日本では「鹿鳴館」が建設された明治16年(1883年)から、それが民間に払い下げられた明治22年(1889年)にかけてを「鹿鳴館時代」と言ったりします。その間は日本の風俗習慣の欧化を目指して明治政府の要人や日本の華族や外国大使などがしばしば集って夜会(晩餐会つまりディナー・パーティーや舞踏会)を開催。当時の首相の伊藤博文や明治政府高官などが、その夫人や娘("令嬢")を伴って訪れ、外国人を招待し、華やかな日々が続きました。当時の証言によれば、洋装の日本人女性の振る舞いはまだまだ全然ぎこちなかった(特に足捌き)との事。
その欧州も、19世紀といえば消費の主体が王侯貴族や教会有力者からブルジョワ階層や庶民に推移した激変期に当たります。そして、その動揺をソフトランディングさせたのは女性のスノビズムだったとも。しかも転んだり燃え上がったりして結構命掛け…
クリノリンは1850年代末から巨大化し直径4メートルに達する事さえあった。危険で邪魔にならないはずがなく、動くたびに引っかかって転倒したり、暖炉などの火がスカートに引火して火傷をしたりという事故が多発。一説に年間3,000人の人間がクリノリンによる事故で死亡し、20,000人の人間が事故にあったといわれる。
1855年、フランス人イレール・ド・シャルドネ(Hilaire de Chardonnet)がピロキシリン(ニトロセルロースを揮発性の有機溶媒に溶かしたもの。その名をギリシア語の pyr(火)とxylon(木)に由来する燃えやすい化合物)を小さい孔から噴出させ、溶媒を瞬時蒸発させて細い光沢ある繊維を得る事に成功。世界初の化学繊維で「レーヨン(rayon)」の名で特許が取得されたが、極めて燃えやすく危険でレーヨンのドレスを着た人間が火だるまになる事故が続出し、第一次世界大戦前までに生産中止に追い込まれた。
鹿鳴館で日本の淑女の皆さんが着ていたドレスは一応、この辺の試練は乗り越えて改良された最新型だったのですね。要するにそこまで至る歴史がまた長い…
フランス革命の時代から皇帝ナポレオンの時代にかけての欧州ではゆったりしたシュミーズ・ドレスが流行していたのに、王政復古期(1815年〜1830年)にコルセットでウェストを締め上げ、スカートをペチコートで膨らますスタイルが復活してしまいます。
*そして王政復古期(1815年〜1830年)からフランス7月王政期(1830年〜1848年)にかけて何故か欧州じゅうで「英国(ビクトリア朝)流」が流行。
フランスのファッションの歴史|~ma boîte aux trésors~
左2つはルイ14世時代(1668~1694)右2つはルイ15世時代(1720~1760)
*ロココ様式全盛期。ルイ15世のご寵愛を受けたポンパドゥール夫人の時代で、当時の貴族の女性はこぞってポンパドゥール夫人のファッションを真似たとも。左2つは王政復古時代(1815)右2つは王政復古時代(1830)
*フランス式よりイギリス式が流行。細いウエストや釣鐘型スカートやジゴ袖が特徴。*レッグオブマトン・スリーブ(leg-of -mutton sleeve)…羊の脚の形に似た、肩部が膨らみ、袖先にむかって細くなる袖の形。フランス語ではマンシュ・ア・ジゴ(Manche a Gigot)と言い、ジゴ袖とも呼ぶ。もともと中世に肩の部分に詰物で膨らませたものを、肘付けの部分にギャザーやタックを寄せて膨らませて袖山を作るようになった。この頃は宮廷にて細い胴部と、広がったスカートと共に使われた。ウエディングドレスにみられた時期もあったが、メイド服などのコスプレ等で見かける事もある。肩口をパフスリーブ、袖先までをタイトスリーブをつなげて同じ形状にするものもある。
左2つはナポレオン3世時代(1865~1870)右2つは第三共和制(1870~1875)
*ナポレオン3世時代のファッションリーダーはユージェニー皇妃で世界の社交界の中心も再びパリへ。皇后の衣装は2ヶ月後には早くも大西洋を渡りアメリカでコピーされる程の人気を誇ったという。またミシン登場とともに縫製技術が改良され、1870年以降はドレスが既製服として販売される様に。
左2つは第三共和制(1875~1876)右2つは第三共和制(1877~1878)
*後ろ腰にだけボリュームを与えたバッスルスタイルが登場。スカートは全体のボリュームが押さえられた細身のデザインに推移。
ところでフランスにおいてはナポレオン3世時代(1865~1870)に 権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」あるいは「二百家」と呼ばれるエリート階層による政治と経済の支配体制が固まったとされています。シック(Chic)の概念が固まったのもこの時期とも。その一方で消費の担い手が王侯貴族や聖職者からブルジョワ階層に推移しても、その事がファッションスタイルに大きな変化を与える事はありませんでした。成り上がり者のブルジョワ階層は、スノビズムからそれまでの伝統をただ模倣するだけで満足したとも。
同時期のドイツも、ほぼこれに準ずる展開でした。
*あくまでフランスのアカデミー絵画や「アール・ヌーボー」のポスターに登場するゆったりしたシュミーズ・ドレスは単にノスタルジーを表明する「歴史的コスチューム」に過ぎなかった?
ビーダーマイヤー期(Biedermeier、1815年〜1848年)
歴史的には、フランス革命、ナポレオンの台頭の中で市民社会という概念が普及したが、王政復古によりその夢が破れ、再び自由の利かない閉塞的な社会に戻ってしまった。そのような諦念のムードがある中で、市井の人々の中で理想主義的で観念的なものへの反発がおき、理念的なものを追求せず日常的で簡素なものに目を向け、探求する風潮が出てきた。
- 1850年のドイツの風刺週刊誌『フリーゲンデ・ブレッター』 (Fliegende Blätter) の中に登場する、架空の小学校教員ゴットリープ・ビーダーマイヤーに由来する。
- 小説中のビーダーマイヤーは小市民であり、政治や国際情勢などには関心がない。家庭の団欒や身の回りの食器や家具などに関心を向けた。簡素で心地よいものを好み、華美に装飾された家具や服装を揶揄した。
- 小説中の人物から転じて、身の回りの小世界を描くロココ趣味的なウィーンの画家たちの作品を指して「ビーダーマイヤー様式」と呼ぶようになった。当時の建築や工芸にも共通の雰囲気が見られる。
人々が倹しい生活をそつなく送ってきた時代を「ビーダーマイヤー時代」と呼ぶようになった。
グリュンダーヤーレ期(Gründerjahre、1871年〜1873年)
直訳すると「設立者の時代」。ドイツ帝国成立から1873年における大恐慌発生に至る間における「普仏戦争に勝利してフランスから分捕った賠償金でドイツ産業が急速発展した時期」。(ドイツ史において市民による都市文化が最後に栄えた時期である)ハンザ同盟黄金期だった16世紀の伝統への回帰願望が強かった。ユーゲント・シュティール (Jugendstil)
1896年に刊行された雑誌『ユーゲント』(Die Jugend) に代表されるドイツ語圏の世紀末美術の傾向を指す。「青春様式」と表記されることもある。19世紀末から20世紀の初頭にかけて展開し、絵画や彫刻のほかにも、建築、室内装飾、家具デザイン、織物、印刷物から文学・音楽などに取り入れられた。「構成と装飾の一致」を理念とし、美や快楽と実用性を融合させることを主たる目的としていた。
- 19世紀末頃になると新古典主義などに代表される歴史回帰・折衷様式は「悪趣味」と言われるようになり、芸術家たちはそれまでにない新しいスタイルを求めるようになった。フランツ・フォン・シュトゥックらによって1892年にミュンヘン分離派が結成され、旧来の芸術を批判し新たな芸術を志向する活動が展開される。この運動はその後ベルリンやオーストリアにも波及し、ベルリン分離派(1899年結成)やウィーン分離派(1897年結成)の活動につながった。
- 当時ドイツ世紀末芸術の中心地であったミュンヘンで刊行された『ユーゲント』は、イラストレーションの多い大衆的な雑誌であった。石版刷りの斬新な表紙や都会的で若々しい感覚のイラストレーションが評判になり、爆発的成功を収めた。ここから「ユーゲント・シュティール(青春様式)」という言葉が生まれた。やがてミュンヘンやベルリンを中心にした若い芸術家による芸術運動の傾向全体を指して「ユーゲント・シュティール」と呼ぶようになった。
- 1899年には、ヘッセン大公であったエルンスト・ルートヴィヒの招聘によりダルムシュタットに芸術家村「マチルダの丘」が形成され、ドイツ語圏におけるユーゲント・シュティール運動の中心的役割のひとつを担った。
- 美術・工芸デザインに見られるユーゲント・シュティールは、動植物や女性のシルエットなどをモチーフとし、柔らかい曲線美を特徴とする。 一方、直線平面を強調し、やや左右非対称の幾何学的な模様を使用する傾向がある。ユーゲント・シュティールの建築は、簡潔で機能を重視した形体が重んじられる一方、一度限りの芸術性、唯一無二のデザインが尊重される。そのため、「装飾過多」「貴族主義」などの批判を受けることがある。
日本の浮世絵やフランスの後期印象派があげられる。また、イギリスの新しい工芸運動「アーツ・アンド・クラフツ」の動きからも強い影響を受けている。
ちなみに同時期英国のヘアスタイル
ビクトリア朝時代
1910年代
同時期アメリカにおける「ギブソン・ガール(Gibson girl)」流行に過渡期的特徴が見受けられるとも。
南北戦争(1861年 〜1865年)での北軍勝利に始まる産業革命受容期、すなわち所謂「金鍍金時代(1865年〜1893年)」のアメリカでは、消費経済振興を背景に女性が伝統的生き方からの脱却を開始した。経済的余裕のある中産階層の女性達は雑誌などの広告を通じて流行を追い求め、余暇にはスポーツにも興じる様になる。女性向け雑誌の中で「激しい運動は女性の身体に有害である」とする定説が覆され、当時の流行に飛びついて自転車を乗り回したり、大学で水泳や陸上やバスケットボールに興じ、上流階層に到ってはテニスやゴルフのクラブに加入して汗を流した。
*まさしく1850年にエリザベス・スミス・ミラー(Elizabeth Smith Miller,1822年〜1911年)が発案した「運動にも適したズボン風ショートスカート」をアメリア・ジェンクス・ブルーマー(Amelia Jenks Bloomer,1818年〜1894年)が全米に広め、これが「ブルマー(bloomers)」と呼ばれていく時期に該当するが、これは胴部を不自然な形で締め付けるコルセットの撤廃運動と密接な関係にあり「ギブソン・ガールズ」的ファッションとの相性は必ずしも良くない。*日本の「スカート下ジャージ」の先祖筋? そして煙草…
スカート&ジャージ - ののほんじゆうちょう一方、スポーツに興じたり流行の服を買う経済的余裕がなかった工場の女工達も、経済構造の変化を受けて高級百貨店、社交場を兼ねたレストラン、事務職を大量に必要とする様になった会社への就職の機会を得て職業選択の幅を大幅に広げつつ、その収入を着実に引き上げていったのである。
そういえば当時の英米は機械印刷技術の革新を背景とする「cheapeditions(女性作家が女生読者向けに執筆する廉価版読み捨て小説)」の全盛期でもあった。尾崎紅葉「金色夜叉(1897年〜1902年)」に元ネタを提供したBertha M.Clay(1836年〜1884年)「女より弱き者(Weaker Thana Woman)」も これに該当する。
イラストレータであるチャールズ・ダナ・ギブソン (Charles Dana Gibson)がペンとインクを使って制作した絵入り物語に描かれている理想の女性の具現像。ギブソンはこのような絵を、19世紀末から20世紀初頭にかけ、15年余に渡って描き続けた。類似するスタイルのイラストレータとしては他にハワード・チャンドラー・クリスティと、「ワンダー・ウーマン(Wonder Woman)のコミックを元にした作品で著名なハリー・G・ピーターの名前が挙がる。
長身でほっそりとはしていたが、スワンビル・コルセット着用の結果、側面から見るとS字形のカーブ・ラインとなっている豊かな胸、腰、ヒップがくっきりと浮き立つ。端正な顔立ちで切ないほどに美しいその形姿は、19世紀末期から20世紀初頭にかけて西欧では没頭した彫像のような優美さ、若々しい相貌、儚い美を具現化していたとされる。
その首筋は細く、髪は頭の上に高く巻き上がって、当時のブッファンや、ポンパドゥール、あるいはシニヨンの髪型ファッション、すなわち「流れる巻き毛の滝」を形成していた。
数多のモデルが、ギブソン・ガール・スタイルの挿絵のためにポーズを取った。そのなかにはギブソンの妻であるアイリーン・ロングホーンや作家のアナイス・ニンも含まれていた。アイリーンがオリジナルのモデルと考えられる。もっとも著名なギブソン・ガールはおそらく、デンマーク系アメリカ人の舞台女優であったカミーユ・クリフォード(Camille Clifford)だった。カミーユの塔のような髪型、優雅なガウンに包まれ、コルセットが形成するくびれた腰を持つ砂時計の姿形がこのスタイルの代表だった。
美しさ、中庸を得た自立、個人的な充足などでアメリカの国家的威信の具象像となった。彼女は大学に通い、素晴らしい級友を持つ娘として描かれたが、婦人参政権運動のデモ行進の一員として描かれることはなかった。
第一次世界大戦の勃発と共に、ファッションの変遷によってその人気を失う。第一次世界大戦期間の女性たちは、ギブソン・ガールが好んだ優美なドレスや、バッスル・ガウン、シャツドレス、そして段を付けた短いスカートより落ち着いて、男性風な衣服を好んだ。このような戦時の謹厳な衣服は、ココ・シャネルが最初にデザインし普及させたものである。
第二次世界大戦時の飛行機が搭載していたオーストラリア空軍の救難無線機『BC-778』は、筐体中央部がくびれていたため、「ギブソン・ガール」と呼ばれた。かつては海上自衛隊でも哨戒機の漂流キットの中に含まれており搭乗員からは「ギブソンズ・ガール」と呼ばれていた。
とりあえず1920年以降「バレエ・リュス(Ballets Russes、1909年〜1929年)」のパトロンにもなったココ・シャネル(Coco Chanel、1883年〜1971年)登場で一区切りなんですね。
20世紀初頭(1906年)に、芸術の都パリの芸術界に突如登場した、セルジュ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の公演にパリ市民は驚きました。このバレエ団の理念は、古いクラシック・バレエの概念をこわして、民族性、物語性、時代考証を取り入れた総合芸術としてのバレエを創造することでした。常に新しい芸術をファッションに取り入れたいとかねがね考えていたシャネルはこのバレエ団にとても惹かれました。
チケットを売って興行を続けるカンパニー「バレエ・リュス」は常に赤字経営でした。そこでシャネルはパトロンになろうと申し出ました。更に1917年のロシア革命で亡命してきた貴族の子女をモデルに雇い、ロシア王室お抱えであった調香師に有名な香水「CHANEL No.5」を作らせ、作曲家ストラヴィンスキーを自分の別荘に一家で住まわせました。(彼女のファッションにロシア文化の影響が表れているのは言うまでもありません。)第一次世界大戦後のバレエ団はピカソ、マティス、ストラヴィンスキー、ラヴェル、ジャン・コクトー、男性ダンサーなど若い芸術家を多く登用し、前衛的なバレエを次々と発表しました。中でも有名なのが作品「春の祭典」です。振り付け、音楽、舞台装置、物語性など全てにおいて古い世代の人たちを驚かせる作品だったのです。セリフのない分、バレエには演出が重要です。この興行にはシャネルの全面的な支援があったため大成功に終わりました。新しい文化の創造にはパトロンの協力が不可欠だったのです。
それまでのパトロンと言えばメディチ家のような権力者や王族が常でしたが、平民出身の女性がパトロンになったということは画期的なことだったのです。シャネルはこういっています。「私はお金が好きです。なぜならお金で自由が手に入るのだから」と。
総合芸術集団「バレエ・リュス」の後世に与えた影響は絶大で、モダン・バレエ、ロック・ミュージック、モダン・アートなど様々な現代芸術の起点となっています。
①第一次世界大戦後のサイレント大作映画全盛期(1920年代)には好景気を背景に「(見るからに高貴そうだが倦怠感を漂わせ見るからに不健康そうな貧乳で柳腰の)ヨーロッパ的妖婦人」が銀幕を席巻し、そうした女性像を熱狂的に支持するフラッパー(Flapper)娘達が夜野町を闊歩する。
*リリアン・ギッシュ( Lillian Gish,1893年〜1993年)…ドイツ系アメリカ人ともフランス系アメリカ人とも。D・W・グリフィス監督「國民の創生(The Birth of a Nation,1915年)」「イントレランス(Intolerance,1916年)」などのサイレント大作に出演
*メアリー・ピックフォード(Mary Pickford,1892年〜1979年)…アイルランド系カトリック教徒のカナダ人。D・W・グリフィス監督に認められて映画デビューし「シンデレラ (Cinderella,1914年)」「小米国人(The Little American,1917年、セシル・B・デミル 監督作品)」などに出演するうちに年間100万ドル稼ぐ最初の女優となり「アメリカの恋人」と呼ばれた。
*グロリア・スワンソン (Gloria Swanson,1899年〜1983年)…スウェーデン系の父親とポーランド系の母親の間に生まれる。1919年にパラマウント映画と契約しセシル・B・デミルに見いだされた。1920年代に入るとセシルは第一次世界大戦後の好況期を背景に「男性客を喜ばすエロティックな場面」や「女性客を喜ばせる豪華な衣装やジュエリーやセット」をふんだんに盛り込んだ絢爛豪華な大作を次々とヒットとさせたが、そうした作品の看板女優の一人となり「百万ドル稼ぎ百万ドル使うゴージャスな女」という定評を得る事に。
*ポーラ・ネグリ(Pola Negri,1897年〜1987年)…ポーランド出身。第一次世界大戦末までにワルシャワで人気舞台女優となり、ドイツのベルリンで映画に出演する様になり,1920年代にはハリウッドに招聘されてエキゾチックでグラマラスなヴァンプ(Vamp=Vampireの略で男を破滅させる妖婦)役で一斉を風靡した。
*セダ・バラ(Theda Bara,1885年〜1955年)…サイレント時代に人気のあった女優で、"The Vamp" というニックネームを持つハリウッド初のセックスシンボル。"The Vamp" は “Vampire” を省略した単語で、男を誘惑し食い物にしようとする女性を指す。オハイオ州シンシナティ出身。
*そういえば「禁酒法(Prohibition)時代(1920年〜1933年)」を風靡し日本へも伝播した「フラッパー娘(Flapper)」についても(狂乱の1920年代を忠実再現したスコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー(The Great Gatsby、原作1925年、最新映画化2013年)」を見ても)貧乳で柳腰のスレンダー美人という印象しかない。
②しかしその間にも「出っ張るべき部分が出っ張り、引っ込むべき部分が引っ込んだグラマラスで健康的な女性美の世界」はピンナップ・ガール(Pinup Girl、画鋲で壁に留める「お色気ポスター」)の世界で命脈を保ち、トーキー時代に入って訛りの酷い外国人女優がお払い箱となった1930年代から「国産金髪美人」の反撃が始まり、第二次世界大戦下ではバーレスク(Burlesque、局部を露出しないストリップ)文化と併せ「戦意高揚用軍需品」として公式に認知される展開となった。
*実はフレンチメイド(French Maid)も当時のピンナップ・ガールの主題の一つ。
*ジーン・ハーロウ(Jean Harlow,1911年~1937年)…ミズーリ州カンザスシティ出身。トーキー時代に入り訛りの酷い外人女優が次々と干されていった1930年代に「妖艶な国産プラチナ・ブロンド」として悪女や妖婦役で人気を獲得し、この時代を代表するセックスシンボルとなった。アルコール問題を抱え26歳で亡くなっている。マリリン・モンローの本名ノーマ・ジーンの「ジーン」は彼女が由来で、その自殺の遠因になったとも。
*ラナ・ターナー(Lana Turner,1921年~1995年)…アメリカ合衆国アイダホ州出身。タイトなセーターでグラマーさを強調したセクシー女優で「セーター・ガール」という愛称で1940年代から1950年代にかけてスターとなった(1937年から端役で映画に出始め、第二次世界大戦中は最も人気あるピンナップ・ガールとして活躍し「郵便配達は二度ベルを鳴らす(1946年)」で愛人をそそのかし夫を殺させる妖婦を演じたのが当たり役となる)。プライベートでは7人の男性と結婚。クラーク・ゲーブルやタイロン・パワー、ハワード・ヒューズ、フランク・シナトラ、ショーン・コネリーなどをボーイフレンドに。1958年には、彼女の娘シェリル(二度目の夫との子)が当時のラナの愛人であったジョニー・ストンパナート(ギャングのボディ・ガードであり、ラナに暴力を振るっていた)を刺殺する事件が起こり、事件そのものはシェリルの正当防衛で決着が付いたがジェイムズ・エルロイ「L.A.コンフィデンシャル(L.A.Confidential、原作1990年、映画化1997年)」でもこれを1950年代を代表する事件として扱っている。
*ヴェロニカ・レイク (Veronica Lake,1919年~1973年)…アメリカ合衆国ニューヨーク州出身。父親はオランダ・アイルランド系。1939年に端役で映画デビュー1940年代しフィルム・ノワールのファム・ファタールとして活躍。ある映画の撮影中に監督のジョン・ファローが、彼女の右目がいつも髪の毛で隠れていることに気づき、以降「小柄で、顔半分を隠すようにたらしたプラチナ・ブロンドの髪の毛」がトレードマークとなった。やはり「L.A.コンフィデンシャル」にも当時を代表するセックスシンボルとして登場。今日のアメリカでもそのミステリアスなムードに今でも根強い人気があり、近年の人気ドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」でも「寝たい往年のスター」を話し合うシーンで名前が挙げられている。映画「ロジャー・ラビット(Who Framed Roger Rabbit、1988年)」に登場する妖艶なアニメ美女ジェシカ・ラビット(Jessica Rabbit)の重要なモデルの一人。
こうした展開を尻目にアメリカに亡命した欧州映画監督達(オーストリア系ユダヤ人が多く当時最先端の技法だったドイツ表現主義に詳しかった)は1940年代から1960年代にかけて「フィルム・ノワール (Film Noir、フランス語で「闇黒映画」) 」の世界を展開。しかし次第にそこに登場する「ファム・ハタール(Femme fatale、フランス語で「運命の女」の意。男を破滅に追い込む妖艶な美女)」はアメリカの価値観を受容し「貧乳柳腰」タイプから「グラマラス」タイプへと変貌を遂げていく。
それと同時進行で米国アニメ業界においても1930年代から1940年代にかけて「妖艶なベティーブープ(Betty Boop)から勤労女性ロイス・レーン(「スーパーマン(1941年〜1943年)」のヒロイン)へ」と言った変化が起こる。
こうした試練を潜り抜けてきたファッション業界における最先端トレンドは「エフォートレス・シック(Effortless Chic=頑張らな自然体)」なんだとか。
確かに上掲の歴史を微積分にかけて極限値を求めてもそうなる? 問題は(森瑤子のエッセイにあったみたいに)「ジェーン・バーキンがジーンズにTシャツ姿でロレックスの腕時計をしていても似合うのはジェーン・バーキンだから」という循環論法に陥りがちな事…
まぁそれでも昔よりはずいぶん進歩した?
転んだり燃え上がったりする他にそんなのもあるのか…