諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

飛騨女(ひだにょ)物ではないが、飛騨物ではある「ひぐらしのなく頃に」

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昔、スキー旅行で知り合いの所有する北海道の山奥の別荘に泊まった事があるのですが 「こんな歴史の浅い場所だと、雪に閉じ込められて怖い思いをしても、思いつくのが怪談じゃなくてアメリカ式に野生動物や猟奇殺人鬼の徘徊になっちゃう」と笑ってました。そういえば柳田國男遠野物語(1910年)」にも鉄砲などで決着片が付く物語が混ざってますし(猟師が絡んでくる場合)「津山30人殺し事件(1938年)の故郷」岡山県横溝正史金田一耕助シリーズ(1946年〜1979年)」の主舞台の一つでもあります。

柳田国男 遠野物語
柳田国男 山の人生

ところでTwitter上で「君の名は」と「氷菓」を同時検索すると第三の作品名が同列に並べられています。

  • 発祥はやはり2000年代前半。人気が出るまでしばらく掛かった「Web小説」と異なり、「自主制作アニメ」同様に当時から注目を集めていた「同人ゲーム」の代表作の一つ。
  • 舞台となる集落は飛騨のそれがモデルとなっている。別に「飛騨匠VS母権制」的な構造は備えてない。「次第に集落内における水面下での対立や住人を縛る因習が明らかになってくる」といった「田舎物」の基本フォーマットは共有するが「猟奇殺人などが次々と起こる」「雰囲気こそ怪奇だが殺人に超常現象は絡まない」と言った展開はむしろジョン・ディクスン・カー金田一耕助物(特に岡山物)に近い。
    金田一耕助物は、社会派ミステリーが一斉を風靡した1950年代後半に一旦時代遅れとなり、1960年代末の怪奇ブームでリヴァイヴァル(1960年代の翻訳推理小説ブームでジョン・ディクスン・カーの「怪奇物」が広まった生徒も)。デスゲーム全盛期の2000年代前半のトレンドでいうと「怪奇+猟奇」路線の方が正解で大ヒット。その一方で「人が死なない米澤穂信の「古典部シリーズ」は危うく打ち切り寸前まで追い込まれ「愚者のエンドロール(2002年)」は、まさにそういう状況を題材としているとも。「素人さんに、ミステリーとホラーの区別なんてつかないよ」「観客が求めてるのは残虐シーンが連続して血がいっぱい流れて心底怖い思いをさせられる事だけさね」といった登場人物の台詞には怨嗟さえ感じる。こうした同調圧力を受け続けた結果、河原礫に「ソードアート・オンライン」の中でサチとユウキを殺させ、米澤穂信をして東欧からの留学生に故郷で無残な死を迎えさせたとも。まさにマルクスの言う「お前が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」の世界。新海誠監督は当時から既に人間の心的距離の揺らぎを緻密に描く監督だったが「ほしのこえ(2004年)」「雲のむこう、約束の場所(2004年)」で評価されたのは、本当にそういう部分だったのだろうか?

  • そして「君の名は」同様、時間跳躍物でもある。そして「互いを信頼しあう強さを持つ事」が「誰も死なない本当のエンディング」に到達する鍵という点で。逆説的に新海誠作品や米澤穂信作品同様に「人間の心的距離の揺らぎ」をテーマにしたとも言える。 

こうなると「ひぐらしのなく頃に(When They Cry、原作2002年〜2006年、アニメ化2006年〜2009年)」に触れずに済ます事は出来ない様ですね。

「ひぐらしのなく頃に(When They Cry、原作2002年〜2006年、アニメ化2006年〜2009年)」

同人サークル『07th Expansion』によるコンピューターゲーム作品。ゲームジャンルはサウンドノベル。監督・脚本は竜騎士07

①出題編(『ひぐらしのなく頃に 暇潰し編』に全4話収録)

②解答編(『ひぐらしのなく頃に解 祭囃し編』に全4話収録)

③番外編(ファンディスク『ひぐらしのなく頃に礼』)

④特別編(『ひぐらしのなく頃に奉』)

⑤上記全ての編および「雛見沢停留所」「ひぐらしアウトブレイク」「神姦し編」(2014年夏・コミックマーケット86発表)

  • 昔ながらの村社会の様相を残す村落で発生した連続怪死・失踪事件の顛末を描いた連作式のミステリー。表現媒体としてサウンドノベル形式を採用しているが、ストーリー展開に影響を与える選択肢は存在しない。「出題編」「解答編」の各4編が2002年夏から2006年夏のコミックマーケットで発表された。後にこれを原作として商業作品化され、メディアミックス展開も盛んに行われた。

  • シナリオ執筆及びキャラクターデザイン・CGは『07th Expansion』代表の「竜騎士07」。プログラミング(スクリプト)は竜騎士07の弟である「八咫桜」が担当している。ゲームエンジンには「NScripter」が使用されている。BGMに関しては『ひぐらしのなく頃に』はフリーBGM素材集等から選択されていたが、『ひぐらしのなく頃に解』は当作品を愛する同人音楽創作者の呼びかけによって有志を募り、専用のBGMが制作された。

  • 竜騎士07講談社刊『ファウスト』Vol.8 全100ページインタビューの中で、奈須きのこの存在がなければ今の自分が居なかったと語っている。また、新しい時代が始まったなと思った同人作品に1996年発表のフリーソフトコープスパーティー』、2005年発売の商用アダルトゲーム『車輪の国、向日葵の少女』を挙げ、「奈須きのこから自分に渡されたバトンを次の世代に渡すことができた。逆に言うと奈須がいなければ自分もいなかったし、それらも登場しなかったのだろう」と語っている。

  • 同人作品として10万枚を売り上げ、雑誌などにも取り上げられるところとなり、知名度は一気に上昇していった。その後、商業作品としてドラマCD化、漫画化、アニメ化、家庭用ゲーム機への移植、小説化、実写映画化などがなされ、原作シリーズ累計売り上げも60万枚を突破した。

  • ドラマCDが「祭囃し編」までWAYUTAより発売された。一章ごとの収録時間200-300分超、収録枚数3-6枚組という大ボリューム。ドラマCD版のキャストが竜騎士07の選んだキャストであり、アニメ・PS2版の一部のキャストはスケジュールなどの都合により変更された。

  • 2006年からスクウェア・エニックスの複数の月刊漫画雑誌に本編の漫画化版が連載された。全てを含めたコミックスの販売部数は累計800万部を超える]。2008年までに、香港・台湾・韓国北米で翻訳版が刊行された。

  • アニメは第1期「ひぐらしのなく頃に」が2006年4月から同年9月まで放送され、第2期「ひぐらしのなく頃に解」が2007年7月から同年12月まで放送。そして第3期「ひぐらしのなく頃に礼」がOVAとして2009年2月から同年9月にかけて順次発売された。2007年6月より米国及びフランスでDVD発売・ネット配信開始。

  • 講談社BOXレーベルで原作者による小説版が刊行され、累計で約80万部売れた。

  • 実写映画『ひぐらしのなく頃に』(監督 及川中、主演 前田公輝、2008年)が60館で公開された。第1話『鬼隠し編』を原作としている。単館系作品としては異例の興行収入2億円を突破した。2009年4月に第6話『罪滅し編』を原作とする続編『ひぐらしのなく頃に 誓』が公開された。

白川郷岐阜県大野郡白川村)が雛見沢村の風景のモデルとなっている。

http://gurogazaousyuubeya.up.n.seesaa.net/gurogazaousyuubeya/image/2010072710361107b.jpg?d=a1

物語

人口2000人に満たない寂れた架空の村落、雛見沢村を舞台に、村にまつわる古い因習「綿流し」を軸にして起こる連続怪死・失踪事件を扱った連作式のミステリー。読者に謎を提示する「出題編」4編と、事件の真相と謎に対する解答、つまり、事件の惨劇を回避するために人々は何をすべきだったのかが明らかになる「解答編」4編とで本編が構成される。

  • 出題編では信頼できない語り手による手法が多用されていて、事件は一見不可解に見えるが、徐々にその真相が明らかになっていく。大部分が登場人物の主観で叙述されるが、合間にはより客観性の高い追加情報『TIPS』が挿入される。このような情報の提示の仕方は『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』に影響を受けたものである。

  • 物語の舞台となる雛見沢村は村人の連帯が強固で一見平和な村に見えるが、ダム建設をめぐる村人間の対立は建設中止後もしこりを残している。また、6月に行われる夏祭り「綿流し」の日に毎年発生している、一人死んで一人消える奇怪な事件が起きていた。事件は村で祀る神、オヤシロさまの祟りとして村人に畏れられていた。事件が始まって5年目の昭和58年。少年前原圭一雛見沢村に引っ越してくる。彼は持ち前の明るい性格で、新たな学校や友人に打ち解けていく。物語は平穏でゆったりとした日常のシーンから始まるが、進行していくにつれて違った趣きを見せてくる。そして、綿流しの日に5年目の事件が起き、不気味な出来事が発生するようになる。

  • 哲学者・批評家の東浩紀は本作品の物語の構造が美少女ノベルゲームのそれと類似していることを指摘している。第1話の結末において、多くの謎を抱えたまま主人公は死にいたる。しかし、第2話では事件発生前から物語がはじまる。主人公も生きて登場し、第1話と異なる展開を見せる。同じ場所、同じ時間での異なる物語は第4話を除いて繰り返され(第4話では主人公が違う)あたかもゲームのプレイヤーが「バッドエンドを回避すべく、以前とは異なる選択肢を選んで再挑戦した」かのように物語が進行していく。読者はささいな違いにより異なる結末を迎える物語を見比べることで、推理の手掛かりを得ていく。事件を繰り返すごとに、登場人物の繰り返しへの自覚や、物語への自己言及ともとれる発言があらわになり、物語はメタフィクション化していく。第6話で事件の被害者の一人、古手梨花が自らの死を防ぐために時間を巻き戻していることが示される。第7話ではオヤシロさまが羽入という名の新たな登場人物として読者に紹介される。事件に介入できず、観察者の立場でいる羽入は読者の暗喩ともとれる。最終話では羽入がゲームのプレイヤーのように物語に介入し、幸福な結末へと導いていく。

短絡的な行動をしないために、他者を信頼し悩みを打ち明けることの大切さがくりかえし説かれている。

鬼隠し編…出題編。この4年間に雛見沢で起こった不可解な連続未解決事件と「鬼隠し」と呼ばれる謎の失踪事件についての噂を聞いた主人公前原圭一は、軽い興味から事件について調べようとするが、事件の存在自体を否定する仲間に対して疑念を抱き始める。そして、綿流しの日を境に圭一は命の危険を感じるようになる。圭一は自分の命を狙う竜宮レナ園崎魅音を殺害し逃亡を図るが、今年の犠牲者と同じく奇怪な死を遂げる。

  • 前原圭一 」…本作の主人公。都会から引っ越してきた少年。
  • 竜宮レナ圭一の同級生。圭一のクラスメイト。
  • 園崎魅音圭一のクラスメイト(上級生)。村一の有力者である園崎本家の跡取り娘。
  • 「綿流し」…(おそらく明治頃から行われる様になった)布団や衣類の綿を用いて、それらとオヤシロ様への感謝を表す儀式。「腸流し」がその原型とされるが「オヤシロ様は縁結びの神であり雛見沢豪雪地帯なので、冬は寒くて布団に篭り夜の愉しみに耽る事と何か関係がある」という説も。
  • 腸流し」…「綿流し」の原型となったとされる本来の儀式だが詳細は不明。伝承では「オヤシロ様の指定した人間を「鬼隠し」し、鬼ヶ淵村民の前で拷問を加え腹を裂き、鑑賞し、その肉を食した」とされてるが、真相は「御三家がその尊厳と村の戒律を維持する為に行った懲罰的な儀式」とも「咎人の存在を知られた際の隠蔽、口封じ」とも「古代の御三家は医師で医学的知識の無い人間の前で心霊手術や外科手術を行った結果(寄生虫に取り付かれてた人間を「悪」とし、その寄生虫を取り出す事で神聖視されると同時にいつでも悪のレッテルを貼る事のできる絶対正義の権力者となる。内臓を川に流したのは伝染病を蔓延させたのは手術の機会を増しやして村人からより一層崇められる為)」とも「伝染病たる鬼化の発症者を葬る儀式(伝説によれば鬼隠しの被害者は雛見沢外の人間。村外に感染者が現れた時の検疫作業)」とも「発症者の体に出来た抗体を村民で摂取していた」とも「古代の外科手術が形骸化されて腸流しになった」とも「カニバリズムの風習の名残」とも「村の結束を促す為、明治頃からでっち上げられた見せしめ」とも言われる。そこから派生して「綿流し」の儀式にも「病気の発症を抑えるか蔓延させる為の儀式」という要素が残されているとも。

罪滅し編…「鬼隠し編」に対する解答編。「鬼隠し編」でのレナと圭一の立場を入れ替えた物語。レナは家の財産を狙うやくざのために独りで悩み、ついにはそのやくざを殺害する。偶然この事実を知った圭一たちは事件を隠蔽するために協力する。その後、やくざの死体が消え、疑心暗鬼になったレナは園崎家の陰謀と信じ込み、雛見沢の呪縛と対決すべく単独で行動を始める。レナを説得しようとした圭一は拒絶され、レナは姿を消す。失意の圭一は魅音ら他の仲間たちのおかげで「鬼隠し編」においてレナや魅音を信じず殺害してしまった自分の罪を思い出し、レナを救う事を梨花と共に決意。その後再び圭一らの前に現れたレナは教室篭城事件を起こすが、圭一らの活躍により事件は終息する。しかし、その後この世界においても梨花は殺害され、他の村人も災害の犠牲となる。この章で梨花が殺害されるたびに時間を巻き戻していて、これまでの各編での記憶を持っていることが明確に示される。

  • 園崎家… 村を支配する御三家の一つ。事件の背後に園崎家の影が見え隠れしている。
  • 古手梨花…圭一のクラスメイト(下級生)。神社の巫女。祭神、オヤシロさまの生まれ変わりとして、信仰の対象になっている。5年目の犠牲者。全ての謎を知りつくしたかのような行動を見せる。

綿流し編…出題編。圭一と魅音の双子の妹である園崎詩音は好奇心から、神社の祭具殿に忍び込む。村の禁忌に触れるその行為は、魅音の報復の対象となった。次々と失踪者が増える中、レナと圭一は殺人を繰り返す魅音を追い詰める。魅音は過去の連続怪死・失踪事件が園崎家の意向によるものであり、魅音自身も関わっていると告白する。その後、魅音はどこかへ逃亡したと思われたが、突如として圭一の前にあらわれ、圭一を刺してその後死を遂げる。圭一も一度は一命をとりとめるのだったが、数日後に突如として死んでしまう。

  • 園崎詩音 - 魅音の双子の妹。訳あって園崎本家とは距離を置いている。

目明し編…「綿流し編」に対する解答編。昭和57年に起きた4年目の事件、および、「綿流し編」と酷似した昭和58年の物語が、魅音の妹、詩音の視点で語られる。詩音は悟史に出会い、恋をするが、4年目の事件で悟史は失踪する。それから1年、園崎家の仕業と思い込んだ詩音は一度はやめることにした復讐を再び誓い、村の御三家たちと沙都子を次々に殺害するが、すべては誤解によるものであった。これが「綿流し編」の真相であり、圭一の視点からはうかがい知れない真実が明かされている。詩音はせめて魅音が好きだった圭一だけは殺してやろうとし殺傷するも未遂。その帰りにマンションから転落、エレベーターの屋根に落ちた際に正気に戻り、自らの罪を悔い地上へと身を投げた。雛見沢の裏側にひしめく内情が色濃く描かれており、疑心暗鬼に陥りやすい雛見沢の土壌が垣間見える。

祟殺し編出題編。圭一は家族のいない北条沙都子の力になりたいと兄妹のような関係を築いていった。しかし、その関係は沙都子の叔父が村に帰ってきたことにより終わってしまう。沙都子を叔父による虐待から救うため、そして元の日常を取り戻すために、圭一は叔父を殺害する。しかし、叔父の死体が消え、叔父殺害の事実が消えてしまう。そして、圭一の周りの人々が死にはじめ、古手梨花が殺害され、遂には村人すべてがガス災害の犠牲となる。一人生き残った圭一も数カ月後に死んでしまう。この災害は雛見沢大災害の名で世間に知られた。

  • 北条沙都子 - 圭一のクラスメイト(下級生)。
  • 北条家 - ダム建設をめぐって園崎家と対立し、村八分の状態にある。事件の2年目に沙都子の両親が、4年目に叔母と兄が、死亡・失踪した。
  • 北条悟史 - 沙都子の兄。4年目の失踪者。

皆殺し編…「祟殺し編」に対する解答編。この編では一連の事件の真相も明かされる。梨花だけに見え、オヤシロ様である羽入が、初めて読者の前に登場する。梨花の仲間はこれまでの各編での失敗を無意識のうちに理解しており、赤坂も昭和58年の雛見沢に訪れ、惨劇回避に向けた理想的な展開を見せる。沙都子の叔父の登場だけが唯一の不安要素であったが、圭一は叔父の殺害という短絡的な手段をとらず、村を団結させることにより沙都子を救出する。昭和58年六月の雛見沢に何度も生まれ、同じ時を繰り返してきた少女・古手梨花。幾多もの惨劇を見続けてきた彼女には、もう運命に抗う気力など残っておらず、ただ繰り返される惨劇を傍観し、そして殺される時を待つだけだった。完全に諦めていた梨花だったが、前作・罪滅し編の世界において過去の世界での出来事を圭一が覚えていたことで、希望を捨て切れずにいた。そして仲間たちのある言葉に今までの世界と何かが違うと感じた梨花は、再び運命に抗う決意をする。梨花ははじめて圭一たちと協力してと真犯人たちと戦うが、圭一たちが殺され、またしても梨花は殺害される。しかし、仲間の活躍により5年目の事件と雛見沢大災害の真犯人が実は生きていた鷹野三四とその一味であることが明らかにされる。また、初めて村がどのようにして滅んだのかが説明される。

  • 羽入 / オヤシロさま…梨花だけに見える存在。事件には不干渉の立場をとる。
  • 鷹野三四 - オカルトマニアの看護婦。5年目の失踪者。

暇潰し編出題編。物語は昭和53年、雛見沢村で村を沈めるダム工事への反対運動が起きていた頃に遡る。出産間近の妻を東京に残し、建設大臣の孫誘拐事件の捜査のため村に訪れた刑事、赤坂衛の視点で語られる。村で赤坂は一人の少女・古手梨花に出会う。村の三大勢力の一つ「古手家」の娘である彼女は、赤坂にこれから起こる連続怪死・失踪事件を全て予言し、そして助けを求められる。しかし、赤坂はその期待に答えられず、昭和58年6月の綿流しの後に梨花は殺害され、他の村人も災害の犠牲となる。この事件が風化されず誰かが真相を暴いてくれることを願い、雛見沢での旧知である元刑事の大石蔵人と協力して、雛見沢大災害に関する本を出版する。

  • 大石蔵人 - 事件を捜査している刑事。捜査のためには手段を選ばない。
  • 赤坂衛 - 公安所属の刑事。梨花に事件を予言され、助けを求められる。

祭囃し編暇潰し編の解答編。3部構成であり、前作で再び希望を持った梨花が、今度こそ運命を打ち破ろうと最後の敵・鷹野三四に挑む。真犯人の鷹野三四の生い立ちからはじまり、梨花が理想とする昭和58年6月を創る「カケラ紡ぎ」と続く。そして、最後の物語となる「祭囃し編のカケラ」において、梨花は多くの人を味方につけることに成功し、力を合わせることで奇跡を起こす。ついに惨劇の運命は打ち破られ、事件後に全員が生存する幸福な結末を迎える。


賽殺し編…番外編『ひぐらしのなく頃に礼』収録。昭和58年6月の袋小路を打ち破る長い戦いに勝ち、仲間たちと楽しい日常を送る梨花だったが、ある日交通事故に遭ってしまう。目を覚ました梨花はそこが事故前とは別の世界であることに気づく。沙都子からいじめを受ける、昭和58年の世界に圭一がいなくて代わりに悟史がいるなど、今までとはあらゆる部分が異なる世界に絶望しながらも元の世界に戻るべく奮闘するが、その世界での両親やレナたちの温かさ、そして、彼女たち部活メンバーが以前の世界で犯した罪が無いことに気づき、次第に元の世界との優劣がつけられなくなってきていた頃、元の世界へ戻るためには「母を殺すしかない」ということが判明し、彼女は究極の選択を迫られることとなる。

*あえて細部まで情報を公開せずファンの間で憶測を流行させるのは「ブレア・ウイッチ・プロジェクト」から学んだ手法とも。 あるいは実録怪談であるが故に説明のつかない超常現象がそのまま掲載されている(そしてエピソード間の矛盾もそのまま放置されている)「遠野物語」的雰囲気の流用とも。

ブレア・ウィッチ・プロジェクト(The Blair Witch Project、1999年)」

1999年公開のアメリカ映画。日本公開は1999年12月23日(祝日)全国松竹・東急系にて。全米公開は1999年7月30日。最初は7月16日に北米限定公開だったが、話題を呼び、拡大された。

  • 1998年製作のアメリカ映画『ジャージー・デビル・プロジェクト』と本作とどちらが先に完成したか、アメリカで物議を醸した。

  • 超低予算(6万ドル)・少人数で製作されながらも、全米興行収入1億4000万ドル、全世界興行収入2億4050万ドルという大ヒットを飛ばして話題となった。インディペンデント作品としては、異例の話題作。サンダンス・フィルム・フェスティバル'99正式作品。第52回カンヌ国際映画祭監督週間正式作品。

  • 「魔女伝説を題材としたドキュメンタリー映画を撮影するために、森に入った三人の学生が消息を絶ち、1年後に彼らの撮影したスチルが発見された。三人の学生が撮影したビデオをそのまま編集して映画化した」という設定であるが、実際は脚本も用意された劇映画である。映画の手法としては、擬似ドキュメンタリー(モキュメンタリー)映画として宣伝された。俳優は、2,000人の中からオーディションされ、アドリブの利く者が採用された。

背景説明のためのメディアミックス(「複合世界」として宣伝され、インターネットのウェブサイトやテレビの特別番組、書籍が特に効果的な宣伝効果を挙げた)を展開しつつも、物語の核心に繋がる部分の情報を極端に制限した手法が当たり、世界的な大ヒットに繋がった。

  • テレビ特番『ブレアウィッチの呪い』…原題は『Curse of the Blair Witch』。43分。サイファイ・チャンネルで映画公開直前の1999年7月12日に放映された。6回も再放送された。DVD映像特典にも収録されている。前述のブレア・ウィッチの伝説や3人の学生の家族構成や出生に登場人物へのインタビューやニュース映像形式で触れられている。日本でも別にテレビ東京系で大鶴義丹出演で本作の探偵バック・ブキャナン(C・D・バック・ブキャナン・Jr.)と行動して謎を追い行方不明になる特別番組が製作された。

  • 「スティックメン」…劇中で登場する「木切れで作られた人型のオブジェ群」。キャラクター商品が販売された。

ちなみに日本公開時のキャッチコピーは「怖くて目をつぶれない」。

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ブレア・ウィッチ伝説

映画製作にあたって、マイリックらは物語の根幹として「メリーランド州に伝わるブレア・ウィッチ伝説」という架空の伝説を創作し、映画は伝説を取材した学生たちが遺したフィルムであるという設定のもと製作された。主にメディアミックスで紹介される。以下は、映画の基礎となった架空の伝説の概略となる。

メリーランド州バーキッツヴィルに伝わるブレア・ウィッチ(劇中ではエリー・ケドワードと推測されている)の呪いの伝説は、18世紀に始まる。特に印象的な歴史的に大きな事件が50~60年ごとに3回起こっている。(アイリーン・トリクール事件・コフィン・ロック事件・ラスティン・パー事件)

  • 1734年 ブレアの町設立。
  • 1769年 エリー・ケドワード渡米
  • 1785年 エリー・ケドワード追放
  • 1786年 ブレア・ウィッチの誕生。ブレアの町廃墟に。
  • 1809年 『ブレア・ウィッチ・カルト』出版。
  • 1824年 ブレア跡地にバーキッツヴィル設立。
  • 1825年 アイリーン・トリクール事件
  • 1886年 コフィン・ロック事件
  • 1941年 ラスティン・パー事件
  • 1994年 自主制作映画スタッフ失踪事件 (本作)

伝説の発端

  • 1785年02月、子供達の血を抜き取ることを目的に家に誘い込もうとしたエリー・ケドワードが、数名の子供の証言により訴えられる。ケドワードは魔術を使ったかどで有罪となり、寒さのとりわけ厳しい冬のさなかに追放されたため、死んだものとの憶測されていた。
  • 1786年11月、ケドワードを告発した者たち全員と町の子供たちの半分が、真冬の頃までに姿を消してしまう。町の人々は呪いを恐れ、ブレアの地から逃げ出し、以後二度とエリー・ケドワードの名を口にしないことを誓いあった。

アイリーン・トリクール事件

  • 1825年、11人の目撃者によると、青白い女の手が上がって来て、10才の アイリーン・トリークルを川に引きずり込んだ。アイリーンの遺体は発見されなかったが、彼女の溺死後13日間にわたって、油にまみれた木切れの束が小川に多数浮かび、流れがよどんだ。

コフィン・ロック事件

  • 1886年、8才のロビン・ウィーバーが行方不明となり、捜索隊が出される。ウィーバーは無事に探し出されたが、捜索隊の一つが帰還しなかった。数週間後、別の捜索隊により全裸で内臓を完全に抜かれ、手足を縛り合わされた彼らの遺体が、ひつぎ岩(コフィン・ロック)で発見される。しかし彼らが戻ったとき、遺体は消失していた。

ラスティン・パー事件

  • 1941年05月、ラスティン・パーという名前の中年の隠遁者が、「ついにやり遂げた」と語った。徒歩で4時間かけて到着した警察が、彼が隠遁暮らしをしていたブラック・ヒルズの森の家にある地下の貯蔵庫で、行方不明だった7人の子供の遺体を発見する。儀式めいた殺され方をしており、内臓を抜かれていた。パーはすべての犯行を認め、森に住む「年老いた女の幽霊」のためにやったのだと当局に語る。生き残った少年カイル・ブロディの告発もありその後、バーは裁判で有罪を宣告され、絞首刑に処される。その後、村人の放火によりラスティン・パーの館も焼失した。後にこの事件は特別番組『ブレアウィッチ2』序章『バーキッツヴィル7』で映像記録保管人クリス・キャラスコにより新たな真相が明かされる。7人の子供の名前はエミリー・ホランズ、テラ・シェリー、マーガレット・ロウエル、スティーブ・トンプソン、エリック・ノリス、マイケル・ギドリー、ジュリー・フォーサイスと明かされた。

「細部の辻褄の合わなさがかえって恐怖を煽る」発想自体はホレス・ウォルポール(Horace Walpole, 4th Earl of Orford, 1717年〜1797年)の「オトラント城奇譚(The Castle of Otranto、1764年)」まで遡る。この人物はまた「セレンディピティserendipity、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。または何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ること)」なる概念の提唱者でもあった。
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「ひぐらしのなく頃に」トレーディングカードBOX。2,940円(税込)

全55種中SPカードの9枚には、本編にも載っていない竜騎士07書き下ろしのスペシャルTIPSが封入されており、その商売のやり方にスレ内での評判は芳しくなかった。 

TIPS SP.1『崇めること・祟ること』

鬼ヶ淵村の仙人たちは、鬼の血が混じり、自身の内に鬼が宿ることを信じていた。それは村人の誰もが鬼を宿し、悪鬼のごとき振る舞いをしかねないことを自覚していたからという説がある。

彼らは鬼と共存しながらも、鬼に乗っ取られてしまうことを「人を捨てること」として忌み嫌い、鬼に心の全てを明け渡さないことを常に自戒していたと言う。

彼らに宿る鬼の凶暴性は、オヤシロさまの加護により抑えられていると信じられており、不信心者はその加護を失い、鬼の血に体を乗っ取られてしまうとも信じられていた。つまり、鬼ヶ淵村には鬼を崇める感情と恐れる感情が同時に存在していたことになる。崇めなければ祟る図式は日本全国に散在する、平均的な土着信仰と大差ない。

だが、鬼の血を崇め、それが混じり超常の力を得た仙人として、麓の村々を平伏させていた彼らが、同時にその力を恐れてもいたのは面白いことかもしれない。

TIPS SP.2『生贄の儀式について・処刑説』

鬼の血を宿す鬼ヶ淵村の仙人たちは、時に暴れ出す鬼の血に抗えず、鬼の本性を剥き出しにし、完全に鬼と化してしまうことがあったと言う。

人と鬼の融和はオヤシロさまの加護を失ったこと、即ちオヤシロさまへの不信心のバチではないかと考えられたらしい。

鬼たちはオヤシロさまに許されることで人の世に住まうことが許されたに過ぎない。オヤシロさまの加護が失われた鬼は、人の世を去らなければならない。

鬼たちのやってきた地の底の国とは、鬼ヶ淵沼の奥底を指す。人の世を追われた鬼が鬼の国へ去っていくことは、つまり、鬼を沼へ沈めることを指す。これは奇しくも、オヤシロさまの怒りを鎮めるために、生贄を沼に沈めたという生贄の儀式と完全に一致する。

儀式は、オヤシロさまの戒律を破った不信心者に対する処刑を意味した可能性があるのでは。

TIPS SP.3『仙人崇拝について』

鬼ヶ淵村の麓の村々の一部が、鬼ヶ淵村の仙人を崇めていたことは、よく知られている。

だが興味深いことに、麓の村々にとっては崇拝の対象は仙人たちであり、オヤシロさまではなかったと言う。麓の人々にとってはオヤシロさまはあくまでも、仙人たちの独自信仰に過ぎず、自分たちの崇めるべき存在だとは思わなかったらしい。

鬼が湧き出す鬼ヶ淵沼は、麓の人々にとっても恐ろしいものであったらしく、鬼が湧き出す事のないよう見守る仙人たちの存在を崇めていたのだと伝えられている。

この仙人崇拝は、崇る沼を諌める仙人を敬うもので、オヤシロさま信仰の、人と鬼との共存を願い融和の神を崇めるものとは、その性格を違える。だが根本的なものは同じであると考えられるだろう。

ここで沸く疑問は「崇る沼」である。仙人崇拝の前提として「沼」を崇らなくてはならないからである。過去に沼からガスが沸き、大きな災禍をもたらしたのではないかという説が有力である。
*本文中の「崇る沼」は「祟る沼」の誤記か?

TIPS SP.4『奉納の儀・無病の神酒』

鬼ヶ淵村の仙人を崇拝する麓の村の人々は、年に何度かの決められた日に、貢物を奉納したと言う。この貢物の引渡しは、鬼ヶ淵村ではなく、村と麓の中間地点で行なわれたとされ、古い文書ではこの場所を、人の世と鬼の世の境であると記している。


奉納は、世俗の穢れを絶ち、現世への妄執も絶った老人たちだけの手によって行なわれたという。これは、仙人たちには人食い鬼の血が混じっているため、若者、とりわけ若い女性の存在は彼らの食欲を刺激しかねないため、というのである。

なお、奉納の老人たちは貢物を納めた後、仙人たちに労いとして、神酒を振舞われたという。この神酒は、世俗の人間が触れられる数少ない仙人の力のひとつで、万病を癒し、長寿をもたらしてくれたという。そのため、その奉納には病床の老人を運び込むこともあったという。これこそが仙人崇拝の最大の理由かもしれない。

TIPS SP.5『穢れを絶ち、帰りては鬼を払う比良境』

禁足地である鬼ヶ淵村に、みだりに近づけば、仙人達に捕らえられ、食い殺されてしまうと言われていた。

そんな中、仙人たちと許されている唯一の接点が、人の世と鬼の境であった「比良境」と呼ばれる場所があったと記されている。この場所で仙人達は麓の村々からの貢物を受け取っていたらしい。

この「比良境」がどこにあったかは、研究者の間では諸説に分かれている。有力な説の1つは、興宮に現在する町名「平坂」が「比良境」の名残であると主張するのだが地理的には疑問が残る。

なお「比良境」は人と異なる世、つまり異界でもある鬼の世との接点であるため、みだりに立ち入れば、鬼に取り憑かれると恐れられたという。

仙人達もまた、この地に入る人間が穢れを持ち込むことを嫌ったため、「比良境」に訪れる人間は、楔にて現世の穢れを絶ち、帰りては、憑いた鬼を現世に持ち込まないため、身を清めたという。

TIPS SP.6『史上最悪の連続殺人との関連』

昭和13年に発生した、とある大量殺人事件が全国を震撼させた。犯人は、姦通の関係にあった女性数名とその家族、集落の人間その他、計30名を一夜にして殺害。最後には猟銃にて自害を遂げるという凄惨な事件だった。この事件は今日では風化しており、一般には忘れられている。

以下は異説であるが、犯人Tは父系に興宮、平坂町に住まう遠縁の親族を持つという。平坂町は興宮でもとりわけ、鬼の伝説の多く残る土地で、鬼が人に取り憑き惨劇を起こすとの迷信が根強い。平坂町ではこの鬼を、いわゆる疑心暗鬼と呼んでおり、人を疑る猜疑心が鬼を呼び寄せ体を乗っ取らせてしまうと言い伝えており、疑心暗鬼に囚われない、円満な家族関係を築くべしと伝えている。

前述の大量殺人事件も、女性関係のトラブルが原因とされており、その関連付けは興味深い。余談だが、平坂町では鬼は夫婦良縁の守り神で、夫婦の不貞を厳しく見守っているという。

TIPS SP.7『人食い鬼の百鬼夜行

太古の鬼ヶ淵村に対する麓の村々の反応は、2つに大別された。従順的であるか、忌避的であるかである。

雛見沢下流に位置し、鬼ヶ淵村に近かった村々では、鬼ヶ淵村の仙人たちを崇める、いわゆる仙人崇拝が根付いたが、それ以外のほとんどの土地では、彼らは人の姿をした恐ろしい鬼であると考えていた。人々は鬼を恐れ、忌避したと言う。

忌避的であり交流はまったくなく、しかもわずかの交流が、いわゆる「鬼隠し」の犠牲者を求めて鬼たちが押しかけて来ることのみだったためか、これらの地域では恐怖的な伝承が色濃く残っている。これらが昭和中期以降、特に取り沙汰されたため、差別土壌を作った可能性が高い。

現在は県庁所在地として栄える穀倉も、太古には小村であり、鬼ヶ淵村の鬼たちが人肉を求めて歩く行列を百鬼夜行と恐れたとの伝承が絵巻物にて残されている。

TIPS SP.8『雛見沢の由来と蛍』

雛見沢の地名は、村を貫く雛見沢(川名)に由来する。この名前は古く、鬼ヶ淵村と呼ばれた当時からすでに雛見沢と呼ばれていた。

雛見沢は水源地が村内にあることを考えると、このいささか拍子抜けの感の拭えない川名は、むしろ興味深いと言えるかもしれない。なぜなら、鬼ヶ淵村の名の由来が沼から溢れ出した鬼によるものなのに、その沼を水源地に含む沢の名が鬼の名を含まないからである。

全国的に有名な鬼伝説(桃太郎伝説)の岡山ですら、鬼が流した血が川となり血吸川の名を残しているくらいである。雛見沢の名は平凡に過ぎる。ちなみに、雛見沢ではかつて大量の蛍が見られたといい、蛍柱が天に昇る姿は神々しく、神が輝く鳥の姿を借りて天に帰ると例えられたらしい。

沼より生まれた幼虫が蛍となって天に帰る。蛍柱を鳥と見たため、その幼虫を雛と呼んだのかどうかは定かではない。
*雛=蛍の幼虫=沼より生まれたもの=鬼? 蛇足だが、蛍の幼虫は獰猛な肉食らしい。

TIPS SP.9『鉛玉弾きの秀正伝説』

信長に仕えた細川藤孝の下にいた、石田秀正という人物が鬼ヶ淵村出身ではないかと言われている。彼は鬼の父と人の母から生まれたかと囁かれ、鬼武者の異名をほしいままにしたという。その豪腕はまさに鬼そのもので、合戦にあっては人馬を
共に切り伏せ、火縄銃の鉛玉さえ切り伏せたと言う。

秀正は、自分には鬼の血が流れていると語り、若き日には鬼に心を許し人として恥ずべき生き様であったと告白する。その後、長い修行の果てにその鬼を屈服させ、鬼の力を自らのものとしたと言う。これは精神修行のことを指すと思われるが、鬼ヶ淵村の鬼伝説と組み合わさると興味深い。

天正15年の急征伐にて重症を負いその傷がもとで翌年に没した。遺言に従い、最後に使った刀は故郷に送り返されたという。その刀は現存し、公由家にて家宝として眠っていると言われる。

この刀は、刃の刃先に鉛玉が食い込んでおり、それこそが鉛玉をも切り伏せた秀正の神業の証拠であると言う。

全体像を俯瞰すると、何よりもまず重要なのは1990年代後半から2000年代前半にかけてが「自主制作アニメ」「同人ゲーム」「Web小説」勃興期だったという事。そして当時台頭した作家が2010年代のエンターテイメント業界を支えているという現実。

これはアメリカ文化史でいうとニューシネマ(New Hollywood)が終焉に向かいつつあった1970年代、ハリウッド業界やアメコミ大手出版社が苦境に陥る一方でインディーズ・レーベルやインディーズ的感性を持ち合わせた作家達が次々と台頭し、最終的にはそれを吸収する事でハリウッド業界やアメコミ大手出版社が復活を果たした歴史と重なってくるとは思いませんか?