諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「ヒトラー再来」の正しい恐れ方

大まかな処方箋としてはこんな感じ?

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①「あらゆる暴力を独占的に行使して思想統制まで敷く独裁者」は、突如現れて人々を暴力とプロパガンダで屈服させ始める訳ではない。泥沼化した内ゲバや密室政治を背景にそれなりに利用価値はあるが、自ら大それた事は企めない小悪党」を装って各勢力の警戒心を解かせ、互いに滅ぼし合わせたり(復讐の継承を約束して)全権委任を受けたりしながら、次第に力をつけていくのである。
*まさしく「血の報酬(Red Harvest、1929年)」で描かれたハメットのハードボイルド世界。

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困った事に、この方式で現れるのは「絶対悪=あらゆる暴力を独占的に行使して思想統制まで敷く独裁者」だけではない。

まさしく「タフでなければ生き残れない。タフなだけでは生き残る資格がない」名言でお馴染みのレイモンド・チャンドラーのハードボイルド世界。

 ②「全てが過ぎ去った後の身勝手な反省」に気をつけよ。光と音は空間を伝わる速さが違うから雷光と雷鳴の時間差が生まれる。それについて「雷光こそ雷鳴の原因であり、雷光の出現さえ防げれば雷鳴の出現は予防可能である」なる疑似科学を押し付けようとする人間が現れる。
伊丹万作 戦争責任者の問題

多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏につとめていたのであろう。

  • 「総力戦完遂の為にプロパガンダによって徹底的に敵イメージの異化と味方イメージの同化をはかろうとする」カール・シュミットの「敵友理論」式思考様式。概ねそれは「あらゆる暴力的手段を独占する国家が思想統制も敷く時代」を現出させ、 は後に必ず破綻する。
    「後に必ず破綻する」…確かに「敵友理論」がもたらす熱狂的陶酔感それ自体は政治的軍事的敗北とそれに伴う幻滅に終わるとは限らない。勝者の側は、ある種のユーフォリア(Euforia,Euphoria桃源郷)へと導かれる。アメリカにとっての1950年代、ソ連にとってのブレジネフ書記長時代(1966年〜1982年)…そして全ての幻想が消え去った後にある種の疾風怒濤期的反動が巻き起こるのでる。

  • 幻滅の時代」が到来すると、それまで散々巻き込まれてきた参加者の「自己信頼感」も巻き添えとなって揺らぎ外罰的態度」や「内罰的態度」が表面化してくる。そして最後の過渡期としての1970年代後半~1990年代前半にかけて最後の国際的過渡期が訪れる…
    「自己信頼感(self-confidence)」…「自分はちゃんとやればちゃんと出来る人間」という基本的信頼感。
    「外罰的態度」…突如スケープゴートを仕立て上げ「オレ達はこいつに騙されていた!! 絶対許すな!!」と断罪を始める思考様式や行動様式。
    「内罰的態度」…自己信頼を喪失した結果「自分は何をやっても上手くいかない(誰か自分を叱ってくれる人に全ての判断を委ねたい)」「敵の考えや振る舞いこそ全て正しく、自分達のの考えや振る舞いは全て間違っている」式の自虐に陥る思考様式や行動様式。的思考様式に陥る。

*こうして全体像を俯瞰してみると、当時起こった事もその後起こった事も概ね全て「連続する一つの現象」として把握出来てしまう。そこにあえて「人間が本質的に備えている筈の善悪の分別」とか「あるべき倫理的因果関係の発見と遂行義務の発生」といった概念を投影し熱狂的陶酔状態を引き出すのがカール・シュミットによって編纂された政治哲学の真骨頂。そして、その衣鉢を継ぐ現代の政治的浪漫主義者達という事になる。

③そもそも実は「あらゆる暴力を独占的に行使して思想統制まで敷く独裁者」や「革命の勃発」の登場を最優先で警戒しなければならない時代など存在しない。そうした動きが熱狂的支持を得るのは常に「社会や政治や経済が本格的に破綻して誰にも処方箋が提出出来なくなった状況」に限らる。その時点ではもう、臣民や市民や国民が最優先で「独裁者の登場」や「革命の勃発」を警戒する事は有りえなくなっている。
*日本だと戦前について「大日本帝国末期の暴走は、軍部そのものの暴虐というより、政治家も財界人も本来の責務を投げ出した結果、専門外の軍人が政治問題や経済問題まで背負わされた結果起こった歴史的悲劇だった」と反省する立場の人達がこれに近いとも。逆に「そこで革命が全てを掌握するのが国際正義」と主張する人は、当時の日本軍部と何ら違いはないとも。まぁ「それぞれがスペシャリストとして本分を尽くすのが正解」という事実は動かない。

*ハリウッド映画「キングコング(King Kong、1933年)」大ヒットの背景にも同様の事情があった。世界不況のせいで劇場を辞めさせられ、つい果物を万引きしそうになるほどの困窮状態に追い込まれた女芸人。そしてパトロン達から見捨てられ、一発逆転のチャンスを狙うドキュメンタリー映画監督。二人の出会いが「超えてはならない一線(Point of no return)」を超えて禁断の島に向かうのが物語の冒頭だった。同じ年には(普仏戦争敗戦からパリ・コミューン殲滅戦に至る血塗れのパリを闊歩する狼男が「本能に逆らえず仕方なく殺す俺達よりお前達の方がよっぽど沢山殺し合う」と冷徹に指摘する)ガイ・エンドア「パリの狼男(The Werewolf of Paris 1933年)」もベストセラーになっている。「世界恐慌によって荒廃し切った当時の観客や読者の心理」抜きにはこの時代について何も語れない。そしてこうした「ただひたすら生き延びるのに必死な人々に対して観客や読者のアンビバレントな共感が集中した時代」の延長線上にマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬGone With the Wind、原作1936年、映画1939年)が登場するのである。

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*左翼陣営はどうして世界が破滅に瀕していると主張したがるのか? それは自分達が全権を握るチャンスを虎視眈々と狙っているから。どうして左翼陣営はファシズムやナチズムの脅威を強調したがるのか? それは同じタイミングで動く最大のライバルだから。
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さらに全体像を俯瞰するなら「あえて最も警戒すべきは、一人一人の自己信頼感の減衰」という事になるのかもしれません。メディア・リテラシーmedia literacy)の低下が叫ばれて久しいですが、ネット上における炎上案件の背景にあるのも大概はこれかと。

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シェークスピアの「リチャード3世The Tragedy of King Richard the Third、初演1591年)」。に描かれる独裁者への道も、誰からも「それなりに利用価値はあるが、自ら大それた事は企めない小悪党」と思われる事で警戒心を解かせて付け込むというものでした。

*皇帝ナポレオン三世もこのタイプの人物だった気がします。

そして恐らくはヒトラーも…

最初の出発点。ヴァイマル共和政Weimarer Republik、1919年〜1933年)時代において「議会制民主主義への敬意」が欠けていたのはナチス側だけではなかったのです。

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歴史にこの時点におけるナチスは、確実に両者から「それなりに利用価値はあるが、自ら大それた事は企めない小悪党」としか思われていませんでした。そしてナチスはその評価を隠れ蓑に使って(全左翼勢力か敵視されていた)資本家階層と中産階層、さらには義勇軍や正規軍までも着々とを懐柔していったのです。

林健太郎「ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの」より

ナチス・ドイツの悲劇」の最初の種。それは第一次世界大戦1914年〜1918年)期間中まで遡る。主要戦場においてドイツ軍は戦えばほぼ必ず勝った。その事実に立脚した帝国官僚の宣伝が功を奏し、敗戦の直前まで「ドイツの最終的勝利は揺るがない」という無邪気な確信がドイツ国内に横溢し続けた。
*両陣営とも塹壕線を突破出来ないが故の膠着と苛立ち。じわじわと広がっていく経済的打撃。そしてアメリカの参戦。すでに現実は我に返ってもどうにもならない所まで…

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  1. この状況こそが敗戦後「タンネンベルグの戦い」の英雄ヒンデンブルクが口にしてドイツ全土で流行した「匕首伝説」の直接の起源であり、革命家にも資本家にも多かったユダヤ人がスケープゴートとして選出されていく流れの最初の萌芽となった。その一方でそういう目で見られる事を恐れる革命家や資本家をナチス協力者へと変貌させていく。
    *「匕首伝説(Dolchstoßlegende)」…ドイツが第一次世界大戦で敗れたのは戦闘で敗北したからでなく、銃後における革命家や資本家の裏切りのせいとする思考様式の産物。

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  2. もう一つの問題点はドイツ帝国が戦費捻出を直接課税でなく(戦勝後の敵国からの戦利品を当てにした)公債発行によって賄ってきた事だった。その為に戦争が敗北に終わると、復員兵や失業者の救済、社会不安を背景とする生産停滞に加え多額の賠償まで抱える事となって急激にインフレーションが進行する。
    *同時期の中国では第一次世界大戦勃発に伴う欧州資本の引き上げによって中華民国が崩壊して軍閥割拠状態に突入。その隙をついて日本が進出してきて西原借款などをバラ撒いた。

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もう一つの悲劇の種。それは新規参入して連合軍側勝利を確定した米国が(米国人を納得させる為に)執拗にウィルヘルム二世の退位に執着し続けた事、そしてウィルヘルム二世があくまでそれを拒み続けた事。そして、その状況に業を煮やした軍部と官僚と議会政治家が結託して彼をオランダ亡命に追い込んでしまった事である。その結果「立憲君主制」なる既存の国体が、次の体制への準備が整わないうちに崩壊してしまう事になる。
*軍部と官僚…どちらも、それまで皇帝権威に取り入る事で立身出世を恣にしてきたエルベ川以東の農園君主層(ユンカーJunkers)が主要供給階層だった。

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*議会政治家…ドイツ経済を牛耳るブルジョワ資本家が供給階層。
フランクフルト国民議会

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  1. 英国では「英語がまともに話せない外国人王室」を次々と迎え続ける事で議会主権体制が樹立した。大日本帝國では、何かと天皇の権威に縋り続けた第2次桂内閣(1908年〜1911年)が「時局政治に陛下の権威を持ち出すな、ゴラァ」と連呼する群集が国会議事堂を包囲を包囲されて屈服。こうした「時代遅れの権威主義体制打倒の試み」が全く見当たらないのが当時のドイツ政治だったのである。

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  2. 何しろ、それまでドイツ帝国の内閣は議会政治家とは無関係に皇帝に招聘された軍人層や官僚層の出身者によって運営されてきた。議会を牛耳るブルジョワ階層がどんなに反対しようとオーストリアやフランスとの対決姿勢を崩さず(ドイツ国土の3/5を占めるプロイセンの宰相ビスマルクプロイセン軍司令官大モルトケの強靭な意志のみが普墺戦争1866年)と普仏戦争1970年)を勝利に導き、ドイツに産業革命をもたらしてきたのである。とはいえ大不況時代1873年〜1896年)の間にこうした先取の姿勢は霧散し、何時の間にかウィルヘルム二世を頂点と仰ぐ軍人と官僚が農本主義的ドイツ人口と領土の拡大がそのまま国力拡大につながると無邪気に信じるプロイセン王フリードリヒ2世時代の戦闘精神)を担っていたのだった。
    *当時の大日本帝国は戦争特需に浮かれる一方、終戦後の反動が執拗に警告されていた時代であった。シベリア出兵(1918年〜1922年)に着手した「最期の超越内閣(議会政治家と全く無関係に組閣された内閣)」寺内正毅政権が米騒動(1918年)の強引な鎮圧を譴責されて更迭された時代。「平民宰相」原敬が選挙権を拡大し日本が普通選挙法(1925年)が履行されて日本議会が「政商と富農の独占物」状態から脱する前夜。しかし(なまじ産業革命受容を急激な勢いで進めてきたせいで)階級間対立が過熱した当時のドイツにおいては、こうして議会制民主主義が曲がりなりにも実体を獲得していくプロセスそのものが見られなかったのだった。英国ではトーリー党、日本では立憲政友会といった地主党(制限選挙体制下では地主の利権を代表した政党)が幅広い範囲で保守票を掘り起こして普通選挙時代をも制した。しかしドイツにおいて大資本家の利権を代表する人民党やユンカーの利権を代表する国家人民党がその偏狭な姿勢を崩す事は決してなく、それどころか帝政時代の絶対権威回復の夢を次第にヒトラーへと委ねていく。

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  3. ちなみに、こうした流れに関連して「GHQが太平洋戦争に敗戦した日本で天皇を残したのは、ドイツにおいてウィルヘルム二世を廃位に追い込んだ事が帰ってナチスを台頭させてしまった前轍を踏む事を恐れた為」とする意見もある。だが、そもそも米国においてどれだけの人間に「ウィルヘルム二世を廃位に追い込んだ事が、却ってナチスを台頭を準備した」という自覚があるだろうか?
    *なにしろウィルヘルム二世といったら黄禍論を吹聴してロシア人だけでなくアメリカ人も扇動して「大英帝国の盟友」日本を滅ぼそうと画策していた様な人物であり(なにしろ極東方面の戦火が泥沼化すればするほど、ドイツ帝国がロシアより受ける軍事的圧力は軽減される)アメリカ人がウィルヘルム二世に抱く不快感は(それを嫌ってアメリカへの移住してきたドイツ系移民の後押しもあって)頂点に達していたのである。

さらにはロシア革命1917年)勃発によるによるソビエト社会主義共和国連邦1922年〜1991年)成立もドイツに悪影響を与えた。

  1. これに力づけられたのがスパルタカス革命的オップロイテ。どちらも議会制民主主義を全面否定しつつ後進国ロシアに出現した労兵協議会ソビエト)樹立を目指したが「インテリ側の一般臣民に対する軽蔑」と「インテリを敵視しか出来ない労働者側の反知性主義」の食い合わせの悪さのせいで最後まで内ゲバが収まらなかったのである。
    スパルタカス団(Spartakusbund)…大衆と接点のを持たない文学者の寄せ集め。
    *革命的オップロイテ(revolutionäre Obleute)…「革命的指導者」の意。ベルリンの金属労働区組合における幹部層への不満層。

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  2. 事件はこうした混乱の最中に起こった。第一次世界大戦末期、プロイセンから派遣された「ユダヤ系革命家クルト・アイスナーが反プロイセン感情を巧みに利用してミュンヘンを首府とするバイエルン王国を倒し、共産主義政権樹立に成功したのである。すると今度はハンガリーから「筋金入りの本場共産主義者」が次々と派遣されてきて「粛清」と称する原住民虐殺に嬉々として着手した。これに対抗すべく社会民主党幹部人殺しノスケ」はフライコールを招聘し、スパルタカス団やオップロイテごと暴力による殲滅する手に打って出た。
    *フライコール(Freikorps)…ドイツ義勇軍。戦場帰りの失業者達が在野で結成した愚連隊で、突撃隊(SA)の様な民間準軍事組織の先祖筋。ヒンデンブルクとグレーナーが掌握する参謀本部指揮下、まだ多少の国防軍は残存していたものの彼らの規模はその何倍にも達しており、彼らの協力なしにはこうした治安維持活動も行い得ない状況に陥っていたのである。

  3. スパルタカス団やオップロイテといったドイツ共産主義者の不幸はそれだけに終わらない。ドイツ社会民主党とソヴィエト共産党はともにヴェルサイユ体制から除外されラパッロ条約1922年)で相互承認し合った関係にあったし、当時のレーニン赤軍強化の為にドイツ軍人や実業家の招聘を画策していた。それで両者が邪魔になり、以降も弾圧を指示し続けたのである。
    *当時のコミンテルンの方針は全てソ連共産党の都合によって恣意的に決められていたが、他国の共産主義者はその命令に盲目的に従うしかなかった。日本でも所謂「講座派」共産主義者達がコミンテルンより「ブルジョワ階層に資本主義への嫌悪感を刻印して放棄させ天皇制を打倒させる」なる無理ゲーを押し付けられ、なまじその命令を忠実に守ろうとしたが故に自滅へと追いやられていく。

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フランスなどの大陸側戦勝国ナチス台頭を許す空気醸成に多いに役立った。第一次世界大戦ドイツ帝国に受けた大打撃の補償を報復的にドイツ帝国る事ばかり考えていたからだった

  1. ベルサイユ条約第231条におけるドイツの戦犯国認定およびそれに基づく過大な賠償金請賦は「ドイツ人は全員死ね」と言っているのに等しい内容だった。
    *既にパリ講和会議の段階で段階で既に米国国務長官ランシングと後の大統領フーバーが激しい批判を加えていたし、呆れ果てて途中で専門委員の立場を投げ捨て「平和条約の経済的結果」を発表した英国製在学者ケインズも「この不義は(ドイツ人の国粋化という)最悪の結果しかもたらさない」と預言している。英国首相ロイド・ジョージもドイツ経済の破綻とそれによるヴォルシェビキ化を恐れる立場から反対に回った。しかしフランス人の対独復讐熱を一身に背負って背負ってパリ講和会議に赴いたフランス代表クレマンソーやフォッシュ将軍に選択の余地がある筈もなかったのである。

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  2. ドイツとポーランドの国境に位置するシュレジェン地方の分割問題で工業と工業の発達した現地主要都市が(ポーランド愛国者の激情に配慮して)全てポーランド側に引き渡された措置も酷かったが、フランスがベルギーと申し合わせて遂行したルール占領(1923年)はさらに壮絶な結果をもたらした。復讐心のあまりドイツが生産する石炭の73%、鉄鋼の83%を産出する「ドイツ経済心臓部」ルール地方まで差し押さえようとしたのである。その行為自体は(軍事的無力ゆえに他に選択の余地もなく)ストライキなどの受動的抵抗に終始したものの、全ドイツ人を心理的にさらなる国粋主義へと追いやった。

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  3. よくいわれている様に、ナチスが政権奪取に成功した最大の要因の一つは傘下の実働部隊たる突撃隊(SA)の軍隊としての規模が実に国防軍の五倍にも達っしていた事。「人殺しノスケのフライコール召喚」がその発端となったのは事実だが、実はその成長を資金的に援助してさらに大きく育てたのは「フランスのこうした一連の措置に義憤を燃やした国内外のドイツ人大資本家達」だったといわれている。
    *また、皮肉にもナチス・ドイツの欧州制覇が概ねの期間において比較的安定を保ったのは「まやかし戦争(Phoney War,1939年〜1940年)」「復讐心に駆られてドイツ人をそこまで徹底して追い込んだ自らの傲慢さ」にやっと気付いたフランス人インテリが罪悪感で自縄自縛状態に陥ったからとする説もある。

    *実は「総力戦完遂の為にプロパガンダによって徹底的に敵イメージの異化と味方イメージの同化をはかろうとするカール・シュミットの「敵友理論」式思考様式は、それが破綻してある種の「ロマン主義的熱狂」が失われると必然的に「突如としてスケープゴートを仕立て上げ、自分はそいつに騙されていたと言い出す(外罰的態度)」「自己信頼感(self-confidence。「自分はちゃんとやればちゃんと出来る」という基本的信頼感)まで喪失して(「自分は何をやっても上手くいかない」「敵こそ全て正しく自分達は全て間違っていた」式の)自虐的思考様式に陥る(内罰的態度)」といった敗北主義的思考様式に行き着くのかもしれない。
    伊丹万作 戦争責任者の問題

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  4. 第二次世界大戦(1939年〜1945年)終結後の戦後処理において連合軍側が戦敗国の国土支配と軍部解体により本格的に取り組む一方でその復興を積極的に支援したのはこうした前轍を踏まない為であった。そしてルール工業地帯をドイツから奪うのではなく隣接する工業地帯と有機的に結びつけて欧州全体で活用しようとする立場からEU構想が発足するのである。
    *無論スターリンは占領地域を容赦なく収奪し尽くし、GHQ内のシンパもドイツと日本の工業インフラ完全破壊を目論んでいた。しかし朝鮮戦争(1950年〜1953年)以降の「逆コース」によってその企図は無に帰し、両国とも急速に復興して先進国への復帰を果たす事となる。

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ヘルムート・プレスナーのいう「どうせどの民族も最後には滅びていくにしろ、ドイツ民族が最初にそうなる運命を強要されるのは理不尽だ」なるゲルマン民族生物学的発想は、まさにここから生まれてきたのだった。
*どう見ても無理ゲー。その理不尽さへの「義憤」はどこに叩きつければいいのか? ある意味それこそが第一次世界大戦後のドイツの置かれていた状況だったのである。

その具体的な権力掌握過程

1924年から1928年までドイツは安定的繁栄を謳歌したが、これはアメリカの資本投下に担保された「不健全な繁栄」であり、ニューヨーク、ウォール街の株式暴落を契機として全面崩壊を余儀なくされたのだった。

  1. 不健全とはいえ繁栄は繁栄。ドイツは植民領土と対外投資の喪失によって国民資産の半分に当たる1億マルクを喪失したが,1928年の国民所得は1913年のそれと比して3000万マルク(一人当たり400マルク)も高かった。その一方で所得の分配は戦前に比べてはるかに平均化し、高額所得者の数が戦前の半分となっている。1913年のドイツ石炭総産出額は1億九千万トン(うち戦後領土産出分は1億四千万トン)であったが、これが1923年には1億三千万トンまで回復し,1927年には1億五千万トンを突破するのである。1913年には千七百万トン(うち戦後領土産出分は千二百万トン)だった鋼鉄生産量も一旦は六百万トンまで落ち込んだが,1925年には千二百万トンまで回復し,1927年には千六百万トンまで増大している。失業者に関しても1923年には全ドイツ労働者の28%が完全失業状態で42%が不完全就労状態だったものが著しく減少。1925年には産業合理化によって再び増大するも1927年以降現象に転じ,1928年夏には全労働者の5%(約60万人)に抑え込まれたのだった。とはいえドイツの社会保険ビスマルクの時代から外国の模範とされてきたのであり,1924年以降は疾病保険の強制加入範囲が拡大され,1927年には画期的な失業保険が制定されて失業者も最低限度の生活は保障される様になった。その為に失業問題が政府攻撃の捌け口として利用される様な動きは別に見られなかった。

  2. ただしこうした驚異的復興はアメリカの投資に支えられたものだったし、そのうち少なからぬ額が公共投資、特に地方自治体の設備拡充や官公吏の棒給引き上げに回された事は大きな禍根となった。当時のドイツは社会保障予算拡大と官公吏の人員急増によって財政支出を増大させる一方でインフレが収まって以降は輸出がそれほど伸びなくなって国際収支が赤字となる状態が続いていたが、こうした欠損分をアメリカ資本が埋めていた訳である。

  3. アメリカの資本引き上げは米国本国における株式ブームを背景に好況の年であった1928年より既に始まっていた。そして1929年10月24日ニューヨーク、ウォール街の株式暴落を契機として1928年から1929年冬にかけて失業者が二百万人を数え、失業手当の支払いがドイツ政府の財政を行き詰まらせてしまったのだった。そしてこの時期には「社会主義を標榜して資本主義を攻撃しインフレーションに苦しめられていた下層中産階層の支持を集める革新政党」から「(共産主義の拡大に業を煮やす)資本家と(義勇軍的勢力が敵に回すのを許さない)軍部を味方に付けたデマゴーグ的右翼政党」への脱皮を果たしたナチスの大躍進があり、これにドイツ政府による独墺勧善同盟締結の試み(1930年)を嫌悪したフランス資本引き上げの動きが重なってオーストリア第一の銀行「クレディット・アンシュタルト」、ドイツ北部最大の遷移コンツェルン「北ドイツ羊毛会社」、ドイツ最大の銀行の一つ「ダナト銀行」が連鎖的に倒産し、経済不安が恐慌状態へと突入したのだった。

そして最大の罠はワイマール体制そのものの中に仕込まれていた。

  1. 元来はマルクス主義を標榜していたが、大戦勃発とともに戦争支持を明らかとした社会民主党エンゲルスも「ドイツにおける社会主義(1894年)」の中で「フランスがロシアのツァーリズムと結ぶなら、ドイツ社会主義者は遺憾ながらフランスと結ぶであろう」と述べているのだが、レーニンは彼らを「裏切り者=ファシスト」認定し、1930年代のドイツ共産党ナチスと手を結びつつ彼らの覆滅に全力を尽くす事を強要されている。

  2. その一方で所謂「ヴァイマル連合」が結成された。これはビスマルク時代に文化闘争(1871年1880年代)の主体として結成されながら緩やかに中道左派へと変貌していったカトリック系の中央党、AEG社を運営する大資本家ながら文筆家としても著名だったヴァルター・ラーテナウ、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(1904年〜1905年)」で有名なマックス・ヴェーバーとその弟で同じく社会・経済学者だったアルフレート・ヴェーバー、所謂「ヴァイマル憲法」を起草したフーゴー・ブライスといった共和制への移行と民主主義樹立を渇望する知識人が結成した「ユダヤ人資本家と学者の党」進歩人民党(1918年には国民自由党左派と合同してドイツ民主党に改称)などの穏健左派やリベラルの集まり。1919年の憲法制定に当たって直接人民投票によって選ばれる大統領に「官吏と将校の任免権」「軍隊統帥権」「憲法に記された義務を果たさない州への武力制裁権」「好況の安寧秩序が著しく損なわれた場合にはその回復の為に基本的人権に関する諸規定を一時的に停止し、武力行使を含めたあらゆる緊急手段を講じる権利」を付与したが、それは憲法起草者たるプロイスやマックス・ウェーヴァーが(スパルタカス団やオップロイテといった)共産主義勢力と(帝政復活を夢見てカップ一揆を起こした極右政治家などに率いられた)’義勇軍的右翼の衝突を目の当たりにする一方で「議会政治の訓練が行き届いてない段階でドイツ議会に全権を与えたら収拾のつかない混乱が引き起こされる」と考えた結果である。また初代大統領に選ばれた社会民主党党首エーベルトマルクスを信奉しつつ(ビスマルクと手を結んだ)ラッサールの福祉国家論の影響も受けていた。
    *1889年に大日本帝国憲法が公布された際の伊藤博文ら政府重鎮による配慮に重なる部分が大きい。

  3. その一方でヴァイマル連合は国土の3/5を占めるプロイセン、これを嫌悪するカトリック保守派と虚合法的に政権を獲得した反共極右政治家が牛耳るバイエルン、ルール工業地帯の経済力を背景に「赤衛軍」を組織し中央政府の影響が及ぶのを拒絶していたラインラント=ヴェストファーレン地方などが割拠する地方分権体制をあえて放置する道を選んだ。「版籍奉還(1969年)」「廃藩置県と藩債処分(1871年)」「秩禄処分(1876年)」といった一連の措置によってあっけなく江戸幕藩体制を解体しフランス型の中央集権的郡県制に移行した大日本帝国とは事情が全く異なっていたのである。しかも(カップ一揆鎮圧に功があったベルリン労働組合を筆頭とする)政府内極左勢力の強い要求によって「(「ソビエト=労兵協議会」連邦制樹立に向けての動きの障害戸と成り得る)人殺しノスケ」が更迭された結果、生粋のプロイセン貴族(ユンカー)出身のゼークトが台頭し国防軍の「国家内国家」化に着手。まさしく誰一人として議会制民主主義に敬意をはらわず、自制力の拡大のみに執着し続ける伏魔殿状態となったのだった。独裁者待望の雰囲気が醸成されたのはこういう状況のせいでもあった。

  4. 社会民主党が野党に転落した1923年以降好況に沸いたドイツでは資本主義的発展と共産主義の大衆支持喪失が顕著となった。そして初めて憲法に従って1925年に遂行された人民投票で選ばれたのは「タンネンベルグの戦い」の英雄ヒンデンブルク。ただし彼は政治家としては完全な無能力者。国防軍を「国家中国家」に変貌させた国防長官ゼークトを罷免したまでは良かったが、その地盤を継承し後にナチスに売り渡した陰謀家として悪名高い国号分政治部長シュライヒャーが継承する事は防がなかった。一方、第一次世界大戦ヒンデンブルクを傀儡に立ててドイツ軍独裁を実現した「参謀本部次長」ルーデンドルフはその後下野して「カップ一揆1920年)」や「ミュンヘン一揆(1923年)」を操ってきたが、この年大統領選に出馬して落選した事で完全に政治的生命を絶たれてしまう。

  5. ここで「そもそもナチスとは何だったのか?」という問題が浮上してくる。ヒトラーは当初、右翼集団が反資本主義構想を綱領に掲げる弱小左翼政党に送り込んだ内偵に過ぎなかったが、奇しくも当時ナチスイデオロギーを主導していたシュトライヒャーを倒し(ヴェルサイユ条約によって課された過大な賠償金に不満を有する)資本家に選ばれてしまう。「ミュンヘン一揆」でルーデンドルフ捨て駒として弄ばれ、逮捕されながら「獄中演説」と「我が闘争(1925年)」出版によって却って名を挙げ、「社会主義革命の役に立たない」という理由で社会民主党に敵視され見捨てられて没落を余儀なくされた中産階層の支持も獲得。突撃隊(SA)を国防軍の三倍の規模を誇る軍隊に育て上げ,1933年における政権奪取段階で最大の功労者となった元軍人のレームを「長いナイフの夜事件(1934年)」で粛清して初めてナチスの実質的頂点に上り詰めた。そもそも、その出自はドイツ人ですらなく「オーストリアハンガリー二重帝国」時代にマイノリティとして不遇を託ったドイツ系市民で、第一次世界大戦中にはボヘミア軍の外国人兵士として参加した様な人物であった。その傘下に集った上級幹部も外交官や植民地商人の息子、ドイツ的権威主義体制下では出世が望めなかった「負け組」が大多数。まぁこれでは誰からもそれなりに利用価値はあるが、自ら大それた事は企めない小悪党」と思われて当然であった。

  6. 1929年の「大崩壊」に際し、ヒンデンブルク大統領を傀儡として操る様になったシュライヒャーは議会の承認を経ずに中央党のブリューニングに組閣を命じる。議会の決定に拘束される事なく大統領に任命された内閣が(そもそもワイマール憲法に最初から記載されていた)独裁権を振るう様になった「大統領内閣」時代がこうして幕を開けた訳である。緊縮財政と増税によって危機を乗り切ろうとするブリューニングの徹底的デフレーション政策は、確かにマルクス主義経済学をも含む正統学派の思考様式からすれば利に適っていた。しかし実際には悪戯に国民負担を増大させ、その購買力を削いで経済不況をますます深刻化させるばかりで(1932年初頭、失業者数が遂に六百万人に到達)、まさにこの時代に産み落とされた「為替管理や平価切り下げといった通貨措置と並行して予算の一時的不均衡を恐れぬ国家投資によって雇用を拡大する」新戦略の様な決定的処方箋には成り得なかったのである。
    *英国は1931年夏にポンド価切り下げによって危機を脱っし、二年後アメリカでは今日なお評価の定まらぬニューディール政策が開始され、ナチスも甚だ不健全な条件を伴いつつも基本的には同様の技法によって経済危機を脱出。大日本帝国も中国での戦争が生み出した特需によって一息ついている。

  7. この時期にはまだケインズの主著は発表されていなかったが、その先駆を為す彼の経済哲学は既に世に広まっていたし、スウェーデンのミルダウも予算の長期均衡理論を説いていた。実はドイツでも著名な統計学者ヴォウチンスキーが暫時的通貨の増発と公共事業による購買力向上を武器に失業を克服する方策を発表し、労働組合からも有力な支持を得ていたのだが、社会民主党内でその話が取り沙汰された際には正統派マルクス経済学者の振るファーディングが「それはマルクス主義に反する」という理由で一蹴されている。しかもこうした施策を議会の承認を経ず大統領緊急令のみで通した事が議会民主主義的署婦人過程の息の根を止めてしまったのだった。そして1930年の議会選挙では社会民主党共産党内ゲバが泥沼化する一方で、シャハトの仲介で「反共の盾」として自らを大資本家層に売り込んだナチスが大躍進を遂げる事になる。

  8. ブリューニング罷免後にシュライヒャーが傀儡首相として白羽の矢を立てたのは元奇兵証左のパーペン男爵と閣僚9人のうち7人が貴族出身者という前時代的内閣だった(1932年。自らもブランデンブルク旧家出身の貴族で「大衆に支持された軍人政権」樹立を夢見るシュライヒャーも防衛相として入閣。「パーペンは人の上に立つ器ではない」という周囲の反対に対してシュライヒャーは「彼に人の上になど立たれては困るな。彼は帽子みたいなもんだ」と公然と語っていたという)。同時にヒトラーと対立していた突撃隊(SA)のレームに接近しナチス勢力の抑え込みに奔走。パーペン内閣は(突撃隊禁止令の解除と国会解散の約束を守ってもらうために批判を控えていた)ナチス以外の全政党を敵に回すも軍の後ろ盾と大統領緊急令の乱発によって政務を遂行し「アルトナ血の日曜日事件(7月17日にアルトナで起こったナチ党と共産党の市街地抗争。死者17名、重傷者多数)」を口実にプロイセンを強引に併合。このやり口は後のナチスに先例を与える事になった。一方ナチスは7月31日の総選挙でこそさらなる大躍進を遂げたものの、それにかこつけての首相職要求をヒンデンブルク大統領とパーペン首相とシュライヒャー防衛相に拒絶されて激怒。復讐として暴力的な反政府キャンペーンを展開しつつ、さらなる支持層拡大を期待しベルリンでストライキを共催するもこれにより資本家層からの資金援助が途絶え大幅に票を減らしてしまう。しかしこれに便乗して共産党が大幅に票を伸ばした事からナチスと資本家は互いに関係修復に乗り出した。皮肉にもその仲介をしたのはシュライヒャーとの関係が破局し罷免に追い込まれたパーペン男爵だった(後任首相にはシュライヒャー自らが就任。ヒトラーに主導権を奪われたナチス左派のシュトラッサーと結んでナチス分裂を画策)。

  9. シュライヒャーを罷免に追い込んだヒトラー内閣が1933年に成立したが、その時点でのナチスからの入閣者は首相ヒトラー、内相ヴィルヘルム・フリック、無任所相・プロイセン州内相ヘルマン・ゲーリングの三人のみ。他は副首相とプロイセン州首相を兼務するパーペンが選んだのだが(国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクのみはヒンデンブルク大統領自らが選出)。この時点で選パーペンは自らのヒンデンブルクへの影響力をもってヒトラーを傀儡化可能と考えていたが、ヒトラーは2月1日の国民へのラジオ放送で「あまりにスターリン主義的用語が多い(大の反共主義者であったパーペン談)二つの偉大な四カ年計画」を宣言して第一次四カ年計画に着手し、やがてプロイセンの実質的統治権限もヘルマン・ゲーリングに奪われてしまう。3月23日にはヒトラー憲法を除く全ての法律を自由に公布できる権限を認める全権委任法が可決されたが、パーペンは政府を国会から独立させるこの法案に当初から賛成であった。
    *どうやらこの全権委任法によって大統領の存在も形骸化し、大統領の信任を背景にしたパーペンの権力も形骸化する事にまでは考えが及ばなかった様である。

  10. 1933年7月にパーペンはヒトラーの代理でバチカンを訪れた。ローマ教皇ピウス11世は「ドイツ政府がその指導者として共産主義とロシアに断固反対する指導者を持つに至った事は大変に喜ばしい」と述べ、ドイツとバチカンの間で政教条約「ライヒスコンコルダート」が締結される。これにより純宗教活動としてのカトリック教会や学校、宣教活動をナチス政権が承認し、また政治的カトリック(中央党やカトリック労働組合)の解散をローマ教皇庁が承認した。またローマ教皇庁ドイツ国内のカトリック神父に対してナチス政権に忠誠を誓うよう命じ、カトリックの反体制運動に頭を悩ませていたヒトラーは「カトリックは今後ナチス体制に全面的に支持することであろう」との期待感を表明している。

  11. ヒンデンブルク大統領からの要請もあってヒトラーが突撃隊を粛清した「長いナイフの夜(1934年6月30日)」に際しては「生かしておいては危険すぎる」と判断されたシュライヒャーやシュトラッサーこそ処刑されたが、パーペンは(ヒンデンブルク大統領のたっての頼みもあって)ウィーン大使に左遷されるだけで済んでいる(ただし同年彼がマールブルク大学で行ったナチスおよび突撃隊(SA)の過激さを非難する後援に関係した秘書ユング、ボーゼとクラウゼナー海事局長は処刑)。同年のうちにヒンデンブルク大統領も死去し、ワオマール共和国は完全に終焉を迎える事になった。

パーペン(Franz Joseph Hermann Michael Maria von Papen, Erbsälzer zu Werl und Neuwerk, 1879年〜1969年)…ドイツの軍人、政治家、外交官。ヴァイマル共和政末期の1932年にクルト・フォン・シュライヒャーに擁立されてパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の大統領内閣の首相を務めたが半年ほどでシュライヒャーに見限られて瓦解。その後、ナチス党首アドルフ・ヒトラーと接近し、彼が首相になれるよう尽力するなどナチ党の権力掌握に大きな役割を果たした。1933年のヒトラー内閣成立でヒトラーに次ぐ副首相の座に就いたが「長いナイフの夜」事件で失脚。その後はオーストリアやトルコでドイツ大使を務めた。第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判で主要戦争犯罪人として起訴されたが、無罪とされた。

アレキサンドル・ゲルツィン 1849年
独「ホフマン・ウント・カンペ」誌 寄稿記事

今や全ヨーロッパが議会やクラブや街頭や新聞紙面上でこう叫んでる。
「ロシア人が来る!! ロシア人が来る!! ロシア人が来る!!」
そう、ベルリンの『Krakehler』誌を飾ったあの言葉だ。
「ロシア人が来る!! ロシア人が来る!! ロシア人が来る!!」
実際ロシア人達は来つつある。いやもう既に来てしまった。
ハプスブルグ家の手引きで。
ホーエンツォレルン家の手引きがあれば、さらに先に進む。

「ワイマール体制時代に幕を引いた最後の首相」パーペンはニュルンベルク裁判で拘禁されている時に受けたインタビューの中でヒトラーを首相にした理由について次のように語っています。

「私が政権の座に就いた時、ナチ党は230議席を占めていた。従って彼らがいなければ私は国会で多数派を形成することができなかった。首相の立法行為を有効にするためには国会の過半数を獲得しなければならないからだ。問題はいかにナチ党と折り合っていくかだった」

ヒトラーは常に社会問題はマルキシズムやボルシェヴィズムによっては解決できないが、ある程度の社会主義を含んだ資本主義によって解決できる点を強調した。あらゆる経済活動によって得られる利益は社会が共有すべき物であって個人が独占すべきではないと言うのだ。私にはそれも一理あるように思えた。ナチ党のスローガンの一つは『全ての利益を何より先に社会に還元しよう』だった。ナチ党が援用するタイプの社会主義共産主義の差は、ナチ党は共産主義国と違って私人の所有権を抑制しない点にあった。それは妥当な主義に思えた。ナチ党による政権樹立は私の率いる保守派には不愉快な事態ではなかった。私はカトリックなので教皇レオ13世が有名な回勅の中で同様の主張をしているのを思い出したのだ」

「初めて話した頃のヒトラーは宗教について私と同じ意見であり、ドイツに宗教抜きで統治できる州はひとつもないと明言していた。彼は『我が闘争』の中でも人民の宗教生活を破壊する者こそは愚者であると述べている。さらにヒトラーは政治改革は宗教改革であってはならないとも言った。他の多くの事柄のようにヒトラーが前言を翻したのは私の責任ではない。ヒトラーは権力の階段を上る過程でころころと考えを変えていった。だが政権掌握当初はそうではなかった。現に私は宗教については宥和的な姿勢で臨むというのが彼の心からの願いなのだと思っていた。1933年3月の国会の演説の中で彼はキリスト教の根本原理を尊重しているし、それを擁護するためには何でもすると言った。演説の中でこの点に触れるようヒトラーに頼んだのは私だった」

 またヒトラーの人柄についてはこう語っています。

「彼はとても興味深い人間で話題も豊富だった。芸術、建築、政治、軍事、音楽など、様々なことに関心を寄せていた。実に非凡な人間だったが、暗殺未遂事件の後は人が変わってしまった」。

ユダヤ人迫害についてはこう語っています。

ヒトラーの言うユダヤ人問題の解決は常識に沿った穏当な手段でなされる物と思っていた。当初はあれほど過激な手段でユダヤ人問題を解決しようとしていると思わなかったのだ。ヒトラーユダヤ人の影響力を排除する最初の法律を作った時、私はそれに制限を加え,1914年からドイツに在住しているユダヤ人はすべて国内に留まれるようにした。1918年の敗戦後、ドイツには東方からユダヤ人が大量に流入した。この過剰流入はドイツでは常軌を逸していたが、それが起こったのは1918年の革命後の一度きりだった。流入したユダヤ人は相当の数に上った。我々はこの状況をなんとかすべきだと考えたのだ」。

「欧州の憲兵」を豪語して二月/三月革命(1848年〜1849年)で蜂起した民族運動や蜂起拠点を殲滅して回ったロシア軍について、まさにそのロシアから亡命してきた汎スラブ主義者アレキサンドル・ゲルツィンはこう語っています。

アレキサンドル・ゲルツィン 独「ホフマン・ウント・カンペ」誌寄稿記事(1849年)

今や全ヨーロッパが議会やクラブや街頭や新聞紙面上でこう叫んでる。
「ロシア人が来る!! ロシア人が来る!! ロシア人が来る!!」
そう、ベルリンの『Krakehler』誌を飾ったあの言葉だ。
「ロシア人が来る!! ロシア人が来る!! ロシア人が来る!!」
実際ロシア人達は来つつある。いやもう既に来てしまった。
ハプスブルグ家の手引きで。
ホーエンツォレルン家の手引きがあれば、さらに先に進む。

ロシア軍もナチスも突然襲来してきて国家を占拠した訳ではありません。誰か「俺って冴えてる!!」と考える人間が、自分の都合で裏口からこっそり引き入れたんですね。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2d/Hunnen.jpg/330px-Hunnen.jpg
それではこうした歴史についてドイツはどういう反省の仕方をしたのでしょうか?

http://yaz1966.tumblr.com/post/138780805632/現代ドイツの政党制はサルトーリの分類に従えば穏健な多党制であるワイマール期においては小党が乱立し典型

yaz1966.tumblr.com

以前紹介したエマニュエル・トッド氏のインタビューの内容を再紹介します。

権威主義的文化はつねに二つの問題を抱えています。 一つはメンタルな硬直性、そして、もう一つはリーダーの心理的不安です。

すべてがスムーズに機能する階層構造の中にいると皆の居心地がよいのですが、ピラミッドピラミッドの頂点にいるリーダーだけは煩悶に苛まれます。


─ ─ あなたの念頭にあるのはヒトラーですか?

いや、むしろヴィルヘルム二世です。また、誰ひとりとして誰がそう決めたのか知らないうちに戦争に突入してしまった日本軍のことも考えています。

硬直性のほうは、しばしば乗り越え得るものです。ドイツ経済界のトップたちは、ユーロの死が彼らを危険に陥れることをよく理解してい ます。ユーロがなくなれ ば、フランスやイタリアが平価切り下げ に踏み切る可能性をふたたび手に入れ ますからね。

そうすると、それらの国の企業がドイツ企業に対しても競争力で上回るかもしれない。 ですから、ドイツ経済界のトップたちの振る舞いは合理的かつ実際的です。彼らの意向はユーロの救出であり、アンゲラ・メルケルはそれ に従う。

しかし、各国の憲法にまで経済運営の絶対的規則を書き込もうとする意志の内に、私は 不安の表現を感じ取ります。まるで自由な人民と理性的な最高指導者を退場させ、その代わりに、最終的な権限をもってドイツ人たちの問題を決定する自動的な権威を戴こう としているかのようです。

「財政のゴールデン・ルール」と呼ばれている概念は、人間活動のうちの一つの要素をいわば「歴史の外/問題の外」に置いてしまおうとするもので、本質的に病的だと言わなければなりま

 

せん。それなのに、フランスの指導者たちはこの病理を助長し、励まし、ドイツの権威主義的文化をそれがもともと持っている危険な傾斜の方へと後押ししたのです。

* フランス人だと、ここにすら「人間活動のうちの一つの要素をいわば歴史の外/問題の外に置いてしまおうとする本質的に病的なドイツ的意図意図」を見て取ってしまうという話。

「何が正解か」はとりあえず置くとして、日本でよく見かける「(厚顔無恥な日本人と異なり)ドイツ人は自らの犯した人道的犯罪を深く反省し、その観点から二度と同じ過ちを繰り返さない様に手を打った(日本人も同様の道を辿らねばならない)」なる指摘との接点は皆無。当然ドイツ人も自らが過ちを犯した事を認め、再発防止に努めている様ですが、別に多くの日本人がそう考えたがる様な形でそれを行ってる訳ではないんですね。

さて、私たちはいったいどちらに向けて漂流しているのでしょうか…