諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

古代日本祭政史①「葬祭未分化状態」のヤマト王権

①日本は最初「前方後円墳国家」としてスタートしたとされています。それは「複数の集落を束ねる在地首長(前方後円墳の築造単位)」を地方行政単位とし「大陸からの流入文物」の再配分を一手に担うヤマト王権を中央集権体制の頂点として仰ぐ豪族連合の一種でした。

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  • 3世紀上旬、日本の纒向で始まった最初の「国家祭祀」。染料で赤く染めた水と炎を用い、太陽の動きと関連付けられた道教ベースの綺麗だった可能性が指摘されているが残念ながら詳細は不明。

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  • いずれにせよ東海地方や関東地方において不人気で4世紀に入ると「三輪山沖ノ島を御神体として結びつけシャーマニックな儀礼を展開する自然崇拝色の強い内容」に推移し、祈願内容も「(洛東江流域からの)鉄の安定供給」が中心に。
    *海人族の「Trinity(三位一体論)」への執着心はすごい。そして世界中の多くの地域でそれは「少女・熟女・老婆」の女神三相の形態をとる。「沖津宮・中津宮・辺湯宮」の三箇所で営まれた沖の島祭祀も「山頂祭祀・中腹祭祀・麓祭祀」の三箇所で営まれた三輪山祭祀も元来はに対応する体裁を保ってたのかもしれない。

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  • ただし5世紀後半から6世紀上旬にかけて洛東江流域からの鉄の供給が途絶えがちとなる一方、近江の鉄鉱山が開発されたり、砂鉄から鉄鋼を精錬する技術が全国に広まったりしてこうしたシステム全体が崩壊してしまう。

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そもそも5世紀に入ると、ここでいう「(再配分されるべき)大陸からの流入文物」が次第に鉄製品という具体的産物から渡来人なる人的資源と彼らがもたらす文化(養蚕や絹織物、甲冑や須恵器などの生産手段、および土木建築技術など)へと推移。その管理単位として「品部」なる人材管理システムが発達して後の「氏姓(うじかばね)」制の礎となっていくのです。

品部 - Wikipedia

崇神天皇代における「大田田根子(意富多多泥古)」

三輪山祭礼は、澁川郡阿都や和泉といった河内で陶器を焼いている渡来人集落と密接な関係を有する。またそれに関連する葛城氏・賀茂氏は紀ノ川流域と関係が深い。

  • 大物主神に仮託された三輪山そのもの」を神体として奉じる大神神社奈良県桜井市三輪)を最初に祀った人物は、日本書紀では大和国磯城地方(のちの大和国城上郡・城下郡。現在の奈良県磯城郡の大部分と天理市南部及び桜井市西北部などを含む一帯)を本拠地とする三輪君の祖である大田田根子、「古事記」ではその神君(みわのきみ)の祖であると同時に事代主神一言主を祀って奈良盆地南部に栄えた葛城氏や賀茂氏の源流とされる意富多多泥古で、鴨君(かものきみ)の祖であるとされている。

  • いずれにせよ大物主神を父とし(『古事記』では四世孫)、陶津耳の娘の活玉依姫命を母とする大田田根子が発見されたのは「河内の美努村」とされ、御野県主神社(現八尾市上ノ島町)とも陶荒田神社(現大阪府堺市上之、旧名「陶器(すえき)村大字太田字上之」)ともされているが、どちらも周辺に陶器窯遺構が多い事で知られる。

  • また「大」「田田根子」と切り分けて「(物部氏と関係が深い)多氏」出身とし、その多氏が雅楽の世界では京都方・宮中に控えていた大内楽所の名家でもあり、夜中に非公開で行われる宮中神事「御神楽」が魂鎮め(たましずめ)に関係する内容という説と結びつけて考える向きまもある。

  • そもそも葛城氏や賀茂氏は出雲系ではなく河内国を流れる千早川流域から水越峠を越えて「木国」を流れる吉野川から風の森峠を越えてこの地にやって来た外来者という説もある。

  • 出雲系祭神のアジスキタカヒコネを祀る高鴨神社がそう呼ばれるようになったのは葛城川沿いにある葛城御年神社や鴨津波神社と「高地にある鴨神社」というニュアンスで呼び分けられたせいに違いない。十歳、その高鴨神社から葛城川を下った御所市東持田にあるのがスサノヲの子たる大年神の子で穀霊たる御年神を祀る葛城御年神社であり、さらに葛城川を下った御所市中心部にあるのが出雲神話の水神でオオアナムチの子にあたるコトシロヌシを祀る鴨津波神社である。

この鴨津波神社こそが全国のコトシロヌシ信仰の総本社とされているが、そこで行われる祭祀はミマキイリヒコの時代に、三輪山大神神社の祭祀を始めた大田田根子の孫たる大賀茂都美という者が勅命を受けて創始したとされている。この大田田根子がオオモノヌシの血を引くとされているという事は、つまりこの葛城川水系に属する地は賀茂氏到着以前から既にコトシロヌシを祭祀する資格を有する出雲系一族の統括下にあり、後からやってきた葛城氏や賀茂氏の先祖もそれを推戴する形でしか現地支配が出来なかったとも考えられる訳である。

【承前1】「前方後円墳国家」の終焉

五世紀中旬になるとヤマト王権を支える豪族連合の顔ぶれに若干の変化が現れた。

  • 毛野国(群馬)では五世紀前半から倉賀野地域(高崎市東南部)で浅間山古墳(全長172m)などが築造されてきたが、突如これが30キロほど東方に向かった太田市に移行して東日本最大級の太田天神山古墳(全長210m)が出現。これは別名「男体山古墳」と呼ばれ、日向灘沿岸にある男狭穂塚古墳(日本最大の帆立貝形古墳)と女狭穂塚古墳(九州最大の前方後円墳)とともに近隣の女体山古墳(帆立貝形古墳, 全長106m、五世紀中葉)とセットで造営された可能性があると指摘する向きもある。

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  • 四世紀後半から日本海経由で半島交易台頭してきた丹波海人族に混じって若狭を押さえてきた膳部臣も、五世紀中葉の向山一号墳(五世紀中葉。全長48.6mの前方後円墳。九州北部様式の流れを汲む本州最古期の横穴式石室と、前方部に追加された武器・武具のみを納める副葬施設)築造を契機に時代を先取りした古墳の築造を開始。この頃より山部系勢力の活動が活性化するのである。
    *後世における地名や人名の分布からそれが畿内のみならず関東から中四国まで及ぶ相当大規模なものだった事は明らかだが、残念ながら大半の時期は同時代資料との照合が不可能である為にその時期が確かめられない。

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    ◎山部系勢力…伊賀を発祥の地とする大彦命崇神天皇代の四道将軍の一人として北陸道を制圧した孝元天皇の第一皇子)の末裔。伊賀敢国神社を共同で祀る阿部氏・膳部氏・阿閉氏・近江佐々貴山君・筑紫君・越君・伊賀君など。

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    埼玉県行田市稲荷山古墳より出土した鉄剣銘文に並べられた祖先名に「オホヒコ(大彦)」「タサキワケ(佐々貴別)」が含まれていた事から、六世紀初旬に上毛野君弱体化に貢献した武蔵君もこの一族に加える向きがある。

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    近江国蒲生郡篠笥郷(現滋賀県蒲生郡安土町辺り)を本拠地とする「佐々貴山君及び雀部」の勢力範囲も湖東から江北、さらに出雲一帯に広がっていった。

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    越後国頸城郡春日山に居した春日山君(近江国栗太郡小槻邑に起こり小槻神社を奉斎した「小月之山君=小槻山公=小槻朝臣」もその一族とされる。

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  • 備中でも五世紀中盤には作山古墳(岡山県総社市三須 五世紀中旬、全長286mの前方後円墳、全国第九位)が造営されて備前勢力を睨みつつ、物部氏と協力し合いながら奈良の石上地方といった和邇氏の所領を蚕食していった。

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一方、文献記録を見ても、五世紀後半は個々の地方豪族というより畿内豪族、それもヤマト王権に直属する連姓氏族の躍進が著しい。

  • 大伴氏…おそらく葦北君と提携して半島及び九州から西日本一帯に掛けて軍事的に睨みを効かせた。

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  • 物部氏…東国中心に展開しつつも、吉備氏が内紛激化で衰退すると代わって瀬戸内海を掌握する様になり、次第に大伴氏と衝突する機会が増えていく。
    1209夜『物部氏の正体』関裕二|松岡正剛の千夜千冊

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当時は日本最大の大山古墳(伝仁徳天皇陵)が築造されつつも、それがヤマト王権専制の完成どころか「(これまで百舌鳥古墳群を采配してきた)土師氏による(他の古墳群の造営に従事する)土師氏への勝利宣言」の意味しか持たなくなっていたかもしれない時代であった。そして以降「最も巨大で内容も優れた古墳を造営した勢力が日本で最大の評価を受ける」なる共同幻想の破綻が畿内先進地区より始まり、やがて西日本一帯に一代限りの竪穴式石室を有する首長墓ではなく、一族単位に群集墓や横穴式石室を築造する慣習が定着していく事になる。

一言主 - Wikipedia

葛城山麓の奈良県御所市にある葛城一言主神社が全国の一言主神社の総本社となっている。地元では「いちごんさん」と呼ばれており、一言の願いであれば何でも聞き届ける神とされ「無言まいり」の神として信仰されている。このほか、『続日本紀』で流されたと書かれている土佐国には、一言主を祀る土佐神社があり土佐国一宮になっている。ただし、祀られているのは味鋤高彦根神であるとする説もあり、現在は両神ともが主祭神とされている。

  • 古事記』(712年)の下つ巻に登場するのが初出である。460年(雄略天皇4年)、雄略天皇葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある。

  • 少し後の720年に書かれた『日本書紀』では、雄略天皇一言主神に出会う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になっている。

  • 時代が下がって797年に書かれた『続日本紀』の巻25では、高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された、と書かれている。これは、一言主を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかと言われている。
    *ただし、高鴨神は、現在高鴨神社に祀られている迦毛大御神こと味耜高彦根神であるとする説もある。

  • さらに、822年の『日本霊異記』では、一言主役行者(これも賀茂氏の一族である)に使役される神にまで地位が低下しており、役行者伊豆国に流されたのは、不満を持った一言主が朝廷に讒言したためである、と書かれている。役行者一言主を呪法で縛り、『日本霊異記』執筆の時点でもまだそれが解けないとある。

  • また、能の演目『葛城』では、女神とされている。

名前の類似から、大国主命の子の事代主神と同一視されることもある。

古事記」雄略伝

天皇が美和川に遊んだ際、ひとりの女性を見初めて、やがて迎えるから他の男に嫁ぐなと言い渡した。その言葉を信じた女性は、召されるのを待っているうち80歳になってしまったが、ついに痺れを切らして天皇のところに押しかけた。

天皇は赤猪子をみて、かつての約束を思い出したが、こんなに老いてしまっては「婚ひ」をするわけにもいかぬだろうといって、代わりに歌を贈った。

御諸(みもろ)の 厳白檮(いつかし)が下 白檮(かし)が下 
ゆゆしきかも 白檮原童女(かしはらをとめ)

引田(ひけた)の 若来栖原(わかくるすばら) 若くへに 率寝【ゐね】てましもの 老いにけるかも(お前がまだ若かったなら、ともに寝たであろうが、こんなに老いてしまってはなあ)。

これに対して、赤猪子は次の二首の歌を返した。

御諸に 築(つ)くや玉垣 斎(つ)き余し 誰にかも依らむ 神の宮人
日下江(くさかえ)の 入江の蓮(はちす) 花蓮 身の盛り人 羨(とも)しきろかも(日下江の入り江の蓮のように若々しい人々がうらやましうございます)。

また雄略天皇は吉野に遊んだ際、やはり乙女を見初め、彼女に呉床居の上で舞を舞わせた。

呉床居(あぐらゐ)の 神の御手もち 弾く琴に 舞する女(をみな) 常世(とこよ)にもかも(このまま御前は永久に美しくあれ、この天皇がそう命ずる)。

岩波文庫版の古事記の注釈は、後者について「道教的要素の勝利を感じる」と指摘する。

  • その見解が正しいなら、もう一歩踏み込んで「伝統的シャーマニズムに基づく三輪山祭祀に対する、道教的華やかさに満ちた吉野祭祀の勝利を示唆している」ともいえるかもしれない。

  • まず「葛城氏の台頭期=『初出現』一言主の登場期」に起こった宗教観のパラダイムシフトが解明されるべき。当時、葛城高原に割拠する葛城氏と大陸貿易に従事する紀氏は組んでいた。全体的に見て葛城氏が「道教的華やかさ=大陸的華やかさ」を導入した新しい祭祀スタイルで守旧派勢力を席捲した可能性は充分考えられる。

*もちろん何かしらの形で反動があって、葛城氏は五世紀中半にして没落を始めてしまう(興味深い事に葛城氏全盛期の間だけ畿内で高霊土器や馬韓土器が出土)、そこは見て見ぬ振りを通すのが「古事記」の基本姿勢、むしろそっちをきっちり書くのが「日本書紀」の姿勢とも見て取れる。

またこの事は仏教伝来期、当時の寺院が尼ばかりで運営されている感がある事とも関連してくるかもしれない。要するにそれまであった斎宮が転換されたという次第。

  • 日本書紀」に記された敏達十三年(584年)条には、蘇我馬子の信心の最初が「還俗した高麗人を仏法の師とし、司馬達等の娘嶋を11歳で出家させて善信尼とし、その弟子二人、すなわち漢人夜菩の娘たる豊女と錦織壷の娘である石女も出家させて、それぞれ禅蔵尼と恵善尼とした。馬子は一人仏法に帰して三人の尼を崇め敬い、氷田直と司馬達等に託して衣食を供させた」とある。最初の関係者は全員渡来人で、出家者は尼しかいなかったのである。

  • 日本書紀」に記された敏達十四年(585年)三月の排仏活動に「人々に侮りの心を持たせる為に、役人に尼達を捕縛させ、法衣を剥いで海石榴市の馬屋舘に繋いで尻や肩を鞭打たせた」とあるのも、あるいは本来邪神崇拝が流行した際、ヤマト王権の神威がこれに超越する事を誇示する為に伝統的に行われてきた慣習法に基づく措置だったのかもしれない(あるいは「太陽神を鼓舞する為に女性を裸にして踊らせる」古俗との関係も想起される)。

とはいえ、こうした傾向は最初期だけで推古天皇代までに大分是正が進んだらしい。

  • 日本書紀」推古三十二年(624年)秋9月3日条に「寺および僧尼を調査した。詳細に各寺の縁起、僧尼の入道事由、出家年月日などを調べさせた。それによれば、この時の寺は46ヶ場所、僧816人、尼569人合計1385人だった」とある。

  • 推古二十二年(614年)8月条に「蘇我馬子大臣が病気になったので、その平癒を祈って男女1千人を出家させた」とある。

割と当時の政治における最優先課題だった可能性も浮上してくる。

「新撰姓氏録(815年)」神別条和泉国 巫部連(カムナギベノムラジ)

雄略天皇の御代に物部氏が九州豊国から奇巫を連れきたが、当人は和泉に居着いた。

  • 【原文】雄略天皇、御体不予、因茲召上筑紫豊国奇巫、今真椋大連率巫仕奉、仍賜姓巫部連。
  • 【現代文】雄略天皇が病のとき、筑紫豊の国の奇巫を召し、物部真椋連(真椋大連)に巫覡を率いさせて供奉させたので、巫部連の姓を賜った。

先代旧事本紀(大同年間(806年~810年)と延喜書紀講筵(904年~906年)の間に成立と推察されている)』天孫本紀にも「物部真椋連公」の名前が見えて「宇摩志麻治命十一世の孫、伊コ弗の子で、巫部連、文島連、須佐連らの祖」とされている。事実かどうかはともかく物部目(石上氏)や布都久留(依網氏)といった有力者の祖の兄に位置づけられている事から、巫覡を部として組織する事が鎮魂儀礼などとに関連で重要な意味を持っていた可能性を示唆している。

「続日本後紀」仁明帝記 承和十二年秋七月巳未(845年、旧暦7月14日)条

これも雄略天皇の御代に物部氏が九州豊国から奇巫を連れくるが、当人は和泉に居着いた話。

  • 【原文】右京人中務少録正五位下巫部宿禰公成、大和国山辺郡人散位従六位下巫部宿禰諸成、和泉国大島郡正六位上巫部連継麿、従七位下巫部連継足、白丁巫部連吉継等、賜姓当世宿禰、公成等者神饒速日速命苗裔也、昔属大長谷幼武天皇(雄略帝)公成等始祖真椋大連奏、迎筑紫之奇巫、奉救御病之膏盲、天皇寵之賜姓巫部、後世疑謂巫覡之種、故今申改之。

  • 【現代文】右京の人で、当時中務少録にして正五位下だった巫部宿禰公成、大和国山辺郡の人で、散位にして従六位下だった巫部宿禰諸成、和泉国大島郡の人で正六位上だった巫部連継麿、従七位下だった巫部連継足、白丁だった巫部連吉継らが「当世宿禰」の姓を賜る。公成らは神饒速日命の苗裔で、雄略天皇の世に始祖の真椋大連が筑紫から奇巫をむかえ、天皇の病を救い奉り、その功により巫部の姓を賜ったが、後世になると巫部氏そのものが巫覡の類いと疑い見られるようになったため、いま申すところによりこれを改めることにしたという。

古代の八女(福岡県南西部)は筑紫国の一部として古くから人の定住が定住してきた。縄文時代から弥生時代にかけての遺跡が多数発見され、北側の丘陵部分を中心に300基ともいわれる古墳群がある。また邪馬台国論争の九州派の間には福岡県山門郡(八女市の南西で隣接)説を有力視する声もあり、この場合邪馬台国有明海筑後川矢部川を挟む一帯に存在し、八女も含まれたとする。また邪馬台国の所在地とは無関係に「祭政一致体制の要となる巫女は八女の巫女団が供給していた」とする説が存在する。
*八女地方における古代国家の成立を証明する史実としては、いわゆる「筑紫君磐井の乱(527年)」が有名である。大化の改新(645年)以前の最後にして最大の内戦であったともされるが、磐井の墓とされる八女市北部にある岩戸山古墳は北部九州最大の前方後円墳であり、阿蘇山の噴火による凝灰岩を用いた石人石馬の出土で名高い。この為に「ヤマト王権に敗れて滅んだ」とする記述を疑問視する向きもある。

「羽田氏」の興亡と伝説の名代「日下部」

古事記」仁德天皇段には「大日下王(大草香皇子、波多毘能大郎子)の御名代として、大日下部を定め、若日下部(草香幡梭姫皇女、波多毘能若郎女、橘姫皇女、後の雄略天皇皇后)の御名代として、若日下部を定めたまひき」とある。

  • 武内宿禰の長男とされる羽田八代宿禰大和国高市郡波多郷を本拠地とする畿内豪族グループの一員だっただけでなく、肥後熊本八代郷を本拠地とする「火の葦北君」でもあり、半島での軍事活動に欠かせない筑紫君とも縁戚関係にあった。

  • そして応神天皇と宮主宅媛(和弭日触使主の女)の間に生まれた八田皇女(やたのひめみこ、矢田皇女。応神天皇の皇女にして仁德天皇皇后)の別名は八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)」であり、これが「ハタノワキイラツメ)とも読めなくないところから羽田八代宿禰の縁者でもあった可能性が出てくる。

  • 大日下王(大草香皇子、父は仁德天皇、母は日向諸県君牛諸井の娘である日向髪長媛)という名前は「日下草香(ひのもとのくさか:神武天皇が瀬戸内海から難波(今の大阪)に流れ着いた際、東方の生駒山麓の草香地方から太陽が昇った事からそう呼ばれる要になったという)」に住んでいたことに由来するとされているが、同時に「日下部」姓が西日本全般に古文献上から散見される事からさらに広い範囲を指すともされている。またその別名は「波多毘能大郎子(ハタビノオホイラツコ)」とされており、ここでも波多八代宿禰の縁者であった可能性が出てくる。

  • 当然、その同母妹の若日下王(波多毘能若郎女、父は仁德天皇、母は日向諸県君牛諸井の娘である日向髪長媛、雄略天皇皇后だが、古来より履中天皇の皇后たる草香幡梭皇女と同一人物であるとする説がある)もこの範疇に入ってくる。

  • そもそも 履中天皇皇后妃となった幡日之若郎女(はたびのわかいらつめ)の父が応神天皇、母が日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)、同母兄弟に大葉枝皇子(おおはえのみこ、大羽江王)と小葉枝皇子(おはえのみこ、小羽江王)となっているのが怪しい。あたかも一世代ずらしたかの様である。

  • 日本書紀応神紀」髪長媛入内の播磨灘説話「一に云はく、日向の諸縣君牛、朝庭に仕へて、年既に老いて仕ふること能はず。依りて致仕りて本土に退る。則ち己が女髪長媛を貢上る。始めて播磨に至る。時に天皇淡路嶋に幸して、遊猟したまふ。是に、天皇、西を望すに、数十の麋鹿、海に浮きて来れり。便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。天皇、左右に謂りて日はく、『其、何なる麋鹿ぞ。巨海に浮びて多に来る』とのたまふ。ここに左右共に視て奇びて、則ち使を遺して察しむ。使者至りて見るに、皆人なり。唯角著ける鹿の皮を以て、衣服とせらくのみ。問ひて曰はく、『誰人ぞ』といふ。応えて曰さく、『諸縣君牛、是年老いて、致仕ると雖も、朝を忘るること得ず。故に、己が女髪長媛を以て貢上る』とまうす。天皇、悦びて、即ち喚して御船に従へまつらしむ。是を以て、時人、其の岸に著きし処をなづけて、鹿子水門と日ふ。凡そ水手を鹿子と日ふこと、蓋し始めて是の時に起れりといふ」
    *「現地の都農郡の地名起源話」とも「播磨地方の古代文化に関わりの深い加古川河口に、日向諸県君、牛族の根拠地としての船泊が存在してうた可能性を示す」ともいわれている。

  • 羽田八代宿禰の行跡としては弟の巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)とともに神功皇后による三韓征伐に従った事、応神3年に百済の辰斯王が天皇に対して礼を失した時、弟の紀角宿禰らと共に百済に遣わされ、その無礼を詰問した事(百済は辰斯王を殺して謝罪したので、八代宿禰らは阿莘王を王に擁立し帰国した)などが伝えられる。そしてその名前に含まれる「八代」は一般に「八代=肥後(熊本)葦北君の支配下の八代郡」を所領としていたからと解され、さらにそこから『日本書紀』『古事記』において履中天皇后たる黒媛の父とされる「葛城葦田宿禰」を羽田八代宿禰に重ねる向きも存在する。

  • 雄略天皇の父の安康天皇は大日下王を謀殺し、その妻の中蒂姫(なかしひめ。履中天皇皇女とも、元履中天皇皇后ともいう)を皇后と、息子の雄略天皇に大日下王の妹の若日下王を娶らせたが、中蒂姫と大日下王の間に生まれた息子たる眉輪王(当時7才)に討たれた。雄略天皇は即位前にまず八釣白彦皇子を斬り殺し、眉輪王を庇う坂合黒彦皇子と円大臣を処刑し、さらに従兄弟にあたる市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)を謀殺ししたという。
    *「この時に葛城氏の玉田宿禰の系列は絶えた」とする説もあるが、実際には当時外交を掌握する臣姓氏族は羽田氏に推移しており、その羽田氏を滅ぼす過程で縁者としてかろうじて存続していた葛城氏にも止めを刺したとも考えられる。

  • 穴戸(長門国の古称)の国司である草壁醜経(くさかべ の しこぶ、生没年不詳)もまたこの一族とされる。大化6年(650年)麻山(おのやま)で捕らえた白い雉を孝徳天皇に献上。この瑞祥によりに盛大な儀式が開かれて元号が「白雉」に改められるとともに、醜経も褒美として大山の冠位と多数の品物を与えられた。

備前牛窓岡山県瀬戸市牛窓町)」は古代からの津、そして船大工の町として有名だが、そこから多くの人が「木山働き」 九州と往来してきた。 和船造りでまず重要なのは船材木の吟味であり、日向(宮崎)や肥後(熊本)の山中にそれに最適の木があったからであるという話もある。実際、牛窓には薩摩や日向より移住した旧族が多い。そしてここは肥後熊本葦北特産の「阿蘇ピンク石棺」の出土地でもある。
阿蘇ピンク石研究へのリンク一覧

【承前2】継体天皇(507年?〜531年?)の妻達

皇后:手白香皇女(たしらかのひめみこ。古事記の「手白香郎女」。仁賢天皇の皇女)…春日大娘皇女(雄略天皇の女)を母とする。

  • 天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと。欽明天皇

妃:目子媛(めのこひめ。色部。古事記の「目子郎女」。尾張連草香の女)尾張(愛知県)出身。尾張連草香は古事記では、尾張連等の祖先、凡連の妹とされる。

  • 勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ。安閑天皇
  • 檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ。宣化天皇

妃:稚子媛(わかこひめ。古事記の「若比売」。三尾角折君の妹)近江国高島郡三尾(滋賀県高島市)出身の妃1人目。古事記では、父は尾張君等の祖先と伝える。三尾君は継体天皇父親である彦主人王が別業をもっていた近江国高島郡三尾にいた豪族に比定するのが通説だが母方(越前福井)の豪族であった可能性も示唆されている。三国の坂名井から迎えられた振媛の六代前の先祖・磐衝別命が三尾君の祖とされ、その磐衝別命の孫・磐城別(振媛の四代前の先祖)も三尾とされているからである。そして古い時代の越前北部に三尾の地名があった事が確認されている。

  • 大郎皇子(おおいらつこのみこ)
  • 出雲皇女(いずものひめみこ)

妃:広媛(ひろひめ、古事記の「黒比売」。坂田大跨王の女)近江国坂田郡滋賀県米原郡)出身。古事記では神前郎女・茨田郎女・白坂活日子郎女・小野郎女を生むとあり、古事記に記載のない茨田関媛の子女と混同が見られる。

  • 神前皇女(かむさきのひめみこ)
  • 茨田皇女(まんたのひめみこ)
  • 馬来田皇女(うまぐたのひめみこ)

妃:麻績娘子(おみのいらつめ、古事記の「麻組郎女」。息長真手王の女)敏達天皇后の広姫と姉妹。ヤマト大王家と縁深い息長氏の本拠地は近江国坂田郡滋賀県米原郡)。美濃・越への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がる。

  • 荳角皇女(ささげのひめみこ) 斎宮

妃:関媛(せきひめ。古事記に記載なし。茨田連小望の女)北河内茨田地方出身。書紀の注に、あるいは茨田連小望の妹とある。

  • 茨田大娘皇女(まんたのおおいらつめのひめみこ)
  • 白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ)
  • 小野稚娘皇女(おののわかいらつめのひめみこ、長石姫)

妃:倭媛(やまとひめ。古事記の「倭比売」。三尾君堅楲の女)近江国高島郡三尾(滋賀県高島市)出身の妃2人目。古事記では、三尾君加多夫の妹とある。

  • 大郎子皇女(おおいらつめのひめみこ、大郎女)
  • 椀子皇子(まろこのみこ、丸高王) 三国公・三国真人の祖。。天武天皇12年(683年)の八色の姓の制定に際して真人を賜って以降坂井郡内に居住し、郡司大領を出したとされる。
  • 耳皇子(みみのみこ)
  • 赤姫皇女(あかひめのひめみこ)

妃:荑媛(はえひめ。古事記の「阿倍之波延比売」。和珥臣河内の女)…奈良北部の添上部・添下郡(現天理市和爾町・櫟本町付近)や春日山山麓を本拠地とする畿内豪族、春日氏の末裔を称する。

  • 稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)
  • 円娘皇女(つぶらのいらつめのひめみこ)
  • 厚皇子(あつのみこ。阿豆王)

妃:広媛(ひろひめ。所生の皇子女とともに古事記に記載なし。根王(ねのおおきみ)の女)近江国出身とも。

  • 菟皇子(うさぎのみこ。記になし)天武天皇13年(684年)に真人の姓をあたえられた 酒人公(さかひとのきみ)の祖。能楽における金剛流の始祖。
  • 中皇子(なかつみこ。記になし) 坂田公の祖

八人の妃のうちなんと五人までが近江出身である(残りはヤマト中央豪族1人、尾張出身1人、河内出身1人)

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  • なにしろ継体天皇が育ったとされる越前、生まれた土地とされる近江、宮廷があったとされる山城・河内、陵墓が設けられた摂津は日本海ー琵琶湖ー宇治川ー淀川ー瀬戸内海の水上交通を中心とした交通路によって結び付けられており、経済力の継体天皇が地方出身ながら大王位を継げたのもそれを掌握していたが故の強大な政治力と経済力ゆえだったと考えられている。

  • 大連の大伴金村物部麁鹿火、大臣の巨勢男人らが協議して招聘した」という事はおそらく「ヤマト王権のシステム的破綻」によって苦境に追い込まれた畿内豪族と何かしらの形で妥協が成立したと考えられている。

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  • ヤマト王権のシステム的破綻」というと漢城百済の滅亡(475年)と結びつけて考えられる事が多いが、考古学分野からはむしろ以下の要因が指摘されている。

    http://res.heraldm.com/content/image/2012/04/23/20120423000976_1.jpg

    ◎国内で中央集権化が進行し豪族連合としての実体を喪失…多くの伝統的集落がこのタイミングで遺棄されている。

    http://www.city.yachimata.lg.jp/youran/New/page21-1.jpg

    ◎行政技術上の画期があって半島でも中央集権化が進行。馬韓や大加羅の在地有力者連合が次第に新羅百済に屈していく…熊津(忠清南道公州市)へと遷都した百済は燕氏や沙氏などの在地有力氏族を取り込んで現地への影響力を強めた(前方後円墳国家時代のヤマト王権の様に在地有力者連合の宗礼統一を達成)。新羅も532年に金官国(駕洛国、任那加羅後継国とされるも実質上傀儡国家)の完全併合を果たした。

    http://yuuhis.travel.coocan.jp/korea-zensyu.hp/zensyu-sozai/alm_korea-2-1.gif

 ヤマト王権もミヤケ(ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置された直轄地の一種で、ある種地方行政組織の先駆けと考えられ、大化の改新(646年)によって廃止されるまで存続)設置に着手。

  • 表記は「日本書紀」では「屯倉」。「古事記」「風土記」および木簡では「屯家」「御宅」「三宅」「三家」。「官家」もミヤケと読まれることもあり「郡家」はコオリノミヤケ、「五十戸家」がサトノミヤケと読まれた可能性もある。

  • ミヤケのミは敬語、ヤケは家宅のことで、ヤマト政権の直轄地経営の倉庫などを表した語。それと直接経営の土地も含めて屯倉と呼ぶようになった。屯倉は、直接経営し課税する地区や直接経営しないが課税をする地区も含むなど、時代によってその性格が変遷したらしいが、詳しいことは分かっていない。

  • 土地支配ではなく地域民衆の直接支配であり、管理の仕方や労働力は多様。その経営スタイルは古墳の発達と関係しており、概観すると5世紀を境に前期屯倉と後期屯倉に分けられる。

  • 顕宗(けんぞう)・仁賢(にんけん)朝以前に出来たと伝承される前期屯倉の設置地域は、朝鮮半島を除き畿内またはその周辺部に限られている。たとえば『記・紀』にみえる倭(やまと)・茨田(まむた)・依網(よさみ)・淡路の屯倉、『播磨国風土記』にみえる餝磨(しかま)・佐岡の屯倉、『記・紀』や『風土記』にみえる縮見(しじみ)屯倉などがこれにあたり大王自らの力で開発され経営された。たとえば、倭屯倉は、垂仁朝や景行朝に大王自らが設置したと『記・紀』に伝えられているもので、その地は現在の奈良県磯城郡三宅町の地を中心とした一帯であると推定されている。このあたりの微高地に蔵としての屯倉を置き、周辺の低湿地を開発して田地とし倭屯倉を造った。5世紀頃であると考えられている。また、大阪市住吉区我孫子あたりから松原市などにわたる一帯に、依網池を造成し、灌漑施設を造るなどして依網屯倉が造られた。

  • 屯倉は王室の財産であり直接支配する土地でもあったので仲哀朝に置かれたといわれている淡路の屯倉は、田地ではなく大王の狩猟場であった。漁民や山民は直属の民として、狩猟での獲物や海産物を王室に納めたのである。加古川の上流三木市にあったといわれている播磨の宿見屯倉は、在地の土豪忍海部造細目を管理者として経営している。

  • 継体天皇22年(528年)九州に糟屋屯倉が置かれ、続く安閑天皇期には関東以西の各地に数多くの屯倉が設けられた。安閑天皇元年(532年)には伊甚屯倉をはじめ10個ほどの屯倉が、翌年には筑紫国に穗波屯倉・鎌屯倉の各屯倉、豊国に滕碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉・大拔屯倉・我鹿屯倉など20個あまりの屯倉が設置されたことが『日本書紀』にみえる。

その経営過程で渡来人やそれと関連深い新興氏族が抜擢される。そういう状況を踏み台として蘇我氏の台頭が始まる。

【五世紀末-六世紀初旬】ヤマト王権内におけるパラダイムシフトの発生

記紀の記述を信じるなら、21代雄略天皇が多くの皇子や王族や豪族たちを殺したり追放したりして479年に62歳で病没すると、それまで応神・仁徳王朝を支えてきた豪族達は、雄略帝の独裁政治に懲りてしばらく独裁君主の登場を望まなかった。そうした迷走状態が30年ほど続き、その後でやっと507年に越の国の豪族で息長氏の血を引く男大迹大王(おおどのおおきみ)という人物が即位して25代継体天皇となる。

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/A04/A04zu1.gif

  • 何故、この間に大伴氏や物部氏や土師部氏といった連姓氏族、秦氏や倭漢氏といった渡来系集団が皇位簒奪を考えなかったかというと、既に不思議な血統意識が出来上がっていて、特定の血統でないものが大王になろうとしても、誰もそれを認めない様になっていたからと考えられている。

  • 当時の南北朝期中国において、所謂「伝統的貴族階層(既得権益を独占して政治が麻痺しても第三者に渡そうとしない)」と「寒臣(こうした伝統的貴族階層の強硬姿勢を突破する為に国王がが被抑圧階層から抜擢して編成した家臣団)」の対決が最大の政治課題となっていた事を考えると、物部氏や大伴氏が継体天皇擁立に当たって積極的動きを見せたのは当然の動きだったといえる。

  • しかしながら(畿内豪族を飛ばして)全国の在地豪族に衰退された王権が全国を直接統治するという試みは色々あって結局成功しなかった。代わって到来したのが「仁徳天皇の理想的統治が色々あって現世の欽明天皇に継承された」という政治的イデオロギーに基づく保守主義時代であり、その時点での勝者はおそらく(大伴氏を蹴落として、瀬戸内海勢力が九州北部勢力を抑え込む体制を樹立した)物部氏だった筈なのだが「イデオロギー政治」というパンドラの箱の蓋を開いた瞬間から蘇我氏や中臣氏といったその方面におけるスキルに長けた下属氏族に政治的主導権を奪われ始めてしまったとしか思えない。

  • 当時にしてはこれは画期的な変革だったらしく、領土経営や出納管理の実務に長け、イデオロギー政治が三度の飯より好きそうな倭漢氏や難波吉士、和邇氏解体後も山背や近江で相応の影響力を残した小野氏や栗田氏、さらにはそれまで中央集権化が嫌いで逃げ回ってばかり居た秦氏までもが政権参加を考え始めた形跡が見られる。

  • その一方で蘇我氏はこれを契機に紀氏、葛城氏、平群氏、巨勢氏などと誘い合わせて大臣を供給する卿大夫階層の形成を目論見始めた。そしてそれにさらに阿倍氏や膳氏や坂本氏や春日氏が加わる形で所謂「臣姓氏族(後の皇別氏族)」が形成されてくる事になる。

そして最終的には物部氏や大伴氏や中臣氏の様な連姓氏族、及び尾張国造家や海部宮司家の様に扱いが要注意の氏族もなんとか上手く丸め込む形で古事記日本書紀に記された様な社会秩序が生み出される事になる訳である。ただしそれはまだまだ随分先の話 となる。この時誕生したある種の保守政権は、以下の様な政策に基づいて新たなる社会的秩序を創造しようとした。

 姻戚集団の再編

例えば継体天皇擁立を契機に台頭してくる「息長氏王統」を見ても第一次整備近江湖西部を本拠地とする息長氏は、隣接する近江湖東部を本拠地とする和邇氏と縁戚関係にある。

和邇氏は、葛城氏が所謂「応神・仁徳」朝の閥族がほぼ独占状態にあった時も地道に妃の供給を続けてきた。そしてこの血統から息長氏を介して継体天皇が生まれてきた訳だが、皇親氏族といっても、その実体が限りなく中小地方豪族に近い息長氏には中央政界で政治力を発揮する余地が殆どない。

大伴氏や物部氏といった連姓氏族は、こういう無力な王族を奉じる事によって最大の政治的自由を甘受しようとしたが、皮肉にも自らの方が先に失脚する事になってしまう。

「これ以上王位継承のライバルが浮上して来れなくする為の工夫」

中央豪族が王位継承者を安定的に養育して保持する為に「名代・子代」制が整備される一方で、全国各地の地所で伝統的支配力の発揮を追認されてきた在地首長(封土と封民に対する全人格的代表者)の「自由競争による切磋琢磨」を制限する為に「宮家・国造」制度を発足させた。それまでも既に、地方豪族が既得権益として甘受してきた「ヤケ(家=封土)」と「ヤッコ(奴=封民)」に対する伝統的支配は無条件に追認されてきた訳ではなく「ヤマト大王家への特定サービスを通じての奉仕義務」を対価としてきたが(まだきちんと体系化されていない「ヤマト大王家への献納義務」「采女制度」「人制」など)、これを契機として「国民も国土も全て本来はヤマト大王家に帰属する」という公地公民的建前に基づいて自らを再編する様になり、その結果「カキ・ベ制」や「ウジカバネ制」がそのさらなる上位概念として整備されていった。

  • 「人制」…雄略記には「養鳥人」「宍人」「船人」といった官(つかさ)が目に付くが、実際に五世紀後半の古墳出土鉄剣銘文には「杖刀人首」「典曹人」といった役職名が刻まれている。この事からこの時代の「官制」をそう呼ぶ様になった。「官制」といってもヤマト王家に中央制を誓う中央豪族や地方豪族に職務分掌集団の編成と献上(および以降の維持)を命じた程度で、その裁量は以降も全て統率者に附属し続けた上に、一度「献上」された職掌集団がその出身地方に影響を与える事もまたなかったと考えられている。

  • 「采女制度」…発祥ははっきりしないが『日本書紀』によると飛鳥時代には既に地方の豪族がその娘を天皇家に献上する習慣があったとある。「豪族が服属の証に差し出す人質」「地方の祭祀を天皇家が吸収統合していく過程で成立した施策の一つ」とした側面に加え、延喜17年(917年)の太政官符に「神宮采女と称して妾を蓄える事は禁止するが神道祭祀に必要な場合には1名に限り認める」と規定した様に妾と同一視される側面があった様である。また天皇の食事の際の配膳も勤める事になっていたが、容姿に優れた者が多い為に妻妾の役割を果たす事も多く中には子供を産む者もいたとされる。ただし大宝律令の後宮職員令によって制度化されて以降は天皇の妻妾という性格が薄れて後宮での下級職員としての性格が強くなっていった。

  • 「宮家・国造制」…一般に「宮家(中央からの監察機関の常駐所)の設置や奉仕義務の承諾を対価とする国造叙任」は六世紀初旬から始まったと考えられている。とはいえ実際には「王宮への子弟の供給」自体は吉備臣、出雲臣、上毛野君、筑紫君といったヤマト王権と関係の深い有力地方豪族なら五世紀後半の「人制」段階から実践してきた事だし「供物と人材の提供」にしても、既に多くの在地首長がヤマト王権に服属した段階で既に負わされていたと考えられている。「宮家設置」についても、どうやら少なくとも当初の段階では多くが中央からの以降を伝える政令発布所程度の役割しか期待されていなかった様であり(むしろ実際に視野に入るものにしか服属しない当時の民衆心理に中央の存在感を認知させる役割の方が大きかったという考え方もある)、それならこの制度の画期が何所にあったかがまず問題となる訳である。

  • 一般に画期の第一は「(畿内を中心とする西日本一帯で行われた)従来中央との関係を要求されてこなかった在地首長の支配領域再編(「凡河内直」や「紀直」といった「地名+直」のウジ名をまとめて拝命されたとみられている)」によるヤマト大王家の影響範囲拡大にあったと考えられている。そしておそらくかかる変化に伴って従来の「ヤマト大王が貢物や労働力や人材や組織を直接徴収する直接統治体制」から「それらを連姓氏族や伴造といった中間管理集団が一旦受容して組織化して運用する間接統治体制」への移行が計られたものと考えられている。そしてこれに対応する形で臣姓氏族もまた次第に「ヤケ(家)とヤッコ (奴)」に依存する伝統的家産体制から脱却して次第に組織内部をヤマト大王家の履行する「カキ・ベ制」に対応させていき、新たに東国などに進出して部民を獲得したり、これら中小国造を下部組織に加える事でウジ集団の規模をさらに大きくしていったのであろう。

  • また詳細は不明だが「県主」が奈良盆地中心部や凡河内(河内・和泉・摂津)や山背(山城)や丹波丹波・丹後) や吉備(備前・備中・備後・美作)といったヤマト政権中核部だけでなく北九州にも大量に見られる様になったのも、六世紀初旬から六世紀にかけての時期の物部氏支配の結果と見る向きがある。

  • そして画期の第二が皇位継承者に生活の安定をもたらす「名代・子代」制度の拡大普及を背景とする「(さらに後に主に東国に新設された)特定の名代へのトモの供給を主目的とする比較的小規模な国造の大量任命(「日下部直(伊豆国造)」や「檜前トネリ直(上海上国造)」といった「特定の名代かトモ+直」のウジ名を与えられた、ほぼ単一の部民を中心として構成された行政単位)」である。

こうした措置の背景には皇位継承者間の抗争激化があったかもしれず、その様に両者が表裏一体の関係にあったからこそ「日本書紀」皇極二年(643年)11月1日条に見える山背大兄王の「兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん」という発言が当時固有の意味を持ち得たとも考えられる。後世の創作かもしれないが「この悪循環をどこかで断たなければ西晋八王の乱の二の舞だった」という思いが後の時代になればなるほど明瞭になっていったと考えたい。

武力行使によるライバル消しが不可避な政治党争の展開

皮肉にも「名代・子代」制度の充実によって皇位継承者が安定供給される様になると、今度は「ぞれが独自財源を有する為、ライバルを本当に消したければ誅殺するしかない」という事態が発生。6世紀初旬から7世紀前半にかけては陰惨な党争の時代となった。
*そして「名代・子代」の最大数保持者たる「ある皇親家を中心とする勢力(最大数保持者だけあって、どの勢力が主体だったのかさえ見当がつかない)」が「このままではいけない」と思い立った時、倭国の祭政史はまた新たなるパラダイムシフトを迎える事になる。


【名代】泊瀬部(奈良県桜井市…「長谷部」とも。「日本書紀雄略天皇条に「近畿の泊瀬朝倉宮に都を置いた」とあり、これが起源と考えられている。これが日本で初めて「名代・子代」に流用された王宮だったと考える向きもある。

  • おそらく泊瀬部皇子(崇峻天皇)の名代であったと考えられており、従って用明二年(587年)の物部守屋討伐軍の主力の一つだったと目されている。

  • 考え様によっては、雄略天皇時代のヤマト大王家単独覇権の両輪の片方だった大伴氏がまず連姓氏族内の内紛で失脚し、そしてこの時に残った片輪ともいえる物部氏まで嫡筋を粛清した事で中央政界から駆逐してしまった訳である。

  • こうして「応神朝の栄光」を再現する手段を自ら潰えさせた結果が、嫁(物部守屋の妹)の継承した物部氏嫡筋の遺産で急に羽振りが良くなった蘇我馬子の大躍進だった事を思えば、両者の関係が険悪化したのも当然だったといえよう・

【名代】忍坂部(奈良県桜井市)…「日本書紀」允恭二年(413年)春2月14日条に「皇后の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の御名代として忍坂部(おつさかべ)を定めた」とある。「忍坂」とは宇陀が辻から女寄峠に至る坂道あたりの地名で、元来は「大きい坂」を表した。古代から開拓されてきた地域である。「隅田八幡画鏡」の解釈によっては、允恭天皇が少なくとも一時期、近くに宮を設けていた事になる。
*このとき設定された名代部の一つが火葦北国(ひのあしきたのくに。熊本県八代・葦北地方)であり、当地で産出する阿蘇ピンク石が畿内の特定の古墳の石棺にのみ用いられている事とそれは関連してくると見る向きもある。

  • 第19代允恭天皇の皇后となった忍坂大中姫は、木梨軽皇子允恭天皇の皇太子)、第20代安康天皇、第21代雄略天皇の母となった人物で、父は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)、母は弟日売真若比売命(日本武尊の曾孫)、意富富杼王継体天皇の曾祖父)の同母妹とされる。皇后父となった息長氏は、おそらく既にこの頃には近江坂田あるいは都祁に割拠していたと考えられている。

  • そして、この時設定された「忍坂部」は、継体天王代の妃だった麻績郎女、その娘として生まれた荳角皇女、敏達天皇代の太后だった広姫の所有を経てその息子だった押坂彦人大兄皇子、さらにその息子だった舒明天皇、そしてさらにその息子だった中大兄皇子葛城皇子天智天皇)へと継承されていったと考えられている。
    *忍坂部(刑部、おさかべ)…忍坂の宮に所属しそこで生活する后やその子弟に奉仕した人々。本居宣長は「刑部とかいてオサカベと読むのは、忍坂部がいわゆる刑部(訴訟)に関係したから」と指摘している。

  • ここで興味深いのが、用明天皇二年(587年)の排仏論争で不利な立場に立たされた物部守屋に「群臣達が帰路を断とうとしている」と密告して守屋に本拠地のある河内渋川郡阿都(大阪府八尾市)に籠もらせて事態の悪化を招いた原因が「押坂部」史毛屎なる人物の密告だった事である。それまで両者は必ずしも政治的同盟関係にはなかったが「共通の敵」を叩く上では最小限協力し合う関係にあったのかもしれない。しかしもちろん完全な味方ではない以上、善意に見せ掛けて毒を盛るくらいの事は互いに平気でやってのけたであろう。

  • 同時進行でこんな事件も起こっている。

    ①敏達十四年(585年)3月に物部守屋と共に「疫病流行の原因が蘇我氏仏教信仰のせいである」と奏上して排仏運動を引き起こした中臣勝海は、この時も物部守屋の側にあって押坂彦人大兄皇子の像と竹田皇子の像を作って呪詛していたが、突如「押坂彦人大兄皇子は倒すべき相手ではない」と悟ってこれに帰服しようとする。しかしこれを押坂彦人大兄皇子側の忠臣が怪しんで皇子の宮の宮門を出た所で斬った。

    ②とはいえ蘇我氏に疑念を抱かせるにはそれだけで充分で、だから物部守屋討伐戦に参加させてもらえず、かつ皇位も継承できなかったという見方まで存在する(おそらく「門に入る所を斬った」のではなく、門を出た所を斬った」のが良くなかったとされる)。

    ③この時芽生えた不信感は相当なものだったらしく、崇峻天皇が謀殺された後に再び最有力候として名前があげられた時も、蘇我馬子に「敏達天皇の后(推古天皇)」が即位して「蘇我氏の血を引き、蘇我氏の后を娶った皇子(「厩戸皇子=皇太子」)」を皇太子に立てつつ「敏達天皇推古天皇の間に生まれた皇子(竹田皇子)」の成人を待つという完璧な布陣を敷かれて即位の夢を砕かれている。

  • 幸いにして、推古天皇の息子である田村皇子が蘇我馬子の娘、法提郎女と結婚し、その間に古人大兄皇子を儲けて厩戸皇子より長生きした事から蘇我氏の力を背景に629年に即位して舒明天皇となっているが、そこまで粛清されずに生き延びられたのも「皇祖大兄御名入部」と呼ばれる「忍坂部」や「丸子部」といった莫大な所領を継承して独立した財政基盤を有しつつ、王都から離れた水派宮(みまたのみや、奈良県河合町か)を営んで日頃の抗争から遠ざかる立場を貫いたせいだったとしか思えない。

【名代】「丸子部」…大伴氏と関係の深い紀伊発祥の丸子氏の部民。和仁古(わにこ)ともいい、和仁古部は皇別(皇族の子孫)の和邇氏と異なり神別に分類されて大国主命の子孫(出雲神族)とされる。
*古代三輪族(大伴氏だけでなく古代天皇家物部氏賀茂氏、宗像氏などとの関連も指摘されている大神神社奈良県桜井市)近隣の先住集団)に分類される場合もある。紀州熊野の丸子部は、宇井、鈴木と並んで「熊野信仰」を支えていた。東日本にも多く、古くから房総や武蔵にも分布してきた。また、東北地方の牡鹿半島にいた丸子部からは「道嶋氏」が出て奈良朝に仕えていた。

  • この集団もまた押坂彦人大兄皇子に伝えられ、さらにその息子だった舒明天皇、そしてさらにその息子だった中大兄皇子葛城皇子天智天皇)へと継承されていったと考えられているが、その詳細は良く判らない。

  • ただ常陸国などにも多く、大伴氏の女婿として台頭してきた中臣鎌足を「常陸国出身」とする説が流布した背景にこの名代の存在があった可能性を無碍には捨てきれない様に思う。

【名代】「孔王部(あなほべ)」…『日本古代氏族事典』によれば「穴穂部、穴太部とも書く。安康天皇の名代とその伴造氏族で『日本書紀雄略天皇十九年三月戌寅条に「詔置穴穂部」とある。『新撰姓氏録』未定雑姓、河内国に「孔王部首 穴穂天皇諡安康之後也」とあり、河内国に首姓の伴造氏族がいたのがわかるが、その居住地は若江郡穴太邑(現在大阪府八尾市穴太)ではなかったかと考えられている」
*石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)…安康天皇(穴穂天皇・宮は穴穂部宮。在位:454年-456年、雄略天皇の同母兄で「倭の五王」の倭王興に比定されている。記紀では眉輪王に暗殺され、有力天皇はこれを庇う葛城氏嫡筋共々滅ぼしたとされる)が物部氏の本拠地たる河内渋川郡阿都(現大阪府八尾市)に造営したとされる王宮。その部民も多くは物部氏に属した。

古事記の記述では穴穂部間人皇女は、泥(はつかし)部穴穂部皇女としている。「泥部」は「はつかしのとものみやつこ」と読み、令制では宮内省の土工司に所属する集団とされており、ここに連姓氏族のもう一つの雄たる「土師氏」との関連が見て取れないでもない。そして「間人」(はしひと、もしくは はしうど)の名を持つ皇女があと二人いる。舒明天皇皇女で孝徳天皇皇后となった「間人皇女(はしひとのひめみこ)」がそれである。この名前に関しても「土師氏」との関連を見る向きがある。それというのも「日本書紀」の以下の記述のみ葬儀を管掌した土師氏の名前が明記されているのが何とも異様だからである。

  • 推古天皇十年(602年)2月に新羅征討将軍として軍二万五千を授けられた来目皇子穴穂部間人皇女の息子)が4月に軍を率いて筑紫国に至り、嶋郡(現福岡県前原市)に屯営したものの6月に病を得て新羅への進軍を延期し、征討を果たせぬまま翌年(603年)2月4日に筑紫にて薨去した時、土師猪手(はじのいて)が管掌して周防の娑婆(遺称地は山口県防府市桑山)に殯(もがり)した。

  • 来目皇子が周防の娑婆で殯した35年後の皇極二年(643年)九月。舒明天皇を押坂陵に葬ったあと、皇極天皇の母親である吉備嶋皇祖母(きびのしまのすめみおや、)が亡くなると、土師娑婆連猪手が管掌して喪(みも)を遂行した。(そして土師猪手は同年11月の上宮王家襲撃事件で、巨勢徳太に従い 100名の兵を率いて斑鳩宮を攻めた時に奴三成に討たれて戦死してしまう)。

前者が何を仄めかしているかは何となく当たりが付くが、後者の解読は中々に難しい。

  • 古事記」が敏達天皇が亡くなった時点で「太皇弟(すめいろど、次期天皇候補者)」の立場にあったとする穴穂部皇子の名所だったと考えられている。即位の機会を逃がして以降、物部守屋やその妹を娶った蘇我馬子に近付いたのはその縁だったと考えられているが、私怨から物部守屋に三輪君逆を誅殺させる一方で、用明天皇が危篤に陥った時に豊国法師を内裏に入れて排仏派の顰蹙を買ったりと短絡的な行動が目立つ人物であった。結局、用明天皇崩御後にあっけなく誅殺されている。その後、物部守屋の討たれ、それ以降は石上穴穂宮の名代としての利用価値も大幅に減少したと考えられるが詳しい事は判らない。

  • その同母妹たる穴穂部間人皇女もまた石上穴穂宮で養育され、物部氏に近い立場にいた人物とされる。欽明天皇の第三皇女で用明天皇皇后として来目皇子厩戸皇子(聖徳太子)をもうけた。そのうち来目皇子推古天皇十年(602年)2月に新羅征討将軍として軍二万五千を授けられ、4月に軍を率いて筑紫国の嶋郡(現福岡県前原市)に屯営しつつ新羅への進軍を見合わせて数年滞在したのは「現地における物部氏残党に対する掃討もしくは懐柔の総仕上げ」だったとする説もある。せっかく九州支配の拠点として「那津の宮家」を設けておきながら、わざわざ嶋郡に屯営したのが、そこが物部氏が北九州を支配した時代の最重要拠点だったからで、滞在中にわざわざ現地に物部神社を建てて祀ったのもそれに関する行動としか思えないからで、それに際してこの様に物部氏に縁のある人物が選ばれた辺りに「懐柔」の意図を感じる向きもある。
    *どうも「(九州における物部氏の本拠たる)嶋郡」と蘇我馬子の渾名とされる「嶋大臣」の相似、および日本書紀中において二度にわたって繰り返される「蘇我氏物部氏の財産を簒奪してやっと躍進出来た」という巷説の重なりに何か意味がありそうな気がするのだが、気のせいだろうか?

  • ところで「国造本紀」では「志賀高穴穂朝御世(景行天皇成務天皇仲哀天皇滋賀県大津市坂本穴太 (あのう) 町付近に皇居を置いた時代)」に列記した国造の半分が設置された事になっている。天智天皇の近江朝を示唆するともいわれているが、その一方で「乙巳の変(645年)」及び「壬申の乱(672年)」で大きな役割を果たした近江を本拠地とする息長氏王統と関係が深い「ヤマトタケルの東西遠征」「神功皇后=斉明天皇の西征」「佐紀王統=和邇氏の単独覇権期(四世紀後半)における近江、尾張、北陸、毛野の糾合」などとの関連付けも指摘されている。その一方で「穴穂宮」といったら「石上穴穂宮=物部氏」でもあり、その物部氏記紀では和邇氏の地盤である近江湖西地域と息長氏の地盤である近江湖東地域に挟まれた地域にある伊香郡出身の中臣氏と密接な関係にあると仄めかされる点もまた見逃せない。

【名代】壬生部推古天皇十五年(607年)に王位継承者たる厩戸皇子聖徳太子)を資養する目的で設置された名代。「日本書紀」の記述を信じるなら東国にあったらしい。

  • 間違いなく舒明元年(629年)に蘇我蝦夷の推す田村皇子(後の舒明天皇)との皇位争いに破れた厩戸皇子聖徳太子)の「後継者(日本書紀には息子と明記されてない)」山背大兄王が、その舒明天皇崩御後に改めて皇位継承者の最有力候補として再浮上してこれたのも、この壬生部の存在故である。

  • だが皇極天皇二年(643年)に蘇我入鹿から攻められ、家臣の三輪文屋君から「深草の宮家(山背国にあった秦氏の本拠地)を頼って東国に逃がしてもらい、壬生部ら東国兵を結集して再起を謀られてはどうでしょう」と提案されても、山背大兄王は「われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん」と答えただけだった、一般に「山背大兄王えお聖人に仕立てる為の創作」ととされているエピソードだが、もし実際に三輪文屋君の忠告に従っていたら当時の倭国を二つに割る内乱が勃発していたかもしれない。

    ①事件の真相はあくまで単純である。包囲軍中に軽皇子(後ちの孝徳天皇)、巨勢徳太、大伴長徳、中臣塩屋牧夫らがいたという事は、入鹿らが次期天皇に推す古人皇子の同意、さらには中臣塩屋牧夫とのつながりから中臣鎌足阿倍内麻呂からの支持さえも想定しなければならないが、つまり「軽皇子派と古人皇子派が共同で共通の敵を抹殺した」という事であり、山背大兄王側もとっさに逃げ込み先として御門違いの「秦氏」しか思い付かない程、既に自分達が負い詰められた状態にあった事を認識していたという事である。

    ②「事を急過ぎた」という批判も妥当ではない。何しろ海を隔てた半島では前年、唐と新羅の連合軍と決戦可能な体制を構築すべく高句麗の淵蓋蘇文が穏健派貴族を180人も弑害するクーデターを敢行し、百済でも義慈王が王権強化の為に王族を含む高名人士40人を島流しにしている。そうした情報を伝え聞いた感情の高ぶりは三輪文屋君の提案からも充分感じ取れるが、おそらく蘇我居入鹿側にもあり、それを認める雰囲気も当時の政界には出来上がっていたのだと思われる。その入鹿もが「乙巳の変(645年)」で凶刃に倒れざるを得なかった理由としては「いよいよ軽皇子派が古人皇子派を粛清しようとした時に邪魔になった」あるいは「遣唐使を度々派遣する様な開明的政策が却って反感を買った」辺りが当時の雰囲気に相応しそうな気がする。

【名代】飛鳥嶋宮(奈良県高市郡明日香村)…「日本書紀」は、蘇我馬子の広大な邸宅跡は626年に本人が死んだ後も維持され、乙巳の変(645年)で孫の入鹿が殺害された後にヤマト大王家がこれを接収して皇族用の離宮「嶋宮(しまのみや)」と呼ばれる様になったと記す。

  • 日本書紀」によれば、司馬達等は蘇我馬子が豊浦寺を開く際に、求められるままに自分の娘である「嶋女(当時11歳)」を弟子二人と共にわが国最初の尼僧として出家させたという。あえていうなら「嶋」の初出はこれである。そして物部守屋の妹を娶った蘇我馬子は、物部氏嫡筋没落後にその地盤を引き継いで「嶋大臣」と呼ばれる様になり、その地所の近辺は「嶋庄」と呼ばれる事になる。

  • また日本書紀は「中大兄皇子が邸宅を嶋大臣(蘇我馬子)の家に接して建てて入鹿暗殺を計画した」とも記すが、実際嶋庄遺跡からはそれらしい邸宅跡も発見されているという。おそらく敏達天皇の孫である茅渟王押坂彦人大兄皇子の子)の妃として皇極天皇(宝皇女、斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)を生んだ吉備姫王(吉備嶋皇祖母ミコト)の名代のいずれかが蘇我馬子邸宅と隣接する土地にあったのであろう。それが他の「皇祖大兄御名入部」同様に中大兄皇子葛城皇子天智天皇)の手に渡り、そこに邸宅が建てられたと考えられている
    *諡に「嶋」の字が入った理由自体は、一般に「後に実際に嶋宮に住んだ時期があったから」とされている。

  • 皇極天皇の母に当たる吉備姫が、晩年になって皇極二年(643年) に亡くなるまで住んで「嶋皇祖母」と呼ばれる様になったとか。敏達天皇の皇女で押坂彦人大兄皇子の妃、舒明天皇の母、「葛城皇子=天智天皇」の祖母だった糠手姫皇女が晩年に天智天皇3年(664年)6月に亡くなるまで住んで「嶋皇祖母」と諡される事になったという話もある。

  • 壬申の乱(672年)の関連記事でも「吉野との往復の途中の重要立ち寄り地点」として幾度か出てくる(嶋宮から芋峠越えで吉野の上市まで歩くと概ね5時間くらいの距離だという)。後に持統天皇が吉野巡幸を30回近く実施しているが、この時も利用された可能性が高い。

【名代】財部(たからべ)…宝皇女(たからのみこ)、すなわち後の皇極天皇及び斉明天皇(和風諡号「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)」)の為に設置された名代と考えられている。

  • (詳細不明。いずれにせよこの時代に「名代:子代」制は(少なくとも建前上は)解体されてしまうので、実績を残す間もなかったとはいえる。

ヨーロッパ史でいうと「一人カール5世(1500年~1558年)」状態? 誰もが状況を俯瞰するのを忘れてる隙を突いて、信じられない程巨大な王権が誕生するのが見過ごされてしまった訳である。しかもフランス王フランソワ一世の様な手段を選ばぬ挑戦者が出現し、敵わないと思い知るや否やオスマン帝国皇帝スレイマン1世の様な外国勢力を巻き込むという事態は起こらなかった。この時高句麗は対中国戦争の遂行に忙しく、また百済新羅から加羅諸国の故地の奪還に夢中になっていたからである。

  • その結果「大化の改新(645年)」に際して史上初めて「ヤマト大王が、生前のうちに後継者を指名して譲位する」という快挙が成し遂げられる。

  • 現代の感覚でいうと逆に見えるが、雄略天皇代には儀式上「群臣総意で新王を選んだ建前」が必須だったものが、推古天皇代からは「前代天皇の遺言」が後継者争いで重要な役割を果たす様になり、この時代までに「自主権」が拡大に拡大している。

  • そしてその結果「群臣応挙の儀式」は「皇室の正統性を証明する長大な説明文を含む祝詞(中臣氏が読み上げる)」に差し変わり、誰もがそんなもの聞かされなくても天皇の正統性を疑わなくなると、ついにそれは「(誰が渡しても効果の代わらない)三種の神器の授与式」に集約していく事になるのである。

血統的系譜はともかく、後世になってから「ヨーロッパの君主は交換可能どころか着脱まで可能な機関に過ぎないが、日本のそれは、どう使われるかはともかく日本という生命体に欠かせない器官の一部ではあり続けている」とまで言われるまでになった天皇理念はこの様にして誕生したのだった。
*結構「偶然」の要素が多いという事に驚かされる。いや、あるいは「ハプスブルグ家の奸計(戦争を回避しつつ政略結婚によってその所領を吃驚する規模まで拡大する戦略)」って奴で、当事者は手遅れになるまで事の次第に気づかなかったとか?

こうした状況下で進行した仏教伝来には明らかに「渡来系士族の身分上昇運動」という側面があったとされています。 

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日本書紀」欽明十三年(552年)冬十月条

百済聖王が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上した。
*但し「日本書紀」に収録された上表文自体は後世の創作と目されている。

  • 高句麗の遠征を受けて亡国スレスレの状態からの再出発を余儀なくされた百済は、文周王(在位475年~477年)の時代に熊津に移行して以降も中々国内をまとめきれず、東城王(在位479年~501年)の時代から着手した南進策が相応の成果を結んだのも、やっと武寧王(在位:502年~523年)の代に入ってからだった。

  • この間、国土回復の為に手段を選ばなかったせいで専制性と軍国主義性を強め、より南方経営に専念する為に538年、王都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)へ南遷させた次の聖王(在位523年~554年)の代には、属国化を恐れる高霊伽耶などと激しい抗争を繰り広げている最中だった。その聖王が新羅との戦いで戦死して以降は目立った王が出現しておらず、学問面でも外交面でもイニチアシブを高句麗僧に握られるに至る。
    *日本に伝わった南都六宗の系譜を見てもそうなっている。

  • 実際、推古天皇3年(595年)から推古天皇23年(615年)に掛けて日本に滞在して聖徳太子から師と仰がれた高句麗僧慧慈もまたそうした外交僧の一人だったらしく、その滞在期間はほぼ高句麗と隋が緊張状態にあった期間に該当し、さらに日本書紀に拠れば推古天皇8年(600年)と推古天皇10年(602年)の二回、大軍を動員して新羅に圧力を掛けた事になっている。

 天皇使者に対して「朕はこれまで、こんな妙法を聞いた事がない。しかし(自分がそれを信奉するか、あるいは国内でそれを流通させるかべきかについて)朕の一存だけでは決められぬ」と伝え、群臣を一人一人呼び出して「この西の国より伝わった仏の顔を見よ。これだけ端正な美を備えた御姿を他に知っているか? 果たしてこれを祀らずにいられようか」という質問を投げ掛けた。

それに対して、大臣の蘇我稲目は「(国全体の事を考えて)西の諸国が全て礼拝しているというのに、我が国だけそれに背けるものなのでしょうか」と答えた。

大連の物部尾輿中臣鎌子は口裏を合わせ、揃って「(天皇の個人的礼拝だけを問題に取り上げて)我が国の帝は、天地社稷の神々を春夏秋冬祀り続けるのが仕事で御座います。その立場を忘れて外国の神を拝むなら、国津神を怒らせてしまうでしょう」と答えた。
*「国津神=日本の神の総称」という表現に注意。ここに注目して、歴史のこの時点では天津神国津神の区別はなかったとする立場もある。

そこで天皇が試しに蘇我稲目に仏像を授けて礼拝させてみたら、国内に疫病が流行して若死する者が急増した。
*当時の交易活発化を背景に、倭人が免疫を持たない病原体が流行したせいとも。

そこで、すかさず物部尾輿中臣鎌子が「(「祟り」が天皇でも、崇仏派群臣でも、排仏派群臣でもなく国民を襲った点に注目して)まさか、こういう形で死人が出るとは…こうなったら一刻も早く原状回復に努めるべきです」と上申したので、天皇も「そちらの考える通り手を打て」と命じざるを得なくなった。そこで二人は仏像を(外界への出口たる)難波の堀江に投げ捨て、また蘇我稲目が仏像を祀る為に本拠地の小墾田に建てた寺院を余す事なく焼き払った。すると不思議な事に、風もないのに高宮にまで延焼が起こってこちらも焼け落ちてしまったのである。
*当時は巷で不満が渦巻くと宮が放火される事が多く、これも「仏像礼拝の中断」への暗黙の抗議が行われた可能性が高い。また、この件では最初から天皇とその閥族で崇仏派の蘇我氏が裏では繋がっていた事を暗示するという考え方も出来る。

しかし同年夏五月一日、河内国沿岸の海底で何かが光り輝きながら仏教音楽を奏でるという奇瑞があった。調べてみると海底に楠木が沈んでおり、これを献上された天皇はそれを二体の仏像に刻ませたのだった。
*そもそも既に信者となっていた者以外の誰がこれまで建前上一度も倭国では演奏された事がない事になっている仏教音楽を聞き分けられたというのか? つまりこの「奇瑞」は彼らが仕掛けたものとしか考えられない。

  • 幕末水戸藩の家臣で尊皇攘夷を旨とする水戸学の大成者として知られる藤田東湖は「和文天祥正気歌」の中で、この物部尾輿中臣鎌子による排仏行動を「異国から侵入した穢れを払わんとする英雄的行為」と激賛。しかしそれは「疫病対策としては全く手遅れであり、それが以降も日本を席捲し続けた事」「それに対する抗議運動で宮が焼け落ち、同年のうちに仏像が刻み直されている事」を余りに軽視し過ぎた発言ではなかろうか。この時点で倭国は既に「水際防御」に失敗していたのである。

  • これについては福沢諭吉も「脱亜論」の冒頭で「国を開けば外国から未知の病原体がもたらされて死人の山が出来るのは避けられない。なら一層の事、恐れず国を開いて誰が生き延びるか一刻も早く見定めるのが肝要である」と述べている。

とはいえこの時期から蘇我氏が主導する形で従来の「前方後円墳造営事業によって維持されてきた前方後円墳国家」から「寺社建立事業によって維持される大伽藍国家」への変貌が始まった事自体は否めない。

ここに見られる様な仏教信仰と首長権継承祭祀と被葬者供養が完全」の渾然一体化を専門用語で「葬祭未分化状態」といったりします。 

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  • おそらく原始的自然崇拝の延長線上に現れた「プレ日本神道」の原点は(多くの同種の宗教同様に)「神秘性を強く感じさせられる自然の一角を囲って聖域化する」形態だったに違いない。そうした空間は概ね岸壁や鬱蒼とした森に覆われた山岳地帯や清らかな泉や小川の辺や海岸地帯に見出される。

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  • 一方、そうした信仰の山岳崇拝的側面が「心の御柱=聖域から剪り出した神木を依代として山霊を水路運び出し、目的地で再生させて以降はその神木を御神体として崇める」なる宗礼を派生させ、在地首長はこの「社稷(祀るべき神の宿る依代)」と「神話(神を祀る事になった縁起話)」を中心として伝統的共同体を形成。やがて「神」は「祖霊」と同一視される様になっていく。

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  • 前方後円墳国家」当時の儀礼でも「柱を立てる行為」は重要な意味を持ってたらしいが、詳細は伝わってない。

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この当時の倭国人にはそもそも「神を一人一人が固有の呼称と人格と容姿を有する擬人化された存在として認識する」能力そのものが欠落していた。だからこそ、仏像の存在を知ると衝撃が走り「これを是非崇めてみたい」という渇望と、偶像崇拝を忌避する伝統的価値観が引き起こす背徳感の双方が引き起こされたとも。

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  • 推古元年(593年)に仏舎利を埋納した当時の法興寺(飛鳥寺)の心礎から、翡翠や瑪瑙の勾玉、管玉、水晶の切子玉、ガラス製のトンボ玉、小玉、金輪、金銀の延板・小粒、金銅製の様々な金具、馬鈴、挂甲、蛇行状鉄器(馬の尻飾り)といった同時代の古墳における横穴式石室に見られる典型的副葬品がずらりと1570点ほど出土している。まさしくこういう状態を「葬祭未分化状態」という。

  • 日本書紀」敏達十四年(585年)春2月15日条には「蘇我馬子が大野丘の北に塔だけ建て、その下に舎利を埋めて法会を行った」とある。

  • 日本書紀」に記された敏達十四年(585年)三月の排仏活動では「寺にある仏塔を切り倒させた上でそれを焼き尽くし、ついでに仏殿と仏殿も焼いた。焼け残った仏殿は(先例に倣って)難波堀江の外に流した」とあり「仏塔破壊」を主目的としていた事を偲ばせる。

  • その後全国に次々と建てられていく事になる全国の氏寺についても、当時は仏塔こそが代々の「氏長(この時代にはまだその言葉自体はない)」の祖霊の依代となる最も重要な設備と信じられていた。

また「日本書紀」では、廃仏行動の主体が物部守屋と中臣勝海だったとされているのが混乱を生んでいますが、他の文献には「敏達天皇の命で遂行された排仏活動」とされている例もあります。

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こういった状況を考慮に入れると、当時の排仏活動は実は「仏教普及を武器に在地首長の支持を集める蘇我氏に対する王権側の牽制運動」という色合いが強かった可能性が浮上してくるという訳です。

  • なにしろ氏寺建立には古墳造営とは比べものにならない程多くの専門家の関与が不可欠な事業。そしてそれを提供し得るのが蘇我氏の下に集った渡来人集団に限られていた。物部氏の様に幅広い人脈網を手繰ってそれを自力で獲得し得る様な有力氏族は極僅かであり、多くの豪族が「新秩序」に対応する為に益々蘇我氏に頭が上がらない状況に追い詰められていく苦々しさを感じていたのかもしれない。

  • 欽明十三年冬十月条や敏達十四年三月条に記された廃仏活動は、そうした歴史的動きへの反動の一環。ただしその過程でむしろ実際には皇室とあえて縁関関係を結ぶ事なく既存秩序の頂点に留まり続けようとする物部氏と、皇室との婚姻政策と仏教布教を通じてその上を狙う蘇我氏の対立を先鋭化させ、最終的には物部氏嫡筋の敗亡と蘇我氏嫡筋の単独覇権時代の到来なる展開を招いたとも考えられる。

また次第に「倭人」と「渡来人」の文化レベルの違いが表面化してきた感もあります。さてヤマト王権はこのギャップをどう埋めていったのでしょうか?

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 『日本書紀用明天皇2年(587年)条

蘇我馬子が(物部氏の手を借りず)九州豊国の法師法師を連れてきた。

  • 用明天皇天皇に即位した年に密かに筑紫や日向など九州を旅行していた時、現在寺がある付近で病気となり、その時行脚中であった豊国法師に病気が治るように祈願してもらい、薬師如来像を刻んでもらったところ体調が良くなり無事に大和へと帰ることができた。これを記念して豊国法師が開基したという由来譚を有し、現在なおその時刻まれたとされる石製の薬師如来像が現存する。

  • 用明天皇が病気となったとき、天皇仏教に帰依しようと群臣に諮ったところ、賛否両論はあったが、その中で蘇我馬子が賛成したことから(敏達天皇の弟に当たる)穴穂部皇子に案内されて「豊国の法師」が内裏に入ったとされる。この時、物部守屋は大いに怒って穴穂部皇子睨みつけ、群臣から命を狙われてる立場に転落。そして、その穴穂部皇子が王位継承争いが激化して誅殺の憂き目をみると巻き添えで粛清される事になる。

「豊国の法師」は個人名ではなく、豊前豊後地域出身の医術の知識もある渡来人系法師と考えられている。また和泉地方と縁深い「筑紫の巫部」と関連付けて考える向きもある。蘇我馬子の妻は物部守屋の妹であり、それで物部系人脈を使って「豊国の法師」を呼び入れたとする説もある。天皇仏教帰依に反対する物部氏も、本拠地たる河内澁川郡阿都(八尾市)には氏寺を建てており、それを持ち出されてはグウの音も出ないところがあった。 

蔵作(くらつくり)氏

坂田寺/金剛寺奈良県高市郡明日香村にあった古代の尼寺)を氏寺とした渡来士族。継体天皇16年司馬達等(しばたつと)が坂田原に結んだ草堂に始まると伝えられるが,6世紀末から7世紀初めに,達等の子の多須奈(たすな)や孫の鳥(止利仏師)が本格的な寺院に改修した。

  • 法興寺飛鳥寺)の丈六仏(飛鳥大仏。「日本書紀推古天皇13年(605年)条に銅と刺繍の丈六仏をそれぞれ製作された記録がある)や法隆寺釈迦三尊像など南北時代の大陸様式を忠実に再現した仏像の名作を世に残した鳥仏師(蔵作鳥)が有名。

  • その祖父である司馬達等(522年2月に南朝梁国(502年~557年)から渡来したとされる熱心な仏教信者)や、父の多須奈(587年に用明天皇の病気治癒を祈って坂田寺を建て、丈六の木彫仏を奉納。自らも590年出家して徳斉法師と称した)として有名である。また叔母の嶋は出家して善信尼と称し、本邦初の尼として百済に留学している。

ところで鞍造りの技術はアマルガム鍍金を含む金銅加工技術と密接な関係があり、しかも多くの遊牧民族がそれに華麗な装飾を求めたので意匠表現能力も自然に高められた。そして当時の仏教には、華北に割拠する遊牧民族にとって、儒教倫理に基底を置く中華王朝に対する劣等感を克服する突破口を提供するという側面が確実にあったので、両者は次第に深い結び付きが形成されるに至ったとも考えられる。

  • 仏教の伝来と産馬の間に密接な関係が見られる。もしかしたら、それは公開土王碑に記録された高句麗騎馬隊の南征(四世紀末〜五世紀初旬)以来加速した韓半島南部と日本列島における騎馬文化の本格的受容と何か関係があるかもしれない。

  • 五世紀上旬、伝応神天皇陵の陪塚より出土した三燕文化の影響の濃い金銅装飾鞍は、当時の状況から考えて新羅経由でもたらされた可能性が高い。というのも、高句麗南征の直後から加羅の馬具や武具を継承するだけでは飽きたらず、高句麗や三燕地方の武具や馬具や衣類や装身具にまで関心を向けたのは、半島南部では新羅ただ一国だったからである。

  • ただし五世紀前半の国内出土土器に注目すると、また違った景色が浮かび上がってくる。奈良盆地の葛城(葛城氏の本拠地)と布留(天理市。当時は和邇氏の本拠地)、紀伊川流域の和歌山市(紀氏の本拠地)、河内の古市(羽曳野市藤井寺市を中心とする大阪府の東南部)や澁川郡阿都(八尾市。物部氏の本拠地)や和泉南部地方(最初から渡来人集落があった)などから中国江南地方の南岸、新羅、高霊地方、栄山江流域など様々な地方の特徴を有する土器が出土しているのである。ヤマト大王家や諸国の有力豪族の音頭で様々な地方の渡来人系職人が集められ、腕を競い合ったと想定されているが、中でも特に目立つのが高霊式土器の出土で、むしろ百済式土器(漢江流域および錦江流域の土器)はあまり出土しない。

  • ただし、こうした渡来人招聘の目的がコラボレーションの結果、新様式を生み出す事だったとしたら、そうした試みの大半は多くの地域で水泡に帰したという分析もある。いずれにせよ五世紀中盤になると日本全土の土器は一旦和泉の陶邑で焼かれる様式で統一され、そうした強烈な中央集権の台頭を暗示する独占状態が五世紀末まで続く。同時期に始まった曽我遺跡(橿原市)における玉造産業の独占に関しては、なんと六世紀中旬まで続く。

  • 正直、この時期の「勝者」が誰だったのか明確には判らない。和泉陶邑と曽我玉造工房の出現に関連して断片的に「和泉=豊国ラインや播磨=日向ラインの強化(それに関連して最初は葛城氏が、次の段階では波田氏が台頭)」「(おそらく産鉄事業振興に伴う)備前・備中・播磨などの職人層の中央進出」「百済からの原料鉄の大量流入と安羅人の台頭」「和泉と古市の中間にある丹比郷の影響力増大」といった情報が伝わるが、むしろ注目すべきはそうして管理すべき対称が急増した結果、全体を統括する大伴氏や物部氏蘇我氏に一気に権力が集中していったという事かもしれない。ただし突如として高句麗百済の首都漢城を陥落させ、高霊伽耶が自立する番狂わせがあって大和川流域よりむしろ淀川流域に重きを置く継体天皇政権を出現させる事になる。

  • 土師氏は5世紀一杯、巨大前方後円墳築造に合わせ菅原から古市、さらに和泉へとその本拠地を移してきた。そして、その枠組みが外れた途端に台頭してきたのが交野の馬飼氏や東国舎人を供給する信濃駿河の中小豪族といった産馬集団だった。ある意味乗馬の慣習が社会上層部に充分に浸透した結果、実情に沿った身分引き上げがやっと行われたといった感じにも見て取れる。

鞍作部の人々は金銅鍍金や金銀象嵌の技術ばかりか実は法具や仏像や燈籠等の製作に関する知識まで有しており、畿内の下田、石上、三輪、五位堂などの各地に分散して暮らしながら仏教公伝と同時に舎利容器、法具、仏像、香炉、燈籠等を蝋型造形法によって鋳造し、蘇我馬子を助けていったと考えられている。

6世紀当時の 新羅仏教

新羅王家は遊牧民文化に接すると同時に、そこに内包される仏教文化に魅了され、これを王権伸張の鍵とみなしたと考えられている。

  • 法興王(在位514年~540年)の時代の話であり、この時期の新羅王家は、伝統的シャーマニズムに立脚する和白(貴族会議)の干渉力を弱めるべく「皇帝即如来」を標榜する北朝仏教や「皇帝菩薩」を標榜する南朝仏教を導入しようとしたが、実際には王家の人間に釈迦の家族を名乗った人間が多い事、さらには「新羅王こそ新羅のクシャトリア(国主階層)なるぞ」といった発言が見られる事から「新羅王則釈迦(の生まれ変わり)」というさらに極端な教義を展開した形跡が見られる。

  • しかしながら和白(貴族会議)の側もさるもので、インド人の容姿が明らかに現地人と異なるのと土俗的夜来者伝承を組み合わせて「実は新羅仏教が伝来したのは南北朝成立以前、しかも伝えたのはインド僧そものものだったが、ただし姿が異様だったので洞窟に住んで地下で教えを広めたのだ」という主張を繰り出し、それを弥勒信仰などに結びつけていく(半島では盧舎那仏も、達磨も、弥勒菩薩も、修験僧もみな地下の洞窟の中にいる事にされてしまうが、その嚆矢といえる)。

  • こうした意地の張り合いが何時まで続いたか定かではないが、概ね(後世における国仙の祖となった)花郎が組織されたとされる真興王の時代までに折り合いが付き、その事が新羅における国王への権力集中の一助となったと考えられている。とはいえ倭国において初期仏教が氏寺仏教以上に広がらなかった様に、新羅における初期仏教もまた「弥勒が氏族集団単位に現れる(それぞれに付帯するボーイスカウト団ともいうべき花郎集団や国仙集団単位に出現)」という発想上の限界を抱えていたらしい。
    *他部族に見せつけあったり、女王の関心を惹いたりする為に新羅の弥勒仏だけは急速に洗煉されていったとする指摘も。

    http://livedoor.blogimg.jp/specificasia/imgs/1/b/1ba3df94.jpg

それぞれの在位年代を信じるなら、半島における活動の主体が高句麗から新羅にバトンタッチした時期の方が明らかに先行している。則ち倭国においてもそうだった様に「中央集権性が高まったので周囲の領土の蚕食に着手した」というより「各豪族が力を付けて、めいめいが周囲の領土の蚕食に着手した結果、利害の衝突が頻繁となり、結果的に仲裁者として新羅王の社会的地位が高まる」という展開がまずあり、その要望に応え、さらなる主体性を獲得する為にも新羅王は新たな権威獲得運動に走らねばならなかったとも考えられる。

西江大韓国史教授李基白「仏教の需要と固有信仰(1972年)」より

新羅仏教を伝えたのは19代国王の納祗(ヌルチ)王(在位417年~457年)代の高句麗僧阿道(高句麗本紀では小獣林王5年(375年)に高句麗王が伊弗蘭寺を創建して迎えたとされる人物)とされるが、彼は別名を墨胡子といい、インド人であったとする伝承が少なくない。

そして、そうした伝承の中には、彼が朝鮮半島への伝道の旅に出たのは母の導き故であり、その母はこう言ったという。

「おお、新羅はまさにこれから仏教が栄える聖地。何故なら迦葉仏(Kasyapa。仏陀の前世の代表格「過去七仏」の一つ。56億7000万年前に地上に降誕したとされる)の時代に建てられた七つの聖地が今日なお現存しているからです」。そして「予め選ばれていた七つの聖地」とは、以下の七寺の前身に他ならないとする。

  • 天鏡林興輪寺(チョンギョンリムのフンリョン寺)

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  • 三川岐永輪寺(サムチョンギのヨンフン寺)

    http://araiarai.cocolog-nifty.com/blog/images/2008/06/01/dscn4454.jpg

  • 竜宮南方皇龍寺(ロングン南方のファンリョン寺)

    http://www.kagemarukun.fromc.jp/img008.jpg

  • 竜宮北方芬皇寺(ロングン北方のプンファン寺)
    *四隅を狛犬の原型の様な石像が囲んでいる。

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  • 沙川尾霊妙寺(サジョンミのヨンミョ寺)

    http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2007to_0//yukinohaiji42.jpg

  • 神遊林天王寺(シンユリムのチョナン寺)

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  • 婿清田曇厳寺(ソチョンジョンのタモム寺)

    http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/17/16/98/src_17169831.jpg?1281578589

私(李基白)はここに斯蘆時代まで遡り得る巫覡(Shamanism)の痕跡と、そうした聖地(を崇める「和白会議の参議=在地有力者」)が率先して仏教を受容していく過程を見ずにはいられない…

 6世紀当時の高句麗仏教

この時期の高句麗貴族層は所謂「中期壁画古墳」時代にある。そこで好んでモチーフとして取り上げられたのは、前期壁画古墳が積極的に模倣した遼東壁画古墳や、北魏仏教様式の特徴たる「(威厳ある容姿や服装や仕草、そして練り上げた教養と圧倒的武力を背景に絶対的命令を下す)峻厳な専制君主」という統治者像から如何に離れ「領民から親しまれる理想の封建領主像」に近付くかという事だった。

  • いわば新羅とは逆に現在の自領での生活を守る事しか考えてない守旧派貴族が牛耳る「和白(貴族会議)」が勝利した様なもので、そうした状態が原則として栄留王25年(642年)に淵蓋蘇文の時代まで続く事になる(「中期壁画古墳」時代そのものは、隋からの4次にわたる遠征もあって六世紀末には終わっているのだが、宮廷で陰惨な覇権争いを続ける慣習はその後も続いたと見られている)。

  • 高句麗新羅の圧力の強まった苦難の時代を基本的に外交戦略、すなわち百済に接近し、中国の南北朝の両方に朝貢を行って双方と友好を保ち、なおかつ北朝が勢いを強めるとさらに遊牧民族である突厥と結ぶ事によって乗り切ろうとした。さらにそうした動きの背景には、政権争いから排除されたインテリ層が、そのルサンチマンを注ぎ込んでその鋭利さに磨きをかけた空論を奉ずる高句麗僧の存在があった。
    *本来「空論」でいう「空」とはインド仏教では万事が連鎖していて全体で不可知の巨大世界を形成している有様をいうのだが、これが中華文明圏では充分な理解が得られず「有無の無」と単純化して考える中央アジア解釈が採用されていたしていた事が虚無化に拍車をかけたらしい。

推古天皇3年(595年)から推古天皇23年(615年)に掛けて日本に滞在して聖徳太子から師と仰がれた高句麗僧慧慈もまた外交僧の一人だったらしく、実際その滞在期間はほぼ高句麗と隋が緊張状態にあった期間に該当し、さらに日本書紀に拠れば推古天皇8年(600年)と推古天皇10年(602年)の二回、大軍を動員して新羅に圧力を掛けている。

6世紀当時の百済仏教

亡国スレスレの状態からの再出発を余儀なくされた百済王族は、文周王(在位475年~477年)の時代に熊津に移行して以降も中々国内をまとめきれず、東城王(在位479年~501年)の時代から着手した南進策が相応の成果を結んだのも、やっと武寧王(在位:502年~523年)の代に入ってからだった。

  • この間、国土回復の為に手段を選ばなかったせいで専制性と軍国主義性を強め、より南方経営に専念するべく538年、王都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)へ南遷させた。

  • 次の聖王(在位523年~554年)の代には、属国化を恐れる高霊伽耶などと激しい抗争を繰り広げたが新羅との戦いで戦死。以降は目立った王が出現せず、学問面でも外交面でもイニチアシブを高句麗僧に握られるに至った。

仏教公伝」もこの百済聖王が見返りを期待して行った事だったが、はかばかしい結果は得られなかった。南都六宗の系譜を見ても三論宗(中論・十二門論・百論)や成実宗(成実論)の系譜はあくまで弱い。

百済の王興寺(ワンフンサ)と日本の仏教建築

泗沘時代(538年〜660年)に百済の王都だった泗沘城(現在の扶餘)の山城がある扶蘇山から見て、錦江(白馬江)を隔てた対岸の蔚城山の山麓に築かれた。

  • 「三国史記」はその創建についてこう記す。武王2年(600年)正月条に「王興寺を創す」、武王35年(634年)春2月に「王興寺成る。その寺は水に臨み、彩飾壮麗。王は常に船に乗って寺に入り行香する」と。

  • 2000年から2008年にかけての王興寺址発掘調査において王興寺が高麗時代まで存続していた事が明らかとなった。また木塔基礎(心礎石)部分から西暦577年(威徳王24年)に製作され納められた舍利容器と一緒に埋納された各種の舎利荘厳具が出土。青銅製の舍利箱に漢字29文字で「丁酉年二月十五日 百済王昌為亡王子 立刹 本舍利二枚葬時 神化為三(丁酉年(577年)2月15日、百済王・昌(威徳王の生前の名)は死去した王子のために寺を建てた。舎利を2枚入れようとしたが、仏の力で舎利が三つになった)」と刻まれており、この銘文から王興寺址の舍利荘厳具は新羅百済高句麗三国時代で最古のものであること、王興寺が『三国史記』に記載されている西暦600年ではなく577年に造営が開始されたこと、さらには威徳王には『日本書紀』に書かれている「阿佐太子」(597(推古4)年に 来日)のほかにも、577年ごろに死亡した別の王子がいた事が新たに明らかとなった。

  • 2008年4月の初めには早稲田大学の大橋一章教授(仏教美術史)ら日本の研究チームが扶余の王興寺遺跡地を視察し、ここで出土された瓦の文様と塔の構造などが飛鳥寺の遺物とほとんど一致するとし、王興寺と飛鳥寺が同じ技術者集団によって創建されたとコメント。その一方で東北学院大の佐川正敏教授は「確かに寺の中心ともいえる仏舎利を納めた塔の心礎の構造や、その周辺を飾った宝飾品は酷似している。しかし飛鳥寺が金堂3棟が塔を囲む配置になっているのに対し、王興寺は塔と金堂が一直線に並び、それを囲む東西回廊に付属建物がついているだけ。東西回廊の付属建物が飛鳥寺では金堂に置き換えられている」と指摘。またこの変更に高句麗様式の影響を見てとる向きもある。

  • 百済の王都・泗沘城では、567年に威徳王が建立したとされる陵山里寺や、6世紀中頃の創建と推定されている定林寺も塔や金堂が一直線に並ぶ「四天王寺式」ではなく、王興寺同様に金堂の東西に長い建物を持つ構造である事が明らかとなり、この時代を特徴付ける独自の伽藍配置として「百済式」という呼び名が使われ始めている。
    *日本のリベラル層がこれに乗じて嬉々として「飛鳥寺は所詮は王興寺のデッドコピーに過ぎなかった。今も昔も日本人にオリジナリティなど存在しないのだ」なる主張を展開したのが記憶に新しい。

日本書紀敏達天皇6年(577年)冬11月庚午朔条に「百済国の王(威徳王(在位554年〜598年))は、帰国する使の大別王(おおわけのきみ)らに付して経論若干巻、ならびに律師・禅師・比丘尼・呪禁師(じゅごんのはかせ)・造仏工・造寺工の6人を奉った。そこで難波の大別王の寺に安置させた。」とある。ここでいう「大別王の寺」は(蘇我馬子に破壊された)四天王寺百済野の「堂ケ芝廃寺(船場久太郎町)」だったと推測されている。難波津は5世紀より東アジア諸外国に向けた外交窓口であり、6世紀中旬に公伝した仏教文化受容の最先端地域でもあった。中国や朝鮮からの渡来人達を中心に早い時代から寺院などの仏教建築が立ち並んでいたのである。

イラン系医者は6世紀に来ていた?

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当時は弘前大学医学部麻酔科の助教授だった松木明知氏と中世ペルシャ語解読の第一人者である京都大学名誉教授の伊藤義教氏の共同研究によって、イラン系の医師が初めて来朝したのは、これまでの通説である8世紀ではなく、6世紀の半ばであることを解明したというものである。通説では、天平8年(736)に遣唐使に従って来朝した李密翳(りみつえい)が最初のペルシア人医師とされていた。

松木明知氏は、麻酔術が日本に伝わった時期を研究するため『日本書紀』をひもといて、見慣れない二人の人名に気づかれた。欽明天皇15年(554)の条に記されていた医博士の王有陵陀(おううりょうだ)と採薬師の潘量豊丁有陀(はんりょうぶちょうだ)という人物である。欽明天皇はその前の年に隣国の百済(くだら)に対して、軍事支援の見返りとして「医博士・易博士・暦博士を当番制で交代させよ」と要求した。要求に応えて百済から派遣されてきた交代要員の博士たちの中に、二人の医師が含まれていた。

松木氏は親交のあった伊藤教授に解読を依頼したところ、王有陵陀は中世ペルシャ語で「ワイ・アヤーリード」の写音文字で「ワイ(神)によって助けられるもの」という人名であることが判明した。潘量豊丁有陀についても、「ボリヤワーデン・アヤード」の写音文字で、「鋼のような強固な記憶の持ち主」という意味であり、イラン系の医師であると判断したという。その他に、天平8年(736)に来朝した李密翳(りみつえい)は医師とされているが、翳(えい)は中世ペルシャ語では楽人を表し、医師ではないこともほぼ確実になったという。

法興寺飛鳥寺)創建(587年〜596年)とペルシャ系職人

日本に瓦が伝来したのは飛鳥時代(592年〜710年)の始まる少し前。「日本書紀」崇峻元年(588年)条に「百済国が仏舎利や僧などとともに、寺工(てらたくみ、寺院建築士)2名、鑢盤(塔の屋根頂部に置いて雨仕舞の役割を果たす建築部材)博士1名、瓦博士4名(窯を築く、粘土を成型する、焼く、葺くの4工程のスペシャリスト)、画工1名をおくってきた」とあり、彼ら(およびその指導を受けた日本の職人)の手により法興寺飛鳥寺)が造営された(完成は596年)。
*造仏工を欠いており、実際創建当時の法興寺には仏像が安置されていなかったとも。

ちなみにこの時来日したのは寺工のダラミタ、モンケコシ、露盤博士のショウトクハクマイジュン。瓦博士のマナモンヌ、ヨウオキモン、リョウキモン、シャクマタイミ、画工のビャッカ。ペルシア学の権威である京都大学名誉教授の伊藤義教氏によれば中世ペルシャ語でダラミタは、そのまま寺工を意味し、コンケコシはテント型のお堂をさし、ショウトクハクマイジュンは露盤、マナモンヌは屋根葺き、ヨウキモンは丸瓦、シャクマタイミは鬼瓦、ビャッカは彫刻を意味するという。ここから推察するに彼らはペルシャ人か、またはペルシャ語百済に伝わり、職人の名称を直接ペルシャ語から使用したかとなる。もしこれが正確なら、法興寺法隆寺はペルシア様式と何らかの関係性がある事になる。

法興寺は飛鳥から平城京に都が移った際(710年)に現在の奈良市に移転され、名も元興寺と改められた。このとき建造物の一部や瓦もこちらに移されている。昭和30年代にこの元興寺の極楽坊本堂と禅室の解体修理が行われたが、屋根から降ろされた4413枚の瓦のうち法興寺から運ばれたものが約600枚、 そのうち法興寺創建時の(つまり百済からやって来た瓦博士たちが造った瓦)が約170枚も残っていた。

遣隋使と留学生

日本に初めて系統立った道教知識を本格的に持ち込んだ当事者とも。

  • 日本書紀』及び『隋書』俀國伝によれば、推古16年(608年)から 推古17年(609年)に派遣された第3回遣隋使に従って学生として倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)・新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)・学問僧として新漢人日文(にちもん、後の僧旻)・南淵請安ら8人の隋へ留学する。隋使裴世清が帰国する。このうち南淵請安高向玄理は日文は32年間後の、舒明天皇12年(640年)に帰国して、蘇我入鹿中大兄皇子中臣鎌足に「易経」に基づく瑞兆思想や革命論を吹き込んだとされる。

  • 南淵請安大和国高市郡南淵村(現在の奈良県の飛鳥川上流の明日香村稲渕)に住んだ南淵漢人(みなみぶちのあやひと)と称される漢系渡来氏族出身の知識人である。

  • 高向玄理を出した高向氏もまた魏の曹操の末裔を称する渡来人の子孫。

そもそも隋に派遣されたのは全員渡来系氏族だった。

来村多加史「高松塚とキトラ」より

日本書紀推古天皇12年(604年)条の憲法17条の公布月、初めて「黄文画師」と「山背画師」を定めたとある。「聖徳太子伝歴」にはさらに詳細な説明があり、そこでは太子が諸寺に仏像を描いて荘厳とする為に「黄文画師」「山背画師」「簀秦画師」「河内画師」「楢画師」を定めて税を免除し、永く名業となさしめた事になっている。

「黄文画師(黄文氏、黄文連)」

新撰姓氏録山城国諸蕃には「黄文連、出自高麗国人久斯祁王也(黄文連は高句麗国の出身で高麗久斯祁王の末裔なり)」とある。仏経を作成する職業部である黄文画師の伴造家とされる。

  • 日本書紀』では672年の壬申の乱の発端となった6月24日の吉野挙兵に際し、大海人皇子(のちの天武天皇)は倭(大和国)の京の留守司高坂王に使者を遣わし、駅鈴の引き渡しを求めた。このときの使者に選ばれたのが大分恵尺、黄書大伴、逢志摩の3人で、皇子は「もし鈴を得られなかったら、志摩はすぐに還って復奏せよ。恵尺は急いで近江(大津京)に行き、高市皇子大津皇子を連れ出し、伊勢で(私と)会え」と命じている。結局、目的は達せられず、命令に従って大分恵尺は近江に向かい、逢志摩は大海人皇子のもとに引き返したが、黄書大伴のその後の行動についてはに明記されていない。

  • 北山茂夫『日本古代政治史の研究』は、その後黄書大伴が大伴馬来田と吹負の兄弟に挙兵を告げた可能性を示唆している。それを受けて大伴兄弟は大海人皇子側につくことを決め、吹負は倭の争奪戦に乗り出し、馬来田は大海人皇子の後を追ったという訳である。おそらく黄書大伴は、同日中に馬来田とともに吉野宮から皇子の一行を追って、莬田(大和国宇陀郡)の吾城で合流した。この後の黄書大伴の行動についてはもう記録はない。『日本書紀天武天皇12年(683年)9月23日条で、それまでの造姓から連姓を賜与されたのはこの時の功によるものと考えられている。また『続日本紀大宝元年(701年)7月21日条では黄文大伴は100戸を封じられた事になっている。

  • 藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳である高松塚古墳の壁画は、この一族の中の黄文連本実とする説が有力視されている。

黄文連本実は史料中六ヶ所に足跡を残す。

唐への留学経験があるのは確実で、おそらく天智八年(669年)の第7回遣唐使に同乗して帰国したと考えられているが、渡航したのはそれ以前とされる。仏跡図が保存されていた平城京右京禅院に道昭の舶載経論が保存されていた事から白雉4年(653年)の第二回遣唐使に同乗した可能性を指摘した向きもある。いずれにせよ第7回遣唐使帰還から第8回遣唐使派遣(701年)までは随分間が開き、その間は唐と事実上断絶状態だったので、黄文連本実が唐で身に着けてきた葬礼知識が頼りにされた事だけは間違いないようである。
*この時代には外交の相手が百済より新羅へと大転換したが,その影にあって高句麗もまた飛鳥美術に実質的な影響を与えている。この黄文画師もまた高句麗出身であり、画師の筆頭に挙げられる辺りにその存在感の大きさがうかがえる。《日本書紀》によれば高句麗王は610年に彩色・紙墨の技術者である僧曇徴を貢上するが,これは日本における画材の需要増大を反映しているとともに,その技術が高句麗からもたらされた事を示唆しているのである。

「山背画師(狛氏?、狛造?)」

「山背」は広義には山城国の事だが、元来は「奈良盆地の北辺をなす奈良山の向こう側」という意味であって、狭義には現在の京都府木津川市付近を指す。

  • ところで木津川北岸は高麗系の狛氏(狛造)の本拠地で、飛鳥寺とほぼ同時代に建立された高麗寺の遺跡がこの地より発見されている。「新撰姓氏録山城国諸蕃には「狛造、出自高麗国主夫連王也(狛造は高句麗国の出身で高麗主夫連王の末裔なり)」とある。

  • 後にこの地には「狛弁才天社(木津川市山城町椿井天敷堂。創建不明。14世紀には存在)」が立てられている。いつの間にか十三童子像に囲まれた「弁才天座像(頭が老人で体が蛇という形の宇賀神と鳥居のついた宝冠を頭にのせ、八本の腕をもち、各手には左手には上より鉾・法輪・弓・宝珠を、右手には鑰(鍵)・宝棒・矢・剣を持って、唐服をまとった姿に表されている。宿院仏師の宗久源三郎らにより造立)」を守護神とする様になったらしい。

  • ところで直接の関係は不明だが「新撰姓氏録河内国諸蕃には高句麗の溢士福貴君を祖とするものと、高句麗人の伊利斯沙礼斯を祖とするものの二流の「大狛連」が存在している。さらに福貴君を第22代王安蔵王の子とする系図もあり、その起源は「日本書紀」天武10年(681年)4月12日条で大狛百枝・足坏ら14人が大狛造百枝連の姓を賜与された事に遡る。持統10年(696年)5月13日条で大狛連百枝は直広肆の位と賻物(葬儀の際の贈り物)を贈られたが、この日か直前に没したらしい。おそらく壬申の年に際して大海人皇子天武天皇)側に加わって功を立てた結果、そういう待遇を受けたものと考えられる。あと他に「新撰姓氏録」右京諸蕃には、高麗国安岡上王を祖とする「狛首」が存在したと記されている。

この時代の画師とは,すなわち,古代大和朝廷に奉仕していた特定氏族の世襲化した技芸に対して公式に与えられた,官職としての姓(かばね)であった。やがて官営事業が活発になると,あらたに倭(やまと),高麗(こま),簀秦(すはた),河内などの画師姓諸氏族が活躍するようになる。

「簀秦画師(愛知秦氏)」

聖徳太子創建の寺伝を有する百済寺石塔寺長命寺などが建ち並ぶ近江国湖東の画師集団である。

  • 同じ湖東の愛知郡を本拠地とする愛知秦氏を母体とする集団だった可能性が指摘されている。

  • 平安時代に入ってなお、その初期の815年に簀秦笠麻呂なる画師が西市正に任じられた記録がある(「日本後紀」)。

 一般に「新羅系」とされる事が多いが、高霊式土器が日本に広まった五世紀前半と六世紀上旬に伊予越智郡愛媛県今治市)及び紀伊に展開した渡来人集団と同じだとしたら「高霊伽耶系」という目もない訳ではない。

河内画師(古市の雑居渡来人を土師氏や丹比氏がプロデュース?)

東大寺大仏殿の藻天井の彩色を手掛けた事で知られる。 

  • その本拠地は丹比郡土師里(大阪府藤井寺市)と目されている。古市古墳群のまっただ中であり、渡来系氏族の一大拠点でもある。近隣には飛鳥白鴎時代の古代寺院跡が沢山分布している。

  • 丹比郡というと、どうしても反正天皇の存在を抜きに語れない印象がある。
    *そしてその印象は土師氏につながり、その河内進出の歴史は、そのまま名石の産地たる二上山確保の歴史へとつながっていく。

  • ある意味牽牛子塚の様な六世紀末の巨大八角墓のこそが「土師氏が主役だった時代」の掉尾を飾るものであり、それに次いで造営された高松塚古墳キトラ古墳は主役を唐留学経験を有する画師集団に奪われながらも相応の役割を果たした最後のプロジェクトだったのかもしれない。

巨大古墳の築造が下火になると土師氏は伝統的な土師器の生産や陵墓の管理だけでは豪族としての地位を保つ事が出来なくなり、一族存亡の危機を迎える。この危機を乗り越える為に他の多くの豪族と同様に中央官庁に多くの人材を送り込む様になった。文献史料においてこの頃から外交や軍事の分野で、土師氏の一族の名前を目にする機会が増えるのはそのせいである。そして7世紀後半に入って地方豪族が競って寺院を建立する様になり、その数が全国で700箇所にも達っすると土師氏も「土師寺」を建立している。
*「土師寺」…昭和11年(1936年)、石田茂作著『飛鳥時代寺院址の研究』の中で命名。昭和52年(1977年)以降の調査で「土寺」と墨書きされた土器が発見された事から土師氏の氏寺である事が実証される。

楢画師(倭画師、大崗忌寸、幡文造)

「楢」とは大和国添上郡楢郷の事で、今日なお天理市楢町にその名前を留め続けている。その地は櫟本(いちのもと)とも呼ばれていた。そして「新撰姓氏録」に櫟本の名族を探すと左京諸蕃の「大崗忌寸」や「幡文造」といった名前が浮上してくる。

  • 新撰姓氏録」は大崗忌寸について「出自魏文帝之後安貴公也(魏文帝の末裔たる安貴公を氏祖とする百済系氏族である)」「大泊瀬幼武天皇[謚雄略。]御世。率四部衆帰化。男龍[一名辰貴。]善絵工。小泊瀬稚鷦鷯天皇[謚武烈]美其能賜姓首。五世孫勤大壱恵尊。亦工絵才。天命開別天皇[謚天智。]御世。賜姓倭画師。亦高野天皇神護景雲三年。依居地。改賜大崗忌寸姓(雄略天皇の治世に郷土の人々を率いて渡来した。その子の龍(辰貴)は画才も以て武烈天皇から首の姓を賜り、また、その五世孫に当たる恵尊も画才を認められて倭画師の姓を賜った。これらの実績を以て大崗忌寸姓を許されたのである)」と記す。また幡文造についても「大崗忌寸同祖、安貴公之後也(大崗忌寸と同祖で安貴公の末裔である)」と記す。

  • 大崗忌寸は画師集団として渡来してきてその後もその職掌に徹したプロフェッショナル集団だった様である。一方幡文造は旗のデザインを職掌とする氏族集団であったと推測されている。

この一族からは飛鳥時代の学者高向玄理(?〜654年)が出た。高向氏(高向村主・高向史)は応神朝に阿知王とともに渡来した七姓漢人の一つ段姓夫(または尖か)公の後裔と称したが、一説では東漢氏の一族とも。その呼称は河内国錦部郡高向村(現在の河内長野市高向(たこう))に由来する。

  • 遣隋使・小野妹子に同行する留学生として聖徳太子が選んだと伝えられており、推古天皇16年(608年)に南淵請安や旻らとともに隋へ留学。なお留学中の推古天皇26年(618年)に隋が滅亡し唐が建国されている。

  • 舒明天皇12年(640年)に30年以上にわたる留学を終えて、南淵請安百済新羅朝貢使とともに新羅経由で帰国し、冠位1級を与えられた。

  • 大化元年(645年)の大化の改新後、旻とともに新政府の国博士に任じられる。大化2年(646年)遣新羅使として新羅に赴き、新羅から任那への調を廃止させる代わりに、新羅から人質を差し出させる外交交渉を取りまとめ、翌647年(大化3年)に新羅王子・金春秋に伴われて帰国し、金春秋は人質として日本に留まることとなった(この時の玄理の冠位は小徳)。大化5年(649年)に八省百官を定めた。

  • 白雉5年(654年)遣唐使の押使として唐に赴くこととなり、新羅道経由で莱州に到着し、長安に至って3代目皇帝・高宗に謁見するものの病気になり客死。

その経歴から見て高向氏は外交氏族という側面も持っていた様である。

7世紀末〜8世紀初頭にかけて奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)にキトラ古墳(第8回遣唐使帰還以前)や高松塚古墳藤原京期)の様な大陸風壁画古墳が築造されたのはまさにこの端境期。当時の倭国高句麗文化の影響下にあった事の重要な足跡だったりもする様です。

最も驚くべき点は、こうした日本の大陸風壁画古墳が完全に「被葬者の冥福を祈る」目的でのみデザインされている点なのかもしれません。

そもそも、それが許されそうで許されないのが 「葬祭未分化状態」という次第。そしてあえて「未回収」のまま放置された信仰も…

屋敷神(やしきがみ)

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屋敷に付属している土地に祀られている神・神社のことである。屋敷およびその土地を守護する神で、屋敷の裏や敷地に付属した土地もしくはやや離れた山林などに祀られることが多い。その呼ばれ方は地域によって様々である。家との関わりが深い神であるが、神棚などの屋内神とは異なり、原則として屋敷の中には祀られない。屋敷神を祀る信仰は、浄土真宗の地域を除いて全国に分布している。

  • 明確な起源は分かっていないが柳田國男「祭日考」「山宮考」「氏神と氏子」の「新国学三部作(1946年〜1947年)は、神格としては農耕神・祖先神と同一の起源を持つ神とする。特に祖先神との深い繋がりが指摘されている。

  • 日本では、古くから死んだ祖先の魂は山に住むと信じられてきたが、その信仰を背景として、屋敷近くの山林に祖先を祀る祭場を設けたのが起源だと考えられる。古くは一般的に神霊というものは一箇所に留まることはなく、特定の時期にのみ特定の場所に来臨して、祭りを受けた後、再び帰って行くものだと信じられてきた。そのため、山林に設けられた祭場は当初は祠などではなく、祭祀のときのみ古木や自然石を依代として祀ったものだったと考えられる。

  • 祠や社が建てられるようになるのは、神がその場に常在すると信じられるようになった後世の変化である。屋敷近くの山林に祀られていたのが、次第に屋敷の建物に近づいていって、現在広く見られるような敷地内に社を建てて祀るという形態になったと思われている。屋敷神が建物や土地を守護すると信じられるようになったのは、屋敷のすぐそばに建てられるようになったからだと考えられる。

  • また、一族の祖霊という神格から屋敷神を祀るのは親族の中でも本家のみだったが、分家の台頭により、次第にどの家でも祀るようになっていったと考えられている。ところによっては、一家一族の守護神であった屋敷神が、神威の上昇により、一家一族の枠組みを超えて、地域の鎮守に昇格することもあった。

直江廣治「屋敷神の研究(1966年)」によると、各戸屋敷神・本家屋敷神・一門屋敷神の三つに分類することができる。

  • 各戸屋敷神…集落の全ての家が屋敷神を持ち、それぞれで祭祀を行なっている。
  • 本家屋敷神…集落の家のうち特定旧家のみが屋敷神を持ち祭祀している。
  • 一門屋敷神…集落の家のうち、特定の旧家のみが屋敷神を持っており、旧家に一族が集まって祭祀している。

この3つの形態は集落構造の変遷に対応している。集落内の親族関係が密接で本家分家体制が強固なところでは、一族がそろって本家に集まり祭祀をする「一門屋敷神」であるが、親族同士の関係が弱まり、希薄になると、本家に一族がそろって祭祀を行なうことはなくなり「本家屋敷神」の状態となる。親族の制度的繋がりが消え、分家が台頭して独立した生活単位となると、分家においても屋敷神の祭祀を行なうようになり、「各戸屋敷神」の状態となる。このように屋敷神の形態と集落内の各戸の関係は対応しているといえる。

屋敷神というのは、あくまで術語であり、実際の呼称は地域によってさまざまである。
東北地方や鹿児島県では「ウチガミ」「ウジガミ」と呼ばれている。そのほか、「ウッガン」「ジガミ」「ジヌシガミ」などとも呼ばれる。

  • 祭祀を行なう時期(春と秋)が農耕神(田の神・山の神)と重なることから両者の関係が指摘されている。また屋敷神の祭祀は一族がそろって行う地域が広く存在し、祖先神の性格があることも指摘されている。このことは屋敷神を「ウジガミ」と呼ぶ地域があることからもわかる。明確に祭神を祖先神だと認識した上で祀っているとしているところもあり、また農耕神も祖先神の性格を持っていることが指摘されており、屋敷神・農耕神・祖先神の三者は関わりがあることが分かっている。

  • ただし、屋敷神を祖先神だとすることに関しては必ずしも当てはまるわけではない。特に都市部における屋敷神は、屋敷の居住者が変わっても祭祀を受け継ぐことも有り、一概には祖先神だとは言えない。

  • とはいうものの、おおむね屋敷神はそれぞれの家に関わりのある祖先神を起源にしていると考えられるのであって、特定の神社の祭神を祀るわけではなかったが、現在では有名神社の祭神を祀っているとしているところも多い。これはおそらく民間宗教者の関与によって、「稲荷」「神明」「祇園」「熊野」「白山」「天神」「八幡」「若宮」などの有名神社の分霊を祀っていることに変更されたと考えられる。中でも稲荷を屋敷神としているところは非常に多い。

屋敷がある敷地の一角に祀られることが多く、その場合は屋敷の北西・北東に祀られることが多い。北西の天門に祀られるのは日本において不吉だとされる方角だとされていたためである。農耕において北西の風は不吉なものとされるという。北東を鬼門として不吉な方角だとするのは、後世の陰陽道の影響であり、比較的新しい習俗である。

  • 屋敷のすぐそばには祀らず、少し離れた山林の中に祀られるところもある。これは既に述べたように本来、森林または山に対して祭祀を行なっていたことの名残であると考えられる。

  • 原則として屋外に祀られるものであるが、例外として屋内で祀っているところもあるという。これは山林で祀っていたものが屋敷に近づいていった結果、最終的に屋敷と融合したものだと思われる。

  • その多くは石造か木造の小祠である。普通の神社のような社殿を持つことはまずない。丁寧に祭祀されている場合は末社程度の規模の社殿を建てられ、鳥居までも持つこともあるが、社殿を備えるようになったのは神の常在を信じるようになった後世の変化で、それ以前は祠もなく、祭場のみだった。樹木や自然石を依代としており、伊豆諸島の利島・熊野地方・壱岐などでは現在でも古態を留める。

  • 藁の仮宮を祭りごとに作り変えるところもある。これは祭りのときのみ神が降臨するものだという信仰の名残だと考えられている。普段は神はいないため社の必要はなかったのである。

  • 神体は既述のとおり、古木や石を用いたのが最も古い形態だと考えられる。鋭利な刃物の普及により削掛が加わり、紙の普及により、御幣も用いられるようになった。現在では、特に祭神を特定の神社の分霊とする場合は、各神社の発行する神札を祀っていることが多いだろう。

春の旧暦2月と秋の旧暦10月もしくは旧暦11月の2回に祭祀される。もしくは省略されて秋に1回のみ祭祀するところもある。稲荷を祭神としているところでは稲荷の祭日である2月の初午の祭りが重視される。春秋に祀るのは、山の神が稲作の開始とともに田に降りて田の神となる春と、稲作が終わり田の神が山に帰っていく秋に対応しているからだと考えられ、既に述べたように屋敷神と農耕神は深い関わりがあると考えられている。

割とこういう感じの「曖昧な宗俗」って世界中で見掛けたりします。

こういう痕跡からも古代日本人の信仰観の変遷が辿れるという次第。で、思わぬ場所に思わぬ祭祀施設が存在すると、それが怪奇現象の目撃譚を誘発したりします。田宮稲荷(お岩稲荷)神社もその類で「武家屋敷内の奇妙な祠(要するに屋敷神祭祀)」が「小岩の怨霊を鎮める為に建立された」なる逆発想を生んだ側面もあるのだとか。