まっかなトマトになっちゃいな!!
「君の名は」をラブストーリーとして見に行った客にこれを言いますか。
新海誠監督の新作アニメーション映画『君の名は。』が、記録的な大ヒットを続けています。公開10日間ですでに興行収入が38億円を突破したといいますから、これはもはや2010年代のアニメ界におけるひとつの「事件」といってよいでしょう。今年の夏はさまざまな意味で「平成の終わり」を実感させられるニュースが相次ぎましたが、まさにアニメ界においても、名実ともにいよいよ「ポストジブリ」の新時代が到来したことを感じさせるできごとです。
しかも注目すべきは、今回のヒットが、内容的にもスタジオジブリやスタジオ地図(細田守)のように、老若男女、幅広い層から支持されているというよりは、10~20代の若者世代、とりわけ女性層に特化して受けているらしいという点です。この『君の名は。』をめぐる現在の盛りあがりには、ゼロ年代から新海作品を観続けてきたアラサーのいち観客として、いろいろと感慨深いものがあります。
新海のアニメーション作品を観るうえで、ぜひ踏まえておきたいキーワードがふたつあります。ひとつは、「セカイ系」。もうひとつは、「美少女ゲーム」です。
このふたつはいずれも、後述するように相互に関係しあっており、いわゆる「ゼロ年代」(2000年代)のオタク系カルチャーの本質を考えるうえで絶対に欠かせません。すなわち、新海誠というアニメーション作家の独創性、新しさを理解するうえでほんとうに重要なのは、かれがゼロ年代という固有の時代、そしてアニメ以外のオタク系コンテンツという固有の領域とが交錯する地点で出現したイレギュラーの才能であり、だからこそ、たとえばジブリ(宮崎駿、高畑勲)から押井守、庵野秀明を経て細田守にいたるような、戦後日本アニメ史の正統的な文脈やレガシーをじつはほとんど共有していない、いわばアニメ界の「鬼っ子」的存在だという事実なのです。結論からいえば、だからこそ今回の『君の名は。』の「歴史的」大ヒットは、一方で、日本アニメ史における大きな「切断」になりうるのであり、また他方で、(ゼロ年代から新海を観てきた男性観客にとっては)新海個人のキャリアにとっても新たな転換点になったと思うのですね。
むしろ「切断」されるのは「ゼロ年代のオタク系カルチャーの本質は我々だけが把握していると主張するセカイ系評論」の方なんじゃないの?
五十嵐大介「魔女(2003年〜2005年)」Amazon書評より
実はマンガやアニメ好きの人間には、保守的な人間が多い。記号化され、パターン化された、自分が見慣れたものを読む、あるいは観る事で、安心したいという無意識の思考に凝り固まっている傾向が圧倒的に多い。ゆえに、見慣れないものに対する拒絶反応が強い。未知のものに出会うと、面白がるよりも先に警戒し、恐れるのである。「好奇心」よりも「排他的感情」が先に来るのである。そして、知識がなければ物事は理解できない、と思い込んでしまっている。
ニューアカ世代の評論家は既に20世紀の文化史も、2000年代の文化史も自分の都合に合う様に書き換えてきたので、2010年代のそれも同様に完全統制下に置かねば気が済まない様です。それが彼らにとっての自由主義、まさに「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」というニュアンスでの「自由主義」なのでしょう。
新海監督自身が「自分が影響を受けた作品の一覧」を惜しげもなく公開してるのですから、そこから出発すればいいだけとも思えるのですが…もしかしたらそういう立場に立たされるのは「不可侵の生得権たる自由の侵害」と言い立てる立場なの?
とりあえず一覧に上がってるのは「古事記」「万葉集」「古今和歌集」村上春樹「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」コニー・ウィリス「航路」五十嵐大介「魔女」「とらドラ」「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」あたり。
おそらくこのうち真っ先に再読したり再鑑賞すべきは「とらドラ」と「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」。何しろ両作品とも「君の名は」同様「世界観の中心にしっかりタナトス(Thanatos、死の誘惑)が居座るが、それが巧みにキャンディ・コーティングされているせいで奇跡的に成立しているラブストーリー」ときています。
*ただアニメ版「君の名は」は、この部分が巧みに排除されている。それゆえに観客は「死をもたらすティアマト彗星」から美しさしか感じられないという恐るべきジレンマに立たされる事に。
実はこれこそがジェーン・オスティン「ノーサンガー僧院(Northanger Abbey、執筆1798年、刊行1817年)」に端を発する「ラブコメの王道」だったりして。
ジェーン・オスティン「ノーサンガー僧院(Northanger Abbey、執筆1798年、刊行1817年)」
革命勃発でフランスからゴシック小説の新作が流入してこなくなり、仕方なく著者自らが書き始めた第一弾で、英国口語文学の嚆矢とされる。実は「なぜ田舎郷紳達は連日のように狩猟大会や舞踏会を開催するのか。それはもちろん隣人が大陸から流入する危険思想に被れてないか互いに監視し合う為である」とか「男は自らの自由意志に従って女に求婚したと信じたがる。その幻想を壊すことなく自らの望む相手に求婚させる手管をこそ女は磨くべきである」とか「ゴシック小説的状況に巻き込まれるヒロインに限って揃ってゴシック小説を読んでおらず、選んではいけない選択肢ばかり選ぶのは非現実的としか言いようがない」みたいなメタすれすれの辛辣な描写のオンパレード。刊行が死後となったのもおそらくそのせい。
*全体としては「ゴシック小説的雰囲気が漂うノーサンガー僧院に逗留したヒロインがゴシック小説的展開を期待して当てが外れ続ける」といった筋書きだが、実は彼女が次々と発見する「違和感」の正体は、そこで知り合って主な話し相手となる館の主の娘の駆け落ちの準備。そういう意味では「日常ミステリー」や「叙述トリック物」の元祖でもある。あれ、もしかして「飛騨女(ひだにょ)物」の要素も既にかなり出揃ってる?
「とらドラ!!(原作2006年〜2009年、アニメ化2008年〜2009年)」
原作最終巻となる10巻では、クライブ・バーカーが「血の本」で使った様な描写が頻出。
- この世で誰一人、見た事ない物が、あった。それは優しくて甘く、洞察でもし得た人間なら誰もが欲しがる代物だったが故に、誰もそれを実際には見た事がなかった。そう簡単には手に入らない様 に、世界そのものが隠したともいえる。だけど何時かは誰かが見付ける筈だ。それを手に入れる筈のたった一人の人間が、ちゃんと現れる筈なのだ。
*こういう記述について「運命の人なんてこの世に存在しません。そういう思い込みがあるだけで、どうしてそうなるかについては私に聞きなさい」と平然と言ってのけられる人間は…
- 手と手を繋ぎ合ってるだけでは充分では充分ではなかった。いっそその手に噛みつき、噛み千切り、飲み込んで一つになりたかった。
*大事なのはバランス感覚。突然の思いつきのせいで心臓の動悸が早まるのはOK(というか却って望ましい)。漫画的表現としては本当に噛んで歯型を残してもギリギリセーフ。ただし実際に噛み千切ってしまったら、ただのスプラッタ・ホラーになり果てちゃうから原則としてアウト。- いっそ二人で一体となり、世界中を隅々まで四本の手と四本の足を有する完全生物となって駆け巡りたかった。
*両性具有(androgynos)概念は魔術や異教秘儀が解禁となったルネサンス期、さらにはプラトン「響宴(Symposium、紀元前5世紀頃)」におけるアリストファネスの言説まで遡る。ちなみに「フェリーニのカサノバ(Casanova Di Federico Fellini、1976年)」でも幻灯機のスライドに関連図版がフリークス(奇形)の一種としてさりげなく混ざっている。
ここで絶対忘れてはならないのは18世紀に成立した以下の「線引き」。
- 「恋は確かに幻想に過ぎない。むしろだからこそ熱狂的に愛するか、苦悩によって死ぬかの二択しかないのだ」という逆説的名言を残したルソーの「ジュリ または新エロイーズ(Julie ou la Nouvelle Héloïse、1761年)」における「達観した男女の往復書簡」自体は、その背景にあった(この世の全ての知識を統合したいという欲求に基づく)フランス啓蒙主義が破綻して以降「なんだかよくわからない歴史的遺物」に変貌してしまう。
- 一方、ゲーテ「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers、1774年)」は「動員可能な認識力を限界まで駆使し、そういう風に世界を掌握しようとしてその綻びに悩む若者の日記」という体裁をとった為に今日なお現代人の再読に耐える(ただしそこで展開される恋愛感情はあまりにも独りよがりで、しかも最後は自殺で終わる。到底「キャンディ・コーディング」が十分とは言えずラブストーリーとしての寿命は尽きた)。
*現代人の感覚ではモンゴメリ「赤毛のアン(Anne of Green Gables、1908年)」後半、いわゆる「中二病編」の方がさらにしっくりくる。
「とらドラ!!」においても「恋は狂気だが、本当に取り返しがつかない狂気まで顕現させてはいけない」というバランス取りなら見て取れる。要するにエンターメント作品の起源は見世物興行。あえて綱渡りや空中ブランコやナイフ投げの様な危険に挑み、危なげなく成功させるからこそ「興行主と観客のWin-Win関係」が成立するという次第。
*ちなみにヒロインの奇矯な振る舞いの根底には実母との確執があったが、いざ正面から向かい合うと多くが「気のせい」だった事が明らかとなってハッピーエンドに向かう。
「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない(2011年)」
物語類型的には「牡丹灯籠」と同タイプ。しかも小泉八雲が日本で収集した階段仕立ての翻案バージョンでなく、オリジナルの中国志怪小説版(「剪灯新話」収録の「牡丹燈記」)の方。
田中貢太郎 牡丹燈記こちらのバージョンでは主人公が化けて出たヒロインに「彼岸の世界」に連れ込まれるのは物語の発端に過ぎない。そこからは悪戯の度が過ぎて強力な道士に封印されるまで遊び暮らす毎日が続くのである。ゴーティエ「死霊の恋(La Morte Amoureuse、1836年)」もほぼ同じ構成。共通項は「主人公が駄目人間だからヒロインに化けて出る余地が生じた」「本物の駄目人間はそのまま彼岸に連れて行かれてしまう」という辺りにタナトス(Thanatos、死の誘惑)が潜んでいる点。
*この物語類型と表裏一体をなすのが「現実世界の拘束に疲れ果て、一人密かにタナトス(Thanatos、死の誘惑)を抱えて苦しむヒロインの前に、そんな杞憂など吹き飛ばしてしまう様な強烈な行動原理の人物が現れる」パターン。ミュージシャンを目指すロック狂のおてんばニッキーと政治家を父に持つ孤独な少女パメラの百合物スレスレの邂逅を描く「タイムズ・スクェア(Times Square、1981年)」、「西部劇の形式を踏襲したロック映画ながら人が誰も死なない珍しいアクション映画」なる訳のわからない評価を得た「ストリート・オブ・ファイヤー(Streets of Fire、1984年)」などが代表格とされるが、将来有望な海軍士官養成学校のパイロット候補生に群がる女達を描いた「愛と青春の旅だち(An Officer and a Gentleman、1982年)」にも同種のジレンマがまた違った形で織り込まれている。それは川原礫「ソードアートオンライン」におけるアスナとキリトの関係、「アクセルワールド」におけるハルユキと黒雪姫の関係にも見て取れるし「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」の主人公「じんたん」の行動奇跡もこの領域に足を踏み込んでいる。そういえば「君の名は」のヒロインが「来世は東京のイケメンに生まれ変わりたい!!」と叫ぶのも、原則として同種のジレンマのせいだった。ただ身体交換した相手は「その手を原則としておっぱいを揉む事と糸守町の思いでスケッチにしか使わない」立花瀧だった…あれ? これってもしかして「じんたん」スタンス? その一方でその反社会的ルサンチマンはテッシーに押し付けられる事に…「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」の主軸は「(昔事故死した)ヒロインが何故今更化けて出たのか」について彼女の死に責任を感じる当時の友人達が解き明かすミステリー部分にある。結論からいえば「(ダメ人間化しつつある)主人公の母との約束」こそがヒロインの化けて出た発端で、その母がヒロインに伝えた言葉ゆえに(ダメ人間化しつつあった)主人公は彼岸に連れ去られずに済む。そして残りのメンバーの「良心の呵責」はそれぞれ杞憂に過ぎなかった事が明らかとなる。
*「異類婚と彼岸と此岸の交流は不幸な結果しかもたらさない」なる物語文法が2000年代後半に崩壊して以降現れた「キャンディコーティングがしっかりしている」代表作の一つ。
そういえば最源流の「ノーサンガー僧院」はともかく「母親」が「作品石の軸となるタナトス(Thanatos、死の誘惑)とそのキャンディコーティング」の要となってる作品が多いのが気になります。「君の名は」における「ヒロインの母」宮水二葉(アニメ版未登場)。そして五十嵐大介「海獣の子供(2006年〜2011年)」における「ヒロインの母」加奈子。実はあえてリストから外されている「海獣の子供」こそ案外「君の名は」を読み解く重要な鍵だったりして。
*「海獣の子供」こそ案外「君の名は」を読み解く重要な鍵だったりして…ただし作品全体におけるキャンディコーティングが不十分というか、むしろ逆に全体の基調としては「イリヤの空、UFOの夏(2001年〜2003年)」の秋山瑞人作品同様にブルース・スターリング風ポストヒューマンSF色全開の作品。迂闊に一緒くたに論じようとすると間違いなく大変な事になる。
こういった具合にラブコメ作品に独特の「出汁」を利かすタナトス(Thanatos、死の誘惑)要素。物語文法上「破滅の足音を間近に感じ続けた末のハッピーエンドだから心底喜べる」といった役割を担った「出汁」に過ぎないので「(幾らでも交換可能な)マクガフィン」と断言する向きも。
- 実際、シェークスピア「ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、 1595年前後)」における「教皇派(Guelphs)と皇帝派(Ghibellines)の対立」とか「ホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世(Friedrich II., 在位1220年〜1250年)/シチリア王フェデリーコ1世(Federico I., 在位1197年〜1250年)の暗躍」といった背景設定はまさにその典型。
*例えば「ウエスト・サイド物語(West Side Story、初演1957年、映画化1961年)みたいにニューヨークのウエスト・サイドにおけるポーランド系アメリカ人の少年非行グループ「ジェッツ(ジェット団)」と、新参のプエルトリコ系アメリカ人の少年非行グループ「シャークス(シャーク団)」の対立に置き換えても何ら問題なし。
- 実際「君の名は」も「海獣の子供」の影響下にあるにせよ「海の神話体系」が「星の神話体系」に総入れ替えされている。
*ビジュアル的に、物語文法的に不可欠なのは「ピクチャレスク(Picturesque、人間の理性が理解を拒む戦慄と荘厳美の有り得ない形での同居)感覚の源泉となる事」のみとも。
これは思うより厄介な問題だったりして。
マクガフィン(MacGuffin, McGuffin)
ヒッチコック監督の作劇理論における「登場人物への動機付けや話を進めるために用いられる小道具」。そのジャンルでは陳腐なものが選ばれる事が多く、作品構造上いくらでも交換が効く。
ここで興味深いのが国際SNS上にはディズニー作品やジブリ作品と併せ、新海誠作品、米澤穂信「古典部シリーズ」、川原礫「ソードアート・オンライン」をといった2000年代前半より活躍を始めた作家の作品をまとめて愛でている女子コミュニティなるものが実在する事。彼女たちの認識に「セカイ系」なんて概念は最初から存在してないんですね。ソーカル事件(1994年)によってポスト構造主義やポストモダンの概念がちゃんと完全駆逐された「全く別の時間軸」…
そしてこの世界において共通のチェックポイントとなってるのは「手の描写」。
*「素敵な手を見ると撫で回したり噛み付いたりしたくなるでしょ?」とか「ぼこっと浮き出た血管は、たまらなくセクシー。血管をプニプニするのが大好き」とか…
回覧状況を見てる限り、性別と無関係に「手が何かを成し遂げるのが好き」とか「手触りを確かめるのが好き」という側面も。何が「交換可能」で何が「交換不可能」か、ここから透けて見えてくる? 要するに「自分の五感で感じられる事しか信じれれなくなった身体の時代(1990年代後半)」「死に危険にさらされる事でしか生きてる実感が回復出来なかったデスゲームの時代(1990年代末〜2000年代前半)」の次に何が来たのかという話ですね。2010年代から振り返るとその答えが「セカイ系」や「美少女ゲーム系」とはならない事だけは確かなのです。
*これは戦前から1950年代にかけての日本推理小説の世界について、1970年のリバイバルによって江戸川乱歩、横溝正史、夢野久作といった個性派以外を忘却する形でのコンセンサスが成立したのと近い動きとも。
*そしてこうした動きと全く連動せず独自展開を続けてきたのが「私小説の世界」。
なぜ私小説は勝利したか?-3分でわかる身も蓋もない近代日本文学史 読書猿Classic: between / beyond readers
それまで日本文学界を権威主義的に牛耳ってきた尾崎紅葉が亡くなると、作家が自由業になる時代がやってきました。師弟関係からも労使関係からも〈解放〉された彼らに残ったのは(意識の上では)自分の家族関係だけとなったのです。そこで彼らは社会についてではなく、自分の家族(年長の者は自分の妻子や愛人との関係、年少の者は自分の親との関係)についてだけ書くようになりました。
困ったことに、自分や自分の家族についてだけ書いた私小説は売れてしまいました。私小説の登場が、ちょうど工業化が進んだり学校が増えたりして読書人口が増加するタイミングとマッチしていたせいです。
- かつては上の学校へ進むのは、人口全体から見ればごく一部のエリートであり、本を書くのも読むのももっぱらこの人たちでした。
- しかし新しく読書人に加わったのは、学校は出たもののエリートにはなれないインテリたちでした。学校が増えたおかげで増加したインテリでしたが、働き口はそれに見合って増えた訳ではありません。学校は出たけれど、思ったほど恵まれた職業につけない人が大部分であり、こうした不満階層が新しい読書人の中心となったのです。そして不本意な職業につき、生活のためには節を曲げていかねばならない不満なインテリたちは、師弟関係からも労使関係からも〈解放〉されて筆一本で生活できるようになった作家というものに、自分の果たせなかった理想の生活を見い出したのでした(今でもこうしたイメージを抱いて作家を目指す人がいますね)。
こうして作家の生活を綴った私小説の読者層が成立。彼らが買い支えることで、自由業としての私小説作家の生活は維持されたのでした。
こうして新聞社に勤めて給料をもらわなくても作品が売れて食っていけるようになった作家たちは、自分たち同業者の小社会、すなわち文壇をつくります。文壇では、自分たちプロの作家が書くような私小説こそが文学なりという認識が高まりました。
赤裸々告白系の私小説は、志向として反=技巧的でした。節を曲げて生きなければならない不満インテリである読者は、作家の〈嘘をつかなくても生きられる生活〉にあこがれたので、文章の技巧より〈ありのまま〉に実際の生活が書いてあることを求めました。しかし読者は残酷なもので、ただ赤裸々であることに飽きると、より強い刺激を求めていきます。徳田秋声(この人もかつて紅葉に冷や飯を食わされた一人)のように、あとで波乱万丈の私小説を書くために、実験としてヤバい恋愛をして、わざわざ人生をメチャクチャにする人まで現れました。*そして1920年代から1930年代にかけて(大正時代の後半〜昭和初期)マルクスボーイやエンゲルスガールが世に溢れると、彼らの中からさえ、その立場からロマン・ロランの「ジャン・クリストフ(Jean-Christophe、1904年〜1912年)」よろしく「破滅から世界を救済せんとするアジテーション」を作中に込める者達が現れた。宮沢賢治の様な児童文学作家でさえ、棺桶に片足突っ込んだ様な作品を残している。マルクスのいう「我々が自らの自由意志や個性であると信じて疑わないそれは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」とはまさにこれ。こうして「私小説か社会小説の二択」の伝統が始まる。ある意味この状況こそが「セカイ系作品」や「なろう系作品」の真祖とも。
西田幾多郎「マルクスボーイと人格的自由
それにしても「君の名は」の男主人公たる立花瀧の「手」って、本当におっぱい揉むのと糸守町を「思い出スケッチ」する為にしか使われない(三つ編みも全然覚えない)。
こんな事では「風立ちぬ(2013年)」の堀越二郎や「言の葉の庭」の秋月孝雄の「時として狂気さえ孕む創造の手」に到底太刀打ちできないのでは? だがそれがいい?