諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【君の名は】星神香香背男(ほしのかがせお)の正体は?

どうやら新海誠作品「君の名は」の興行成績、宮崎駿監督作品「崖の上のポニョ(2004年)」やジェームズ・キャメロン監督作品「アバターAvatar、2009年)」を上回った様です。このクラスの作品はみんなLove Storyなので、まるでダブルスの試合を見ているかの様だ?

そして「はてなブログ」のアクセス解析によれば、どうやらスピンオフ小説「君の名は:Another Side」まで読んだ人は、ネットで倭文神(しとりのかみ)や天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)ばかりか星神香香背男(ほしのかがせお)まで検索をかけてる模様なのです。

ところが、ここからが「地獄の一丁目」の始まりなんですね。

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天津甕星(あまつみかぼし)

日本神話に登場する星神。別名、天香香背男(あめのかがせお)、星神香香背男(ほしのかがせお)、香香背男(かがせお)。『古事記』には登場せず、『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。

  • 本文では、経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている。

  • 第二の一書では天津神となっており、経津主神武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている。

  • 平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。「カガ」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。

  • 星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。しかし日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。
    *そして「星神を信仰していた部族」というと真っ先に連想されるのは瀬戸内海から九州の沿岸部に分布していた海人族、および上越経由で関東甲信地方に入植した高句麗系遊牧部族達。

全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。

  • 茨城県日立市の大甕神社は、天津甕星を服従させた建葉槌命を祭神としている。社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。

葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方神と同一神とされることもあり、また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。

タケミカヅチ(タケミカヅチノオ)

日本神話に登場する神。雷神、かつ剣の神とされる。相撲の元祖ともされる。

  • 古事記』では「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」や「建御雷神(たけみかづちのかみ)」と記される。また「建布都神(たけふつのかみ)」や「豊布都神(とよふつのかみ)」とも記される。

  • 日本書紀』では「武甕槌」や「武甕雷男神」などと表記される。単に「建雷命」と書かれることもある。

  • 鹿島神宮茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。鯰絵では、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰を御するはずの存在として多くの例で描かれている。

古事記日本書紀における「神産み」の場面

  • 神産みにおいて伊弉諾尊伊邪那岐・いざなぎ)が火神軻遇突智カグツチ)の首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱である。剣のまたの名は伊都尾羽張(イツノオハバリ)という。

  • 日本書紀』では、このとき甕速日神ミカハヤヒノカミ)という建御雷の租が生まれたという伝承と、建御雷も生まれたという伝承を併記している。

古事記日本書紀における「葦原中国平定」の場面

  • 「出雲の国譲り」の段においては伊都之尾羽張(イツノオハバリ)の子と記述されるが、前述どおり伊都之尾羽張は天之尾羽張の別名である。アマテラスは、タケミカヅチかその父イツノオハバリを下界の平定に派遣したいと所望したが、建御雷が天鳥船(アメノトリフネ)とともに降臨する運びとなる。出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立ったタケミカヅチは、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。大国主は、国を朝廷に譲るか否かを子らに託した。子のひとり事代主は、すんなり服従した。もう一人、建御名方神タケミナカタ)(諏訪の諏訪神社上社の祭神)は、建御雷に力比べをもちかけ、手づかみの試合で一捻りにされて恐懼して遁走し、国譲りがなった。このときの建御名方神との戦いは相撲の起源とされている。

  • 日本書紀』では葦原中国平定の段で下界に降される二柱は、武甕槌とフツヌシである。(ちなみに、この武甕槌は鹿島神社の主神、フツヌシは香取神社の主神となっている。上代において、関東・東北の平定は、この二大軍神の加護に祈祷して行われたので、この地方にはこれらの神の分社が多く建立する。)『日本書紀』によれば、この二柱がやはり出雲の五十田狭小汀(いたさのおはま)に降り立って、十握の剣(とつかのつるぎ)を砂に突き立て、大己貴命(おおあなむち、オオクニヌシのこと)に国譲りをせまる。タケミナカタとの力比べの説話は欠落するが、結局、大己貴命は自分の征服に役立てた広矛を献上して恭順の意を示す。ところが、二神の前で大己貴命がふたたび懐疑心を示した(翻意した?)ため、天つ神は、国を皇孫に任せる見返りに、立派な宮を住まいとして建てるとして大己貴命を説得した。また同箇所に、二神が打ち負かすべく相手として天津甕星の名があげられ、これを征した神が、香取に座すると書かれている。ただし、少し前のくだりによれば、この星の神を服従させたのは建葉槌命(たけはづち)であった。

古事記日本書紀における「神武東征」の場面

  • さらに後世の神武東征においては、建御雷の剣が熊野で手こずっていた神武天皇を助けている。熊野で熊が出現したため(『古事記』)、あるいは毒気(『日本書紀』)によって、神武も全軍も気を失うか力が萎えきってしまったが、高倉下(たかくらじ)が献上した剣を持ち寄ると天皇は目をさまし、振るうまでもなくおのずと熊野の悪神たちをことごとく切り伏せることができた。神武が事情をたずねると高倉下の夢枕に神々があらわれ、アマテラスやタカミムスビ(高木神)が、かつて「葦原中国の平定の経験あるタケミカヅチにいまいちど降臨して手助けせよ」と命じるいきおいだったが、建御雷は「かつて使用した自分の剣をさずければ事は成る」と言い、(高倉下の)倉に穴をあけてねじ込み、神武のところへ運んで貢がせたのだという。その剣は布都御魂(ふつのみたま)のほか、佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)の別名でも呼ばれている(石上神宮のご神体である)。

名前の「ミカヅチ」はイカヅチ雷に接頭語「ミ」をつけた「ミ・イカヅチ」の縮まったものであり、雷神は剣の神でもある。また、別名のフツ神は本来は別の神で、『日本書紀』では葦原中国平定タケミカヅチとともに降ったのは経津主神であると記されている。経津主神香取神宮で祀られている神である。

  • 元々は常陸の多氏(おおのうじ)が信仰していた鹿島の土着神(国つ神)で、海上交通の神として信仰されていた。さらに、祭祀を司る中臣氏が鹿島を含む常総地方の出で、古くから鹿島神ことタケミカヅチを信奉していたことから、平城京春日大社奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。大和岩雄の考察によれば、もともと「大忌」つまり神事のうえで上位であるはずの多氏の祭神であったのだが、もとは「小忌」であった中臣氏にとってかわられ、氏神ごと乗っ取られてしまったのだという(『神社と古代王権祭祀』)。

  • さらにはヤマト王権の東国進出の際、鹿島が重要な拠点となったが、東方制覇の成就祈願の対象も鹿島・香取の神であり、こうしたことで、タケミカヅチヤマト王権にとって重要な神とされることになった。

雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されており、鹿島神宮春日大社および全国の鹿島神社春日神社で祀られている。

 経津主神(ふつぬしのかみ)

日本神話に登場する神。『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。 別名、斎主神(いわいぬしのかみ)、伊波比主神(いわいぬしのかみ)。『出雲国風土記』では布都怒志命として登場する。

日本書紀』における記述

鹿島神宮社務所編集の「新鹿島神宮誌」によれば、「フツ」は「フル(震)」と同義であり、天にて震いて「建御雷」、地にて震い萌え出ずる春の草木、その洗練された象徴が「逆しまに立つ剣の形」であり、神武天皇以下、悪霊におかされて死にたるごとく伏したるを回復させ、奮い立たせるのもフルすなわちフツノミタマの力であるという。

こうした簡単にネット検索に引っ掛かってくる情報に要注意。肝心のポイントから注意を逸らそうという意図に満ち溢れているからです。それでは何を見逃してはいけないのか? それは「古事記(713年頃完成)」や「日本書紀」に描かれる「出雲国盗り神話(葦原中国平定)」や「天孫降臨」が実はひたすら失敗続きで、結局最後まで出雲平定に成功しなまま終わってしまうという恐るべき事実。

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出雲平定第一波】アメノオシホミミアメノホヒの派遣

アマテラスは、「葦原中国は私の子のアメノオシホミミが治めるべき国だ」と言い、アメノオシホミミに天降りを命じた。しかし、アメノオシホミミ天の浮橋に立って下界を覗き「葦原中国は大変騒がしい状態で、とても手に負えない」と高天原に上ってきて、アマテラスに報告した。

タカミムスヒとアマテラスは天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか問うた。オモイカネと八百万の神が相談して「(アメノオシホミミの弟である)アメノホヒ大国主神の元に派遣するのが良い」という結論になった。タカミムスヒとアマテラスはアメノホヒ大国主の元へ行くよう命じた。しかし、アメノホヒ大国主の家来になってしまい、三年たっても高天原に戻って来なかった。

*「統治権の根拠」…「宗像三女神スサノオとアマテラスの誓約の結果生まれた。その子供だから、当然出雲の継承権がある」という主張である。この事はもしかしたら「宗像氏が継承してきた沖の島祭祀がヤマト王権の継承してきた三輪山祭祀と密接な相補関係を構築してきた事」「六世紀に入ると、その宗像氏と天皇家の間に縁戚関係が成立した事」などと密接な関係があるのかもしれない。

出雲平定第二波】アメノワカヒコの派遣

タカムスヒとアマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々とオモヒカネが相談して「アメノワカヒコを遣わすべき」と答えた。

ところでアヂシキタカヒコネ大国主命宗像三女神タキリビメの間の子で『出雲国風土記』に「幼い時、その泣き叫ぶ声が非常に大きかったので、静かになるまで船に乗せて八十島(日本)を巡ったり、高屋を作って梯子をかけそれを上り下りさせて泣きやませた」とある。そもそもスサノオ同様に「豊穣神/貧窮神」の二面性を備えた神だったのである。

出雲平定第三波】いわゆる葦原中国平定

タケミカヅチの派遣…アマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、オモイカネと八百万の神々は、「イツノオハバリか、その子のタケミカヅチを遣わすべき」と答えた。アメノオハバリは「タケミカヅチを遣わすべき」と答えたので、タケミカヅチにアメノトリブネを副えて葦原中国に遣わした。
*一般に物部氏や中臣氏と関連付けて語られる神である。

コトシロヌシの服従タケミカヅチとアメノトリフネは、出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきであるとアマテラス大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねた。大国主は、自分が答える前に息子の事代主に訊ねるようにと言った。事代主は「承知した」と答えると、船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れてしまった。
*後に所謂「葛城氏」が奉ずる「一言主」と混ざり合って、逆にヤマト王権を統制下に置こうとした形跡が見られる。こうした側面は「八幡神」に受け継がれていったという見解も存在する。

タケミナカタの服従タケミカヅチが「コトシロヌシはああ言ったが、他に意見を言う子はいるか」と大国主に訊ねると、大国主はもう一人の息子のタケミナカタにも訊くよう言った。そうしている間にタケミナカタがやって来て、「ここでヒソヒソ話をしているのは誰だ。それならば力競べをしようではないか」と言ってタケミカヅチの手を掴んだ。すると、タケミカヅチは手をつららに変化させ、さらに剣に変化させた。逆にタケミカヅチタケミナカタの手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして投げつけたので、タケミナカタは逃げ出した。タケミカヅチタケミナカタを追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめた。タケミナカタはもう逃げきれないと思い、「この地から出ないし、オオクニヌシコトシロヌシが言った通りだ。葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と言った。
新潟県糸魚川市に残る伝承では、高志の国の女王たる沼河比売(奴奈川姫)との間に生まれた子とされている。その一方で「諏訪神」と古代出雲の関係は完全には明確になってない。そもそも「出雲風土記」に記されている様に当時は出雲神話の統合自体、当時はなされてなかったのだから「正統な関係の樹立」自体が不可能だったのである。

オオクニヌシの国譲りタケミカヅチは出雲に戻り、大国主に再度訊ねた。大国主は「二人の息子が天津神に従うというのであれば、私も逆らわずにこの国を天津神に差し上げる。その代わり、私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。私の百八十神たちは、事代主に従って天津神に背かないだろう」と言った。出雲国の多藝志(たぎし)の小濱に宮殿を建てて、たくさんの料理を奉った。タケミカヅチは、高天原に帰還すると「葦原中国平定をなし終えました」と復命した。
*出雲地方統合のシンボルとして「出雲大社」が大々的に建立される事になったのは早くても六世紀に入ってからといわれている(その原型となる建造物が西出雲にあったにせよ、それはむしろ東出雲やヤマト王権に対する徹底抗戦のシンボルだったのである。そもそもこの地方はそれまで歴史上一度も統一された事がなかった)。

出雲平定(?)第四波】いわゆる「天孫降臨

天孫ニニギの誕生…アマテラスと高木神は、アマテラスの子であるアメノオシホミミに「葦原中国平定が終わったので、以前に委任した通りに、天降って葦原中国を治めなさい」(「今平訖葦原中國矣 故汝當依命下降而統之」『古事記』)と言った。アメノオシホミミは、「天降りの準備をしている間に、子のニニギが生まれたので、この子を降すべきでしょう」(「僕者將降裝束之間 生一子 其名天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命 此子應降也」『古事記』)と答えた。ニニギは高木神の娘のヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間の子である。それで二神は、ニニギに葦原中国の統治を委任し、天降りを命じた。
梅原猛氏は古事記日本書紀万葉集のうち「天孫降臨」という表現が最も古い万葉集にはなく、しかも『日の皇子』と表現されりだけで『皇孫』と表現されてない事から「万葉集の原型が作られたのは、まだ持統天皇の子供の草壁皇子が生きていた頃。その後草壁皇子が早死にしてしまい、持統天皇が孫の軽皇子(後の文武天皇)に位を譲るべく活動していた時にこの『孫に国を治めさせる』という概念が追加された」という仮説を提唱している。

サルタヒコとアメノウズメ…ニニギが天降りをしようとすると、天の八衢(やちまた)に、高天原から葦原中国までを照らす神がいた。そこでアマテラスと高木神はアメノウズメに、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神は国津神のサルタヒコで、天津神の御子が天降りすると聞いて先導をしようと迎えに来たのであった。
*多くの伝承においてサルタヒコとアメノウズメは夫婦神とされている。占領政策は概ねこの様な政略結婚を伴うものである。

ニニギは遂にアメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメタマノオヤの五伴緒(いつとものお)を従えさせ、天降りをすることになった。さらに、三種の神器八尺瓊勾玉八咫鏡草薙剣)と常世のオモイカネ、タヂカラオアメノイワトワケを副え、「この鏡を私(アマテラス)の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。オモイカネは、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」(「邇邇藝命者 此鏡者同我御魂 欲祭此者 當如拜吾前 尊崇而祭之 次 思金神者 取持前事 輔其為政」『古事記』)と言った。
*これらの神々は(何らかの事情でトヨウケを外宮に祀る様になった)伊勢神宮と関係が深い。アメノイワトワケは、別名をクシイワマト、またはトヨイワマトと言い、御門の神である。タヂカラオ神は佐那那県(さなながた)に鎮座している。アメノコヤネは中臣連らの祖神である。フトダマは忌部首らの祖神である。アメノウズメは猿女君らの祖神である。イシコリドメは作鏡連らの祖神である。タマノオヤは玉祖連らの祖神である。


ニニギはこれだけの臣下を連れて高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ったとされている。しかし結局出雲へは着かず、気付くと多くがはぐれて本隊は筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に漂着したのだった。

アメノオシヒ(大伴連らの祖神)とアマツクメ(久米直らの祖神)が武装して先導した。ニニギは「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」(「此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地也」『古事記』)と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。
*ちなみに鍵を握るサルタヒコはこの直後に口封じの為に殺されてしまい、アマノウズメが海鼠を見せしめに切り刻みながら地元の魚達に「逆らったらこうだからね」と言い聞かせる場面が続く。アマノウズメはただのエロいだけの女神ではなくサロメの様な残虐な側面も備えた神格だったのである。

これだけトラブル続きだったにも関わらず、ニニギ本人はコノハナサクヤヒメと出会ってそれなりに納得のいく生涯を送る。
*ただし「子供の父親は本当に自分か(宮崎にはコノハナサクヤヒメはオオクニヌシの現地妻だったという伝承がある)」という疑惑だけは生涯去ることがなかったといわれている。

なんと「お頭、ここはどうやら出雲じゃない様です」「まぁ気にするな。どこでも住めば都」 がオチ。考古学的考証もまた「前方後円墳国家(3世紀〜5世紀)は遂に最後まで出雲をその支配下に置く事は出来なかった」なる説に賛成票を投じます。

  • そもそも「在地首長による古墳築造を通じての現地集落の統合」なるアイディア自体が出雲起源で、むしろヤマト王権(というより、隣接する吉備の在地首長を発起人とするその前身たる「纒向=三輪山豪族連合」)がその模倣者だった。当時のヤマト王権の権力の源泉は「(鉄製品を筆頭とする)大陸産の珍しい文物の入手経路/再配分権の独占」にあったが、出雲は「纒向=三輪山豪族連合」成立以前から独自入手ルートを確保していた。これでも「前方後円墳国家(3世紀〜5世紀)」への参加を希望するなら、ただの馬鹿であろう。

  • その一方で出雲は「国引き神話」でも描かれる様に渡来人集落と倭人在地首長の所領が複雑に入り混じる難治の土地柄。むしろそれ故に「荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡への銅剣・銅鐸の大量埋設」「在地首長による古墳築造を通じての現地集落の統合」といった当時最先端の政治技術が次々と発案され実行に移された辺り、群雄割拠状態のルネサンス期イタリアにおいてこそ文化が高度に発達しマキャベリズムが発明されたのに似ている。
    国引き神話 - Wikipedia

すると現在の歴史観では出雲文化圏はどういう形で6世紀以降のヤマト王権に合流していったと考えられているのでしょうか?

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【2世紀~3世紀】西出雲の共同祭祀によって束ねられた部族連合期

「二世紀末における荒神谷遺跡から出土した青銅剣の大量埋設こそが彼らの宗教的統一にまつわる儀式だった」とする立場から「300余りの諸族からなる部族連合=東出雲の意宇郡に属する部族が34、島根県などの出雲東部に属する部族が111、出雲郡に属する部族が110、神門郡などの西出雲に属する部族が93」「荒神谷遺跡はそのうち西出雲に属する地域であり、後に出雲大社が設置されたのもその近辺である事から、ここが当時から既に部族連合の共同祭祀の中心地だったと考えられる」とする説が提示されている。

  • 壱岐原の辻遺跡から楽浪郡系遺物と出雲系遺物が同術度している事から、古くより大陸と交易してきた可能性も指摘されているが、中華王朝からの文化伝播はあくまで北九州を経由したという意見も依然として根強い。いずれにせよ出雲西部の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅鐸や銅剣を見る限り、二世紀初旬までに相当レベルの金属加工技術を有していた事は確かだとされる。ただし問題はその原材料が何所から来たかであり、韓半島から直接輸入していたとする意見も、九州北部経由で輸入していたとする意見も、島根半島西部の銅山産とする意見もどちらも決め手が得られていないのが実情である。

  • 鉄器についても状況は同じだが、とりあえずこちらに関しては山間部において時代の特定できない「野だたら」の遺跡が数多く見つかっている(県境付近に遺跡が集中するのは、たたら製鉄に欠かせない大量の木炭が確保しやすい為であろう)。西部地方は後に衰えを見せるが、出雲東部では妻木晩田遺跡や竹ヶ崎遺跡・柳遺跡などにおいて大量の鉄器が半製品状態で発掘されており、鉄資源の輸入と鍛冶精錬技術を司った結果、弥生時代後期から日本海側で広範囲にわたって長期的に影響力を強めていった可能性がより素直に実感可能となった。

  • ところで日本海側を中心に全国で約90基発見されている「四隅突出型墳丘墓」が発祥したのは弥生中期後半(1世紀頃)の備後(広島県三次盆地)だが、弥生後期後葉には美作・備後の北部地域、弥生後期後半には出雲(島根県東部)・伯耆鳥取県西部)を中心にした山陰地方でも造営される様になった。

  • 出雲において突如巨大首長墓(長さ40m以上、幅30m以上の長方形で、四隅から通路がそれぞれ10m以上張り出した四隅突出型墳丘墓)が出現してきたのは二世紀末になってからである。その最大の特徴は巨大化と同時に出雲平野には西谷墳墓群、安来平野には塩津墳墓群、鳥取平野には西桂見墳墓群といった具合に首長墓群が平野単位に出現した事で(米子平野と倉吉平野にはないが、未だ発見されてないだけかもしれない)、その一斉登場の背景に、そうした動きが計画的に進められた可能性を見る向きは多く、またそうした主長墓からは吉備の主長墓と「主長権継承祭礼」を共有していた証拠も発見されている。

  • 三世紀中旬になるとこうした首長墓群は、西谷墳墓群(出雲市)に代表される出雲西部地域と、荒島墳墓群や仲仙寺墳墓群に代表される安来市荒島丘陵周辺の出雲東部地域に集約されると同時に、さらに北陸地方福井県・石川県・富山県)へと広がった(能登半島中心に現在までに8基の存在が確認されている)。

  • ただしこのうち北陸地域は実は三世紀初頭こそ纏向政権が登場すると高地性集落を多数建造する様な「反骨精神」を見せたものの、三世紀後半には早くも畿内式土器を受容し始めており、四世紀初頭までに1/3規模ながら加賀分校マエ山古墳(石川県加賀市、纏向潟前方後円墳)を造営して中央側への転身を表明する様になる。

ところで三世紀中旬になって古墳の築城地域が東西に二分される様になると、その隙を突いて出雲国斐伊川流域に前方後方墳を築造する独自勢力が出現する(おそらく東国からの流入者)。これに該当するかもしれない記事が「日本書紀」八岐大蛇段にある。

  • 「第4書」天から追放されたスサノオは、新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降ったが、この地への長居を欲さず(乃興言曰 此地吾不欲居)息子の五十猛神イソタケル)と共に土船で東に渡り出雲国斐伊川上の鳥上の峰へ到った(遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯)後八岐大蛇を退治した(越国を統治下に収めた)。そのとき五十猛神が天から持ち帰った木々の種を、韓(から、朝鮮)の地には植えず、大八洲(おおやしま、本州のこと)に植えたので、大八州は山の地になったと言う。

  • 「第5書」木がないと子が困るだろうと言い、体毛を抜いて木に変え、種類ごとに用途を定め、息子の五十猛命 、娘の大屋津姫命、枛津姫命 に命じて全国に植えさせた。

  • ここで植林の話が出てくるのは、もしかしたら紀伊忌部氏が祖神と崇める彦狭知命(ひこさしりのみこと)との関係を暗示するのかもしれない。同じ忌部氏とされる出雲国の玉作氏の存在もまた「越国併合」と関係を示唆している(勾玉の原料となる翡翠糸魚川原産)。
    古語拾遺に「櫛明玉命は出雲玉作の祖也」云々とある。その櫛明玉命を祀る玉作神社(島根県仁多郡奥出雲町。「玉作社」「玉造社」「玉上大明神」とも。他に「玉作湯神社(湯船・湯谷・湯・湯姫)」というのもあり、こちらは古形では「玉作神」と「(医療に関係する)湯神」の二本立てであったらしい)。そして出雲から出土する玉造遺跡は宍道湖の南岸、大原郡大東町のそれを除いた大半が意宇郡に集中している。すなわち東出雲の文化に属する。

そして「製鉄」「植林」といえば当然、当時長門(穴門)にあったとされる例の「謎の国」の存在が急浮上してくる。5世紀になるとヤマト王権の九州方面における強大なパートナーとして急浮上してくる日向地方に出雲文化圏の影響がそこはかとなく感じられるのも、あるいはこの国を中継しての移民があったせいかもしれないのである。

【四世紀~六世紀前半】群雄割拠期

四世紀に入ると出雲平野の古墳造営の足並みが乱れ始めた。神原神社古墳(加茂町)といった四隅突出墓の伝統を色濃く残す方墳や前方後方墳が数多く築かれ続ける一方で、その分布がバラバラで大きくまとまった勢力圏の存在をまるで感じさせなくなってくるのである。その一方で安来平野に割拠する大首長達は宍道湖・中海沿岸において方形墳丘に大きな竪穴式石室を設けて内部に割竹形木棺を納め、舶載の鏡や素環頭太刀や石鏃などを副葬した古墳を築造し始める。

  • この葬制は従来の伝統に基づくものではなかった上に、以降に継承される事もなかったので、本当に一過性の流行で終わってしまった。伝統を守るという意味では出雲平野の方がむしろ頑固であり、古墳時代末期まで前方後方墳の造営を続ける事になる。

  • 五世紀上旬に日向灘沿岸の西都原古墳群(宮崎県西都市)に女狭穂塚の陪塚の一つとして造営された171号墳(この古墳群唯一の方形墳)に、その影響を見る向きもある。

  • 五世紀を中心とする古墳時代中期に入ると、大型古墳が集中して造営される地域が安来平野から宍道湖東部及びその北岸に移行した。その象徴が古曽志大谷1号墳であり、その被葬者は激動の時代を経験した出雲地域最大勢力の最後の首長だったと目されている。

おそらく四世紀に入ると西日本沿岸の航海ルートに異変が起こり「出雲の僻地化(代わって丹波沿岸諸族が半島との交易の中核を担う)」が始まった。その結果出雲諸族は求心力を失ってバラバラになってしまったのだろう。とても細部までは追い切れないが、「日本書紀応神天皇条にこんな逸話があり、四世紀末~五世紀上旬の考古学的状況に対応する。

  • 応神天皇没後、太子の菟道稚郎子が、位を大鷦鷯尊(後の仁德天皇)に讓ろうとした「三年空位」の時期、応神天皇の皇子のうち最年長の額田大中彦皇子は、弟の大山守命が山部(産鉄に関する森林伐採事業と街道警備を兼ねる軍事色の強い荒くれ者を掌握する部門で代々皇親将軍が掌握してきた事になっている)を掌らされただけで、自らは何の役職ももらえなかった。そこで倭(やまと:奈良盆地)の屯田天皇供御料田)及び屯倉(朝廷直轄領)に目をつけ、その屯田司をしていた淤宇宿禰(出雲臣の祖)に、その権限を大山守命に返せ、今後は自分が管轄すると言い出した。

  • この件について本来なら主管する大山守命が阻止すべき所だが黙認、困った淤宇宿禰から相談を受けた菟道稚郎子も「大鷦鷯尊に相談してほしい」と関与を避けた(見識には優れているが、現実の政治的調整能力は皆無だった片鱗を覗わせる)。それに対して大鷦鷯尊は「倭の屯田及び屯倉の件は倭を管轄する麻呂(倭直の祖)に聞くべし」として早速当人に問うたが、この人物もまた「現在、韓国に派遣されている弟の吾子籠のみが真相を知っている」として、自ら答えることを避けたのだった(おそらく額田大中彦皇子の根回しが、そこまで広範囲に渡っていた事を暗喩している)。

  • しかし大鷦鷯尊は事態の傍観を許さず、即刻「淡路の御原の海人」を水手とする艦隊を編成して麻呂を載せ「自ら韓国へ行き吾子籠を連れ戻せ」と命じる。そしてこうして帰国した吾子籠が「伝え承るところによれば、纒向玉城宮御宇天皇(活目入彦五十狹茅天皇垂仁天皇)の世に、太子大足彦尊(後の大足彦忍代別天皇景行天皇)に倭の屯田を定められたとき、倭の屯田は天下を治める帝位にある天皇屯田であり、帝皇の子といえども天下を治めているのでなければ、掌ることはできないとされたという事です。山守とはいえその権限は侵せません」ときっぱりと告げると、彼を額田大中彦皇子にもとに遣わして同じ事を言わせ、様子を見る事にした。結局最後には大中彦皇子は身を引き、大鷦鷯尊も事を穏便に処して事件は解決した。

こうしてみると後に東出雲中心に出雲統一を成し遂げた勢力は、歴史のこの時点ではヤマト王権管轄下にいたのかもしれない。ただあくまで倭直よりは偉くない。歴史のこの時点ではそういう位置付けであったという事になる。3世紀に成立した纒向豪族連合は、山岳信仰の要素を取り込む事で4世紀初旬から東海地方の所属を降す様になり、4世紀中旬より佐紀盾列古墳群に安定した間隔で大王墓を築造するヤマト王権へと変貌した。その影響がじわじわと出雲文化圏へも及び出したという事である。

【六世紀後半】東西対立期

六世紀中頃には出雲全域に後期古墳が造営される様になる。茶臼山山麓を本拠地とする東部出雲勢力松江市の山代に「山代二子塚古墳(全長94m、6世紀中頃、前方後方墳)を造営すると、これにに対抗する形で出雲平野全域を押さえるのに成功した西部出雲が「大念寺古墳(出雲市、91m、県下最大の前方後円墳)を築造した。しかし、その頃にはもう古墳時代の終わりが間近に迫っていたのだった。

  • 後世の文献に活写される「東出雲の意宇郡を本拠地として島根郡も掌握する東出雲連合(後世の出雲氏の原型)」と「西出雲の出雲郡を本拠地として神門郡をも掌握する「西出雲連合(後世の神門氏の原型)」の対立構造は、実はこの時代のみに現れた。

  • 古事記景行天皇条には、こういう記事が載る。「熊曾建討伐の帰路、倭建命は出雲国に立ち寄って出雲建(いずもたける)と偽りの親交を結び、こっそりと太刀に偽装した木刀を佩いた。それから出雲建を肥河での水浴びに誘ったのである。.この時に倭建命は先に川から上がり、出雲建の太刀を身につけると「太刀を交換しよう」と言い出した。出雲建も川から上がり、倭建命の太刀を佩くと今度は「太刀あわせをしよう」と言い出し、相手が太刀を抜けないでいる間にあっさり斬り殺してしまった。人々はそれを聞いて『やつめさす 出雲建が 佩ける刀 黒葛多纒き さ身無しに あはれ』と歌ったという」。この時に景行天皇が下命したのはあくまで熊曾建討伐だけで「日本書紀」には出雲に立ち寄った事自体が記されていない。「倭建命の東西平定によって、天皇の全国支配は景行天皇の代に完成した」と主張する古事記の記法故の加筆といえる。

  • 日本書紀崇神天皇六十年条には、こういう記事が載る。「崇神天皇が出雲大神を祀る宮に安置されていると言う「武日照命(武夷鳥命天夷鳥命)が天界から伝えられた神宝」を見たくなり、武諸隈に大和国まで運ぶように命じた。しかし武諸隈が出雲国に到着した時、出雲国を統治していた出雲振根(出雲国造家たる出雲臣の祖)は、筑紫国に出向いていて留守だった。そこで武諸隈が振根の弟の飯入根に神宝の移送を命じると、飯入根は崇神天皇の命令をあっさりと受諾して神宝を朝廷に献上してしまった。出雲国に戻ってきてその話を聞いて振根は恨みに思った。それから数年後、振根は自分の太刀と瓜二つのよく出来た木刀を腰に差すと「止屋の淵に藻が茂っているらしい。一緒に見に行こう」と飯入振を誘い出した。そして淵に辿り着くと、一緒に水浴びをしようと言い出したのである。この時に振根は先に川から上がり、飯入根の太刀を抜いた。飯入根も驚いて川から上がり、振根の太刀を手に取ったがこれがどうしても抜けない。そうこうしているうちにあっさりと斬り殺されてしまった。これを咎められて振根は大和朝廷によって攻め殺されることとなる。人々はそれを聞いて『や雲立つ 出雲梟帥が 佩ける太刀 黒葛多巻き さ身無しに あはれ』と歌ったという」。振根が討伐された後、出雲国ではヤマト王権を畏れ出雲大神を祀らなくなったが、崇神天皇の勅命によって再開が促された。そして垂仁天皇二十六年条に神宝が出雲国に安置されている事が伺える記録がある事から、ほどなく神宝も出雲に戻されたと考えられている。

  • そして「出雲国風土紀」に該当記事を捜すとこういう記述が見つかる。「出雲郡建部郷(島根県簸川郡斐川町東南部)の名前の由来について「元はウヤの里と呼ばれていたが、纒向の日代の宮で天下をお治めになった天皇景行天皇)の御代に『私の御子である倭建命の名前を忘れたくない』として、この地の地名を建部に、またこの地にあった神門臣古称(現地における出雲臣の眷族)を建部と定め。それからずっとその状態が続いているから」とする」。実はここでいう「建部郷」は、後に大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡が発見された場所でもある。そして近隣には出雲国神門郡塩治(やむや)郷なる地域が斐伊川沿いにあり、その地域は肥の河を挟んで東出雲側に属する建部郷に西出雲側として対峙する形になっている(そして塩治郷神門氏は後世には杵築大社を司る千家・北島の両国造家のうちの北島氏に属する大工集団として台頭しつつ、次第に佐々木源氏の流れを汲む京極氏の分家たる尼子氏(佐々木道誉の孫が近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)在住と改姓を経て京極氏の出雲守護代として出向。後に戦国大名化)との関係を深めていく)。

これらの記紀の記事にはおそらく六世紀中旬以降の東西出雲が対立する図式のみが反映している(そして当時の東出雲の背後には、既に壱岐同様に蘇我氏の影が濃かった)。

【七世紀~八世紀】律令期における「出雲国造家」の支配

東出雲系勢力の中核たる意宇は、7世紀に郡の前身たる評として設けられ,701年に郡になった。

  • 熊野神社杵築大社の所在地として重んじられ、文武天皇元年(698年)3月9日に、出雲国の意宇郡と筑前国の宗形郡だけに近親者の連任を許す詔が下されている。一般に評を治める評司に近親者を続けて任命することは禁止されていたが、意宇郡では神社を代々祀ってきた出雲氏が重視されたものである。

  • 後に同様の扱いを受けた諸郡とともに神郡と呼ばれたが、この制度は延暦19年(800年)12月4日に廃止された。

  • 伊勢神宮支配下の「伊勢国渡相郡」「伊勢国多気郡」、宗像大社支配下の筑前国宗像郡、熊野神社杵築大社支配下の出雲国意宇郡の他にも「神郡」は存在した。

それでは「神郡」の詳細を見ていこう。

  • 伊勢の「神郡」…その由来は古く、天日別命の子孫・大若子命が磯部川(ただし実際には下樋小川であるという)以東の土地を天照大神に寄贈した「神国」(後世言われる神国とは無関係)が起源という。神郡成立後は、渡相郡・竹郡に分割され後に度会郡多気郡と改称した。664年に多気郡から飯野郡が分割して公領となったが、宇多天皇の889年に同郡を伊勢神宮に1代限りの再寄進を行い,897年に醍醐天皇への譲位が決まると同郡を永遠に神郡に復帰させる措置がとられる。これを「神三郡」と呼び、神国思想の高まりとともに伊勢国内の員弁郡(940年)、三重郡(962年)、安濃郡(974年)、朝明郡(1020年)、飯高郡(1185年)が次々と編入される事で「神八郡」が成立した。なお、北伊勢3郡(員弁・三重・朝明)を道前三郡、元からの神三郡を道後三郡と呼ぶ場合もある。ただし平安時代末期以降の有力貴族や他の有力寺社による神郡内への荘園設定によって実際の所領は蚕食され始める。元寇で「神風」が喧伝されると、鎌倉幕府が「神風」発生の功労として「興行法」と呼ばれる一種の徳政令を公布し、こうした荘園を全て没収して伊勢神宮に与えた。有名な御家人に対する永仁の徳政令が1年で廃止されたのに対して、こちらは「神罰の発生の恐れ」を盾に廃止されなかった。とはいえ鎌倉幕府滅亡後は再び神郡の横領が続き、江戸幕府に「神領」として保障されたのは僅か6千石程度に過ぎなかった。
    *纒向豪族連合結成(3世紀初旬)に当たって、伊勢沿岸部の在地有力者達は最初から参画していた。それに対して伊勢内陸部の在地有力者達が帰順したのは纒向豪族連合が山岳宗教的要素を受容し、その祭場を纒向から三輪山に遷した4世紀初頭以降となる。伊勢もまた出雲同様に多種多様な部族集団で構成される「難治の地」だったのである。そしてまさにこの状況こそが伊勢神宮における「内宮」と「外宮」の対立の原風景なのだった。

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  • 和歌山県】「紀伊国名草郡」…かつての国府国衙は現在の和歌山市府中に置かれたと推定されているが遺跡は未だ発見されていない)。一宮は当初日前・国懸神宮(2社で1社)とされたが、鎌倉時代になると高野山と関係の深い天野社(丹生都比売神社)が一宮を主張し、以後は両社が一宮とされた。また、中世以降は伊太祁曽神社も一宮を主張する様になる。延喜式神名帳に大社13座13社・小社18座15社の計31座28社と記載されているが大社は牟婁郡の熊野早玉神社(現 熊野速玉大社、新宮市)1社を除き全て名神大社であり、しかも牟婁郡の熊野坐神社(現 熊野本宮大社田辺市)と伊都郡 丹生都比女神社(現 丹生都比売神社、伊都郡かつらぎ町)を除くと全て名草郡に鎮座している。
    紀伊といったらもちろん長門(穴門)にあったとされる、あの「謎の国」。

  • 【千葉県】「上総国安房国安房郡」…古代安房国は豊かな漁場に恵まれたことから御食国に任じられており、皇室や朝廷の御饌を担当してきた。膳氏を司る伴造氏(後に高橋氏と改称)の出自を示した『高橋氏文』によると、景行天皇が東国に行幸した折に、安房国にて磐鹿六雁命(いわむつかりのみこと、膳氏の始祖とされる)が蛤(はまぐり)を捕り、天皇に料理して献上したところ、天皇の子孫代まで御食を供するよう膳臣を授かったとされ、それに由来して中央官庁の大膳職で御食津神を祀られると同時に安房神社高家神社が建てられたとする。しかし後に安房国一宮とされる安房神社には、神話の時代に阿波国より渡ってきた忌部氏によって創建されたという伝承が伝わり、実際にこの地を開拓したのは四世紀以降の阿波忌部氏だった可能性が高い。大化5年(649年)に神郡が設定され、『新抄格勅符抄』によればそれが制度として廃止された直後の大同元年(806年)に神封94戸が充てられ、さらに10戸が加増されている。また延長5年(927年)の『延喜式神名帳』で名神大社に列格されたが、その「民部式」に安房郡を神郡となす旨が記載があり、安房郡全体が神領とされた。ただし中世以降はすっかり有名無実となってしまう。
    *膳部もまた5世紀後半に「大王の直臣」として台頭してきた氏族の一つ。伊勢外宮に祀られる豊受大神の故郷とされる丹波兵庫県丹波市)や、「その手は桑名の焼き蛤」の伊勢国三重県桑名市)や、応神天皇の「この蟹やいずくの蟹。百伝う角鹿の蟹」の角鹿(敦賀湾に面する福井県嶺南地方敦賀市)と共通するのは海産物の豊富さ。
    「この蟹や」の歌と物部氏

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  • 茨城県】「常陸国鹿嶋郡」鹿島神宮常陸国一宮で、旧社格官幣大社である。日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社でもある。そもそも香取神宮とあわせて蝦夷に対するヤマト王権の前線基地として出発し、後には後方基地となった地域である。宝物殿に悪路王(アテルイ)の首と首桶が祀られているのもそれ故である。「延喜式神名帳(927年)」によると、平安時代に「神宮」の称号で呼ばれていたのは、伊勢神宮鹿島神宮香取神宮の3社だけだった。鹿島神宮の祭神である武甕槌神香取神宮に祀られている経津主神がともに武芸の神であり、武術の道場に「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対になって掲げられていることが多いのもその影響である。中臣氏・藤原氏氏神とされたことから朝廷・中央貴族の信仰を受け、武神であることから武家の崇敬も受けた。

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  • 【千葉県】「下総国香取郡下総国一宮で、日本全国に約400社ある香取神社の総本社である「香取神宮(千葉県香取市香取)」の祭神は経津主大神 (伊波比主命)。 神職首座は大宮司、大禰宜といい経津主の兄(子とも伝えられる)の天苗加命(あめのなえます)の子孫が香取連を名乗り首座となったが、後世大中臣氏藤原氏)が養子に入り相互に重職を世襲した。鹿島神宮とあわせて蝦夷に対するヤマト王権の前線基地として出発し、後には後方基地となった地域である。

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5世紀後半以降、ヤマト王権では大伴氏や物部氏といった連姓が「大王家の直臣」として力を発揮する様になる。その権力基盤を支えたのは「まつろわぬ民との戦い」の最前線たる関東や九州の所領で、やがて両者の政争は物部氏側勝利で一応の決着を見るのだが、その途上にあっては九州の芦北君・肥君・阿蘇君といった在地豪族がキャスティングボードを握り、さらには6世紀における物部氏蘇我氏の対決に少なからぬ影響を与えていく。

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  • 阿蘇氏(あそうじ/あそし)…「阿蘇」を氏名とする氏族。肥後国に発する阿蘇神社大宮司家(だいぐうじけ)である。大和朝廷の支配が及ぶ前からの地域の首長家で、皇室や出雲大社の千家家、北島家などと同様、神(火山神である健磐龍命)の子孫として神代の時代から現代に続く系譜を持つと自ら誇る家系である。名の通り熊本の阿蘇を出自とするが、最盛期は阿蘇の南、矢部郷(やべごう、熊本県上益城郡山都町の一部)に南阿蘇から拠点を移転した後の「浜の館」時代であり、菊池氏や相良氏と並び熊本を代表する一大豪族であった。朝廷から度々高位の職階を叙し、内紛を繰り返しながらも長らく系譜が受け継がれてきた。

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  • 日向国…「古事記」「日本書紀」において相応の分量を占める「日向神話」の舞台だが、その割に「古事記」国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に「筑紫国」「豊国」「肥国」「熊曽国」が見えるのみで日向の記載がない。「先代旧事本紀」では「筑紫国」「豊国」「肥国」「日向国」が4面に挙げられているが「日本書紀」にはこの記述そのものがない。6世紀から7世紀中期にかけての史書にも推古天皇期の「馬ならば日向の駒」という記載程度しかなく『続日本紀文武天皇2年(698年)9月28日条に初めて「日向国」の呼称が文献上初出する。成立時期不明ながら7世紀中期以降、律令制に組み込まれたのであろう。当初は薩摩国大隅国を含む領域を有しており、7世紀末の段階では対隼人の最前線に位置づけられていた。大宝2年 (702年) に唱更国(後の薩摩国)、和銅6年 (713年)に大隅国が分立。「国造本紀(『先代旧事本紀』第10巻)」には「豊国別皇子の三世孫・老男が応神天皇期に日向国造に任じられた」「天皇本紀(『先代旧事本紀』第7巻)」には「豊国別皇子が日向諸県君らの祖」とある。考古学上は4世紀以降ヤマト王権の影響下に入り、5世紀に全盛期を迎えたが以降衰退しヤマト王権の直轄地とも九州他勢力ともつかない状態に陥っていったと考えられている。こうした状況から「日向神話」を隼人族に対するヤマト王権統治を正当化する為の政治神話と見る向きもある。 

おそらく「葦原中国平定」神話や「天孫降臨」神話は出雲に関する物語というより、むしろこの時代の何かを伝えていると考えるべきなのである。 

その後も続く「火薬庫」としての出雲史

実は出雲地域の「反骨」の歴史は「東出雲意宇郡を本拠地とする出雲国造家による出雲全体の統一」で終わってない。

  • 鎌倉時代には地元から出た塩冶氏が出雲国守護となったが、室町幕府執事高師直によって滅ぼされた。

  • その後は神門郡塩治郷(西出雲と東出雲の境界線)に割拠する神門氏が近江佐々木源氏末裔の尼子氏を推戴する形で、同じ佐々木源氏の流れを汲む京極氏と訣別して(最後には引き取って飼い殺しにした)戦国大名として自立。

  • 先祖が渡来系と自称する大内氏が挑戦するも大被害を出して自滅。

  • 「西日本の勇」周防毛利氏に屈服する。ただし関ヶ原の合戦で大幅に所領を削られ、以降は長屋王の流れを汲む高階氏の末裔で織田家と豊臣家に重臣として仕えてきた堀尾家が入る(1600年~1633年)。江戸時代に入ると短期間の京極家時代(1634年~1637年)を経て松平越前家(1638年~1871年)支配下となった。
    *「周防毛利氏」…壬申の乱(672年)の落武者や没落後の大江氏(土師氏末裔。玉造氏や角国造家同様に古代から周防に妙な因縁を有する)の流れ先たる秦氏開墾地「波田野荘(後に藤原秀衡が下賜されて以降、尚武の地となる)」より豊後大友氏同様に九州に派遣された一族(大江氏の末裔とも)。

  • 幕末の松平越前家は第2次長州征伐(1866年)まで佐幕派だったが、その頃から既に文武奨励の立場から西洋学校を創設し、フランス人を招いて砲術や西洋医術を導入し、イギリスやフランスへ積極的に留学生を派遣していた。さらに女学校を設立し、アメリカから八雲丸という軍艦まで導入したが、文久3年(1863年)に江戸幕府から預かった直轄地の隠岐で農兵隊を創設したのは地元で不評であり、慶応4年(1868年)の「隠岐騒動」を誘発してしまう。
    *「隠岐騒動」…3000人の民衆が蜂起して郡代を追放し、隠岐松江藩から独立した自治政権を樹立して明治政府に自治区認定を迫った事件。その目標自体は達成し得なかったが、廃藩置県以前に松江藩の支配を脱して、より統制の弱い鳥取藩預かりに転籍する事に成功している。勝因の一つは早期に長州藩薩摩藩とのパイプを樹立して武力による奪取を試みた松江藩の動きを牽制した事であった。

なんと壱岐島島根県に編入された背景にこんな事情があったのである。(江戸幕藩体制下では幕府直轄地だった)飛騨と(同時代徹底した分断統治が履行された)美濃の関係も微妙だが、同じくらい微妙な民族紛争の火種がそこには埋まっていたのだった。

尾張(現在の愛知県大口町)に生まれた堀尾吉晴(1543年~1611年)は、豊臣秀吉と出会い、戦国武将として活躍、歴史に名を刻んだ。浜松城などの城主を歴任、また多くの築城にもかかわって普請上手といわれている。

  • 慶長5年(1600年)10月21日の関ケ原の合戦には徳川家康の東軍に参加して勝ち組となり、その恩賞で出雲・隠岐両国24万石の領主になり、月山富田城安来市広瀬町)に入城した。

  • 出雲地方統括の拠点として近世城下町が建設可能な広い平野に面する松江に着眼し,1607年から松江城築城に着手したが、吉晴自身は松江城の完成直前に死去した。

  • 「初代藩主」忠氏ら末裔も次々と早死して、残された孫の忠晴(1577年~1604年)も、嫡子に恵まれず堀尾家は3代で断絶したが彼らは今日なお「松江開府の祖」として現地で畏敬の念を集め続けている。

堀尾祭(毎年安来市広瀬町の岩倉寺で開かれる法要)には、吉晴の生誕地である愛知県大口町から毎年100人を越える人が訪れるという。

慶長9年(1604年)、初代藩主の忠氏が早世すると息子の忠晴が幼くして後を継いだが、政治を取り仕切れる年齢でなかった為に祖父の吉晴が代わって執政を行なった。このとき伯母(吉晴の長女、名前は不明)と一族ながら筆頭家老を勤めていた堀尾河内守(吉晴の娘の子)と息子の掃部による家督横領の陰謀が発覚し、二人は流罪のうえ切腹を申し付けられている。後の仙石騒動にも似た事件であり、有力外様大名家の内紛とあっては改易されておかしくなかったが、吉晴が健在であった為かその時は難を逃れた。ただし寛永10年(1633年)に忠晴が死亡した時、末期養子を立てる事を認められず、それで断絶を余儀なくされる。
*余談だが忠晴は江戸初期の書物「寧固斎談叢」で前田利常との恋愛関係が取りざたされる男色系美男子だったらしい。

  • その堀尾家の末裔である菊姫(吉晴の孫)は、堀尾家断絶後、月山富田城安来市広瀬町)から赤碕(鳥取県琴浦町)へ移動し、縁あって大庄屋河本家(武士を捨てた尼子氏重臣の末裔)に嫁いだとされる。古文書の研究過程で、記されている堀尾河内守、野々村河内守、戸田河内守の3人は同一人物と推論されている。河本家初代、隆任は尼子氏の重臣で、月山富田城の落城で赤碕に落ちのびてきた。菊姫の母、勝山は吉晴の長女で月山富田城で謀反を起こした野々村河内守の正室である。

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    *赤碕港(東港または旧称亀碕港)…東港、菊港、西港の3港からなるが、歴史的には菊港が最初に開け享保・寛政年間(1716~1789)の築港記録が残されている。隣接する赤碕港が整備されるまで、鳥取県中部の重要港の役割を担ってきた。それ以降は船番所が設置され、大坂に廻送する年貢米を納める藩倉が並び、北前船も港内に多く係留される様になり、倉吉の産物やその原料、あるいは日用品等の移出入に使用されるなど、商港としても発展していいく。こうした港湾整備工事が始まったのも堀尾家時代からだったと考えられている。

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    *当時の家老屋敷跡からは土師質土器の灯明皿と履き潰した下駄が大量に出土して関係者を驚かせた。出土した陶磁器類の中では唐津焼伊万里焼といった肥前陶磁器が圧倒的に多い。このほか備前陶器や中国製磁器、瀬戸・美濃系陶器も出土している。松江城の築城に際して壕の掘削作業の結果出る土を使ったのを嚆矢とし、沼地や湿地帯の埋め立てがその後も継続して続けられてきた事が城下町の拡大に役立ち、次第に松江を繁栄させていったのである。

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  • 寛永11年(1634年)に松江藩を継承した京極忠高は、若狭国小浜藩からの加増転封だった上に戦国時代尼子氏と毛利氏が奪い合った石見銀山の采配まで任されている。明らかに将軍家姻戚として優遇された京極家が、さらに毛利への抑えとしての役割を果たす事を期待しての人事だったが、肝心の正室・初姫との夫婦仲が悪く、その死の当日も相撲見物に出掛けていた様な有様だったので舅である大御所・秀忠の怒りを買い、寛永14年(1637年)に死去した時も嗣子がなかった事を理由に危うく改易されかけている(結果としてそれまでの徳川家に対する忠義を考慮され、甥に当たる高和が播磨龍野に6万石の所領を与えられることで大名として存続を許された)。
    *領民は明らかに京極氏だけは印象に留めなかった様である。

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  • 次いで入った越前松平家(松平秀康の末裔集団)は「津山松平家美作国津山藩10万石/長男松平忠直の子孫)」「福井松平家越前国福井藩32万石/次男松平忠昌の子孫)「松江松平家出雲国松江藩18万石/三男松平直政の子孫)」「前橋松平家上野国前橋藩17万石/五男松平直基の子孫)」「明石松平家播磨国明石藩8万石/六男松平直良の子孫)」などから構成される巨大分家集団で「越後国糸魚川藩1万石(新潟県糸魚川市/福井藩支藩)」「出雲国広瀬藩3万石(かつての出雲の中心地であった島根県安来市広瀬町/松江藩支藩)」「出雲国母里藩(神戸藩)1万石(島根県安来市/松江藩支藩)」「松江新田藩1万石(松江藩内の新田を束ねた支藩)」などと併せて、ほぼ百万石前後の旧出雲文化圏全体を掌握していた。

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日本文化のアメリカへの紹介者として名高いW、E.グリフィスもラフカディオ・ハーンもこの文化圏との関係が深い。前者は福井松平家に雇われていたし、後者は出雲国造家の入り婿とまでなっている。
ラフカディオ・ハーン小泉八雲)は「難治の地」出雲に、何度イングランドに征服されても、しばらくすると現地に派遣された代官を取り込んで半独立状態に戻ってしまうアイルランド古代史を重ねていたという。

 全体像を俯瞰するとこんな景色が浮かび上がってきます。

  • 7世紀末のヤマト王権にとって、最も頭の痛い問題は九州南部の隼人族と対峙する日向国に対する統治権の曖昧さだった。何しろこの土地の伝承を辿ると(1世紀から3世紀にかけての)出雲文化圏に行き着いてしまう。

  • ならば、そもそも出雲文化圏の起源がヤマト王権だった事にすれば良い。幸いにしてこの時代の出雲文化圏はすっかり零落し、この大胆な設定変更に抗議する力を失っていたのである。
  • かくして「日向神話」に導入部として「天照大神の地上の名代たる高木神(本来は上越・出雲文化圏の神)が(当時、東北地方侵攻作戦でブイブイいわせていた)武甕槌命(たけみかづちのみこと)や経津主神(ふつぬしのかみ)を派遣して出雲征服の下準備を完了したが、遠征本隊は何故か日向国に漂着してこの地を征服した(ただしその子孫は実は出雲系だったかもしれない)」なる微妙に「八方美人的」というか「玉虫色的」というか、そういう感じの導入部が追加される事になったのである。

すると、その(当時、東北地方侵攻作戦でブイブイいわせていた)武甕槌命(たけみかづちのみこと)や経津主神(ふつぬしのかみ)でも敵わなかった星神香香背男(ほしのかがせお)とは一体何者で、あっけなくそれを倒した倭文神(しとりのかみ)あるいは天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)とは一体何者だったのか?

  • 武甕槌命(たけみかづちのみこと)や経津主神(ふつぬしのかみ)でも敵わなかった」なる設定は「大伴氏や物部氏による関東支配を脅かした、星を崇拝する騎馬軍団」を想起させる。おそらく高句麗から渡ってきた渡来系であり、同じ渡来系氏族の懐柔しか受け付けなかったとも考えられる(倭文神(しとりのかみ)あるいは天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)の様な機織りの神は養蚕の神同様に概ね渡来人の神が起源)。現代人の感覚では妙見菩薩を奉じ、北辰一刀流を創始し、千葉真一を輩出した千葉一族が一番イメージしやすいかもしれない。

    *そういえば皇極天皇2年(643年)に蘇我入鹿に上宮王家の人々が誅殺された際、山背大兄王が「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)」と提案され「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)」と述べて退ける場面がある。後世にその足跡こそ残さなかったものの(渡来人集団と縁深い)上宮王家や蘇我宗家もまた東国に相応の軍事力を滋養していたのだった(蘇我蝦夷が「蝦夷」と名乗っていたのも、その力を誇示する為だったとも、東国諸兵を懐柔する為だったとも)。「所詮は物部氏から奪った軍事力であり忠誠心は微妙。その後物部氏(および藤原氏)はいともあっさり統帥権回復に成功する」とする穿った意見もあるが、古事記からも日本書紀からも関連記事の一切が削除されており、真相は完全に歴史の闇の中となっている。

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  • そう史料なるもの「何が書かれているか」と同じくらい「何が書かれなかったか」が重要なのである。考古学的研究から九州・関東・東北といった「夷狄と対峙する最前線」において大伴氏と物部氏蘇我氏の壮絶な勢力争いがあったのは間違いないのだが、文献上の記録には「推古天皇5年(597年)と推古天皇10年(602年)の2回に渡る新羅征討軍の筑紫派遣(新羅側史料に存在しない謎の遠征。聖徳太子の同母弟たる来目皇子が突然死したり、異母弟たる当麻皇子が妻の死を理由に都へ引き揚げたりと司令官交代が相次ぐ)」といった謎めいた形でその痕跡が残っているに過ぎない。「本来は天津神なのに天津神に逆らう」星神香香背男(ほしのかがせお)を巡る一連の記述も、その一環である可能性はあくまで捨て切れないという次第。

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しかし実はスピンオフ小説「君の名は:Another Side」ではあっけなく「貴社の御祭神は何 でしょうか」「倭文神建葉槌命をお祀りしております。摂社末社はございません」「奈良県の葛城倭文坐天羽雷命神社との関係は?」「無関係です。大甕神社とも。交流もありません」というやりとりで宮水神社とこうした「偽りの歴史」との連続性を全否定してるんですね。
*葛城倭文坐天羽雷命神社…葛城氏の本拠地は大和盆地西部(葛城地域)から南部(明日香地域)にかけてで、後に蘇我氏は政略結婚を経てこの地を獲得したといわれる。

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*大甕神社(茨城県日立市)…星神天津甕星を封印しているといわれる物部氏系神社。武葉槌神を祀る。

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で、そういう脱線抜きで「それでも宮水神社の祭文が出雲系だとしたらどういう事か」考えろと迫ってくる訳です。答えはまさかやっぱりの「飛騨王朝仮説」とか?
飛騨王朝と弥生人との遭遇
岐阜県久々野町の堂之上遺跡

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というか割ともう「溝口俊樹さん」が「あ…ありのまま俺の身に起こった事を話すぜ! 倭文神(しとりのかみ)に絡め取られた星神香香背男(ほしのかがせお)の謎を追ってたつもりだったんだが、実は俺こそが倭文神(しとりのかみ)に絡め取られた星神香香背男(ほしのかがせお)だった。な…何を言っているのかわからねーと思うが、おれも何をされたのかわからなかった。」がオチでいいんじゃないかなぁ。スピンオフ小説は割と容赦なく「飛騨女(ひだにょ)物」だし「飛騨女(ひだにょ)物」のオチって割とみんなそういう感じだし。