「前方後円墳国家(3世紀〜5世紀)」時代の日本(倭国)においては、まさしく前方後円墳の築造こそが「日本領土」たる証だったのです。
- ところで物凄く「強烈」な反論を発見。21世紀に入ってなお「騎馬民族征服王朝説」はますます元気一杯?
- ちなみに考古学上の編年史によれば、紀元前より九州北部内陸地域で連合王国を営んできた在地龍力者達が畿内(纒向)に移住したのは5世紀でなく3世紀後半。代わって沿岸部の海人族が台頭してきて4世紀に入ると祭祀の舞台を三輪山に移した畿内ヤマト王権との関係を急速に深めていく(所謂「三輪山=宗方=沖ノ島」三重祭祀)。そして5世紀はむしろ半島外交の九州北部独占の崩壊期。しかもこの時期の九州北部内陸地域で活躍するのは「葦北君」「筑紫君」「肥君」といった古代九州北部連合系と全く異なる別勢力。さらには装飾古墳(4世紀〜7世紀)を築造した謎の別勢力。
*装飾古墳(4世紀〜7世紀)を築造した謎の勢力…壁画の内容から「船と馬の民」とか呼ばれたりする。現在の熊本県あたりを本拠地としていたらしい。おそらく砂鉄から鉄鋼を精錬する技術の全国伝播に一役買ったと目されている。
- 確かに当時の史料には「筑紫君」が強力な騎馬隊を擁していたっぽい描写もあるけど、この時代までには上越経由で甲信越地方や東海地方に移住した高句麗系移民やその影響を受けて馬を飼いだした在地豪族達も結構な勢力になってる(伊達に出土する埴輪に人形ならぬ馬形が混ざってくる訳じゃない)。ましてや直接高句麗騎馬隊の遠征を受けた朝鮮半島南部諸国はいわずもがなで、それだけで圧倒的軍事優位が確保出来る時代なんてとっくの昔に終わっていたのである。第一間近には畿内ヤマト王権と縁深い(西都原古墳群を奥都城とする)日向騎馬隊なんてのも割拠していた。
その一方で「ヤマト王権の完全なる影響圏外」なんてのも存在してました。
確かにこれらの地域でも一応前方後円墳は発見されています。問題はその分布の仕方。あたかも立ち入り不可能の地域を囲んで威圧するかの様な建てられ方をしてるのです。おそらく交通路確保の為に懐柔した隣接地の在地有力者や、現地に派遣した駐屯軍が威圧目的で築造したものでしょう(当時の隼人族居住区には対抗して築造された「なんちゃって前方後円墳」も存在する)。ところで日向国のそれが対隼人防衛ラインだったとしたら、周防国のそれは如何なる勢力に対する防衛ラインだったのでしょうか?
考古学上の編年史が明らかにするの以下の2点。
- 残された人骨や遺伝子調査から、大陸系や半島系や倭人系の混合が確認された。
- 残された墳墓の様式は半島や大陸の影響を色濃く受けている。
ますます訳が分かりません。ちなみに文献資料にもちゃんと登場します。
『日本書紀』垂仁天皇の条に、崇神天皇の御代、意富加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、またの名、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)が、 日本へやってきたとある。 最初、穴門についた時、その国の伊都都比古(いつつひこ)が自分を国王だと名乗ったが信じられず退出し、 出雲国を経て笥飯(けひ)の浦に到着し、角鹿と名づけたとある。 都怒我阿羅斯等は、白石から生れた姫神を追って日本へ来たともあり、その姫神は、難波に至って比売語曽社の神となった。
新羅の阿具沼の辺で、一人の女が昼寝をしていた。その陰部に日光がさし女は赤い玉を産んだ。 その玉から変じた美女・阿加流比売を、新羅の王子・天之日矛(あめのひぼこ)は妻とした。 ある日、天之日矛は気嫌を損ね、激しく阿加流比売を罵った。 阿加流比売は「私はあなたの妻となるべき女ではない。祖国へ帰ります」と言って小舟を操り、日本に戻って難波で暮した。
この天之日矛神話との類似から、都怒我阿羅斯等と天之日矛を同神とする説がある。
崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇)の崩御後、垂仁天皇に三年仕え、天皇に帰りたいかと聞かれ「帰りたいと答えた」。 そこで天皇は「先皇の名、御間城の名をとって国名とせよ」といわれ、赤織の絹を賜り、返された。 ここから国名は任那となった。ところが新羅の人がそれを聞いて怒り、兵を起こして蔵に納めた絹を奪った。 そこから任那と新羅の争いが始まった。
*実際の越前国旧敦賀郡は海流の関係からむしろ新羅との関係の深さで知られる。政治的意図に基づく細部の改竄は黙殺すべきであろう。
イタケルの神というのは実は大変おもしろいというか、多分、日本の神話に出てくる神様の中でも変わった神様です。それは一つは、このイタケルという神は新羅から来たということが『日本書紀』にはっきり書いてあるのです。イタケルというのは、『日本書紀』神代の上巻の出雲神話の中に出てきます。実は須佐之男命の子神であるということで出てくるのですが、字は「五十猛」と書きます。『日本書紀』の読み方ではイタケルというふうに読んでいますが、これは出雲の地元というのはおかしいですが、島根県の大田市、出雲大社のある少し西のほうですが、そこにイタケルの神が上陸したのだという伝説の場所がありまして、そこでは「イソタケ」というふうに呼んでいます。そういう読み方も可能かもしれないと思います。
まず、『日本書紀』の言葉を読んでおきたいと思います。こういうふうに『日本書紀』には出てきます。「ある文にいわく。須佐之男命の所行無状(しわざあづきな)し。故、もろもろの神たち、おほするに、千座置戸をもつてし、つひに逐ふ。」これは須佐之男命がいろいろと悪いことをしたので、罪になることをしたので高天原から追放されたということを書いているのです。『日本書紀』ほ「ある文にいはく」という形で、神話のバリアント、異本をたくさん載せています。これはその異本の一つで、多分、皆さんは余りご存じないお話ではないかと思います。
このときに、「須佐之男命、その子五十猛神を率いて新羅の国にあまくだりまして曽尸茂梨(そしもり)のところに居します。すなはち興言(ことあげ)して曰はく。この国ほ吾居らまく欲せじと曰ひて、つひに埴をもつ て船につくりて、乗りて東の方に渡りて、出雲の国の簸の川上にある鳥上の峯に到る」(岩波古典大系本による)。この話を見ますと、皆さんよくご存じの須佐之男命が高天原から降りてきて、出雲の国の簸川の上流の烏上の峯というところに天降ったという話です。その中に、その子の五十猛神と一緒に新羅の曽尸茂梨というところに降りてきた、天降りしたということが書いてあるのです。さらに、ハニというのは埴輪の埴ですけれども、土で船をつくって、そして「興言して曰はく」といって、非常に勇ましく船に乗って押し渡ってきたような書き方をしています。こういうのを読みますと、すぐ騎馬民族征服説とかを考えたくなるのですが、それはちょっと置きまして、ともかく土の船ではありますけれども、船に乗って渡ってきた。それがもう一度天下りしたような形で鳥上の 峯に降りてきたというわけです。
その後の話は須佐之男命の例の八岐大蛇退治の話が加わっておりますが、そこはあまり違っていません。ところが、その終わりのところにまたイタケルの神の説明がしてあります。「初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を持ちて下る。然かれども、韓国に殖ゑずして蓋に持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に播殖して、青山に成さずといふことなし。所以に、五十猛命を称けて有功の神となす。即ち紀伊国に所坐す大神是なり」というふうに言っております。
おもしろいことに、この五十猛命というのを祭っているのは和歌山なんです。伊太祁曽神社という名前の神社があります。これは和歌山市の少し山のほうに入ったところにあるのですが、ちょっと盆地のようなところにある真ん中に伊太祁曽神社というのがあります。和歌山というのはいわゆる紀伊の国、木の国ということですね。植林の神が祀られるのにいかにもふさわしい。私は実は木曽の出身なので、伊太祁曽の「きそ」というのは何で「きそ」かなというのをつい思うのですけれども、林業ということにかかわっていろいろ名前がおもしろい、変わったところがあります。
例えば、宮城県には伊達神社があって、イタケルの神をお祀りしている。普通は伊達(だて)と読みますね。しかし、この関連の読み方からしますと「いだて」と読んだほうがいいのではないかと思いますが、こういうような言い方をされる場合もありますし、あるいは伊太氏(いたて)と読みますが、これは出雲の国でこういう名前で書かれている場合が多いようです。これはいわゆる『延書式』に神名帳というのがありまして、諸国の神社を書き出しているものがあるわけです。もちろん平安時代のものです。そこに出雲の国の、たしか六つだったと思いますが、いろいろなお社に、そこに一緒に祭られているという形であらわれてくるのです。一つだけ書いておきましたが、「玉作社坐韓国伊太氏神社」という書き方をしています。玉作はご存じのように出雲にある玉造温泉の玉造にあるお社なんですけれども、そこに「います」。ともかく一緒に住みついているというのか、祀られているというのか、そういう神様がいて、それが韓国の伊太氏神社である。イタケとイタテ、音が大変近いですし、恐らく同じ神と考えていいのでしょうけれども、こういう書き方をされて、ここでも韓国といって、新羅とはちょっと違う書き方でありますけれども、朝鮮半島から来た神様であることがはっきり示されているのです。それが主に紀州と出雲に祀られている。
これは一体どういう神様か。ここで読む限りは植林の神様であるということです。このイタケルの神様というのは、天から降ってきたときには木の種をたくさん持ってきた。しかし、韓国、朝鮮半島、新羅のほうには植えないで日本に持ってきた。
そして、筑紫から始めて、ずっと日本を青い山にしていった。今は紀伊国に祀られているというのが『日本書紀』の文章です。紀伊国はご承知のとおり木国でして、大変温暖で雨が多いですし、山には豊かに木が生えていますね。そういうことを思うと、森林を扱う神である。それが紀伊国にあるというのは自然なのかもしれません。
ところが、このイタテという神様はいろいろ複雑な神格を持っていまして、製鉄、あるいはもっと正確に言うと鍛冶、鉄を鍛えて鉄製品をつくる。特に武器をつくる。どうもそういった神格も持っているようです。
能本県の江田船山古墳というところから出土した、銀象眼だったと思いますが、有名な鉄剣がありますが、その銘文の中に「作刀者名伊太□、書者張安也」とあり与(「探訪日本の古墳」西日本篇、有斐閣による)。張安というのはいかにも中国人風の名前で、漢文ができた人なのでしょうけれども、この鉄剣をつくった人物はイタ何とかである。私はやっばり伊太氏に結びつけていいのだろうと思うのですが、そういうことを見ますと、どうも鍛冶、つまり鉄を鍛えて剣をつくる人の名前にこういう名前があらわれてくるということは無視できないですね。それをどうやってつなげて考えるかということを私はいろいろ考えたのですが、こういうことではないか。一つは、このイタケルの神話をよく考えてみると、これは韓国に植えずして日本に木の種をまいて、日本が青い山になった。逆に言うと、韓国ははげ山だということを暗に言っていると思うのです。韓国が青い山になるはずだったのに、木の種は播かれなかったのだから、韓国ははげ山で、日本は木が茂っている。そうしますと、これはなぜ日本に木が豊かなのかという一種の起源説話というふうにも読めると思うのです。
そうして、韓国に木が少なく日本に木が多い、その理由に鉄がからんでいるのではないかと私は思うわけです。それはどうしてかといいますと、これは三世紀のことを書いた書物というのは例の『魏志倭人伝』と同じく「魏志」でして、先ほど金関先生が引用されましたけれども、『魏志韓伝』というものの中に朝鮮半島の南部の三世紀のことが書かれているわけです。その中で、朝鮮半島南部の弁辰という言い方をしておりますけれども、大体、釜山からずっと洛東江という川をさかのばったその流域辺、大ざっばに言えばそう言えると思いますけれども、その地域から鉄が出る。そして南朝鮮の韓族、それから倭人もこれを採る。つまり、三世紀にそこから鉄が出て、その鉄を倭人も交易に来るということを書いています。この倭人を日本人、この日本列島に住んでいた人というふうに考えてみますと、その弁辰、朝鮮半島南部で出た鉄を日本人は交易で持ってきていた。実際、これはもう少し時代が下るかもしれませんけれども、古墳なんかから鉄[金廷]という鉄の板、あるいは延鉄と言っていいのですか。要するに延べ棒のような形の鉄がよく出てきますが、こういうものは恐らく素材の鉄ですね。そういった鉄素材が朝鮮半島から輸入されて、日本において鍛造して、そしていろんな鉄製品がつくられたというふうに考えられております。森林資源の枯渇する理由はいろいろあると思いますけれども、農業そのものは森林を破壊しません。ところが、製鉄を非常に盛んに行ったとしますと、これは確実に山ははげていく。製鉄のためには大変な量の燃料を必要とするわけです。高熱を必要としますから、ともかくその高熱を得るために大変な量の燃料を使用します。こういう形で、製鉄の盛んな地域ではどんどん森林資源が枯渇していくというのが、ごく近代に至るまでの文明のパターンです。ですから、木を使い尽くした民族は鉄がつくれなくなって、結局、軍事力、生産力が落ちて没落するということになるわけです。これは近代に入って、イギリスなどで石炭からコークスを使うようになって木炭でなくて済むようになってから、こういう森林の呪縛から解放されるわけですけれども、それまでほ森林がなければ鉄ができない。
ですから、日本が青い山で向こうがはげ山という状況はまずあっただろうと思ます。古代のどの時期のことを言っているかというのは大変難しいですが、三世紀から四世紀ぐらいにかけて、この神話が生まれてくるような状況が日本列島と朝鮮半島の問にはあったということは言えるだろうと思います。
それからもう一つ、ここにはイタケルの神というのが植林の神であるように書かれていますね。ですから、これも自然林が非常に豊かなところでは植林の技術なんていうのは全く必要ないわけで、日本で起こるというよりは、木を大変切って森林資源の枯渇を感じていた朝鮮半島で植林の技術ということがまた考えられ、発展してきたということが十分考えられると思います。そういう点で、このイクケルという植林あるいは森林資源の神様が朝鮮からこちらに渡ってきたというのは、三世紀と言い切れるかどうか疑問ですけれども、その当時の状況から十分あり得ることだと思います。
次に住吉神社とこのイタケルの関係について考えてみたいと思います。住吉神社というのは大阪にもありますし、博多にもありますが、私が重要だと思うのは今の新下関の近くにある長門の国の一宮と言われている住吉神社です。『住吉大社神代記』といわれる書物の中にほ先ほど言った伊達神がちょっと出てきて、住吉神とイタケルの関係を推測させるのですが、それはこういう形です。「船玉神」、これは住吉神の子神であるとなっているのですが、その中で、船玉神というのは「紀氏神、志麻神、静火神、伊達神の本社なり」と書いてあります。本社というのはどういう意味でしょうか。もとの神様でしょうか。『神代記』では、住吉神の子神様が船玉神で、そして伊達神はまたその分身みたいな形に考えられています。ですから、住吉神の孫の神というか、子の神というか、そういう形で伊達神というのは考えられていることになります。
まず第一に「紀氏の神」というのが出てきているのが大変印象的で、先ほど伊太祁曽神社が紀州にあると申し上げましたけれども、紀氏は本拠地が紀州になるわけです。これは『日本書紀』の中で「紀の臣」と言われている人は、先ほどから申し上げている朝鮮半島と大変関係の深い氏族として常にあらわれてきます。それはどういうことかというと、この辺は大変問題のある記述ですけれども、この紀の臣の将軍がいわゆる任那のほうに行って大変活躍したということが仁徳天皇、あるいはもう少し後の時期のこととして書かれています。多分、雄略天皇の時代ぐらいまで、ところどころに紀の臣というのが出てきます。このことが本当に大和朝延の朝鮮半島への経略ということを示しているかどうかはいろいろ疑わしい点があると私は思いますけども、しかし、紀の氏、紀の臣という紀州を本拠にしていると考えている人たちが大変朝鮮半島と関係が深い人たちであったということは言ってもいいだろうと思います。
和歌山市内には有名な大谷古墳というのがあります。五世紀の中葉か末期の築造と考古学では言うようですけれども、ここからは恐らく朝鮮半島で製作されたであろう、あるいは朝鮮半島から来た人がつくったであろう有名な馬胃が出ているのです。これは鉄製のちょうど馬の顔の形のようにつくったとても精巧なマスクです。馬具、しかも馬の胄なので、こういったものはどうしても朝鮮半島と結びつけて考えなけれはいけないものでしょうし、紀の氏というものと大谷古墳から出た鉄製の馬具をつなげて考える人は多いと思います。
こういうことを考えてみますと、ここでも実は伊達神というのは朝鮮半島とつながってくるわけです。それから大谷古墳から鉄の馬胄が出た。鉄製品ということでも言えると思います。それから「静火の神」というのがあ りますが、「静火の神」の神格も、火を扱うのだなあということを当然思いますね。そうしますと、やはり製鉄、あるいは鍛冶ということと何か関係があるのではないかと思います。
そして長門の国にある、下関にある住吉神社の祭神は、『日本書紀』によれば表筒男命、中筒男命、底筒男命というふうになっています。これも実は朝鮮半島とかなり関係があるというのは、物語の中に、神功皇后のいわゆる三韓征伐のときにですね、この神が霊験をあらわした。そういうことが書かれているのです。神功皇后の三韓征伐ははなはだ疑問の多い記述ではありますけれども、下関という位置を考えても、朝鮮との通行にこの神様が深い関係があったと言うことは言ってもいいのではないかと思います。
実は、この住吉神の名前が不思議だと、私は前から思っていたのです。表筒男命、中筒男命、底筒男命。だから、表と中と底を取ると、みんな筒なのです。ですから、結局ほぼ一つの神様を三つに言ったような感じがします。それで、どうしても私に連想されるのは、『日本書紀』 の「垂仁天皇紀」に出てきまして、これはミマキノスメラミコト、つまり崇神天皇のときの話として有名な、これはまた朝鮮関係で興味のある方はよくご存じだと思いますが、ツヌガノアラシトというのがその崇神天皇のときに福井県の敦賀にやって来たという話がかなり詳しく載せられています。そのツヌガノアラシトは大加羅、洛東江の上流のほうと言うのですが、どうでしょうかね。ともかく朝鮮半島の南部からツヌガノアラシトが敦賀までやってくる。そのときどういうふうに来たか。「穴門に 至る時に、其の国に人有り、名は伊都都比古、臣に謂りて日はく、我は是の国の王なり、吾を除きて復二の王無・・・」、こういうふうに言っているのです。
つまり、これはこういう話です。ツヌガノアラシトが、釜山と言ってもいいでしょうけど、そちらのほうから、穴門ですから長門のことですが、下関にやって来たときに、そこに人がいて、伊都都比古と言った。これが、「自分はこの国の王である。ほかのところにほ王様なんかいないから先へ行くな」と。ツヌガノアラシトは、よくよく見ても王様らしくないので、出雲の国を通って敦賀へやって来ました。それで崇神天皇にまみえたということになっているのです。
もちろん仮説ですが、住吉神社で祀られている筒男命というのは伊都都比古のことではないか。つまり、下関で「自分は王である」と言っていた伊都都比古ではないか。仲哀天皇の『日本書紀』の記述では、五十迹手(いとて)という者が下関の彦島というところで仲哀天皇に降伏したという話が出てきます。三種の神器のようなものを木にかけて、これも朝鮮式といいますか、先ほど金関先生が説明された木にそういう宝器をかけて、それを降伏の印に差し出すという物語なのです。ここで降伏して下関の彦島にいたという人物の名前が五十迹手と言うのです。これはやはり何らかの形で伊達や伊都都比古と関係があるのではないかと思うわけです。先ほど伊達神というのが住吉神の子神あるいは孫神だという考え方があると申し上げましたけれども、そうしますと、ちょうどその形に伊都都比古の話と下関の五十迹手の話は対比して考えられるのではないかと私は思ったのです。
実は、この五十迹手というのも大変おもしろいので、『筑前国風土記逸文』では、「高麗の国の意呂山に天降った天日槍の末」。つまり、オロ山と心うのは蔚山だと言われますが、韓国の新羅の地域ですね。そこに天降った天日槍の子孫が五十迹手だと言われております。だから、五十迹手というのは新羅から先祖が来たということになりますね。
それからもう一つ、下関で新羅と関係があるということを申し上げたいのは、長門の国の二宮は長府というところにある忌宮という神社ですけれども、それは仲哀天皇を祀っています。そこの伝承というのは、仲哀天皇の宮があった。豊浦宮と言っていたと言うのですけれども、そこに実は新羅の国の賊が攻め寄せてきた。そして、仲哀天皇はみずから矢を射てこれを撃退したというのがその忌宮に伝えられています。忌宮がある長府というのは、ご存じだと思いますが、下関から少し瀬戸内側に入ってきたところの海岸部です。住吉神社とは本当にすぐ近くです。そこに二宮の住吉神社があって、長府に忌宮があります。こちらが仲哀天皇の本拠地だったという伝説になっています。
こういうことを考えますと、私は下関にいた伊都都比古というのは新羅系ではないかと思うのです。それが祭っていた神か、あるいはその人を神格化あるいは祖先神として扱ったものが五十猛あるいは五十迹手神ではないかと思います。
『隋書倭国伝』
7世紀初頭においてなお、日本には謎の国があった。
- 明年、上遣文林郎《裴清》使於《俀国》 。(大業4年(608年)、隋皇帝は文林郎裴清を倭国に遣わした)。
- 度《百済》、行至《竹島》、南望《聃羅国》、経《都斯麻国》、迥在大海中。(百済を経て多島海を越え、南に済州島を望みつつ対馬を経て、さらに大海を渡った)。
- 又東至《一支国》、又至《竹斯国》、又東至《秦王国》、其人同於華夏、以為《夷洲》、疑不能明也。(そこから東に向かって「一支国(壱岐国とも筑紫の西にあった国とも)」「竹斯国(筑紫とも九州島とも)」「秦王国(豊国とも長門とも)」を過ぎた。その習俗は中華そのもので、ここが「夷州(台湾)」と聞かされる。多分に疑わしいが肯定も否定も出きない)。
- 又経十余国、達於海岸。(さらに十余国を過ぎて海岸に到達した。)
- 自《竹斯国》以東、皆附庸於《俀》(「竹斯国(筑紫とも九州島とも)」より東は全て倭国に属するという)。
ここで問題となるのが「(豊国とも長門ともいわれる)秦王国」なのは言うまでもない。確かにその辺りに「倭国の様なそうじゃなさそうな訳のわからない国」があったのは確からしい。
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。7世紀に周芳国として設けられ、7世紀末に周防国に改称した。当初は大島郡、熊毛郡、都濃郡、佐波郡、吉敷郡の五郡からなっていたが、養老5年(721年)に熊毛郡から玖珂郡が分けられ六郡となった。
- 藤原宮(藤原京)木簡に「周方国」・「周防国」と表記。 平城宮(平城京)木簡に「周芳国」・「周防国」と表記。
- 『日本書紀』では、天武10年(681年)の「周芳国、赤亀を貢ず」が初見で、『続日本紀』では文武天皇元年(697年)に周防国であるが、翌年には周芳国献銅鉱となっている。しかし文武天皇4年(700年)には周防総領任官の記述が有るのでどちらも使われていたと思われる。
- 読みは長く「すおう」、ハ行転呼が起きる前は「すはう」と言われてきたが、古代の日本語では母音が連続することはないため/suhau/という読みは不自然であり、当初は諏訪と同じく「すわ(歴史的仮名遣:すは)」と読まれていたと考えられている。
- 7世紀代に光市大和町と田布施町の境にある標高約360メートルの石城山(いわきさん)に山城が築かれた。これが学術用語でいう神籠石(こうごいし)という遺跡である。石城山には延喜式内社である石城神社が山頂に鎮座しその本殿は国の重要文化財に指定されている。
中世に入っても勢力の変遷は少なく、執権北条氏一族の支配から幕府滅亡によって大内氏の支配が続き、中世末に入って毛利氏の領国となって明治維新を迎えた。
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。古くは「穴門(あなと)」と呼ばれ、「穴戸」と書くこともあった。
- 一説によると、下関市豊田湖湖畔に日女尊(ヒメコ・ヒミコ:俗に卑弥呼とはもともとは中国側が使う卑語・蔑称)の冬の居城があり、更に安徳天皇西市陵墓参考地が日女尊の墓とされる(安徳天皇の陵墓は下関市赤間神宮横にある。明治期に正式に認定されたが、安徳天皇が葬られた場所という伝承があるため陵墓参考地に指定されている土地は当該土地を含め10か所以上あるという)。
- 『日本書紀』によれば、大化6年(650年)穴戸の国司(草壁醜経)が白雉を献上した。天智4年(665年)には長門国が初見される。この間に改められた。 穴門とは海峡(関門海峡)を指しており、日本神話にも「穴戸神」の名が見える。穴門国造の領域と、阿武国造の領域をあわせて、7世紀に穴戸国が設置された。7世紀後半に長門国に改称した。
*草壁 醜経(くさかべ の しこぶ、生没年不詳)…飛鳥時代の官吏。姓は連。穴戸(長門国の古称)の国司。草壁氏(草壁連・日下部連)は開化天皇裔の皇別氏族で、彦坐王の子である狭穂彦王の子孫とされる。大化6年(650年)麻山(おのやま)で捕らえた白い雉を孝徳天皇に献上。この瑞祥によりに盛大な儀式が開かれて元号が「白雉」に改められるとともに、醜経も褒美として大山の冠位と多数の品物を与えられた。
- 665年(天智天皇3年)には、筑紫国の大野城や基肄城と並んで、長門国に名称不明の城が築かれた。675年(天武天皇4年)には、畿内と陸奥国と長門国を除いて、国司は大山位以下を任じることが定められた。陸奥国と長門国が特別扱いされたのは、海を隔てて朝鮮半島と向かい合う辺境の要地にあるためで、同じく辺要の九州は、筑紫大宰を上に持っていた。こうして、一時は他国より格上とされた長門国ではあるが、後に周防総領が置かれるとその管轄下に入ったと考えられる。
- 奈良時代の長門国は、銅を多量に産した。国司直営の銅山から採掘された銅は、都に送られて東大寺の大仏の原料になった。また貨幣の原料としても重宝され一時長門国司が廃止されて鋳銭使が設置され長門の行政・貨幣鋳造を司った。鋳銭所の所在地は下関市長府逢坂・安養寺に比定されている。
- 源氏と平氏が権力争いを展開した時代の末期、平氏の知行国であった中で厚東氏、豊田氏の両氏が勢力を伸ばし、1185年には壇ノ浦の戦いの舞台ともなった。
- 1276年に鎌倉幕府が元寇に対処するため長門探題が置かれた。
- 室町時代には周防国山口を本拠地とする大内氏が守護職となり守護代として鷲頭氏や内藤氏が務めた。この大内氏は九州のうち豊前国、筑前国までを勢力圏としていたが、後に安芸国の毛利氏に取って代わられる。
江戸時代には萩に藩庁を置く長州藩の所領であった。寛永年間には馬関が北前船が寄港地として繁栄し、幕末には明治維新への拠点となった。
九州地方北部・瀬戸内海周辺にあった古代日本の山城、飛鳥時代から奈良時代頃に、対朝鮮・中国の情勢に応じて西日本各地の山に築造された防衛施設などの総称。
- 従来、文献に見える山城は「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ(さんじょう))」、見えない山城は「神籠石式山城(こうごいししきやまじろ(さんじょう)、神籠石系山城)」と呼び分けられてきたが、近年の発掘調査により両者の違いが必ずしも明確でなくなりつつあり、これらをして「古代山城」と総称される傾向にある。
- 文献に見える城は12ヶ所(狭義の朝鮮式山城11ヶ所と中国式山城1ヶ所)、見えない城は16ヶ所(神籠石式山城)あり、合計28ヶ所を数える。基本的に山1つを防御施設としたもので、山の頂上付近を土塁・石塁で区画しており、大規模なものでは区画の外郭線が数キロメートルに及ぶ。
これらの山城は古代に役目を終え、一部の城跡では中世に山城や寺社などが設置され現在に至っている。
- 狭義の朝鮮式山城…「朝鮮式山城」の名称は、天智天皇2年(663年)8月の白村江の戦いでの倭軍敗北後に、これらの城が百済将軍の指導の下で築城されたことに基づく。『日本書紀』では、天智天皇4年(665年)8月に百済将軍の答ホン春初が長門に城を、憶礼福留・四比福夫らが筑紫に大野城・椽城を築城したと見える。近江大津宮遷都や水城築城と同様に、唐・新羅からの侵攻を意識した施設であった。文献では高安城・茨城・常城・長門城・屋嶋城・大野城・基肄城(椽城)・鞠智城・金田城・三野城・稲積城の計11ヶ所が記され、これらが狭義の朝鮮式山城とされているが、うち長門・茨・常・三野・稲積の5ヶ所は所在地が明らかでない。所在地が明らかな城では、遺構として石塁・土塁・建物跡などが見られる。なお『日本書紀』の壬申の乱の記事では三尾城(滋賀県高島市付近か)の存在が見えるが、これも近江大津宮の北方守備(対日本海ルート)として築かれていた朝鮮式山城の1つとする説がある。
- 「中国式山城」または「大陸系山城」…その名称は、文献に見えるも朝鮮式山城には属さない怡土城(福岡県糸島市)を指す。築城時期は朝鮮式山城(7世紀後半頃)から下る8世紀中頃で、その背景としては唐の安禄山の乱の影響に備えたとする説や、藤原仲麻呂による新羅征討計画(実行に移されることはなかった)の拠点とする説などがある。遺構としては土塁・望楼跡・城門跡などが見られる。朝鮮式山城が攻撃相手に城内を見せない構造を採るのに対して、怡土城では山の斜面にたすき状に築き城内を見通される構造を採るなどの特徴があり、攻撃的性格の強い城とされる。
- 「神籠石式山城」…その呼称は初めて発見された高良山の遺跡の呼称に由来する。その後各地で高良山に似た列石や石塁の遺構が見つかり、これらを巡り霊域説・山城説に分かれて議論(神籠石論争)が展開されたが、現在では山城跡が定説となっている。百済の技術を基にした山城と見られる点では、この神籠石式山城も「広義の朝鮮式山城」の範疇に入る。現在見つかっているものは16ヶ所。遺構の特徴としては、切石を並べた列石を土塁の土留め石とする点や、列石区画の内側には特に建物跡が見られないという点が挙げられる。これらの山城は年代を示す遺物の出土が少ないため、その存続年代が明らかでない。上記の朝鮮式山城と同様の7世紀後半頃と推測する説などがあるが定かではなく、朝鮮式山城・神籠石式山城の年代の前後関係が注目されている。
ちなみに文献に見られる古代山城の築造史は以下。
天平外交史年表 724(神亀1)~764(天平宝字8)
- 天智天皇2年(663年)8月 <白村江の戦いで唐・新羅連合軍に倭軍敗北>
- 天智天皇3年(664年) 対馬・壱岐・筑紫などに防人・烽火を設置。筑紫に水城を築造
- 天智天皇4年(665年) 8月 長門に城、筑紫に大野城・椽城を築造。
- 天智天皇4年(665年)9月唐使が筑紫に来着
- 天智天皇5年(666年) <唐の高句麗遠征>
- 天智天皇6年(667年) 3月 <近江大津宮遷都>
- 天智天皇6年(667年)11月 大和国に高安城、讃岐国山田郡に屋嶋城、対馬国に金田城を築造
- 天智天皇7年(668年) <唐により高句麗滅亡>
- 天智天皇8年(669年)冬 高安城を修造、畿内の田租を収容
- 天智天皇9年(670年)2月 高安城を修造、穀・塩を収容。長門に1城、筑紫に2城を築造(天智天皇4年条の重出とも)
- 天武天皇元年(672年)6月-7月 <壬申の乱>
- 天武天皇3年(674年) <唐の新羅出兵>
- 天武天皇4年(675年)2月 高安城行幸
- 天武天皇5年(676年) <新羅の半島統一>
- 持統天皇3年(689年)10月 高安城行幸
- 持統天皇8年(694年)12月 <藤原京遷都>
- 文武天皇2年(698年) 5月 大野城・基肄城・鞠智城を修造
- 文武天皇2年(698年) 8月 高安城を修造
- 文武天皇3年(699年) 9月 高安城を修造
- 文武天皇3年(699年) 12月 三野城・稲積城を修造
- 大宝元年(701年)8月 高安城を廃止
- 和銅3年(710年)3月 <平城京遷都>
- 和銅5年(712年)1月 河内国高安の烽を廃止。高見の烽、大和国春日の烽を設置
- 養老3年(719年)12月 備後国安那郡の茨城、葦田郡の常城を廃止。
天平7年(735年)4月26日 入唐留学生下道真備、大量の唐の文物を献上。
天平8年(736年)この年、新羅より学生審祥来日。本邦華厳宗の初祖となる。統一新羅においては華厳宗が護国仏教として盛んであり、奈良時代の仏教はその影響下にあった。
- 天平10年(738年)百済王敬福、陸奥介に任ぜられる。翌天平11年(739年)に正六位上から従五位下に昇叙、天平15年(743年)に陸奥守に昇進。天平18年(746年)4月に上総守に転任するが9月には従五位上へと加叙を受けて陸奥守に再任。奇妙な人事だが、あるいはこの時に黄金探索の手がかりがあった可能性もある。当時、聖武天皇は東大寺大仏の建立を進めていたが、巨大な仏像に塗金するための黄金が不足し外国に使者を派遣して調達することすら検討されていた。全国にも黄金探索の指令が出されていたが、これまで日本では黄金を産出したことがなかった。
天平11年(739年)7月13日 渤海使来着。11月3日、入唐使判官平群広成、第2回渤海使と共に帰国して拝朝。12月10日、渤海使拝朝し大欽茂の国書と虎皮などを進上。おそらくこの時、渤海と唐の関係改善の情報が朝廷に伝わる。
天平12年(740年)1月1日 大極殿での朝賀に渤海郡使・新羅学語(日本語を学習する留学生)が参列。1月13日大伴犬養を遣渤海大使に任命。1月30日渤海使、本国の楽を奏す。天皇、中宮院の閤門に御す。10月5日、遣渤海郡使大伴犬養ら来帰。渤海大欽茂王の親唐路線を確認か。以後天平宝字2年まで18年間遣渤海使の記録なし。
天平12年(740年)8月29日 大宰少弐藤原広嗣、上表文にて時政を批判。いわゆる(藤原広嗣の乱)が勃発。乱鎮圧後、大宰府は一旦解体され人事刷新。
天平14年(742年)10月 遣新羅使、新羅に至るが受け入れを拒否される(三国史記)。ただし続紀に遣新羅使任命の記事は見えず。以後天平勝宝4年(752年)まで10年間遣使なし。
天平15年(743年) 3月6日 新羅使来朝。調を土毛(くにつもの)と改称したことを咎め、放還。以後、天平勝宝4年まで10年間新羅使来朝は途絶。
天平18年(746年) 4月5日 鎮撫使を再置(12月10日停止)。全国的に兵士制復活。筑紫防人停止・諸国兵士停止といった軍備縮小政策からの転換。新羅への備えとも。
天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年(749年)百済王敬福が平城京に陸奥国で産出した黄金900両を貢上。聖武天皇は狂喜し、東大寺大仏殿に行幸して仏前に詔を捧げ、全国の神社に幣帛を奉じ、大赦を行った。敬福は従三位へ七階級特進し、宮内卿兼河内守に任命され、産金に貢献した地方官人らもすべて位階が進められた。年号も天平から天平感宝と改められ、さらに天平勝宝となった。歌人・大伴家持も「須賣呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知(乃)久夜麻尓 金花佐久(すめろぎの御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く。『萬葉集』巻18 4097)」と黄金産出を寿いでいる。
*確かな文献があるわけではないが、発見したのは敬福配下の百済系鉱山師ではないかとも言われている。日本最初の産金地である小田郡の金山は現在の宮城県遠田郡涌谷町一帯であり、同町黄金迫(こがねはざま)の黄金山神社は延喜式内社に比定される。現代の調査でも黄金山神社付近の土質は純度の高い良質の砂金が含まれているという。天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年(749年)4月4日 日本聘使進発(『袋草紙』所引の「遣唐使大伴宿禰佐手丸記」より)。遣唐使の大使か。大仏建立を報告し記念の贈物を届ける使者とも。
- 天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年(749年)4月9日 大仏開眼の法要が営まれる。5月26日、百済王敬福が常陸守に転任。天平宝字元年(757年)出雲守に転任。これらの任官は実際に任地に赴かない遙任と推測される。
天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年(749年)7月2日 孝謙天皇即位。同年8月10日、紫微中台の官人を任命。大納言仲麻呂(蝦夷押勝)が兼紫微令。
天平勝宝2年(750年)9月24日 第11次遣唐使任命。大使藤原清河、副使大伴古麻呂。渡唐は翌々年。一説に鑑真招致のための遣使。
天平勝宝4年(752年)1月25日 山口人麻呂を遣新羅大使に任命。天平12年以来12年ぶり。大仏造営を報告し、王の来朝と金の輸入を請うたか。
天平勝宝4年(752年)閏3月22日 新羅王子ら700余名の新羅使が筑紫に来着。天平14年以来10年ぶり。香料・薬物・金属・調度など大量の物品を携えての来日。大仏の塗金を意識して大量の金も持ち込むか。但し朝廷は6月に至るまで一行を大宰府に留め置き、開眼会への参列は許さなかった。おそらく日本は新羅王の来日を要求し、これが拒否されたため。
天平勝宝4年(752年)6月17日 新羅使を朝堂で饗応。新羅景徳王を誉める詔。以後国王の来朝を求め、不可能な場合は表文をもたらすよう要請する。あくまで朝貢国扱い。
天平勝宝5年(753年)5月25日 渤海使、拝朝。貢納品を献上。6月8日帰国。天皇は璽書を賜い、渤海王が臣と称さず、上表のないことを責める。あくまで朝貢国扱い。
天平勝宝5年(753年)8月 遣新羅使、新羅に至る。「慢而無礼、王(景徳王)これに見えず、乃ち廻す」(三国史記)。続紀宝字4年9月条には「彼国闕礼」とあり、使命を果たさず帰国した旨見える。前年の新羅使への書で王の来朝を促したことが反発を呼んだものか。これにより官人の間に新羅征討の意見が台頭する(経国集巻二十)。
天平勝宝5年(753年)10月21日 兵士を雑役に差科することを禁断、また軍事教練の強化を命ずる官符が出される(類聚三代格)。新羅・渤海との関係悪化を受けた措置。
天平勝宝5年(753年)12月7日 真備等の遣唐使船、唐より帰国途上、屋久島に漂着。翌月京に報告。この年、清河ら遣唐使、阿倍仲麻呂と共に日本へ向け出航するが、暴風に遭って安南に漂着。
天平勝宝7年(755年)11月.9日 唐で安禄山の乱が勃発。ただし朝廷がこの情報を得るのは3年後の遣新羅使帰国の際となる。
天平宝字元年(757年)7月2日 橘奈良麻呂の乱。朝廷から仲麻呂の政敵が一掃される。百済王敬福は衛府の人々を率いて黄文王・道祖王・大伴古麻呂・小野東人ら反乱者の勾留警備の任に当たった。
天平宝字2年(758年)9月18日 遣渤海使小野田守、帰国。渤海大使ら23名を伴う。越前国に安置。12月10日 渤海で得た安史の乱(3年前の11月勃発)などの情報を奏上。また唐王の渤海あて勅書を進上。安禄山は前年すでに暗殺されているが、小野田守らはその情報をまだ把握出来ていなかった。この年4月唐玄宗より渤海に援軍を請う使が出され、渤海は真偽を見極めるため唐に使者を派遣、未だ情勢を見守っている旨を報告。
天平宝字2年(758年)12月10日 大宰府(帥船王・大弐真備)に「万一安禄山の軍が攻めて来た時の為の奇謀」を準備する事を命じる。
宝字3年(759年)1月27日 仲麻呂(恵美押勝)、渤海使を田村第に宴す。当代の文士、詩を賦して送別し、渤海副使これに和す(楊泰師の七言詩『経国集』巻十三)。
天平宝字3年(759年)1月30日 高句麗系渡来氏族の高元度、迎入唐大使使(第13次遣唐使)に任命される。藤原清河を迎えるための遣使。2月26日、帰国する渤海使に伴われる形で渤海に向かい唐を目指すも安史の乱の影響で所期の目的を果たさず帰国。
- 天平宝字3年(759年)百済王敬福、伊予守に転任761年(天平宝字5年)に新羅征伐の議が起こると敬福は南海道節度使に任命された。これは紀伊・阿波・讃岐・伊予・土佐・播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防など12カ国の軍事権を掌握する役目である。
天平宝字4年(760年)9月16日 新羅使来日。8年ぶり。「御調」と学語(日本語を学習する留学生)2名の貢進を願い出るが、日本側は先年の非礼と使人の軽微を理由に接待を拒否。来朝の4条件を示し、陸奥より放還。
- 天平宝字5年(761年) 百済王敬福、南海道節度使に任命される。紀伊・阿波・讃岐・伊予・土佐・播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防など12カ国の軍事権を掌握する大役。藤原仲麻呂(蝦夷押勝)は新羅討伐に成功したら敬福を百済王に据える計画だったといわれている。
天平宝字6年(762年)10月1日 遣渤海使、渤海国使を伴い帰国。この年、渤海王は唐よりそれまでの郡王にかえて国王の称号を与えられ、また新羅王と同等の検校太尉の官職を授けられた。これにより渤海は新羅征討の意思を失ったとも。この時来日した渤海使王新福により征討計画中止の申し入れがなされたと推測される(石井正敏)。しかし続紀によればこの後も新羅征討の準備は進められる。
天平宝字6年(762年)11月16日 香椎廟に奉幣、新羅征討の軍旅を整備。ただし以後、新羅征討計画に進展なし。国内情勢の変化(上皇・天皇の反目、道鏡らの台頭、旱害など)および同盟国渤海側の事情の変化を受けての対応と思われる。
宝字7年(763年)1月3日 渤海国使、朝貢。この月、安史の乱ほぼ終結。乱により大唐帝国は衰微に向かい、周辺諸国が自立へ向かう転機となる。天平宝字7年(763年)2月4日 新羅使、朝貢のため来日。左小弁大原今城ら派遣され、前約に反することを通告。但し入京を許し常の待遇とする。
宝字7年(763年)8月18日 旱害により山陽道・南海道の節度使を停止。百済王敬福は讃岐守に転任。新羅征討計画は実質上頓挫。
天平宝字8年(764年)7月19日 新羅使、大宰府に到着。右少弁紀牛養らを派遣して来朝理由を訊問。新羅使は僧戒融(前年10月渤海より帰国)の消息を唐の勅使に伝えるためと答える。牛養らは新羅が兵を集め日本の攻撃に備えているとの噂の真偽を尋ねる。新羅使は海賊に対する備えであると返答。
天平宝字8年(764年)9月11日 9.11 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱。孝謙天皇は当時造東大寺司長官であった吉備真備を召して従三位に叙し誅伐を命じた。この年正月に70歳になっていたが、それまで仲麻呂のため久しく逆境にあった事、在唐中に取得した軍学の知識を買われた事、および東大寺造営チームを意のままに動かせる事が大抜擢につながった。百済王敬福は外衛大将として、藤原仲麻呂の支持により即位していた淳仁天皇を幽閉する役目を引き受ける。一方船親王は連座の罪に問われ、隠岐国に配流。子の葦田王も三長真人の姓を与えられて臣籍に落とされ、丹後国に配流となった。
- 天平神護元年(765年)百済王敬福(従三位・刑部卿)ら、称徳天皇の紀伊国行幸時に騎馬将軍として警護に当たり、その帰途天皇が河内国の弓削寺に行幸した際、本国の舞(百済舞)を奏す。
- 天平神護2年(766年)百済王敬福死去。享年69。
- 神護景雲2年(768年)2月 怡土城の完成
藤原仲麻呂による新羅征討計画…天平宝字2年(758年)、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。天平宝字3年(759年)新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる。藤原仲麻呂(蝦夷押勝)は新羅討伐に成功したら敬福を百済王に据える計画だったといわれている。
どう見たって「白村江の戦い(663年)」敗戦後のどさくさに紛れて対大陸防衛ラインに組み込まれ、東大寺大仏建立事業の巻き添えとなって併合されたとしか思えない展開ですね。
ただ朝鮮式山城築造事業を指揮していたのは亡命百済人で、大仏建立事業を率いていたのも多種多様な渡来氏族だったので、あまり「日本に併合された」という意識は持たずに済んだのかもしれません。そして…
- 百済の聖王(聖明王)の第3王子後裔を称し、戦国時代の最盛期には周防・長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を実効支配した大内氏(本姓多々良氏)。
- 関ヶ原の合戦(1600年)における「島津の退き口」
- そして明治維新(1867年〜1877年)
日本が独自近代化に成功したのも、もしかしたら前方後円墳体制どころか、江戸幕藩体制にすら組み込まれる事を良しとしなかった彼らの反骨精神ゆえだったのかもしれません。ちなみにフランス語の「新しい(Nouveau)」を語源とする「ぬーぼーとした奴(ヌッと突っ立ってるだけでボッとしている使えない奴)」なる表現、ベテラン長州兵が新兵に浴びせる罵詈雑言が起源だったとされています。
要するに「微笑みデブ」かぁ…原義からすると彼らこそが「ぬーぼー系日本人」となりそうな気もするのですが…