諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「負け犬」の文学史・序章

日本においては朝廷での政争における藤原氏の圧勝が「源氏物語」を、武家の惣領争いにおける源氏の勝利が「平家物語」を生んだとされています。

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そういえば「万葉集」を編纂したのも没落過程にあった大伴氏。京都から遠く離れた僻地に赴任した人々が心情を吐露した「防人歌」や貧富格差の拡大を弾劾する山上憶良貧窮問答歌」といった社会派の詩歌が充実してるのはそのせいとも。

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その大伴氏が残した問題作が「海行かば」。

 【Wikipedia】愛国歌「海行かば」の歌詞

万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(『国歌大観』番号4094番。『新編国歌大観』番号4119番。大伴家持作)の長歌から採られている。
*我ら大伴氏は、遠祖「大久米主」の時代から以下の家訓に従ってきた。

 海行うみゆかば If I go away to the sea、
 水漬みづく屍かばね I shall be a corpse washed up.
 山行やまゆかば If I go away to the mountain、
 草生くさむす屍かばね I shall be a corpse in the grass
 大君おおきみの 辺へにこそ死しなめ But if I die for the Emperor、
 かへりみはせじ(長閑(のど)には死しなじ)It will not be a regret.

「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない(命など惜しまない)」

*歌詞は2種類ある。「かえりみはせじ」は「賀陸奥国出金詔書歌」によるが、「長閑には死なじ」は「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)による。

*また国際SNS上で検索してみたら「神風特攻隊が出撃前に歌った歌」という伝えられ方もしてるっぽい。

 大日本帝国時代の軍歌が有名ですが、愛国歌(patriotic song)にありがちな戦意高揚を煽る文言は皆無。それもその筈で、元来は朝廷における政争に敗れ天皇の寵愛を失っていく過程の大伴氏が詠んだ「恨み節」の一種だったのです。

大伴氏 - Wikipedia

原義は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む。また祖先伝承によれば来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたとも考えられている。ただし両氏族には親衛隊的な大伴氏と国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた。

  • 古来の根拠地は摂津国河内国の沿岸地方であったらしい。河内国には大伴金村の「住吉の宅」があり「万葉集」でも「大伴の御津の浜」「大伴の高師の浜」と詠われている。住吉はヤマト王権の重要な港であった住吉津が所在したところであるし「御津」は難波津、「高師」は現在の大阪府高石市一帯のことである。

  • 一方で、遠祖・道臣命が神武東征での功労により大和国高市郡築坂邑に宅地を与えられたとの『日本書紀』の記述や、大伴氏の別業が同国城上郡跡見荘にあったこと等により、のちに根拠地を大和国の磯城・高市地方に移したものと想定される。

  • 5世紀後半に現れた大伴氏の最初の実在人物とされる大伴室屋が雄略朝で大連となり、それまでヤマト王権に参画して勢力を誇っていた葛城氏に替わって大伴氏が急速に台頭する。武烈朝で大連となった大伴金村の時代が全盛期で、その後継体・安閑・宣化・欽明まで5代にわたって大連を務める。この間、金村は越前国から継体天皇を皇嗣に迎え入れるなどの功績により、ヤマト王権内に確固たる地位を築いた。しかし、任那の運営を任されていたところ、欽明朝における任那4県の百済への割譲策について、同じ大連の物部氏から失政として咎められて失脚し、摂津国住吉郡(現大阪市住吉区帝塚山)の邸宅に引退した。以後、蘇我氏物部氏の対立の時代に入る。

  • 大伴氏の力はすぐには失われず、大伴磐・大伴咋・大伴狭手彦は大将軍や大夫(議政官)に任ぜられ、大化の改新の後の大化5年(649年)には大伴長徳が右大臣になっている。また、弘文天皇元年(672年)に発生した壬申の乱の時は長徳の弟にあたる大伴馬来田・吹負兄弟が兵を率いて功績を立てている。以後も奈良時代までの朝廷において、大納言まで昇った大伴御行大伴安麻呂大伴旅人以下、多数の公卿を輩出した。

  • その一方で、大伴安麻呂大伴旅人大伴家持大伴坂上郎女などの万葉歌人も多く世に出している。ほかに、遣唐副使を務めた大伴古麻呂は独断で鑑真を唐から密航させて日本へ導いている。

しかし奈良時代から平安時代前期にかけての政争に関わって一族から多数の処罰者を出し、徐々に勢力が衰えていく。

  • 神亀6年(729年)に発生した長屋王の変では、長屋王と親しかった大伴旅人が事件前後に一時的に大宰府に左遷される。その後、奈良時代中期の藤原仲麻呂政権下において、天平勝宝9歳(757年)の橘奈良麻呂の乱で、大伴古麻呂が獄死、大伴古慈悲は流罪(称徳天皇崩御後に復帰)に処される。また、大伴家持は別途藤原仲麻呂の暗殺計画に関わっていたとされ、天平宝字8年(764年)薩摩守に左遷されている。

  • その後、家持は天応2年(782年)に発生した氷上川継の乱連座して解官の憂き目に遭いつつも、最終的に桓武朝初頭に中納言にまで昇った。延暦3年(784年)桓武天皇長岡京への遷都を実行する。大伴氏はこの政策に不満を持っていたとされ、遷都の責任者であった中納言藤原種継を暗殺する事件(藤原種継暗殺事件)を起こす。乱後、大伴古麻呂の子・継人は首謀者として死刑、直前に没していた家持も除名された。

  • 平安時代初期には、初代・征夷大将軍となって蝦夷征討で功績を挙げ従三位に昇った大伴弟麻呂や、藤原種継暗殺事件の首謀者・継人の子として若くして流罪となるも、恩赦後に内外の諸官で業績を上げて参議に任ぜられた大伴国道と公卿を輩出している。また、弘仁14年(823年)淳和天皇(大伴親王)が即位するとその諱を避けて一族は伴(とも)と氏を改めた。

  • 承和9年(842年)に発生した承和の変では伴健岑が首謀者として流罪となり、藤原氏による他氏排斥で伴氏も打撃を受けたとされるが、実際に五位以上の氏人で連座した者はいなかった。

  • その後、国道の子・伴善男仁明天皇の知遇を受けて頭角を現し、清和朝の貞観6年(864年)には旅人以来130年振りに大納言に昇る。しかし、貞観8年(866年)に発生した応天門の変では善男・中庸父子が首謀者とされてその親族が多数流罪となり、伴氏の公卿の流れは断絶してしまった。

  • 天慶2年(939年)に伴保平が6ヶ国の国司を勤め上げて72歳にして参議に任ぜられ、伴氏として75年振りに公卿となる。保平は高齢を保ち天暦4年(950年)従三位にまで昇り、翌年には朝臣姓に改姓するが、結果的に伴氏としては最後の公卿となった。

平安時代前期には、紀氏と並んで武人の故実を伝える家とされたが、武士の台頭とともに伴氏は歴史の表舞台から姿を消していく。

国際SNS上における海外の日本文化ファンの評価がまた面白いのです。マニアック過ぎて到底一般意見とはいえない上に、そういうタイプに限って日本文化のみのマニアという事はありませんから、いろいろな観点が入り込んできます。

  • 「辺境に派遣され原住民との戦いで虚しく命を散らしていったローマ軍団の悲哀を思い出す(白人)」
    *実際「古事記」「日本書紀」に収録された「久米歌」の中で、大久米主はいつ敵が襲ってくるかわからない緊迫した状況下「盾垣」を組んで行軍する。

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  • 「カデシュの戦い(紀元前1274年前後)において、それまで向かうところ敵なしと恐れられていたヒッタイトに立ち向かったエジプト兵の悲壮な覚悟を思い出す(黒人)」
    *アメリカの黒人インテリは古代エジプト文明が大好き。「黒いファラオ(The Black Pharaohs)」を輩出してきたヌビア(Nubia、エジプト歴代王朝に金、鉄、銅といった鉱物資源を供給してきたナイル川上流域)住民の原種こそ古モンゴロイド系だったが、古代より「黒人との混血」と言い伝えられてきたし、またヘレニズム期に入ると実際に墳墓から「アフリカ系とギリシャ系の血を引く貴人のミイラ」が出土したりするのである。ただしイスラム化以降アラビア人が大量流入して現在は圧倒多数となっている。

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 ちなみにどちらも「曲を聴いて」ではなく「詩を英文で読んで」の感想。国籍を問わず原文に込められた「悲壮な決意みたいなもの」はそれなりの形で伝わる様です。一方逆に「欧米人から一貫して頭ごなしに拒絶されてしまう日本の詩」も存在します。

いろは歌 - Wikipedia

 いろはにほへと ちりぬるを
 わかよたれそ つねならむ
 うゐのおくやま けふこえて
 あさきゆめみし ゑひもせす

 色はにほへど Even the blossoming flowers
 [Colors are fragrant、 but they]
 散りぬるを Will eventually scatter
 我が世たれぞ Who in our world
 常ならむ Is unchanging?
 有為の奥山 The deep mountains of vanity--
 今日越えて We cross them today
 浅き夢見じ And we shall not have superficial dreams
 酔ひもせず Nor be deluded.

 An English translation by Professor Ryuichi Abe(1999)

 Although its scent still lingers on
 the form of a flower has scattered away
 For whom will the glory
 of this world remain unchanged?
 Arriving today at the yonder side
 of the deep mountains of evanescent existence
 We shall never allow ourselves to drift away
 intoxicated、 in the world of shallow dreams.

概ね「匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。いま現世を超越し、はかない夢をみたり、酔いにふけったりすまい」といった意味で解釈される。『涅槃経』の中の無常偈(むじょうげ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」(諸行は無常であってこれは生滅の法である。この生と滅とを超えたところに、真の大楽がある)の意訳とも。文中の「有為」は仏教用語で、因縁によって起きる一切の事物。転じて有為の奥山とは、無常の現世を、どこまでも続く深山に喩えたもの。

院政期以来卜部兼方の『釈日本紀』などには、いろは歌は空海の作であるとするが、それが史実である可能性はほとんどない。空海の活躍していた時代に今様形式の歌謡が存在しなかったということもあるが、何より最大の理由は空海の時代にはまだ存在したと考えられている上代特殊仮名遣における「こ」の甲乙の区別はもとより「え(e)」と「や行え(je)」の区別がなされていないからである。

頭ごなしに拒絶されてしまう理由は「内容があまりにも死と絶望に満ち過ぎてる」せい。「 幕末来日した外国人が子供が歌ってるのを聞き、意味を聞いて衝撃を受けた。どうして子供にこんな陰鬱な歌を暗唱させるのかとしつこく聞かれた」なんて話も伝わっています。確かにこうした観点から再読すると、映画「Mad Max: Fury Road(2015年)」に登場するWar Boysの玉砕直前における辞世の句であってもおかしくない?

いつの間にか話の主軸が「政治的敗者が文学に救済される伝統」から「受け手側の状態変化」に軸ズレしてしまいましたね。同じ事がタナトス(Thanatos、死の誘惑)に魅入られたビーダーマイヤー期(Biedermeier、1815年〜1848年)ドイツのロマン主義歌謡でも起こってます。これらの作品で死に魅入られたのは果たしてゲーテシューベルトといった作者側だけだったのか、それとも…

軽薄に向かう時代こそ無意識化で存在不安が高まり、ある種の残酷さを秘めた作品やシュールな作品が流行する」なんて観点も存在します。日本だと「およげ!たいやきくん(1975年)」のヒットがこうした話と関連付けて語られる事も。

一方、ナチス時代のドイツ人をビーダーマイヤー期的軽薄さに留め置こうとしたゲッベルス宣伝相は、この曲の流行に頭を悩ましたとされています。

『リリー・マルレーン』(Lili Marleen)

第二次世界大戦中に流行したドイツの歌謡曲。1915年にロシアへの出征を前にドイツの詩人ハンス・ライプ(Hans Leip)が、ベルリンのある兵営の営門に歩哨に立った時に創作した詩集「Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht(港の小さな手風琴)」に収録されていた詩を原典として、第二次世界大戦直前の1938年作曲家ノルベルト・シュルツェ(Norbert Schultze)が曲をつけた。歌手のララ・アンデルセンの1939年2月に録音したレコードが有名になった。

  • しかし1939年に発売した当初、アンデルセンのレコードは60枚しか売れなかったと言われている。そこで販売店に山積みになっていた売れ残りのレコードから、店員がドイツ軍の前線慰問用レコード200枚の中に2枚紛れ込ませた。それが1941年の秋に初めて流され、それ以後も放送で繰り返しかけられて人気を得た。

  • 第二次世界大戦下の一時期、21時57分にベオグラードのドイツ軍放送局から流れたこの歌に、多くのドイツ兵が戦場で耳を傾けて故郷を懐かしみ、涙を流したといわれている。また、ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行したため、北アフリカ戦線のイギリス軍司令部は同放送を聞くことを禁じた。アンデルセンも慰問で人気者になったが長くは続かなかった。

  • 1942年夏、アンデルセンの親しい関係にあったロルフ・リーバーマンがユダヤ人であったことが当局に知られてアンデルセンの歌手活動が禁止され、アンデルセンの録音したレコードの原盤が廃棄される事態となる。「リリー・マルレーン」の歌と曲自体は、ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相の指示により別バージョンが作られた。

歌詞の内容は、戦場の兵士が故郷の恋人への思いを歌ったものである。

 (略訳)
 兵営の前、門の向かいに
 街灯が立っていたね
 今もあるのなら、そこで会おう
 また街灯のそばで会おうよ
 昔みたいに リリー・マルレーン
 俺たち2人の影が、1つになってた
 俺たち本当に愛しあっていた
 ひと目見ればわかるほど
 また会えたなら、あの頃みたいに
 リリー・マルレーン
 もう門限の時間がやってきた
 「ラッバが鳴っているぞ、遅れたら営倉3日だ」
 「わかりました、すぐ行きます」
 そして俺たちお別れを言った
 君と一緒にいるべきだったのか
 リリー・マルレーン
 もう長いあいだ見ていない
 毎晩聞いていた、君の靴の音
 やってくる君の姿
 俺にツキがなく、もしものことがあったなら
 あの街灯のそばに、誰が立つんだろう
 誰が君と一緒にいるんだろう
 たまの静かな時には 
 君の口元を思い出すんだ
 夜霧が渦を巻く晩には
 あの街灯の下に立っているから
 昔みたいに リリー・マルレーン

女性歌手によって歌われることが多い。日本ではベルリン出身のハリウッド女優、マレーネ・ディートリヒの持ち歌として知られている。第二次世界大戦当時、ナチス政権下のドイツを離れ、アメリカの市民権を得ていたディートリヒは進んで連合軍兵士を慰問しこの歌を歌ったのである。そのため、ドイツでのディートリヒは敵側の人間(反逆者)と見なされ、戦後も不人気であった。

戦時下の英国で製作されたこの曲に関するドキュメント映画なるものもあって、その受容経緯の複雑の片鱗が紹介されています。
*「ドキュメント映画」…動画コメントによると、作詞の現場が国際都市ハンブルグだった点が強調されたり、ララ・アンデルセンがスェーデン人だった事にされたりとプロパガンダ色は相応にある模様。

ドイツ映画「リリー・マルレーン(Lili Marleen、1981年)」には「今は明るいものしかダメだ」「宣伝相のゲッベルス閣下は、あの歌は死臭がすると、そう言っておられる」なんてストレートな台詞のやり取りまである模様。やはり、どうしてもタナトス(Thanatos、死の誘惑)の話題に戻そうという同調圧が掛かるのか…

訳が分からないのが同時代の日本。上海を塹壕線で囲んで日本軍と対峙していた国民党軍は「厭戦気分を蔓延させる為」大音量で連日ジャズを鳴らし続けました。一方、当時の日本兵はみんな野村胡堂銭形平次(1931年〜1957年)」を戦場にまで持ち込んで暇さえあれば読んでいました。その結果「銭形平次といったらジャズ」という連想が生じる様になったとされているのです。
*「国民党軍は大音量で連日ジャズを鳴らし続けた」「日本兵はみんな銭形平次を読んでいた」…現場にいた米国人ジャーナリストのエドガースノーが「
アジアの戦争(The Battle for Asia、1941年)」にそう記している。さらに「銭形平次情状酌量の余地さえあれば殺人犯でも逃す。日本兵にとって銭形平次は戦場で人を殺す罪悪感から救ってくれるバイブルの様な存在だったのかもしれない」という憶測も添えている。

「ブルースの女王」淡谷のり子をスターダムに伸し上げた「別れのブルース(1937年)」が流行したのもこの時代。淡谷のり子戦時下で多くの慰問活動を行いつつ「もんぺなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく歌手にとっての戦闘服」なる信念に基づいて(第二次世界大戦中には遂に禁止されてしまう)パーマをかけ、ドレスに身を包み、死地に赴く兵士たちの心を慰めながら歌い送ったとされています。あれ? どこに当時の日本人の葛藤が?

生きた戦前、戦中の話 その一

そもそも明治時代以降、日本人は「音楽教養の国際化」を志向して海外唱歌を大量輸入して学校で教え続けてきました。お陰で近代以降の時代の日本人はすっかり国際音楽に馴染みましたが、その間想像以上にイメージのズレが累積する事に。

むすんでひらいての謎 ドナドナ研究室

ちょうちょう (唱歌) - Wikipedia

 このネタ案外パンドラの箱かもしれません。

  • そもそも冒頭で挙げた「源氏物語」も「平家物語」も「現生の栄華盛衰の虚しさを教える」仏教文学という側面を備えている。そして仏教文学においては「最終的破滅」は敗者だけでなく誰をも待つ必然的末路とされる。
    *何故か多くの日本人が暗記している平敦盛の最後「泣く泣く首をぞかいてんげる」。ちなみに織田信長が好んだとされる「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」も幸若舞「敦盛」の一節。ただこれ仏教というより「バガヴァッド・ギーター」に登場する武人の心得では?

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  • タナトス(Thanatos、死の誘惑)」と表裏一体の関係にあるドイツ・ロマン主義文学にも似た様な側面がある。
    *そのさらなる起源は歴史上実在した特定家系の盛衰を扱った中高地ドイツ語叙事詩ニーベルンゲンの歌(Das Nibelungenlied、13世紀頃成立)」や「メリュジーヌ物語、あるいはリュジニャン一族の物語(Le roman de Mélusine ou histoire de Lusignan 、散文版1397年、韻文版1401年以降)」にまで遡るのかもしれない。フリードリヒ・フーケ「ウンディーネ(Undine、1811年)」と合わせ「異類婚は必ず悲劇に終わる」の様な共通ルールが存在する。

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  • ただしこうした悲劇性は消費者側の意向の重要度が強まった大衆芸術の時代には必ずしも歓迎されなくなっていく。
    *ただ要求の度合いがジャンルによって異なる。最も強い影響を受けたのは大衆小説の世界。ほとんど影響を受けずに済んだのはオペラやバレエや歌謡曲の世界。

  • 第一次世界大戦以降の総力戦時代に入ると「戦意高揚に水を差す厭戦芸術の規制」という新たなファクターが登場。
    *ただし何が
    厭戦芸術かはあくまで取り締まる側の主観に過ぎなかったり、醒めた客観性と精神的没入状態が同居する魔術的リアリズムの世界が登場したりして何かと判断が難しい。

「三昧の境地」が絡んでくるせいで「負け犬」の定義が困難に…

三昧(Samādhi)

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サンスクリット語におけるサマーディの音写で三摩提、三摩地ともいう。仏教における禅定、ヒンドゥー教における瞑想において、精神集中が深まりきった状態のこと。インドの瞑想の伝統の中で培われたものであり、仏教だけでなく、共通の背景を持つヒンドゥー教やヨーガの用語としても用いられている。

  • 日常表現ではこの仏教用語を拡大解釈して、まるあそびやあることばかり続いている「~に漬かりっぱなし」(読書三昧、勉強三昧、ぜいたく三昧、今日は一日○○三昧など。この場合、連濁して「~ざんまい」と発音される)という意味で用いられることもある。インスタントラーメンの商品名にも「中華三昧」がある。

  • 玉木正之川上哲治が好んで「野球三昧」と揮毫していたことを紹介し「この言葉は言い換え語の『野球漬け』などよりよほど深い、日が暮れるまで野球に明け暮れた少年時代に通じる境地」と述べている。

  • 火葬場のことを「三昧」ということがある。主に北陸地方。愛知県尾張地方に葬祭儀礼、仮埋葬、火葬を行う場所を「三昧」と呼ぶ例あり。

北原白秋(1885年〜1942年)は作詩に際して「三昧の境地=一心不乱に遊びに没頭して時間が経つのも忘れる幼児の精神状態への回帰」を標榜した。これはキリスト教徒だったキェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard、1813年〜1855年)の「時間や空間に還元出来ない生命の本質への回帰」や日蓮宗門徒だった宮沢賢治(1896年〜1933年)の「(時間も空間も超越した彼方でのみ実現する)久遠の仏との合一」と合致する心境であったと考えられている。

さて、私達はどちらに向けて漂流してるんでしょうか…