諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

最近のトレンドは「民族独立運動」?

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近代化に際してほとんど国民統合のプロセスが不要だった日本と異なり、欧州は未だに色々引きずっています。

最近話題なのがこの地獄のコンボ。そういえばこれまでの投稿でも…

イベリア半島スペイン語/ポルトガル語/ガリシア語:Península Ibérica、カタルーニャ語Península Ibèrica、バスク語Iberiar penintsula)】

778年、後ウマイヤ朝を討つべくイベリア半島北部に遠征。この時のカールのスペイン・カタルーニャ遠征(およびその途上でのバスク人の裏切り)を題材にしたのが『ローランの歌』となる。795年にはピレネー南麓にスペイン辺境領を設置。801年にはここから南進してバルセロナを落とし、バルセロナ伯を置いた。

後にアラゴン王国カタルーニャ君主国が連合してアラゴン連合王国が成立。またヒメノ家の男系が断絶すると(カール大帝時代にブルグントに入植したフランク貴族の末裔たる)ブルゴーニュ伯アンスカリ家がレオンとカスティーリャの王統となる(12世紀ルネサンスを主導しイベリア半島に中央集権を樹立する事を夢見たブルゴーニュ朝(1126年~1369年)、大貴族連合の傀儡へと堕したトラスタマラ朝(1126年~1516年))。

アラゴン海上帝国」が成立し、シチリア半島やナポリにまで領土が拡大したのもカタルーニャという地中海交易圏に組み込まれた拠点が存在したからだったんですね。

一般に「遂に産業革命が起こらなかった国」とされてるスペインですら、古くから地中海交易網に組み込まれてきたカタルーニャ地方では1830年代には蒸気機関が導入されていた。

d.hatena.ne.

カタルーニャとバルセロナの歴史概観

もちろん機械制工場工業なんて導入してからの方が大変で、貧富格差が広がったり公害問題が浮上してきたり好不況に振り回されたり様々な社会問題を併発したりもする。

「18世紀まで中世」とまでいわれてているスペインなので19世紀に入っても国民統合とは完全無縁。だからこそ逆説的に「カタルーニャ地方のみの産業革命導入成功」という荒技が使えたとも。

第一次カルリスタ戦争(スペイン語ガリシア語:Guerras Carlistas、バスク語:Gerra Karlistak、カタルーニャ語:Guerres Carlines、1833年1840年

ナポレオン時代における半島戦争(英: Peninsular War(半島戦争)、西: Guerra de la Independencia Española(スペイン独立戦争)、葡: Guerra Peninsular(半島戦争)、仏: Guerre d'Espagne(スペイン戦争)、カタルーニャ語: Guerra del Francès(フランス戦争)、1808年〜1814年)の余波として勃発したスペイン内戦。先王の弟ドン・カルロスがバスク地方で蜂起。独自の統治機関や軍隊を有してスペインを席巻した。国土の3分の1までを勢力下におき、1837年夏には威信を高めるためにマドリード攻略を試みたほどであったが統一的行動を取れず、次第に内部分裂を起こし1839年に降伏。

第二次カルリスタ戦争(1846年〜1849年)

カタルーニャの反乱でもあり、暴徒はモンテモリン伯カルロスをカルロス6世として王位につけようとした。ガリシアで起きた反乱は、ラモン・マリア・ナルバエス将軍が鎮圧。

第三次カルリスタ戦争(1868年〜1876年)

イサベル2世が退位しフランスへ亡命すると、コルテスはサヴォイア家のアマデオ1世即位を決定した。1872年の選挙で政権側がカルリスタ側の候補に暴力的な妨害を行い、揺さぶりを掛けた。マドリード公カルロスがカルロス7世を称して戦争が始まり、1876年まで続いた。

戦争の性格

カルリスタ(カルロス支持者)は絶対王政、教会、地方特権などの封建的社会制度を擁護し、経済構造でも反工業化を唱えた。一方、イサベル女王を戴くマドリード政府は、自由主義的、市民革命的、中央集権的な上からの近代化を標榜して自由主義者の支持を取り付けて勝利し、スペインはようやく近代国家としての体裁を整える事になった。しかし以降も「カルリスタ」達は反乱を起こし続け、20世紀まで存続。

20世紀に入っても封建体制維持に執着するゲリラが出没…そしてスペイン内戦(Guerra Civil Española、1936年〜1939年)およびフランコ独裁時代(1939年〜1975年)の政治的経済的停滞(第二次世界大戦の最中中立を保ち続けたのでマーシャル・プランの対象にもならなかった)…これじゃ、そもそもスペイン人意識が育つはずもありません。

【世界史の目】スペイン内戦/スペイン戦争

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むしろ、いやだからこそスペインでは急進左派のポデモスだけでなく中道右派のシウダダノスまでもがカタルーニャ独立運動に反対してるともいえる訳ですが。そしてそれが「民族の自己決定権を認めないのは全てファシスト」という立場に立つ日本のリベラル層が彼らを決っして認めない理由でもある?

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世論調査による政党支持率の推移(2011年-2015年)
   紫色=ポデモス,    青色=国民党,    赤色=社会労働党,    橙色=シウダダノス

シウダダノス(スペイン語: Ciudadanos - Partido de la Ciudadanía, シウダダーノス - パルティード・デ・ラ・シウダダニーア, カタルーニャ語: Ciutadans - Partit de la Ciutadania, シウタダンス - パルティット・ダ・ラ・シウタダニーア, 「市民たち – 市民党」)

スペイン・カタルーニャ州に拠点を置く政党。略称はC's。日本語では市民党などとも呼ばれる。2014年までは主にカタルーニャ州で活動しており、2012年のカタルーニャ州議会選挙では9議席を得た。2015年前半にはポデモス、スペイン社会労働党(PSOE)、国民党(PP)に次ぐスペインの第4勢力として台頭し、3月初頭にエル・パイス紙が行った世論調査では12.2%の支持率を、同時期にラジオ局のカデーナ・セールが行った世論調査では13%の支持率を得た。国民党の支持者層を奪っているとされる。

  • 政治思想は中道左派、ポスト・ナショナリズムであると自己定義しており、その綱領で自由主義社会民主主義を融合させた政策を提示する政党であると示しているが、その思想は中道右派から来ている。2006年の結党時から党首を務めるアルベール・リベラは、党のイデオロギーを「カタルーニャは私の故国であり、スペインは私の祖国であり、欧州連合(EU)は私たちの未来である」と表現している。国家公用語スペイン語と地域言語のカタルーニャ語の二言語が公用語であるカタルーニャ州において、時として軽視されがちなスペイン語の使用を擁護し、カタルーニャ地方の独立を求めるカタルーニャ・ナショナリズムに反対しており、スペイン一国主義よる経済発展を主張している。2011年以後にはスペインで既存政党に対する抗議運動が盛んに行われ、2014年には二大政党に反発する有権者の支持をポデモスが集めたが、シウダダノスはポデモスと比較されて「右(派)のポデモス」とも呼ばれる。

  • 経済政策と社会問題の双方でリベラルな政党であるとされているが、その政治的言説は中道である。頻繁に単一争点政党と批判されているが、メンバーはこのレッテルを拒否している。2006年から2012年の期間、前回選挙で中道右派政党に投票した投票者数は、前回選挙で中道左派政党に投票した投票者数と同等だった。このことは、一般的な経済・社会問題での政党の立ち位置が投票の主要因でないことを示唆している。

  • 「(国家サンディカリスムの)イネストリーリャス氏が擁護するスペイン・ナショナリズムを含めて」いかなる種類のナショナリズムをも批判している。提起した主要な議題の一つに、州行政機関での唯一の作業言語としてカタルーニャ語の使用を奨励するカタルーニャ州の言語政策があり、この方針に疑問を呈しスペイン語カタルーニャ語の平等な待遇を支持している。また、すべての公教育がカタルーニャ語で行われるという、カタルーニャ州の学校教育制度における言語政策に反対している。シウダダノスはまた、スペインの中央機関の権限強化と、地域行政機関の権限削減を支持している。

  • その他には、スペインの選挙方式の徹底的な改革、スペイン1978年憲法の特に地域組織部分の改正、バスク地方の財政的特権の完全撤廃などを主張している。また、売春、マリファナ安楽死の法的許可を支持している。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの経済学教授であるルイス・ガリカーノを政策アドバイザーに起用している。

  • その公的な立ち位置について、批評家はイデオロギー的に類似した連合・進歩・民主主義(UPyD)の第五列のと見なしている。シウダダノスの設立に参加した何人かの知識人は、後にシウダダノスへの支持を撤回した。例えば2007年、アルベール・ボアデーリャは元スペイン社会労働党のロサ・ディエスとともに連合・進歩・民主主義の発起人のひとりとなった。

  • 2014年までは、シウダダノスの支持者の大部分がバルセロナ大都市圏の在住者だった。2010年の地域選挙で4%以上の得票を得たクマルカ(郡)は、バルサルネス、バッジ・リュブラガート、バリェス・ウクシダンタル、タラグネスの4郡だけだった。ジローナ県では1.69%、リェイダ県では1.79%にとどまり、阻止条項(足切り条項)の3%を超える得票率を得たのはバルセロナ県だけだった。2014年まで政治的影響力は地域的なレベルにとどまっており、2014年秋頃の全国支持率は3%程度に過ぎなかったが、2014年冬から2015年前半に急激に支持率を伸ばし、3月初頭にエル・パイス紙が行った世論調査では12.2%の全国支持率を、同時期にラジオ局のカデーナ・セールが行った世論調査では13%の全国支持率を得た。

  • 極右運動家のシャビエル・カザルスなどのカタルーニャ民族主義者からは大衆主義的綱領を持つ政党であると認識されている。進歩主義イデオロギーの核に据える努力を行っているが、選挙運動ビデオには知名度のある右派の知識人、ジャーナリスト、テレビ出演者などを登場させている。2006年、エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャは、リベラが2002年から2006年まで中道右派の国民党(PP)の党員だったことを明らかにし、離党したのがシウダダノスからカタルーニャ州議会選挙に立候補するわずか3か月前だったことも記した。しかし、リベラは国民党の正式な党員だったことを否定し、青年組織の活動の一部に参加していたことだけを認めた。

  • その主要な会合はしばしばカタルーニャ独立主義者に妨害されてきた。2007年9月、党首のアルベール・リベラは、政治界から引退することを促す死の脅迫を匿名の人物から受けたと主張した。

共テレビで見解を述べる時間が少なすぎるとして頻繁に不満を述べている。カタルーニャ州に拠点を置くスペイン語新聞のラ・バングアルディア紙やエル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ紙などのカタルーニャ・メディアも同様の理由で批判している。一方でシウダダノスの反対者や評論家は、マドリードに拠点を置くリベルタ・デジタル、エル・ムンド紙、テレマドリード、ABC紙などの全国メディアによる、政党の議席数に対して不釣り合いに高い露出度を指摘している。

そういえばシチリア島ナポリもスペイン王統(それもカルターニャ同様アラゴン王統)の統治下にあった期間が長く、今でも現地に残存する王党派が復活を望みんでいるのはそのスペイン王統だったりします。要するにガリバルディによる両シチリア王国征服(1860年)を認めない立場。
【世界史の窓】南イタリア・シチリア島の歴史
【世界史の窓】ガリバルディと赤シャツ隊

 中南米においても元スペイン領インディアス(Hispanoamérica)ではドロドロの内戦が現在なお続いている事が多いです。そもそも本国にすらしっかりとした中央集権が根付いていなかったのに、それが輸出される筈もないのですね。「英国は植民地に近代を輸出したが、スペインは植民地に中世を輸出した」といわれる所以。
*左翼陣営は前者を絶対悪、後者を絶対正義とした。何故なら民族紛争が果てしなく続いて政情が安定せず、経済的発展から見放されて誰もが貧困にあえいでいる状況においてこそ左翼の存在意義が最も高まるからである。しかし流石に状況がボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(Bosnian War、1992年〜1995年)の様に民族浄化合戦に発展すると話が変わってきた。「民族主義こそ理性の顕現である」という前提が崩壊し「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」というジレンマが表面化してきてしまったからである。

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イスパノアメリカ諸国(濃い緑)とその他の地域のスペイン語話者の比率
   50%    20%    5%    30%    10%    2% 

 *それでは一体どこに誤謬が忍び込んでいたのか。ヘルムート・プレスナーピーター・ドラッカーといったナチス・ドイツのホロコーストを逃れたユダヤ系知識人はこぞって「ドイツでは英国の国教会(Anglican Communion)やフランスのガリカニスム(Gallicanisme)の様な宗教的統一運動が存在しなかった事がインテリ=ブルジョワ階層による善導体制を崩壊させ、ナチス台頭を生んだ」と主張したが、英国やフランスにおける「国民統合運動」や「宗教統一運動」は、まさしく「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」なる原理に従ってユダヤ人や英国内カソリック教やユグノー教徒を迫害・虐殺・追放しながら達成されたものであり、主著「今日のフランスにおける社会主義共産主義(Der Socialismus und Communismus des heutigen Frankreiches、1842年)」や伊藤博文の師匠として名高い19世紀ドイツの国家学者ローレンツ・フォン・シュタインが最終的に到達した「宗教による国民統合運動などメリットよりデメリットの方が大きい。(たとえ一部の国民がそれを熱狂的に求めたとしても)国家祭祀と各国民の祭祀を無理矢理胃一致させるより、それぞれが好きに振る舞う方が結果として上手くいく」という結論の方が現代ではよほど説得力がある。また多民族国家においては、政教一致体制だろうが、絶対王政だろうが、共産党独裁だろうが政争に勝利して中央集権を手中にした集団は、よっぽど上手くやらない限り必ず民族主義者の失望を買う事になっている。「ならば全民族主義者を国家主義者に改宗させれば良い」という発想はスターリンが思いつき、中国共産党に継承されたが、やはりその行き着く果ては「見つけ次第、女子供を竃に放り込み、妊婦の腹を割く」ヴァンデの悲劇や、織田信長による一向宗虐殺や、ナチス・ドイツの絶滅収容所の悪夢とそれほど大差ない。

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スターリン的民族強制移動政策はおそらく、古代アッシリア帝国や古代バビロニア帝国の時代にまで遡る。反復常なき都市国家祭政一致体制の中枢たる神殿を破壊し、その住民を領内に分散して強制移民させつつ、別の地の住民を移住させる。エルサレム神殿の信者達は宗教的権威の源泉を神殿祭祀から啓典の参照に切り替える事でこの危機を乗り切ろうとしたが、そのシステムを別の地からの移民に模倣された事から所謂「サマリア人問題」が生じる。またローマ帝国エルサレム神殿を破壊して現地信徒をイスラエル住民から異邦人に置き換えたが、この時にはトーラー(Torah、モーゼ五書)に加え(後にタルムード (Talmud)に編纂される事になる)口伝律法を宗教的権威に加えようとしたファリサイ派のラビ(英語・ラテン語 rabbi, ドイツ語 Rabbi, ギリシア語 rhabbi, アラム語 rabbin(複数形), ヘブライ語 rabbi / セファルディ・ミズラヒ圏 chakham, イディッシュ語 rebbe)を精神的指導者に選んだ少数精鋭派と「ナザレのイエスが選んだ12使徒と(ヘレニズム・ユダヤ人や外国人に実践が易しい方向に律法を緩めてくれた)義人パウロ」を精神的指導者に選んだ圧倒的多数派に分裂。前者がユダヤ教徒、後者がキリスト教徒の母体となるが、歴史のこの時点における最も重要な対立は言語問題、すなわち「ヘブライ語聖典のみしか認めないか、ギリシャ聖典も認めるか」であった。その意味では問題の起源はプトレオマイオス朝エジプト(紀元前306年〜紀元前30年)時代にヘブライ語が読み書き出来なくなったヘレニズム・ユダヤ人の為にアレキサンドリアにおいてギリシア語七十人訳聖書が編纂された時点まで遡る。「彼ら」のディアスポラ化はローマ帝国によるエルサレム神殿破壊以前から始まっていた事になるが、ここでいう「彼ら」とは一体何者だったのだろうか。「啓典の民」の歴史は7世紀に入って(中東においてはキリスト教より優勢だった)ユダヤ教よりイスラム教が分化した事によってさらなる混迷を経験する事に。

*逆にホロコーストを逃れたユダヤ系知識人達は、不思議にも揃って絶対王政ボナパルティズム(Bonapartisme)とナチスの指導者原理(Führerprinzip、民族共同体(Volksgemeinschaft)が指導者(Führer)に無条件の服従と忠誠を誓う全体主義的理念)の共通点の多さには口を閉ざす。この種の権力の源泉を辿ると「啓典」にまで行き着いてしまう事に気付いていたからとも(例えば旧約聖書における「聖絶(hērem))」問題)、ユダヤ系知識人が脱出を余儀なくされた時点では、まだ「ヒトラーの絶対君主化」は始まっていなかったから(それが急激に進行するのは第二次世界大戦が泥沼化して以降)とも言われている。
【世界史の窓】絶地王制
指導者原理 - Wikipedia

http://www.mrallsophistory.com/revision/wp-content/uploads/2012/11/Hitler-appointed-Chancellor.jpg

絶対王政(Absolute monarchy)やボナパルティズム(Bonapartisme)とナチスの指導者原理(Führerprinzip)の共通点の多さ…絶対王制は当初、国王とその直臣(宮廷貴族)が中間団体/社団(ギルドの様な同業者組合、都市や村落などの地域的共同体)などの利権を全人格的に代表して大貴族連合やウルトラモンタニズム(ultramontanism、教皇至上主義)に対峙する調停者として権力を掌握する。その過程で「共通の敵」を認定して排斥する事も。実際フォンテーヌブローの勅令(1685年、ナントの勅令廃止が宣言されユグノーが国外へ追放された)が発布されたのはルイ14世親政下であったし、カルヴァニズムの影響を色濃く受けたジャンセニスムの本拠地ポール・ロワヤル修道院が1710年に閉鎖へと追い込間れているのである。既得権益者が滅ぼされたり自壊したりするうちに状況は次第に国王独裁体制に近付くが、それは皮肉にも(調停者や政敵への対峙者としての)国王の存在意義が失われていく過程でもあって、実際フランス絶対王政下では革命が勃発してしまう。当初から指導者原理を党是に掲げていたナチスですら、実際の権力掌握過程は「調停者的」であった。すなわち(ワイマール体制からも極左勢力からも抹殺を宣言されていた)資本家階層や中小ブルジョワ階層、支持すべき対象を見失っていた正規軍やフライコール(ドイツ義勇軍)の利権を全人格的に代表して共産主義者や(その黒幕としての)ユダヤ人などと対峙する形で次第に彼らの信頼を勝ち取って行ったのである。まさにカール・シュミットの「敵友理論」そのものとも。

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ところでアジアにおける民族主義の起源は概ね日本、それも福沢諭吉が「文明論之概略(1875年)」の中で打ち出した「文明の本旨は独立の維持にあり」 なる強烈なスローガンにあるといわれています。これは西洋思想の紹介本ですから、その起源はさらに欧米まで遡れる筈なのですが、原文を読んでも不思議なまでに当時の欧州でもメジャーだった概念に辿り着けません。中江兆民がルソー「社会契約論(Du Contrat Social ou Principes du droit politique, 1762年)を択訳する際に「暴君を倒すのは普遍的正義」的な乱暴な要約を披露したらそれがアジアじゅうに広まってしまった様な伝言ゲーム的誤謬が、ここでもあったとしか思えないのです。というのもこの時代までの「民族主義」は、どちらかというと割と「強引に戦争開始を正当化する為の口実作り」という側面も強かったからでした。
*「暴君を倒すのは普遍的正義」‥血統の断絶ではなく、徳の断絶が根拠となる孟子易姓革命論の範疇で理解可能だからアジアじゅうに広まったとも。逆を言えばロックやルソーが提唱した「社会契約(英:Social Contract、仏:contrat social)」論とエドマンド・バークが提唱した「時効の憲法(prescriptive Constitution)」論の対峙みたいな肝心の部分が省かれ、文革時代のスローガン「革命有理」の様な極端に破壊主義的な思考様式を出現させる事になったとも。この問題は仏教伝来期にもあった。本来般若心経における「色即是空、空即是色」なる承句は「無数の縁に拘束されて身動きの取れない状態(その枠内で自由に動ける様になるのが解脱)」といったニュアンスだったのである。しかし中国に伝来するとやはり「この世界における本質は空虚であり、何もかも破壊し尽くすのが正義」的な極端に破壊主義的な思考様式に化けてしまった。

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国際社会における「民族主義」の大源流
*それ自体は現代人の感覚では民族主義の範疇に入らないものも含む。

なんたる胡散臭さ…当時におけるオカルト(神秘主義や秘密結社)と領土拡大主義の複雑怪奇な混ざり具合は大日本帝国時代に「八紘一宇」概念の辿った数奇の展開を思わせます。

*「八紘一宇」‥大正期の日蓮主義者田中智學が国体研究に際して使用し、当人が反戦主義者だったにもかかわらず軍部に利用された。

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当時の展開の全体像をまとめなおしてみると… 

あれ?「欧州型ナショナリズムの大源流」 の箇所でスペインが再登場。もしかしたら「18世紀まで中世」「19世紀に入っても国民統合とは無縁」のスペインだったからこそ蜂起が絶えなくて、民族主義概念形成に深く関わる事になってしまったとか?
*その一方で「国家こそ政治と経済の主体である」とした18世紀ナポリ政治経済学はフランスの新コルベール主義やドイツの官房学といった絶対王政を支える理論に重要な影響を与えたばかりか「縦軸に納税額を、横軸に納税者の公共サービスに対する満足度を取る」イタリア経済学の礎となる。いわゆる構造改革主義(ユーロ・コミュニズム)もイタリア発祥だし色々と侮れない。

そういえば「民族主義左派」なる不思議な存在も「スペイン内戦(1936年〜1939年)」時代のカタルーニャが初見だった様な…

スペイン内戦/スペイン戦争 - 世界史の窓

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普通の「共産主義と宗教の共存例」は以下みたいな感じ。「ヴァンデの悲劇」や「織田信長一向宗虐殺」をなんとか回避しようとする苦労が偲ばれます。

中央アジア・ザカフカースにおけるイスラーム

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中央アジアにおけるイスラームを考えていく上には、どういう枠組みが必要なのでしょうか。まず一言で言えることは、中央アジアムスリムたちは、おそらく世界全体のイスラーム教徒の歴史の中で唯一、一定期間にわたって、無神論、つまり神は存在しないことを標榜するイデオロギーを持つ政権の下で生きるという経験をした人たちだということです。つまり神を否定する政権の下で生きてきたイスラーム教徒という点で、特異な特徴があります。

1917年の共産主義革命の後、モスクワの革命政権がてこずったのは白衛軍という反革命勢力でしたが、もう一つてこずったのは中央アジアのバスマチ運動と言われる運動でした。バスマチ運動は、中央アジアのさまざまな勢力がイスラームのシンボルの下にボルシェビキに抵抗した運動です。モスクワはこれにはかなりてこずって、最終的にこの運動を押さえ込むには1930年代初めぐらいまでかかったんですね。
【世界史の窓】バスマチ運動


先程言った「無神論を標榜する政権の下」という厳しい条件の中で村立してきたイスラーム社会です。ソ連イスラームにどういう対応をしてきたかというと、キリスト教、つまりロシア正教に対するよりも厳しい姿勢で臨みました。反ボルシェビキ運動の拠点だったこともあります。では完全に弾圧ばかりしていたかというと、必ずしもそうではない。特に第2次世界大戦後は、中東とか南アジアに外交的なアプローチをしなければならない。そのときに「ソ連ではイスラーム教徒が弾圧されている」と宣伝されると非常にまずいので、ソ連としては「イスラーム教徒もちゃんと信教の自由が認められている」ことを示そうとして、第2次世界大戦後は、少なくとも表向きには、イスラームの活動を一応認めました。もちろん非常に大きな制限付きでしたが。そして、「中央アジアカザフスタンイスラーム宗務局」というのをつくって、外向けの顔はつくったわけです。


一方中央アジアでは、ソ連時代の弾圧の下で、地下でイスラームが脈々と生き続けたことに特徴があります。特にフェルガナ盆地という所ではイスラームの伝統が地下に隠れて生き延びたわけです。たとえば共産党の家での集会というかたちで人が集まっている所で、実はコーランを一緒に読んでいるとか、こっそりとアラビア語の勉強をやるというようなことを続けてきました。特にタジキスタンウズベキスタンという2つの国では、この伝統が脈々と生きて、70年代以降は地下イスラームの人たちのあいだでは大きな論争さえあったんです。どういう論争かというと、無神論共産党政権とイスラーム教徒はどのような関係を結ぶべきかです。穏健派の方は「無神論共産党政権の下でも政府とあまり対立せずにやっていくことが可能」と考えたんですが、急進派の人たちは「いや、無神論政権を打倒する以外にはない」というかたちで、2つの勢力が地下で抗争を続けていました。いずれにしてもイスラームの影響力の強さを感じさせます。

それではいよいよ独立後に入ります。1992年末に中央アジアの5カ国が独立したのですが、いったん独立すると、カザフスタンウズベキスタンもそうですけど、独立した国家として生きていく理由、存在する理由を国民に納得させなきゃいけない。そのためには、自分たちの「民族的伝統」を探し出してくることが必要になります。その中で、イスラームはどうしても重要です。イスラームは「われわれの民族にとって重要な伝統なんだ」というかたちで、イスラーム復興の流れを支えることとなります。つまり、政府側はイスラームを民族的統一のためのシンボルとして利用するようになります。しかし、それまで地下に潜っていた急進的なイスラーム運動もこの機会に表面化してくるわけです。その目的と政府が認めているイスラームの復興の範囲が大きくずれるわけです。そこで、政府は非常に難しい立場に陥っていきます。なぜかというと、政府は国民をまとめるためにイスラーム化のシンボルを使うんですが、イスラームが本当に復興して有力な政治勢力になってもらっては困る。この矛盾した考え方があるからです。私はよく「マッチポンプ方式」というんですが、政府は、片方ではイスラーム化ということでマッチで火をつけなきゃいけない。しかし、火がついて燃え上がると困るので、それをどうにかして抑えなきゃいけない。つまりポンプが必要になります。つまり火をつけながら、消すという役割を同時にやらざるを得なくなるんですね。ここに中央アジアの政権のイスラームに対する矛盾が出てきます。

"解放"後のベトナムにおける宗教政策 : カオダイ教を通して

http://i.gzn.jp/img/2012/06/17/caodai-vietnam/00_m.jpg

本稿の考察対象となるカオダイ教タイニン派(Cao Ðài Tòa Thánh Tây Ninh:以下単にカオダイと表記する際はタイニン派を示す)は,カオダイ諸派において最大の信者数・寺院 数を誇り,タイニン省に位置する聖地を占拠し続けてきた最大勢力である。第二次大戦後はフランスに協力する形で軍隊を組織,さらに南ベトナム政府からの優遇政策と資金援助の下で勢力を拡大させ,やがて政治組織として影響力を振るうまでになっていった。タイニン派はその創立以来,フランス・アメリカに協力し北ベトナムに敵対してきたという過去故に 1975 年のベトナム戦争終結後は社会主義政権から弾圧を受け,1986 年のドイモイ(Ðổi Mới /刷新)採択後にようやく活動を復活させてきたとされている。

1975年6月段階において国が主張しているのは,カオダイは平和を実現させた共産党に感謝し,全ての活動に関し国に伺いを立てるべきという内容でしかなく,そこにカオダイを解体しようという強い意志は見られない。

76 年頃からは「傀儡政権(南ベトナム政府)に協力し革命に敵対した上級聖職者」と「純粋に修行に励み平和中立の立場をとる中級・下級聖職者」という区別を意図的に行うようになった。特に教団上層部への敵意は凄まじく「地主や封建主義者や旧政権の役人であり,タックの妄言に毒されている/党やホーチミンに感謝し社会主義に協力するとは言っているものの,実は我々(共産党)の寛大な政策を利用しカオダイの拡大を画策している/勝手に聖職者を任命し,大祭を利用して人員を集めている/各地に聖職者を派遣し,信者を増やそうとしている/教団の活動を社会主義と同列に置き,共産党の言葉と宗教の言葉を同化させ説教している/各地で布教し,功徳を奨励して回っている」とその悪行の列挙に暇が無い。特に各地方において「まもなく戦争が再発し日本が再来して,入信していない者は殺されてしまう」等の演説を行ったことに対しては厳しい批判を加えており,やがて地方の布教を担っていた教団立法府の人間が敵視されていくようになっていった。

1977年に入るとさらにカオダイに対する批判的論調が増してくる。当時の報告書の結論は「カオダイは宗教の皮をかぶった政治組織であるから,国が純粋な宗教に戻してやらねばならない」というもので、解放後の 2 年間において宗教関係者に対し第 4 回党大会を始めとする共産党の政策を教育したことにより,これまで民衆の間に広がっていた,党による宗教根絶・宗教禁止という不安を取り払うことに成功したことを誇っている。また本報告書において特筆すべきは,75–77 年にかけてのカオダイ対策が書かれていることであり、それによると省政府は教団所有の畑で収穫した農作物の流通を禁止し,さらに功徳行為に対しても規制を課す事によりカオダイを経済危機に陥らせることに成功したことを述べた上で「カオダイの威信・権限は無くなり,将来的にも発展する可能性はないだろう」との報告を残している。国は後にこの時期を振り返り,解放から数年の間に寺に行くのが老人信者だけとなったこと、菜食主義や礼拝をやめる信者が増加していることには満足しながらも,依然として多くの家庭において祭壇(Tượng Thờ Thiên Nhãn)が保持されていることに関しては不満を示している。これは数々の規制や賦役義務が課された上での報告であるために当時の信者の心理を知り得る情報ではないものの,少なくとも共産党の宗教改造という目的が教団組織・運営に影響を与えながらも,私的領域にまでは徹底されていなかったことを示すものといえよう。

1978年4月から5月にかけては教団運営の学校・病院・孤児院など“宗教に必要ない”施設が没収され[CD-6; CD-17],8 月には教団自体も冠婚葬祭・慈善活動などを通して大衆を扇動しているとして「宗教ではない」と断言されるようになっている。9 月に入ると,省祖国戦線によりカオダイ弾劾文が発布された。これは「一部指導者による過ち」と前置きをしながらもカオダイの歴史を糾弾した文書であり,以後 90 年代に入るまで繰り返されるカオダイ非難文の雛形になる点において特筆すべき文書である。その内容は教団のカリスマであるファム・コン・タックを含む教団の歴代指導者・上層部がフランス・日本・アメリカと手を結び社会主義革命に抵抗したことを延々と非難した後に,「カオダイは宗教の形をした政治組織であり,指導者は扶乩を以て大衆を騙し帝国主義に協力した」と結んだものであり,内容自体は概ね真実であるとしても,その表現には多分に恣意的な要素が含まれていることは否定できない。以降は「我々(共産党・国)の手でカオダイを純粋な宗教に返す」との文言が多用されるようになり,“宗教的ではない”と判断された教団組織や活動の変革が急務として挙げられるようになっていった。

11 月に出された報告書では「十分な資料・証拠をもってカオダイの反動行為をまとめ,進行している反動計画を打破する」ことが決定された。ここにおいても,純粋な宗教機関と政治・経済・文化・社会機関の区別,そして扶乩の廃止が繰り返される。また 11 月上旬に行われたばかりの社会主義教育の結果が報告されており,その教育対象はタイニン省内で約 1 万人,ホアタン県だけでも 2,300 人に上っていたことが分かる。しかしホアタン県に限って言えば,19 ある末寺のうち 9 寺の責任者,さらに県内における教育対象者の 3 分の 1 が「タックなど歴代カオダイ指導者が間違いを犯した」という文書への署名を拒否したことが問題視されている。そもそもこの社会主義教育会には欠席者が多く,国の熱心な姿勢は空回りしていたようだ。

12 月になると省議会により決議が採択され「カオダイは政治的なものを排除し,社会主義に協力し,純粋な宗教なること」が公にも決定されることとなった[CV-T19]。このような非難が続いたせいか,教団上層部の姿勢も「開教して半世紀,神は既に色々なことを教えてくれた。後は皆が公共のために頑張ってほしい」[CD-15]と弱気になり始める。79 年 2 月には信者に向けて先の弾劾文が真実であることを認めた上で,今後は純粋な宗教になることを宣言する。そこで明言されたのは扶乩の廃止であり,32)この変革は翌 3 月 1 日のカオダイ令0により決定的となった。これは形式上これまでの全ての過ちを認めた教団が自発的に決定した教団解散令であり,要点は以下の 5 点に集約することができる。①教団の全機関を解散する。② 12 名から成る新指導部(Hội Ðồng Chưởng Quản/会同掌管)を設立し,ここが総本山にて儀礼を管理する。③教団組織は中央―地方の 2 階層に簡略化する。④扶乩を永遠に放棄する。⑤総本山内の滞在人数を儀礼に必要な 60 人程度に制限する。このカオダイ令 01 により,教団総本山は施設・人事・活動に至るまで,完全に国の支配下に置かれることとなった。

このカオダイ令 01 までは,国が手探りで宗教政策を行っていた時期である。国は幾度となく聖職者・信者を集め社会主義教育を行うが,国境におけるポル・ポト軍との戦闘に加え,国内でも反政府組織の活動が続き,思った程の成果を上げることができなかった。当初は宗教活動自体に干渉せず,人民を搾取するものであるか・物質的生産か否かで物事を判断していた国であるが,徐々に扶乩と教団組織を問題視するようになり,やがてはこれに固執する者達(教団上層部,特に立法府に属する人間)が敵視されるようになっていった。この姿勢は 1978年 2 月の統一戦線の幹部逮捕を契機として先鋭化し,総本山内の一斉捜索を経て翌年にはカオダイ令 01 が発布されることとなったのである。その結果,組織・扶乩をはじめとする“純粋な宗教”に必要のない要素は排除されることとなった。そしてそれ以後,国のカオダイに対する言及は,いかにその勢力を削いだかという文脈に集中するようになるのである。

それに対して日本の「民族主義左派」はどうやら学生運動が終焉した後、それでも抵抗を続ける為に民族独立運動に活動の場を移したとか、そんな感じらしいです。

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自由民権運動末期の「大阪事件(1885年)」で計画されていた内容が「朝鮮王朝をクーデターで倒し、朝鮮を薩長幕府を滅ぼす拠点化する」というものだったのを思い出します(しかもその為の軍資金は強盗の繰り返しで集めていた)。まさしく「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」というジレンマそのもの?