諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【君の名は】【聲の形】【レッドタートル】恋愛映画の成否を握るのはトリミング技術?

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まずは古典的エピソードから。

  • ジャン・ジャック・ベネックス監督映画「ベティ・ブルー 愛と激情の日々(37°2 le matin、Betty Blue、1986年)」はフランス文芸映画としては異例の国際的ヒット作となった。恋愛映画としての完成度が恐ろしく高かったからである。
    *動画のコメント欄に「うちの旦那が好きなの。魂を80年代に置き去りにしてきtれしまったの」と記されていた。確かに、ある意味80年代を代表する作品の一つ?

  • しかしフランスの評論家は「こんなのフランス文芸映画としての条件なんて全然満たしてないよ。ただのクズだ」と執拗なネガティブ・キャンペーンを展開。弱り切ったジャン・ジャック・ベネックス監督は、その部分を補完した「インテグラル(1992年、60分弱の未公開シーンを付け加えた完璧版)」を発表する事で批判を抑えようとした。

  • ところが、その結果明らかになった「恋愛」の全貌は、この作品に熱狂した観客層のイメージしたそれと完全に食い違っていたのである。おかげでこの作品の国際的人気はたちまち凋落してしまった。
    *まさしくこれこそが「フランス映画」の問題点。ただ、ジャン・ジャック・ベネックス監督もかなり文芸志向なので「どっちもどっち」という側面はあったとも。まぁ「ディレクターズ・カット」と呼ばれる作品の多くが抱えている問題でもある?

  • 興味深い事に「この作品に熱狂した国際的観客層」が代用品として見出したのが浅野いにおおやすみプンプン(2007年〜2013年)」だったりする。
    *この事により改めて「女子的厨二病魂を満足させる文芸路線と恋愛要素のバランスがとれた作品には相応のニーズがある」という事実が確認された感も。

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翻って新海誠監督映画「君の名は」はどうでしょう。

スタッフ談によれば「村上春樹五十嵐大介をこよなく敬愛する新海誠監督の作品である以上、世界観そのものは壮大たるべき。ただ何を画面に残すかについては監督と一般的感性の持ち主が徹底的に集団的に審議した」との事。まさしく恋愛映画制作方法の王道。極上のコンソメスープの作り方そのものです。一方…

この評論の著者が、今度は「聲の形」に手を伸ばした模様。

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ゲンロンβ7 ポスト・シネマ・クリティーク#10 渡邉大輔「アニメの形、映画の形、山田尚子監督映画『聲の形』」

映画『聲の形』のもつ「政治性」は、物語上の健常者と障害者、いじめの加害者と被害者という二項対立図式が、「 映画的なもの」と「アニメ的なもの」というポストメディウム的な交差配列によって絶えず汚染=脱臼される容態にある。その様に読み解くとこのポレミカルなアニメにも、また別種の様層が加わるのではなかろうか。

ポレミカル(polemical)

[形動]議論好きであるさま。論争好きであるさま。

ポストメディウム(post-medium)

芸術表現はそれぞれのジャンルに固有のメディウムへと純化されるべきである、とするクレメント・グリーンバーグによるモダニズムの規定(メディウム・スペシフィシティ)に抗して、アメリカの美術批評家ロザリンド・E・クラウスが2000年頃より提唱している概念。クラウスは、様々なメディウムの領域横断的な使用が美術作品の制作における所与となった1970年代以降の状況を指して、ポストメディウムの条件ないしポストメディウム的状況(post-medium condition)という言葉を用いている。彼女によれば、こうした状況下では、芸術表現はそのジャンルに固有のメディウムに還元できないため、グリーンバーグによるメディウム・スペシフィシティの理論は有効性を持たない。そこでクラウスは、「自動性」(スタンリー・カヴェル)や装置論などの映画理論の諸概念を参照しつつ、芸術制作における様々な約束事(convention)をも含みうる概念としてメディウムを再定義した。彼女はこの刷新されたメディウム概念の実例として、マルセル・ブロータース、ジェイムズ・コールマン、クリスチャン・マークレーなどの作品を分析し、そのなかでメディウムの異種混淆性やメディウムが内部にはらむ自己差異化の契機などを強調している。グリーンバーグ流のモダニズム理解に対するオルタナティヴを模索するという1970年代以来のクラウスの批評活動を総括する概念であると同時に、グリーンバーグ流のメディウム理解を更新して延命させる試みとも捉えうる。なお、映画理論に着想を得た本概念は、ひるがえってメアリー・アン・ドーンやマーク・B・N・ハンセンなど、2000年代以降の映画理論、メディア理論の研究者に注目されているほか、精神医学者・思想家フェリックス・ガタリ、メディア理論家レフ・マノヴィッチなどがクラウスとは独立してポストメディア概念を提唱している。

 メディウム(medium)

一般に〈中庸〉〈媒体〉などを意味するが,造形芸術の用語としては以下のように限定した意味で使われる。(1)絵具の成分のうち顔料と練り合わせ,その均質な分散や接着を助けるために働くもの。展色剤vehicleともいう。おもなものは接着剤として働く固形成分(アラビアゴム,ダンマル樹脂,アクリル樹脂など),溶媒(水,乾性油など),増粘剤,界面活性剤などである。油絵具では乾性油が接着成分兼溶媒になる。(2)絵具の使用者が好みによって,透明感や光沢の変更,絵具の増量,乾燥速度の調整などのために絵具に添加して用いる液体またはペースト状のもの。

最初に感じたのが「多くの人がスマートフォンをファースト・スクリーン(First Screen、とりあえず最初に参照する媒体)とする様になって時代に、一体何週遅れの議論をしてるのか」という絶望感。
まだまだ伸びる、スマホアプリの利用時間

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  • トーキー映画が登場した1930年代に「映画にとって音声とはオーバースペックであり、それを本当に必要とする人なんて実はあまりいない」という議論があったのを思い出す。まぁ、同じ議論が映画のカラー化に際しても蒸し返された議論ではあった。

  • なんと上掲の文中では蓮實重彦がことあるごとに強調してきた「あらゆる映画はサイレント映画の一 形態である」なる奇抜な主張がドヤ顔で蒸し返される。21世紀に入っても、まだまだ現役の思想だったとは。そりゃ確かに「ダウンスペック」としてのサイレント映画的表現とかモノクロ映画的表現という発想ならアリなんだろうけど…

そもそも歴史的アプローチを好み(製作者の経歴や当時の時代背景に注目する)町山智浩の映画評論を盛んに引用する私の立場は「作品はあくまで作品単体として完結した枠組みで語られなければならない」とする蓮實重彦支持者との相性が最悪。

そもそも冒頭で掲げたトリミング論にしたって「そんな考え方しか出来ない人間に作品を語る資格はない」で一刀両断ですから、そもそも議論が成立しません。

  • とにかく確認可能な事実を時代や場所毎に積み上げて年表を築き、各時代や各地域に固有の発想の制約を炙り出す。それも可能な限り既存の分類を一切無視して。
    *どちらかというとフロイドの自由連想法に近く、その過程で自らの発想の制約が暴き出される事もしばしば。本当に人間って奴は、隙あらば自分の考えに合わない事実を視野外に追いやろうとする生き物なのである。
  • 上掲の作業がカオス状態から抜けると、自然にそうした事実の裏側にあったと想定される概念やら運動やらの系統進化のプロセスみたいなものが浮かび上がってくる。
    *思うより当時の技術の制約下にあるのが興味深い。特に衛生学(検疫学)やコンピューター技術の発展が人類に与えた影響は壮絶。

これは私がこのサイトで主に採用している方法論ですが、実はただ単に国際SNS上の関心空間で日常的に繰り広げられている「機械学習(Feature Selection)」とも「性淘汰(Sex Selection)」ともつかないプロセスの模倣に過ぎなかったりします。ぶっちゃけオリジナリティなんて皆無。誰にだって模倣可能です。

こっちの世界では同一タイムライン上をテキストも画像も音声もごちゃまぜになって流れていきます(そのカオス状態ゆえに解析自動化が著しく遅れている)。

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まさしく「ポストメディウム的な交差配列って何? それ美味しいの?」という有様。しかも大半の参加者はスマートフォン経由でそれにアクセスしてますから所と場所を選びません。しかも情報が流れれば流れるほど勝手に品質が向上していくという…

ただタブーが皆無という訳でもないのです。特に「自殺及び痩身症を煽る連続投稿」は確実に巻き添えとなる被害者を出すという統計結果があるのでシステム管理者の厳重監視下にあります。こうした経験の積み重ねのせいでメディア論に求められるものも随分違ってきていたりするのです。

  • デヴィッド・クローネンバーグ監督「スキャナーズ(Scanners、1981年)」に登場する「脳内の病的妄念を薬で抑える代わり創作活動に昇華している芸術家」。

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  • 虚淵玄脚本「PSYCHO-PASS サイコパス(TV版2012年〜2014年、劇場版2015年)」に登場する「犯罪係数が測定可能な社会で芸術家が抱えるジレンマ」

    http://sasasaseesee.up.n.seesaa.net/sasasaseesee/image/25e428fd-s.jpg?d=a1

  • 大今良時「聲の形(A Silent Voice、2011年〜2014年、劇場版2016年)」のヒロイン硝子の妹の結絃(一眼レフで死体を撮影するのが趣味)の「私が死体ばっかり撮影してるから姉ちゃんが自殺を考える様になったんだ!!」なる自己批判

    http://koenokatachi.seesaa.net/pages/conv_default/image/KOEKATA_55_016.jpg?maxwidth=40%25

 かつて私は21世紀の作品トレンドを「平坦化(fraternize)」「コミュニケーション・オリエンテッド(Communication Oriented)」「環境オリエンテッド(Environment Oriented)」の三点にまとめました。山田尚子監督映画「聲の形」は「恋愛映画」というより、このフォーマットでトリミングされてる様です。

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 平坦化(fraternize)が主題だからこそ、聴覚障碍者や芸術家気質の不登校児や日系ブラジル人や怖いもの知らずの美少女が大垣市を舞台に「対等なコミュニケーション手段の樹立」を目指すんですね。

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少なくとも短編発表当時からこの作品に注目してきた国際SNS上のファン層はそう考えてますし、それは国際SNS上に集って日々異言語・異文化コミュニケーションを繰り広げているこの層にとっても最も関心が集中するファクターだったりする次第。

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そもそも「ゴジラが出現して誰かを踏み潰す時、どちら側に与するか選べる自由」が保障されており、しかも権利行使の機会が頻繁に訪れる世界なので「健常者と障害者、いじめの加害者と被害者、映画的なものとアニメ的なものという二項対立図式」とか叫んでもゴジラ召喚の契機になるだけという…

で、「レッドタートル (英題The Red Turtle、仏題La Tortue rouge)」はどうやらこのトリミングの部分に失敗した作品という事になる模様。 実は背景にある世界構造そのものは「君の名は」も「レッドタートル」も「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた(Song of the Sea、2014年)」も相違点とより共通点が多いくらい。つい原点に五十嵐大介海獣の子供(2006年〜2011年)」を感じてしまうのは気のせい?

 そして「君の名は」も「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」もあえて視野外に追い出した(「君の名は」の場合は外伝で触れる体裁をとった)要素を「レッドタートル」は画面内に残してしまったですね。フランス語版Wikipediaには「高畑プロデューサーが流石にやばいと気づいて修正を要求した」と書いてありましたが、物語文法上の構造上完全克服は不可能でした。この問題が興行成績の差となって現れたとも…

もしかして「ブギーポップ・シリーズ」と「ハリーポッター・シリーズ」の決別点もここだったりして。