諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ディズニー・プリンセス(Disney Princes)を巡る複雑怪奇な歴史

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「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた(Song of Sea、2014年)」見てきました。

欧米で「ポストジブリ」といったら割と「シークレット・オブ・ケルズ(The Secret of Kells、2009年)」やこの作品を指します。ディズニーやジブリと並ぶアカデミー賞のアニメーション部門争奪戦の常連でしたしね。

どこにオリジナリティが認められてるのか? そうした話に入る前に2010年代アニメーション映画の国際展開について振り返らないといけません。

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日本では最近、新海誠が「君の名は(2016年)」で「ポストジブリ」の域に入ったかが盛んに議論されています。ジブリ作品はファミリー層からも受容されていたけど「君の名は(2016年)」は若い女性層の支持しか集まっていないのが問題なのだとか。

国際SNS上から俯瞰すると景色が随分と違って見えます。

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①「若い女性の支持しか集まっていない」というが、実は国際的にはこの層こそ世界中のアニメーション業界が激しい争奪戦を繰り広げてる主戦場だったりする。そもそもの発端はこの分野におけるディズニーの独占状態が破れた事。

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米国女子に蔓延する「お姫様」シンドローム まるでAKB48?ディズニーのプリンセス商法が大当たり(JBPress)

お姫様ブームの流れを決定づけたのは、ディズニーの新戦略だった。


ディズニーの関連商品を扱う、ディズニー・コンシュマー・プロダクツ・グループは、1990年代後半から売り上げが伸び悩み、とうとう99年には前年比売り上げ3割減という危機に陥った。事態打開のために、ナイキからアンディー・ムーニー氏をヘッドハンティングし、新社長として迎え入れた。

ムーニー氏は着任してすぐに「ディズニー・オン・アイス」という、ディズニーキャラクターによるスケートショーを見に行った。

その時、会場を埋め尽くす思い思いのディズニー映画に出てくるお姫様の格好をした女の子の群衆を目にした。

彼女たちが着ていたのは、ディズニー商品ではなく、手作りやハロウィンの衣装に自ら手を加えたものだった。

そこでムーニー氏はひらめいた。「これをディズニー商品として売り出すこと。そして、これまでのディズニー映画に出てきたお姫様やヒロインを『ディズニープリンセス』というチームにして新鮮さを加え、新しくマーケティングをすること」

そこで、白雪姫、シンデレラ、オーロラ姫(「眠れる森の美女」)、アリエル(「リトル・マーメイド」)、ベル(「美女と野獣」)、ジャスミン(「アラジン」)、ポカホンタス、ムーランの8姫が選ばれ、最初のプリンセスチームとして売り出されることになった。

宣伝戦略はなし。ムーニー氏は必要ないと感じた。プリンセスを使用するにあたって、どの色を使うか、どんなルールで使用していいかというスタンダードを作り、できるだけ多くの会社とライセンス契約を結び、できるだけ多くの製品を作ってもらう。女の子が映画のお姫様に自身を投影できるものであればなんでもいいと契約会社に伝えろ、と部下たちに指令したという。

作戦は見事に当たった。ディズニープリンセスのラインは、商品発売と同時に飛ぶように売れた。10年強で、ディズニープリンセス商品だけで2万6000種類が市場に出回り、売り上げは年間40億ドルという驚異的な成功を収めたのである。

チームのメンバーには新たにティアナ(「プリンセスと魔法のキス」)、ラプンツェル(「塔の上のラプンツェル」)が加わっている。発売直前まで加わっていたティンカーベル(「ピーターパン」)はメンバーから外され、ポカホンタスとムーランは、商品によっては「お姫様」性が低いため外されることもある。

「お姫様」たちをひとまとめにしてチームとして売り出すコンセプトは、日本のアイドルグループ、AKB48にも通じるものがあるのだ。

  •  最初の躓きはこの展開に国際的二次創作集団(DevianART及びPixivを本拠地とする絵師集団およびその投稿画像の回覧層)が思いっ切り食いついた事かもしれない。ゼロ年代に入ってからインターネットの関心空間化が進行したせいで「ディズニー・プリンセスの主ターゲット層はキッズ層なのだから、そんなオタク連中なんて切り捨ててしまって良い」とも言ってられなくなった。さすがに「Desny Princesも結成しろ」とか「服装交換や性別交換もやれ」とか「(「眠れる森の美女(Sleeping Beauty、1959年)」の)オーロラ姫を外せ」とか「(「ノートルダムの鐘(The Hunchback of Notre Dame、1996年)」のエスメラルダや(「ヘラクレス(Hercules、1997年)」の)メガラを加えろ」なんて無理難題に応えるのは難しそうだが「Disney PrincessのEthnic Group構成はどうあるべきか」といったマーケティング情報は今やここからしか得られないとも。
    *最近は「モアナと伝説の海(moana)」のmoanaの扱いが主戦場。「ハワイにはもう「リロ・アンド・スティッチLilo & Stitch、2002年)」のリロ&ナニ姉妹がいるじゃん」とか「インド人ですけど応援していいですか?」とか「東南アジア人ですけど応援していいですか?」とか。

  • とはいえ、むしろディズニーのマーチャンダイズ部門は「インターネット上における関心空間の成立」をファン層との関係を密にする好機として利用してきた方である(スペシャル・イベントに群がって率先してお金を落としてくれるのも彼女達だからだ。国際経済論上のOtakuは「お金は市場社会における投票権」なる覚悟を決めた人々の事を言う)。問題は映画制作部門。確かに「塔の上のラプンツェル(Tangled 、2010年)」でのラプンツェル(Rapunzel)とフリン・ライダー(Flynn Rider)のドタバタ・ラブコメは大絶賛を受けた。しかしそれ以降は? 母娘の確執に焦点を絞って「男は全員腑抜け」という結論に至る「メリダとおそろしの森(Brave、2012年)」、すべてのトラブルの原因たるアナに言い寄ってきたハンス王子はとんでもない「大悪人」で最後投獄されてしまう「アナと雪の女王(Frozen、2013年)」、そして男はそれ自体悪の象徴であり、塔の上から突き落として殺される事でハッピーエンドが訪れる「マレフィセント(Maleficent、2014年)」。
    *ハンス王子は「悪人」ではなく「ただの鏡」とも。

    作品の売上や評価とは無関係に二次創作世界では「ディズニーはウルトラ・フェミニストに乗っ取られた」「まるで体に良いからと言い張って口にブロッコリーを押し込む母親みたいになり果ててしまった。しかもここでいうブロッコリーは、全ての女は全ての男を憎んで倒せという政治的プロパガンダなのだ」と散々の評価。幸い「ズートピア(Zootopia、2016年)」に登場する「夢を忘れたキツネ詐欺師ニック・ワイルド」は「アラジン(Aladdin、1992年)」の「コソ泥」アラジンや塔の上のラプンツェル(Tangled 、2010年)」の「コソ泥」フリン・ライダーの遺伝子を継承するプリンセスの引き立て役として認められ、状況は少し落ち着きを取り戻している。
    *「マレフィセント」と「ズートピア」の狭間では「べイマックス(Big Hero 6、 2014年)」のべイマックスのフカフカ感を「これが本当の母性愛だっ!!」と絶賛したり、ヒロとタダシのカップリングに陶酔したりしていた。江戸時代日本における出版統制が「触手物」とか「妖怪強姦物」とか「男の娘」を後世に残した様に、この状態がこのまま続いたらアメリカ文化にも何かとんでもない影響が残ったかもしれない。

  • こうしたディズニー映画の迷走状態につけ込む形で急速に支持率を拡大させたのが「千と千尋の神隠し(Spirited Away、2001年)」におけるハク&千尋、「ハウルの動く城(Howl's Moving Castle、2004年)」におけるハウル&ソフィー、「崖の上のポニョ(Ponyo、2008年)」における宗介&ポニョ、「風立ちぬ(The Wind Rises、2013年)」におけるる堀越二郎&菜穂子のカップル、そして新海誠監督の「秒速5センチメートル(2007年)」「言の葉の庭(2013年)」などであった。ジブリ作品関連投稿はカップル描写中心、新海誠監督作品関連投稿は(フェティズムすら感じる)情景描写中心といった差はあるが、この評価軸においてはジブリ作品と新海誠監督作品が並列的に「ポスト・ディズニー」というポジションにあった事になる。
    *この状況を下準備したのは「下手なアメリカの青春TVドラマより面白い」という評価を勝ち取った「とらドラ!(原作2006年〜2009年、アニメ2008年〜2009年)」や「化物語(原作2006年、アニメ化2009年)」とされる。そもそも「巧みにタナトス(Thanatos、死の誘惑)をキャンディーコーティングしたラブストーリーがヒットする」なる原理原則は、その特定のバランス感覚を含め1980年代前半にアメリカの青春ロック映画が打ち立てた原理原則の様な気もする。要するに時代を問わずアメリカ女子はそういうのが大好物なのであろう。

  • こうした流れの中で最も興味深い展開を見せたのが「氷菓(原作2000年〜、アニメ化2012年)」。それはそもそもヒロインの「豪農の娘」千反田江留に対する反感表明から始まった。何しろ彼女らは「(「眠れる森の美女(Sleeping Beauty、1959年)」の)オーロラ姫をDisney Princessから外せ」と主張するほど「身分と財産に恵まれたお嬢様が、当人は何の試練も潜り抜ける事なくハッピーエンドを迎える物語」に我慢ならないのである(逆に「一旦転落してたり現状に納得してないお嬢様の起死回生の努力」は大好きで「とらドラ!!」の逢坂大河、「化物語」の戦場ヶ原ひたぎ、「塔の上のラプンツェル」のラプンツェルはこの条件を満たしていた)。しかし、その立場ゆえに最終回における以下のやり取りには完全にやられてしまった。

    米沢穂信「古典部」シリーズ第四巻「遠回りする雛」より

    縁側に腰掛けたまま、千反田は両手を天に広げてみせた。空はもうほとんど夜で、星もいくつか見えている。
    *アニメでは自転車を引いて帰る場面に変更されていた。

    「見てください、折木さん。ここがわたしの場所です。どうです、水と土しかありません。人々も段々老い疲れてきています。山々は整然と植林されてますが、商品価値としてはどうでしょう? わたしはここを最高に美しい場所だとは思いません。可能性に満ちてるとも思ってません。でも…」

    腕を降ろし、ついでに目も伏せて、千反田はつぶやいた。

    「…でも折木さんにどうしても紹介したかったんです…」

    この時、俺はかねて抱いてきた疑問について、一つの答えを得た。

    俺はこう言おうとしたのだ。「ところで御前があきらめた経営戦略眼についてだが、俺が修めるというのはどうだろう?」

    突如として魔術的リアリズムのごとく顕現する「姫様と騎士」の顕現。当時は「もしかしたら自分達が本当に見たかったディズニー王国物の結末とはこれだったのかもしれない」「あの目が欲しい。あの目がきっと男を思いのままに動かすのよ」なんて意見が数日にわたってコミュニティ全体を覆い尽くす勢いて飛び交った。こういう展開がどこまで影響を与えたか不明だが「アナと雪の女王(Frozen、2013年)」「べイマックス(Big Hero 6、 2014年)」「ズートピア(Zootopia、2016年)」では「(「氷菓」シリーズの共通テーマである)個人の能力が社会に与える影響」に作品の焦点が推移し(コソ泥遺伝子を受け継ぐ)ニックも「(その能力が更生に際しても役立つ)有能な詐欺師」への昇格を果たしている。
    *「風立ちぬ」のヒロイン菜穂子があまりにも男にとって都合良すぎる設定なので「あれはきっと療養所に残してきた男がいる」という噂が流れた様に、彼女達には「自分が見たい筋書き」を積極的に回覧したがる傾向が見られる。マーケット担当者やクリエーターがそういうのを熟知しているのを承知しているのである。流石に映画「レ・ミゼラブル(Les Misérables、2012年)」のラストについて瀕死のジャン・バルジャンヒュー・ジャックマン)の前にジャベール警部(ラッセル・クロウ)の幽霊が現れて「♪君を本当に理解したのは俺だけ〜」「♪そうさ、俺を本当に理解したのは君だけ〜」と合唱しながら二人で昇天していくエンドが流布した時はのけぞったけど(あのフランス国歌みたいなメインテーマで物語が大団円っぽく終わるのがよほど嫌だったらしい。さすがは「ハンガー・ゲーム」も「進撃の巨人」も話が革命に向かった途端に切った連中だけの事はある?)

    *「突然魔術的リアリズムのごとく」…「魔術的リアリズムとは、要するにすでに亡び去って復活のありえない何かへの憧憬心。つまり、むしろ逆説的に「女子が制約も多い姫様役なんて真っ平御免と思う様になった様に、男子も騎士役なんて真っ平御免と思う様になったのだ」という現実に直面したという側面も確実にあったという事。いずれにせよ、2010年代に入ると「アメリカにおける姫様ブーム」なんてメディア・プロパガンダの世界だけにしか存在しない物となり果ててしまった。
    *「個人の能力が社会に与える影響」…正直、直接的影響力は「風立ちぬ(The Wind Rises、2013年)」の堀越二郎や「言の葉の庭(2013年)」の秋月孝雄の方が大きかったかもしれない。あとアメリカ政府が「製造業を本国に戻そう」キャンペーンを展開した事も。

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こうして全体像を俯瞰してみると「君の名は」に関する国際評価、男主人公の「手」がおっぱいを揉む事と喪われた町をスケッチする事にしか使われず、女主人公の「宮水家の女としての能力」が 繭五郎の大火による重要記録逸失のせいでほとんど制御不能な辺りが「だらしない」と減点対象になる可能性もあるのですね、

もちろん逆に「そのせいで二人とも一般人に近づいて親近感がもてる」というプラス評価が入る可能性もあるのですが…さて、どうなる?