諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【高慢と偏見とゾンビ】日本の文学作品で試みるなら?

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高慢と偏見とゾンビ」とは、要するに「高慢と偏見(Pride and Prejudice、1813年)」ではサラっと流されてる「大陸で続くナポレオン戦争と国内に溢れかえる貧民の群れ」の部分をゾンビ成分で補完した「濃縮還元式果汁100飲料」みたいな作品。

*海外では映画後半のとある改変が評判悪い。「誰も究極的には善人でも悪人でもない。何が善で何が悪かさえ立場によっては変わる」なるジェーン・オスティン全作品を貫く哲学に反してるというのである。

日本で同じ事を試みるとしたら、まず第一候補に上がるのが、紫式部源氏物語(10世紀成立)」辺りかな?

①「バイオレンス公卿の無双状態」武家が天敵として台頭してくる以前の時代だったので、公卿の横暴に歯止めが掛からなかった。殴る、蹴る、集団暴行する、強姦する、略奪する、家を破壊する、手下に殴り込みさせる…
*「平家物語」序盤にもその片鱗が疑える。そもそも「源氏物語」そのものの中でも牛車の牛を引く牛飼童(うしかいわらわ)やら、牛車の両側につく車副(くるまぞい)やらが、結構荒っぽい事をやってのけている。

恐ろしいのが、1024年の花山法皇の皇女が盗賊に殺害され、遺骸が犬に喰われるという殺人事件。皇女が路上で殺され、野良犬にズタズタに喰い散らかされた猟奇事件です。犯人は被害者の顔見知りであるという噂がささやかれたものの、天皇家の性的スキャンダルや貴族社会の権力闘争などで真相は闇の中。大事件にもかかわず首謀者の名前は現在も分かっていません。こんな仰天エピソードがわんさか。平安貴公子も女房も、喧嘩上等、かかってこんかい! 自宅で、路上で、天皇の御前で、大暴れ。

②立身出世が全ての公卿達がひたすら繰り返し続ける「仁義なき戦い…同時代を扱った「大鏡」に詳しい。そして大鏡」といったら「母乳事件」。

藤原 綏子(ふじわら の すいし・やすこ、974年〜1004年)

平安時代中期、三条天皇皇太子時代の妃。公式の身分は正二位尚侍。摂政太政大臣藤原兼家の三女で、母は「対の御方」とよばれて兼家に寵愛された従三位藤原国章の娘。

  • 永延元年(987年)9月、14歳で尚侍となり麗景殿を局とし、永祚元年(989年)12月9日、16歳で2歳年下の甥(異母姉超子の子)・東宮居貞親王(のちの三条天皇)に参入した(東宮元服の夜に添臥として参上したともいわれる)。

  • 容貌が美しく、素直な気質で、最初は東宮に寵愛されたが、ふとしたきっかけで寵愛を失い、土御門西洞院の里第に籠もるようになった。

  • ついには村上天皇の皇孫で好色の名高い弾正大弼・源頼定と密通事件を起こすまでになり、疑わしく思った東宮は綏子の異母兄道長に実検を命じた。道長は綏子のもとに参上するや、いきなり彼女の着ていた衣を荒っぽく開いて乳房を捻り、母乳が迸ったのを確認して帰参し、東宮に密通懐妊の事実を啓上した。東宮は頼定を憎らしく思う上で、「道長もそこまでしなくてもよかったのに」と、異母兄の去った後で大層泣いたという綏子の心中を思いやって少し不憫にも思ったという。一件は長徳年間(995年-999年)の出来事であるらしく、綏子と頼定の間に生まれた男の子は後に僧都となった頼賢であるといわれている。

長保元年(999年)正月、正二位に叙される。寛弘元年(1004年)2月3日に重篤に陥り、意識不明となったまま7日夜剃髪、31歳で薨去

 ③「この世をば/わが世とぞ思ふ/望月の/欠けたることも/なしと思へば」…なまじ当人の手厚いパトロネージュ(patronage)対象となっていたせいか、紫式部和泉式部といった当時を代表する女流文学者達は藤原道長(966年〜1028年)達についてあまり多くを語っていない。また「大鏡」もまた、藤原摂関家が権力の頂点へと上り詰めていく時代を扱いながら「どうしてそうなったかは誰もが考えつく通り」とし、あくまで詳細の分析を拒絶し抜く。それでは完全にお手上げかというと、そうでもない。

 

  • 当時の記録には估価法(沽価法)への言及が目立つ估価法(沽価法)とは古代から中世にかけての日本において、朝廷・国衙鎌倉幕府などが市場における公定価格及び物品の換算率(估価)を定めた法律。租税の物納や日本国外との貿易の価格や交換の基準としても用いられた。そして藤原摂関家が権力の頂点へと上り詰めていく時代は、太宰府貿易の決済に奥州の金が用いられていく時代に該当する。詳細は不明ながら、当時の藤原摂関家がこうしたプロセスに積極的に関与していく形で自らの経済的基盤を強化していった事だけはほぼ間違いない。
    *「詳細は不明」…何せ当時の記述は「大鏡」を特徴付ける「高貴なる人が高貴なのは最初から高貴だったからです」式の帯剣貴族的トートロジーに満ちている。共産主義圏における大本営発表の如き「こうした藤原道長様の機知によって日本はそれまでの経済的混乱から一気に解放されたのです」といった記述をそのまま鵜呑みにする事は出来ない。しかしその一方で当時通信網が急速に発達して朝廷の定めた估価が日本全国に一斉に伝わる仕組みが確立した事、奥州からの「金と馬」の流入太宰府貿易や国内交易を活性させた事自体については他の物証も現存する。また当時の文学の解析からは「藤原道長太宰府経由で輸入される名物を独占し、その下賜者として振る舞う事で味方陣営を拡大していった」という側面も浮かび上がってくるという。

  • 日本における「上からの自由主義」の達成…「大鏡」を特徴付ける「高貴なる人が高貴なのは最初から高貴だったからです」式の帯剣貴族的トートロジー。実はそれ自体は「メリュジーヌ物語、あるいはリュジニャン一族の物語(Le roman de Mélusine ou histoire de Lusignan、散文版1397年、韻文版1401年以降)」、そこで描かれた物語をも取り込む形で中世フランスの王族ベリー公ジャン1世がランベール兄弟制作させた華麗な装飾写本「ベリー公のいとも豪華なる時祷書(Les Très Riches Heures du Duc de Berry)」の世界、さらにはホイジンガが「中世の秋(1919年)」で活写した「公益同盟戦争(1465年〜1477年)の英雄」ブルゴーニュ公シャルル(突進公)を巡る数々のエピソードなどにも見て取れる。どちらも背景にあったのは「(中央集権強化に反対する大貴族連合が奉じた)領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」で、その敗北がイングランドにおいては(薔薇戦争(1455年〜1485年/1487年)の内ゲバで凋落した英国大諸侯に成り代って王室の藩屏として急浮上してきた)ジェントリー階層の大抜擢、フランス絶対王政下においては(梲(うだつ)の上がらない地方貴族に対する)宮廷貴族の繁栄へとつながっていったのだった。
    Zorac歴史サイト - フランスの貴族 - 爵位・称号など(1)

     結局、絶対王政では王の前では平等であり、王の好意だけが人のランクを作るのに対して、その対極となったドイツでは貴族たちが特権を守るために血統を重視した厳しいランクを作り、イギリスでは王が貴族を統制するために爵位を管理したと言えよう。

    Zorac歴史サイト - フランス公益同盟(1) - 封建諸侯の抵抗

     貴族の私的な連合のどこが公共の利益なのかというと、大貴族達は自分達こそがフランスを構成する公であるため、国王が権力を独占することは公益に反するという理屈である。この公共には、それ以下の第3身分(平民)は全く考慮されていない。

    フランスという国は、かっては大貴族の領土の集合体であり、それを調整するのが王の役割だった。13世紀以降に王権が強化され、主要な地域が王領と親王領(アパナージュ)になっても、それらを与えられた王族は依然として彼等の領土が半独立的な国で王の権限が及ばないと考えていた。

    こうした欧州の展開に比べると、日本のそれは信じられないくらいラディカル。なにしろ古墳時代最初期(3世紀〜4世紀後半)に結成された豪族連合が4世紀後半以降(安定した間隔で大王墓を築造し続ける)ヤマト王権へと推移。さらに中華王朝から律令制を導入する過程で権力闘争の主体が支族から一族に遷移して「皇室と血統的に不可分な形で癒着した」藤原摂関家による専制時代を現出させてしまった訳で。
    *実はそもそも(712年に皇室に献上された)古事記や(720年に完成した)日本書紀新撰姓氏録(815年)の編纂過程そのものが日本氏族社会の由来を皇室との関係を基準に統合しようという意欲的試みだったのである。それ自体完全に成功した訳ではないが、そうした試みの達成を待つまでもなく、律令制浸透によって導入によって朝廷を巡る権力闘争の主体が氏族から源平藤橘といった名族に推移。最終的に「藤原氏にあらねば人にあらず」という状況が現出する事に。
    『新撰姓氏録』氏族一覧

  • 格式の統制者(Ruler)なる地位の樹立…皇室との縁戚関係によって朝廷を構成する貴族間の関係についてフリーハンド権を獲得した藤原道長。彼はこの好機を逃す事なく「宮廷行事の遂行」という観点からそれぞれの家の格式と職能を決定。自らの子孫(御堂流)のみが摂関職を代々世襲し、本流から五摂家と九清華のうち三家(花山院・大炊御門・醍醐)を輩出する体制を基礎付けた。晩年は浄土教に深く帰依して自ら法成寺を建立したが、その際も普請事業を各勢力に細分化して発注し、宗教行事の運営も各仏教教団に分割委託する事で互いに競わせつつイニチアシブを維持し続ける事に成功している。
    *この展開は二つの重要な足跡を後世に残した。一つは格式決定によって公卿間の内紛が治ると彼らの実際の政治への関心もまた薄れてしまった事。そしてその裁定者としての巧みな振る舞いが院政期を通じて武家政権にも継承されていったという事。とどのつまり「この世をば/わが世とぞ思ふ/望月の/欠けたることも/なしと思へば」と詠んだ藤原道長の設計した権力構造のグランドデザインは、ある意味なんと「版籍奉還(1969年)」「廃藩置県と藩債処分(1871年)」「秩禄処分(1876年)」といった一連の措置によって江戸幕藩体制が解体するまで存続した事になる。

 まぁエンターテイメント作品として楽しめる仕上がりに持っていけるかは別として「源氏物語がサラっと流して誤魔化してる部分」の復元を試みるならこんな感じ。欧州貴族主義の伝統もそうですが、現代人の感覚では「庶民」が完全視野外に追い出されてるあたりがどうも気に入りません。

*どの国においても貨幣市場経済浸透によって「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」の動揺が始まるまで、彼らは在地有力者によって束ねられた集団として登場するのみ。日本史の面白さは、その崩壊が(徳川幕府が全国の諸侯を消耗させるために始めた)参勤交代の実施に端を発する事。

 とはいえジェーン・オースティン作品においてすら「庶民」は「(ゾンビと置換可能なくらい)曖昧な存在」として視野外に置かれてた訳です。それに該当する存在を日本史の中に探すなら、例えば「悪党」とか「株仲間」と呼ばれ行政サイドを戦慄させてきた全国規模で広がる富農や富商の「闇のネットワーク」辺りがクローズアップされる事に。

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  • 入れ替わりが激しかったり、課税を嫌って逃げ回ったりするせいで戸籍による状態把握が極めて困難(それで江戸幕藩体制は代表者に株を発行して既得権益を安堵する一方で、配下の管理に責任をもたせた)。

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  • せっかく戦国時代に確立した領邦国家体制を穴だらけにし、各諸侯が選定し特権を与え庇護してきた御用商人をわずか百年あまりで根絶やしに。以降はむしろ「力には逆らうな。利用せよ」という懐柔路線が広まる。例えば「加賀百万石の経済的繁栄」などはこれによって達成された。日本全国に残る「小京都」は概ねその名残りとも。

  • ちなみに明治維新後は不平士族反乱の敗残兵を接収して自由民権運動(1874年〜1890年)の主要パトロンとなるも、所詮は利権で結びついた集団に過ぎなかったので伊藤博文が創立し日本で初めて本格的政党政治を行った立憲政友会の「我田引鉄」政策にあっけなく絡め取られてしまう。その影響は戦後まで尾を引き、自由民主党の長期安定政権を現出させる。

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これが「日本の庶民」だったとしたら「解放される日を心待ちにしているプロレタリア階層」は一体どのあたりに隠れていたんでしょうか?

*「先進的」とされる英国政治史においてすら外廓市民団体プリムローズ・リーグ(Primrose League、1883年〜1913年)の頑張りで英国保守党が普通選挙を制して長期安定政権を敷いてるうちは「庶民」はその一部に組み込まれていた。イタリアに至っては1960年代後半「我々の間には何の矛盾も存在しない」なる立場から共産党キリスト教民主党の連立政権が成立。むしろ割と早期に農本主義的伝統から脱却した地域ほど「領主が領土と領民を全人格的に代表する権威主義的体制」は悪印象を残しにくく、その為にかえって残留しやすいのかもしれない(その代わり失望が即失脚に繋がるけど)。

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ところで英国もナポレオン戦争後は騒々しい時代に突入します。(保護貿易に守られた毛織物産業や穀物栽培に立脚する)ジェントリー階層(国教徒)と(関税撤廃によって綿織物の出荷を飛躍的に増やしたい)マンチェスターの新興産業資本家(ユニテリアン教徒)が、人道的見地から奴隷制廃止を求める福音派議員やそれに抵抗するカリブ海砂糖農園地主議員をも巻き込む形で激しい政争に突入。最終的に保護貿易政策は守り切れず、ジェントリー階層はリスクヘッジの為にその経済的基盤を所領経営からシフトさせていくのです。

*ちなみにギルバート法やスピーナムランド制度が生んだ(ナポレオン戦争期間中ずっと英国全土をゾンビの如く徘徊していた)貧民の大群は1834年に成立した新救貧法(救貧行為を懲治院における「最下級の労働者以下の扱いに絞った」)によって劇的に一掃される事になった。フリードリヒ・エンゲルスはこれを「最も明白な、プロレタリアートに対するブルジョワジーの宣戦布告」とこき下ろしたが、やがて共産主義国家も「働いても働かなくても手に入る金は同じなら人はやがて働かなくなる」恐ろしい現実に直面する事になる。

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*ジェーン・オスティンはその著作の中で「郷紳階層が連日の様に狩猟大会や舞踏会を開催し続けるのは、大陸からの危険思想に感染してないかの相互監視が目的」と書いているが、「ゾンビの大群の徘徊」が放置されていたのもまた食い詰めた失業者を放置しておくと大陸から潜入してきた工作員に扇動されてしまう恐れがあるからだった。要するにどちらも戦争終焉と同時に不要となる。その意味において「連日の様に狩猟大会や舞踏会が続く夢のような毎日」と「ゾンビの大群」は同時に現れ同時に消えていく表裏一体の関係にあったといってよい。

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まさにこうした時代にこそジェーン・オスティンのラブコメ三原則、すなわち「殿方は自らの自由意志と個性を尊びます。これを上手く逆手に取って相手から告白させるのが女子の本懐」「自らの高慢と偏見のせいで殿方を選びそこなうのは女子の恥」「ゴシック小説のヒロインが全くゴシック小説を読んでおらず、毎回懲りずにゴシック小説に有り勝ちな罠に引っ掛かるのは馬鹿の極みです。本当の女子はそこまで馬鹿じゃありません」は本領を発揮したとも思えるのですが、実はあまり資料がありません。本当に厳しい選択を迫られたので大っぴらに語れなくなったとも「何で金を儲けてもいいが、その生業から足を洗って所領に引っ込んでからがジェントリー」なるルールに経歴ロンダリング効果があるせいとも。

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まぁ、どんな物語も「あえて語られなかった部分」を無粋にもほじくると、こんな具合に色々出てきちゃうものなんですね。