マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット(Michaël Dudok de Wit)監督作品「レッドタートル ある島の物語(英題:The Red Turtle、仏題:La Tortue rouge、2016年)」で一番気になった点。
- 主人公は浜辺の蟹を決っして食べない。
- 主人公は浜辺に打ち上げられた海豹の死体も決っして食べない(もう腐ってたから? 皮は剥ぐ)。
過去の投稿でギュンター・グラス「ブリキの太鼓(Die Blechtrommel、1959年、映画化1979年)」における「鰻」との関連性を指摘しました。要するにこいつら食っちゃうと同様に間接的にカニバリズム(Cannibalism、人肉食)が成立しちゃうんじゃないかって話ですね。要するに現実の浜辺では…(以下自粛)
話がこういう次元に差し掛かると、どうしても思い出してしまう事があります。
- 実は2000年代アメリカはナサニエル・フィルブリック「白鯨との戦い(In the heart of sea、原作2000年、映画化2015年)」や、マイケル・パンク「レヴェナント: 蘇えりし者(The Revenant、2002年、映画化2015年)」といった孤立無援状態でのサヴァイヴァル物の当たり年。アンディ・ウィアー「火星の人(The Martian、2011年、映画化2015年)」もその影響で執筆された可能性が指摘されてるくらい。
*そして「白鯨との戦い」では鯨が、「レヴェナント」では熊が人間に襲い掛かる。「レッドタートル」で赤海亀が主人公に襲い掛かる様に。
- もしマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット(Michaël Dudok de Wit)監督が「レッドタートル」の様な漂流物を思いついたのもこうした流れの一環だったとしたら(アメリカ起源説)、同じオランダ人として気になったかもしれない作品が存在する。
というか、そう考えた方が、フランスの評論家が主張した様な「英国が生んだ典型的アングロ・サクソン的文化英雄ロビンソン・クルーソーに対するアンチテーゼ」と考えるよりは全然しっくりくるんです。
「リップ・ヴァン・ウィンクル(Rip van Winkle、1820年)」
アメリカの小説家ワシントン・アーヴィングによる短編小説、および主人公の名前。1820年発表の短編集『スケッチ・ブック』中の一編として書き上げられた。
- アーヴィングがオランダ人移民の伝説を基にして書き上げたものであり、まさに「アメリカ版浦島太郎」と言うべきものである。
*司馬遼太郎もエッセイで書いてたけど、オランダ人はその大半が英語をネイティブ同然に使いこなし、経済圏的にもアングロ・サクソン文化圏に分類される事が多い。そもそも「レッドタートル」のマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットの活動拠点もロンドン。
- 「主人公にとってはいくらも経っていないのに、世間ではいつの間にか長い時が過ぎ去っていた」という基本的な筋の類似性から、「西洋浦島」とも呼ばれている。森鴎外によって翻訳された時は、『新世界の浦島』(『新浦島』)という邦題がつけられた。また、当時アメリカの雑誌に『浦島太郎』の英訳を発表した片岡政行は、題名を「Urashima : A Japanese Rip van Winkle(浦島 日本のリップ・ヴァン・ウィンクル)」と題している。
- アメリカ英語では「時代遅れの人」「眠ってばかりいる人」を意味する慣用句にもなっている。
*おそらく岩井俊二監督作品「リップヴァンビンクルの花嫁」はこれに掛けてある。
- 1987年にアメリカ合衆国で放送された『フェアリーテール・シアター(Faerie Tale Theatre、1982年〜1987年)』では、フランシス・フォード・コッポラが監督を務め、ハリー・ディーン・スタントン主演で同ドラマの1エピソードとして映像化された。
アーヴィングが晩年を過ごしたニューヨーク州アーヴィントン(Irvington)には、リップ・ヴァン・ウィンクルのブロンズ像が飾られている。
物語
アメリカ独立戦争から間もない時代。呑気者の木樵リップ・ヴァン・ウィンクルは口やかましい妻にいつもガミガミ怒鳴られながらも、周りのハドソン川とキャッツキル山地の自然を愛していた。ある日、愛犬と共に猟へと出て行くが、深い森の奥の方に入り込んでしまった。すると、リップの名を呼ぶ声が聞こえてきた。彼の名を呼んでいたのは、見知らぬ年老いた男であった。その男についていくと、山奥の広場のような場所にたどり着いた。そこでは、不思議な男たちが九柱戯(ボウリングの原型のような玉転がしの遊び)に興じていた。ウィンクルは彼らにまじって愉快に酒盛りするが、酔っ払ってぐっすり眠り込んでしまう。
ウィンクルが目覚めると、町の様子はすっかり変っており、親友はみな年を取ってしまい、アメリカは独立していた。そして妻は既に死去しており、恐妻から解放されたことを知る。彼が一眠りしているうちに世間では20年もの年が過ぎ去ってしまった。
*飢饉が長く続き、子捨てによる口減らしが日常化した大飢饉時代(1315年〜1317年)に由来し、グリム童話(1812年〜1857年)にも収録された「ヘンゼルとグレーテル(Hänsel und Gretel、KHM 15) 」も元話もまた「妻の要請により木樵の夫が子供達を森に捨ててくるが、子供達は自らの才覚で生き延びて生還。その間に妻は餓死してハッピーエンド」という展開を辿る。ドイツ民話は何故か「ガミガミ屋の悪妻が死んでハッピーエンド」のパターンが多くフランドル地方が主舞台となる「白雪姫」元話もこのケース。
実はこの伝承、中国起源とも。17世紀のオランダ人は世界中で砂糖農園を経営しており、バタヴィアでは中国人労働者を使っていました。この時期に伝わった?
*ちなみにそこで生産された砂糖は日本に「唐三盆」として輸出され、和菓子の発展を支える事に。日本人は何故か今日なおこれを「中国からの輸入品だった」と信じ続けているが、それだと中国の伝統菓子が和菓子ほど多様な発展を遂げなかった理由が分からなくなってしまう。ちなみに江戸時代後期までに国産体制が整い、幕末期に活躍した西国大名達(特に薩摩藩)の重要財源の一つとなっている。
囲碁の別称の一つ。中国の『述異記』などにある伝説に基づく。
- 爛柯山という山の名が浙江省衢州市、山西省武郷県、陝西省洛川県、広東省高要県に残されており、それぞれに爛柯伝説がある。また四川省達県の鳳凰山にも同様の伝説があり、欄柯邸が建てられている。
- 一般には衢州のものが本来の土地と考えられており、青霞洞という洞窟が王質の入った石室とされ、山門わきに中国囲棋協会の陳祖徳の書による「衢州爛柯 囲棋仙地」の石碑も建てられている。2006年からは囲碁棋戦衢州・爛柯杯中国囲棋冠軍戦が、衢州市で開催されている。
述異記などの伝説
- 南朝梁の任昉『述異記』上巻に以下の故事がある。「晋の時代(中山典之『囲碁の世界』では春秋時代の晋とされているが、中野謙二『中国囲碁三千年の知恵』では西晋または東晋とされている)、信安郡の石室山に王質という木こりがやってくると、そこで数人の童子が歌いながら碁を打っていた。王質は童子にもらった棗の種のようなものを口に入れてそれを見物していたが、童子に言われて気がつくと斧の柄(柯)がぼろぼろに爛れていた。山から里に帰ると、知っている人は誰一人いなくなっていた」。この話は『述異記』が著名だが、虞喜『志林』(太寧3年(325年)刊)に記されているものが最も古い。『晋書』にも同様の話が所載されている。
- 北魏の酈道元『水経注』には、やはり晋の時代の事としてこうある。「王質が木を伐りに行って石室に着くと、4人の童子が琴を弾いて歌っていた。王質はこれを聞いていたが、しばらくして童子が帰るように言われると、斧の柄が爛し尽くされており、家に帰ると数十年が過ぎていた。
- 宋代の『太平寰宇記』巻九十七、江南東道の衢州信安県の条にこうある。「石室山は別名石橋山、空石山ともいい、王質が童子の碁を見ていると、童子が、汝の柯、爛せりと言う。家に帰ると100歳になっていた。この山は爛柯山とも名付けられた。同書の巻八十では、剣南道翆集嶲州越嶲県の条で、王質は二人の仙人が碁を打っているのを見て、碁が終わって見ると斧の柄が腐っており、二人が仙人であることを悟った」。
- 明の時代の王世貞『絵図列仙全伝』では、王質が童子の碁を見ていると、斧の柄が爛り、家に帰ると数百年が過ぎており、王質はふたたび山に入り仙人となる。
類似の伝説
- 唐の段成式の『酉陽雑俎』には「晋の太始年間、北海の蓬球、字は伯堅という者が、貝丘の玉女山の山奥で不思議な宮殿にたどり着くと、中では四人の婦人が碁を打っていた。そこに鶴に乗った女が現れ、球のいることに怒ったので、門を出て振り返ると宮殿は消え失せていて、家に帰ると建平年間になっていた」とある。
- 『幽明録』にある民話では、漢の明帝の永平5年(62年)に剡県で、劉晨と阮肇が天台山で女に出会い、村へ帰ると七代後の子孫が住んでいた。この変形で「仙女の洞窟」という民話では、劉晨と阮肇が山で迷い込んだ洞窟で仙女が碁を打っていた。村へ帰ると4、500年が過ぎており、洞窟に戻ると扉が閉じていて、二人は頭を壁に打ちつけて死んでしまった。天はこれを哀れんで、二人を幸運の神と悪運の神に任命したとある。
- 南朝宋の劉敬叙『異苑』では「男が馬に乗って山中の洞窟を通りがかると、二人の老人が樗蒲をしていた。見物していて気がつくと、鞭は腐り馬は白骨化していた」とある。
- 同じく宋の頃、江西省黎川近くの蒙秦山の伝説では、木こりが牛にまたがって山中に入り、仙人の碁を見ていると斧が腐り牛は骨と皮ばかりに干涸びていた。
- 東晋の干宝『捜神記』の「北斗南斗桑下囲棋」には「占星家の管輅が南陽で趙顔という若者に若死にの相があると告げ、顔は言われた通りに、桑の木の下で碁を打っている二人の男に酒と肉をやると寿命を延ばしてくれた」とある。
爛柯への言及
- 唐代の孟郊による「爛柯山石橋」や、白居易、劉禹錫などが、爛柯山についての詩を詠んでいる。『西遊記』の第十回、太宗と魏徴が布陣した場面では「爛柯経に云わく」として戦術論が述べられている。
- 菅原道真の『菅家文草』に収められる「囲碁」と題する詩では、「若得逢仙客 樵夫定爛柯」(若し仙人に逢えば樵の斧は柄は腐るだろう)と結ばれている。『古今集』には紀友則「故郷は 見しこともあらず 斧の柄の くちし所ぞ 恋しかりける」という、碁仲間を思う歌が収められている。
- 近松門左衛門『国性爺合戦』の第四段「碁立軍法(九仙山)」では、明の幼太子を連れた呉三桂が放浪の末に江化府の九仙山に登ると、二人の老翁が碁を打っており、碁盤を世界に見立てた呉との会話に「軍は華の亂れ碁や、飛びかふ烏、群居る鷺と譬えしも、白き黒きに夜晝も、別で昔の斧の柄も、おのづからとや朽ちぬべし」とある。呉は翁に促されて、日本から来た国性爺が明の復興のために中国全土で戦を繰り広げる様を、山頂から一瞬で幻視する。
- 江戸時代の囲碁棋士林元美は、欄柯堂の筆名を用い、『爛柯堂棋話』などの著作を残した。日本棋院は1925年に、機関誌『棋道』の姉妹誌として『爛柯』を創刊し、後に『囲碁クラブ』に改名された。
全体的に老荘思想における「神仙境」のイメージ投影が見て取れる。
- 前漢代(紀元前206年〜紀元後8年)の始元6年(紀元前81年)に当時の朝廷で繰り広げられた「塩鉄会議(塩や鉄の専売制などを巡る討論会)」を後日、桓寛が60篇の書物にまとめた「塩鉄論」においては中央政権側の立場を代弁する黄老思想家や法家と地方豪族の立場を代弁する儒家が対等に争っている。
- 後漢代(25年〜220年)は逆に儒教を地方分権の正当化に利用する在地豪族達の全盛期となったが、黄巾の乱(184年〜192年)や北方遊牧民の影響力増大といった国家レベルの危機に対応出来ず、かえって治安悪化に備えるべく各地豪族が軍閥化して群雄割拠の時代が始まる事になった。
*その一方で知識人を含む多くの民が難を避けて荊州・揚州・益州・交州といった江南や四川の辺境地域に移住。これらの地域の文化水準の向上と開発を促して南北朝時代(439年〜589年)を準備する展開となる。
- 老子と荘子がまとめてあつかわれるようになったのは百科的思想書の「淮南子(紀元前139年頃成立)」以降。また前漢代と後漢代の狭間には僻地に周囲を壕で囲った「中央集権の支配に服さない」集落が数多く現れた(ここに1世紀から3世紀にかけて九州北部連合王国や纒向政権への服従を拒む人々が築造した環濠集落や高地性集落の原点を見る向きもある)。そして政争が激しくなり、高級官僚が身を保つのが非常に困難となった魏晋南北朝時代(184年〜589年)には世俗から身を引く事で保身を図る玄学(「易経」「老子」「荘子」を主要経典に掲げた神仙思想の一種)が広く高級官僚(貴族)層に受容される。加えて仏教の影響もあり、老荘思想に基づいて哲学的問答を交わす清談が南朝貴族の間で流行した。
*清談は魏の正始の音に始まり、西晋から東晋の竹林の七賢(嵆康、阮籍、山濤、向秀、劉伶、阮咸、王戎)の名が筆頭にあがるが、これらの人々が集団として活動した記録はない。仏教とくに禅宗に接近し、これに対抗した儒教(朱子学)にも影響を与えた。
- 唐朝(618年〜907年)の皇室は、隋朝(581年〜618年)より三教主義(儒教・道教・仏教を平等に重んじる立場)を継承しつつ、漢人有識者達との対抗上、道教を自らの装飾に好んで用いた。
*とはいえ当時の状況は恐ろしく入り組んでいて、今日なお全てが解明されたとは言い難い状況が続いている。例えばヤマト王権時代の物部氏武器庫であったと推測されている奈良県天理市の石上神宮に伝わる鉄剣「七支刀」は早々に由来を紛失し、明治7年(1874年)に石上神宮大宮司となった菅政友(水戸藩出身で「大日本史」編纂に参加した経歴もある歴史研究者)が刀身の金象嵌銘文を「発見」して以降数多くの議論を呼んできた。
*例えば「369年に東晋(317年〜420年)の朝廷工房で造られた原七支刀があり(当時高句麗と軍事対立状態にあり、まず東晋と冊封関係を結び次いで倭国を冊封下に置こうと構想した)百済がまず372年正月に東晋に朝貢し、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると同年これを模造して倭王に贈った(山尾幸久・浜田耕策)」といった説が存在するが、これは東晋皇室が自らの正当化の為に道教を用いていた(あるいは道教を奉ずる冊封国に対しては道教宗主国として振る舞った)状況を前提とする。まずこれを証明するのが難しいのである。
*斉明天皇・天智天皇・天武天皇の時代の遺物(6世紀末〜7世紀)にも老荘思想の影響が色濃く認められるが、これも中央集権側からの統制意図が強く感じられる内容。新羅からの影響ともされるが、とにかく第8回遣唐使(702年〜704年)以降の唐朝文化への傾倒と排他的に存在したと目されている。
*逆に7世紀末から8世紀初旬にかけて日本の飛鳥地方に築造されたキトラ古墳や高松塚古墳、中国西域トルファンのアスターナ古墳群(942年築造)などで発見された「死によって分離した魄を過去の栄華を主題とする壁画で慰め、魂を天上の天体図で北辰に導く葬礼」には、上掲の様な政治的要素が一切見られない。
- そして科挙制度を通じて儒教が完全に中華王朝の統制下に入ったのは、五代十国時代(907年〜960年)を制した宋朝(960年〜1279年)以降となる。
*非常にややこしい事に天竺に経典を取りに向かう玄奘三蔵を前世9回殺して阻止してきたとされる沙悟浄は、この科挙に落第して揚子江に身を投げた受験生の怨霊(容姿は揚子江海豚)が起源とされる事がある。元代の朝鮮の資料「朴通事諺解」には悟空と八戒のみが紹介されているが、これは沙悟浄が登場する流沙河の段が現存していない為で、「大唐三蔵取経詩話(北宋末から南宋に成立したと推定される通俗小説話本)」に登場する「玄奘三蔵が流沙河という砂漠で幻想に見、励まされた深沙神」がモデルとすれば西遊記物語への登場は悟空や八戒よりも早い事になる。それ故か「西遊記」中でも(物語中では最後に弟子になったにも関わらず)三人の弟子の中で最も高位の存在として扱われている(雑劇でも水官大帝が四海竜王達へ差し向けた上使の役回り)。
フランスの中国学者アンリ・マスペロ(東洋文庫『道教』の著者)などは「老荘思想と道教は連続的性質を具える」とする。持っているとする。実際、道教は老荘思想から数多くの要素を吸収したが、日本の研究者の間では「哲学としての老荘思想と道教はあまり関係がない」という立場が一般的。
しかし「アメリカにおけるオランダ移民」にはまた別のニュアンスも存在するのです。ここからは本国のオランダ人も知らない世界に突入。
*そもそも、所謂「ピルグリム・ファーザーズ(The Pilgrim Fathers=英国教会分離派 )」は英国を脱出して直接アメリカに向かった訳ではなく、一旦オランダのライデンを集結場所に選んで体制を立て直している。
ピルグリム・ファーザーズ
H.P.ラブクラフト「一枚の絵/家の中の絵(The Picture in the House、1919年頃)」
この物語の語り手は自転車での一人旅を続ける系統学者。まず最初「ニュー・イングランドを開拓したピューリタンやオランダ系移民達は何処に消えてしまったのだろうか? 今日ではその痕跡を探す事も困難である」という疑問が提示される。
- 主人公はニューイングランド農村部のミスカトニック谷に差し掛かったところで嵐に遭遇。雨宿りの為に恐ろしく時代がかった廃屋に逃げ込む。だがそこは無人ではなく「大昔の北部英語を話す、ボロボロの服を着た白髭の老人(ただし年齢の割に血色が良く皺も少ない)」の住処だった。
- 老人の奇妙なまでに熱情的な視線に耐えかねた主人公は、それから逃れる様に奥の部屋へと向かう。そしてそこにビクトリア朝風の家具、異国情緒あふれる装具、骨董品の様な希少古書が並ぶ書籍棚などを見出す。そのうち1冊を手に取ると少なくとも18世紀初頭から1896年にかけてカニバリズム(Cannibalism、人肉食)によって不自然な延命を続けてきた人物が目撃され続けている事が記録されていた。
- 主人公は天井から血が滴っている事に気付き、その原因を探りに二階へと向かう。突然主人公の視野が暗転し、物語は突如としてそこで終わりを告げる。
*「天井から血が滴ってくる」という 描写はトーマス・ハーディ「ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles、1891年)」を連想させる。またネット検索すると多くのアメリカ人がこの物語を「南部ゴシック文学」に分類される映画「悪魔のいけにえ(Texas Chainsaw Massacre、1974年)」と重ねている事が分かる。当時の日本語題名といい、予告編のナレーションといいブードゥー教や悪魔崇拝みたいな邪教信仰に誘導しようという意図が感じられるのが興味深い。
コリン・ウィルソンはこの作品を「ラブクラフト作品にしては珍しくエロティシズム(Eroticism)が描かれる逸品。サディズム(Sadism)とカニバリズム(Cannibalism、人肉食)についての説得力に満ちたスケッチ」と高く評価する。その一方でジョアンナ・ラスは1986年の論評で「つまらない凡作」と切り捨てる。ピーター・H.キャノンは「ラブクラフト描く宇宙的恐怖(Cosmic Horror)の原風景が垣間見れる貴重な初期作品。それは故郷ニューイングランドを舞台に選び、実際のピューリタン的歴史心理(authentic Puritan psychohistory)から出発しながらカニバリズム(Cannibalism)に行き着く」とする。
*あとこれは「死体蘇生者ハーバート・ウェスト(Herbert West - The Reanimator、1921年〜1922年)」についてもいわれてる事だけど、第一次世界大戦を経験した作家が(それまで倫理的に許されていなかった様な)残酷描写で勝負する様になり、他の作家も対抗上そういう側面での対抗を余儀なくされたという側面も想定される。そういえば当時はホラー・オカルト小説、自然主義的犯罪小説、探偵小説などを扱う「ブラックマスク誌 (Black Mask Magazine、1920年〜1951年)」が創刊され、ダシール・ハメットの創始したハードボイルド文学が次第にイニチアシブを握っていく過渡期にあったのである。
*自然主義的犯罪小説(Natural Crime Novel)…エミール・ゾラ「居酒屋(L'assommoir、1877年)」「ナナ(Nana、1879年)」やトーマス・ハーディ「ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles、1891年)」の様な文学作品から英国ニューゲート小説(The Newgate novels or Old Bailey novels、1820年代〜1840年代)の如き実録物の体裁をとった作品まで「遺伝要因もしくは環境要因による犯罪者の発生」を扱った作品ジャンル。19世紀末には早くもフランスのタルドの模倣犯罪学によるイタリアのロンブローゾの遺伝犯罪学に対する反論があり、1920年代には次第に時代遅れとなっていたらしくブラックマスク誌も次第にこれを掲載しない様になっていく。
1318夜『模倣の法則』ガブリエル・タルド|松岡正剛の千夜千冊*ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの「罪と罰(Преступление и наказание、1866年)」は、当時のロシア人がラスコーリニキ(分離派信徒)やナロードニキ(1860年代から1870年代にかけてツァーリズム打倒を目指した都市知識人の反政府運動)に対して向けた恐怖や憎悪と貧農格差拡大に伴う犯罪の横行を国際的大ヒット作となった。ここに自然主義的犯罪小説(Natural Crime Novel)の源流を見る向きもある。実際、1866年4月4日にはドミトリイ・カラコーゾフによる初の皇帝アレクサンドル2世暗殺未遂事件が発生。「カラマーゾフの兄弟(1879年)」はこのカラコーゾフ事件をモデルとしている。そして1881年2月9日にドストエフスキーは死去したが、直後の3月13日にはナロードニキのイグナツィ・フリニェヴィエツキがアレクサンドル2世暗殺に成功するのである。農奴解放を皮切りに様々な解明的政策を次々と遂行した皇帝アレクサンドル2世が暗殺された事でロシア帝国の独自近代化路線は挫折。オーストリア帝国同様、第一次世界大戦に巻き込まれて破綻するまで抜本的改革の遂行を免れる事に。
ナロードニキ
ここで見逃していけないのは「 実際のピューリタン的歴史心理(authentic Puritan psychohistory)」なるキーワード。「ボストン・ブラーミン(Boston Brahmin)」と揶揄される保守的で排他的で高慢な名門出身の知識人を輩出する一方では(最初にニューイングランドに入植した)ピューリタンやオランダ系移民のコミュニティは気づくと消滅しており、「セイラム魔女裁判事件(1692年〜1693年、200名近い村人が次々と告発され、そのうち19名が処刑され、1名が拷問死、5名が獄死を遂げた)」や「エセックス号漂流事件(1821年、漂流中の捕鯨船の乗組員達が人肉食によって生き延びる)」の様なおぞましい事件が次々と起こっては箝口令が敷かれてきた陰鬱な土地柄。
*米国ではサリンジャー作品以上の人気を誇るジョン・アップダイク(John Hoyer Updike) 「A&P(1961年)」の舞台となるのも、またこの陰鬱なる東海岸的心理空間。
ダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe、2016年)」にもカニバリズム(Cannibalism、人肉食)の場面は登場し「それが資本主義の本質ではないか?」と指摘する向きも存在したりします。
1173夜『モル・フランダーズ』ダニエル・デフォー|松岡正剛の千夜千冊
要するに中華王朝でいう「山寇・海寇」の概念。産物に恵まれぬ不毛の地に暮らす彼らは、飢えればたやすく山賊や海賊へと変貌するが、兵糧の現地調達もままならぬこうした土地に大規模な討伐隊を送り込むのは難しい。むしろ交易網に組み込んで生活が成り立つ様にしてやるのが慈悲であるとする伝統的リアリズム。古墳築造の編年史より、古代ヤマト王権もこの手段を用いて近江や東海道や瀬戸内海沿岸や日本海沿岸を制していったと考えられています。
*真逆の道を歩んだのが明朝。皇帝の名を四夷に知らしめるべく遠征軍を派遣し続けた結果、あっという間に国庫は底を尽き滅亡を余儀なくされたという次第。
そういえば、最近何かとドバイの繁栄が話題となるアラブ首長国連邦(UAE: United Arab Emirates)も、この意味で「海寇」の雰囲気を漂わせる国家だったりします。
アラブ首長国連邦(UAE: United Arab Emirates)の歴史
現在のアラブ首長国連邦の基礎となる首長国は、オスマン帝国の直接統治下において17世紀から18世紀頃にアラビア半島南部から移住してきたアラブ系諸部族によって形成された。次第に北部のラスアルハイマやシャルジャを支配するカワーシム家と、アブダビやドバイを支配するバニヤース族とに2分されていく。
- 18世紀から19世紀にかけてはペルシア湾を航行するヨーロッパ勢力の人々に対立する海上勢力『アラブ海賊』と呼ばれるようになり、その本拠地「海賊海岸(Pirate Coast、現ラアス・アル=ハイマ)」として恐れられた。
- 同じく海上勢力として競合関係にあったオマーン王国ならびにその同盟者であるイギリス東インド会社と激しく対立し、1809年にはイギリス艦船HMSミネルヴァを拿捕し(Persian Gulf campaign)、海賊団の旗艦とするに至る。イギリスはインドへの航路を守るために1819年に海賊退治に乗り出し、ボンベイ艦隊により海賊艦隊を破り、拿捕されていたミネルヴァを奪回の上に焼却。
- 1820年、イギリスは、ペルシア湾に面するこの地域の海上勢力(この時以来トルーシャル首長国となった)と休戦協定を結び、トルーシャル・オマーン(Trucial Oman:休戦オマーン)と呼ばれるようになる。 トルーシャル・コースト(Trucial Coast:休戦海岸)とも 。
- 1835年までイギリスは航海防衛を続け、1835年、イギリスと首長国は「永続的な航海上の休戦」に関する条約を結んだ。その結果、イギリスによる支配権がこの地域に確立されることとなった。この休戦条約によりトルーシャル・コースト諸国とオマーン帝国(アラビア語: مسقط وعمان)との休戦も成立し、陸上の領土拡張の道を断たれたオマーン帝国は東アフリカへの勢力拡大を行い、ザンジバルを中心に一大海上帝国を築くこととなる。一方トルーシャル・コースト諸国においては、沿岸の中継交易と真珠採集を中心とした細々とした経済が維持されていくこととなった。その後、1892年までに全ての首長国がイギリスの保護下に置かれた。
- 1950年代中盤になると、この地域でも石油探査が始まり、ドバイとアブダビにて石油が発見された。ドバイはすぐさまその資金をもとにクリークの浚渫を行い、交易国家としての基盤固めを開始。一方アブダビにおいては、当時のシャフブート・ビン・スルターン・アール・ナヒヤーン首長が経済開発に消極的だったため、資金が死蔵されていたが、この状況に不満を持った弟のザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーンが宮廷クーデターを起こし政権を握ると一気に急速な開発路線をとるようになり、湾岸諸国中の有力国家へと成長した。
- 1968年にイギリスがスエズ以東撤退宣言を行うと、独立しての存続が困難な小規模の首長国を中心に、連邦国家結成の機運が高まった。連邦結成の中心人物はアブダビのザーイドであり、当初は北のカタールやバーレーンを合わせた9首長国からなるアラブ首長国連邦(Federation of Arab Emirates:FAE)の結成を目指していたが、カタールやバーレーンは単独独立を選び、一方アブダビとドバイは合意の締結に成功した。
- アブダビとドバイの合意により、残る首長国も連邦結成へと動いた。 1971年にアブダビ、ドバイ、シャールジャ、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラの各首長国が集合して、連邦を建国。 翌1972年、イランとの領土問題で他首長国と関係がこじれていたラアス・アル=ハイマが加入して、現在の7首長国による連邦体制が確立。
「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド(Pirates of the Caribbean: At World's End、2007年)」にも「東インド会社を倒す9人の伝説の海賊」の一員として登場するが、その実態はむしろ「欧米世界のアラビア海派出所」という複雑な状況がこうして生まれる事に。第一次世界大戦(1914年〜1918年)敗戦によるオスマン帝国の解体を待たずして分離独立を果たしてるだけあって国家運営も比較的安定している。
それにしても…どこまでほじくってもフランスとの接点が見えてきません。まさか、ここで思い出すべきは「独立戦争費用捻出の為のベンジャミン・フランクリン渡仏」とか「ルイジアナ買収(1803年)」あたり? そういえば「レヴェナント: 蘇えりし者(The Revenant、2002年、映画化2015年)」では、フランス人開拓者が「現地のインディアンを虐めて復讐される悪人集団」として描かれてました。やっぱり無関係?
どうして一般日本人は「レッドタートル ある島の物語(英題:The Red Turtle、仏題:La Tortue rouge、2016年)」をフランス映画だと思い込み、マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット(Michaël Dudok de Wit)監督をフランス人だと信じ込んでしまうのか? 逆に聞きたくって仕方がない…
さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…