諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

宮沢賢治「オツベルと象」はモダニズム文学?

19世紀末から20世紀初頭にかけて情報流通の産業化が進行。その過程で「ロマン主義運動」が産み出したキャラクター達の多くにまとめて「怪物」のレッテルを貼られる展開となりました。
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*かろうじて「捕縛」を免れた「ヒースクリフ(Heathcliff、 エミリー・ブロンテの長編小説「嵐が丘(Wuthering Heights、1847年)」に登場する復讐鬼)」さんですら、結局逃げ切れず?

それにしても、どうして19世紀ロマン主義運動の到達点は「Universal Monstersの類」へと転落せずにはいられなかったのでしょうか?

それはおそらく、人間が元来過去には生きられず、そもそも「完全に過ぎ去った過去」に対してはノスタルジアすら感じられないからなのです。そもそも「19世紀ロマン主義運動」とは一体何だったのでしょう?

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ワイマール期の大統領内閣制やナチス政権のイデオローグに抜擢されたカール・シュミットはこう要約します。

カール・シュミット「政治的ロマン主義(Politische Romantik、1919年)」はロマン主義の定義について「ロマン主義者の主体から発するものでなければならない」と規定する。そしてロマン主義者独特の態度、精神に注意すれば「ロマン主義とは主観化された機会原因論(occasionalism)に過ぎない」という本質が看過されるとする。

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  • ここでいう機会原因論(occasionalism)とは「すべてのものを神において見る」というマルブランシュのことばにあらわされるように、あらゆる現象を神の発動とみなす立場。そしてすべてのものが機会原因に過ぎないのだとしたら、そこから生じるのも「実態もなく果たさねばならぬ機能もなく、確固たる指導もなく、結論も定義も受けつけず、決断もおこなわず、最後の審判もない、ただ偶然の魔法の手によって導かれて限りなく進行していく世界」となる。何故ならこの世界観位おいては、人間が主体性を確立する意義が一切存在しないからである。

    *「見えざる手(invisible hand)が人間を無意識のうちに導く」という観点からすればエドモンド・バークアダム・スミスヘーゲルも一緒くた。さらにはマルクスの上部構造論や吉本隆明共同幻想論まで含む。「機会原因論は神のうちに真の原因のすべてを見、この世のすべての事象を単に偶然的な機因であるときめつけた」「ロマン主義も同様に科学的因果律を否定する。すべての偶然は大きな出来事への契機となる」「それは遊びと空想への転換であり「文学化」であり、換言すれば具体的な所与を、それのみかすべての感覚的知覚を「寓話」への、詩への、美的感動の対象への…小説(ロマン)へのきっかけとして利用することだった」「一方、世界を動かす秘められた力の観念をよろこぶロマン主義精神は十八世紀末以後、陰謀論や陰から舞台をあやつる力への選好を強めていく」

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    *実際のマルブランシュはスーフィーイスラム神秘主義者)のガザーリーよりアリストテレス哲学を発展させた「流出論」や「コンピューター的神秘論」の影響を受けている。
    ガザーリー
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    ガザーリーの流出論…神智そのものは無謬にして唯一無二だが、現世への流出過程で誤謬が累積して多様性や悪が生じるとする説。「もし神智が無謬なら、なぜ悪は存在するのか」というアラビア哲学やスコラ学への最終回答。

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    コンピューター的神秘論…修行者は語るもの(インターフェイス操作やコンピューター言語に相当)を介して、語りかけられるもの(CPUやBIOSやOSに相当)」に接し、それを通じて世界そのもの(接続された様々な周辺機器)に働きかけるとするモデル。実はスーフィズムイスラム神秘主義)だけでなく仏教密教でも採用されており、欧州へもスコラ学を通じて伝わった。大変興味深い事にこのシステムは「主体の存在意義」を担保してくれる一方で、その中身を一切問わない。それがとんでもない黒魔術師だろうが、マッドサイエンティストだろうが「語られ方」さえ適正なら「語りかけられるもの」がその働きかけに応じてしまうのである。

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  • しかし自分の経験から出られない、それでいて主体として何らかの意味を持っているという自負を捨てたくないが故に何らかの生産性を発揮しようとする主体は、自己の経験を芸術的に造形しようとする。この信念に基づいて、芸術家は「世界を創造する神と同一化」するのである。
    *とはいえ美的生産の主体が精神的中心を自分自身のうちに置くことができるのは個人主義的に解体された社会においてのみである。個人を精神的なもののなかに隔離し、自分自身しか頼るものがないようにさせ、普通ならばひとつの社会秩序のなかでヒエラルヒーに応じてさまざまの機能に分けられていた重荷を個人の肩にすべて担わせてしまう市民的な世界においてのみそれは可能となる。「宇宙も国家も民族も歴史の発展もそれ自体としてはロマン主義者の興味をひかない。すべては自分自身にのみ関心する主体のしかるべき飾りとされ得る」「(共同体と歴史も)もっぱらロマン的自我の生産力のために利用される」

  • ロマン主義の活動範囲は気分(mood?)の範疇に、精神の範疇に、つまり美的世界の範疇にとどまり、いささかなりとも現実を変えようとはしない。
    *巷にあふれるロマン的なもののの機能は「今日」と「ここ」の否定にある。つまりロマン主義者はつねに逃避する。「ロマン主義者は現実を避けるが、しかしイローニッシュに、陰謀をたくらむようにして避けるのである」「それは新しい現実をつくりだすかわりにそのときの現実を無力化しようとする人間の活動である。彼は自分の逃避で可能性を留保し、現実にたいして可能性を守る」「そもそも現実の具体的な業績などというものはすべて彼にとっては屑にすぎない。自分が、また自分の何らかの現れ方が現在の現実の限定性のなかで捉えられることに彼は抗議する」。

ロマン主義者にとって真に重要なのは自分の美的世界を彩ることであって、対象そのものはなんでもいいのだ。芸術そのものは別として、学問や為政においてはこうした態度は不誠実極まりない。シュミットが厳しく攻撃するのはそのためだろう。
カール・シュミットにとっては、この様にロマン主義という概念に徹底的に「非行動主義」のレッテルを貼りつける事こそが「敵友」理論の実践そのものだったのだろう。

*ちなみにハンガリー出身の経済人類学創始者カール・ポランニーは「大転換(The Great Transformation、1944年)」の中で英国において16世紀と18世紀にピークを迎えた囲い込み運動について分析し「国保守主義の要項は、正義を巡る衝突が正しい速度で変化し続ける為の調整装置としてしか機能しないニヒリズムにある(各陣営の是非や党争における勝敗の行方など後から問われる事もない)」という結論に至っている。そういえば産業革命進行を背景とする地主層と産業資本家層の保護関税を巡る衝突も似た様な展開を辿った。

遺稿集「人間の経済(he Livelihood of Man、1968年〜1977)」ではさらに踏み込んで「革新勢力は特定の時代精神に特化した処方箋を調合しては金科玉条の様に守り続けるので、すぐに因循姑息な守旧派に堕してしまう。一方保守勢力は存続そのものが主目的なので良くも悪くも新陳代謝が激しい。革新勢力が保守勢力の特定の弱点を突こうとすると、大抵は無残な結果に終わるのはこの相性の悪さのせい」と述べている。もちろん「敵友理論の実践こそが政治」と考えるカール・シュミットがこんなファクターを認める事は決してないだろう。フランス人が「ナポレオンは大英帝国を征服する事が出来なかった」という事実を決して認めない様に。ドイツ人がヒトラー大英帝国を征服する事が出来なかった」という事実を決して認めない様に。

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一方、カール・シュミットの思考様式は(ワイマール体制の「決められない政治」に誰もが苛立っていた)当時のドイツにおいては以外とありふれたもの。フランスもテルミドール反動(1799年)後と2月/3月革命(1848年〜1849年)後に同様の状態に陥り、2回も帝政への移行を余儀なくされたが、同様のプロセスを経てワイマール体制は独裁色の強い大統領内閣制への移行とナチス党への政権譲渡を余儀なくされるのである。そして何故かそういうタイミングでは「(インテリの陥りやすい因循姑息さの象徴としての)ロマン主義」が徹底して叩かれる事になる。

 こうした思考様式がナチスドイツの迫害を逃れて亡命したドイツ系ユダヤ人経由で米国に伝わって(伝統的孤立主義を「世界を見捨てる怯懦主義」と弾劾する)ネオコンイデオロギーの源流になったとする向きもあるが、あくまで異論も多い。事実関係はともかく「(恣意的に寛容の方向性を制御しようとする)カール・シュミットの敵友理論」が米国に伝わったのだとしたら(親イスラエル派閥の母体となった)彼ら経由であった可能性までは全面否定出来ないのである。 

思想2008年第10号「レオ・シュトラウス問題」

ドイツ系ユダヤ人であったレオ・シュトラウス(Leo Strauss、1899年〜1973年)は(カール・シュミットハイデガーといったナチスイデオロギーを支えた思想家達の弟子筋ながら)ナチス迫害を逃れて1938年米国にポストを得た。そして1949年以降シカゴ大学教授として主としてユダヤ系知識人青年たちに囲まれ、一種のカリスマとなる。

そもそも米国は、その存在そのものが近代啓蒙主義の産物で、「建国の父」たちは奇跡を否定する理神論者、自由競争と民主主義の使徒である。二〇世紀前半の米国はエディスンにライト兄弟、フォードにハリウッドの国であった。この国では第一次大戦も「近代」に対する思想的衝撃とは無縁で、むしろ「近代」のチャンピオンとしての自負を強め、大戦を世界にアメリカニズムを拡大する契機とした。

この米国でシュトラウスは何を考えたか、これが「レオ・シュトラウス問題」で、この主題をめぐっては、シュトラウス信者の間でも非信者の間でも対立がある。何しろ青年時代の彼は、ドイツ思想界における近代啓蒙主義を侮蔑の言葉で語る潮流の一員であり、やがてナチの旗を振ったハイデガーやシュミットと深い精神的結びつきをもっていたのであるから。

この主題についての最も好意的で無難な解釈は、「彼はもとより米国的民主主義と自由の支持者であるが、ワイマール体制瓦解の体験に徴して、現在の米国の中に危機の徴候を感じ、それに警告しているのだ」というものである。その「徴候」とは体制の敵に対する相対主義的寛容を意味し、ワイマールはそれによって滅びたとする。そこから米国的民主主義を妥協なく世界に宣布するという彼の弟子たち(ネオコン)の思想と行動が導き出される。

*やはりここでも「(恣意的に寛容の方向性を制御しようとする)カール・シュミットの敵友理論」が米国に伝わったのだとしたら(親イスラエル派閥の母体となった)ドイツ系ユダヤ人経由であった可能性が完全には否定しきれない辺りが問題となる。しかし「インテリ中のインテリ」米国系ユダヤ人は存外したたかで、シオニスト(Zionist、ユダヤ人であろうがなかろうが熱狂的にイスラエル存続を支持する派閥)と ディアスポラ(現地有力者の意向には逆らわない政商。オランダやベルギーやブラジルや南アフリカなどに既得権益を有する超ブルジョワ階層)とノンポリ(率先してイスラエル国旗を焼く徹底的個人主義者)の三側面を今日なお巧みに取り回し続けているのである。

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 *それはそれとして「内海に依存する地中海沿岸諸国も、海軍最弱だったイベリア半島諸国も陸の国。一方、どんだけ広大な面積を領有していても海軍が強いアメリカは大英帝国同様に海の国」としたカール・シュミット流「敵友理論」の恣意性が米国に伝わって如何なる爪痕を残したかは本当にわからない。日本人に至っては、これほど入り組んだ「Zion問題」をさらに(イタリア統一を目指し敗れた)ボルジア家の野望と結びつけた国際的コンテンツを発信した事により、さらに複雑な泥沼状態に巻き込まれる事に。

アラン・ブルーム

シュトラウスには「エルサレムアテナイ」という二つの魂があり、何れが彼の「本質」であるかをめぐって論争がある。娘のギリシャ学者ジェニー・クレイなど「アテナイ派」も存在するが、ユダヤ系の論者たち(シュトラウスを論ずるのはそれが大部分である)では「エルサレム派」が優勢である。

ベストセラー『アメリカン・マインドの終焉』(一九八七年)の著者アラン・ブルームは、その中で「アテナイ派」の代表者といえよう。彼はアメリカ建国をヨーロッパ精神史の承継としてとらえ、亡命者たちがもたらしたフロイトヴェーバーなどドイツ語圏啓蒙思想家の影響によってその理念が相対化されたこと、それが六〇年代におけるマイノリティーの挑戦に対する知識層の無原則な寛容を生み、アメリカ精神を終焉に向かわせていることを辛辣な諦観をもって叙述する。なかんずく彼が慨嘆するのが、大学カリキュラムにおいて、プラトンシェークスピアなど西洋古典の講義を黒人学や女性史などに代置する動向である。


シュトラウスは、「徳」を人間性の中心に据える古代倫理学に対して、マキャヴェリホッブズが情念的人間を中心に政治哲学を展開したことを堕落として描き出したが、ブルームはスウィフト『ガリヴァー旅行記』において描かれた小人国・ラピュタ国を近代人の世界、大人国・フウィナム国を古代人の世界と解釈する形で近代批判を展開する(『巨人と小人』(一九九〇年))。

シャディア・ドゥルーリー

シュトラウスの「本心」はアメリカ民主主義に敵対的ではないかという疑惑が批判者たちから繰り返し提起されている。それにはドイツにおける彼の思想的前歴や、あくまで啓示信仰を擁護する宗教的立場、寛容に対する否定的姿勢、そして彼の弟子たちのリベラル派に対する闘争的敵対性などが関わっているが、特にカナダの政治思想家シャディア・ドゥルーリーは、彼の思想的真摯さそのものに疑惑を提出している。

  1. 彼女はまず、シュトラウスの「顕教密教使い分け」論を問題とする。シュトラウスは、一〇世紀のイスラム思想家アル・ファラビについて論じた論説の中で、哲学と社会の間には相剋があり、社会は哲学する権利を承認しないから、哲学者は真理探究を内輪の議論に留め、社会に受け容れられる「顕教」という鎧で自らを保護しなければならない、と言っている(『迫害と著作術』(一九五二年))。これが彼のアメリカにおける身の振り方そのものだというのである。

  2. シュトラウス政治哲学の「密教」は、プラトンの「理想国」に描かれたようなエリート支配で、そこでは統治に当って「崇高な嘘」が容認され、その体制は、国民に「黄金族」「銀族」「鉄族」があるという階級神話で維持される。ドゥルーリーによると「正義とは強者の利益に他ならない」という『ポリテイア』冒頭のトラシュマコスの言葉はプラトン自身の思想であり、彼の発言が生き生きとして説得的なのに、ソクラテスの反論がくどくどとして説得的でないのは「顕教」の中で「密教」を主張する典型的手法であるが、それはマキャヴェリやシュミットに共鳴するシュトラウス自身の思想でもある。

  3. 宗教は最も有力な統治の手段で、実はシュトラウス自身もマキャヴェリと同様宗教を民衆操作のための「崇高な嘘」と看做しており、宗教など全然信じていないのだ、という(『レオ・シュトラウスの政治思想』(一九八七年)、『レオ・シュトラウスとアメリカ右派』(一九九七年)、『テロルと文明』(二〇〇四年))。

筆者はワイマールの第一の病いは寛容でなくそれに対する敵対者の偏狭であると考え、広い意味で偏狭の潮流に属していたシュトラウスには批判的であるが、ホッブズ論など彼の思想史的業績には、脱帽を禁じ得ないと感じている。

サルトルを激怒させたカミュの定義はもっと簡単。「ロマン主義とは神にのみ向けられるダンディズム」の一言です。要するに(神への反逆を達成する為なら如何なる第三者を巻き添えにしても良心の痛まない)堕天使サタンの立ち位置。「どうして彼らはUniversal Monstersに登場する怪物達に雛形を提供する形でしか生き残れなかったのか」についてのヒントはこの辺りにありそうです。

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困った事に「本当はどうだったのか?」は別問題。しかし、その部分は人間が過去には生きられず、そもそも「完全に過ぎ去った過去」に対しては誰もノスタルジアすら感じないせいであっけなく切り捨てられてしまったと言う次第。それでは歴史のこの時点で「枝切り」されたのは何?

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  1. 国王や教会の権威を後ろ盾に得た領主が領主と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」の君臨がある時期まで絶対だった。それが故に「国王や教会の権威に無期無条件闘争を挑む政治的浪漫主義者」が輝いて見えた時期なら確かに存在したのである。
    *皮肉にもボードレールを始祖と仰ぐ近代詩の世界も、フロベールを始祖と仰ぐ近代小説の世界も、アカデミック絵画の世界に挑戦したマネを始祖と仰ぐ近代絵画の世界も、両者が対消滅した後に初めて行動の自由を得たと自己言及している。

    絶対王政末期のフランスやドイツでは「国王を取り巻く宮廷貴族と高位聖職者、および王侯貴族や教会と縁戚関係や利害関係で結ばれた宮廷銀行家や官僚集団や在野の素封家」こそが大ブルジョワで、都市住民として手工業や商業を生業とする中小ブルジョワと独特の緊張感を抱えていた。
    *同時代のイギリスにおいてもカリブ砂糖農場主やネイボッブ(インド成金)を重要戦力に含むトーリー(本国地主層)と産業革命に後押しされたマンチェスターなどの産業資本家層の議会での激突があったが、次第に両者は妥協点を見つけて保守党へと合流していく。
    穀物法/穀物法廃止

  2. ヨーロッパ人は16世紀に入るまで貨幣数量説を知らず、さらには大不況 時代(1873年〜1896年)に至るまで産業革命がもたらした大量生産技術は、絶えざる市場開拓努力といった大量消費維持活動によってのみ支えられる」という基本的事実にも気づいていなかった。マルクスが「人間が個性の拠り所と信じている自由意志は社会の同調圧力(Peer pressure)によって型抜きされた既製品に過ぎず、本当の自由が欲しければまずこの枠組みそのものを破壊せねばならない」と主張したのはそういう時代の話で、レーニンが「自由な経済活動の放置はやがて必然的に搾取に至る」と主張した時代のロシアはどちらも伝播前だったのである。やがてこうした釣り合いに欠ける思考様式から「危険分子を徹底して粛清し続ければやがて調和に至る」とする理想主義(Idealist)が派生し、幾度となく大量虐殺が繰り返された事から、誰もが「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」なるジレンマを意識せざるを得なくなっていく。
    大量虐殺(英語: The Holocaust、ドイツ語: Holocaust、イディッシュ語: חורבן אייראפע、ヘブライ語: השואה)…元来はユダヤ教の宗教用語にあたる「燔祭(獣を丸焼きにして神前に供える犠牲)」を意味するギリシア語。やがて第二次世界大戦中にナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に遂行した大量虐殺を指す様になり、転じて火災による大虐殺、大破壊、全滅を意味するようになった。英語では、ユダヤ人虐殺に対しては定冠詞をつけて固有名詞 (The Holocaust) とし、その他の用法を普通名詞 (holocaust) として区別する。おそらくその原風景は戦国時代日本において織田信長家臣団が遂行した一向宗門徒虐殺(16世紀)、フランス革命当時のカソリック教徒虐殺(18世紀)などに見て取れる。ヴァンデーの反乱
    *サン=シモンが「産業者(les indutriels)同盟構想」を提唱した時点では、伝統的な大ブルジョワと中小ブルジョワの対立図式は故意に黙殺されていた。しかし新たに産業資本化階層が形成されていく過程て両者の境界線は消失して新たに「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」あるいは「二百家」と呼ばれる支配階層が誕生する事に。
    ロミー・シュナイダーと「華麗なる女銀行家」
  3. いわゆるルソー「ジュリまたは新エロイーズ(Julie ou la Nouvelle Héloïse、1761年)」とゲーテ「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers、1774年)」の狭間。フランス絶対王政下における理神崇拝(Deism)はイタリア・ルネサンス期の新アリストテレス哲学、すなわち「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす(逆を言えば実践知識の累積が引き起こすいかなるパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく)」なる科学実証主義に基づく信念に「尽しの思想(あらかじめ地上全ての知識を統合しておけばパラダイムシフトは回避可能と考える思考様式)」で対抗しようとし、その結果として18世紀フランス啓蒙主義が発達し「百科全書(L'Encyclopédie、正式には L'Encyclopédie, ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers, par une société de gens de lettres、1751年〜1772年)」がその果実として編纂された。しかし理神崇拝(Deism)の伝統が存在しないドイツにおいてそれは(フロイト精神分析学を嚆矢として発達心理学の分野が急速に神秘のベールを剥がしていく事になる)「それまで全面的味方とのみ盲信してきた世界そのものと自意識の間の齟齬の発見」「自分なりの世界観樹立の試み(失敗すれば死あるのみ)」なる厳しい自己認識論の出発地点となった。
    ochimusha01.hatenablog.com*こうした認識を発展させる形でケーニヒスベルク大学の哲学教授イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年〜1804年)は「純粋理性批判(Auflage der Kritik der reinen Vernunft、初版1781年、第二1787年)」「実践理性批判(Kritik der praktischen Vernunft、1788年)」「判断力批判(Kritik der Urteilskraft、1790年)」の三批判書を発表。さらに国際平和実現について皮肉をたっぷり込めた「永遠平和のために(Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf、1795年)」を上梓した。こうした思考様式が20世紀に入るとパリ出身のフランス人哲学者ベルクソン(Henri-Louis Bergson、1859年〜1941年)らの手で「生の飛躍(élan vital=エラン・ヴィタール)哲学」に昇華される事となる。

    *かくして全てを政治闘争に還元して一人でも多く動員するのが目的化した急進派に対抗すべく(中空に解決不可能な絶対矛盾を宿す)保守思想の形成が始まる。確かに人間に過去は生きられない。しかし(過去の積み重ねとして現在を生きる存在ゆえに)同様にまた純粋な未来も生きられない。ならばどうすべきなのか。ここで急進共和主義者達ならフランス革命の伝統に立ち返ろうとする。社会進化論や民族遺伝子学に基き、たとえ何百万人虐殺しようとも、未来さえ改善すれば英雄として未来永劫賞賛され続けるのだと信じ抜いて至福の境地に至る。それが本当に望ましい未来の全てなのか。英国におけるエドモンド・バークの「時効の憲法(prescriptive Constitution)」論やプリムローズ・リーグの成功、フランスにおける「エフォートレス・シック(Effortless Chic=頑張らな自然体)」論はこうした釣り合いに欠ける思考様式に抗議する為に生まれたとも。
    1250夜『崇高と美の観念の起原』エドマンド・バーク|松岡正剛の千夜千冊

    フランス革命を激しく非難する一方で名誉革命(1688年〜1689年)を支持するバーク保守主義は〈社会契約〉ではなく〈本源的契約〉を重視する。

    ①それは多年にわたり根本的に保持してきたもの中にのみ存在し、その表れである祖先から相続した古来からの制度を擁護しつつ子孫へと相続されていく。

    ②そしてそこには自然的に発展し成長してきた目に見えぬ“法(コモン・ロー)”や道徳、あるいは階級や国家はもちろんの事、可視的な君主制度や貴族制度あるいは教会制度においても、ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない“時効の憲法(prescriptive Constitution)”が含まれている。

    同世代のスコットランドアダム・スミスは「国富論」において“見えざる手”(an invisible hand)なる表現をもって著名となったが、無駄のない・合理的な摂理としてのsocial economy(社会のエコノミー)・the natural course of things(自然の成り行きこそがこうした政治哲学の背景には存在したのである。

    プリムローズ・リーグ(Primrose League、1883年〜11913年)

    かつて存在したイギリス保守党の議会外組織。「宗教・国政・大英帝国の護持」を目的とする。19世紀末から20世紀初頭の世紀転換期にイギリス最大の政治組織となり、同時代の保守党長期政権を支えた。

    ①ベンジャミン・ディズレーリの「トーリー・デモクラシー」の継承者を自任していた保守党の政治家ランドルフチャーチル卿(ウィンストン・チャーチルの父)は、一般保守党員の声がもっと保守党執行部に汲みあがるよう保守党議会外組織の影響力を拡大させる改革に熱心だった。その一環でランドルフ卿は1883年11月17日に保守党の社交界カールトンクラブの会合で新たな保守党議会外組織としてプリムローズ・リーグの結成を発表。プリムローズの名はヴィクトリア女王ディズレーリの葬儀にプリムローズを「彼の愛した花」として贈ったことに由来する。リーグの目的はディズレーリが目指した物、つまり「宗教、国制、大英帝国の護持」と定められた。

    ②既存の保守党議会外組織保守党協会全国同盟(NUCA)は自由党の同種の組織自由党国連盟に比べて大衆を運動員として動員する能力が低かったので、これを憂慮したランドルフ卿はプリムローズ・リーグをNUCAより広い階層の大衆の意見をくみ上げる大衆運動組織にしようと考えたのであった。ランドルフ卿はソールズベリー侯ら保守党執行部から疎まれていたが、1884年7月26日のソールズベリー侯とランドルフ卿の協定によりランドルフ卿がNUCA議長職を辞することを条件にプリムローズ・リーグは党執行部から公認された。

    ランドルフ卿ははじめこの組織をエリートだけが加入できる準秘密結社にしたがっていたが、これについてはランドルフ卿の同志であるサー・ヘンリー・ドラモンド・ウォルフが「無神論者と大英帝国の敵を除く全ての階級・信条の者に開かれた組織にすべきだ」と説得して止めた。その結果、リーグは「宗教、国制、大英帝国の護持のために私の持てる力の全てを捧げることを女王陛下への忠誠心にかけて誓う」と宣誓した者は誰でも受け入れられることになった。結成当初女性は名誉メンバーとしてのみ参加を許されていたが、1884年からは女性メンバーにも男性メンバーと同じ待遇が認められた。こうした女性への門戸の広さは当時の政治組織には珍しく、女性の反応もよかった。プリムローズ・リーグのメンバーの半分は女性であった。また初めメンバーの種類はナイト(女性はデイム)しかなく、1ポンド1シリングという高い入会金を取られたが、1884年3月から年会費3ペンスから6ペンスのアソシエイトというメンバーの種類が作られたため、これがきっかけで労働者層が大挙して加入するようになった。

    ④1884年2月には団体名からトーリーを外したことで党派を越えた支持も期待できるようになった(ただし引き続き保守党寄り団体だったが)。カトリックアイルランドにも融和的な態度をとって支持を広げようとした。7歳から16歳の子供もプリムローズ・バッドとして受け入れた。こうしてプリムローズリーグは性別、階級、宗派、年齢を越えた政治団体となった。

    ディズレーリの二度目の命日である1883年4月19日に行われたディズレーリ像の除幕式がきっかけで、毎年4月19日にプリムローズを飾ったり、着用したりする「プリムローズ・デイ」の習慣がイギリス各地で広まり、労働者階級の間に親ディズレーリ、親保守党ムードを構成した。そしてこの習慣の普及に積極的にあたったのがプリムローズ・リーグであり、以降急速に広まっていた。そのメンバー数は公式発表によれば1884年3月時に957人だったが、1885年3月には11,366人、1886年3月には200,837人、1887年3月には526,248人、1891年3月には1,001,292人、1901年3月には1,556,639人、1910年3月には2,053,019人に達したという。これは当時のイギリスの労働組合運動をはるかに凌ぐ。リーグの公式発表には誇張があると言われているが、それを差し引いてもプリムローズ・リーグが当時のイギリスの最大の政治組織であった事は間違いないと見られている。

    ⑥リーグのモットーは「帝国と自由」(ラテン語: Imperium et libertas)、目的は「宗教・国制・大英帝国の護持」と定められていた。リーグがこれだけ労働者層に広く受け入れられたのはこの目的が単純で包括的だったからと見られている(細かい政策には踏み込まなかった)。

    ⑦宗教の護持とは宗派を問わずキリスト教信仰全般を守るべく、無神論者と戦うことを意味する。国制の護持とは君主制貴族院庶民院の3つの柱を守ること、またイギリス社会のヒエラルキーを守り、それぞれが分相応の役割を果たして一つに結束するを意味している。大英帝国の護持は帝国を維持することの恩恵を国民に周知徹底させることが中心だった。たとえば「ヨーロッパの地図を見てみましょう。イギリスはほとんどの他国より規模の劣る小さな島国です。しかし今度は世界地図を見てみましょう。イギリスが支配する領域がどこまで広がっているか見るのです。アジア、アフリカ、アメリカ、オーストラリア、ニュージランドに帝国の女帝たる女王陛下の支配は及んでいるのです。(略)祖先が勇気と冒険心、労苦を持って獲得してくれたこの輝かし遺産を私たちは放棄するのでしょうか」といった具合である。

    ⑧20世紀初頭、自由党政権の社会改良政策を保守党は「社会主義」として激しく攻撃したが、リーグもこれに同調した。これにより徐々にメンバーの離反が始まり、リーグの衰退がはじまった。1913年には保守党の機構改革に合わせて、これまでの党派に属さないという立場を変更して保守党支持団体であることを明確にしたが、これにより自立性を失っていき、以降は急速に衰退していった。

    近年まで細々と活動を続けていたが、2004年12月13日に解散した。幹部のモウブリはその理由について「近年私たちの会合はどんどん小規模化していました。むしろダイニング・クラブのようで、リーグ創設の政治目標に役立つことはもうなくなっていました」と語っていた。

    「フランス語で、いかにも垢抜けた様子を『シック』chic という。非常によく使われる語であるが、フランス語らしくない音の語である。( 中略 ) この語はドイツ語で『秘儀』とか『作法』という意味の『Schick』がフランス語になったのではないかという説が有力である。」

    坂部甲次郎著『おしゃれ語源抄』( 昭和三十八年刊 ) には、そのように書かれている。シックの源には「秘儀」の意味があったらしい。これは納得がゆく。秘儀であるからこそ、開けても開けても、まだ小箱に包まれているのだ。


    「シックというものはある少数の人間が発散するものであって、そういう人間は、その友達とかその友達の友達の圏内……」


    マルセル・プルースト井上究一郎訳 『失われた時を求めて』に出てくる一節である。ここからはじまって、プルーストは延々と、シックとは何かを語る。いや、小説の登場人物にも大いに語らせてもいる。言葉を換え、表現を換えて、語る。それでもまだシックは神秘の箱に包まれている

    釣り合いに欠ける思考様式… ジェームズ・ヒルトン「チップス先生さようなら(Goodbye, Mr. Chips、1934年)」に英国紳士気質の本質として登場してくる言葉。普仏戦争(1870年)の年に着任し、第一次世界大戦(1913年〜1914年)終了の年に退職する主人公教師が生涯守り抜いたのは特定の理念ではなく、それだけだったという物語。*ちなみに19世紀末の描写にはドイツのワンダーフォーゲル運動と英国の婦人参政権運動が重要テーマとして登場する。

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    ワンダーフォーゲル(Wandervogel、1896年〜1930年代)

    戦前期ドイツにおいてカール・フィッシャーらがはじめた青少年による野外活動。またそれを元にする野外活動を率先して行おうとする運動。1896年にベルリン校外のスティーグリッツのギムナジウムの学生だったカール・フィッシャーがはじめた。19世紀後半のドイツにおいての急激な近代化に対する広い意味での自然主義の高揚を背景としている。


    Wandervogelは直訳すれば「渡り鳥」の意味である。1901年運動のメンバーの一人、ヴォルフ・マイネンが運動の中心が歌を歌うことだったので、ワンダーフォーゲルと名づけた。鳥、つまりさえずるという意であると同時に、社会の固定された規範から自由でありたいという願いが込められている。

    はじめ、フィッシャーらは男の子ばかり郊外の野原にでかけてギターを弾き、歌を歌った。そのうち、グループの緑の旗が出来たり、男の子は半ズボンに、ニッカーボッカーのようなスタイルになり、女の子も参加するようになる。

    1910年代にはドイツ全土に広がるが、時は第一次世界大戦に入り、ワンダーフォーゲルは、戦争忌避的な個人主義、個人の享楽主義のようにとられ、好ましくないとの批判が出てくるようになり、関連の団体、グループ13団体が、ホーエン・マイスナーに集合し「自由ドイツ青年」という団体を結成する。

    ちなみに、フィッシャーは上海のドイツ系新聞社に勤めている時に第一次世界大戦が勃発して応召。捕虜として日本の収容所(松山及び板東)で暮らしたことがある。
    チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会 俘虜群像 9. カール・フィッシャー
    チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会 俘虜名簿 611 Fischer, Karl

    戦争の進展と共に運動の一部はナチ化し、のちヒトラーユーゲントに吸収されて、その姿を消す。

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     ボーイスカウト(the Boy Scouts)

    20世紀初頭、イギリスの退役軍人のロバート・ベーデン=パウエル卿(以下 B-Pと表記)がイギリスの行く末を懸念し、将来を託すことの出来る青少年の健全育成を目指して創設したことにはじまる。

    1899年 当時、陸軍大佐だったB-Pは、『Aids to Scouting for N.-C.Os and Men』という下士官・兵向けの斥候の手引き書を執筆。

    1903年に赴任先のアフリカからイギリスに凱旋帰国した陸軍中将B-Pは『Aids to Scouting for N.-C.Os and Men』が多くの学校で教育教材として使用され、少年たちにも評判が良いことを知った。しかしその本は元々軍人に向けて書いたものなので、少年を対象読者とする本ならば、さらに大きな効果を上げられると思い、青少年教育に関する研究を始めた。

    1906年には、青少年教育に関する自分の考えをまとめた草案を、陸軍、海軍、教会、少年団ボーイズ・ブリゲード (Boys' Brigade (BB)) などに送り意見を求めた。その内の1通がBBの教育方針に従って編集者が大幅にカットしたダイジェスト版として、機関紙『ボーイズ・ブリゲード・ガゼット』 (Boys' Brigade Gazette) に紹介された(その中で初めて「スカウティング・フォア・ボーイズ」 (Scouting for Boys) という言葉が使われた)。また「シートン動物記」の著者であり、少年団ウッドクラフト・インディアンズ (Woodcraft Indians) の創始者であるアーネスト・トンプソン・シートンとも積極的に意見を交換。

    1907年、それまでの研究を実証するために、B-Pは8月1日から8日の日程で、イギリスのブラウンシー島に20名の少年たちを集めて実験キャンプを行った。このキャンプには21名の少年が参加するはずだったが、一人の少年が体調を崩したため20名で行われた。これを基に、1908年に『スカウティング・フォア・ボーイズ』(原題:Scouting for Boys、「少年のための斥候術」といった意味)という本を刊行。当初は六分冊として発行され、後に一冊にまとめられた。この本が大きな反響を呼び、本を読んだ少年たちは自発的に組織(パトロール/班)を形成して善行を始めた。これがボーイスカウト運動の原点・発祥とされている。
    *B-Pがボーイスカウトのシステムを考案するにあたっては様々な要素が取り入れられている。最も基礎となっているものは、彼が軍隊時代に身に付けた、それまでの硬直した教育システムから逸脱した創意工夫と自由の精神であるが、「スカウティング・フォア・ボーイズ」や「ローバーリング・ツー・サクセス」からも読み取れるように、ズールー人の狩猟方法や歌、アフリカの諸部族で少年を訓練する方法、自身が構築した南アフリカ警察隊の訓練法、シートンが始めた青少年活動・ウッドクラフト(森林生活法)、中世ヨーロッパの騎士道といったさまざまな要素が取り込まれている。その代表的な物のひとつが、ウッドバッジ実修所(隊指導者の上級研修)修了者に付与される修了記章「ウッドバッジ」である。B-Pがアフリカで軍務についていた頃にズールー族の族長から戦利品として手に入れたアクセサリー(木製のビーズを紐でつなげた長い首飾り)をばらして、研修修了の記念として一粒ずつ修了者にわたしたものである。

    1909年 スカウト運動がアメリカへ伝わる(「無名スカウトの善行」)。
    *初期のボーイスカウト指導者の一人は「スカウト活動に大きな刺激を与えて、非常に人気があるようにした二つのものは、ユニフォームと“テディ”セオドア・ルーズベルト大統領(Theodore "Teddy" Roosevelt、任期1903年〜1909年)の第一次世界大戦(1914年〜1918年)に際しての主戦論であった。」と語っている。

    1910年 ウィリアム・ディクソン・ボイスが米国ボーイスカウト連盟を設立。B-Pの妹であるアグネス・ベーデン=パウエルが、ガールガイド(ガールスカウト)を発足。

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    フィヒテがナポレオン占領下のベルリンにおける連続講演「ドイツ国民に告ぐ( Reden an die Deutsche Nation、1807年〜1808年)」の中で「我々は、未来の生を現在の生に結びつけなければならず、そのためには自己拡大を獲得しなければならない。それにはドイツはドイツの教育を抜本的に変革する必要がある。その教育とは国民の教育であり、ドイツ人のための教育であり、ドイツのための教育でなければならぬ」という提言や「体操(Turnen)」の父ヤーンの「役割遊戯(Rollenspiele)」を経てそれは台頭してきたのである。
    390夜『ドイツ国民に告ぐ』ヨハン・ゴットフリート・フィヒテ|松岡正剛の千夜千冊

こうして俯瞰してみると「完全に過ぎ去ってノスタルジーすら誘わなくなった過去が片っ端から記憶から削除されていく」だけでなく「減少分だけ何かが補完され、懐かしむに値する記憶に再編されて選択的に残されていく」全体像が浮かび上がってきます。隠して情報流通の産業化が進行した19世紀末から20世紀初頭にかけてを境に「19世紀ロマン主義運動」と「20世紀新ロマン主義文学」の狭間には大きな断絶が生じる事になるのです。
*欧米世界で人気のタルコフスキー監督に対するロシア国内の評価を見る限り、ロシア人の感覚はギュンター・グラスいうところの「感覚器でもない魂で真実を探す」ドイツの深淵主義に近い様に思われる。そこから生じるのは「ノスタルジア」ではなく、エンルスト・ユンガーが切り拓いた「魔術的リアリズム」の世界、すなわちある種の英雄的行動主義のみ?

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さらに第一次世界(1914年〜1918年)を挟んでベル・エポック(Belle Époque=「良き時代」、パリが繁栄した19世紀末から第一次世界大戦勃発までの時期)の華やかながら穏やかで秩序だった世界を懐かしむ「アヴァンゲール(avant-guerre、戦前派)」と享楽的な都市文化を特徴とする「アプレゲール(après-guerre、戦後派)」の間に超えられない壁が築かれます。

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さて、この間の作品展開は?


【イギリス】コナン・ドイル「名探偵ホームズ(Sherlock Holmes)シリーズ(1886年〜1927年)…ただし人気が出たのは「ストランド・マガジン」に1891年から挿絵入りで掲載された「シャーロック・ホームズの冒険(The Adventures of Sherlock Holmes、1892年)」以降。そして物語自体は第一次世界大戦(1914年〜1918年)前夜で終わる。
*その翻案物として始まった岡本綺堂「半七捕物帳(1917年〜1937年)」と、さらにその人気にあやかろうとした野村胡堂銭形平次捕物控(1931年〜1957年)」を経て日本の時代劇に「捕物帳」というジャンルが加わる事に。
江戸川乱歩 探偵小説このごろ 野村胡堂

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【フランス】モーリス・ルブランアルセーヌ・ルパン(Arsène Lupin)シリーズ(1905年〜1939年)…時代によってその姿を次々と変容させていく。

  • ベル・エポック期(19世紀末〜20世紀初頭)に売れない純文学作家のルサンチマンが産み出した時点では「(不当な手段で財産を蓄えた)金持ちや貴族からしか盗まない義賊」。

  • 第一次世界大戦(1914年〜1918年)は自ら国際的謀略の渦中に飛び込み「俺が殺さないのは文明人だけだ」と嘯いて敵側のトルコ人や中国人などを容赦なく殺す愛国英雄

  • そして戦後は(戦後派に媚びるが如く)探偵と泥棒の二足草鞋。
    *まぁそれ自体はフランソワ・ヴィドック以来の伝統。

晩年は毎晩の様に「ルパンが自分の財産を取り戻しに来る夢」に魘され続けたのが興味深い。
*「俺が殺さないのは文明人だけだ」…このシリーズは米英のハードボイルド作品やフィルム・ノワール作品同様に戦前から戦後復興期にかけての日本の作劇史に多大な影響を与えたが、中でも(マルセル・シュウォッブ「黄金仮面の王(Le Roi au masque d’or、1892年)」からヒントを得たともいわれる)江戸川乱歩「黄金仮面(1930年〜1931年)」に登場するラルセーヌ・ルパンはこのセリフを口にして日本人を平然と殺そうとする点で異色。
マルセル・ジュウォッブ 『黄金仮面の王』

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フランソワ・ヴィドック(Eugène François Vidocq、1775年〜1857年)

フランスの犯罪者。後にパリ警察の密偵、パリ警察署帳を経て世界初の私立探偵となる。

  • アラスで生まれる。15歳頃までは何不自由なく成長したが、16歳で歩兵連隊に入隊したが、軍隊生活に嫌気がさして5年後に除隊する。その際、除隊証明書を受けなかったため、脱走兵として逮捕され入獄する。入獄中に贋造紙幣犯の一味の濡れ衣を着せられ、ブレストの徒刑場で重労働刑に処せられた。それから10年は脱獄と逮捕を繰り返し多数の重罪犯人と知り合い、暗黒社会の裏表の情報・犯罪の手口を詳細に知り、脱獄と変装のプロとなる。

  • 出獄するとパリ警察の手先として、徒刑場で得た情報を売る密偵となる。この世界で数々の手柄を立て、ついには国家警察パリ地区犯罪捜査局を創設し初代局長となる。このフランソワの捜査局は、パリ警視庁の前身にあたる。密告とスパイを常套手段とし、犯罪すれすれの摘発方法を用いて成功した。また、その一方で、入手した犯罪者と犯罪手口を分類して膨大なカードを作り、各地の警察に配備するという科学的捜査方法を確立。
  • 後に捜査局を辞して個人事務所を開設し、世界初の探偵となったが、その利用者は3000人と記録されている。

その著書「ヴィドック回想録(Mémoires de Vidocq、1827年)」は、ニューゲート監獄(1188年〜1902年)発行の犯罪記録と併せ、探偵小説を創始したエドガー・アラン・ポー、エミール・ガボリオ、アーサー・コナン・ドイルらに大きな影響を与えた。また、オノレ・ド・バルザックの『ゴリオ爺さん』などに登場するヴォートランは、明らかに彼をモデルにしており(『ゴリオ爺さん』執筆の直前1834年4月にバルザックは彼と会っている)、ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』のジャン・ヴァルジャンとジャヴェールも彼から着想されたといわれている。

 【フランス】ロマン・ロラン(Romain Rolland、1866年〜1944年)…この人物の作風も時期によって次々と変化していく。

  • ベル・エポック期(19世紀末〜20世紀初頭)には幼年期は父親からスパルタ教育を受け、晩年は聴覚障害に苦しめられたベートーベン(同時代ホフマンがロマン主義勢に引き込もうとするも失敗)に陶酔し「ベートーヴェンの生涯(Vie de Beethoven、1903年)」や「ジャン・クリストフ(Jean-Christophe、1904年〜1912年)」を上梓し1910年にレジオンドヌール勲章を受章。

  • 第一次世界大戦期(1914年〜1918年)にはたまたま滞在中のスイスから仏独両国へ「戦闘中止」を訴え、これが祖国への反抗と受け取られ帰国出来ない状態となる。その反面アルベルト・アインシュタインヘルマン・ヘッセ、エレン・ケイらと意を通じ合い1916年に1915年度ノーベル文学賞を受賞。以降は国際的に評価される一方で、母国で好感されぬ傾向が生涯に渡って続く。
    *1917年にロシア革命が勃発すると早くも支持を表明し、レーニンの死やロシア革命10周年に際してはメッセージを送る。以降もソビエト連邦共産党への共感を鮮明にし続け、1934年にモスクワから招いた秘書と再婚すると翌年に夫妻同道でソ連を訪問しスターリンとも会見。ただしアンドレ・ジッドソ連を批判した際には反批判を加えるくらいだったが、独ソ不可侵条約1939年)が締結されるとソヴィエト友好協会(L'association des amis de l'Union soviétique)を脱会して、以降は没交渉に。

  • 戦後の1919年(53歳)に母親が死去したことから一時パリへ戻り、1921年タゴールを迎えたりしたが、1922年、父および妹マドレーヌと共にスイスのレマン湖東岸ヴィルヌーヴ(Villeneuve))に定住。1923年に雑誌『ヨーロッパ』(Europe)が創刊した際にはこれを援助し、ロンドンの国際ペンクラブ大会にも出席。翌1924年にはマサリク大統領に招かれてプラハを訪れ、ジュネーヴ国際連盟総会に出席する一方でムッソリーニファシスト党の暴行を非難。1926年にはタゴールネルーがロランの許を訪問。1927年にはアンリ・バルビュスの反ファシズム宣言に賛同者として名を連ね、1932年にアムステルダムの『反戦全世界大会』が挙行されると、バルビュスと共に主導役となった。父親が死去した1931年(65歳)にマハトマ・ガンジーが来泊。この年に起こった日本の満州占領も非難している。1933年にはドイツのヒンデンブルク大統領がロランに「ゲーテ賞」を授与するが拒否。パリに『反ファシスト国際委員会総会』(Comité antifasciste international Membre)が成立すると、ルイ・アラゴンと共に名誉議長となる。そして1936年にアラゴン、アンドレ・マルローらの発議、アンドレ・ジッドの司会により、生誕70年の祝賀会がパリで挙行され、レオン・ブルムの第一次人民戦線内閣の後援のもとに「七月十四日」がパリで上演され、ミヨー、オネゲルが曲を付し、ピカソが幕絵を描いた。1938年(72歳)にスイスからフランスへ帰国し、故郷に近いヴェズレーを終生の住処とする。ミュンヘン会談における仏英の弱腰に抗議し、1939年にナチス軍がチェコスロバキアへ侵入すると、フランスのダラディエ首相に非難書簡を送った。第二次世界大戦が勃発してヴェズレーがナチス占領地域となると沈黙を強いられ、1943年から病床に就く。1944年のパリの解放を知り、ソヴィエト大使館の十月革命祝賀会に出席。レジスタンス犠牲者追悼会にメッセージを送り、年末には原稿の校正を終えると永眠した。
    *「イタリアのファシズムやドイツの大統領内閣およびナチス、さらには大日本帝国満州国建国を弾劾しつつ、一切の戦争を否定した理想主義者」といった感じ?

 実は「巨人の星(1966年〜1971年)」「タイガーマスク(1968年〜1971年)」「あしたのジョー(1968年〜1973年)」といった梶原一騎のスポ根漫画の大源流。
*数多くのスタンスを共有しながら「魔術的リアリズムの父祖」エンルスト・ユンガー(Ernst Jünger, 1895年〜1998年)の(シビリアン・コントロールによる拘束を思わせる)職業軍人的覚悟にどうしても迫力負けしてしまうのは、まさに彼の「ファシズムやナチズムへの徹底抗戦を叫びながら反戦主義の理想を貫いた」韜晦さのせいとも。

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マルセル・プルースト( Valentin Louis Georges Eugène Marcel Proust, 1871年〜1922年)「 失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu、1913年〜1927年)パリ大学で法律と哲学を学んだ後は、ほとんど職に就かず華やかな社交生活を送り、第一次世界大戦後にベル・エポックの世相を「無意志的記憶」を基調とする複雑かつ重層的な叙述とパノラマ的に描いたという点ではジャズ・エイジのアメリカ人作家フィッツジェラルド(Francis Scott Key Fitzgerald, 1896年〜1940年)」の「楽園のこちら側(This Side of Paradise、1920年)」「グレート・ギャツビー(The Great Gatsby、1925年)」と重なるが、こちらはあくまで「戦後派」作品。アーネスト・ヘミングウェイ日はまた昇る(米国版The Sun Also Rises,英国版Fiesta、1926年)」もこれ。その一方で前者はモダニズム文学にカウントされる事も。

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モダニズム文学」ボードレールが美術批評の中で用いた「現代性(モデルニテ)」の疑念に由来する。1920年前後に起こった都市生活を背景に既成の手法を否定した前衛的な文学運動。。英語圏では「ユリシーズ(Ulysses、1918年〜1922年)」のジェイムズ・ジョイス、「荒地(The Waste Land、1922年)」のT.S.エリオット、ヴァージニア・ウルフエズラ・パウンド、イェイツなど。フランス文学では、プルースト、アンドレ・ジッドポール・ヴァレリーら。

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モダニズム的であるという事は実存主義(フランス語: existentialisme、英語: existentialism)的でもあるという事。ヘーゲルは「法の哲学(Grundlinien der Philosophie des Rechts、1821年) 」序文において「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」としたが、マルクスは「我々が理性とか現実的認識とか信じているものは、社会的同調圧力に型抜きされた偽物に過ぎない」としてその枠組みを破壊する為の自発的蜂起を求め、キルコゲールは「神の前に立つ単独者としての自己自身の実存(existenz )」のみに注目せよと説いた。この問題が第一次世界大戦(1914年〜1918年)後に蒸し返される。終戦直後にづランスの詩人ポール・ヴァレリーテュービンゲン大学における講演で「諸君、嵐は終わった。にもかかわらず、われわれは、あたかも嵐が起ころうとしている矢先のように、不安である」と述べた。何をしても必ずつきまとう存在不安の高まり。それは実は英仏怪奇幻想小説、フランス新ロマン主義文学、モダニズム文学などの全ての裏側で踊っていたのだとも?

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【欧州共通】秘境探検ロマン…「ジャングルブック(The Jungle Book、1894年〜1895年)」の様なイギリス統治下のインドを舞台にした児童文学を残した英国人作家キップリング (Joseph Rudyard Kipling, 1865年〜1936年) や、ド・ゴール政権下で長らく文化相を務め上げたフランス人探検家アンドレ・マルロー(André Malraux, 1901年〜1976年)、ほとんどの作品を1920年代中期から1950年代中期に書き上げて1954年にノーベル文学賞を受賞した米国人作家ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway、1899年〜1961年)などが活躍した。
*このジャンルのロマンティズムはやがて宇宙開発競争やエベレスト登頂競争といった国威高揚合戦に継承されたとも。

こうした新ロマン主義における怪奇趣味と理想主義の混沌から「日本ロマン主義とでも呼ぶべきもの」の醸成が始まるのです。ただし日本で近代的大衆文化が本格的に開花するのは1930年代に入ってから。その前段階というと…

 するとこの作品も国際的には「新ロマン主義文学」や「モダニズム文学」に分類可能?

【青空文庫】宮沢賢治「オツベルと象(1926年)」

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①オツベルは十六人の農民を使って稲こぎをやっている富裕農民である。 そこへ森から白象がでてきて、面白そうに見ている。
②ずるいオツベルはだまして鎖と重い分銅をつけ、うまく自分の財産にすると、こき使い始める。
③始めは嬉しそうに働くが、やがて疲れて、死にそうになる。


オツベルはすこしひどくし過ぎた。しかたがだんだんひどくなったから、象がなかなか笑わなくなった。時には赤い竜の眼をして、じっとこんなにオツベルを見おろすようになってきた。


ある晩象は象小屋で、三把の藁をたべながら、十日の月を仰あおぎ見て、
「苦しいです。サンタマリア。」と云ったということだ。
こいつを聞いたオツベルは、ことごと象につらくした。

ある晩、象は象小屋で、ふらふら倒れて地べたに座り、藁もたべずに、十一日の月を見て「もう、さようなら、サンタマリア。」とそう言った。
「おや、何だって? さよならだ?」月がにわかに象に訊く。
「ええ、さよならです。サンタマリア。」
「何だい、なりばかり大きくて、からっきし意気地のないやつだなあ。仲間へ手紙を書いたらいいや。」月がわらってそう云った。
「お筆も紙もありませんよう。」象は細ういきれいな声で、しくしくしくしく泣き出した。
「そら、これでしょう。」すぐ眼の前で、可愛いい子どもの声がした。象が頭を上げて見ると、赤い着物の童子が立って、硯すと紙を捧げていた。象は早速手紙を書いた。
「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ。」
童子はすぐに手紙をもって、林の方へあるいて行った。
赤衣の童子が、そうして山に着いたのは、ちょうどひるめしごろだった。このとき山の象どもは、沙羅樹の下のくらがりで、碁ごなどをやっていたのだが、額をあつめてこれを見た。
「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出てきて助けてくれ。」
象は一せいに立ちあがり、まっ黒になって吠ほえだした。

(中略)

間もなく地面はぐらぐらとゆられ、そこらはばしゃばしゃくらくなり、象はやしきをとりまいた。グララアガア、グララアガア、その恐おそろしいさわぎの中から、
「今助けるから安心しろよ。」やさしい声もきこえてくる。
「ありがとう。よく来てくれて、ほんとに僕ぼくはうれしいよ。」象小屋からも声がする。さあ、そうすると、まわりの象は、一そうひどく、グララアガア、グララアガア、塀へいのまわりをぐるぐる走っているらしく、度々中から、怒おこってふりまわす鼻も見える。けれども塀はセメントで、中には鉄も入っているから、なかなか象もこわせない。
(中略)
そのうち、象の片脚が、塀からこっちへはみ出した。それからも一つはみ出した。五匹の象が一ぺんに、塀からどっと落ちて来た。オツベルはケースを握ったまま、もうくしゃくしゃに潰つぶれていた。早くも門があいていて、グララアガア、グララアガア、象がどしどしなだれ込む。
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「牢はどこだ。」みんなは小屋に押し寄せる。丸太なんぞは、マッチのようにへし折られ、あの白象は大へん瘠やせて小屋を出た。
「まあ、よかったねやせたねえ。」みんなはしずかにそばにより、鎖と銅をはずしてやった。
「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」白象はさびしくわらってそう云った。
おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。

【禅と文学 】宮沢賢治『オツベルと象』

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この童話には、サンタマリア、沙羅樹がでてくる。《宗教問題》が主題である。

象は最初なぜすすんで働いたか。主人の魂胆を見抜けず善意にとるからである。賢治は若いころ、田中智学の書物を読んで、国柱会のために労働奉仕をした経験があるが、後に醒めている。現代日本への影響を考えても、田中智学より賢治の方が力があるのだが、当時、賢治は田中のいいなりになっていた。しかし注意深い者には、書かれたものの崇高さと比較して、現実の宗教者の人格や行動には大きな違いがあることに気がつくものである。『注文の多い料理店』は、話者と聞く者のこころの食い違いを浮き彫りにしている。

白象は力があるのになぜ無抵抗か。信じる人のためには、かえって力のある者も喜んで従う。白象はオツベルを信じていたから、暴力をふるわず、喜んで働いた。人間は、信じる喜び、働く喜びを感じる。それを己の欲のために利用する者がある。女性が宗教から搾取されているケースも多い。

「サンタマリア」というのがでてくることについて、賢治がキリスト教に好意を持っていたという解釈をする人がある。内村鑑三門の斎藤宗次郎と宮沢家と親交、盛岡高農時代におけるキリスト教への出入り、妹トシ子の病床に慰問におとずれたこと、などが根拠とされる。私は、その説には同調しない。『銀河鉄道の夜』でもジョバンニに「キリスト教の神様はほんとうの神様じゃない」と言わせた賢治である。キリスト教に好意は持っていたが、全面的に賛成していたのではない。この世の現実問題はキリスト教では解決しない、と賢治は思っている。そういう意味での「さようなら」なのである。


童話の筋はこの後、仏教(沙羅樹の象)による救いの場面になる。 キリスト教でさえ、教団のために、貧しいものから金の献金と労働奉仕(白象を働かせたように)をさせていて、トップは裕福な暮らしをしていると賢治は思っていたのだろう。それは仏教(出家、在家の教団とも)も同様であるが。

  • 「山の象どもは、沙羅樹の下のくらがりで、碁などをやっていたのだが」 白象を助けにいった象は沙羅樹の下にいた。この木は釈尊が布教したインドに多い。

  • 「ジャータカでは仏陀あるいは菩薩の前身または化身。詩篇『北いっぱいの星ぞらに』の下書稿(六)裏面に「普賢菩薩--白象」という書込みもある。」(新潮文庫注)
    普賢菩薩(ふげんぼさつ、梵名: サマンタ・バドラ (समन्तभद्र [samanta bhadra])大乗仏教が崇拝対象とする菩薩の一尊。文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍として祀られることが多い(釈迦三尊)。梵名のサマンタ・バドラとは「普く賢い者」の意味であり「世界にあまねく現れ仏の慈悲と理知を顕して人々を救う賢者」を意味する。また、女人成仏を説く法華経に登場することから、平安中期以降主に貴婦人たちからの信仰を集めた。また密教では菩提心(真理を究めて悟りを求めようという心)の象徴とされ、同じ性格を持つ金剛薩埵と同一視される。
  • 「仏法の中には、善法を白と名づけ、不善法を黒と名づく。」(『大智度論六十二』)

普段は経済的隷属のゆえ主人に服従し、象のようなあわれな者を救おうとしない。主人が危機に陥った時、自分の身を案じて巻き添えになるまいと傍観する。これが人数では多くて多数決で社会を動かすことになる「真っ黒い巨きなもの」である。賢治のような誠実な風は、まっくろい巨大なものを動かすことは容易ではない。この巨きなものは、地位、金、権力、名誉になびきやすいからである。

救われた象がさびしく笑うのは、「オツベルの冷酷さを改心させられなかったことへの悲しみであろう。」という説がある。(続橋達雄氏、小学館、群像日本の作家『宮沢賢治』239頁)

私は、賢治の悲しさだろうと思う。現実には、真っ黒い巨きなものは、こわれない。この話のようなハッピーエンドは現実には来ない。白象は一匹ではどうにもできなかったが、象が大勢で、オツベルのような者を倒すことができたのだが、現実には、象は極めて少ないのだ。また、仏教者は、この童話のような(象の集団がオツベルを襲った)暴力には訴えない。このような解決法はない。だから悲しいのだ。

【オツペルと象】最後の「一文字不明」の正体は?

35: 名無しさん@おーぷん 2015/05/30(土)01:58:59 id:add
ワイは勝手にこの話を語ってる牛飼いが連れてる牛が話し中に勝手に川に入っていって現実に引き戻されたって解釈しとるがな

36: 名無しさん@おーぷん 2015/05/30(土)01:59:37 id:XNr
>>35
言われてみたらそれっぽいなぁ
語りは全部牛飼いやし

37: 名無しさん@おーぷん 2015/05/30(土)02:00:36 id:oku
>>35
それならそれでフェードアウトしてる部分を詳しく書いてくれたらよかったんやけどなあ…、しっかしなんで牛飼いは事の顛末を全て見ていたのやら

38: 名無しさん@おーぷん 2015/05/30(土)02:01:37 id:XNr
>>37
これに初めて気がついたわ
こわすぎて草も生えない

39: 名無しさん@おーぷん 2015/05/30(土)02:01:59 id:Qhx
>>37
おや(牛)、川に入っちゃいけないったら

41: 名無しさん@おーぷん 2015/05/30(土)02:06:21 id:oku
>>39
普通に文字を入れるんやったらそれなんやとは思うやがな…、普通川に近づいとる事ぐらい気付くやろ?とか言ってしまいたくなるで…。幕引きが急過ぎるで

 この物語は学生運動が盛んだった1960年代や、その影響が教育現場に色濃く残った1870年代には「的存在(労働者階層)はオツベル的存在(資本家階層)を一人残らず殺し尽くす。たとえ子供も眉ひとつ動かさずその任務が遂行可能となるのが国際正義である」みたいな解釈で伝えられてました。

学生運動末期の内ゲバ合戦や日本赤軍のテロがホメロスの英雄叙事詩の如く礼賛されていた暢気な時代の話。また当時の児童は学校によっては「キューポラのある街(1962年)」橋のない川(1969年〜1970年)」「戦争と人間(1970年〜1973年)」「サンダカン八番娼館 望郷(1974年)」などを道徳の授業で繰り返し鑑賞させられ「この日本人の現実に憤怒して蜂起しない者は人非人である」と唱和させられ、少しでも不服従の姿勢を見せると容赦ない懲罰を受けた。地域によってはそれまで児童自治体の様な役割を果たしていた番長集団が目の敵にされて潰されたり、教師が率先する形で自衛官や警官の子供に対する陰湿ないじめが奨励されたりしたのもこの時期で、こうした多種多様な新秩序導入の試みがやがて校内暴力の全国的ブームを引き起こす事に。

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*おそらくこうした事は男尊女卑の伝統に対するウルトラ・フェミニズムの台頭の様に「人間には、特定のイデオロギーから脱却する為に、それと正反対のベクトルを有するイデオロギーに熱狂的に没入しないといけない時期もある」と考えるのが正解。もちろん魯迅も指摘している様に奴隷と主人が立場を変えただけでは奴隷制はなくせない。だがまずその事実に気づく為にも、相応の相対化は必要とされるものなのである。

しかし最近は以下の様に「無垢との決別」が主題だったとする解釈が一般的になってきている様です。メラニー・クラインの「良いおっぱい・悪いおっぱい」理論の反映?

「オツベルと象」メモ。白象の赤い眼
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 白象は純粋無垢な心を持っていた。「ぶらつと森を出て、ただなにとなく」オツベルの工場へ行き、騙されているとも知らずに働くことの楽しさに酔っている。籾がパチパチ当たるのを「ああ、だめだ」と言いながら笑っていたり、「お筆も紙もありませんよう」と泣いたりするところを見ると、まだ子どもなのだろう。この作品の中心は、子どもが生来の純粋無垢な心を失う、その哀しみにあるのではないかと私は考える。

白象が初めてオツベルを嫌う気持ちを見せるのは、第五日曜の章で「時には赤い竜の眼をして、じつとこんなに見おろすやうになつてきた。」とある部分である。ここで白象は初めて純粋な心を失いはじめるのである。

オツベルを殺したのは、山の象どもであった。しかし、その象どもを呼んだのは他ならぬ白象である。「ぼくはずいぶん眼にあつてゐる、みんなで出て来て助けてくれ。」と手紙を書いて、赤衣の童子にことづてたからこそ、山の象どもは助けに来たのである。つまり、オツベルの死刑を執行したのは象どもであったとしても、その死刑執行を決定したのは(本人にその意志がなかったとはいえ)白象自身だったということになる。

白象が助けに来た象どもに感謝の言葉を述べる場面は、二度ある。一度目は「今助けるから安心しろよ。」という優しい声に「ありがたう。よく来てくれて、ほんとに僕はうれしいよ。」と象小屋の中から応える場面であり、ニ度目はオツベルが死んで助け出されたあと「ああ、ありがたう。ほんとに僕はたすかつたよ。」と言ってさびしく笑う場面である。この二つの言葉には大きな意味の違いがあるように思われる。一度目の言葉は、心からの感謝だろう。だが、ニ度目の言葉はそうではない。「さびしそう」なのである。このさびしさは、助けに来た仲間たちがオツベルを殺してしまったことへの批判ではない。自分自身に向けられたものだ。

白象は自分の中に赤い眼のあったことを知ってしまったのだ。白象というのはalbinoであるから、その眼はもともと赤いものであった。オツベルの酷い仕打ちに反応して赤くなったわけではない。ただ、白象はこれまで自分の中に「赤い竜の眼」があることを知らずにいた。それが白象の純粋さを保っていたのである。白象は自分の中に人をも殺しうる一面があるということを知り、さびしく笑うのである。
*物語中でオツベルに対する評価がグラグラと揺らぎ続けるのはフロベールフローベール「感情教育(L'Éducation sentimentale、1864年〜1869年)」における政治談議を思わせる?

考えてみれば「オツベルと象」の物語展開は「ロサンゼルス暴動(1992年4月末〜5月初頭)」を予告したといわれる、スパイク・リー監督「ドゥ・ザ・ライト・シング(Do the right thing、1989年)」と重なる。
*この物語の主人公である黒人少年は、黒人暴動の先頭に立って(黒人同様に米国では底辺階層に位置する)イタリア人が経営する勤め先のピザ屋のショーウィンドウに「悪に制裁を‼︎」と叫びながらゴミ箱を叩きつける事で純真無垢なだけの存在からの脱却を余儀なくされる。そこには「弱いものがさらに弱いものを叩く事でブルーズが加速していく」構造が見て取れるのである。

ここまで追い詰めてやっと「Universal Monsters第一弾」となる「オペラ座の怪人The Phantom of the Opera、1925年)」がある種の「架け橋」として視野内に入ってきます。「ロマン主義的英雄」から「怪物」への転落の始まり…

 ベースはおそらく「プラーグの大学生(Der Student von Prag、1913年)」「カリガリ博士(Das Kabinett des Doktor Caligari、1920年)」「吸血鬼ノスフェラトゥ(Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens、1922年)」「メトロポリス(Metropolis、1927年)」といった全盛期のドイツ表現主義無声映画。これに英仏怪奇映画やフランス新ロマン主義文学やモダニズム文学の要素が。これがゆっくりと熟成され、1930年代に入るとトーキー怪奇映画空前の大ヒットとしてバックドラフト現象を引き起こしたとも。