義を守る為の正義のデモ」としか報じなかったが、その実態は「オランド政権転覆デモ」で、日韓の市民団体も加わり「我々は安倍と朴のファシズム政権を打倒する」という横断幕を広げていた。

    http://www.labornetjp.org/image/2015/pari01

    blogs.yahoo.co.jp

5度目の正直…ところで、どの蜂起も反対派の強化にしか繋がってない様に見えるのは気のせいでしょうか。まるで「雨降って土固まる」の「雨」の様な…

ochimusha01.hatenablog.com

さて、私達はどちらに向けて漂流してるんでしょうか。