諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

日本人には視野外のアメリカ②ビーバーハットの道とモルモン教徒の奇跡

「米国建国の父達」の一人として名高いベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin、1706年〜1790年)。「米国建国の父達」の中で唯一奴隷農場主でなかった事が幸いし(元々は奴隷所有者だったが、やがて全て手放してアメリカ建国の父の中で唯一奴隷制廃止を唱えるようになった)今日なお突出した人気を誇ります。

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アメリカ独立戦争(American War of Independence、1775年〜1783年)への貢献の仕方もまた独特でした。欧州に渡って「ビーバー帽を被ったお茶目な野蛮人」を演じてパリ社交界を中心に貴族の宴席やサロンを渡り歩き(見掛けと裏腹にテーブルマナーやエチケットや教養は完璧でそのギャップがまた話題となった)セレブ女性の人気を獲得しつつ、欧州諸国との外交交渉を有利に進め、独立戦争へのフランスの協力・参戦を引き出すと同時に他の諸国の中立を成功させたのです。

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「フランクリン自伝」を絶賛する人は十三徳(1728年頃に編纂された「道徳的完全に到達する大胆で難儀な計画」)に感動するあまり「この遵守こそが成功への道」と信じたがりますが、フランクリン当人はむしろ「(欧州宮廷人達から野蛮人と見下されない為の)完璧なテーブルマナーとエチケットと教養の習得」こそがアメリカを独立に導いたと主張します。この辺りで親世代に意趣返し出来るのがアメリカの若者の間でのベンジャミン・フランクリン人気の秘訣とも。

 ところで「ビーバー帽を被った粗野な姿」といいつつ、当時の欧州においてビーバー・ハット(ビーバーの毛皮の柔らかい内毛を加工したフェルトの帽子)は、その耐水性と光沢の美しさから高級品として人気があったのです。その需要を満たすべく、各国の毛皮業者が北米に押し寄せます。そして19世紀初頭までに大西洋沿岸からミシピッピ河に到る地域のビーバーは獲り尽くされてしまうのです。

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*当時のニューヨークはまだまだビーバー狩猟と氷輸出の拠点に過ぎなかった。

  • ビーバーを求める男達の関心は次にミズーリ河流域、さらにはその奥地へと寄せられた。ことにルイジアナ買収後、メリウェザー・ルイス(Meriwether Lewis)とウィリアム・クラーク(William Clark)が陸路による太平洋岸への探検(1805年)から帰還すると、多くの罠猟師が遠征隊を組織して北西に向かう様になる。その先駆けとなったのが、1807年にミズーリ毛皮会社(Missoury Fur Company)を創設したスペイン出身の罠猟師マニュエル・リサ(Manuel Lisa)で、ミズーリ川経由でイエローストーン川を遡行してビックホーン川との合流地点に到達し、そこに交易所を設けた。
    *「ルイジアナ買収(Louisiana Purchase、1803年)」…英国と敵対していたナポレオンが「カナダより英軍が南下した場合、210万km²を超える仏領ルイジアナの防衛は不可能」と考え、これを1500万ドルという破格の安値でアメリカに売却した件。主にミシシッピ川流域の広大な領地で、現在のアイオワアーカンソーオクラホマカンザスコロラドサウスダコタ、テキサス、ニューメキシコネブラスカノースダコタミズーリミネソタ、モンタナ、ルイジアナ、ワイオミングの15州にまたがる。これによりアメリカの領土は当時で2倍になった(現在でも全領土の23%に相当)。

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  • 1822年には毛皮業者で政治家でもあったウィリアム・アシュレー(William Henry Ashley)が「ミズーリリパブリカン」紙に百人の遠征隊員を募集する公告を載せた。それを実際に率いたのはアシュレーの盟友アンドリュー・ヘンリーだったが、遠征隊の行く手には数々の困難が待ち受けていた。毛皮はインディアンにとっても重要な交易品であり、白人を受け容れて交易で利益を上げようとする部族がいる一方で、先祖から継承した土地に侵入してくる白人を敵視する部族も存在したからである。遠征隊は過酷な自然に分け入って僅かな獲物を追い求めながら、インディアンの襲撃にも備えねばならなかった。
    *この遠征に参加した隊員の一人だったヒュー・グラスはグリズリーに襲われて瀕死の重傷を負った揚句、仲間からも見捨てられた。それでも超人的精神力を発揮して奇跡の生還を遂げた事から虚実ない交ぜの様々な伝説を残す殊になった。ワイオミング出身のマイケル・パンクが著した「レヴェナント 蘇りし者(The Revenant、原作2002年、映画化2015年)」はそれをまとめた作品の一つ。

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  • 1824年夏、ヘンリー遠征隊は現在のワイオミング州でジェディダイア・スミス隊とランデブー。会社の負債を埋め合わせるには足りないものの、ヘンリーは相当量の毛皮を集めていたのでスミスが現地に残る一方、ヘンリーが収穫物をセントルイスに持ち帰る任を負った。
    *「ランデブー(rendez vous、会談の意のフランス語)」…それまでの交易所を通じての毛皮取引に取って代わった交易様式。毎年夏に猟場に近い場所を選んで市を立て、猟師が持ち寄る毛皮を、運んでいった商品と交換する方式。1824年に始まり、夏のロッキーを彩る風物詩となった。後に宇宙船や人工衛星がドッキングの為に邂逅する事も指す様に。

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  • 毛皮の量こそ不十分だったものの、同年ミズーリ州知事を目指して落選したアシュリーはすぐに現地に戻る価値があると判断。次の遠征の為の資金を確保し、当初はヘンリー隊長が率いる形で1824年10月24日にセントルイスを出発させた(詳細は不明だがヘンリーはその後リタイア。ロッキーマウンテン毛皮会社の株も安値で手放し、その金も債務保証ビジネスでスって1832年無一文で死去)。アシュレーは自ら遠征隊を率いてプラット川の南側の支流を下り、グリーン側での水運を試みた最初の白人となった。そして現在は彼の名前にちなんで「アシュリー川」と呼ばれる事になった川の河口付近でハドソンベイ社の罠猟師から謎めいた交渉の末に百束のビーバーの毛皮を獲得し、これを1825年秋にセントルイスで売って20万ドルを得た。一生遊んで暮らせる大金であり、ジェディダイア・スミス、デイビッド・ジャクソン、ウィリアム・サブレットの三人にロッキーマウンテン毛皮会社の株を売って引退。以降は政治に専念する道を選ぶ。

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  • 1830年代のロッキーマウンテン毛皮会社は「伝説の道案内人(実は1822年のヘンリー遠征隊讃歌が初キャリア)」ジム・ブリッジャーを加え、英国の勅許・国策会社ハドソン湾会社やドイツ出身のアスター(John Jacob Astor)が設立したアメリカ毛皮会社と、魅力あるビーバーの生皮交易で競った。1940年代に入ると毛皮取引は崩壊し(ビーバーハットの流行が終わり、かつ乱獲によってビーバーもいなくなった)開拓者達の視線は西部に注がれた。1843年にはブリッジャーとルイス・バスケスがグリーン川のブラックスフォーク西岸に後にブリッジャー砦と呼ばれることになる交易基地を建設し、オレゴン・トレイル(Oregon Trail)を通る開拓者のために供している。

  • そしてオレゴン・トレイルは西部開拓時代(南北戦争(1861年~1865年)の時代から始まり1890年のフロンティア消滅で終焉)、アメリカ合衆国マニフェスト・デスティニー、すなわちアメリカ合衆国を大西洋から太平洋まで拡げるという文化的目標の達成に貢献する事になる。幌馬車で大陸の半分にあたる2,170マイル(3,500 km)を5,6ヶ月かけて旅した道程は、後にミズーリ州カンザス州、ネブラスカ州ワイオミング州アイダホ州およびオレゴン州となった6州にまたがっていた。

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オルゴン・トレイルは1841年から1869年にかけてアメリカ合衆国領土となった太平洋岸北西部に移住する開拓者に使われたが、1869年に大陸横断鉄道が開通すると徐々に鉄道に置き換えられていく。

マウンテンマン(Mountain man)

1810年から1840年代初めまで、ロッキー山脈を徘徊していた罠猟師、探検家を指す。彼らはまず第一にビーバーの罠猟師で、アメリカ西部を探検するのを望んだ者も中にはいた。

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  • ステレオタイプ的なマウンテンマン像としては、孤独を好む男で、動物の生皮を着て、モジャモジャした頬髭を見せびらかし、ホーケンライフルと生皮を剥ぐためのボウイナイフを携行している姿が描写される。しかし実際は、フリーの罠猟師は多くいたにせよ、ほとんどのマウンテンマンは毛皮会社に雇われていた。会社の人間の生活はほとんど軍隊のそれで、男たちは食事を集団で取り、動物の群れを狩り罠にかけ捕獲し、常に罠猟集団の長に報告した。この長はフランス語の「ブルジョワ」が訛った語、「ブーザウェイ(boosway)」と呼ばれた。彼は群れのリーダーであり、第一の交易者で、総合的な社長であった。ドラ声のマウンテンマンはいたものの、多くは礼儀正しかった。彼らは、彼らの持つ同胞を助ける騎士道精神から、高潔な人間のように美化されているが、荒野ではもっと気楽に生活していた。

  • アメリカ西部での罠猟師の存在は、1807年にミズーリ毛皮会社(Missoury Fur Company)を創設したマニュエル・リサに始まった。罠猟師が大量に殺到したのは、1822年に「アシュレイの100人(Ashley's Hundred)」と呼ばれる、ウィリアム・ヘンリー・アシュレイ率いる遠征が始まった時であった。この遠征から、罠猟師を引き連れて出かける例年の捕獲ツアーが増大した。セントルイスから食糧を携行し、帰ってくる時には生皮を携えて、それを代金や食糧、ウイスキー、その他の必需品に換えていた。

  • 1824年、春に食糧を山に持ち込んで秋に生皮を持ち帰るランデヴーが始まった。ウィリアム・ヘンリー・アシュレイ少佐は、この方法をロッキーマウンテン毛皮会社(Rocky Mountain Fur Company)を通じて開始した。他にもアメリカン毛皮会社(American Fur Company)が同様の方法で利益を産み出している。

ビーバーの生皮は、イギリスで当時流行していたビーバー・ハットを作るのに不可欠だったが、 1840年代初めにはファッションも変わり、ビーバーの価値も少なくなった。過剰な捕獲によってビーバーも見つけにくくなった。しかしオレゴン・トレイルの開通とモルモン・トレイルが使用されるようになったことマウンテンマンの存在は廃れていくが、市民社会に戻りたくなかった罠猟師達はガイドやハンターに身を転じていく。

モルモン・トレイル(Mormon Pioneer Trail)

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1846年から1868年にかけて末日聖徒イエス・キリスト教会の信徒が通った総延長1,300マイル(2080 km)の道。今日では「モルモン開拓者国定歴史の道」として国定トレイル・システムの一部になっている。

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  • 1830年に始まる末日聖徒イエス・キリスト教会ジョセフ・スミス・ジュニアの指導下、1844年までに合衆国中に幾つかの地域社会を設立。中でも著名だったのが、オハイオ州カートランド、ミズーリ州インデペンデンスおよび、イリノイ州ノーブーだったが、教会は内部の不一致や他の開拓者との紛争の為に開拓地から追い出され、最終的にはノーブーも1846年に捨てざるを得なくなり、そこにいた約14,000人の教徒が西部で新しい住処を見つけるために出発した。
    *例えばジョセフ・スミスには少なく見積もっても30人から40人の妻がおり、1852年から1890年にかけて一夫多妻制(多妻婚を禁じるさまざまな法の無視)でトラブルを犯し続ける。「起きてる間は働き続ける」という教義のせいで物凄い勢いでどんどん富裕になっていくのも周囲の反感を招いたらしい。

  • 1844年にスミスが死んだ後、教会は幾つかの会派に分裂。多くの信徒が十二使徒定員会の上級使徒として教会を指導する立場となったブリガム・ヤング(後に教会大官長にして預言者となる)とその末日聖徒イエス・キリスト教会に加わったが、歴史のその時点で彼は「モルモン教徒は誰も住むことを望まないような場所にまとまって入植すべきである」と漠然と考えているだけだった。正確にどこへ行くかも、どこまで行けば終わりになるかも分らないまま教徒達を導いていく決意を固めただけだった。

  • すると孤立したグレートベースン開拓民達が教会に多くの利点を提供してくれると持ちかけてきた。ヤングはグレートソルトレイク・バレーやグレートベースンに関する情報を調べ、マウンテンマンや罠漁師達に相談し、その地域に詳しいイエズス会宣教師ピエール=ジャン・デ・スメーとも会談。ロッキー山脈を越える道を開発するために先行隊を組織し、道の状況を評価し、水源を見つけ、グレートベースンで集合する場所を選択させることとした。プラット川やノースプラット川に沿ったルートは、既にその南岸にあったオレゴン・トレイルを使う旅人との牧草権、水の利用および宿営地などに関して起こりそうなトラブルを避けるために、北岸の新しいルートが選定された。
    *1820年代後半にはソルトレイクシティ経由でカリフォルニアを目指していた人物がラスベガス(Las Vegas)を発見している(後にモルモン教徒に改宗)。ネバダ砂漠にあってこの付近だけは窪んだ地形となっており、オアシスが形成されていた。vega とはスペイン語で「牧草地」を意味する女性名詞で、vegas はその複数形。これに女性定冠詞(複数形)を付けて las vegas となり、それが固有名詞となった。そして1840年代末に現在のカリフォルニア州で金が発見されるとゴールドラッシュが起こり、カリフォルニアに向かう砂漠の中の貴重な中継地点として定住者が現れる。

  • 1845年10月のクィンシー会議で「モルモン教徒は1846年5月までにノーブーを明け渡す事」要求する決議が可決された。その数日後のカーシッジ会議では「モルモン教徒が期日を守らなかった場合に退去を強制する為の民兵隊設立」が要求されている。モルモン教徒は無用な衝突を避けるべく1846年2月4日よりグレートベースンへの旅を開始。そして1846年3月1日には約2,500人の避難民と500両の荷車が出発した
    *それ以前からアイオワ州への避難民流入は始まっていた。装備の貧しい彼らには冬の旅行や宿衛は過酷だったが、シュガークリークの堤に到達するにはまだ凍ってるうちにミシシッピ川を越えねばならなかったのである。

  • 最も最初に出発した部隊は冬の一番寒い時期に当たっていた。ミシシッピ川を渡り、アイオワ準州を横切るときは原始的な領土内道路やインディアンの使う道を辿った。当初は約300人の急行隊を率いて1846年の夏の間にグレートベースンまで行く計画で、アイオワを抜けてミズーリ川に着くのに4週間ないし6週間を要する想定だったが、実際にはアイオワを抜けるだけで、雨やぬかるみ、膨れ上がった川および乏しい準備のために遅れ、計画したよりも3倍近い16週間を要している。激しい雨の為にアイオワ南部のうねりのある平原は車軸の深さもあるぬかるみに変わった。さらに旅に十分な食糧を持ってきた人も少なかったので旅の困難は想像を絶するものとなった。

  • 最初の集団は6月14日にミズーリ川に到着。その季節の残りでグレートベースンに辿り着くことは出来ないのが明白だったので、ミズーリ川近くで越冬する道を選んだ。移民のある者達はミズーリ川のアイオワ州側のケインズビルと呼ばれる開拓地を建設。残りは川を渡り、今日のネブラスカ州オマハの地域に入り、ミズーリ川沿いに冬季宿営地を建てた。
    *移民達の宿営地なら川の両岸にあったが、西岸のウィンター・クォーターズが最大だった。ここで700戸の住居をが建築され、推計3,500人の教徒が1846年から1847年の冬を過ごしている。そのうち多くは1847年から1848年の冬もここで過ごす事になった。壊血病や肺病や悪寒や発熱が蔓延し1846年から1848年5月にかけて359人が死亡したが、その間にも西へ向かう旅に必要な器具や物資を備蓄したり交換によって入手していく。プラット川、、ミズーリ川を出発した移民は数百マイル続くグレート・プラット川道路(ノーブーの西305マイル (488 km))に沿って進む事になったが、北岸を進む限りは以前潜在敵だったミズーリ州イリノイ州からの移民との不快な遭遇を避けられた。しかし1849年、1850年および1852年はプラット川沿いの交通量が多く川の両岸から事実上食べられるものが取り尽くされており、絶えざる食物の欠乏や病気への恐怖に脅かされ続けた。

  • 1847年4月、先行隊に選ばれたメンバーが集まって最後の物資が詰められ14個中隊に編成された。先行隊は民兵隊と夜警隊を含む143名。中には3人の黒人と十二使徒定員会から選ばれた8人が含まれ、さらに3人の女性と2人の子供も加わっていた。隊列は73両の荷車と役畜、家畜で構成され、約1年分の物資を積載。

  • 荷車隊は4月5日ウィンター・クォーターズより進発。ララミー砦まで6週間掛かり、6月1日に砦に到着した。ララミー砦にいる間にミシシッピ州から来たモルモン大隊のメンバーが合流。彼らは病気の為に隊を離れコロラドのプエブロで冬を過ごしていた者達だった。こうして規模を拡大した先遣隊は既に確立されていたオレゴン・トレイルを通ってブリッジャー砦の交易基地に向かった。

  • 6月28日にヤングはジム・ブリッジャーと邂逅。二人はソルトレイク・バレーに入る経路を検討し、グレートベースンの山岳が多い渓谷で発展しうる開拓地の実現可能性について話し合った。その間に先遣隊もサウスパスを通過して筏でグリーン川を渡り、7月7日にブリッジャー砦に到着。これと同時期に病気になって起き捨てられたモルモン大隊分遣隊12名がさらに合流してきた。

  • そこから先は岩が多く障害だらけの道だったのでヤングは前年にドナー・リード隊がカリフォルニアに行った時に使った道を辿ることにした。

  • 岩の多い山道を抜ける為に先遣隊は隊を3つに分けた。その時ヤングと何人かの隊員は森林ダニの媒介する一般に「山岳熱」と呼ばれる熱病に罹っており、本隊に遅れて後続する小さな病人隊を形成。その一方で斥候隊が編成されて指定されたルートをからかじめ先行する事になった。

  • 7月21日、斥候のエラストゥス・スノーとオーソン・プラットはソルトレイク・バレーに到着。7月23日、プラットは神に土地を捧げる祈りを提案した。土地が切り開かれ、灌漑用の溝が掘られ、ジャガイモとカブがまず畑に植えられる。7月24日、ヤングは友人のウィルフォード・ウッドラフが御する病人用荷車から渓谷を初めて眺めた。ウッドラフに拠れば、ヤングは渓谷の様子に満足の意を表し「これがまさにその場所だ、進もう」と宣言したという。1847年8月、ヤングと先遣隊の選ばれたメンバーがウィンター・クォーターズに戻り、翌年出発を予定する移動隊を編成。1847年12月までに2,000人以上のモルモン教徒がソルトレイク・バレー、さらにはメキシコ領への旅を完了。

  • それまで耕されてこなかった土地での耕作は想像以上に困難で、乾燥した大地を鋤こうとすると鋤が壊れた。そこで灌漑システムが考案されて鋤く前に土地を水浸しにする様になったが、このシステムは1年中補助的な水分を供給する役にも立った。ソルトレイクシティの都市計画が作られ、そこを教会の本部に設定。懸命な労働の積み重ねによってコミュニティの発展が始まった。この新しいコミュニティは娯楽も重視し、最初に劇場を公共建築物として建設。
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しかし間もなくアメリカ合衆国が追いついてくる。メキシコとの戦争が終わった1848年にモルモン教徒が入植した土地はアメリカ合衆国の一部となってしまう。

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  • 当時のモルモン教徒移民は「中隊」に編成され、各中隊はその指導者の名前を付け、さらに10人から50人の小集団に分けられた。教徒は行程を2つに分け、先遣隊が開発した道を旅した。最初の行程はノーブーに始まり、今日のネブラスカ州オマハに近いウィンター・クォーターズで終わった。旅の残りは後にネブラスカ州ワイオミング州となった地域を抜けて現在のユタ州にあるソルトレイク・バレーで終わるものだった。初期の集団は幌を付けた荷車を牛に曳かせ、物資を積んで山河を進んだ。後期の集団は手押し車を使い、徒歩で進んだ。

  • 1849年までにアイオワ州ミズーリ州に残っていたモルモン教徒は貧乏であり、旅に必要とされる荷車や役獣それに物資を買う余裕が無かったので末日聖徒イエス・キリスト教会は無期限移民基金と呼ばれる回転資金を設立し、貧しい者が移住できるようにした。1852年までに移民を希望したノーブーからのモルモン教徒は大半がそれを成し遂げ、教会はアイオワの開拓地を放棄。しかし東部州やヨーロッパからの教会員がユタに向かい続け、無期限移民基金に援けられる様になっていく。
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1856年、貧しいヨーロッパからの移民を安価で旅行させる為に「手押し車中隊」という仕組みの運用を開始。1860年までヨーロッパからの改宗者をソルトレイクシティまでより速くより容易にまたより安く連れてくる手段として重用され続ける。

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  • ここでいう手押し車とは役獣の代わりに人間が曳く2輪の荷車。実際に用いたのは通りの清掃員が使っていた荷車を改装したもので、ほとんど木材でできていた。一般に長さは6ないし7フィート (183 - 213 cm)、幅は狭い荷車道に合うだけのもので、引っ張るか押して進めた。車には小さな箱が付けられ、その長さは3ないし4フィート(91〜122cm)、深さは8インチ(20 cm)。積み込む物資の重さは約500ポンド(227 kg)であり、その大半は旅の食糧とわずかな個人の所有物で占められていた。

  • およそ3,000人のモルモン教徒が653両の手押し車と50両の物資荷車を使い、10個中隊に分かれてソルトレイクシティへの道を進んだ。手押し車を使ったのは初めてのことではなかったが、それを大々的に使ったのはこの集団だけである。2隊を除いて、さしたるトラブルも無く、わずかに死者を出しただけででこぼこ道の旅を成功させている。

  • 不運に見舞われたのは1856年7月にアイオワシティを出発した第4(ウィリー)中隊と第5(マーティン)中隊。平原を横切には遅過ぎた出発で、実際に現在のワイオミング州キャスパーの西で厳しい冬の気象に遭遇。それでも深雪や吹雪と戦いながら前進を続けたのである。間もなく食糧が枯渇。ヤングは救援隊を派遣したが980人の移民のうち210人以上が死んでいる。

  • 手押し車中隊の運用は1860年まで続き、牛に曳かせる伝統的な荷車中隊がその費用を捻出し得る者達の為に続いた。以降は毎年春に荷車中隊を東に送り、夏の間にモルモン教徒を連れてユタに戻ってくる定期便が往復する様になった。

  • 1869年になると大陸横断鉄道が開通し、移民は鉄道で旅する様になった。かくしてモルモン開拓者トレイルの時代は終わりを告げる事になったのである。

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最終的に7万人弱のモルモン開拓者が困難を超えユタ州への移住を果たした。早くも1848年からソルトレイク・バレー以外への入植が始まり、まず北のウェーバー・バレーに多くのコミュニティが建造されている。頼るべき水流に近く木立もある渓谷出口近くが候補地といして慎重に選ばれた。最終的に北のカナダアルバータ州から南のメキシコにかけて600以上のコミュニティを建設。歴史家のウォレス・ステグナーが述べているように、モルモン教徒はまさしく「西部開拓の主要部隊の一つ」だったのである。
*そして1905年のユニオン・パシフィック鉄道の開通に伴って、水の便の良いラスベガスが蒸気機関車の給水地となり、現在のダウンタウンに駅が建てられる。

 ラスベガス(Las Vegas)の奇跡

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金鉱ブームが去った後の1929年、株式大暴落に端を発した大恐慌が勃発。さしたる産業のないネバダ州は、税収確保の為に1931年3月19日、賭博を合法化。

そして第二次世界大戦終結後の1946年、ベンジャミン・シーゲル(バグジーとして知られる)がフラミンゴホテルを建設。

  • カジノが収益を上げることが判ると、マフィアが続々とホテルを建設するようになり、それらのホテルは同時に集客のためにフランク・シナトラやサミー・デイヴィスJr.、リベラーチェなどのショーを定期的に行うようになった。街の建設資金は大半をモルモン教徒が融資。

  • 1960年代後半頃から当局の取締りが次第に厳しくなり、マフィアは次々とホテルの経営権を手放す。代わって合法的な不動産会社やホテルチェーン、ハワード・ヒューズのような大富豪などがホテルやカジノの経営権を引き継いだ。

  • その後も、資金融資などの形で限定的なマフィアの介入はあったが、ゲーミング・ライセンス(カジノ開設、運営の権利を定める一連の州法など)の厳格化に伴いその影響力は漸減し、1990年代にはほぼ払拭。それに伴って投機ブームが起り、より広い土地が必要となったこともあって市街は南方に大きく拡張した。

さらに1980年代の末頃から巨大テーマホテルブームが起こり、現在に至る。またこの頃より各ホテルの広大な敷地を使ってのコンベンションなどが多数開かれるようになった。なお、客室数ベースで世界の12大ホテルのうち11軒がラスベガス地区に存在する。ホテルが多い理由の一つとして一定規模以上のカジノの建設は、客室数200室以上のホテルの付帯施設としてしか認可されないことが挙げられる。

 WordPerfectの奇跡

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1980年代末から1990年代初めにかけて、デファクトスタンダードの地位に登りつめたプロプライエタリワードプロセッサソフトウェア。その後 Microsoft Word の台頭に追い詰められ、Microsoft Windows対応への遅れによって大きくシェアを失った。MS-DOS版と Microsoft Windows 版がよく知られているが、非常に様々のプラットフォームやオペレーティングシステム上に移植されており、Mac OSLinux、Apple IIe版、Apple IIgs 版、各種UNIX版、VMS、System/370版、AmigaOS、Atari ST 版、OS/2NeXTSTEP などで動作した。ただし現在も開発が続けられているのは、Windows 版のみで、Corel WordPerfect Office の一部として販売されている。

  • WordPerfect を最初に開発したのは、Satellite Software International, Inc. をユタ州に創設した Bruce Bastian と Alan Ashton 。同社は後に社名を WordPerfect Corporation に改称した。最初のバージョンはデータゼネラルのミニコンピュータ向けで、それを1982年に DOS環境で動くIBM PC に移植した WordPerfect 2.20 が登場。バージョン番号はデータゼネラル版と連続。

  • 人気を得るようになったのは、1986年の WordPerfect 4.2 からであった。このバージョンでは、段落の自動番号付け機能や脚注の自動的な配分(多い場合に次のページに一部をまわす)といった機能を備えており、当時最も人気のあった WordStar からトップの座を奪い取ったのである。

  • 1989年には最も成功した WordPerfect 5.1 for DOSをリリース。このバージョンではMacintosh風のプルダウンメニューを採用し、表計算ソフトのような作表機能も備えていた。さらにWordPerfect 6.0 for DOSは従来型のテキストモードとグラフィックスを使ったWYSIWYGモードを備え、ボールド体、アンダーライン、イタリック体といったテキスト効果が表示可能であった。
    *ストリーミング・コード・アーキテクチャ(HTMLとCSSのようなフォーマットを採用。HTMLのように入れ子になったタグで文書の設定を保持)、スタイルとスタイルライブラリ(WP 5.0より搭載されたストリーミング・コード・アーキテクチャスタイルシートに相当する部分)、Reveal Code(タグなどを表示する補助エディタ画面。この画面で表示される各種トークンをクリックすることで、スタイルエディタなどが起動でき、非常に細かい編集が可能となる)、PerfectScript(高機能なマクロ言語)などを搭載。また内部で独自の文字コードを使用する一方で各種プリンタドライバを同梱し、さらに PTR(プリンタドライバエディタ)でユーザーが独自のプリンタドライバを開発可能だった。

  • さらに1986年にはスピンオフ製品としてWordPerfect Library(後のWordPerfect Office ) をリリース 。これはNetWareでLANが敷かれたオフィスでWordPerfect と共に使えるネットワークユーティティやスタンドアロンユーティリティのパッケージで、Shell(Windows 3.x にほぼ匹敵しする性能のタスクスイッチャーでWindowsより安定)、Calculator(電卓機能)、Notebook(フラットファイル型データベース)、DataPerfect(RDB)などで構成されていた。
    *なお、後にコーレルがWordPerfectを取得し、WordPerfect Office の名称をオフィススイートの名称として再利用。

しかし日本のワープロ専用機同様、その無駄なまでの高性能が技術革新への足枷となってしまう。

  • WordPerfectWindows版は登場が遅かった上に様々なトラブルに見舞われた。1991年にリリースされたWordPerfect 5.1 for WindowsDOSからインストールする必要がある上、安定性に重大な問題が存在。1992年になってやっと安定動作する 5.2 がリリースされたが、すでに Microsoft Word for Windows version 2 のリリースに1年遅れており、ファンクションキー操作を中心とするWordPerfectのインタフェースはWindowsGUI環境に馴染まなかったばかりか、各種キーの組み合わせもWindowsのキーボードショートカットとの互換性に欠けていたのである。またWindows環境ではそれまで力を入れていたプリンタドライバが不要になったばかりか、それまで内部的に独自の文字コードを使用してきた関係から中国語など Windows が対応した言語に対応出来ない問題も浮上してくる。

  • WordPerfect Corporation は1993年、ボーランドとの相互ライセンス契約を締結。WordPerfectもオフィススイートBorland Office の一部となった(他にQuattro Pro、Borland Paradox、WordPerfect Office が同梱)。この製品ラインは1994年6月にノベル、1996年1月にコーレルへと売却されたが、ノベルは WordPerfect Officeだけは手元に残しその技術を GroupWise に流用。

  • その後も WordPerfect はトラブルに見舞われ続ける。Windows 95のリリースから9カ月後の1996年5月、32ビット版の WordPerfect 7 がリリースされがこれも安定動作せず、マイクロソフトから "Designed for Windows 95" のロゴを取得出来なかった。さらに最初期のバージョンの WordPerfect 7はWindows NTで動作せず、NT 対応版が1997年にリリースされた時にはすでにNT 4.0 がリリースされてから6カ月が経過していた。その一方でマイクロソフトはWordをプリインストールするメーカーには Windowsをディスカウントする作戦でシェアを伸ばしていく(2004年11月、ノベルはマイクロソフトを反トラスト法違反で訴えた)。

WordPerfect は主に司法関係と学術関係で生き延びた。例えば2005年にもアメリカ合衆国司法省が WordPerfect を大量に購入している。

スティーブン・R・コヴィー(Stephen Richards Covey,)「 7つの習慣(The 7 Habits of Highly Effective People、原著初版1989年)」の奇跡

44ヶ国語に翻訳され全世界2,000万部、日本でも1996年に発売されて以降、累計130万部を売り上げている。著者は敬虔なモルモン教徒として知られたが2012年没。

  • ジャンルはビジネス書とされる場合が多いが、成功哲学、人生哲学、自助努力といった人間の生活を広く取り扱っており、人文・思想、倫理・道徳、人生論・教訓、自己啓発などに分類される場合もある。表紙のタイトルの下に『個人、家庭、会社、人生のすべて--成功には原則があった!』と表記され、『成功には原則があった!』の部分が副題とされる場合もある。帯には版によっていくつかの種類があり「この本を読むことは、あなたの人生における最高の冒険になるだろう。」「全世界1500万部突破の名著が教える永遠の人間学」などと謳われている。原著は英語。訳はジェームス・スキナーと川西茂による。

  • 日本では2013年8月30日、キングベアー出版より新訳版として「完訳 7つの習慣 人格主義の回復」が出版されている。旧訳版が当時のビジネスパーソンに特化した書かれ方をしていたことを踏まえ、新訳版では当時から不変である原則を伝えることを重視し、著者のより根本的な主張である「人格主義と個性主義」にフォーカスすることを目指した。オーディオブックの版監修を行った竹村富士徳によると、そもそも「成功には原則があった」という副題自体、マーケティングの都合で付けた全く関係無い文章であると指摘している。

  • 著者は本作を執筆するにあたり、アメリカ建国以来発行された約200年分の「成功」にかかわる文献を調査したとする。そしてその結果、直近の50年分の文献ではコミュニケーションスキルやポジティブシンキングなど、上辺だけの応急処置的なテクニックの解説に終始するものがほとんどであったのに対し、初めの150年間の文献は誠意、謙虚、勇気、正義、忍耐、勤勉、節制、黄金律といった、不変の「原則」に基づく優れた人格の養成を重視していたことを発見する。そして前者のパラダイムを「個性主義」、後者を「人格主義」と呼び、「人格主義」に基づいた成功への法則を抽出して、それを「7つの習慣」として提示する。

後に「第8の習慣」ではリーダーシップ論が語られ「偉大なリーダーとは権力、財力をもってして他人を支配するのではなく、その人間の道徳的権威によって他人に影響を与え、他人のもつ可能性を引き出す(ボイスを発見させる)人物である」とする。

「エンダーのゲーム(Ender's Game、1985年)」と「死者の代弁者(1986年、Speaker for the Dead)」でヒューゴー賞ネビュラ賞を受賞した米国SF作家オースン・スコット・カードOrson Scott Card)とも重ねてみると、どうやらモルモン教徒である事の表面的共通点は「徹底した性善説と人格主義」および「人生全体をその感性の為の遍路と見る態度」とも見て取れる様です。
*「表面的共通点」…成功に至るまで耐え抜く克己心が強い分だけ、善悪の彼岸が引っ繰り返る様なパラダイムシフトをあらかじめ想定して備えておく様な「小手先の対応」はちょっと苦手、とかそんな感じ。

  • アメリカ開拓精神の結晶」といわれるだけあって「それくらい揺るぎない信念を保ち続けなければモルモントレイルなど通せなかったのだ」と思わされる反面、GUI環境への移行に失敗したWordperfectの悲劇は同時期日本におけるワープロ専用機やiモードの失敗と重なります。
    *「7つの習慣」が発売された1996年当時の日本といったらソ連崩壊(1991年12月)やらバブル崩壊(1991年3月〜1993年10月)やら角川春樹逮捕(1993年8月29日)やらオウム真理教サリン事件(1994年〜1995年)を経て完全な既存価値観崩壊期。当時は「あのWordperfectを世界中で大ヒットさせたユタ州が生んだもう一つの国際的ヒット」みたいな売り方がなされていた。今から思えば「成功には原則があった」なるキャッチフレーズに飛びついた当時の日本のビジネスマンには(「これは陽明学そのものじゃないか!!」という安堵感からカント哲学に飛びついた明治時代の知識人達の様に)「これは日本精神そのものじゃないか!!」という安堵感から「7つの習慣」に飛びついたという側面があったのかもしれない。

  • ところでラスベガスに関しては「007ダイヤモンドは永遠に(Diamonds Are Forever、原作1956年、映画化1971年)」撮影時の逸話が有名。ラスベガスでの撮影に際しては市の全面協力が得られたのだが、スタッフの要請に従って交通量の過多、さらには通りすがる自動車や歩行者のグレードまで思うまま。それが大富豪ハワード・ヒューズの力のせいなのかモルモン教徒の力のせいなのか最後まで教えてもらえなかったそうだが、アメリカ人のモルモン教徒のイメージには「砂漠のど真ん中にそういう完全制御可能な大都市を現出させてしまう完璧主義者」なるイメージが確実に追加されたという。

    *そのせいかアメリカでは「モルモン教徒の本質はむしろ(ラスベガスを発展させた様な)他人の視線や目先の利害にとらわれず長期的視野に立っていきなり本質を抑えにくるあたり」と考えられており、「七つの習慣」でも「瓶の中にはまず大きな石から入れましょう。砂は最後です」といった提言が知れ渡ってるらしい。この考え方がちゃんと浸透していればWordperfectワープロ専用機やiモードの悲劇は避けられた?

  • そういえばH.D.ソローの「森の生活(Walden, or Life in the Woods、1854年)」とも重なる部分が多い。著者は同時期アメリカの超越主義(Transcendentalism)支持者で、自らの信仰の正しさを見極める為にウォールデン湖畔(マサチューセッツ州コンコード)の森に入り、1845年から1847年にかけて行った自給自足の実験的生活を実践。これを1年間の出来事として随筆風にまとめたのが「森の生活」で、やはり「アメリカ開拓精神の結晶」といわれるマスターピースの一つとされている。
    *まさにアメリカでは2000年代に入ってから小説の世界で、2015年には映画の世界で「原点回帰」が叫ばれた世界。

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そして突如として米国大統領選に「真の保守は人種や宗教を理由に攻撃されている人がいたら立ち上がり、守るものだ」と叫ぶ「第3の男」が現れる…これがユタ州

【エバン・マクマリン】「反トランプ」の受け皿?米大統領選、元CIA職員が無所属出馬 2ページ

 そういえばジハード(Jihad)の元来の意味は「屈することなく自分の信じるものを信じ通す事」で、それってモルモン教徒今なお奉じ続けてる「アメリカ開拓精神(American Frontier Spirit)」そのものなのか…