いよいよ散々引きずってきたネタバレ編。
とはいえ非常に高度に抽象化された作品なので憶測、つまり「私はこう見た」以上の事は書けないのもまた事実です。その上、新海誠監督映画「君の名は」同様、D.R.クーンツ式に複数の物語類型のコラージュで構成されている為に「こことここをこういう意図で継ぎ合わせたに違いない」といった砂上に楼閣を築く式の不毛な追加努力も欠かせません。
そこで観点を変えてみました(以下ネタバレ開始)。
基本的には絶賛の嵐であった。
*機械翻訳からの意訳なので翻訳精度は正直ボロボロとご了承ください。
- 2016年度カンヌ映画祭会場のCécile Mury「海辺における愛と自然とライフサイクルを描いた緑色の魅力的な物語」。
- ル・モンド誌のNoémie Luciani「無人島に漂着したロビンソン・クルーソーを巡る息を呑む様な美しい視覚と音響を伴った無言劇」。
- クリスチャン新聞のLa CroixとJean-Claude Raspiengeas「まさしく至高の宝石。生命の活気に満ちた地球を一切の寓意抜きで描き切った詩的で崇高純粋な哲学的御伽噺」。
- 週刊誌Télérama「偉大な神話の強さを持ち合わせた豪華なアニメ映画。シンプルながら多くの想像を誘発する独創的なロビンソン・クルーソー譚」。
*「神話」…この種の漂流譚を見て欧米人が「神話」と口にしたら、まずアンディ・ウィアー「火星の人(The Martian、2011年、映画化2016年)」につながっていくホメロス「オデュッセイア」を思い浮かべてるといって良い。実際、映画版「火星の人」の邦題は「オデッセイ(ODYSSEY)」だった。当然「すると女はアイアイエー島の魔女キルケー?(変身するし、いかにも魔女らしく髪赤いし)」まで連想範囲。- 北フランス新聞La Voix du Nord(ノールの声)のPour Lucie Vidal「私達の人生と重なる、誕生から死に至る間の試練と喜びを描いた普遍的な物語」。
ただし少数ながら批判的評価も存在した。
- ル・モンド誌のIsabelle Régnier「最初から最後まで席を立てないスリルをはらんだ物語。ただし画像や動きの美しさにも関わらず、「フィルムの第二の部分(La seconde partie du film)」を構成するエデンの園への夫婦や家族の帰化を描くこの物語はその始まり方がアレなもんで同じ監督の手になる短編作品ほど素直に楽しめない」。
アレ…直接表現的には「男が邪魔者の亀を殺したら、女に生まれ変わって嫁になった」様にしか見えない場面の事。
①こうした論評を見る限り「セカイ系大戦」の本当に最初の発端は、この作品に感銘した自然原理主義者達だったのかもしれません。「人間らしい生活には家も火もいらぬ。それが(克己心の塊で無人島にすら文明を再建してしまう英国のロビンソン・クルーソーのアンチテーゼとしての)フランスのロビンソン・クルーソーだ!!」みたいな。完全視野外だったのであくまで憶測ですが、そもそも国際SNS上の女子達の間には高畑勲監督「かぐや姫の物語(2013年)」が封切られた時にすら「人間が生きてる事そのものが罪なの? 一刻も早く全員自殺しちゃえって事?」なる物騒な議論があったくらいなので、その影響自体が国際SNSに及ばなかったのも仕方のない事でした。
*とはいえ作中で全く火を焚かない訳でもないので、どれだけこうした議論が盛り上がったか不明。この当たりも「高度に抽象化され過ぎた作品」の問題点?
ダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe、1719年〜1720年)」の「あらすじ」
ヨーク市の商人の三男として【1632年に】生まれる。早くから放浪癖があり、両親の意志とぶつかる。父親は現在の中位の身分がいかに幸福な人生を保証するものであるかを諄々と説くが、息子は無視して家を出る。
- 最初は船乗りになって嵐に遭遇したり、海賊に捕われの身になるが、【モロッコの港町サレでムーア人(アフリカ北西部のイスラム教徒)の奴隷とされるも少年ジューリーを連れて船で脱出】後にブラジルで農園経営に成功する。さらにアフリカに奴隷を求めに行く途中、船が難破して、絶海の無人島にただひとり流されて生き残る。27歳の時【1659年】であった。
- 持ち物といえば、ナイフ、パイプ、タバコだけだったが、その後沖合に座礁している船から運よく、次々と必要な物資を運び出してくる。その後この「絶望の島」で神としばしば対話し、聖書を読み、日記をつけ、犬、猫、オウムを飼うことでかろうじて不安と絶望の気持ちを和らげていく。
- 熱病にも罹るが、奇跡的に回復する。その間、創意工夫の才と勤勉さを発揮して堅固な住居や貯蔵庫を築き、狩りをして食糧を確保し、穀物を栽培し、野生の山羊を飼い馴らしていくといった原始的生活を営々と続けていくようになる。
- 15年たったある日、浜辺に人の足跡を見て驚愕する。あれほど孤独を嘆いていたのにもかかわらず、この時クルーソーの心は恐怖で動揺してしまう。それから10年後「蛮人」達が何人かの捕虜を連れてこの島に姿を現わす。彼らを銃などで追い払い、捕虜の1人を助けて、フライディ(Friday)と命名してやる。以後フライディは忠実な従僕となる。
- 再び「蛮人」が上陸して来た時、2人は協力して敵を倒しフライディの父親とスペイン人を救出する。クルーソーはこの2人を、別の島に捕われている白人たちの救出に派遣する一方、乗組員の反乱にあってこの島に連行されてきたイギリス人の船長らを救い、とり戻した船で【1687年に】故国に帰る。漂着してからここを脱出するまで、実に28年2カ月19日の歳月がたっていた。
- 以前のブラジルの農園は無事に管理されていることがわかり、裕福な老後の生活が保証される。
やがてクルーソーは家庭を持ったものの、妻の死後、再度放浪癖が頭をもたげ、あの孤島に戻って新たな冒険を始めることになる。(中村ほか編『たのしく読めるイギリス文学』p.48)
*そもそも「レッドタートル」をこの作品の翻案と考えると「フライデー(黒人奴隷)の代わりに現地女ゲット」となる。
②そして、まさにこの「男が邪魔者の亀を殺したら、女に生まれ変わって嫁になった様にしか見えない場面」こそが、この作品の唯一に近い、とはいえ徹底的に致命的なまでの瑕疵。確かに高度に抽象化された作品なので、見た目通りの解釈で良いか誰もが判断に迷うところ。とはいえ国際SNS上の女子達はそこに確実にマチズモ(Machismo、男権主義)の影を嗅ぎ取り「淑女、危うきに近寄らず」を決め込む事にしたのでした。こうなるともはや手遅れで、男性陣が「これぞ現代の神話」とか「これぞ自然界そのもの」とか褒めそやすほど逆効果というもの。
*この解釈だと「自分が殺しかけた亀が瀕死状態に陥ると口に水を含ませて延命させようとする場面」独特の偽善性が鼻につく。
まぁ、海外でのこういう展開を受けて日本ではポスターから「女性登場人物」が排除されたのかもしれません。
*皮肉にもこれを知って国際SNS上の女子層はますます警戒心を強める結果に。
そういえばディズニー映画の「モアナと伝説の海(Moana、2017)」の日本版ポスターからも「全身刺青の男」が消されました。
こうした積み重ねで「日本はナチス並みの優生主義市民団体に牛耳られている」なる国際的巷説は強化されてきたという次第。国際SNSの情報拡散力を舐めてはいけません。
ところで本当に「レットタートル」における「男が邪魔者の亀を殺したら、女に生まれ変わって嫁になった様にしか見えない場面」とは見た目通りそういう場面なのでしょうか。以下、いよいよネタバレ全開で考察を進めていきたいと思います。
そもそも「レッドタートル (英題The Red Turtle、仏題La Tortue rouge)」は本当に「(英国版ロビンソン・クルーソーのアンチテーゼとしての)フランス版ロビンソン・クルーソー譚」とか「フランス版オデュッセイア」と考えて良いのでしょうか。実はもっと元ネタとして相応しい作品があるんじゃないでしょうか?
さらには「漂着者は漂着した時には裸足」という描写。英国には主人公が苦労して作業用深長靴を脱ぎ捨てる場面から始まり「作業用深長靴を脱ぎ捨てる時間もなく溺死した」という最後の一文で終わる作品があります。「 蠅 の 王(TheLoydoftheFlies、1954年)」で衝撃的デビューを遂げたウィリアム・ゴールディングの「ピンチャー・マーティン(Pincher Martin、156年)」。
「南海漂流物」と「セカイ系」の微妙な関係
そもそも英国人海洋作家ヘンリー・ドヴィア・スタックプール「青い珊瑚礁(The Blue Lagoon、1908年、映画化1923年、1949年、1980年)」や夢野久作「瓶詰地獄(1928年)」などの主要展開は「幼少時に無人島に漂着した少年少女が成長するにつれ性的誘惑に敗れ、純潔を失い社会復帰が不可能になる(なので救援を待たず自殺したり、救援されても事故死して「死んでむしろ幸運だった」と言及されたりする)」というもの。
- こうした作品自体がスコットランド人作家ロバート・バランタイン「珊瑚礁の島(The Coral Island: A Tale of the Pacific Ocean、1858年)」や国際的港町として栄えていたナント出身のフランス人作家ジュール・ヴェルヌ「十五少年漂流記(Deux Ans de Vacances、1888年)」などの「健康過ぎて子供達からも飽きられてしまった孤島漂着物」に捻りを加え復活させようという意図で執筆されたものだった。当時はまだまだ少年達が大好きな「野蛮な世界の粗野さ」が適度に織り込まれたスコットランド人作家スティーヴンソン「宝島(Treasure Island、 1883年)」や英国作品「ピーター・パン(Peter Pan、初出1902年)」シリーズの様な傑作が次々と生まれる環境は整っていなかったのである。当時は「ハックルベリー・フィンの冒険(Adventures of Huckleberry Finn、1885年)」を発表した米国人作家マーク・トウェインの様に「自称モラルの守り手のみなさん」に目をつけられるとマスコミを総動員したネガティブ・キャンペーンの生贄にされ、社会人としての生命を抹殺される事もあった時代だったのである。
- さらに遡ると、1702年から1709年にかけて実際に無人島で生活したスコットランドの航海長アレキサンダー・セルカーク(Alexander Selkirk) の実話を基にしたダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe、1719年〜1720年)」まで行き着く。この作品は「試練に決して屈しない近代人」を称揚する一方で「スペインとの領地獲得戦争に英国人を一人でも多く動員する」という裏の意図を内包していた。
*当時多くの南洋物がこうした具合に植民地拡大政策を奨励する意図で執筆された事実もまたこのジャンルに色濃く足跡を残しているのである。
*また「ロビンソン漂流記」はヨハン・ダビット・ウィースの手になる二次創作「スイスのロビンソン(Der Schweizerische Robinson、初版1812年)」を経て「家族漂流物」という新ジャンルを生み出した。「宇宙家族ロビンソン(Lost in space、1965年〜1968年)」「ふしぎな島のフローネ(1981年)」はこの系譜。
- こうした「南海漂流物の暗黒面」が作中で取り上げられる様になったのは「十五少年漂流記」のパロディとして執筆されたウィリアム・ゴールディング「蠅の王(Lord of the Flies、原作1954年、映画化1963年、1990年)」以降とも。冷戦を背景に最終戦争の最中を描いたこの作品では、漂着した少年達の獣性が次第に解放され、最後は互いに殺し合う。
- その一方で湘南を舞台とする太陽族映画(1955年)にインスパイアされる形でゴダールの「勝手にしやがれ(仏題À bout de souffle、英題Breathless、1959年)」や「気狂いピエロ(Pierrot Le Fou、1965年)」が制作される。南仏やイタリア沿岸部を舞台に「太陽がいっぱい(Plein soleil、1960年)」や「ベニスに死す(英題Death in Venice、伊題Morte a Venezia、仏題Mort à Venise、1971年)」が制作され、その独特のイメージはカリフォルニア沿岸部までも視野内に捉えた。
*こうした国際的流れを背景として日本ではアジア再進出の契機になればと「アラーの使者(1960年)」「怪傑ハリマオ(1960年〜1961年)」「少年ケニア(1984年)」の様な作品を制作され続け「ダッコちゃんブーム(1960年〜1961年、1966年リヴァイヴァル)」が登場した。正直いって当時の南国やアフリカの描写には人種差別を肯定する戦前回帰の傾向が見てとれ、それに付け込む形で1980年代には「黒人差別をなくす会」などの「日本の作品に東南アジア人や黒人を登場させる事そのものが国際正義と人道意識に反する」なる主張がリベラル勢の間で勝利を収めていく。
*そもそもそういえばキングコング・ゴジラ・モスラといった特撮作品もまた歴史的背景として「南洋物独特のドロドロ」を背負ってきたのではなかったか? アメコミの世界においても、1970年代を席巻するウルヴィァリン躍進の契機となったのは南海における水爆実験を契機に覚醒した「生きてる無人島」クラコア(krakoa))の登場だった。「シン・ゴジラ」も鎌倉から上陸してくる。
*その一方で「地中海の覇者であり続けたい」なるフランス映画界の執念はジャン=ジャック・ベネックス監督「ベティ・ブルー 愛と激情の日々(仏題37°2 le matin、英題Betty Blue、1986年)」やリュック・ベッソン「グラン・ブルー(Le Grand Bleu、1988年)」といった1980年代フランス恋愛映画ブームに結実する事に。改めて「フランス三色旗の青は何なのか」について一晩中問い詰めたくなる。
- アメリカの小説家アレグザンダー・ケイのSF小説「残された人々(The Incredible Tide、1970年)」も「最終戦争後も争い続ける事をやめられない人類の醜悪さ」をシニカルに描いた作品だったが、これをNHKと東映から原作として押し付けられた宮崎駿監督は「こんな世界観、子供達の代にまで押し付けるのが本当に正しいのか?」なる義憤に駆られてその内容を完全に換骨奪胎した「未来少年コナン(1979年)」を制作。 *この路線の第二弾となるはずだったジュール・ベルヌ「海底二万里(Vingt mille lieues sous les mers、1870年)」を原作とする「海底世界一周旅行」企画から宮崎駿監督「天空の城ラピュタ(1986年)」と庵野秀明・樋口真嗣監督作品「ふしぎの海のナディア(1990年〜1991年)」は分岐した。
- ブルック・シールズが主演した「青い珊瑚礁 (1980年)」に至っては、無人島に少年少女が漂着したのも植民地獲得戦争の一環で(そうした歴史的背景を一切知らずに育った筈の)年若きカップルは、その純真無垢さゆえに「大人の築いた文明社会」が近隣で暮らす「人食い人種の世界」よりおぞましい修羅界である事を察知し、彼らに発見されると毒を飲んで一家心中を遂げる。観客がこぞって「これぞ人間。我々もまた人間として汚れた文明社会に屹然と背を向けるこの少年少女達の態度をこそ見習わねばならない」と感涙の涙を振り絞ったのもまた1980年代前半の現実であった。「何もわかってない大人社会の言う事なんて一切聞くな!!」なるメッセージの込められたスピルバーグ監督作品「未知との遭遇(Close Encounters of the Third Kind、1977年)」「E.T.(E.T. The Extra-Terrestrial、1982年)」もまた大ブームとなった国際的左翼黄金期とはそういう時代で、その衝撃は資本主義圏だけでなく共産主義圏までをも揺がし「それって同じ大人のあんたらの云う事も信用ならないって事だよな」とする1990年代後半の「ニヒリズムに走る子供」へとつながっていく。
どうやら欧米も日本も南国情緒(およびその闇の部分)に言及可能なのは精神的余裕のあるケースに限られるらしく、1990年代から2000年代にかけての日本においてそれがトレンドとなる事はなかった。
*ある意味、それはセカイ系作品を特徴付ける「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群」「戦闘を宿命化された美少女(戦闘美少女)と、彼女を見守ることしか出来ない無力な少年」といった要素と上掲の様な南国系コンテンツが相互排他的な関係にある事を示唆するが、ならば「精神的余裕が回復して南国系要素にまで言及可能になった事=セカイ系作品がそのコミュ障要素を回復した事」なる短絡的な図式が成立するかというとそうでもない。この問題は今やフランスのアングレーム漫画祭での表彰などにより国際的知名度を獲得した五十嵐大介の「リトル・フォレスト(2002年〜2005年)」「魔女(2003年〜2005年)」「海獣の子供(2006年〜2011年)」をどう再評価すべきかという話とも関わってくる。
なぜ、どういう事情で少年たちだけが無人島にいるのか、小説中で十分に説明されるわけではない。
「ぼくたち攻撃されたんだね」
「操縦士がいってたのを、きみ、聞かなかった?原子爆弾とかなんとか。あの連中はみんな死んでるよ」
そういった会話からすれば、世界規模の核戦争が背景になっていると考えるべきなのだろう。「十五少年漂流記」の少年たちは、自分たちがたまたま流されて無人島に漂着しただけであり、故郷には日常的な世界が続いていることを知っている。少年たちの冒険を読み進める読者も、やがてはその日常的な世界から救いの手が差し伸べられるであろうことを疑わない。しかし、「蠅の王」の少年たちには、その前提がない。ひょっとしたら、世界は既に滅亡していて、生き残っているのはこの少年たちだけなのかもしれないのだ。
救出の機会を逃さないよう烽火を絶やしてはならないと主張するラーフが、そのリーダーの地位を、顔に粘土の隈取りをして豚狩りに臨むジャックから奪われていく物語は、人間の理性に対する獣性の勝利を語る。たった1人になってしまったラーフが、ジャックたちから獣のように追われ、森に火をつけて炙り出されるカタストロフは、肌に粟を生じさせる。「ぼくもうやーめた」といって家に帰りたい、それができるのであればどんなに幸せか、とラーフは思う。しかし、獣性を剥き出しにしたジャックたちは、ラーフを掴まえれば確実に嬲り殺しにするだろう。それが、追う側にとって、戦争ごっこ、あるいは狩猟ごっこに過ぎないところが、いっそうの恐怖を募らせる。
最終的には、ラーフが捉えられる前に、救助隊が上陸し、「戦争ごっこ」は終わる。ラーフは救われ、ジャックら他の少年たちとともにイギリスに帰っていくはずだ。
それは獣性が支配していた無人島から、理性の支配する文明社会への帰還なのだろうか。物語冒頭で暗示された核戦争がどうなったのか、救出にきた海軍士官は語らない。しかし、核戦争である限り、この島で行われた理不尽な殺戮の、数万倍の規模の殺戮が行われたのではないか。少年たちが戻っていく文明社会は、この無人島にもまして獣性の支配する場所であるかもしれない。
1954年に発表されたこの小説は、イギリスだけでなくアメリカでもベストセラーになり、大学生たちの間での人気は、1951年に発表されたサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を凌駕したという。子どもの無垢を至上の価値とするサリンジャーから、子どもにおける大人同様の、あるいは子どもであるだけに大人よりもさらに残酷な獣性を強調したゴールディングへの覇者交替は、当時の読書界で大きな話題となり、さまざまな分析がなされたらしい。
*そしてウィリアム・マーチ「悪い種子(The Bad Seed、1954年、映画化1956年)」やウラジーミル・ナボコフ「ロリータ(Lolita、仏国刊行1955年、米国刊行1958年)」の商業的成功が続く。そうした国際的流行を受けて当時の横溝正史作品は「美少女が登場したら必ず残虐な連続殺人事件の犠牲者か加害者(しばしば多淫症かレズかその両方)」といった具合に。
ウ ィ リ ア ム ・ゴ ー ル デ ィ ン グの『ピ ン チ ャ ー ・マ ー テ ィ ン 』
「ピ ンチ ャー ・マ ー テ ィ ン(PincherMartin、1956)」は 、ウィリアム・ゴールデ ィング(WilliamGolding、1911年〜1993年)三作目の長篇小説である。第一作「 蠅 の 王(TheLoydoftheFlies、1954年)」では、孤島で漂流生活を送る子供たちが次第に残忍性を発揮し、原始生活に退行して「楽園」を焼き払ってしまう寓話性に富んだ話が語られ 、次の「後継者たち(The Inheritors、1955年)」で は、ネア ンデル ター ル人 と「新しい人々」の出現で両者が混在する過渡期に背景を求め、知恵を得た人類の始祖が、旧人類を駆遂し、「森 の生活 」を逃 れて暗い不安を抱きながら海へ乗り出すホモ ・サ ピエ ンスのチュアミ(Tuami)の姿で描写を終えている。この三作目でゴールディングは漸く、現代の大人を主人公に据えた作品を展開することになった。キンキード=ウィークスとグレゴールは言う。「この小説は、ゴールディングが初めて表題に個人の名前を冠し、個人の意識内の視点から物語を語り、現代の世界の(どのような次元であれ)性的関係・社会関係に関心をもった当代の大人を主人公に据えて存分に描いた作品である。」
ゴー ルディングがこれまで一貫して追求してきた問題は、悪の所在の探究である。そして、この作品では、ジョンストンも言うように、悪が胚胎している人間に知性による救済があり得るのか、という問い掛けがなされているのである。
*先行作品としてアンブローズ・ビアス(Ambrose Gwinnett Bierce)「アウル・クリーク橋でのできごと(An Occurrence at Owl Creek Bridge、1890年)」を挙げる向きも。日本では芥川龍之介が初期紹介者として知られ「短編小説を組み立てさせれば、彼程鋭い技巧家は少い。評家がポオの再来と云ふのは、確にこの点でも当たつてゐる」とまで書いている「藪の中(1922年)」も1つの事件が3者から3様に語られ、最後は霊媒師を介して幽霊が証言するビアスの短編「月明かりの道」に着想を得たとされているし、遺稿『侏儒の言葉』には『悪魔の辞典』の影響が見られる。
アンブローズ・ビアス 『アウル・クリーク橋でのできごと』
ウィリアム・ゴールディング自身の手になる創作意図解説。
- 無神論者たるクリストファー・ハドリー・マーティン(Christopher Hadley Martin)には自らの存続への執着以外に如何なる信念の持ち合わせもありませんでした。自らが世界のの中心で、ありとあらゆるものを創造する力が備わっていたにも関わらず。煉獄(purgatory)の存在も信じていなかったので、実際に死んだ時にそれがその形で顕現する事もありません。それでただその貪欲なまでの生存本能ゆえに死による自我の消失を拒絶し、その残忍な本質の投影結果たる過酷な環境下で生き残る為の戦いを強いられる事になったのです。実際の肉体は既に溺死して大西洋を漂流していたにも関わらず。その拠り所となった岩礁は歯痛の記憶の産物でした。
- 彼は自らの合理主義精神と折り合いをつける為、表向きは沈没した魚雷駆逐艦の生存者を装っています。しかし深層心理の奥では既に真相に気付いてもいるのです。自分がその肉体の存続の為でなくアイデンティティの存続の為だけに戦い続けている事を。全ての努力を無に帰して一掃しようとする暗い雷光の正体が神の慈悲である事を。
- クリストファー(Christopher)はキリストの使徒(the Christ-bearer)を意味しますが、それが矮小ながら貪欲なピンチャー・マーティン(Pincher Martin)へと変貌していきます。その意味では「ピンチャーたる事」が煉獄であり、それが永続する事こそが地獄ともいえましょう。
こうしてキリストの名を冠した「クリストファー」が 貪欲な「ピンチャー」に成り下がるプロセスが「語りの階層」を生前と死後に分ける。作中に度々登場するジャム瓶の中の人形の比喩やチャイニーズボックスの話も全て読者に物語の階層構造を次第に意識させていく役割を果たす。そして次第に「クリストファー」と「ピンチャー」、煉獄と地獄の境界線が曖昧になっていき、自らの存在証明の為に行っていた物を食べたり鏡に自分を映すといった行為も最後にはとうとうその意味を失ってしまうのである。
*そういえば「レッドタートル」には「自分の姿が水鏡に映る」場面が存在しなかった気がする。気のせい?
ダニエル・デフォー「 ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe、1719年〜1720年)」よりウィリアム・ゴールディングの「ピンチャー・マーティン(Pincher Martin、156年)」の種本として相応しい理由は以下です。
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ダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe、1719年〜1720年)」は(無人島で孤立しても)近代人(利潤を最大にするため合理的に行動する経済人)であり続ける為の条件を「日誌と帳簿をつけ続ける」点に求めた。
*カール・マルクスも「資本論(独: Das Kapital:Kritik der politischen Oekonomie 、英: Capital : a critique of political economy、第1部1867年、第2部1885年、第3部1894年)」の中で「経済学はロビンソン物語を愛好する」としたし、ドイツの社会学者マックス・ヴェーヴァーも「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus、1904年〜1905年)」において、あくまだ当時のイギリス中流階級の行動原理を貫き通すロビンソン・クルーソーに資本主義的人間の典型を見ている。*ホメロス「オデュッセイア」が描くのも、原則として智力の限りを尽くしてイタケー島に生還しようとする英雄オデュッセウスの決死の努力であり、その精神はアンディ・ウィアー「火星の人(The Martian、2011年、映画化2016年)」にもしっかり継承されている(考えてみればこの作品もキーカラーは赤で、それが死の象徴だったりする。しかもたった一人の人間の生死が世界を巻き込んでいくという意味では「セカイ系」に属する作品でもある)。
*この路線はインターネット上における実在した西部開拓時代の罠猟師ヒュー・グラスの半生を描いたレオナルド・デュカプリオ主演映画「レヴェナント: 蘇えりし者(The Revenant、原作2002年、映画化2015年)」とも紐付けられている。音楽は坂本龍一。 ディカプリオに5度目のノミネートと初の主演男優賞をもたらし国際SNS上に「熊殺しが効いた」なるMeme(インターネット遺伝子)を残した。フランス人開拓者が残虐な悪役として登場しバタバタ殺されるのでフランスにおける評判はあまり良くない。その一方でインディアンがむしろ合理主義精神から獲れたての新鮮な獣肉の血肉は生食する場面が出てくる。もちろん彼らは火も使うし、ペミカン(pemmican、カナダ及びアメリカに先住するインディアンが用いた携帯保存食。ビーフジャーキーの起源とされるが、元来はクリー語で「脂肪」を意味する言葉で、加熱溶解した動物性脂肪に粉砕した干し肉とドライフルーツなどを混ぜ、密封して固めたもの)の発明者でもあるのだが。そういえば衰弱して武器もなくし狩りも出来なくなった主人公が狼の食べ残した腐敗死体を食べ(当然体調を崩して後悔する)その皮を剥いで身にまとう場面が出てきた。「レッドタートル」における「波打ち際に打ち上げられたアザラシの皮を剥ぐ場面」と重ならないでもない。実はその信条、貝原益軒が日本初の体系的教育書「和俗童子訓(1710年)」の中でこう書いているのと重なる。
七歳より和字(かな)を習はしめ、又おとこもじ(漢字)をもたらはしむべし。淫思なきを古歌を多くよましめて、風雅の道をしらしむべし。是また男子のごとく、はじめは、数目ある句、みじかき事ども、あまたよみおぼえさせて後、孝経の首章、論語の学而篇、曹大家(そうだいこ)が女誡などをよましめ、孝・順・貞・潔の道を教ゆべし。十歳より外にいださず、閨門の内にのみ居て、おりぬひ、うみつむぐ、わざを習はしむべし。かりにも、淫佚(いんいつ)なる事をきかせ知らしむべからず。小歌、浄瑠璃、三線の類、淫声をこのめば、心をそこなふ。かやうの、いやしきたぶ(狂)れたる事を以て、女子の心をなぐさむるは、あしし。風雅なる善き事を習はしめて、心をなぐさむべし。此比(ころ)の婦人は、淫声を、このんで女子に教ゆ。是甚だ風俗・心術をそこなふ。幼き時、悪き事を見聞・習ては、早くうつりやすし。女子に見せしむる草紙も、選ぶべし。古の事、しるせる書の類は害なし。聖賢の正しき道を教えずして、ざれ(戯)ばみたる小うた、浄瑠璃本など見せしむる事なかれ。又、伊勢物語、源氏物語など、其詞は風雅なれど、かやうの淫俗の事をしるせる書を、早く見せしむべからず。又、女子も、物を正しくかき、算数をならぶべし。物かき・算をしらざれば、家の事をしるし、財をはかる事あたはず。必ずこれを教ゆべし。
*当時の研究によれば「女子を淫俗から遠ざけておくには誰にも接触させず座敷牢に一人で閉じ込めておくしかない」といった厳格主義っぽい言い回しの箇所は「中華王朝の掲げる理想ではそうなっているが、日本における実践は不可能。ならばせめて毎日日記や家計簿をつける習慣をつけさせ、読物や芝居に狂って破産するリスクを抑え込むべきである」といった具合に意訳するのが正しいらしい。
フランスはこうした思考様式を「そんなくだらない考え方しか出来ないから何時までたってもイギリス人は世界中から笑い者にされ続けるだけで何一つ成し遂げられないんだ」と頭から馬鹿にし続けた結果、イギリスばかりかドイツやアメリカや日本にも抜かれて二等国に転落する憂き目を見たのがフランスの悲劇(喜劇?)。近代以降は「散々上から目線で威張り散らしておきながら、実際に戦うと必ず敗れ、ほとぼりが冷めるまで暫くの間は従順にしている」歴史を繰り返してきた。そのせいで「Cheese-eating surrender monkeys」なんて不名誉な渾名まで頂戴する羽目に陥っている。
*その一方で「むしろ内紛状態から何時まで経っても抜けられないフランスこそアメリカ人の共同体意識に学ばねばならない」としサン=シモンの「産業者(Les indutriels)同盟」論やオーギュスト=コントの「科学独裁(Scientific despotism)構想」とフーリエ的「アソシアシオン(association)/ソシアビリテ(sociabilite)論」の統合を果たし、後世における「アソシアシオン(Association)」イデオロギーを基礎付けたのもまたフランス人たるアレクシ・トクヴィルの「アメリカの民主政治(De la démocratie en Amérique、第1巻1835年、第2巻1840年)」だったりする。フランス思想のうまく回っている部分についてはそれなりに敬意を払わざるを得ないのである。
トクヴィルと『アメリカの民主政治』
2003.06新しい公共性とアソシエーションFrançois Furet(フランソワ・フュレ)「トクヴィルとフランス革命の問題」(1971年初出)、『フランス革命を考える』(原書1978) - 國枝孝弘研究室
フランスの評論家達が「レッドタートル (英題The Red Turtle、仏題La Tortue rouge)」を「(英国版ロビンソン・クルーソーのアンチテーゼとして家も建てず、日誌や簿記もつけず、それどころか原則として火すら使わない)フランス版ロビンソン・クルーソー」と称揚するのは、日本において「国際正義実現と人間性回復の為に日本人は一刻も早く原子力発電ばかりか火力発電や水力発電も即時放棄して人間が真に人間らしく生きていた江戸時代の生活に回帰すべし」と主張している急進派反原発派が空知英秋「銀魂(2004年〜)」を聖典として掲げている景色と重なる。その一方で「レッドタートル (英題The Red Turtle、仏題La Tortue rouge)」のフランスにおける興行成績が6月から9月にかけての3ヶ月程度で2億円前後に留まった事は(日本における急進派反原発派の立場同様に)フランス評論家のそうした原理主義支持がフランス国民の感情から完全乖離している事を暗喩すると思われる。本当に下らない「セカイ系大戦」に巻き込まれたものである。
*そんな有様だから「フランス人がドラゴンボール好きなのは登場するヒーローがみんな働かない上、余計な事しかしない駄目男ばかりだから」なんて言われてしまうのである。
- その一方でマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット(Michael Dudok de Wit)監督の代表作「モンクと魚(The Monk & The Fish、1994年)」「岸辺の二人(Father and Daughter、2001年)」あたりとは「主人公の執着心が無謀な試行錯誤の繰り返しを不可避とする」展開が「ピンチャー・マーティン(Pincher Martin、156年)」と重なってくる。
- とはいえマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督は強度のロマンチストであり、ペシミズムを貫き通しての破局を好む英国人や「その執着心からの解放こそが解脱」などと仏教思想に流れがちな日本人とは訳が違う。(例え彼岸の彼方でしか実現しないにせよ)その執着心こそが人間を救済に導くと信じ抜こうとするその作風は、むしろ(ゲーテ「ファウスト(Faust、第一部1808年、第二部1833年)」に代表される様な)ドイツ・ロマン主義的といえるかもしれない。
- そして興味深い事にマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督、AT&TのCMなどでは「21世紀の作品トレンド=①平坦化(fraternize)②コミュニケーション・オリエンテッド(Communication Oriented)③環境オリエンテッド(Environment Oriented)」の三条件はきちんと満たせる事を証明してきている。
*まぁだからこそ宮崎駿監督をして「欧米監督と組むならこの人しかいない」と言わせたのだろうし「かぐや姫の物語(2013年)」で「人類は存在する事自体が罪で罰なの? 一刻も早く全員自殺しろが結論なの?」とまで言われてしまった高畑勲監督に「ジブリ・スタジオに起死回生をもたらす作家」として注目されたのだとも。ル・モンド誌のIsabelle Régnier女史も「短編におけるバランス感覚は完璧だった」と述べている。ならば問題は何処にあったのだろうか。
こうしてル・モンド誌のIsabelle Régnier女史いうところの「フィルムの第二の部分(La seconde partie du film)」 なる次元に新たにスポットを当てざる得なくなります。ここで新しい物語類型が継ぎ足されている事は明らか。ただし高度に抽象化されているが故にそれが何かについては定説が見出し難い雰囲気が漂っています。
- 国際SNS上においては、海外でも愛読者が多い安部公房「砂の女(1962年)」がそれと見做す向きが最有力候補とされている。確かに冒頭で「罰がなければ、逃げる楽しみもない」なる定言が掲げられ、自分を絡め取った地元の女の妊娠で以降の抵抗を諦める主人公の姿は「レッドタートル (英題The Red Turtle、仏題La Tortue rouge)」と重なる部分が多い。
- 私はあえてドイツ・ロマン主義がらみでフリードリヒ・フーケ「ウンディーネ(Undine、1811年)」説を提示したい。この物語に登場するウンディーネはパラケルススの古文献によれば元来は両性具有の完全体。しかし人間に恋すると存在感が半分に減少した美形が分離すると同時に「残された半身(a dark half)」が「人間に対する復讐鬼」として隙を見計らっては襲ってくる様になる。この仮説を採用すると「突如現れた女が亀の甲羅を海に向かって流すと、主人公もそれに呼応して未完成の筏を海に向かって流す場面」と「(解決を先送りにした矛盾が鬱積の末に襲い掛かってくる)大津波の場面」と「(主人公と添い遂げる道を選び、それによって彼を島に封じ込める事に成功した母親を差し置いて)息子が海へと還っていく場面(残された半身(a dark half)が失われた部分を取り戻して穏やかさを取り戻す)」がまとめて説明可能なので便利だったりする。
*そもそもフリードリヒ・フーケはナント勅令廃止(1685年)によって亡命を余儀なくされたノルマン系貴族の末裔。ヘッセン州でグリム兄弟が童話を採択したのが主にユグノーだった事、のと併せ「ドイツにおけるメルヒェンの起源のうち、少なくとも1/3はフランスにおけるフェアリーテール」といわれる所以である。その一方で「白雪姫」はカール5世に敗れたヘッセンのプロテスタント諸侯がフランドルに送った人質の娘が起源とされる。そして白鳥の騎士「ローエングリン(Lohengrin)」はネーデルランドを舞台とする物語。ドイツの国民的叙事詩「ニーベルンゲンの歌(Das Nibelungenlied、成立1200年〜1205年頃)」もその主役はネーデルランドの王子と(後にブルゴーニュに居つく)ブルグント族。つまり「ドイツにおけるメルヒェンの起源のうち、少なくとも1/3はフランドル(およびネーデルランド)起源」ともいう。
まぁこの辺りは物語中でも最も曖昧に描かれてる部分なので正解を追求しても無駄でしょう。最も重要なのは、あくまでこれまでマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督作品の長所とされてきたドイツ・ロマン主義的側面が、どうしてこの作品においてだけ「女性を直感的に不愉快にさせる短所」と映ってしまったかという事で、これらの仮説はそこに辿り着く為の仮足場に過ぎません。それでは、この作品の何処が女性を直感的に不愉快にさせるのか。結論は割と簡単。この世界が楽園なのは男性にとってだけで、女性にとっては牢獄に他ならない(それなのに支持者から「はいここは確かに楽園です」と復唱させられる)点にある様なのです。
①そう読み解く上での最大のヒントは「レッドタートル」フランス語版Wikipediaの以下の記述。「元来、この物語に登場する女性は幽霊というか神々しい女神というかそういう神秘的な側面を備えた女性として描かれていた。高畑プロデューサーの助言によってその属性は剥ぎ取られた」。要するに「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。 今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな青白い顔の月である。」を地でやらかしちゃったというという側面を見透かされてしまったのである。
②考えてみれば日本の作品は不思議なまでに徹底して真逆を狙った作品が多く、そういう作品がどんどん海外に紹介されている事も敷居を高くした。
- 小泉八雲の紹介で海外に知れ渡った「雪女」では「お前はイケメンだから殺さぬ」から「嫁に来た」へのコンボが炸裂。
*ちなみに小泉八雲が「雪女」の伝承を採集したのは調布。まぁ江戸時代の調布がどれだけ田舎だったかを物語るエピソードだが、とりあえず現代人の感覚では東京都の妖怪という事になる。
- 安部公房「砂の女」も女が男を絡め取る物語。
- 「ディズニー作品やジブリ作品をLovestoryとして楽しんできたのに、梯子を外されてご機嫌斜めの海外女子層(通称「ゴジラ」)」に選好された「氷菓(2000年〜、アニメ化2012年)」ばかりか、新海誠監督「君の名は」をも含む「飛騨女(ひだにょ)物」も、原則としては(ジェーン・オスティンのラブコメ三原則に従って)女性が意中の男性を射止める物語である。
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*まぁ物語文法的には「君の名は」の「東京のイケメンになりたい!!(身体交換)」もそのバリエーションという事になる(発動した瞬間、別の物語文法への乗り換えに発展しちゃうけど)。 ある意味「選択権を掌握した側は選択理由の説明義務を怠りがちで、時としてそれが相手の目に傲慢に映る」という構造的問題への対処。ただまぁこのジャンルは「砂の女」や、えすのサカエ「未来日記(2006年〜2011年、アニメ化2011年〜2012年)」や、石田スイ「東京喰種(Tokyo Ghoul、2011年〜、アニメ化2014年〜)」の様に「ぶっちゃけ相手は誰でもよかった」と思い知らされる残酷な展開も含む。
そして、こうした「自主的に振る舞う自由を得た動く女性達」は揃って口が縦に裂けても「ここは楽園でしょ?」などとは口にしない。まぁ「ここは過疎化の進む片田舎、水田が広がるばかりの灰色の世界で、このままでは誰も残りたがりません(千反田江留)」とか「卒業までお前に一人で過ごせる放課後と週末があると思うな(伊原摩耶花)」なんぞと宣言しておきながら「でも、それがこれからのお前にとっての楽園になるんだよ」なんて追い打ちを掛けたら単なるホラー。完全なるオーバーキル。ジェーン・オスティンのラブコメ三原則の第1条に反する展開になってしまう。あくまで相手には「自分は自らの自由意思による選択の結果ここにいる」と信じさせ続けてあげなければ、事は穏便に収まらないのである。
③所謂「白鳥処女説話(Swan maiden)」では、しばしば展開がこの真逆となる。そもそも「選ぶ(脱がして束縛する)権利」が男性に渡ってしまっているのが問題。
- 主に一族由来譚として語り継がれてきた日本の羽衣伝説においては「羽衣を奪われて天に帰れなくなった天女」は「そのまま地元に居ついて自分達の先祖になった」か「本人は羽衣を取り返して天に帰ったが子供達は残り、彼らが自分達の先祖になった」ケースが多い。
*吉田秋生「吉祥天女(1983年〜1984年)」もこの類型に属するが、この作品は同時に「先祖の血は世代ごとに濃くなったり薄まったりする。薄まった者は濃いままの者に密かに守られながらそれと気付かない」 なる考え方が出てくる最初期の例に数えられている。次々と殺し続けてきた結果、自分の想い人まで手にかけてしまった事を後悔する事すら許されない「吉祥天女」の小夜子。「一人殺せば後はもう際限なく殺すしかなくなる、だからお前は一人も殺すな」とクシャナに遺言して死んでいくトルメキア国王、デスゲーム流行期の2002年にあえて打ち切り覚悟で「私も人が死ぬ話は嫌なんです」と叫んで「2010年代前半の女王」としてリヴァイヴァルを果たした千反田江留。単なるフェニミズに還元出来ない歴史が、そこにはある?
- 逆に欧州の「ワルキューレ女房」や、アイルランドの「アザラシ女房」では「弱みを握っての拉致監禁の一種」という色合いが強まり、ワルキューレやセルキーは「衣服」奪還に成功した途端に脱兎の如く逃亡するケースが多い。
*この辺りの背景には欧州の大陸系結婚観(ほとんど「略奪婚」か「政略結婚」)の伝統があるらしくディズニー映画「メリダとおそろしの森(Brave、2012年)」にもメリダのママが「結婚に最初から愛なんてある訳ないでしょう?」と指摘してメリダのパパをギョッとさせる場面が挿入されている。で、この場面の国際SNS上での回覧率の高さが尋常じゃない。
- 女性から「I choose you!! 嫁に来た!!」となる展開では「メリュジーヌ物語、あるいはリュジニャン一族の物語 (Le roman de Mélusine ou histoire de Lusignan、散文版1397年、韻文版1401年以降)」が名高い。問題はこれを起源譚とするリュジニャン一族の足跡。正直言って「異類婚や彼岸と此岸の交流は悲劇しか生まない」なる俗説を覆すどころか、補強する結果としかなっていないのである。
*なにしろ十字軍国家と総称されるエルサレム王国(1099年〜1291年)、キプロス王国 (1192年〜 1489年)、キリキア・アルメニア王国(1198年〜1375年)陥落の引き金を引き、フランスにおける「ポワチエの反乱(1241年)」や英国における「ヘンリー3世に対する諸侯の反乱(1258年)」の直接の原因となった彼らは、欧州社会の十字軍に対する倫理的判断の変化と相まって「功を焦って致命的失敗を犯し続ける典型的駄目一族」のレッテルを貼られ、今日の欧州史劇においては日本の時代劇における「悪代官役」を独占的に押し付けられる状態に陥ってしまっている。
- 興味深いのは「それでもあえて留まった(あるいは逃げ切れなかった)ケース」。ここではあえて信じられないほど複雑な発展を遂げたケースとして五十嵐大介「海獣の子供(2006年〜2011年)」の例を挙げておきたい。
(01).沖縄で暮らす女子高生海女の加奈子は褌一丁で潜ると「海からの呼び声」が脳に届き過ぎるので母親にボディースーツ着用を提言するが「それは身体にフタする様なもんだ。目をつぶって運転する様なもんだ」と拒絶されてカッとなり、たまたま沖縄を訪れていた江ノ島水族館の職員を誘惑して駆け落ちする。
*この誘惑のシーンがまた幻想的。江ノ島水族館の職員を全裸に剥き、自分も全裸となって一緒に海に入り「海からの呼び声」をBGMに性行為に及ぶのである。新海誠監督映画「君の名は」における「口噛酒」は、この箇所の映像化が絶対アウト(相手は女子高生だしな!!)なので苦肉の策として設定された可能性がある。
(02).ところが「東京の人?」と聞かれて「近い」と答えた水族館職員の職場は江ノ島で東京からかなり離れていたし(騙された!!)、しかも海という自らの半身から完全に切り離された事から加奈子は全面的な虚脱感に襲われる様になり、それから逃れる為にほとんどアル中状態に陥ってしまう。
*この状態で娘の琉花 を出産するが、原典では「海を環境的に摸した胎内で育った胎児は臍の緒を断ち切られた瞬間に大いなる喪失感を経験する」なるキャプション付きで掲載された場面が新海誠監督映画「君の名は」でも「三葉の出産シーン」で、そのまま映像化されている。私が「レッドタートル」を「ウンディーネ系に分類したほうが便利」としたのも、作中に登場する女性の甲羅を流して以降の存在感の希薄さを「半身喪失に伴う虚無感の襲来」と結びつけて語るのが容易となるから。
(03).しかし娘の琉花が「海からの呼び声」を継承消息を絶っと知った加奈子は、突然「勇者」に変貌し七つの海に乗り出す。「娘が代わりに選ばれたのは私が貴方からの誘いを断ったせいなの?」。本当に子供世代に変わって母親が特攻し「我々が読みたかったのは、そんな物語じゃない」と駄目出しされて忘れ去られた中平正彦「破壊魔定光(1999年〜2005年)」の悪夢再び?
*実はこの問題、アメリカでは「魔法少女まどか☆マギカ(TV版2011年)」放映時に親世代が「この物語は、まどかママがまだ分別もない子供に過ぎないまどかやほむらを殴り倒して気絶させ、自分が魔法少女となって特攻して果てるのが正しい結末だった」と言い出し子供世代が「ママ、私達から全てを奪い尽くすのやめて!!」と反論して大論争となったのである。そしてここに商業主義の介入が。「ママ、観客が見たいのは子供世代の活躍なんですよ。ママが美味しいところ全部持ってっちゃったら、作品そのものが破綻しちゃうんです」。まぁ売り上げ重視なら当然そうなる。
その結果トム・ムーア監督作品「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた(Song of the Sea、2014年)」では主役兄妹のママはほとんど回想シーンのみの登場となった(おかげでパパがただの駄目人間にしか見えなくなってしまった)。
新海誠監督作品「君の名は」では三葉の母たる二葉は「回想シーン」における出産シーンと葬式シーンのみの登場となってしまった(おかげで三葉パパはただの悪人、テッシーはただのテロリストにしか見えなくなってしまった。ただしスピンオフ小説においてちゃんと救済は用意されている)。
④アート畑出身のマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督は、おそらくこの方面におけるこうした実社会上の対立構図をあまり意識していなかった。多分、天才肌の高畑勲プロデューサーも同様。ならばどうして「女神」を「ただの女」に降格させる措置をとったのか?
- 逆に作中の女性が「女神」のままだったら、どう観客の目に映っただろうか。例えば日本のWeb小説起源の「この素晴らしい世界に祝福を!!!(刊行2013年〜、アニメ化2016年)」はこういう物語である。
(01).不慮の事故で命を落とした主人公は「冥界の女神」から異世界への転移を持ちかけられる。女神は「異世界には望むものを1つだけ持っていける」と異世界転移の特典を持ち出しながら勧誘するが、その態度があまりにも横柄なので激怒し、女神自身を「異世界に持っていく"もの"」として指定する。
(02).こうしてただの冒険者に堕天させられた女神は副作用で運気が最低の御荷物に変貌。国際SNS上ではアニメで「酒が無制限に飲めた女神時代の感覚で飲酒してゲロ」とか「女神時代から継承した浄水能力で湖を清める為に檻に入れられ沈められる(ただの浄水器扱い)」といった場面が放映されてから国際的人気を獲得した。要するに「尊大な女神が復讐としてただの人間に堕とされ、プライドを粉微塵に打ち砕かれ続ける」という展開そのものに普遍的エンターテイメント性が認められたという次第。
(03).さらにこの女神様、屈辱的な事にファン人気も後から現れた別ヒロインに奪われてしまう。それを悔しがる姿までがエンターテイメントそして消費される展開にとなった。世界で最も残酷な生物は人間なのかもしれない。
- そもそも冥界神なる存在自体、エジプト神話におけるオシリスにせよ、メソポタミア神話におけるエレキシュガルにせよ、アイルランド神話におけるリルにせよ人間の手の届かない場所に超然と君臨してるからこそ人類や他の神々に畏れらるのである。バビロニア神話におけるティアマトの如く、迂闊に人間の手の届く範囲に姿を現した途端(日頃の鬱憤から)復讐として八つ裂きにされてしまうのがセオリー。このジレンマに付け込む形で魔術神イシスや破壊神ネルガルやモリガン(Mórrígan)/ヴァハ(Macha)/バズヴ(Badb)の「死神三姉妹」は「地上の代理人」として権力を掌握してきた。というか神殿宗教による祭政一致統治システムそのものがそういう構造になっていた。
*ダンセイニ卿作品やウィリアム・イエイツ作品を日本語に訳出せずにはいられなかった程ケルト神話に取り憑かれてしまった芥川龍之介は「素戔嗚」こそが日本の冥界神と見定めて彼に市松模様の服を着せた作品群を残している。
芥川龍之介 素戔嗚尊
芥川龍之介 老いたる素戔嗚尊
市松模様 - Wikipedia *「地上の代理人」…「君の名は」では宮水一族がこの役割を担う。この作品の世界観の肝なので小説版/スピンオフ版では丁寧な解説が為されたが、かなりエグいので映画版では完全に省かれた。一方「ソング・オブ・ザ・シー」でも「地上の名代」と「冥界神そのもの」の関係性で展開上重要な役割が持たされている。国内外を問わず「それって湯婆婆?」との声が高かった。
そういえば「千と千尋の神隠し(2001年)」もまた同一類型に分類される作品といえなくもない。実際、両親と違って豚に変えられずに済んだ千尋と、アイアイエー島の魔女キルケー(Circe)の魔法が通用しなかったオデュッセウスの姿が重なる。そういえばこの魔女もまた「女は男に屈服して初めて人間となる不完全生命体」なるマチズモ( machismo、男権主義)」的理念の例証の一つとして挙げられる存在だったりする。
*湯婆婆は絶対的なまでにそういう存在ではないし、彼女の「中の人」たる夏木マリは「里見八犬伝(1983年)」における玉梓の演技でニール・ゲイマン脚本作品「ベオウルフ/呪われし勇者(Beowulf、2007年)」やディズニー映画「マレフィセント(Maleficent、2014年)」におけるアンジェリーナ・ジョリーの地母神的演技に影響を与えたとされている。
ここまで定義を敷衍するなら同じニール・ゲイマン原作の「コララインとボタンの魔女(Coraline、2002年、映画化2009年)」における「ボタンの魔女」や、柳内たくみ「ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり(Web連載2006年〜、刊行2011年〜、アニメ化2015年〜)」における冥界神ハーディや、それと同類としての葵梨紗(主人公の元嫁)」も完全視野内に。特に後者は「冥界神ハーディの地上における代理人」が馬鹿なドジっ娘で延々失敗を繰り返すのが主要ネタの一つとなってる辺り「この素晴らしい世界に祝福を!!!」と重なる。
- ここで列記された神名リストを見れば明らかだが、この次元において「君の名は」「ソング・オブ・ザ・シー」「レッドタートル」「この素晴らしい世界に祝福を!!!」は全く同じ物語類型に分類される。逆を言えば、まさにそこからが「料理人としての腕の見せ所」となる。
*いずれにせよ展開の鍵を握るのは登場人物達が「生物としての終焉」と「忘却による完全消滅」なる「死の二重構造」に直面する事になる辺り。これにクライブ・バーカー「キャンディマン(Candyman、1984年〜1985年、映画化1992年)」で提示された「凡人として死後あっけなく忘れ去られたいか、非業の死を遂げて永久に語り継がれたいか」なるジレンマを絡めると実に多様な展開が想定し得るのである。
- ところがドイツ・ロマンティズム的スタンス(要するに「諦念でなく執着の貫徹こそが人間を救済に導く」とする立場から、第三者の視線の意味を完全に切り捨てる態度)に拠るマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督にとってこの次元での戦いは完全なるアウェー。正直言って物語文法的には(新海誠監督やトム・ムーア監督や五十嵐大介が選択した様に)「冥界」を徹底して人間の手の届かない高みに引き上げるか(「この素晴らしい世界に祝福を!!!」が選択した様に)人間にとって卑近な存在に落として徹底的に笑い者にするかの二択しかないのだが、マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督はあえて「第三の道」の模索を始めてしまう(制作に8年も要したのはそのせいとも)。危険を察知した高畑勲プロデューサーは「彼女をあえて女神として描かない事」によって事態の収拾をはかったが、困った事にこの変更こそが「女は男に屈服して初めて人間となる不完全生命体」みたいな女性を不快にさせるマチズモ( machismo、男権主義)」要素が付加された主要因としか思えないのである。まさしく「ジブリやっちゃった」?
*実は冥界神エレキシュガルも、結構一瞬でネルガルにデレる。どうやら古代の地母神だからといって必ず格調高いとはいえない様である。
地獄の沙汰も恋しだい
- 「今の日本のアニメーションはどん詰まり」なる立場に立つ宮崎駿監督は「レッドタートル」について「いま、世界のアニメーションの情勢は、良い意味でも悪い意味でも日本のアニメーションの影響を与えている。あなたの作品を見る限り、日本の影響を一切うけていない。それは見事である」と礼賛。しかし、そもそも古代から蓄積し続けてきたありとあらゆる物語類型に立脚しつつ、世界じゅうのありとあらゆる物語類型を貪欲に吸収し続けてきた日本の作品と「完全に無関係」たらんとす事に本当に意味があるのだろうか? そもそも、そんなスタンス、本当に可能なのだろうか? むしろトム・ムーア監督の様に「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と割り切ってあえて国際的トレンドには逆らわず、むしろその枠内で「アイルランドらしさ」を樹立しようとする態度こそ健全だったりしやしないだろうか?
「普通の人にはそうとしか見えない作品」に仕上がっちゃった事自体は仕方ありません。しかし、こうなると逆に「それではマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督は本来はどう鑑賞してほしい作品を制作したのか」が気になってくるというもの。何しろ他の作品では、ちゃんと①平坦化(fraternize)②コミュニケーション・オリエンテッド(Communication Oriented)③環境オリエンテッド(Environment Oriented)」の三条件をきちんと満たしてきた作者が、この作品でだけ「男が邪魔者の亀を殺したら、女に生まれ変わって嫁になった」なるマチズモ( machismo、男権主義)に固執するとは到底考えられないからです。
- とりあえず「レッドタートル」鑑賞者の多くが(それまでの短編作品と異なり)この作品を見て「恐いと感じる」理由の推察から入る。
*この作品の出発点がウィリアム・ゴールディングの「ピンチャー・マーティン(Pincher Martin、156年)」と考えれば「怖いと感じる」のは当然。そこではマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督の得意分野、すなわち「繰り返される不可能への挑戦」が「本当は既に肉体は溺死しているのだけれど、魂だけがそれを認められず必死にサバイバル体験を続けている状態」と「彼の努力を無に帰し続ける事で、無駄な抵抗を諦めさせ様とする神の恩寵」の衝突という形で顕現しているのだから。作中に特に記載があった記憶はないのだけど「生存の為の努力を次々と無に帰すロブスター」って、カバーイラストなどではやはり「赤=死の暗示色」で描かれる事が多い。まぁまず間違いなくこれが「レッドタートル」における「男の帰還をひたすら邪魔し続ける赤海亀」の発想の原型かと。
- そしておそらく、ル・モンド誌のIsabelle Régnieのいう「フィルムの第一の部分」は「男が(文明社会への帰還を邪魔する)亀を殺す場面」と「亀(大自然)が男を殺す場面(浜辺で死を迎える場面)」の対で構成されている。何故なら「ピンチャーマーティン」という作品は「冒頭で必死になって作業用長靴を脱ぐ場面(その後、岩礁に漂着してロブスターと戦う)」と「最終的に作業用長靴を脱ぐ間もなく溺死していた事実が明らかとなる場面」の対で構成されているが、この作品でそれに該当するのは「主人公が死にかけた赤海亀の手を握るとそれが若い女の手に変わった場面」と「死んだ男の手を握った女の手が赤海亀に戻っている場面」の対としか考えられないからである。
*そして「男が(自らの文明社会への帰還を邪魔する)赤海亀を殺す事に成功した」場面そのものが幻想で「男は赤海亀を殺す間もなく死んだ(既に浜辺に漂着した時は遺体だったのかもしれない。いずれにせよ蟹や赤海亀は記憶の中か死の直前に見た景色の投影に過ぎなかった)」と考える事によって、この作品はとりあえず偏狭なマチズモ( machismo、男権主義)的解釈から解放される。
- だがまだまだ「地雷除去作業」は終わらない。それに取り組む為、まずはル・モンド誌のIsabelle Régnieが「フィルムの第二の部分(La seconde partie du film)」と呼んだ「エデンの園を連想させる家族生活」と上掲の「第一の部分」の狭間に注目する必要がある。すなわち「(そもそも主人公の妄想に過ぎなかった)自らの意思で殺そうとした赤海亀が衰弱すると水を注いで助け様とするエゴイスティックな場面」から「(人間に生まれ変わった)赤海亀が自らの脱ぎ捨てた甲羅を置きに流すと、主人公もそれを模倣して未完成の筏を流し、以降脱出の為の努力を諦めてしまう場面」への流れ。ここにはどういう意味があったと考えるべきなのか?
*マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督作品の特徴は「繰り返される不可能への挑戦」が最後は(諦念に敗れたらその時点で敗北確定。執念の完遂こそが天国への階段とする)ドイツ・ロマン主義的展開にまで到達する点にあるが、この作品において初めて「主人公の執着心の放棄」を描いた。なにしろ「ピンチャー・マーティン」という作品は「主人公が助かろうと足掻き続ける限り終わらない煉獄」という基本構造になっており、その形でしか救済が訪れない世界観になっているからである。
- そういえばこの作品に登場する「エデンの園」は若干歪んでいる。登場人物は家も建てず日常生活で火も使わないが、衣服を着ているし(それだけは「天の采配」で供給され続ける)主人公はしばしば音楽やダンスを懐かしむ。その一方で女は何だか元気がない。息子は(ゴールディングの前作「後継者たち(The Inheritors、1955年)」の様に)「楽園」に満足出来ず「外の世界」に向けて出発してしまう。「二人の老後」は下手なコスプレにしか見えない。実はこの作品に描かれているのはそもそもフランスの評論家達を歓喜させた「楽園への回帰の可能性」の真逆、すなわち「楽園への回帰の不可能性」なのではあるまいか?
*「女が元気をなくす」…あえて理由を探すなら(甲羅を流したり、人間の服を着せられる事によって)海から切り離されたせいという事になろう。そして関連する物語類型全てが、こうした我慢の鬱積が、やがて「(自然の復讐としての)大爆発」に帰着する展開となる。
◎フーケ「ウンディーネ(Undine)」に登場する「人間に恋して自らの半身(a dark half)から切り離された精霊」の存在感の希薄さ。皮肉にもそのせいで黙殺され、裏切られて怒りに駆られるほど「本来の自分」を取り戻し、最後は主人公を水を操る力で溺死させる事によって人間界への執着を捨て切って自然の一部に戻る。
◎トム・ムーア監督映画「ソング・オブ・ザ・シー(Song of the Sea)」における「(おそらく自由恋愛の結果、主人公のパパと結ばれたのでアザラシの毛皮を奪われる事がなかった)主人公のママが結局は海に帰ってしまう」とか「アザラシの毛皮を取り上げられて海から切り離されて以降、どんどん衰弱していく妹」といった展開。パパが終始間違った事しかしないので「ママはどうしてこんな男に惚れたのか?」と勘ぐりたくなる。
◎五十嵐大介「海獣の子供」における「海からの声から逃げ出した結果、虚無感に襲われアル中になった挙句の果てに、代わりに娘を奪われそうになる安海加奈子」。そういえばこの作品のパパも徹底的に何もしない。逆に新海誠監督映画「君の名は」においては三葉と四葉の母たる二葉が全ての業を背負って隕石対策を準備する。映画版のパパは「察しの悪い悪人」としか見えないけどスピンオフ小説で救済措置あり。
*「こっち側」に注目するのが(山岸凉子「日出処の天子(1980年〜1984年)」「馬屋古女王(1984年)」や吉田秋生「吉祥天女」や荒俣宏「帝都物語」が人気だった)1980代流。そうえば1940年代にまで遡るアイザック・アシモフ「ファウンデーション・シリーズ(The Foundation Series)」が壮大な宇宙叙事詩に編纂されたのもこの時期だった。そして2010年代には(巨大化し過ぎてもはや全体像の俯瞰が不可能になってしまった)システム全体と個人の関係にスポットライトを当てるのが主流。「君の名は」は絶妙なトリミングによって二つの時代をまたぐ作品として成立している。
*そもそもセカイ系作品とは、この二つの時代の過渡期に見られた「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に『世界の果て』とつながってしまうような想像力で成立している作品」や「戦闘を宿命化された美少女(戦闘美少女)と、彼女を見守ることしか出来ない無力な少年なる図式」の一時的流行に対応する。そしてセカイ系評論とはこのムーブメントにのみ注目し、その直前における「身体感覚のみしか信じられないニヒリズム期間」や「デスゲーム物の流行」、およびその直後における「異類婚や彼岸と此岸の交流は不幸しか生まないという物語文法の崩壊」と完全に切り離して論じようとするする立場。総体としては「戦後日本人はずっとアメリカの陰に拘束されてきた。これから脱却しない限り日本人は真の意味での自由意思も個性も獲得出来ない」という事になるらしい。吃驚するほど思考様式が1980年代のまま停止してる。
*まぁ「レッドタートル」を「これぞ楽園と神話の再建の物語」なんて間違った方向で褒めそやして世界中の女性を不快な気分にさせ、フランスにおける興行成績を「3ヶ月で2億円強」という寂しい状態に終わらせる事に成功して快哉を挙げたフランス人評論家と50歩100歩という感じ? セカイ系評論家が目指してるのって、案外日本を「フランスの様な立派な批評大国として日本を再建する事」なのかもしれない。ちなみにこの作品について世界系評論家は一切触れようとしない。
- とはいえここに疑問が生じる。もしそれだけだったらマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督は「ピンチャー・マーティン系物語類型」に全面敗北した事にならないか? それどころか、そんな具合に女にばかり犠牲を強いれば平坦化(fraternize)の原則が崩れ、マチズモ( machismo、男権主義)の影が再び忍び寄ってくる。この状況を回避するには、男の方も物語の途中でさらに「筏をこれ以上作り続けない事」以上の犠牲を払ったと考えざるを得ず、物語中においてそうした要素を探すなら「(海から離れた母の代償も兼ねての)息子の出発」以外有りえない。だからジブリの日本版ポスターはああだったし、それ以降海は再び暴れる事はなかったという事なのだろう。
*例えばこうも考えられるだろう。「波打ち際に打ち上げられた男は臨終の間際に赤海亀産卵の場面と子亀達が海へと返っていく場面に立ち会った(実際マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督もそれに立ち会い、その時受けた感動が作品の方向性を決定付けたという)。そして混濁した意識の中で夢見たのが作中で展開した様な景色だった」。そう実際には男は「上衣を人間に生まれ変わった赤海亀に着せる」事なく死に、その「帰りたい」なる意識は子亀達に投影され海に旅立った。万人が納得するかどうかは別として、この解釈ならこれまで列記してきた様な様々な問題が全て回避可能となる。そしてこういう作品なので「その事が鑑賞者にとって何を意味するか」などは各人が考えるしかない。
作品そのものは実に丁寧に作られてるし実際傑作の部類に入ると思います。マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督の過去作品は好きだったので、こういう読み解き方を発見して私自身も救われた気持ちになりました。便乗して「人間は本来の姿に回帰する為に原子力や火力発電や水力発電どころか火すら捨てるべきと論証された」とか「やはり女という生物は男に屈服して初めて人間になるのだ」みたいな不思議な理屈を唱える評論家のみなさんがハッスルしなければ、フランス本国でだってもう少し興行成績が上げられたんじゃないでしょうか(棒読み)。それに比べたら、この層がヒャッハー状態で無双しない日本の方が鑑賞環境として恵まれている?