諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

あまりに短か過ぎたスペイン王国とサラマンカ学派の黄金期

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第二次世界大戦中、ナチス支配下のフランスで終始最も勇敢に抵抗運動を続けた勢力の一つはドーフィネ地方の人達だったそうです。

  • フランスから(ローマ教皇庁のある)イタリアに抜ける狭隘な陸路を抑えたフランス国王直轄領

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  • 英国の皇太子がプリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)と呼ばれた様にフランスの皇太子がドーファン・ド・フランス(Dauphin de France)と呼ばれたのは、名目上この所領を相続したとみなされるから。

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  • グラタン料理の起源(元来は粗野な田舎料理だったが、フランス宮廷料理に採用されて洗練されたとも)。

まぁ、峻険な山岳地帯なのでマキ(maquis、山や森を本拠地としたレジスタンス組織)が出没するのにちょうど良かったという事情もあった様です。メンバーもガチの王党派ばかりでなく、様々な左翼も混じってたとか。スペイン内戦を生き延びたスペイン人共和主義者達だけで構成された部隊もあったとか。

それにしてもスペイン王国の黄金期は短か過ぎました。

イスパニア/スペイン王国

  • 1474年イサベル1世カスティーリャ女王に即位。彼女の夫はアラゴン王太子ジローナ公フェルナンドで、共同統治王としてフェルナンド5世と称される。

  • 1478年…いわゆる「スペイン異端審問」の始まり。ローマ教皇カスティーリャ以外の地域(すなわちカタルーニャアラゴン)で独自の異端審問を行うことを許可した。これを仲介したボルハ(ボルジア)枢機卿はスペイン王の強力な後押しもあって後年のコンクラーヴェに勝利して教皇アレクサンデル6世(在位1492年〜1503年)となる。

  • 1479年…フェルナンドがフェルナンド2世としてアラゴン王に即位する。これによってカスティーリャカタルーニャアラゴン王国が実質的に統合されてスペイン王国イスパニア王国)が成立。

  • 1492年グラナダ王国陥落でレコンキスタ完了。同年ユダヤ人追放令。現代ユダヤ人は英国王エドワード1世によるユダヤ人追放令(1290年)や、フランス国王フイリップ4世によるユダヤ人追放(1306年)よりこれを恨んでいる。

  • 1499年〜1503年…チェザーレ・ボルジア(教皇アレキサンドル6世の息子)によるイタリア統一戦争。完全に領主化した教皇国家が直轄領回復を大義名分としてフランス軍の加勢を得て次々と近隣領主を攻め滅ぼしていったが疫病流行により挫折。

  • 1503年…チェリニューラの戦い(Battle of Cerignola)。ナポリ王国の継承権をフランスとスペインが争った第二次イタリア戦争(1499年 - 1504年)の一環として戦われ、第一次イタリア戦争(1494年〜1498年)の辛勝に引き続いてスペイン軍を率いたコルドバ将軍が圧勝。スペイン軍の塹壕築造技術とランツクネヒト神聖ローマ帝国の徴募した南ドイツ傭兵)の鉄砲隊の組み合わせが(それまで無敵とされてきた)フランス奇兵隊とスイス槍歩兵の密集突撃を粉砕した。以降、イタリア戦争はフランス王家とハプスブルグ家の直接対決の場へと変貌していく。

  • 1522年スペイン軍によるジェノヴァ略奪(Sacco di Genova)。以降ジェノバの銀行家と海軍を味方につけた。

  • 1524年〜1525年ドイツ農民戦争。急進派の新教宣教師に先導されて蜂起した領民を領主とランツクネヒトが殲滅。故郷の同胞を手に掛けた事でランツクネヒトの精神的荒廃が進行。

  • 1525年パヴィアの戦い。教皇国家とフランスの連合軍がスペインと戦ったイタリア戦争(1521年〜1526年)の一環として戦われ、神聖ローマ皇帝カール5世(Karl V、在位1519年〜1556年)/スペイン国王カルロス1世(Carlos I、在位1516年〜1556年)側が圧勝。ミラノ親征を率いたフランス王フランソワ1世を捕虜としてマドリードに幽閉するも、その後マドリード条約(1526年)を結んで釈放。

  • 1527年神聖ローマ帝国軍によるローマ略奪(Sacco di Roma)。全てが灰燼に帰してイタリア・ルネサンスの中心地がローマからヴェネツィアに推移。

  • 1529年…第一次ウィーン包囲。フランス王フランソワ1世と秘密裏に同盟したレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、神聖ローマ帝国皇帝にしてハプスブルク家の当主とオーストリア大公を兼ねたカール5世の本拠地ウィーンを2ヶ月近くに渡って包囲。頑強な抵抗によりオーストリア軍は辛うじて陥落だけは免れた。

  • 1538年…プレヴェザの海戦。バルバロス・ハイレッディンの指揮するオスマン帝国艦隊と、アンドレア・ドーリアが指揮するスペイン・ヴェネツィアローマ教皇連合艦隊とによって戦われた海戦。イオニア海レフカダ島沖が戦場となったが、連合艦隊側は統制が取れず敗走。結果としてオスマン帝国はクレタ、マルタを除く全地中海域の制海権を握ることとなった。

  • 1541年イエズス会創設。トリエント宗教会議1545年3月15日〜1563年12月4日)開催と合わせ反宗教革命運動の狼煙となる。これに入れ込み過ぎたスペイン国王フェリペ2世(Felipe II、在位1556年〜1598年)/ポルトガル国王フィリペ1世(Filipe I、在位1580年~1598年)/イングランド国王フィリップ1世(Philip I,1554年〜1558年)が八十年戦争(Tachtigjarige Oorlog、1568年~1609年、1621年~1648年)を引き起こした。

  • 1555年アウグスブルグの宗教和議。カール5世はドイツの新教諸侯連合を相手取ったシュマルカイデン戦争(1546年〜1547年)そのものには勝利したものの、以降の裏切りで敗退。オスマン帝国の脅威が迫っていた事もあって取り急ぎ新教諸侯の信仰の自由(自らの信仰の領民と領内での強制)を認める形の手打ちとなったが、これが契機となって神聖ローマ帝国領邦国家化が始まってしまう。カール5世は失意のあまり翌年引退。

  • 1559年…カトー・カンブレジ条約締結。第六次イタリア戦争(1551年〜1559年)での敗戦を受けてフランスがイタリアへの権利を放棄し、スペインのナポリ統治が確定した。また神聖ローマ皇帝(オーストリア・ハプスブルク家)宗主下でスペイン王のミラノ公国領有も認められ、イタリア戦争が完全に終結。

  • 1568年〜1609年、1621年〜1648年…八十年戦争(Tachtigjarige Oorlog)あるいはオランダ独立戦争。最初は劣勢だったオラニエ=ナッサウ家率いるシーゴイセン(海乞食団)が最終勝利を飾る。オラニエ=ナッサウ家がルターのパトロンでもあったザクセン選帝侯と縁戚関係を結び、北欧とドイツから無尽蔵に傭兵を供給可能となった事が勝利の決め手となった。

  • 1571年レパントの海戦。ギリシアのコリント湾口のレパント(Lepanto)沖にて教皇・スペイン・ヴェネツィア連合海軍がオスマン帝国海軍に勝利。ただしその時点で欧米側が地中海制海権の奪還に成功した訳ではない。

  • 1576年…スペイン軍によるアントウェルペン略奪(Assedio di Anversa)。残忍な掠奪により数千の市民が虐殺され、数百の家屋が焼き払われ、被害額は一説によれば200万スターリングにも及んだとされる。アントウェルペンアントワープ)の経済的繁栄を終焉させ、この地を羊毛輸出拠点として利用していたイングランドに甚大な経済的被害を負わせ、復讐を誓わせた。

  • 1581年オランダがスペインから実質上の独立を勝ち取る。まずセファルディム系(スペイン系)ユダヤ人が真っ先にアムステルダムに拠点を移した。

  • 1581年ポルトガル併合。ポルトガル王統断絶を契機に遂行され、ポルトガル領植民地をも手中に収めたスペイン王国はその領土が新大陸からアジアに至る地球を一周して分布する「太陽の沈まぬ国」となった。

  • 1588年アルマダの海戦。イングランド本土懲罰の為に進発したスペイン無敵艦隊イングランド海軍に撃破される。以降もイングランドとオランダの海賊はスペイン海運事業を脅かし続けた。

  • 1609年モリスコ(改宗イスラム教徒)追放令。小作人を大量に失って農地経営に支障をきたしたスペインは連年の様に飢饉に見舞われる様になり、ますます衰退が加速する。

  • 1618年〜1648年ドイツ三十年戦争(独: Dreißigjähriger Krieg)宗教戦争として始まったが、次第に産声を上げたばかりの国家群(それぞれ王統を奉じる中央集権集団)の領土確定紛争へと変貌。しかも最後に勝利したのは途中参加で漁夫の利を得たフランスと(八十年戦争に参加した傭兵の活用によって軍事的優位を得た)スウェーデンだった。ヴェストファーレン条約締結によって国際協調時代の幕を開けると同時にハプスブルグ家はスイスとオランダの独立を公式に認めざるを得なくなる。

  • 1640年〜1652年…カルターニャ農民戦争。収穫用の大鎌を持って戦ったので「収穫人戦争」ともいう。便乗して介入したフランスにピレネー以北を奪われた。
    カタルーニャの反乱

  • 1640年〜1668年ポルトガル王政復古戦争。衰退する一方のスペインに見切りをつけたポルトガルが独立を決意。ポルトガル新王統はハーグ条約(1661年)によってオランダと和平を結び(ブラジル完全回復の代償にセイロン島とモルッカ諸島を割譲)、イングランド王室に入嫁するカタリナ王女の持参金の一部として港湾都市タンジールとボンベイを譲渡。最終的にメシュエン条約(1703年)締結によって大英帝国経済圏に完全に組み込まれてしまう。

当時は色々な展開が多面的に進行しています。

  • 大航海時代到来によって欧州の経済的中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移した時代。

  • (イタリア戦争に典型的に現れている様に)中世まで信じられてきた「イタリア=ローマ教皇庁を庇護下に置く事で圧倒的道徳的優位が確保される」なる信念が(新教分離や欧州の経済的中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移した事もあって)消滅していく時代。

  • スペインが「正義の戦争」を遂行する為に新世界から略奪してきた金銀を無尽蔵に欧州に流入させ続けた結果「価格革命(貨幣経済が果てしなくインフレに見舞われ続けた結果、商業の影響力が急拡大する一方でフッガー家ジェノバ銀行家の様な旧金融階層や領主の様な地税生活者が没落を余儀なくされた)」が起こってしまった時代。

  • 国際紛争の主体がローマ教会、帝国、都市国家といった旧勢力から王政や領邦国家に推移していった時代。

皮肉にもこうした流れに真っ先に気付いたのもまたスペインの有識者達だったのです。ただし彼らには、悲しい事にそうした事態に対する処方箋を完成させる時間までは与えられなかったのです。

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サラマンカ学派( 西:Escuela de Salamanca、英:School of Salamanca)

その起源

16世紀から18世紀にかけてスペイン王国サラマンカ大学を拠点として活動したスコラ学あるいは神学・哲学の学派。16世紀、サラマンカ大のサン・エステバン神学院を拠点に、ドミニコ会士を中心にイエズス会・アウグスチノ会の会士も加わっていた学派(ドミニコ会学派)と、17世紀〜18世紀の同大学サン・エリアス神学院を拠点とするカルメル会士の学派(カルメル会学派)に2大別され、ともにトマス・アクィナスの神学に基づく研究を行った。狭義の「サラマンカ学派」(Salmanticenses)は後者を指すが、前者のドミニコ会学派は、当時顕在化していた価格革命の影響やインディアス先住民の問題に対応して活発に経世論を主張したことから、現在の国際法学・経済学の源流の一つと目されている。

  • サラマンカ大学は、世界最古の大学の一つで(創設 1218 年)、スコラ派晩期においてはドミニコ会の有力な拠点だった。ヨーロッパの他の場所では、まずスコトゥス派や唯名論者の追撃、そして続いてはプロテスタント宗教改革によって、聖トマス・アクィナスの教義は崩壊しつつあった。でもサラマンカ大学はその時期にもトマス主義神学の要所となっていた。
    ジョン・ドゥンス・スコトゥス(John Duns Scotus、1265年〜1308年)…オックスフォードのフランチェスコ神学者、トマス主義者たちの最も強力な論敵。新プラトン神秘主義に影響を受けたスコトゥスは、16 世紀にトマス主義を解体させた「唯名論 (Nominalist)」運動の創始者だった。経済分野では(ほかの分野でもそうだが)、かれはトマス主義者の「現実的」なアリストテレス式思考を拒否して、きちんとした説明を要求した。その過程でかれは、価値の「コスト」理論を作り上げ、純粋競争と独占競争の性質について、いくつかおもしろい議論をうちたてた。

  • 16世紀スペインでは、サラマンカ大学を拠点に、神学・教会法・ローマ法・哲学・文法・医学から本草学・航海学・占星学に至る70のスコラ学が開講され、高い学問水準を保っていた。これらスペインのスコラ学においては盛期スコラ学への回帰が起こり、トマス・アクィナスの教説が共通の立脚点となり「後期スコラ学」としてヨーロッパの中でも際だった発展を遂げることとなる。

  • パリで学んだのちサラマンカ大学教授となったドミニコ会士のフランシスコ・デ・ビトリア(Francisco de Vitoria / 1492年頃〜1546年)は、それまで使用されていたロンバルドゥスの「命題論集」に代えてトマスの「神学大全」を取り入れ、トマスの教説を進化させつつ実証神学と思弁神学の調和を試み、歴史神学の基礎を形成した。また同時に大学の講義を通じてトマスの学説を当時の社会・倫理・法・経済の問題に照らして展開した点で、きわめて実学的な志向を有していた。
    *フランチェスコ・デ・ヴィトリア(Francisco de Vitoria、1485年〜1546年)…スペインのドミニコ会法学者で、パリのサン・ジャック大学で教育を受ける。1526年にサラマンカ大学のきわめて権威ある神学教授の任命を受けた。エラスムスに心酔(パリではかれの弁護もしている)。サラマンカ学派創設者として広く認知されていて、特にその「自然法」とカトリック教義との融合からそう呼ばれる。存命中の刊行物は何もないが、1527年から1540年にかけての講義録 (Relectiones)は学生達が忠実に記録したものだ。1532年のDe Indis 講義はインディアンたちの権利擁護と奴隷制反対を雄弁に訴えるもので、このおかげでインディアンたちは、スペイン王家の庇護のもとに置かれるようになる。国際法の概念と原理が初めて述べられたのもここでのことだ。De Jure belli において、かれは戦争法を記述した。神聖ローマ皇帝カール五世(スペイン王カルロス一世) から頻繁に相談を受けていた。

サラマンカ学派(ドミニコ会学派)は、このビトリアと、彼に学び『神学大全』の注釈書を著したドミンゴ・デ・ソト(Domingo de Soto / 1494年〜1560年)により創始され、ビトリアの弟子であるメルチョル・カノ(Melchor Cano / 1509年頃〜1560年)らに継承されて発展したのである。
ドミンゴ・デ・ソト(Domingo de Soto、1494年〜1560年)…ドミニコ会神学者で、セゴヴィアに生まれ、アルカラとパリで教育を受ける。1532年からサラマンカで教鞭を取り、これはヴィトリアとほぼ同時期だったので、サラマンカ学派の第二の重鎮と見なされた。神聖ローマ皇帝カール五世の懺悔授受者であり、またトレント会議における皇帝代理人。利息における価格差を「公正価格」に反しないものとして擁護。

佐々木孝「ビトリアと「インディオについての特別講義」覚え書き〈1989.12.20〉」

ビトリアの人となり

生年と生地に関しては緒説があるが、現在ほぼ定説となっているのは、1492年、ブルゴスである。もし生年が1492年であるとするなら、実に象徴的あるいは運命的な日付でこの世に誕生したことになる。つまり8世紀にもおよぶ対イスラム戦争であった国土再征服運動が完了した年、その余勢をかって、イサべル女王の援助を受けたコロンブスが新大陸を発見した年、さらにはスペイン国家の政治的・宗教的統―の重要な政策たるユダヤ人追放令、あるいは文化的統一の手段としてのネブリハによるスぺイン文法の完成を見た年だからである。

父は Pedro de Vitoria、母はCatalina de Compludo。ビトリアもコンプルードも15世紀末のブルゴスに多く見られる姓であり、ほとんどが商業にたずさわる家系であった。もっとも中には知識階級に進出する者もおり、フランシスコの従兄にあたる著名な唯名論学者のゴンサロ・ヒルもそのうちの―人である。ところで当時のブルゴスにはユダヤ人の血を引く新キリスト教徒、いわゆる改宗者(コンべルソ)が多く、1952年に復刊されたバルタナス(Domingo Bartanas)の『家系の誉れ』(”Apologia de linajes",1557年、セビーリャ)にはフランシスコ・デ・ビトリアの名前も含まれている。ユダヤ系の血筋は母方からのものらしいが、フランシスコ自身おのが家系について―切触れていないので、彼が改宗者の血を引くかどうかは、現段階ではすべて仮説の域を出ない。しかしもしそれが事実だとしたら、彼と同じ年に生まれ、彼と同じように―切おのれの血筋について語らなかったルイス・ビーべス(Juan Luis Vives、1492-1540、彼がユダヤ系であることは確実である)などの場合と考え合わせて興味深い問題が浮かび上がってくる。つまり沈黙あるいは故意の言い抜かし(reticencia)の重さという問題である。当時のスぺインの状況は、ユダヤあるいはイスラムの血に汚されていないこと、いわゆる「血の純粋性」が―種の強迫観念にまで高まっていた時であり、明敏な哲学者であり神学者であったビトリアに,その問題がスぺイン社会において持つ重要性が見えていなかったはずはないのに、なぜかそれにはまったく触れていない。
*ユダヤ人問題のいわば火付け役とみなされているアメリカ・カストロの次の言葉はこの問題を扱う際の実に適正な姿勢を示している。「セルバンテスがスペイン人のある持定の血統[ユダヤ系]に属している、という事実は1600年とほぼ変わることなく、今日でも危惧と反発の対象であるが、読者の関心がそのことにのみ集中するというのは嘆かわしいと言わなければならない。セルバンテス特有の「生粋主義」は、本書において[『セルバンテスとスぺイン生粋主義』]、これまでただ推測の域を出なかった、あるいは間違って解釈されてきたことを、いくぶんかの正確さをもって見るためにのみ役立っているのだ。それはちょうど生物学において、それなしには顕微鏡でも明らかにしてくれないある物を見るために使われる試薬のようなものである(Castro,Americo,"Cervantes y los casticismos)」。 

ところが彼の兄弟で、同じくドミニコ会士であったディエゴは「血の純粋性に関する法令」(Estatuto de limpieza de sangre)に対して激しい抗議運動を起こしている。だがこの問題は、この小論の範囲をはるかに越える問題であるのでこれ以上踏み込むつもりはない。ただ―つ指摘しておきたいのは、インディアス領有の合法性とかインディオの人権をめぐる深刻な問題意識が、たとえばスぺインと似たような状況を迎えていたポルトガル(のちにはオランダ、イギリス)などにどうして起こらなかったのか、という問題を考える際には、この視点が重要な鍵となる筆者は確信していることである,つまりおなじユダヤ系と言っても、トルケマーダ (Tomas de Torquemada、1420-98)のようにむしろ迫害者の側にまわった者から、ビーべスのように迫害あるいはそれへの警戒心から国外に逃れた者にいたるまで、その対応の仕方にさまざまな形と段階があったということである。さてビトリアの歩いた軌跡をさらに追ってみよう。

ブルゴスで初等教育を受けた後、ドミニコ会に入会。1506年、15歳のときに誓願を立てている。1510年ころ(オリバル侯爵Marquez de Olivart は1504年ころとしているが(4)、間違いであろう)パリにおもむき、当地のドミニコ会サンティアゴ学院でさらに勉学を続ける。そのころビーべスとも会ったらしいことは、エラスムス宛てのビーべスの手紙から分かる。
*1527年6月13日、ブールジュ発エラスムス宛。「……フランシスコ ・デ・ビトリアドミニコ会士、パリで神学を学び、仲間たちのあいだで大変な評判と名声をかちえ、ソルボンヌでは並みいる学者たちの前で貴兄 [エラスムス]の擁護をした男です。彼は非常に論争の術に長けています。幼いときから勉学にいそしみ、成果を上げてきました。貴兄に対しては尊敬と感嘆の念を抱いています……現在彼はサラマンカ大学のプリマ[午前の部]の講座を持ち、けっして少なくない給料を得ています…(Luis Vives,Juan:"Epistolario", p.467,Editora Nacional,1978)」 

その当時の彼の師には、のちにドミニコ会総長となったフェナリオ(Juan de Fenario、またはFreyner)、ベルギー人のクロカル(Pedro Crockaert)、そしてスコットランド人のメーア(John Mair、1469―1550)などがいた。ところでこのメーアは1510年ころ出版されたロンバルドゥス(Petrus Lombardus、1095ころ―1160)の「命題論集 (Sententiae)」の注釈書でインディアス征服を正当とする論拠を分析した人で、もしかするとこのころからビトリアにインディアス問題に関する関心が徐々に萌していったのかも知れない。そして15l3年にはすでに神学の教授に任命され、頭角を現わし始める。

しかしそのころの彼は、たんに神学の講義だけではなく、いくつかの研究も発表している。まず1512年ころには、聖トマスのSecunda Secundaeの註釈書を出版し、またその数年後、コバルビアス(Pedro de Covarrubias)の説教集全二巻を出し、また1521年には、15世紀のすぐれた学者Antonio de FlorenciaのSumma Aurea校訂本を出版している。もちろんこれらは本来的な意味で彼の著作とは言えないが。ともあれ当時のパリに学ぶということは、ビュデ(Bude,Guillaume, 1467年〜1540年)などの人文主義の影響を受けることであり、またスコラ哲学、とりわけ卜ミズムの再興という時代的要請に目を開くことでもあった。ビトリアの思想に顕著に見られる自然的秩序と超自然的秩序の峻別という姿勢は、この時代的要請と無縁であろうはずがない。そして自然的秩序と権力意志とのあいだの恒常的緊張の中で、平和は本質的にダイナミックなものとなるべきこと、さらには経済的な関係がそこに重要な要因として機能すること、などについての問題意識はこのパリ遊学に触発されたものと言えよう。

1523年帰国。さっそくバリャドリードのサン・グレゴリオ学院の神学教授となる。当時の彼の活躍ぶりについては記録が残されていないが、そのころ空席となったサラマンカ大学神学教授の席をなんとかドミニコ会士で埋めようという上長たちの期待を一身に受けていたことからも、彼が相変わらず抜きんでた存在であったことが分かる。もちろん資格審査を優秀な成績でパスした彼は、そのとき(1526年)から1546年、彼の死にいたるまでこの輝かしい学問の府サラマンカ大学の神学教授として第―線に立ち、のちに「サラマンカ学派」と称されることとなる幾多の学者たちを育てた。彼の講義を聴きにきたのは学生ばかりではなかった。のちにコインブラ大学を創設するアスピルクエタ(Azpilcueta)、当時の学生間に「ソトを知る者はすべでを知る」(Qui scit Sotum,scit totum)という格言までできたソト(Domingo de Soto)、トレント公会議で活躍するカノ(Melchor Cano)などの著名な学者たちまでが聴講したのである。

彼の思想がなぜこのように同時代の人々を引きつけたのか、簡単に言うなら、それは彼の知性が前述のように時代の要請に鋭く反応するものであったこと、もっと具体的に言うなら、キリスト教ヨーロッパの解体、新世界発見、そしてスぺインの社会的不安定という巨大な地殻変動に遭遇することによって彼の神学が社会倫理、政治哲学へと大きく発展していったことによると言えよう。

博識な文学史家メネンデス・ぺラーヨ(Menendez Pelayo,Marcelino,1856-1912)は次のように書いている。「フランシスコ・デ・ビ卜リア以前の神学と彼が教え表明した神学とのあいだに深淵が横たわっている。彼以後に登場する学者たちは彼の模範、彼の教えに近づくか離れるか、その度合によって価値が決まる」。

しかしこれほどまでに大きな足跡を残したビトリアが、生前自分の作品を著書のかたちで残さなかったことは不思議と言えば不思議である。彼がソクラテスの異名をとるのも、弟子を多く育てたことばかりでなく、このこととも関係しているのかも知れない。彼の著作のほとんどは師の名講義を弟子たちが筆録したものに他ならないからだ。

当時の講義形態には二つあって、一つは通常の授業のものでレクツィオ lectio と言い、もう―つは年に数回、ある特定のテーマをめぐって、学部全体あるいは大学全体を対象とするレレクツィオ(特別講義) relectioである。ビトリアによってなされた特別講義の数は正確には分かっていないが、―般には次のものが知られている。

  • De silentii obligatione 「沈黙の義務について」 1527年、クリスマス
  • De potestate civili 「政治的権利について」 1528年、クリスマス
  • De homicidio 「殺人について」 1530年、6月11日 De matrimonio 「結婚について」 1531年、1月25日
  • De potestate Ecclesiae prior 「教会の権限について 前段」 1532年,後半
  • De potestate Ecclesiae posterior 「教会の権限について 後段」1533年,5月もしくは6月
  • De potestate Papae e concilii 「公会議の権限について」 1534年、4月から6月のあいだ
  • De augmento Charitate 「愛徳の増加について」 1535年,4月11日
  • De eo ad quod tenetur veniens ad usum rationis 「理性の行便を始めたばかりの人が目指すべきこと」 1535年、6月ころ
  • Desimonia 「聖職売買について」 1536年、5月の終わりか6月の初め
  • De temperantia 「節制について」 1537-38年
  • De indis 「インディオについて」 1539年、l月の初め
  • De jure belli 「戦争の法について」 1539年、6月l8日
  • De magia prior 「魔術について 前段」 1540年、7月18日
  • De magia posterior 「魔術について 後段」 1543年、春

もちろんこれら特別講義の中でビトリアの名を同時代ならびに後世にもっとも高めたのは「インディオについて」である。これはオランダのフーゴ・グロチウス(Hugo Grotius, 1583―1645)よりも約1世紀も前に国際法の理論的骨格を作ったことで高く評価されるべきである。グロチウス自身も「自由の海(Mare liberum、1609年)」や、「戦争と平和の法(De jure belli ac pacis、1625年)の中で、自説を裏付ける根拠としてビトリアの見解を援用している。

ビ卜リアの思想の歴史的有効性について

彼の思想は国際法理論の基礎を築き、その後の新世界問題に多大な影響を及ぼしたと言われるが、実際はどうなのか、ということである。たとえば1550年のあの有名なバリャドリード論争の二人の立て役者ラス・カサスとセプルべダに彼の思想がどのように反映していったのか。もっとはっきり言うと、新世界問題が内包していたより根源的な問題にこの三角あるいは三極(ビ卜リア、ラス・カサス、セプルべダ)がどのように機能していったか、という問題である。いまや古典的となったメネンデス・ピダルの図式、すなわち盲目的熱情と侠い視野の、売名偏執狂のアンダルシーア人ラス・カサスと、節度あり言葉少なく、より学問的・近代的であるビ卜リア、という図式は果たして正しいのか。

私の知るかぎり、新世界問題にしかるべき重要性を認めてそれを思想史的連関の中に組み入れた数少ない思想史家の一人アべリャンは、これに触れて「ビトリアの知的臆病とラス・カサスのラディカルな姿勢」というふうに解釈している。はたして知的臆病というだけで片付けられる問題だろうか。むしろ石原保徳氏の言うように「ことは、サラマンカ学派の思想の質にかかわる問題」なのではなかろうか。さらに石原氏は―般には対立構造としてとらえられているビトリアとセプルべダに触れて、次のように書いている。「スペイン人によるインディアスの事業はかくして基本的にはビ卜リアの新理論によってたくみに是認され法的根拠を与えられてゆく。いまや私たちはセプルべダのすぐそばに立つビトリアに気づかざるを得ない。……ここに二つの路線は合体する。いやこれをもってビトリア理論はセプルべダを包摂し、それをのり越えたというべきかも知れない」。ビトリアならびにサラマンカ学派に対する、これは実に厳しい評価である。しかしここには、第1期、第2期の「大航海時代叢書(岩波書店)」の編纂作業、とりわけ厳しい歴史家の眼をもってラス・カサスの思想に肉薄し、それをくぐり抜けてきた者が初めて発しうる言葉の重さがある。

ビトリアの論法、その言葉使いにはスコラ学者特有の難解さがつきまとう。つまり本心がつかみにくい文体である。さらにアメリコ・カストロの言う「葛藤の時代」に生きたこの思想家固有の複雑さ (冒頭で述べたような改宗者の血を引く者の独特な精神構造もその―つ)がそれに加わる。つまりここで言いたいのは、石原氏のビトリア評価が大枠で正しいとしても、ビトリアの言葉そのものにこだわりながらの翻訳作業を通じて、何か新しいビトリア像があぶり出されてこないだろうか、という期待感が筆者にはある、ということである。

「恩寵論争(恩恵論争)」

カトリック教会が対抗宗教改革のため1545年以降開催したトリエント公会議にはソトとカノが参加しカトリック勢力の建て直しに理論面で貢献した。カノはR・アグリコラ人文主義弁証法に影響を受け主著「神学的証泉(De Locis Theologicis / 1563年)」で神学方法論を確立し、彼の弟子であるドミンゴ・バニェス(Domingo Báñez / 1528年〜1604年)とイエズス会士であったルイス・デ・モリナ(Luis de Molina / 1535年〜1600年)の間で戦わされた「恩寵論争(恩恵論争)」は、カトリック内部でドミニコ会イエズス会が決裂する契機となった。現存するサン・エステバン神学院回廊の天上には、この学派の創始者たるビトリアおよびソトの円形肖像画が掲げられている。

  • 「恩寵論争」の火種モリナ主義(モリニスム、モリニズム (Molinism) )…スペインのイエズス会士ルイス・デ・モリナが「Concordia」の中で自由意志と神の恩寵を調和させようとした試み。
    *ルイス・モリナ(モリニウス)(Luis Molina(Molineus)1535年〜1600年)…コインブラの、スペインのイエズス会学者だったが、サラマンカドミニコ会にしたがう。ドゥンス・スコトゥスの「公正価格」のコスト理論を、人工的に経費を過大にするインセンティブがあるとして否定。競争を論じ、人工的に価格をつり上げる別の方法として「独占」を批判。「公正価格」は自然な交換によって成立した価格だと論じる。また、貨幣の価値は状況によって生じると主張。

  • ルイス・デ・モリナはアウグスチヌスの運命論的予定説(と観られるもの)を自由意志との相互関連で説明しようとしたが、ドミニコ会と論争となる。ドミニコ会は「神の恩恵が人間の意志の内面から効果を発し、物理的先定によって動かす」と主張し、イエズス会の「人間自身が自発的に協力」するという主張に真っ向から対抗したのだった。
    ドミンゴ・バニェス(Domingo Bañez, 1528年〜1604年)…スペインドミニコ会神学者バリャドリードに生まれ、サラマンカ大学で哲学を学んだ後、1546年にドミニコ会に入会した。1561年からアビラのドミニカ大学教授、1567年からアルカラ大学教授、バリャドリッドのサン・グレゴリオ学院教授などを経て、1577年からサラマンカ大学教授を歴任。いわゆるサラマンカ学派(ドミニコ会学派)に属し、イエズス会士のルイス・デ・モリナと非妥協的な「恩寵論争(恩恵論争)」を展開した。

  • イエズス会士であったモリナの著書『自由意志と恩恵の賜物の調和』(1588年初版)が批判を浴びた為、ローマにおいて審議会が設けられた。教皇は最初モリナ説を支持しなかったが、教皇クレメンス8世の時代には譴責も排斥もされていない。

  • 1597年から1607年にかけて教皇パウルス5世は120回以上の討論を聞いた後で聖フランシスコサレジオの意見を聞きローマ教皇が論争の停止を命じた(1607年9月5日)と完全な論争の沈黙を守るように命じた。同教皇は1611年12月1日の険邪聖省の教令をもって聖トマスの注釈であっても宗教裁判所の許可なしに出版することを禁じた。

教皇ウルバヌス8世は宗教裁判所の認可無くしては論ずる事を禁じた。(険邪聖省教令1625年5月22日と1641年8月1日)教皇パウルス5世は「イスパニア王の使節への訓話(1611年7月26日)」の原稿の中で、論争を禁じた理由を次のように書いている。「1.時間が真理を教えることと、2.両者の意見はともに本質的にカトリックの真理と一致する。3.種々の異端説が存在する現代において、…二修道会が名声と信用を保とう…一方を軽視すれば大きな危険を招くことになる。この問題においてどう考えるべきかは次のように答えよう…トリエント公会議において義化の問題について示した教令に従いそれを支持すべき、…ペラギウス派、…とカルヴァンの誤謬と異端を指摘する、カトリックの教義(カテキズム)によれば、自由意志は神の恩恵によって動かされ刺激され助けられるが、それに自由に同意し、或いは拒否することが出来る、しかしトリエント公会議は恩恵が、どのように働くかを説明していない。(それを論争していたようである。そのような論争で互いに相手をひどく傷つける、断罪するようなこと言うことを固く禁じた。)それは無益だからであり、不必要であると考えたからである」。

トリエント公会議(1545年3月15日〜1563年12月4日)

教皇パウルス3世によって1545年3月15日にトリエント(現在のイタリア領トレント)で召集され、1563年12月4日にピウス4世のもとで第25総会を最後に終了したカトリック教会の公会議。諸事情により、多くの会期が断続的に行われたが、宗教改革に対するカトリック教会の姿勢を明確にし、対抗改革といわれるカトリック教会の刷新と自己改革の原動力となった。

  • 宗教改革運動の立役者であるマルティン・ルターは決して最初から新しい教会を作ろうとしていたわけではなくカトリック教会の自己改革をしきりに呼びかけており、その中で彼は公会議の開催をも要求していた。しかし15世紀は公会議主義と教皇首位説のせめぎあいの時代であり、一度は公会議主義が勝利をおさめたかにも見えた時期もあった為に教皇側が公会議を危険視、開催に対して過度に慎重になっていた。

  • しかしカトリック教会内部の停滞と宗教改革運動の高まりの中で、事態の緊急性を認識した教皇パウルス3世は神聖ローマ皇帝カール5世の協力の申し出もあって公会議の開催を決断。はじめはイタリアのマントヴァを開催地として選んだが、フランスの反対によって挫折したため、神聖ローマ帝国領の自由都市トレント(トリエント)を改めて開催地とした。こうして1545年3月15日に公会議が始められたが1547年まで続けられた最初の会期は伝染病の流行によって中断されてしまう。

  • 1551年に教皇ユリウス3世により第2会期がはじめられたが、翌年ザクセン選帝侯モーリッツがカール5世に勝利したことから会議の安全が危惧されて中断した。そして10年間という長い中断をはさみ、1562年教皇ピウス4世の努力によってようやく第3会期が開始。この会期ではジョバンニ・モローネ枢機卿の主導のもとに主にカトリック教会の改革、秘跡や聖伝の扱いが中心になって討議され、1563年にようやく予定されたほとんどの議題を討議して公会議が終了した。参加者は会期によって変動があるが、最終的に発表された公会議文書に署名しているのは255人である。内訳は4人の教皇使節、二人の枢機卿、三人の総大司教、25人の大司教、168人の司教であり、全体の三分の二はイタリア出身であった。なお、スペインからはサラマンカ学派の神学者であるビトリア・ソト・カノらが代表団に選ばれ(ただしビトリアは病気のため辞退)、理論面におけるカトリック勢力の建て直しに尽力している。

  • もともとはカール5世の意図したことだが、公会議の初期の狙いはプロテスタントとの決定的な分裂を回避し、妥協点を見出す事にあった。実際に第二会期ではプロテスタントの代表者に道中の安全を保障した上で(議決権こそ与えなかったものの)オブザーバーとして会議に参加することを呼びかけているが最終的にその意図は断念され、カトリック教会が自らの教義を再確認した事がかえってプロテスタント陣営の主張との違いを際立たせる事とになり、プロテスタント側への糾弾にいたったのだった。

  • 最終段階での主な議題は「カトリック教会の教義の再確認とそれに伴うプロテスタント側の主張の排斥」および「教会の自己改革」に限られたが、最初期にはまずカトリック教会の教義を再確認する意味で、ニカイア・コンスタンティノポリス信条が再確認され、ルターが聖書から省いた第二正典が正典たることが正式に認められた。そして「聖書のみ」というルターの主張を退ける形で聖書と聖伝が教えのよりどころであること、ヴルガータ訳がカトリック教会の唯一の公式聖書たる事が決議されたのだった。また当時もっとも重要な議論となっていた義化の問題についても、「救いは恩寵のみによる」と主張するプロテスタントに対し、恩寵が義化の根本であることを認めながらも、人間の協働にも意味を認めている。またプロテスタントと見解を異にすることになった七つの秘跡についても改めて詳細に議論され、すべての秘跡について改めて聖書における根拠を主張して有効とした。特に聖体の秘跡の重要性を主張し、聖変化によってパンとワインがキリストの体と血になること(実体変化)が確認されている。さらにはゆるしの秘跡、叙階の秘跡(叙階によって魂に消えない印が刻印される)、婚姻の秘跡(司祭と二人の立会人を必要とすることや、配偶者の不義によっても離婚を認めないこと)などについても再検討され、はっきりとした形がここに示される事となった。そして教会改革に関連して司教の定住、司祭の養成機構の充実など聖職者の世俗化を防止する対策が決定され、贖宥状の販売や金銭による取引を禁止しつつも依然「贖宥」の意義は保たれること、聖人や聖遺物の崇敬、煉獄や諸聖人の通効といった(聖書というよりは)教会の伝統に由来する教義が依然有効なものであることを認めたのだった。

  • 会期の中で禁書目録の制定も意図され、カテキズム書、聖務日課、ミサ典書およびヴルガータ訳聖書の改訂と併せて教皇の判断に一任された。これらは後に実施され、20世紀にいたるまでカトリック教会のスタンダードとなったている。そもそも閉会にあたって公会議はすべての教令に対しての教皇の承認を要請し、教皇はこれを認めて全世界の教会に対して受け入れるべきものとして布告しているが、教皇はさらに決議事項の円滑な実現のための枢機卿委員会を任命。彼らは公会議文書をラテン語で出版し、司教団を通してヨーロッパ各国に公会議文書を配布し、それは各国語に翻訳される事になったのだった。

  • モリナ主義は積極的には支持されなかったが批判を禁じ、異端とされることはなかった。会議のなかで人間には恩寵に協力する人間の自発的選択的自由意志の要素も認められていると確認されている。

  • 一方同会議において、ジャンセニスム及び、カルビニズムの二重予定説(自由意志の否定、つまり二重決定論で定義されている二重に天へ行くか地獄へ落ちるかの一度期の予定の決定のこと)は異端とされた。

  • また人は根本的に善なる存在であり、そもそも恩寵を必要としないと主張しているペラギウス派、半ペラギウス派についても異端とされている。

自らの教義を再確認し、カトリック教会からすべての汚れを洗い流そうとしたトレント公会議は20世紀の第2バチカン公会議にいたるまでカトリック教会の方向性に大きな影響を与え続ける事になる。そして次に公会議が行われるのは実に300年後の事になるのだった。

ジャンセニスム(Jansenisme)

17世紀以降流行し、カトリック教会によって異端的とされたキリスト教思想。ヤンセニズム、ヤンセン主義ともいわれる。人間の意志の力を軽視し、腐敗した人間本性の罪深さを強調した。ネーデルラント出身の神学者コルネリウスヤンセン(1585年-1638年)の著作アウグスティヌス』の影響によって、特にフランスの貴族階級の間で流行したが、その人間観をめぐって激しい論争をもたらした。

  • アウグスティヌスの人間理解を根底とするが人間の原罪の重大性と恩寵の必要性を過度に強調し、予定説からの強い影響を受けていた。

  • その説によれば人間は生まれつき罪に汚れており、恩寵の導きなしには善へ向かい得ない、このため罪の状態でイエスの体である聖体を受ける事は恐れ多いことである。だから、聖体拝領に際しての準備と祈りはどんなに行っても十分すぎることはない。(結果的にジャンセニスムの影響を受けた信徒たちは聖体拝領の回数を著しく減らすことになった)。

  • さらにジャン・カルヴァン思想の影響を受けて「救われることが予定付けられている人間は本当に少ない」と説いた。

ジャンセニスムのルーツは16世紀のルーヴァンの神学者ミシェル・バイウス(Michael Baius,1513年 - 1589年)の唱えた教説にあるといわれる。バユスとも呼ばれたバイウスの説の特徴は神の恩寵の意味の絶対化と人間の非力さの強調であった。同地で活躍していたイエズス会員たちはそこにジャン・カルヴァンの影響を感じ取り、すぐに反論した。

①その後、同じくネーデルランド出身の神学者で、イプルの司教コルネリウスヤンセンが生涯の研究の成果として完成させた著作アウグスティヌス~人間の本性の健全さについて』(Augustinus;humanae naturae sanitate)が、彼の死後の1640年に遺作として発表された。ヤンセンバイウスの説に影響を受けており、同書ではアウグスティヌスの恩寵論をもとに、バイウスと同じように人間の自由意志の無力さ、罪深さが強調されていた。ここにいわゆる「ジャンセニスム」がはっきりと姿を現した。

ヤンセンの盟友であったジャン・デュヴェルジェ・ド・オランヌ(Jean Duvergier de Hauranne)はフランス人のアントワーヌ・アルノーの知己を得て、同書を携えてパリへ赴き、そこで1641年に出版した。これがフランスの上流階級の間で反響を呼ぶ。デュヴェルジュは本名よりも「アベ・ド・サン・シラン」(サン・シラン修道院長、以下サン・シラン)という名前で知られるようになる。やがてサン・シランはアルノーの姉妹が暮らしていたパリ郊外の女子修道院ポール・ロワヤル修道院の霊的指導者となり、そこをジャンセニスムの拠点をするようになった。サン・シランはかねてよりイエズス会員の道徳教説が信徒の堕落を招いていると考えており、ジャンセニスムに名を借りたイエズス会攻撃を行った。これにイエズス会員たちが反論したため、以後、ジャンセニスムイエズス会という図式が出来上がっていく。当時のフランスでジャンセニスムに傾倒した著名人の中には哲学者ブレーズ・パスカルや戯曲作家ジャン・ラシーヌもいた。パスカルジャンセニスムのシンパであったことはあまりに有名だが、彼はジャンセニスムへの批判に反論して1656年に『プロヴァンシアル』を執筆している。

  • フランスでは1530年における聖書の母国語翻訳を経て「ジャンセニスムの拠点」ポート・ロワイヤル修道院が大いに栄えたのだった。

  • ポート・ロワイヤル修道院が掲げた独自の言語哲学を反映してか、絶対王政確立期には「フランス語に関するあらゆる側面を国家権威が掌握すべし」という立場から1635年に「アカデミー・フランセーズ」がリシュリュー宰相の後援下創設されている。もっとも、そうした動きに先行する形でイタリア帰りのランブイエ侯夫人(1588-1665年)が17世紀初頭のアンリ4世の宮廷において「青い家」の運営を開始して「サロン」文化の種を巻き始めていた(急速に広まるのは1650年以降)。ちなみにそうしたサロンの中にはフランス語研鑽に欠かせない働きをしたものもあり、特に「正書法」の誕生はこの時期のサロンでの活動抜きには語れないとされている。

  • フランスのサロンは日本なら986年に始まった慶滋保胤の「二十五三昧会」などの詩文サロンにあたる役割を果たしたと言える。日本の場合もさらに「別所」や「会所」の集いが加わって、日本語や日本文化が形成されていったのだった。中国語ならその起源は王羲之の「蘭亭の会」になる。

ジャンセニスムはその行き過ぎた悲観的人間観、特に自由意志の問題をめぐって激しい論議になっている。ローマ教皇庁では神学者たちがこれを慎重に検討した結果、『アウグスティヌス』に含まれる五箇条の命題を異端的であると判断したため、インノケンティウス10世の回勅『クム・オッカジオーネ』(1653年)がジャンセニスムを禁止した。


④18世紀に入ると新しい展開が始まる。元オラトリオ会員だったパスキエ・ケネルによって新しい息吹が吹き込まれたのである。ケネルはジャンセニスムをフランス教会の教皇の権威からの自由(ガリカニスム)と結びつけて展開したのである。ケネルはイエズス会員を「教皇の走狗」であると非難する事で再びジャンセニスムイエズス会という構図を浮き上がらせた。その結果最終的にフランスのイエズス会は他のヨーロッパ諸国と同じように禁止・追放の憂き目にあうことになる。

ジャンセニスムの精神は20世紀初頭に至るまでフランスのみならず全ヨーロッパのカトリック信徒に影響を及ぼした。その証左としては、20世紀の初頭になっても、ジャンセニスムの精神の影響によって信徒が秘跡からはなれ、ひいては教会から離れていくことを危惧した教皇ピウス10世の回勅によってジャンセニスムの禁止が徹底されていることがあげられる。

経済学の源流としてのサラマンカ学派

16世紀はインフレが激しくて、神学者たちは繰り返し経済問題について相談を受けていた。特にこうした経済の混乱期における契約の立場についてきかれることが多かった。商慣行のガイドラインを設定し、公共財の現実的な考え方に焦点をあわせるべく、かれらは過去の教義から離れて、自然法の精神でこうした問題にアプローチした。結果は経済問題について、何世紀にもわたるスコラ的思考からの離脱だった。「公正な価格」というのが、自然な交換によって確立された価格以上でも以下でもない、と定義づけたのはサラマンカ学派である。かれらの分析は、価値の希少性理論の追求につながり、需要と供給を柔軟に利用した分析となっていた。かれらはドゥンス・スコトゥスによる、生産コストに基づいた公正な価格という概念を否定した。その理由は、その価格を決める客観的な方法がないということだった。

  • 1535年、ビトリアがトマスの徴利(利子の徴収 / usura)論に関する講義をおこなったことをきっかけに、ドミニコ会学派における経済理論の研究が盛んになった。ビトリアを引き継ぎ経済理論を本格的に展開することになったソトは「公正価値論」を主張、さらにアウグスチノ会士ナバロ(マルティン・デ・アスピルクエタ(Martín de Azpilcueta / 1491年〜1586年))はソトの理論をもとに貨幣数量説・購買力平価説を構築(特に彼の貨幣数量説は、一般にこの学説の始祖とされるジャン・ボダンに時期的に先行するものである)、最後にモリナが貨幣論・価格論を集大成し、経済学派としてのサラマンカ学派の知名度を一気に高めた。

  • 彼らは、「生産コストに基づく公正な(客観的)価格」というスコトゥスの学説を否定し、「公正な価格」とは自然な交換によって確立された価格以上でもそれ以下でもないと定義づけた。そしてトマス・アクィナス以来の自然法論に基づき独占を否定する一方で、徴利や為替取引については宗教倫理上の理由からする非難をしりぞけ肯定する立場をとった。彼らの経済理論は、スペインその他の西欧諸国が直面していた物価騰貴(価格革命)の原因を説明し、そうした現実とスコラ学(トマスの教説)の調和をめざすものであった。

  • ボーダン (Jean Bodin) 以前だがコペルニクス以後の時期に、サラマンカ学派は独自に貨幣数量説の基本的性質を解明し、それを使って 1500 年代のインフレはスペイン領アメリカからの貴金属流入によるものだと説明した。また、利息を強く擁護する議論も展開している。

以上のようなサラマンカ学派の理論は、商業や金融による利益を否定していた中世スコラ学の立場から一歩抜け出し、それらを道徳的に擁護したという点で古典的自由主義の先駆としての側面があった。

 

  • フワン・デ・メディナ (Juan de Medina、1490年〜1546年)…スペイン人のイエズス会士、価値の希少性理論の初期の提唱者

  • マルチン・デ・アツピルクェタ (ナヴァルス)(Martin de Azpilcueta(Navarrus)、1493年〜1586年))…スペインのドミニコ会神父であり、サラマンカコインブラにおける主導的な学者。貨幣数量説の初期の提唱者で、ジャン・ボーダンとほぼ同時期にトゥールーズで学んでいる。「ほかの条件が同じである場合、貨幣の希少性が高い国においては、他の販売商品および人々の労働対価ですら、貨幣が豊富である国に比べて少ない貨幣で提供されている」。さらにこれを拡張して、もっと一般性のある価値の希少性理論とし「すべての商品は需要が強くて供給が少ないときには価値が高まる」と論じた。価格統制をはっきりと批判して、為替取引と利息を擁護した。

  • ディエゴ・デ・コヴァルビアス・イ・レイヴァ(Diego de Covarrubias y Leiva、1512年〜1577年)…Navarrusの生徒、サラマンカの改革者、カスティーユの大法官、後にセゴビア僧正となる。価値の主観理論についてはっきりと述べた。: 「ある品物の価値はその本質的な性質によるのではなく、人々によるその価値判断による。その価値判断がばかげたものである場合にすらこれは成り立つ(1554年)」

  • トマス・デ・メルカード(Tomas de Mercado、1530年〜1576年)…ナヴァルスの理論を普及させた。

  • フワン・デ・ルゴ枢機卿(Cardinal Juan de Lugo、1583年〜1660年)…スペインのイエズス会学者で、モリナのようにサラマンカ式の価値理論と貨幣数量説を唱える。希少性と効用を統一的に価値理論に含めた、おそらくは最初の人物。また利益を、事業サービスの「賃金」として定義。

  • レオナルド・デ・レイス (レッシウス) (Leonard de Leys(Lessius)、1554年〜1623年)…ベルギーのイエズス会学者で、価値と貨幣についてはモリナの説にしたがう。当時は証人や王家に対して大きな影響力を持っていた。

 

こうした業績を高く評価するハイエクは、資本主義の基礎は(ヴェーバーが説くような)カルヴァン派の教説ではなく(サラマンカ学派の)イエズス会によって作られたと主張しており、また重商主義的経済論であるとの評価もある。その反面、シュンペーターのように厚生経済学の先駆的な要素を認める見解もある。

国際法学の源流 としてのサラマンカ学派

1539年、ビトリアサラマンカ大の特別講義(通年の講義ではなく年1〜2回、教授に義務づけられていた講義)において「インディオについて」および「戦争の法について」を講じた。ここで彼は、植民政策をめぐる倫理学的議論において、人間の権利を自然権として根拠づけることで異教徒たるインディオ(インディアス先住民)の権利を擁護し、国際法を国家の法の上位に位置づけた。またソトもスペイン植民政策の批判的分析を通じてインディオの権利を擁護しようとし、ラス・カサスとセプルベダが争ったバリャドリッド論争(1550年)の際の審議会議長を務めた(このとき審議会委員であったカノもラス・カサスの支持者であった)。

【第1世代】創造的な草創期(1526年〜1560年)…社会的正義と政治的自由が共存の至高の軌範であり、戦争は集団的安全、平和の保証のための必要な手段であるかぎり許される。平和は可能である、などの思想を展開した。この時期に属するのは、ビトリアその人を筆頭に次の人たちである。

  • ソ卜(Domingo de Soto,1495年〜1560年)ドミニコ会士。1532年から1560年にかけて教授職。1540年から1553年にかけて彼が行なった講義(後に聖パウロ書簡註解として出版)は、ビトリアの「戦争の法について」の最初のまとまった註釈と言える。

  • カノ(Melchor Cano、1509年〜1560年)ドミニコ会士。1546年から1552年にかけて教授職。ときにはコピーと見えるまでにビトリアの思想を忠実に踏襲し、1548年にはサラマンカ大学の依頼を受けてセプルべダの「デモクラテス 第二」に反論を加えた。

  • ロぺス(Gregorio Lopez、1496年〜1560年)ドミニコ会士。1540年、カスティーリャ諮問会議の財務官に任命され、さらに1543年にはインディアス諮問会議委員、最後はその長に選ばれた。

  • コバルビアス(Diego Covarrubias de Leyva、l512年〜1579年)ドミニコ会士。法学部の教授。彼の講義録である「実践的問題(1556年)」には、国家の主権、民主制、教会と国家の関係などが論じられている。ヨーロッパ全休にビトリアの思想が広まるにあたって、彼の果たした役割は大きい。

  • アスピルクエタ(Marin Azpilcueta、1493年〜1586年)ドミニコ会士。1524年から1538年までサラマンカ大学の教会法教授。ビ卜リアから深い影響を受け、1548年の特別講義ではビトリアの思想を軸に国際間の調停のあり方を定義し、ヨーロッパ文化の統―性を守るためのヨーロッパ連合の可能性を論じた。のちに創設されたコインブラ大学の学長となり1555年まで奉職。帰国後はフェリーぺ二世の聴罪師などを務めた。

【第2世代】文化的拡大をはかった世代(1560年〜1584年)…領土拡張やヨーロッパ帝国主義は武カ介入の口実とはなりえないこと、植民はインディオの人格的成長とその政治的独立を進める手段であるかぎり正当化されうると主張。最初の征服は正当であったが、その後の戦争についての合法性を問題視した。

  • ソトマヨール(Pedro de Sotomayor,?〜1564年)ドミニコ会士。1552年から1560年にかけて神学部教授。ソ卜、カノの後を受けて、ビトリアの思想を継承し、それを現実の問題に応用した。特に1558年、ラス・カサスとセプルべグの論争のあと紛糾の度を深めたインディアス問題をめぐってインディオの自由を擁護。
    *ソ卜、カノ、ソトマヨールらが、1549年から1552年にかけてトレント公会議に出かけた後を守って学派の活動を続けた弟子たちの中に、Juan Gil de la Nava,Diego de Chaves,Vicente Barron,Domingo de las Cuevasなどがいる。この最後のクエバスは、ビ卜リアの「インディオについて」の稿本(というより要録、註釈と言った方がいい)を残した。

  • ぺ―二ャ(Juan de La Pena)…1560年から1565年まで午後の部の教授として在職.。最初べネディクト会士で、次いでドミニコ会士となる。『対インディアス戦争論』がC.S.l.C.版に入っている。

  • メディナ(Bartolome de Medina)ドミニコ会士。1576年から1580年にかけて在職。カノの弟子で蓋然論の創始者とみなされている。

  • レオン(Luis de Leon、1527年〜1591年)アウグスチヌス会士。むしろ詩人、人文学者として有名だが「法について」という著作もある。

  • アラゴン(Pedro de Aragon、?〜1592年) アウグスヌス会士。「正義と法について」を書く。セブルべダ=ラス・カサス論争に対しては無関心。

  • アコスタ(Jose de Acosta、1539年〜1600年)ドミニコ会士。1571年イエズス会としてペルーに派遣され、1588年帰国後は、バリャドリードサラマンカイエズス会学院で教える。「インディアス布教論(1578年執筆、88年出版)」「インディアス自然文化史(1590年)」が主著。

【第3世代】体系化を目指した世代(1584年〜1617年)…紛争の平和的解決のための一連の方法を定義した。彼らの主張する正戦の条件は、歴史の経過と共にいよいよ武カの行使をむつかしいものとしていった。こうしたサラマンカ学派の弁証法的かつ人間的努力は現代において―層の現実性を獲得している。

  • バ二ェス(Domingo Banez、1528年〜1604年)ドミニコ会士。1581年から1589年にかけて教授職。カノの弟子。アビラで教えていたとき聖テレサの聴罪師をしたこともある。イエズス会士ルイス・デ,モリーナとの恩寵と白由意志をめぐっての論争で有名。

  • スアレス(Francisco Suarez、1548年〜1617年)イエズス会士。サラマンカ学派の思想は彼の「法について(De legibus)」において、その総合に達した。また彼がスコラ哲学再興に果たした役割は大きく、新スコラ学派の祖と言われる。布教を容易にするための前もっての占領は不当であるなどの主張をしている。

  • エレーラ(Pedro de Herrera、1548年〜1630年)ドミニコ会士。1604年〜1621年教授職。バ二ェスの後継者。のちカナリアスの司教となった。

以上の業績により、今日「国際法の祖」と位置づけられているビトリア、およびその後継者であるソトらの国際法理論は、近代国際法学および自然法の父たるグロティウスにも多大な影響を与え、彼の主著『戦争と平和の法』ではこの2人の著作が頻繁に引用されている。

グロティウス「戦争と平和の法(De jure belli ac pacis、1625年)」

オランダ人法律家グロティウスが亡命先のパリで発表した軽油でヴェストヴァーレン条約を基礎付ける理論となった。本書の発行により、グロティウスは「国際法の父」とよばれるようになったが、グロティウスの意図は、当時行われていた宗教戦争の悲惨さを緩和するために、人間の理性に基づいた普遍人類法の存在を証明することにあり、主権国家を構成単位とする近代国際法に比べると、なお中世的性格を残している。

またイタリアでは一般に、実は最初にそれまで神学(スコラ哲学)の課題として説かれてきた正当戦争論を純粋に法学の課題として取り上げ,文献や歴史的事実に基づいて帰納的に論証したのは北イタリア出身の国際法学者ゲンティリス(1552年〜1608年、プロテスタントで後に英国へ亡命)の主著「戦争法論(De jure belli、1598)」の方が先で「戦争と平和の法」はその焼き直しに過ぎないと考えられている。
ゲンティリスにおける戦争の質料因

要するに「欧州的他文化主義」は、16世紀に新大陸でコンキスタドール(Conquistador、征服者)が行った原住民に対する残虐行為に対するスペイン本国有識者の弾劾として勃興し、欧州全土を「カソリック神聖国家」の支配下に置こうとするハプスブルグ家の野望に抗すべく北部7州でユトレヒト同盟(1579年)が結成されて以降「宗教の自由」を大義名分に掲げたオランダにその精神が継承され、フランスの後援を受けて三十年戦争(Dreißigjähriger Krieg、1618年〜1648年)の最終局面において圧倒的強さを見せつけたスウェーデンの軍事力に担保される形でヴェストファーレン条約締結(1648年)によって決定的な形で刻印される事になった訳である。

おそろしく錯綜してます。それが当時の「知の在り方」だったから仕方ありません。 

  • 当時はまだ経済学の専門家も国際法学の専門家も存在しておらず、神学者がそれを兼ねていた。しかもイタリア・ルネサンスレオナルド・ダ・ヴィンチの様な「万能人」理想視した様に、優秀な神学者ほど多方面に足跡を残している。

  • そもそも神学は全てを統べる学問と考えられていたから、そもそも経済学や国際法学を分けて考える必要性そのものが認めらていなかった側面も。

  • さらに影響力を高めるには政治への関与が必要となる事もあった。

そういう時代だからこそ、科学実証主義の実践は(神学との関係を強要されない)人体解剖学の分野から始まったとも。しかも「近代解剖学の父」アンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalius、1514年〜1564年)ですら「ファブリカ(De humani corporis fabrica=人体の構造、1543年)」を出版した途端、「こんなの認めたら今まで蓄えてきた知識が全部無駄になる」と激怒した守旧派医師達の迫害を受け、同じフランドル出身の神聖ローマ皇帝カール5世(Karl V、在位1519年〜1556年)/スペイン国王カルロス1世(Carlos I、在位1516年〜1556年)に匿われ、御典医に転職する事で何とか生きながらえたという有様だったのです。
*これはイスラム圏でも同様。「危険思想」とレッテル貼りされたアラビア哲学者の多くは医療知識も学んでおり、しかも腕利き率が高かったので「スルタンの御典医」となって生き延びたケースがまま見られる。

いずれにせよ、文化の中心はやがてスペインから独立したオランダに推移。おそらく優秀な人材もそちらに流れる事に…

そういえば「フランダースの犬(A Dog of Flanders、1872年)」のヒロインたるアロアも、原文では「金髪だが黒い瞳」という記述で「フランドルに居ついたスペイン系」を匂わしてるという話があります。まぁイタリア系の可能性も捨てきれないのですが…
*アニメ版では容赦なく茶髪碧眼。ただし衣装は舞台がベルギーなのにオランダの民族衣装。「出自が謎めいた村一番の金持ちの一人娘」なる一貫性だけはかろうじて保たれている?

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そしてミゲル・デ・セルバンテスドン・キホーテ(Don Quijote、Don Quixote、1605年、1615年)」における「巨大な風車に手槍で挑む時代遅れの騎士」なるスペイン人の自虐ギャグが炸裂するという次第。

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