週刊ヤングジャンプ連載の石田スイ「東京喰種:re(トーキョーグール:re、第1部2011年〜2014年、第2部2014年〜)」がいよいよ佳境に。
マルタ語(Malti、 Lingwa Maltija)
マルタ共和国で公用語として話される言語。欧州連合(EU)の公式言語の一つ。言語はアラビア語の口語(アーンミーヤ)の変種の一つであるが、ロマンス系語彙の借用語が多いことから(ただし、これはマグリブの口語全体にいえることである)別言語とする学者もいる。
ヨーロッパ圏唯一のアフロ・アジア語族 - セム語派の言語である。アラビア語の口語(アーンミーヤ)の中では、マグリブ方言に最も近い。シチリア語、イタリア語など、ロマンス系の語彙を多く含み、セム系言語で唯一のラテン文字による正書法を持つ。
それまで公用語であったイタリア語に代わり,1936年に英語と並んでマルタ共和国の公用語に採用された。今日では、約60万人の話者がいる。オーストラリアやアメリカ合衆国、カナダへ移民した人々の間でも使われている。
現存する最も古い使用例は、15世紀にPietro Caxaroにより書かれた、「Il Cantilena」である。何世紀もの間、マルタ語は話し言葉であり、記述する時には、アラビア語、のちにイタリア語が使用された。
ロマンス語の影響を受けてはいるが依然としてアラビア語そのもの。ただしその文法はアラビア語的なものとロマンス語的なものが共存しており、語彙の起源と慣習に従って使い分けられる。最近は英語からの借用語も増えている。
その語彙はアラビア語語彙を基礎とし、(イタリア語トスカーナ方言よりむしろ)シチリア語から膨大な借用語をとりいれたハイブリッドである。この点においてフランス語の影響を強く受けたゲルマン語である英語、アラビア語の影響を強く受けたインド・イラン語派のペルシア語と似ている。なお、ロマンス語を基調としつつアラビア語語彙を受け入れたスペイン語とは鏡像的な関係であるとも言える。
語彙の60%はアラビア語語彙であり、残りはロマンス語であると概算される。Zammit (2000) によるとコーラン・アラビア語からサンプルをとった1820語の語根のうち40%がマルタ語に見出すことができるとのことである。これは他のアラビア語のモロッコ方言 (58%) やシリア方言(英語版) (72%) に比べて少ない。一般に基本的な概念を表す語彙はアラビア語であり、新しい概念、物、政府、法律、教育、芸術、文学に関する「高尚」な語彙はシチリア語から借用されている。よって、raġel(男)、mara(女)、tifel(子供)、dar(家)、xemx(太陽)、sajf(夏)といった語彙は全てアラビア語起源であり、skola(学校)、gvern(政府)、repubblika(共和国)、re(王)、natura(自然)、pulizija(警察)、ċentru(中心)、 teatru(劇場、映画館)、differenza(差異)などはシチリア語からの借用語である。
*mara(女)がアラビア語源なのは興味深い。釈迦が悟りを開く禅定に入った時に瞑想を妨げるために現れた魔神マーラ(Māra)との関連を想起させる。インドでは愛の神カーマと結び付けられ、カーマの別名又はカーマ・マーラとして一体で概念された。日本では「マーラ=修行の邪魔をする煩悩=男根」という連想から「魔羅=男性器」という隠語が生まれた模様。どうしてそうなった? 腐ってやがる…ロマンス系の語彙はイタリア語トスカーナ方言ではなくシチリア語の発音を反映している。よって、イタリア語の語末のoはuに、語末のeはiとなっている。例えばイタリア語の Cristo(キリスト)、 arte(芸術)は、マルタ語ではそれぞれ Kristu(シチリア語ではCristu)、 arti(シチリア語でもarti)である。
かつてアル・アンダルスで使われていたアラビア語を復元する際には、言語のルーツの近さと接触した言語の類似性からマルタ語が大きな参考とされている。
類似の状況の他言語としては、キルギスタンなど中央アジア諸国で漢民族系ムスリムによって使用され中国語方言を基本としながらも、中国語に比べアラビア語・ペルシア語・テュルク諸語・ロシア語からの借用語が多く、キリル文字で表記されるドンガン語が挙げられる。
シチリア語(sicilianu、lingua siciliana)
シチリア島とイタリア南部で使用されているロマンス語の一種。シチリア方言はシチリアとその周辺の島々で話され、カラブリア州の南部と中央部、プッリャ州の南部、カンパニア州、イタリア本土でも使用される。
古くはイタリア語(トスカーナ語)の方言とされていたが、近年のリージョナリズムの中でナポリ語・ロンバルディア語・サルディニア語・ヴェネト語らと共にイタリア語の姉妹言語としての立ち位置が公式になりつつある。
イスラムの支配下にあった歴史から、現在は死語となったアラビア語シチリア方言の語彙が多く取り入れられている。
英国時代は、マルタの歴史上、とても意味のある時代でした。この時代における最も歴史的な出来事は、世界大戦とマルタの独立です。英国の遺産は、日常生活の多くの側面に残っています。島の公用語は英語で、英国とは観光および貿易で強い相互関係があります。さらに通りでは、古風な英国文字や電話ボックスを見ることができます。
マルタ人がフランスを追い出すのを助けた後、英国は自身が島を支配していることに気づきましたが、領土を維持すべきかどうかに関して最初はあいまいでした。1802年のアミアンの条約ではマルタは聖ヨハネ騎士団に戻されるべきであると定めましたが、一部の地元住民は以前の統治者に戻りたがらず、英国の保護下に残ることを願いました。
*聖ヨハネ騎士団…その歴史は1023年ごろ、アマルフィの商人がエルサレムの洗礼者ヨハネ修道院の跡に病院を兼ねた巡礼者宿泊所を設立したことに始まる。第1回十字軍(1096年〜1099年)によって中東に十字軍国家が創建されたると、プロヴァンスのジェラールの努力によって、1113年に教皇パスカリス2世から騎士修道会として正式な承認を得て、1119年に設立されたテンプル騎士団と同様に徐々に軍事的要素を強めていった。ただし、この時代は主に病院(ホスピタル)騎士団と呼ばれる様に、最大2,000人が収容可能といわれた病院や宿泊施設も従来どおり運営されており、騎士出身の修道士も平時には病院での医療奉仕が義務付けられ(騎士と呼ばれていても、公的には修道請願を立てた修道士であり、本来的な意味での騎士ではない)、設立時の趣旨を色濃く残していた。当時、この騎士団に入ることは大変な栄誉とされていたが、その代償として騎士団在籍中は如何なる理由があっても結婚が禁止された。ただし、この時代は主に病院(ホスピタル)騎士団と呼ばれる様に、最大2,000人が収容可能といわれた病院や宿泊施設も従来どおり運営されており、騎士出身の修道士も平時には病院での医療奉仕が義務付けられ(騎士と呼ばれていても、公的には修道請願を立てた修道士であり、本来的な意味での騎士ではない)、設立時の趣旨を色濃く残していた。またこの騎士団に入ることは大変な栄誉とされていたが、その代償として騎士団在籍中は如何なる理由があっても結婚が禁止された。しかしやがて騎士修道会は十字軍国家の防衛の主力となり、聖ヨハネ騎士団だけで2つの大要塞と140の砦を守るまでになる。1187年にエルサレムが陥落した後も、トリポリやアッコンを死守していたが、1291年、ついに最後のキリスト教徒の砦アッコンが陥落した後は、キプロスに逃れた。この後は「聖地巡礼をするキリスト教徒の重要な経由地の守護者」「ムスリム(イスラム教徒)に対する聖戦の実行者」を名乗る海軍(実態は海賊)となってイスラーム勢力と戦ったが、キプロス王が騎士団の存在を恐れたこともあり、1309年に東ローマ帝国領であったロドス島を奪いここに本拠地を移した。これ以降、ロドス騎士団と呼ばれるようになる。1312年にテンプル騎士団の資産が没収されたとき、かなりの部分が聖ヨハネ騎士団に与えられた。また、中東のイスラーム教徒と戦う唯一の主要な騎士修道会となったため、西欧から多額の寄進を受けることができた。当時における騎士団の構成員は騎士が500人程度で、母国語によって8つの騎士館グループに分かれていた。各グループ毎に騎士館長(戦闘の際には部隊長となる)がおり、全体を騎士団総長が統率した。各騎士館の構成員の人数が常に均等であったことはなく、フランス人の3騎士館、スペインの2騎士館の人数が突出していた。しかし1522年、1444年にはエジプトのスルターン、1480年にはオスマン帝国のメフメト2世の襲撃を受けたが、騎士団はこれを撃退。西欧では久しぶりのオスマン・イスラーム勢力に対する勝利として騎士団の評判は高まったが、オスマン帝国のスレイマン1世が400隻の船団と20万人の兵で来襲した。対する騎士団側は雑兵まで含めて7千人ばかりで、必死の防戦を繰り広げたが衆寡敵せず、ついにロドス島を明け渡してシチリア島に撤退。教皇クレメンス7世と神聖ローマ皇帝カール5世の斡旋により、シチリア王からマルタ島を借りることになったが賃貸料は毎年「マルタの鷹」1羽とされた。このマルタ島もロドス島同様にイスラームやヴェネツィアのユダヤ人に対し海賊行為を行い、マルタ島はイスラーム教徒やユダヤ人の奴隷売買の中心地となった。その後1798年、ナポレオン・ボナパルトの侵攻によりマルタ島を奪われ、領土を失う。領土を失った後も伝統的に「主権を有している」とされるが、正確な性質は不明瞭である。根拠地を失った騎士団は正教国家であるロシア帝国を頼り、1801年にロシア皇帝パーヴェル1世を騎士団総長に選んだ。1803年には再びカトリックの総長に戻るが、これ以降は求心力を失い、各地の支部が独自に活動するようになる。1834年に本部はローマに移った。アミアンの和約は短命に終わり、ナポレオン戦争が再開しました。こうして英国は、マルタを守ることを約束し、結局1814年のパリ条約によって、マルタ諸島の完全な主権を獲得します。その時以来、マルタは大英帝国の重要な一部、地域の重要な拠点と英国の東への拡大の踏み石になりました。
戦争と平和の繰り返しを通して、マルタの運命は、英国の運命と密接不可分に結びつきました。第二次世界大戦中に、島が地中海の交戦圏で重要な役割を演じたとき、その関係は一層、明白になりました。第一次世界大戦中の、補給基地として、あるいは負傷者の回復拠点としてのマルタ諸島の役割は、島に「地中海の看護婦」という肩書きをもたらしました。
第二次世界大戦中のマルタの人々の勇敢さは、勇気あるマルタ国民全体にジョージクロスの勲章を与えたキングジョージ V世によって認められました。
戦争の後、自治を求める運動はより強くなり、最終的にマルタは1964年9月21日に独立を与えられました。島の軍事基地が閉鎖されるまで、英国軍は1979年3月31日までマルタでの存在を保持しました。島は、英国連邦の一部になりました。
要するにマルタ語のreは中世シチリア語のre。そして当時の南イタリアにおいて「王(re)」といえば(フランス語で「ヴァセック(Vathek,1785年)」を上梓したウィリアム・トマス・ベックフォードと双璧をなす18世紀ニート代表格)ホレス・ウォルポール「オトラント城奇譚(The Castle of Otranto,1764年)」に主題を提供した「イスラム諸国からも絶賛された無血十字軍の達成者」にして「王座上の最初の近代人(スイス人文化史学者ブルクハルト)」ホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世(Friedrich II、在位1220年〜1250年)/シチリア王フェデリーコ1世(Federico I、在位1197年〜1250年)の事なのでは?
ラフカディオ・ハーン辺りにいわせると「欧州の耳なし芳一」に登場する平家の怨霊の仲間?
まぁ日本にはさらなる大ボス「崇徳天皇(政争に敗れて讃岐に配流され現地で客死したが、安元2年(1176年)に建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去して安元3年(1177年)に延暦寺強訴、安元大火、鹿ケ谷の陰謀が重なって社会が不安定化すると怨霊説が急速に流布)」や「滝夜叉姫(五月姫、巨大骸骨軍団を召喚して日本征服を企む平将門の娘。夜叉丸や蜘蛛丸を従えた妖術使い)」やなんてのも控えてるけど。
まさかの「18世紀中二病」復活?
【追伸】一応「シチリアの晩祷(Vespri siciliani、1282年)」事件を契機にシチリア王統に迎えられたアラゴン王家の可能性もある。少なくとも現在なおシチリア島で活動を続ける王党派が待ってるのはこれとも。